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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年06月30日

6月30日放送分_運材について2

(6月30日)みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者 第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、スポーツの祭典がニュースになる季節になりましたね。すでに皆さんの周りでも、子供が
部活動で来週大会があるとか、予選があるとかっていいながら、あちこち飛び回っておられる方も
あろうかと思います。どうぞ、道中の交通安全には充分気をつけてください。

今日の「飛騨歴史再発見」は、先週、お話が出来なかった木材の運材方法について、今日は
時間をかけてたっぷりお話したいと思います。

さて、木の運び出し方ですが、江戸時代の後期に、富田礼彦と言う人が「運材図会」という絵図を
残しています。
これは同じ地役人だった松村梅齋という人に絵を画いてもらって、一連の運材方法を絵画で残されて
います。最近になって、昨年なくなった大野先生が監修されて本として発行されていますので、
大変有名になりましたから、ご覧になった方も多いのではと思います。

しかし、この運材方法は、もっと昔、奈良時代以前より行われていたようですので、それ以前の
ことについての文献は乏しく、正確なところはわかっていないというのが現状です。
奈良時代から江戸時代後期まででも、1000年くらいの歴史がありますから、人々は、いろいろと
工夫をして、運材図会に見られるような形での運材方法を編み出してきたものと思います。

今日は、その運材図会に見られる方法、今から200年前の運材方法について、その中から、
ケヤキの伐りだしについてのお話したいと思います。

まず、木の伐木に関わる人たちを、今では木こりといいますが、木遍に山と書いて「杣(そま)」
とも呼びました。この杣の人たちは、山に入って、下枝を切ったり、間引きをしたりして、木が
ちゃんと生長するように山の管理も行っていました。

彼らは、ある程度育った木を伐りだすのに、まず、山の神様への感謝の念を込めてお祈りを
捧げます。切り出そうとする木の根元のところに、お供えをして、山の恵みに対しての感謝と
仕事の安全を祈願してお祈りをします。

かつては人生50年といわれましたが、最近は日本人も86歳というのが平均余命です。
しかし、木はそれよりももっと長生きです。時には樹齢300年、400年といった木を伐りだす事
だってあります。そうなると、その木を育ててくれた自然への感謝、その木が植えたもので
あれば、木を植えて育ててくれたご先祖への感謝、そういう気持ちが自然と出てこないはずが
ありません。そういったものが山の神信仰となって、杣の人たちに受継がれていました。


お祈りが済むと、先ず最初に、木の株のところに切り込みを入れます。大きな木には斧を
15cm間隔で、周囲ぐるりと入れます。そうしてできたくぼみに、小さなたきぎを詰め、
そこに火をかけます。こうやって火を使うことがケヤキの伐りだしの特徴で、ケヤキは、
高山の屋台などにもあるように、木目が大きくて、一枚板にすると非常にきれいな模様を
見ることが出来ます。しかし反面、木目が大きいという事は、水分をたくさん含んでいる為に、
一度、根元のところで焼いてあげないと、下から上まで乾燥したときに割れが入りやすい
そうです。そのため、杣の人たちは、それを経験でよく知っていて、木の根元を焼く事で、
水分の上昇を抑え、割れが入りにくいように火をかけます。

この火掛の作業は、ケヤキ特有のものですが、現在でも、久々野町と萩原町の境目にある
あららぎ湖から萩原町山之口にかけて行く途中に、このケヤキの火掛の跡を見ることが出来
ます。私も見たのは5年ほど前ですので、もうなくなったかもしれませんが、私が行ったとき
には、たくさんの木株が、真っ黒になって残っていました。

さて、ちょっとここでブレイクしましょう。 
曲はおじいさん達には懐かしい曲、欧陽緋緋(オーヤンフィーフィー)で「雨の御堂筋」をお届けします。

今日の飛騨歴史再発見は、江戸時代の運材方法についてお話しています。

さて、ある程度焼きがはいったところで、今度は本格的に、切り倒す作業に入ります。
杣の人たちが、木に斧で切り込みを入れます。そのときには、山の傾斜、他の木の生え具合
などを見て、どちらの方向に倒せば、一番木が傷みにくいか。また、どの場所なら作業がしや
すいか、などを考えて木を切り倒します。

倒した木は、そのままだと重いので、決められた長さにその場で加工しました。
木を伐るのは、木の成長が止る冬場に行われました。これは、木の状態が冬場の方がいいこと
ばかりでなく、木の運送がしやすいためだったといわれています。切り出した木を、木橇(そり)に
積み、雪の上を曳きました。
人間が一人でひく場合もありますが、大量になると馬に曳かせたようです。

さて、昔は木を運び出すのに、自然の川を使いました。木を伐って丁度いい大きさに、現地で
加工して川流しを行いました。しかし、上流の方は、川といっても小川です。水がそんなに流れて
いるわけではありません。大量の木を一気に流す為には、水が必要です。
そこで、木こりの人たちは堰を造って水をため、水と木を一気に下流へと流しました。
雪どけ時の水は大変冷たいですが水量が多いので木を流すには絶好の条件でした。

ある程度、木ができると、その小川をせき止めた場所まで、運びました。そこでは、2次加工が
されました。裏木曽や飛騨では流すのにちゃんと決められた形があって、大きな木は、皮をはぎ、
中心の芯を取り除いて放射型に伐ります。ちょうど、みかんの皮をむいたときに中の房が現れま
すね。あのような状態にして木の形を整えました。
江戸時代後期になると、この形ではなくて、木を30cm角、15cm角にして、先をとがらせた
ようです。これは、川に流したときに、引っかかりにくくしたことと、水揚げしてから加工をしやすく
したためだそうです。

さあ、水も木も集ると今度は堰を一気に切って、大量の水と大量の材木を一緒に流します。
堰は、いろんな作り方があったようですが、一度壊してしまうと使えなくなるので、大抵は間伐材
(かんばつざい)と石、土、土嚢をうまく組み合わせて、丁度今のダムのような形を作り、真中の
水門を空けて水と木を流す方法や、中央の石の部分を壊して流す方法があったようです。

この方法については、庄川町にある「水の博物館」にて常設展示で見ることが出来ます。
映像と模型で紹介されていますが、堰を切って水を流すときには、実際に大量の水が目の前に
流れてきて、たいへんな迫力がありました。

 さて、そうやって、小さな小川から、中流域へと木が流されていきます。
ところで、皆さんご存知のように、飛騨には、中央部分に分水嶺があります。この分水嶺を境に
して、南に流れているのが、長良川と益田川―飛騨川―木曽川の2つのルート。
逆に北方向へ流れる川は、宮川と川上川や高原川から神通川に通るルートと、庄川という2つの
ルートがありました。
この分水嶺を境にする事で、飛騨は、南方山(みなみかたやま)と北方山(きたかたやま)に分け
られていました。

江戸や京都・大坂方面へ材木を出す場合、南方山は、北方山に比べて太平洋に注ぐ分、近い
ですから、北に持っていくより早く大都市へ運ぶ事ができました。
来月は、この点についてお話しする事にしましょう。
さて、今日も時間となりました。
来週は、先月のお話の続き、「高山のまちづくりパート2」をお届けしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は、私の大好きな曲、松田聖子で「瞳はダイヤモンド」
ではまた来週、お会いしましょう!

徳積善太

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