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rekisy
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飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年07月23日

今日の市民時報

今日の市民時報、久しぶりに屋台の記事がトップでした。


谷越獅子彫刻「一之説」有力に 八幡の鳳凰台・新証拠?出る
「高山祭りの全屋台中最大の大きさを誇り、名工・谷口与鹿(たにぐちよろく)の作という説が
有力だった、八幡祭の鳳凰台の彫刻「谷越獅子」(左写真)が、実は弟子の浅井一之(あさい・かずゆき)
の作である可能性が高まった。

 この屋台は、現在、九十九年ぶりの全面改装中。そのため、屋台から彫刻を外したところ、三つある
彫刻の一つに”一之谷口和助則刻”などと彫ってあるのが発見された。(下写真)。和助は一之の通称。
 この彫刻については、高山市郷土館にある文書『屋台の再興仕法規定書』の中で、安政三年(1856)
に制作費として与鹿に十両、一之に一両一分支払ったと記されていることや、地元の一刀彫師らが一之の
別の作品と見比べて、作風などが異なっていることなどから「与鹿の作だろう」ということになっていた。
昭和二十七年刊の『高山市史』でも、この説を採用している。
 しかし谷口家に「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料が残っているなど、
「一之説」も根強かった。今回の発見は一之が彫ったという大きな証拠となりそうだ。
ただし、一之が谷口姓を名乗った記録は無いことから「なぜ谷口と彫ってあるのか」という、新たな謎も
合わせて浮上した。」
(高山市民時報 平成20年7月23日(水) 第6265号より)

鳳凰台の谷越え獅子と呼ばれている、3枚の彫刻は、次の通り
屋台正面
屋台右側
屋台左側
いずれもケヤキの一枚板をくり抜いて作ってあり、当時、ケヤキの大板が出たので、それに
彫刻をしてもらおうと、鳳凰台組の方々が依頼したとの言い伝えがあります。

この文中の、『「与鹿が下絵を描いて、後を一之にまかせた」と推測できる資料』というのは、与鹿が
鳳凰台の方に宛てて書いた手紙のことで、次のように書かれています。


屋台会館にある、谷口家所蔵の与鹿書簡

「与鹿書簡訳
仰せにより乱獅子の絵を書いたけれども、急いで帰国(摂津へ)せねばならなくなったので、彫る人
一之に依頼している。本意ではないのですが、宜しくお願いします。獅子は痩せ型に書きました。
屋台に合うように工夫してください。うまくできればと心配をいたしています。五台山の獅子や、以前に
私が手がけた作品などをよく見させ、良いところを取り入れ、まずい部分は捨てさせて彫刻させたいと
願っております。・・・・・・後文略

※これは、大新町組鳳凰台下段彫刻「乱獅子渡渓之図」の製作にあたり、彫刻依頼を受け、
手間賃金十両を受け取った与鹿が、下絵のみを描き、彫りを弟子 浅井一之に頼んで急ぎ
攝津へ旅立つ前に、兄延恭にあてて書き残した手紙と思われる。
これにより、鳳凰台の下段大彫刻の事実が明らかになった。」

この頃、与鹿は、ホームグランドを伊丹においており、この安政三年になぜ高山へ急遽帰ったのか
依然として謎に包まれていますが、私は、次のように考えています。

「兄の延儔の急逝により、鳳凰台の棟梁がいなくなったため、谷口一門が困って、急遽与鹿に高山へ
帰り、采配を振るうように依頼した。そのため、一門の中をとりまとめ、甥の宗之が棟梁として父の後を
継ぐように段取りし、依頼された彫刻については、下絵を急遽仕上げ、彫を弟子の一之にやらせた。
そのあと、伊丹に急遽帰ることになったのは、ある意味口実で、捨てた高山に長居をしたくなかった」
のではないかと考えています。

ただ、伊丹でも、その頃、愛妻の出産を控えていたり、孝明天皇に拝謁するのもこのころでしたので、
それなりの理由はあったものと思います。

早速、明日にでも、鳳凰台の関係者の方にコンタクトをとりたいと思っています。

徳積善太




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この記事へのコメント
今回の発見はrekisyさんにとって非常に重要なものですよね。
長年、力を入れてきた与鹿研究だけに真相が解明されるかもしれませんよ!
今年は本当に思い出深い年になりそうですね。2年前のこの時期にも田中館長が京都での金森邸発見があったな~。
Posted by 飛騨郎 at 2008年07月24日 10:58
そうですね。しかし、別段、たいした感動も無く、「やっぱりか」といった印象でした。
一之が谷口を名乗ったのは、与鹿に対する思いというものがあったように伺えます。

与鹿は、このときが高山に来た最後になりました。このあとは高山の地を踏んでいません。田舎を捨て、もう二度と戻らないという決心があったのかもしれません。

彼の心境を察すると、複雑だった要に思います。
Posted by rekisy at 2008年07月27日 22:17
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