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250607赤田家について

(平成25年6月7日放送分 第295回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 皆さんには、2週間ぶりの放送となります。いかがお過ごしですか。何時も思いますが、時の経つのは
早いですね。あっというまに6月になってしまいました。
 6月と云うと、梅雨の時期でもありますが、そわそわして見える方もおられるんじゃないでしょうか。
大公望には長くまっておられた、釣りのシーズンですね。今月辺りからあちこちの岐阜県の川で
「あゆの解禁」が行われます。

先日、今年の解禁日について調べてみました。この近辺で一番早いのが、郡上八幡の長良川支流で、
9日の解禁です。飛騨の川に就いては、飛騨川25日.馬瀬川の下流が22日。上流が29日となって
います。高山を流れる宮川は上流が30日。下流が7/1です。白川郷を流れる庄川流域では7/6。
宮峠から反対の益田川下流では、23日。上流が29日。となっています。

以前の放送でもお話しした事が有りますが、この益田川と云う川名は現在は存在しません。
国土地理院の地図を見ると、すべての流域が飛騨川となっています。この飛騨川という名称ですが、
かつて小坂町で乗鞍方面の阿多野郷から流れて来る阿多野川と、御岳の麓、湯屋温泉方面から流れて
来る川を小坂川といいました。合流した地点から金山までを益田川と呼び、金山で馬瀬川と合流して
飛騨川と呼ぶように名称がついていました。ところが、国土地理院で地図を作製する時に、阿多野川も
益田川も名称がすべて飛騨川と統一されてしまいました。しかし、漁協だけは、益田川漁業組合という
名称で残っているんです。

 現在は、どの川でも釣られる鮎は、すべて琵琶湖産の鮎だそうです。ところが、成長段階で一番食べる
時に鮎は川の苔を食べますが、その苔が清流になればなるほど、泥臭くないので鮎自体がスイカのような
においが強くなります。そのため、清流域の鮎ほど料亭で高く取引されるために、値段が高いと云うことで
人気が有るようです。
この時期に川に入られる方は、釣りになると夢中になる事だと思いますが、雨の翌日や急に増水する川には
どうぞお気をつけください。御家族のもとへ無事に帰る事が一番大切だと云う事を思って下さいね。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は先週予告をしましたように、飛騨の漢学者として有名な
「赤田臥牛」一家のお話しをしたいと思います。
先月、赤田臥牛さんとその一族のお墓をお参りしてきました。場所は、東山白山神社の参道を登りきる途中
を右に入ってすぐのところに在ります。高山市教育委員会の方で、史跡として登録されて居る場所ですので、
看板などが有り、場所はすぐに分かります。皆さんも一度機会が有りましたら尋ねてみてください。
250607赤田家について
さて、高山で有名な赤田家と云うのは、赤田臥牛、赤田章斎、赤田誠軒という3人の歴代の先生がおられた
漢学の一家のことです。たまたま今年の2月に先週放送しました、川原町の大国台の屏風に赤田誠軒が
書いた屏風があり、それの解読を頼まれましたので、同時に赤田家のことを調べてみたという次第です。

そもそも赤田家という一族は、その由来書によれば、嵯峨源氏の一族の末裔であり、その祖先には、正一位
左大臣であった源融(みなもとのまもる)が先祖であるとされています。赤田家の家系の事を記す『新海雑記』
という書物には、次の様に紹介されています。
元文はちょっと難しいので意訳しますと、「奥州秀衡の一族とあるは、東鑑第九 文治五年八月記に泰衡郎
従等以て、赤田次郎代将軍となり・・・その後、越後国阿赤田保の地頭として赤田家を称す。応安頃、赤田氏
は近江に移り、佐々木家の幕下となった。」などとなっています。
この信憑性については、本当かどうかわかりませんが、どうして高山に来たかと云うことが、後の方に書かれて
います。この文章も長いので所々を抜き出してみますと、

「元亀元年(1570)6月28日姉川合戦、中郡武将浅井長政に与して出陣し、先陣を預り、織田軍勢と激突し・・・
その後、赤田信濃守源吾は、蟄居を命ぜられていたが、小谷城落城により浅井久政・長政父子と運命を共にし、
自決。茲に赤田一族は崩落分散した。嫡男 新右衛門悟は同族 美濃土岐氏 金森定近(野洲郡三宅城主)の
庇護を受け、天正三年金森長近に従い、越前大野に入り、秀吉の時代に入り、金森長近飛騨征伐を命じられ、
天正十三年、高山城主となった。」となっています。
250607赤田家について
つまり、金森家の家来の一人として、高山に入り、その後、金森家が出羽上ノ山に転封になったときに、町民
として高山に残った一族であると云う事です。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は小林麻美「雨音はショパンの調べ」をお届けします。
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本日の放送は、江戸時代の漢学者「赤田臥牛」についてお話ししております。

さて、その後町人となった赤田家は、代々酒造業を営んでいたようです。場所は、現在の上一之町の西歯科
医院さんの上隣りのところに屋根付きの駐車場と陶器を展示販売しているところが有ります。その場所に
あったようです。
250607赤田家について
臥牛の経歴については、子の章斎が後にまとめた「臥牛集」という本の中に紹介されています。
元文は漢文ですので、大変難しく、意訳したものが有りますので、一部ご紹介したいと思います。

「父は、幼い時、雪峰先生について、論語、孟子及び五経の読みを習った。また、書籍などは乏しかった。
たまたま柚子盤という人があって、漢の時代に伝えられた魯論や唐・明の詩説を習った。家に所蔵してあった、
諸子と歴史ものを借りて来て読みあさっていた。荻生徂徠や太宰春台の書を読むに及んで、専らその
学問をおこなっていた。
高山に津野創州という人があり、同じように好学の士であった。常日頃、父が独学のため、先生や友達が
いないことを嘆いておられた。そのため、世の中に有名な学者がいることを聞くたびに、父に紹介されて
居た。それは、尾張の国の松平君山や浅井図南であったり、近江の野村東園や竜草蘆などであった。
滄州は、かつて詩を摂津の僧憲栄に学んだことがありましたが、自分が学業を極めることができなかった
ことを恨んでいました。そのため、父にその道を勧めることによって、学業を極めることになった。」
ということです。

そういうことがあり、赤田臥牛は、大阪の江村北海のもとに学ぶことになりました。
ところが、スポンサーであった滄州が亡くなり、その子、延賢という人が父の命を受け継いでスポンサーとなり、
学問を究める事が出来たと書いています。江村北海は日本詩史という、詩の歴史の本を書いた方ですが、
飛騨は昔から学問がないとしていたのに、赤田臥牛のあることを知って考えをかえたといいます。
それまで伊藤仁斎の門下に入らなかった国は、日本中でただ三つ(飛騨、佐渡、隠岐)だけだったようですが、
臥牛の登場によって臥牛の学問に対する姿勢は素晴らしい物が有りました。

その後、飛騨に帰った赤田臥牛は、田口郡代の許可を得て、宅地内に講堂を建て、静修館と称しました。
費用は全て門人の人達が支払いました。門人には、田中屋半次郎、上木屋徳次郎、吉野屋清三郎、打保屋
忠次郎、加賀屋長右衛門、福嶋屋清左衛門、鍵屋与作など当時の旦那衆の名前が見られました。
時は、文化二年4月の事で、臥牛59歳の時でした。その場所は、先ほど申し上げた現在の西歯科医院の
上隣りの場所です。現在は、小さな石碑が建てられています。
250607赤田家について
その後、文政5年に臥牛が亡くなってからは、子の章斎が私塾の跡を継ぎました。
ところが、天保3年11月に赤田教喩所は類焼してしまいました。この火災の時には、二之町の五台山や鳳凰台も
一緒に焼けてしまった火事で、結構広範囲が火災に遭いました。そのため、章斎は、教授所を移転し、天保15年に
馬場通りの南角に教授所を移転しました。現在この場所は、行政書士の山口さんのお宅になっています。
250607赤田家について
章斎は、陣屋にて論語などの教授を行うなど、臥牛に劣らぬ先生だったようです。
門人がどんどん増え、門人同士で頼母子講を開き、赤田教授所が存続するための支援活動なども行われて
いました。弘化2年に、章斎が亡くなり、子の誠軒が跡を継ぎました。誠軒も郡代のおぼえめでたく、買請米
三十俵を賜るなど、私塾ではありましたが公的な補助も受けていたようです。
嘉永三年になって、馬場町より神明町に教授所を移転。現在の神明駐車場の場所に移転しました。

その後、世の中が明治の時代になり、誠軒は当初、梅村速水知事の学問教喩方として活動しますが、梅村の
新政に不平が有って、間もなく辞任しました。政治批判をした為に蟄居を命ぜられ、一時期川原町に住んで
いましたが、その後、金沢に行きますが、妻が死亡。自身も病を患って明治六年五月二六日高山にて亡くなり
ました。
250607赤田家について
祖父臥牛から3代にわたって漢学を飛騨に広めた赤田家でしたが、今日高山市内のあちこちに漢文の屏風や
ふすまなどが数多く残っています。皆さんも一度御自宅の襖などを確認してみてはいかがでしょうか。
きっと赤田家の人達が書かれたものが有るかもしれません。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、新聞などにも掲載されましたが、2週間前に白川郷で浄土真宗
の調査をしました。その時のお話しをさせて頂きます。どうぞお楽しみになさってください。
本日はこの曲でお別れです。雨の季節ですので雨の歌をお届けします。
松山千春で「銀の雨」。それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太
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この記事へのコメント

比呂池 さんのコメント

教育委員会の石碑が立派なので、子どもの時はそれがお墓だと思っていました。
小さな古墳なんですよネ。
Posted on 2013年06月16日 16:03

rekisyrekisy さんのコメント

比呂池さま>コメントありがとうございます。
古墳の形をしていますよね。2つありました。
Posted on 2013年06月17日 00:05

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