2008年06月16日
6月16日放送分_古川のまちづくりについて2
<6月16日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ウインクで 淋しい熱帯魚」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、古川の城下町についてお話しています。
さて、この増島城ですが、金森可重がお城作りに考えたコンセプトは、高山と比較すると大変よく似て
います。
まず、自然の要害を上手く取り入れたお城作りがなされています。高山では、宮川と江名子川をお堀に
見立てて、建設していますが、古川の場合は、荒城川と宮川を考えてまちづくりがなされています。
南の国府方面から流れてくる荒城川をお堀に見立てて、宮川と合流させる位置も、現在の場所まで
川筋を真っ直ぐにしたようです。昨年、古川のふるさと案内人会の研修があったときに、稲葉先生が
おっしゃっていましたが、もともと荒城川と宮川の合流していた場所は、現在の場所よりは、もっと
上流だったそうです。
もともと荒木川は現在の高冷地農業試験場のあたりを流れていたそうですから、古川町福祉センター
のあたりが合流点だったと思われます。今よりも上流ですよね。
余談ですが、この荒城川が氾濫を繰り返したことで、上町あたりの地質が非常に富んでいて、田んぼ
にするには好適地だったそうです。事実、上町の田んぼの収穫は、他の地域よりも1~2割多かったと
いう稲葉先生のお話でした。
あと、自然の要害としては、沼地があります。高山の場合は、向屋敷として作られた現在の高山陣屋
より、高山駅の方角は、だだっ広い沼地が広がっていました。後になってこの場所は、いい田んぼ=
名田町の名田となるわけですが、昔は、開墾の難しい、さんずいに難という=灘という字が使われていた
地域です。すのり川が氾濫を繰り返していた土地の沼地だったそうです。
同じように古川では、この増島野の東側には、広大な沼地が広がっていたようで、昔ここでよく遊んだ
という桐谷先生のお話ですと、「膝の上までどぼしこんでしまうような処やった」、つまり、膝上までずっ
ぽりと入ってしまうような沼だったという状態だったそうです。
もし、安土桃山時代に、こちらの方角から人が攻めてきても、沼に足を取られている間に、弓や鉄砲で
ズドンとやられてしまったでしょうから、難攻不落の要害が、自然の力を利用して作られたということで
しょうね。
また、お城作りには、風水を上手く取り入れた計画がなされました。高山の場合は、お城の鬼門の方角
(つまり丑寅の方角ですから、北東にあたる方角)には、別院とその延長線上に桜山八幡神社を配置して
います。逆に裏鬼門の南西の方角には、日枝神社を配置しています。古川においては、増島城から鬼門
の方角には、気多若宮神社を配置しています。
いま、ここまで原稿を読んでいて、おりょと思ったのですが、高山の裏鬼門は日枝神社があって、増島城の
裏鬼門にも何かあるんじゃないかと考えたら、その方角に、五社神社がありました。これは、もとの蛤城の
方角です。ひょっとすると、場所を特定するときに、可重は、蛤城で、増島城の構想を練ったと思われます
ので、姉小路ゆかりの五社神社の鬼門の方角に、増島城を考えたのかもしれませんね。
もし、これが事実だとすると、この番組のタイトル通り、「飛騨の歴史再発見」ということになります。
まさに歴史ロマンですね。
この鬼門の方角に、社寺を建設するという考え方は、金森氏の常套手段だったようで、高山の前に
作られた越前大野の城下町の場合は、誓念寺。高山の城下町の後に作られた美濃の小倉山城の
場合は、浄土宗の来昌寺を配置しています。実は先ほど、大野市役所に電話しまして、いろいろと
お聞きしました。この誓念寺の周囲には、浄土真宗のお寺を配置していたそうです。高山と同じで
すね。また、この担当者の方が、金森さんという方で、金森家の末裔の方でした。一度お会いしたいと
思っています。
最後にもう一つ、高山の場合は、浄土真宗の門徒をして、高山の城下を守らせるように、照蓮寺を
白川より誘致して、お城の城門と対峙するように配置しましたが、古川でも、本光寺と真宗寺を城下に
引き込んでまちづくりを考えています。円光寺は、江戸時代の中期に、現在の場所に移転されたもの
です。
もともとは、蛤城下にあったものを、前の放送でお知らせしたように、現在の八ツ三館あたりに移転させ、
民衆がなかなか移転しないのに率先して動いたという事で杉板300枚を可重から褒美としてもらって
います。が、寺地は、城主から寄進を受けたものと思われますので、可重が移転させたといっても過言
ではないでしょう。
そういう意味では、高山と同じように、古川の町も、浄土真宗の門徒を上手く利用して、城下を警備させた
といえるのではないでしょうか。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第4週目ですので、匠の話に関するお話、匠になくてはならない話=材木の運材についての
お話をしたいと思います。
それでは、今日は、ハンドルネームP子さんからブログのほうにリクエストをいただきましたので、この曲で
お別れです。曲は「沢田研二で勝手にしやがれ」ではまた来週。
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、6月も第三週に入りました。だんだん暑くなってきましたねえ。いつもなら梅雨の時期ですが、
今年は梅雨らしい梅雨ではないような気がします。梅雨の時期ですと洗濯物が乾きにくいとか、
押入れの壁が結露するとか、主婦泣かせの時期でもございますが、奥様方は大変ご苦労様です。
そんな時期ですから、たまにはちょっと手を休めていただいて、自分達の住んでいるところが、
どういうところなのか、考えていただいては、いかがでしょうか? この放送は、皆様に開かれた
番組をこころがけておりますので、番組に対する要望、調べてほしい事、近くにこんなものがあるん
だけど何だろうなどということがございましたら、わかる範囲内で、なるべくお調べしてお話したいと
思います。どうぞ、ヒッツFMのほうへ、ファクスなりメールなりでお問い合わせ下さい。
さて、今週は、先週予告いたしましたように、古川のまちづくりパート2と題して、お話したいと思います。
実は、先日の日曜日に、古川の方で小島城と小鷹利城に登るツアーが有り、参加してきました。
実際に上に上がってみることでとても勉強になりました。この二つの古城の話は、またこのコーナー
でしたいと思います。
先月、お話した内容は、願生寺由来記をもとに、古川のお話をさせていただきました。古川の町が、
現在の上町あたりにあって、金森可重が新しく増島野というところに、新しくお城を作った。そのお城は、
これからの戦さ(=鉄砲戦)を考えて平地の中の小山に天守閣を配置するように作られた。
また、可重は堀を延長された川の西側に、城下町である一之町、二之町、三之町が配置して、
城下町を作ったのですが、なかなか民衆が動いてくれない。そこで、円光寺の元であった正覚寺が、
率先して新しい城下町の方へ移転したところ、城主の可重は他の者の見本となると喜んで、杉板3百枚
を褒美として渡した。そこまでは、先週お話した事です。
さて、増島城のお話をする前に、それまでの古川の場所がどこにあったかですが、以前にもこの放送で
お話しましたが、現在の古川町とは異なる場所に古川の城下町はありました。先日、リスナーの方から、
「古川の蛤城の場所がよくわからない」との御指摘をいただきましたので、ちょっと確認してみたいと思い
ます。
現在、国道41号線の古川バイパスが通っていますが、バイパス沿いに、トヨタカローラさんがあります。
あそこから、西の方を見ると、小さな小高い山が宮川を挟んで対岸にあります。その場所が、蛤城の
城址です。明治時代頃までは、そこには橋が架けられていて、対岸と行き来ができたそうです。
そして、トヨタカローラさんの東側に田中製作所という木工会社があります。ちょうどその木工所の
辺りが、旧古川町の城下町でした。宮川から順番に、一之町、二之町、三之町という町が作られて
いたということです。おわかりいただけましたでしょうか。
その場所から、現在の古川の町のほうに、民衆が移転してきたという事です。
さて、増島城ですが、古川のかたには、古川小学校の裏手のところに、増島神社がありましたから、
古川のかたは、場所の事は充分ご存知ですね。 高山のかたには、ちょっとよくわかりにくいので、
お話いたしますと、古川の町の中に入ると、アーチ型の霞橋がありますね。その橋を渡って、本光寺と
いう飛騨で一番大きな本堂のお寺を右手に見て、真っ直ぐ行くと、古川駅のところで突き当たります。
左手に行っていただくと、JRの飛騨古川駅ですが、そこを右手に行っていただきます。
真っ直ぐ、200mくらい行きますと、右手にお堀があって、増島城が見えます。そこは丁度、古川小学校
の裏手に当たります。
今でも、お堀と、石垣が残っていますので、お城の状態がよくわかると思います。昨年でしたか、ここに
あった増島神社は、古川祭りで有名な気多若宮神社に合祀されました。古川祭りに関係している古川の
町の中の皆さんは、殆んどの方が気多若宮神社の氏子ですが、彼らは、今までこの増島神社の氏子も
兼務されていたようです。古川の町に住むという事は、自動的に2つの神社の氏子になるということでも
あったようですので、総代さんなど関係者の皆さんは、春に開催される古川祭りと、秋に開催される
増島神社のお祭りと年に2回のお祭りを出されていたわけですから、大変なご苦労だったと思います。
今年から、お祭りが一つになったわけですから、氏子の皆さんの御負担は、少しは楽になったのでは
ないでしょうか。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ウインクで 淋しい熱帯魚」をお届けします。
今日の飛騨歴史再発見は、古川の城下町についてお話しています。
さて、この増島城ですが、金森可重がお城作りに考えたコンセプトは、高山と比較すると大変よく似て
います。
まず、自然の要害を上手く取り入れたお城作りがなされています。高山では、宮川と江名子川をお堀に
見立てて、建設していますが、古川の場合は、荒城川と宮川を考えてまちづくりがなされています。
南の国府方面から流れてくる荒城川をお堀に見立てて、宮川と合流させる位置も、現在の場所まで
川筋を真っ直ぐにしたようです。昨年、古川のふるさと案内人会の研修があったときに、稲葉先生が
おっしゃっていましたが、もともと荒城川と宮川の合流していた場所は、現在の場所よりは、もっと
上流だったそうです。
もともと荒木川は現在の高冷地農業試験場のあたりを流れていたそうですから、古川町福祉センター
のあたりが合流点だったと思われます。今よりも上流ですよね。
余談ですが、この荒城川が氾濫を繰り返したことで、上町あたりの地質が非常に富んでいて、田んぼ
にするには好適地だったそうです。事実、上町の田んぼの収穫は、他の地域よりも1~2割多かったと
いう稲葉先生のお話でした。
あと、自然の要害としては、沼地があります。高山の場合は、向屋敷として作られた現在の高山陣屋
より、高山駅の方角は、だだっ広い沼地が広がっていました。後になってこの場所は、いい田んぼ=
名田町の名田となるわけですが、昔は、開墾の難しい、さんずいに難という=灘という字が使われていた
地域です。すのり川が氾濫を繰り返していた土地の沼地だったそうです。
同じように古川では、この増島野の東側には、広大な沼地が広がっていたようで、昔ここでよく遊んだ
という桐谷先生のお話ですと、「膝の上までどぼしこんでしまうような処やった」、つまり、膝上までずっ
ぽりと入ってしまうような沼だったという状態だったそうです。
もし、安土桃山時代に、こちらの方角から人が攻めてきても、沼に足を取られている間に、弓や鉄砲で
ズドンとやられてしまったでしょうから、難攻不落の要害が、自然の力を利用して作られたということで
しょうね。
また、お城作りには、風水を上手く取り入れた計画がなされました。高山の場合は、お城の鬼門の方角
(つまり丑寅の方角ですから、北東にあたる方角)には、別院とその延長線上に桜山八幡神社を配置して
います。逆に裏鬼門の南西の方角には、日枝神社を配置しています。古川においては、増島城から鬼門
の方角には、気多若宮神社を配置しています。
いま、ここまで原稿を読んでいて、おりょと思ったのですが、高山の裏鬼門は日枝神社があって、増島城の
裏鬼門にも何かあるんじゃないかと考えたら、その方角に、五社神社がありました。これは、もとの蛤城の
方角です。ひょっとすると、場所を特定するときに、可重は、蛤城で、増島城の構想を練ったと思われます
ので、姉小路ゆかりの五社神社の鬼門の方角に、増島城を考えたのかもしれませんね。
もし、これが事実だとすると、この番組のタイトル通り、「飛騨の歴史再発見」ということになります。
まさに歴史ロマンですね。
この鬼門の方角に、社寺を建設するという考え方は、金森氏の常套手段だったようで、高山の前に
作られた越前大野の城下町の場合は、誓念寺。高山の城下町の後に作られた美濃の小倉山城の
場合は、浄土宗の来昌寺を配置しています。実は先ほど、大野市役所に電話しまして、いろいろと
お聞きしました。この誓念寺の周囲には、浄土真宗のお寺を配置していたそうです。高山と同じで
すね。また、この担当者の方が、金森さんという方で、金森家の末裔の方でした。一度お会いしたいと
思っています。
最後にもう一つ、高山の場合は、浄土真宗の門徒をして、高山の城下を守らせるように、照蓮寺を
白川より誘致して、お城の城門と対峙するように配置しましたが、古川でも、本光寺と真宗寺を城下に
引き込んでまちづくりを考えています。円光寺は、江戸時代の中期に、現在の場所に移転されたもの
です。
もともとは、蛤城下にあったものを、前の放送でお知らせしたように、現在の八ツ三館あたりに移転させ、
民衆がなかなか移転しないのに率先して動いたという事で杉板300枚を可重から褒美としてもらって
います。が、寺地は、城主から寄進を受けたものと思われますので、可重が移転させたといっても過言
ではないでしょう。
そういう意味では、高山と同じように、古川の町も、浄土真宗の門徒を上手く利用して、城下を警備させた
といえるのではないでしょうか。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、第4週目ですので、匠の話に関するお話、匠になくてはならない話=材木の運材についての
お話をしたいと思います。
それでは、今日は、ハンドルネームP子さんからブログのほうにリクエストをいただきましたので、この曲で
お別れです。曲は「沢田研二で勝手にしやがれ」ではまた来週。
徳積善太

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この記事へのコメント
古川の風水に関してはなかなかいい感じですね。
高山の風水に関しては・・・?といったところがあります。。。
つまり、鬼門のところなんですけど、どう判断するかは個人の主観なのかもしれませんね。
高山の風水に関しては・・・?といったところがあります。。。
つまり、鬼門のところなんですけど、どう判断するかは個人の主観なのかもしれませんね。
Posted by 飛騨郎 at 2008年06月18日 11:06
飛騨郎さん>いつもありがとうございます。
古川の風水については、新規の発表です。
高山の件は、いままでどの本でも言われていることです。
古川の風水については、新規の発表です。
高山の件は、いままでどの本でも言われていることです。
Posted by rekisy at 2008年06月19日 01:50
ちょっと専門的になるので言及しませんが、
過去のどの本なのか知りませんのであれなんですけど。。。
林格男先生は過去の学説は疑ってみるのが
これからの郷土研究だと。。。
むしろ、古川の鬼門は増島城からみるとまさにそうなんです。私は最初円光寺からみていたのですが、どうもそうじゃないな~って。
過去のどの本なのか知りませんのであれなんですけど。。。
林格男先生は過去の学説は疑ってみるのが
これからの郷土研究だと。。。
むしろ、古川の鬼門は増島城からみるとまさにそうなんです。私は最初円光寺からみていたのですが、どうもそうじゃないな~って。
Posted by 飛騨郎 at 2008年06月19日 16:30
林先生の意見については、そうだともおもいますが、完全否定してしまうと、進まないのも歴史の解明です。
円光寺については、私は、現在詳しく調べているところですが、海具江→上町滝ケ淵→向町→現在地へと移転しています。従って、風水の基点とするには問題があります。
円光寺については、私は、現在詳しく調べているところですが、海具江→上町滝ケ淵→向町→現在地へと移転しています。従って、風水の基点とするには問題があります。
Posted by rekisy at 2008年06月19日 23:05
ただ、円光寺は古川にとって浄土真宗の中心的な寺であります。当時は一向宗ということだったと思いますが。。。
風水とも関係があり、鬼門は関係ないですが重要な場所であることは間違いないです。
風水とも関係があり、鬼門は関係ないですが重要な場所であることは間違いないです。
Posted by 飛騨郎 at 2008年06月20日 14:53
円光寺は、金森時代は「正覚寺」という名前のお寺です。円光寺に変更されたのは、異安心問題という問題が起きて以降で、元禄時代のことです。
一向宗は、浄土真宗の別名です。
正覚寺は、設立当初から浄土真宗でした。
また、円光寺の場所は、金森によって滅ぼされた家来の邸宅があった場所で、そこを与えられて向町から移転しています。
このお話は、またお話したいと思います。
その場所に移ってから、鼎型の配置となったのが、現在の三寺(真宗寺、本光寺、円光寺)なんです。
鬼門とは関係ないですが、おっしゃるとおり
重要な場所ですね。
一向宗は、浄土真宗の別名です。
正覚寺は、設立当初から浄土真宗でした。
また、円光寺の場所は、金森によって滅ぼされた家来の邸宅があった場所で、そこを与えられて向町から移転しています。
このお話は、またお話したいと思います。
その場所に移ってから、鼎型の配置となったのが、現在の三寺(真宗寺、本光寺、円光寺)なんです。
鬼門とは関係ないですが、おっしゃるとおり
重要な場所ですね。
Posted by rekisy at 2008年06月21日 00:20




