2008年05月12日
5月12日放送分 金森長近のまちづくり1
みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号
わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、ゴールデンウィークも終りました。このゴールデンウィークはどこかお出かけになられました
でしょうか?
高山は観光関連の業者の方も多いですから、お仕事だったという方もおられるのではないでしょうか。
そういう方には、お仕事お疲れ様でございました。
今年は、ガソリン代の値下げ、値上げ騒動があって、マイカーの皆さんの財布の紐が大変固いよう
にも思います。三月頃から、観光客は、外国人の方が結構いらっしゃって、日本国内のお客様が
減っているようにも思います。
観光という言葉は、「国の光を見る」という意味があるそうですが、外国人の方が、日本の文化、
とりわけ高山の文化について理解したいというお客様が多くなっているというのは、事実です。
私も、このコーナーを通じて、リスナーの皆様が少しでも高山について、いろいろと知っていただき、
観光客にご説明されるときに、利用していただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
この放送のバックナンバーと、私が調査している内容につきましては、ひだっちブログのほうにも
掲載させていただいていますので、一度ご覧下さい。最近、アクセスが増えてきていまして、
毎日1~200件のアクセスをいただくようになりました。そちらのほうもよろしくお願いいたします。

高山城下町図(文化年間:真蓮寺蔵)
さて、今週は、先週予告いたしましたように、高山のまちづくりについて、振り返ってみたいと思い
ます。
再三、この放送でもお伝えしてまいりましたが、現在の高山という町は、金森長近という武将が、
豊臣秀吉の命を受けて作った城下町です。全国的に見ても、このくらいの城下町というのは、
あちこちにあるのですが、町ぐるみで残っているというところは、非常に稀なようです。
金森氏がこの城下町を作り始めたのは、天正十四年(1586)からのことです。いったい、いつまで
かかってこの城下町が作られたかというと、非常に謎が多く、はっきりした事はわかっていませんが、
高山の岡本町にある願生寺に伝わる「願生寺由来記」によりますと、慶長7年(1602)頃までかかった
と書かれています。それが本当だとすると、実に16年もの歳月をかけて作られた町ということになり
ます。
金森氏が一番最初に、城下町を作ろうと思ったのは、鍋山城下でした。それはすでにそこに鍋山氏の
居城があり、ある程度城下町が形成されていたために、そこをそのまま使おうとしました。しかし、
守備の上では思わしくなかったのか、あるいは、風水上、よくない土地だったのか、結果的には、
古城の天神山を改造して、城下町を作ることにしました。それが、現在の高山の町並みです。
先ず最初に、金森氏が行ったのは、河川の改修でした。宮川はもともと、城山の下あたり、つまり、
現在の上一之町から上二之町にかけて城山に沿って流れていたようですが、その川の流れを変え
ました。現在の枡形橋と中橋の中間のところに、岩が突き出ていて水溜りになっているところがあり
ますが、そこから、現在の真北の方向へ川の流れを変えたそうです。そのため、旧来の川の流れの
あったところには、土砂を埋めて、現在の一之町、ニ之町、三之町を作りました。埋めるための土砂は、
現在の馬場町のあたりが尾根続きになっていましたから、その土砂を使って埋めたといわれています。
土砂を埋めたことで、宮川の流れには、伏流水といって地下水が生まれ、この豊富な地下水を利用して
酒造りや醤油作りがなされたという桐谷先生のお話でしたね。覚えていらっしゃいますか?水がきれい
だったからこそ、いいお酒ができ、城下町に産業が発達したというお話でした。
また、江名子川も流れが現在の八幡のお旅所のあたりから北へ延びていたのを変えて、現在の弥生橋
のところで宮川に合流するようにしました。こうすることによって、高山の城下町がすべて、天然の川を
利用したお堀に囲まれたつくりになったというわけです。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。ちょっと懐かしい曲。グレープで「朝刊」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、高山の街づくりについてお話しています。
昔の天神山城は、高山外記という人が居住していたから、高山の名になったということですが、実は
この高山外記という人のことは、よくわかっていません。多賀氏の系列の人とか言われていますが、
いったい、どの史料からそういうことが言われるようになったのか、よくわからない話なんです。
この天神山城は、江戸後期に発行された飛州志という本によると、そのお城の構造が、一番北側に
天守閣、そして南にいくにしたがって、二の丸、三の丸があったと言うことが絵図でわかります。
現在の城山は、天守が一番南にあって、現在の二の丸グランドのところに二の丸。護国神社のところに
三の丸があったようですので、絵図とはまったく逆の形になります。
桐谷先生のお話によりますと、当時は風水を利用して、鬼門の方角に神社などを作ったことを考えると、
天満神社を鬼門の方角とすると、現在の水道山あたりに天神山城があったのではなかろうかというお話
でした。しかし、物証などが発見できない今では、郷土史研究家の皆さんの間でもなぞに包まれている
ようです。
また、高山という名前についてですが、先日、東等寺のご住職さんに、「高山」という地名が書状に出て
くる最初の手紙の写真を見せていただきました。これは、金森長近が書いた書状に初めて書かれた
「高山」の文字ですが、手紙の中に2箇所、「高山」という文字を確認できます。この手紙の年代は、
天正15年頃のことです。このとき以前に現在の場所を高山と読んでいたことは確認できます。しかし、
高山外記という人が活躍したのは、それよりも50年以上も前のことですから、実際に高山と呼ばれた
のはいつなのか。それについてはわかっていません。
最近、郷土史研究家の菅田先生にお会いしてお話を伺うことがありました。先生は、高山別院の建造物に
ついて「あれは、高山城の四の丸だ。石垣も立派だし、要塞としての要素を整えている。」とおっしゃって
いました。確かに、高山別院は、西側も北側も石垣の上に作られていて、城郭と言ってもうなづけるお話
だと思いました。

高山別院裏の石垣 下一之町から写す
以前、この放送でもお話した事がありますが、金森長近という人は、自分の留守の間に、国を守るために、
自分の家来ばかりでなく、浄土真宗を上手く取り入れた人だったようです。高山に入る前には、越前大野の
城主だったことは知られていますが、もともと、越前大野の城主として信長より認定されたときに、越前から
加賀にかけての一向宗、すなわち浄土真宗の門徒による一揆を鎮圧した褒美として知行地を与えられたの
が越前大野でした。

越前大野城(画像提供:金森戦記 RYOさん)
したがって、浄土真宗には、信長も秀吉も非常に手を焼いたことを見ていて、自分の城下町運営の安定の
ために、浄土真宗をうまく自分側に取り入れた人だったようです。高山別院の宝物館に、金森長近が、
白川の照蓮寺にあてた書状が残っています。あれはレプリカで、本物は岡崎の勝蔓寺というところにあり
ますが、浄土真宗を保護する代わりに、自分の知行する飛騨を門徒が盾となって守ってくれるように頼んで
いる内容です。そういう意味では、高山という町を造るときに、城下町としての一面と、お寺の門前町としての
一面を兼ね備えたまちづくりがなされたのではと思います。
事実、高山の城下町が作られる頃には、長近は、生活のほとんどを、伏見城下や大坂城の近辺ですごして
おり、飛騨に戻って生活するという事がありませんでした。お話衆といって、関白秀吉の相談役としておそば
に仕えていた関係上、なかなか飛騨に戻ることはできなかったと思います。あまり知られていませんが、
秀吉の朝鮮征伐の時には、福岡の名護屋というところに陣取っていた時期もあります。
そんなわけで、城下町の整備や知行というものは、養子の可重の仕事でした。飛騨を平定した頃、可重は
古川の増島城主という立場もありましたから、最初は、古川の城主として、そして後には高山の城主として
活動していたわけですが、関が原の合戦や大坂の陣の頃には、可重も金森の一員として出兵を余儀なく
されました。城はあけているわけですから、その留守居役を勤めたのは、家臣であり、浄土真宗の門徒だった
というわけです。
もっとお話したいのですが、このお話の続きはまたの機会にお話したいと思います。
来週は、第三週目ですので古川に関するお話をしたいと思います。
それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は石川ひとみで「まちぶせ」。ではまた来週。
徳積善太
わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、ゴールデンウィークも終りました。このゴールデンウィークはどこかお出かけになられました
でしょうか?
高山は観光関連の業者の方も多いですから、お仕事だったという方もおられるのではないでしょうか。
そういう方には、お仕事お疲れ様でございました。
今年は、ガソリン代の値下げ、値上げ騒動があって、マイカーの皆さんの財布の紐が大変固いよう
にも思います。三月頃から、観光客は、外国人の方が結構いらっしゃって、日本国内のお客様が
減っているようにも思います。
観光という言葉は、「国の光を見る」という意味があるそうですが、外国人の方が、日本の文化、
とりわけ高山の文化について理解したいというお客様が多くなっているというのは、事実です。
私も、このコーナーを通じて、リスナーの皆様が少しでも高山について、いろいろと知っていただき、
観光客にご説明されるときに、利用していただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
この放送のバックナンバーと、私が調査している内容につきましては、ひだっちブログのほうにも
掲載させていただいていますので、一度ご覧下さい。最近、アクセスが増えてきていまして、
毎日1~200件のアクセスをいただくようになりました。そちらのほうもよろしくお願いいたします。
高山城下町図(文化年間:真蓮寺蔵)
さて、今週は、先週予告いたしましたように、高山のまちづくりについて、振り返ってみたいと思い
ます。
再三、この放送でもお伝えしてまいりましたが、現在の高山という町は、金森長近という武将が、
豊臣秀吉の命を受けて作った城下町です。全国的に見ても、このくらいの城下町というのは、
あちこちにあるのですが、町ぐるみで残っているというところは、非常に稀なようです。
金森氏がこの城下町を作り始めたのは、天正十四年(1586)からのことです。いったい、いつまで
かかってこの城下町が作られたかというと、非常に謎が多く、はっきりした事はわかっていませんが、
高山の岡本町にある願生寺に伝わる「願生寺由来記」によりますと、慶長7年(1602)頃までかかった
と書かれています。それが本当だとすると、実に16年もの歳月をかけて作られた町ということになり
ます。
金森氏が一番最初に、城下町を作ろうと思ったのは、鍋山城下でした。それはすでにそこに鍋山氏の
居城があり、ある程度城下町が形成されていたために、そこをそのまま使おうとしました。しかし、
守備の上では思わしくなかったのか、あるいは、風水上、よくない土地だったのか、結果的には、
古城の天神山を改造して、城下町を作ることにしました。それが、現在の高山の町並みです。
先ず最初に、金森氏が行ったのは、河川の改修でした。宮川はもともと、城山の下あたり、つまり、
現在の上一之町から上二之町にかけて城山に沿って流れていたようですが、その川の流れを変え
ました。現在の枡形橋と中橋の中間のところに、岩が突き出ていて水溜りになっているところがあり
ますが、そこから、現在の真北の方向へ川の流れを変えたそうです。そのため、旧来の川の流れの
あったところには、土砂を埋めて、現在の一之町、ニ之町、三之町を作りました。埋めるための土砂は、
現在の馬場町のあたりが尾根続きになっていましたから、その土砂を使って埋めたといわれています。
土砂を埋めたことで、宮川の流れには、伏流水といって地下水が生まれ、この豊富な地下水を利用して
酒造りや醤油作りがなされたという桐谷先生のお話でしたね。覚えていらっしゃいますか?水がきれい
だったからこそ、いいお酒ができ、城下町に産業が発達したというお話でした。
また、江名子川も流れが現在の八幡のお旅所のあたりから北へ延びていたのを変えて、現在の弥生橋
のところで宮川に合流するようにしました。こうすることによって、高山の城下町がすべて、天然の川を
利用したお堀に囲まれたつくりになったというわけです。
さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。ちょっと懐かしい曲。グレープで「朝刊」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、高山の街づくりについてお話しています。
昔の天神山城は、高山外記という人が居住していたから、高山の名になったということですが、実は
この高山外記という人のことは、よくわかっていません。多賀氏の系列の人とか言われていますが、
いったい、どの史料からそういうことが言われるようになったのか、よくわからない話なんです。
この天神山城は、江戸後期に発行された飛州志という本によると、そのお城の構造が、一番北側に
天守閣、そして南にいくにしたがって、二の丸、三の丸があったと言うことが絵図でわかります。
現在の城山は、天守が一番南にあって、現在の二の丸グランドのところに二の丸。護国神社のところに
三の丸があったようですので、絵図とはまったく逆の形になります。
桐谷先生のお話によりますと、当時は風水を利用して、鬼門の方角に神社などを作ったことを考えると、
天満神社を鬼門の方角とすると、現在の水道山あたりに天神山城があったのではなかろうかというお話
でした。しかし、物証などが発見できない今では、郷土史研究家の皆さんの間でもなぞに包まれている
ようです。
また、高山という名前についてですが、先日、東等寺のご住職さんに、「高山」という地名が書状に出て
くる最初の手紙の写真を見せていただきました。これは、金森長近が書いた書状に初めて書かれた
「高山」の文字ですが、手紙の中に2箇所、「高山」という文字を確認できます。この手紙の年代は、
天正15年頃のことです。このとき以前に現在の場所を高山と読んでいたことは確認できます。しかし、
高山外記という人が活躍したのは、それよりも50年以上も前のことですから、実際に高山と呼ばれた
のはいつなのか。それについてはわかっていません。
最近、郷土史研究家の菅田先生にお会いしてお話を伺うことがありました。先生は、高山別院の建造物に
ついて「あれは、高山城の四の丸だ。石垣も立派だし、要塞としての要素を整えている。」とおっしゃって
いました。確かに、高山別院は、西側も北側も石垣の上に作られていて、城郭と言ってもうなづけるお話
だと思いました。
高山別院裏の石垣 下一之町から写す
以前、この放送でもお話した事がありますが、金森長近という人は、自分の留守の間に、国を守るために、
自分の家来ばかりでなく、浄土真宗を上手く取り入れた人だったようです。高山に入る前には、越前大野の
城主だったことは知られていますが、もともと、越前大野の城主として信長より認定されたときに、越前から
加賀にかけての一向宗、すなわち浄土真宗の門徒による一揆を鎮圧した褒美として知行地を与えられたの
が越前大野でした。

越前大野城(画像提供:金森戦記 RYOさん)
したがって、浄土真宗には、信長も秀吉も非常に手を焼いたことを見ていて、自分の城下町運営の安定の
ために、浄土真宗をうまく自分側に取り入れた人だったようです。高山別院の宝物館に、金森長近が、
白川の照蓮寺にあてた書状が残っています。あれはレプリカで、本物は岡崎の勝蔓寺というところにあり
ますが、浄土真宗を保護する代わりに、自分の知行する飛騨を門徒が盾となって守ってくれるように頼んで
いる内容です。そういう意味では、高山という町を造るときに、城下町としての一面と、お寺の門前町としての
一面を兼ね備えたまちづくりがなされたのではと思います。
事実、高山の城下町が作られる頃には、長近は、生活のほとんどを、伏見城下や大坂城の近辺ですごして
おり、飛騨に戻って生活するという事がありませんでした。お話衆といって、関白秀吉の相談役としておそば
に仕えていた関係上、なかなか飛騨に戻ることはできなかったと思います。あまり知られていませんが、
秀吉の朝鮮征伐の時には、福岡の名護屋というところに陣取っていた時期もあります。
そんなわけで、城下町の整備や知行というものは、養子の可重の仕事でした。飛騨を平定した頃、可重は
古川の増島城主という立場もありましたから、最初は、古川の城主として、そして後には高山の城主として
活動していたわけですが、関が原の合戦や大坂の陣の頃には、可重も金森の一員として出兵を余儀なく
されました。城はあけているわけですから、その留守居役を勤めたのは、家臣であり、浄土真宗の門徒だった
というわけです。
もっとお話したいのですが、このお話の続きはまたの機会にお話したいと思います。
来週は、第三週目ですので古川に関するお話をしたいと思います。
それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は石川ひとみで「まちぶせ」。ではまた来週。
徳積善太





