2008年07月04日
金山~万福寺の彫刻について2~
金山の万福寺は、国道41号線を南進し、金山町に入る手前に下原という場所があります。
その下原の場所の手前に、アーチ型の橋があります。
その橋を渡って、左手に下原八幡神社を見ながら、どんどん上へ上がっていくと、山の懐にあります。
この由緒は大変古く、飛騨でも有数の古刹のようです。

地元の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた「由緒書」によると次のように書かれています。
「神亀山萬福寺の由緒
萬福寺は下原郷中津原村字洞田にあって、臨済宗妙心寺派である。
寺説によると往古は天台宗で亀像院と号し、神亀元年(724)約千三百年の昔、
加賀の国白山を切り開いた越前の高僧「泰澄大師」の開基で七堂伽藍を建立し
ていた。
爾後、幾星霜経て堂宇悉く頽廃に及んでいたのを天文七年(1538)飛騨萩原桜洞城主
三木大和守藤原直頼が再興し、禅昌寺二世杲天彗紹和尚を講じて開山とした。
次いで四世眼高知寛和尚が、寛永七年(1630)寺号を現在の萬福寺と改めた。
後宝暦六年(1756)七月七日火災に罹り堂宇をはじめ諸記録等悉く焼失した。
時の住職講堂知存は十方の檀家の布施を仰ぎ安永五年(1776)に堂宇を再興し
今日に至っている。約二百五十年前の事である。
其の他明治二十九年 岐阜県警察史上最初の殉職者 矢島友吉巡査の顕彰石碑、
・大正十五年 下原村忠魂碑、
・昭和三十五年 伍柳庵大人(今井萬吉)狂俳の歌碑、
・昭和三十七年 下原村畜産組合建立の肉牛供養碑、
・平成五年 落慶の庫裏、
・平成十二年完成の鐘楼と位牌堂、
・平成十三年 水子供養碑が建立している。」 となっています。

入り口のところに、山門はありませんが、自然木が山門のようになっていました。

山門をくぐり、長い石段を上がっていくと、そのお寺はあります。

やっとお寺にたどり着きました。
つづく
徳積善太
その下原の場所の手前に、アーチ型の橋があります。
その橋を渡って、左手に下原八幡神社を見ながら、どんどん上へ上がっていくと、山の懐にあります。
この由緒は大変古く、飛騨でも有数の古刹のようです。
地元の郷土史研究家 長瀬先生の書かれた「由緒書」によると次のように書かれています。
「神亀山萬福寺の由緒
萬福寺は下原郷中津原村字洞田にあって、臨済宗妙心寺派である。
寺説によると往古は天台宗で亀像院と号し、神亀元年(724)約千三百年の昔、
加賀の国白山を切り開いた越前の高僧「泰澄大師」の開基で七堂伽藍を建立し
ていた。
爾後、幾星霜経て堂宇悉く頽廃に及んでいたのを天文七年(1538)飛騨萩原桜洞城主
三木大和守藤原直頼が再興し、禅昌寺二世杲天彗紹和尚を講じて開山とした。
次いで四世眼高知寛和尚が、寛永七年(1630)寺号を現在の萬福寺と改めた。
後宝暦六年(1756)七月七日火災に罹り堂宇をはじめ諸記録等悉く焼失した。
時の住職講堂知存は十方の檀家の布施を仰ぎ安永五年(1776)に堂宇を再興し
今日に至っている。約二百五十年前の事である。
其の他明治二十九年 岐阜県警察史上最初の殉職者 矢島友吉巡査の顕彰石碑、
・大正十五年 下原村忠魂碑、
・昭和三十五年 伍柳庵大人(今井萬吉)狂俳の歌碑、
・昭和三十七年 下原村畜産組合建立の肉牛供養碑、
・平成五年 落慶の庫裏、
・平成十二年完成の鐘楼と位牌堂、
・平成十三年 水子供養碑が建立している。」 となっています。
入り口のところに、山門はありませんが、自然木が山門のようになっていました。
山門をくぐり、長い石段を上がっていくと、そのお寺はあります。
やっとお寺にたどり着きました。
つづく
徳積善太





