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プロフィール
rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年07月21日

7月21日放送分「小島城と小鷹利城について」

(7月21日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号私 ながせきみあきがお届けしてまいります。

7月も第3週に入りました。だんだん夏らしくなってきましたね。この頃飛騨では、朝晩は
いつもと同じで涼しいのに、昼間になると都会と代らないくらい。ひょっとすると、都会よりも
暑い事があります。これは、皆さんがクーラーを使うことと、自動車からの廃熱、パソコンなど
の電化製品の普及などによって、盆地に熱がこもることから起る現象です。都会のヒート
アイランド現象とはちょっと違いますが、以前は、日影に入ると涼しかった飛騨地域ですが、
今はどこへ行っても暑くなりましたから、困り者ですね。できるだけ、エコを考えて、クーラーを
使わずに過ごしたいですね。

さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、6月1日に古川で行われました、
古城めぐりのご報告をさせていただきたいと思います。この企画は、「飛騨を誇る実行委員会」
という有志の皆さんの主催で、開催されました。全部で40人ほどの参加がありましたが、古城
研究の各務ヶ原市 熊沢喜三郎先生による現地の解説と、郷土史研究家の川上節男先生の
歴史背景の解説を交えて、小島城と小鷹利城に登ってまいりました。

 皆さん、小島城と小鷹利城といっても、どういう人の城だったか、ご存知でしょうか。

これは、室町時代初期、15世紀に飛騨を知行していた姉小路氏のお城です。ちょっと姉小路氏に
ついて振り返ってみましょう。

姉小路氏は、あねがこうじとも言われ、公家の中では中納言、後に大納言に選ばれた公家でも
上層部の方でした。よく大納言という位は耳にする事がありますが、現在で言う大臣の位にあたり
ます。そんな方が飛騨を知行しておられたのですね。

 姉小路氏は、いまから680年ほど前、鎌倉幕府が滅んだ翌年、建武元年(1334)に京都の後醍醐
天皇から国司として任命され、姉小路家綱と言う人が飛騨の地に住んでおられました。その居城が、
現在の古川町太江にある小島城というお城です。おそらく、普段の住まいは、山の麓に館を構えられ、
有事のときには、山城である小島城に登って、敵の攻撃を防いだものでしょう。姉小路家綱は、
京の都を偲んで、この地に東山、嵯峨山、北野、賀茂川、賀茂宮などという地名を名付けられ、
今でもその地名が残っている場所があります。

 応永18年(1411)に有名な応永飛騨の乱という戦争が起きます。このときに、姉小路尹綱(ただ
つな)という国司が、反逆したというかどで、越前の朝倉氏、信州の小笠原氏などの5000人とも
いわれる連合軍に10分の一の兵力で立ち向かい、滅ぼされます。
ただし、この時は、尹綱という人一人を排斥するための戦いだったようで、戦争の後、知行地は、
室町幕府よりそのまま姉小路氏に安堵されています。

 その後、姉小路家は、3つに分裂し、北から蛤城を拠点とした古河家、太江の小島城を拠点と
した小嶋家、向小島城を拠点とした向小島家に分かれます。
姉小路家は、この3つの家に分かれた事で、現在の古川町から河合町にかけての一帯を知行
する豪族として君臨しました。主家の小島家は天正13年(1585)に小島時光が金森長近と戦い
討死するまで、8代250年の間、公家の名家 姉小路家としての地位を保ち続けました。

説明をされる熊沢先生

 さて、小島城は、古川の安望山の尾根続きの山の先端にあり、標高620mあります。麓からは
130mほどの山城で、県の史蹟に指定されています。
熊沢先生の解説によると、曲輪(くるわ)、橋台、掘切、竪堀、石垣、升形虎口などが確認でき、
時代を経て規模を拡大してきた、中世の山城です。

 曲輪(くるわ)というのは、城郭や砦などの周りの囲い区域のことで、いわゆる後の安土桃山
時代以降に天守閣や二の丸、三の丸のあった場所で、城の一番中枢の部分です。
ただし、中世の城は、皆さんがイメージされる、天守閣のような建物があったわけではなく、
山の一番上に、柵で囲った平らな場所というものが一般的でした。

小島城の主曲輪

したがって、そこでは、城主が幕などで陣を張り、武装して、戦況を報告させ、指令を出していた
という場所です。
もちろん、普段の生活では、そのような場所は必要ありませんから、普段の生活は、麓にあった
館で、歌でもたしなみながら優雅に暮らしていた事でしょう。 

さて、ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は、夏らしい曲。チャゲと石川優子で「ふたりの愛ランド」をお届けします。

今日の飛騨歴史再発見は、小島城と小鷹利城のお話をしています。

自然の要害という言葉をよく耳にする事がありますが、先ほど申上げた、堀切、竪堀という言葉や、
土塁、畝堀などという言葉は、まさに自然を生かして作ったものです。それぞれ、地面を掘ったもの
が堀切。山の傾斜に合せて竪に掘ったのが竪堀。掘るのではなくて土を盛り上げたものが土塁。
竪堀を、1m間隔くらいで何本も掘ったものが畝堀というものです。熊沢先生もおっしゃっていましたが、
飛騨は、600年の間、山が自然の形で残っているので、昔の古城の形態が損なわれる事なく、当時の
まま残っているのが特徴だそうです。

竪堀の跡

なるほど、現地に行ってみると、草や笹が生えてぼうぼうになっていますが、少し平らなところがあったり、
畝があって、でこぼこになっていたり、素人の私でも、ここにはどんな堀があったのか、確認できる様子でした。


また、古い石垣が残っていましたが、よく見ると泥岩でできていて、お城のすぐ下のところにあった
石切り場から持ってきたものであることがわかりました。泥岩は加工しやすく、自然の石に比べて、
真っ直ぐに割ったりすることができることから、そういう専門の石工の人がいて、加工したんだなと
思いました。

一般に、お城というと、石垣の堅固なイメージを想像していましたが、飛騨の古城は、崩れやすいところや、
斜面の急なところでは、確かに石垣が組まれていますが、そういう場所は本当に少しで、ほとんどが
地形をそのまま利用したお城だったことがわかりました。

 小島城の一番上に立ってみたら、少し木が生い茂っていてわかりにくい部分もありましたが、
南には古河盆地が一望でき、その向こうに蛤城。

北西の方角を見ると、盆地の向こうに向小島城。

そして、後ろ側、北東方向には、神原峠が一望でき、なるほど、交通の要害としては、すべてが
一望できる素晴らしい場所だと思いました。

 徒歩で上がる場合は、杉崎からの杉崎口と、沼町からの沼町口、そして太江から上がる太江口が
ありますが、太江口の奥には、途中まで車で上がれる車道があります。途中、車一台分が通れる
くらいの細い砂利道になっていて、慣れないと少し怖いかもしれませんが、乗用車なら楽に行けます
ので、一度行ってみてください。



 さて、小鷹利城ですが、場所は、古川町黒内にあるサッカー場の後の山の上にあります。地理的
には、古河町と河合町の境目になります。黒内からも遊歩道があり上がることができますが、河合の
稲越地区に一旦出て、国道360号への橋を渡らないで左へ行きます。
すると、夏に六本木へ持っていく雪が保管してある谷の道をどんどん上がっていくと、丁度小鷹利城の
山の後に出ます。今回のツアーもそこから歩きましたが、その道の方が、城跡へ行きやすいと思います。
ここにはかつて、姉小路一族の小鷹利伊賀守が住んでいたといわれています。ここは、峰続きの黒内城
というお城があって、最初は、この黒内城が、姉小路の宰相藤原頼鑑(よりかね)という人が建武2年
(1335)に築き、その後、防禦に勝れた小鷹利の城を作り、そちらに移転したものとも言われています。


 黒内城と小鷹利城の両方を熊沢先生がご案内くださいました。
なるほど、城の規模も防禦の仕方も小鷹利城の方が勝れている事が素人目にもわかりました。
中でも驚いたのは、畝堀というものが本丸のすぐ下のところにありましたが、本数が14本もありました。

1mほどの巾で傾斜は30度から40度くらいのものでしょうか、そういう堀がたてに何本も掘られていて、
草がぼうぼうのところもありましたが、草の波ができているようにうねった状態を見ることができました。
ただでさえ、険しい山を敵が登ってきても、最後のこの場所に至ったときに、またこんな要害があれば、
上から弓矢や石を投げられたら、ひとたまりもありません。大勢で攻めてきても、この畝堀を登るときには、
巾が狭いので1人づつしか上れませんし、上の人が倒れれば、その人が下に転げ落ちれば下にいる
何人もの人がなぎ倒されます。昔の人は、よくこういう知恵を出して城の構造を考えたのだなと感心しました。
 
さて、本日も時間となりました。この続きは、ブログの方で紹介したいと思います。
来週は、第4週目ですので、匠の話、先月の続きで、木を川に流したお話の続きをしたいと思います。

今日は、この曲でお別れです。
曲は、ちょっとマニアックな曲。山下達郎で「愛を描いて Let's kiss the sun」ではまた来週。

徳積善太

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