2008年03月17日
3/17放送分 「飛騨の雅楽について」
みなさん、こんにちは。この時間は、飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう三月も半ばにさしかかりました。だんだん暖かくなってきましたね。高山の春祭りは、
木々も一斉に芽吹きますから、桜が重なると本当に美しいですよね。これで長い冬も終わりか
と思うとわくわくしてきます。
この放送ですが、4月以降も続けることになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
番組では、番組に対するご意見、ご要望などもお待ちしておりますので、どうぞ、ヒッツFMのほう
へファクスなり、お手紙なり、メールなりでお知らせください。皆さんの声をお待ち申し上げております。
さて、皆さんの地域はどうかわかりませんが、私の住んでいる地域は、日枝神社の氏子の
区域ですので、春の高山祭りの準備があちこちで始まっております。
私は、春祭りでは、3つの役割を毎年担当しています。
1つは、生まれ育った神楽組での仕事。
2つ目には、参加している日枝神社の日枝雅楽会での出仕。
そしてもう一つは、神様の前で舞う、舞の指導をもう20年以上もやっています。
今日の放送は、その中でも雅楽のお話をしたいと思います。
雅楽って皆さんご存知ですか? 誰でも一度は耳にしたことがあると思いますが、よく初詣
のときに、神社に行きますと、神社のBGMとして音楽がなっていますよね。
また、結婚式などでも、三々九度のときに、テープをかけておられますから、一度は耳にした
ことがあるのではと思います。
最近では、東儀秀樹さんが、雅楽の楽器「篳篥」を使って現代音楽を演奏しておられます
から、おなじみなのではないかと思います。

写真は日枝雅楽会の出仕
さて、あの音楽ですが、もともとは、大陸から日本に伝わったものですので、その歴史はかなり
古く、奈良時代の頃、遣隋使やそのあとの遣唐使が派遣された頃までさかのぼります。
平安時代には、貴族の音楽として、宮中でよく演奏されていました。
飛騨がこの雅楽とかかわりを持つ一番最初の文献は、鎌倉時代に、国府町の荒城郷に多好方
(おおのよしかた)・好節(よしとき)という親子が源頼朝から知行地を賜ったのが最初と言われてい
ます。
実は、この多好方という人、雅楽の名家 多家の先祖の一人で、吾妻鏡によると、「鶴岡八幡宮
の遷宮の祭典で秘曲を奏し、頼朝に気に入られ、建久四年(1191)十一月に荒城郷の地頭職を
与えられた」というものです。飛騨の伝説では、現在の国府町宮地に住んだといわれ、今でも、
荒城神社には、大変古い時代の舞楽の面と鼓の胴が残されています。
しかし、彼が実際に住んでいたかどうかは、わかりません。
むしろ、京都の楽人が、この飛騨のような偏狭の地に来ることは考えにくく、実際は京都にいて、
土地だけを知行していたというのが本当のようです。
また、後年、山田白馬という人や堀尾先生が、飛騨の各神社に伝わる闘鶏楽=いわゆるカンカコ
カンの創始者は、この多好方親子だとして、論説を展開したことがありますが、はっきりした確証は
得られていません。

さて、雅楽に話を戻しますが、高山に雅楽が伝わるようになったのは、もっと後の事で、文化年間
になってからのことです。高山の法華寺のご住職だった、止静院日在(しせいいんにちざい)という人
が、篳篥の名手で、お寺で時々演奏していました。その音色につられてか、有名な田中大秀が、
彼の弟子となります。
この田中大秀は、後に本居宣長の弟子となって、国学の大家となる人ですが、子供の頃に、この
雅楽を習ったのが縁で、熱田神宮の粟田氏に国学と雅楽を習うようになり、本居宣長の門人として
出入りを許されます。
雅楽は、三管といって篳篥、笙、龍笛がメロディーを奏で、三鼓といって大太鼓、鐘鼓、鞨鼓で
合奏されるのが通常ですが、大秀はこの三管を習得していました。
一般に雅楽を習得するためには、唱歌といって、楽器を持つ前に、歌を習わないといけないのです
が、彼のすごいところは、この三管のパート全ての歌を習得していたようです。
また、一般的に伝承されていた楽譜が大変分かりにくいので、自分で楽譜を作り、後にそれは、
「高山流水」といわれる、一般の人が見てもわかりやすいものに仕上げていました。
このころ、高山で時々、御忌といって偉いお坊さんの回忌が勤められます。高山市史によると、
文化7年には照蓮寺で親鸞上人の五百五十回忌が開かれましたし、大雄寺では法然上人の回忌が
勤められました。文化12年には、勝久寺で親鸞上人の御忌が開かれ、大秀は雅楽社中を作って、
演奏を行いました。この時のメンバーには、紙魚のやどりで有名な加藤歩蕭という人も龍笛で参加
しています。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今日は、「竹内まりあ マージービートで唄わせて」をお届け
します。
今日のひだ歴史再発見は、高山の雅楽について、お話しています。
文化年間当時、演奏会を行うというのは、非常にまれなことでした。
どちらかというと、音曲というものは、おめでたい時や、お祭りの時にだけ演奏されるもので、普段は、
幕府のお達しで、民衆は質素倹約に努めなくてはいけないという状況でしたから、あまり開催されなか
ったというのが、一般的でした。
そんな折、高山の豪商 田中半十郎英積という人の息子で、田中半三郎という人が、検校となって、
高山に帰ってきて、いわゆる凱旋コンサートを日枝神社の別当 松樹苑で琴の演奏会を行いました。
この検校というのは、盲目の人の職業では最高の位で、主に音楽を生業とする職業でした。
どうして、高山出身の人がこのような位に上ることができたかというと、お父さんの強力なスポンサー
があったからだと思います。
お父さんの田中半十郎さんは、当時上一之町に本店があって、名古屋の熱田や、東京の馬喰町
あたりに支店も持っていた材木の豪商でした。後に、長谷川代官の書いた飛州史を故郷飛騨に持ち
帰ったことでも有名な方です。
田中大秀は、このとき田中検校と連絡を取り、琴の演奏法にも興味を持ちます。検校は、雅楽にも
通じており、一緒に演奏を楽しんだりしました。そんなことがきっかけとなってか、田中大秀は、後に
京都に赴き、近衛家・二条家などを通じて雅楽の曲二十曲以上を習得していきました。
もともと雅楽というのは、天上の奏楽といって、仏説阿弥陀経などにも書かれていますが、あの世
でも聞くことのできるものですから、一般には門外不出のものでした。宮中での演奏のみならず、仏教
の儀式などに用いられる位の高いもので、一般の人間が演奏できるようなものではありませんでした。
その伝承は、今でも宮内庁の楽部によって代々受け継がれているくらいですから、宮中であるいは
神社・仏教宗派で伝承されてきたものです。
後に、江戸時代末期になって、公家であった楽人の人たちがお金に困っていたのか、古川の豪商に
招かれて雅楽を飛騨に直接伝授しています。私も見せていただきましたが、古川の信行寺に、伝習
したときの免状が残っています。
ただし、その時の約束があるのですが、宴会での余興として演奏してはいけないとか、自分が伝習
したものを子供に教えてはいけないなど、たくさんの厳しい決め事を約束させられています。
飛騨のすごいところは、明治時代になって、雅楽が一般化する60年以上も前に、田中大秀という人を
通じて、広く雅楽が浸透していた土地柄だということです。このことは、全国をみても、あまり見られない
ことなんですよ。
後に、明治時代にかけて、その雅楽は、高山で広まります。神通寺の住職 朝戸円鏡という人が節風社
という雅楽の社中を作り、その会に高山の旦那衆が参加し、雅楽を習得します。そこが元となって、雅楽を
伝習していき、国府に第二節風社などの組織が生まれますが、指導者がいなかったために、一度は衰退
しました。
その後、明治時代後期になって、八幡神社の神官に山下新三郎という人が来て、雅楽の指導に当たり
ました。この人は、宮内庁の楽部を経験した人ということで、たくさんの人間が彼のところへ習いに行き、
高山に新連という新しいグループが出来ました。
彼の教えにより、古川、久々野、一之宮、江名子などに雅楽会が結社され、飛騨一円に広がっていきま
した。
大正時代になって、雅楽の結社が各神社で盛んになり、大正3年には日枝神社の日枝雅楽会が結社され
ました。また、衰退していた節風社が飛騨総社のバックアップをもって再興されたり、辻ケ森の雅楽会、
天満宮の雅楽会が結社されたり、大きな神社での結社が相次ぎ、それが伝統となって、今日まで受け継が
れてきています。

昭和6年ごろの山王祭行列での日枝雅楽出仕
昭和40年代には、日枝神社の日枝雅楽会が中心となって宮内庁の指導を受け、あちこちの雅楽会の指導に
当たっておられましたが、平成になってからは、古川の東興社という気多若宮神社に籍を置く雅楽会が中心と
なって、宮内庁の雅楽会の講習会を企画したり、東京楽所(がくそ)の演奏会を催したりして、雅楽の活動が
盛んになってきています。
こういったことがあり、各神社の行列の時には、神様のお御輿の前で必ず雅楽の演奏が華を添えているわけ
です。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は先月の続き、「高山の屋台を作った飛騨の匠 谷口与鹿と村山群鳳」
のお話をします。今日は、この曲でお別れです。「円広志で 夢想花」 ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第2号 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、もう三月も半ばにさしかかりました。だんだん暖かくなってきましたね。高山の春祭りは、
木々も一斉に芽吹きますから、桜が重なると本当に美しいですよね。これで長い冬も終わりか
と思うとわくわくしてきます。
この放送ですが、4月以降も続けることになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
番組では、番組に対するご意見、ご要望などもお待ちしておりますので、どうぞ、ヒッツFMのほう
へファクスなり、お手紙なり、メールなりでお知らせください。皆さんの声をお待ち申し上げております。
さて、皆さんの地域はどうかわかりませんが、私の住んでいる地域は、日枝神社の氏子の
区域ですので、春の高山祭りの準備があちこちで始まっております。
私は、春祭りでは、3つの役割を毎年担当しています。
1つは、生まれ育った神楽組での仕事。
2つ目には、参加している日枝神社の日枝雅楽会での出仕。
そしてもう一つは、神様の前で舞う、舞の指導をもう20年以上もやっています。
今日の放送は、その中でも雅楽のお話をしたいと思います。
雅楽って皆さんご存知ですか? 誰でも一度は耳にしたことがあると思いますが、よく初詣
のときに、神社に行きますと、神社のBGMとして音楽がなっていますよね。
また、結婚式などでも、三々九度のときに、テープをかけておられますから、一度は耳にした
ことがあるのではと思います。
最近では、東儀秀樹さんが、雅楽の楽器「篳篥」を使って現代音楽を演奏しておられます
から、おなじみなのではないかと思います。
写真は日枝雅楽会の出仕
さて、あの音楽ですが、もともとは、大陸から日本に伝わったものですので、その歴史はかなり
古く、奈良時代の頃、遣隋使やそのあとの遣唐使が派遣された頃までさかのぼります。
平安時代には、貴族の音楽として、宮中でよく演奏されていました。
飛騨がこの雅楽とかかわりを持つ一番最初の文献は、鎌倉時代に、国府町の荒城郷に多好方
(おおのよしかた)・好節(よしとき)という親子が源頼朝から知行地を賜ったのが最初と言われてい
ます。
実は、この多好方という人、雅楽の名家 多家の先祖の一人で、吾妻鏡によると、「鶴岡八幡宮
の遷宮の祭典で秘曲を奏し、頼朝に気に入られ、建久四年(1191)十一月に荒城郷の地頭職を
与えられた」というものです。飛騨の伝説では、現在の国府町宮地に住んだといわれ、今でも、
荒城神社には、大変古い時代の舞楽の面と鼓の胴が残されています。
しかし、彼が実際に住んでいたかどうかは、わかりません。
むしろ、京都の楽人が、この飛騨のような偏狭の地に来ることは考えにくく、実際は京都にいて、
土地だけを知行していたというのが本当のようです。
また、後年、山田白馬という人や堀尾先生が、飛騨の各神社に伝わる闘鶏楽=いわゆるカンカコ
カンの創始者は、この多好方親子だとして、論説を展開したことがありますが、はっきりした確証は
得られていません。

さて、雅楽に話を戻しますが、高山に雅楽が伝わるようになったのは、もっと後の事で、文化年間
になってからのことです。高山の法華寺のご住職だった、止静院日在(しせいいんにちざい)という人
が、篳篥の名手で、お寺で時々演奏していました。その音色につられてか、有名な田中大秀が、
彼の弟子となります。
この田中大秀は、後に本居宣長の弟子となって、国学の大家となる人ですが、子供の頃に、この
雅楽を習ったのが縁で、熱田神宮の粟田氏に国学と雅楽を習うようになり、本居宣長の門人として
出入りを許されます。
雅楽は、三管といって篳篥、笙、龍笛がメロディーを奏で、三鼓といって大太鼓、鐘鼓、鞨鼓で
合奏されるのが通常ですが、大秀はこの三管を習得していました。
一般に雅楽を習得するためには、唱歌といって、楽器を持つ前に、歌を習わないといけないのです
が、彼のすごいところは、この三管のパート全ての歌を習得していたようです。
また、一般的に伝承されていた楽譜が大変分かりにくいので、自分で楽譜を作り、後にそれは、
「高山流水」といわれる、一般の人が見てもわかりやすいものに仕上げていました。
このころ、高山で時々、御忌といって偉いお坊さんの回忌が勤められます。高山市史によると、
文化7年には照蓮寺で親鸞上人の五百五十回忌が開かれましたし、大雄寺では法然上人の回忌が
勤められました。文化12年には、勝久寺で親鸞上人の御忌が開かれ、大秀は雅楽社中を作って、
演奏を行いました。この時のメンバーには、紙魚のやどりで有名な加藤歩蕭という人も龍笛で参加
しています。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。今日は、「竹内まりあ マージービートで唄わせて」をお届け
します。
今日のひだ歴史再発見は、高山の雅楽について、お話しています。
文化年間当時、演奏会を行うというのは、非常にまれなことでした。
どちらかというと、音曲というものは、おめでたい時や、お祭りの時にだけ演奏されるもので、普段は、
幕府のお達しで、民衆は質素倹約に努めなくてはいけないという状況でしたから、あまり開催されなか
ったというのが、一般的でした。
そんな折、高山の豪商 田中半十郎英積という人の息子で、田中半三郎という人が、検校となって、
高山に帰ってきて、いわゆる凱旋コンサートを日枝神社の別当 松樹苑で琴の演奏会を行いました。
この検校というのは、盲目の人の職業では最高の位で、主に音楽を生業とする職業でした。
どうして、高山出身の人がこのような位に上ることができたかというと、お父さんの強力なスポンサー
があったからだと思います。
お父さんの田中半十郎さんは、当時上一之町に本店があって、名古屋の熱田や、東京の馬喰町
あたりに支店も持っていた材木の豪商でした。後に、長谷川代官の書いた飛州史を故郷飛騨に持ち
帰ったことでも有名な方です。
田中大秀は、このとき田中検校と連絡を取り、琴の演奏法にも興味を持ちます。検校は、雅楽にも
通じており、一緒に演奏を楽しんだりしました。そんなことがきっかけとなってか、田中大秀は、後に
京都に赴き、近衛家・二条家などを通じて雅楽の曲二十曲以上を習得していきました。
もともと雅楽というのは、天上の奏楽といって、仏説阿弥陀経などにも書かれていますが、あの世
でも聞くことのできるものですから、一般には門外不出のものでした。宮中での演奏のみならず、仏教
の儀式などに用いられる位の高いもので、一般の人間が演奏できるようなものではありませんでした。
その伝承は、今でも宮内庁の楽部によって代々受け継がれているくらいですから、宮中であるいは
神社・仏教宗派で伝承されてきたものです。
後に、江戸時代末期になって、公家であった楽人の人たちがお金に困っていたのか、古川の豪商に
招かれて雅楽を飛騨に直接伝授しています。私も見せていただきましたが、古川の信行寺に、伝習
したときの免状が残っています。
ただし、その時の約束があるのですが、宴会での余興として演奏してはいけないとか、自分が伝習
したものを子供に教えてはいけないなど、たくさんの厳しい決め事を約束させられています。
飛騨のすごいところは、明治時代になって、雅楽が一般化する60年以上も前に、田中大秀という人を
通じて、広く雅楽が浸透していた土地柄だということです。このことは、全国をみても、あまり見られない
ことなんですよ。
後に、明治時代にかけて、その雅楽は、高山で広まります。神通寺の住職 朝戸円鏡という人が節風社
という雅楽の社中を作り、その会に高山の旦那衆が参加し、雅楽を習得します。そこが元となって、雅楽を
伝習していき、国府に第二節風社などの組織が生まれますが、指導者がいなかったために、一度は衰退
しました。
その後、明治時代後期になって、八幡神社の神官に山下新三郎という人が来て、雅楽の指導に当たり
ました。この人は、宮内庁の楽部を経験した人ということで、たくさんの人間が彼のところへ習いに行き、
高山に新連という新しいグループが出来ました。
彼の教えにより、古川、久々野、一之宮、江名子などに雅楽会が結社され、飛騨一円に広がっていきま
した。
大正時代になって、雅楽の結社が各神社で盛んになり、大正3年には日枝神社の日枝雅楽会が結社され
ました。また、衰退していた節風社が飛騨総社のバックアップをもって再興されたり、辻ケ森の雅楽会、
天満宮の雅楽会が結社されたり、大きな神社での結社が相次ぎ、それが伝統となって、今日まで受け継が
れてきています。

昭和6年ごろの山王祭行列での日枝雅楽出仕
昭和40年代には、日枝神社の日枝雅楽会が中心となって宮内庁の指導を受け、あちこちの雅楽会の指導に
当たっておられましたが、平成になってからは、古川の東興社という気多若宮神社に籍を置く雅楽会が中心と
なって、宮内庁の雅楽会の講習会を企画したり、東京楽所(がくそ)の演奏会を催したりして、雅楽の活動が
盛んになってきています。
こういったことがあり、各神社の行列の時には、神様のお御輿の前で必ず雅楽の演奏が華を添えているわけ
です。
さて、今日のお話はこのへんで。来週は先月の続き、「高山の屋台を作った飛騨の匠 谷口与鹿と村山群鳳」
のお話をします。今日は、この曲でお別れです。「円広志で 夢想花」 ではまた来週。
徳積善太





