2008年09月07日
金森家とまちづくり展10
古川の増島城が作られたときの話が、願生寺由来記に書かれています。今回、願生寺由来記を史上初めて、お寺から外へ出して展示することが出来ました。

高山別院史のP137~138には、次のような記述があります。

はぶ省かせ、仏法と王法を車の輪立ちのごとく国家を治めんと仰せられたりし由、世間の人の知る所なり。げ実に嘉念坊明了と金森長近の御仲よく、折々茶の湯の御会あって明了の茶の湯の手元を褒め給ひて、等安と名づけ給ひし由と、とりどりに物語をぞ致しけれ。
長近より長屋喜蔵丸へは荒城郷の六郷を進ぜられ、彼の嶋田、日根野へ預け置き給ひしおおすみ大隅君を参らせて、その身は大坂へ給ひける。いかなれば討入りの首尾宣しかりしにより、毎日の登城にて御咄しの挨拶に次の間を退り給はず、在大坂と聞こえしかども、国の城御普請は真っ最中。可重はこれに係はり給はず、古川郷蛤ケ城筑前守内桂休が居たる城内へ遷りましまして、まず御父美濃の樽井にましませしを召し請け給ひ、唐松の館と言ふへ入居ありしを林昌院殿と申し奉る。
可重思しめしけるは、当世は鉄砲の要害を専要に構へ城郭を改築なされたく、増嶋野を見立て給ふに、この地東はふけ泓沼田、南西は流れ川要害に定め給ひて、川岸は大土居、その内は百間の大堀、その外東北の方も大堀の構へ。まづ西の寺大門の囲みの内に十二間半に八間の大広間を建て、てんしゅやぐらしき殿守櫓敷は平地にさんじん三仭に高く四方より築き上げ、二里四方の間は、山坂を言はずに石を牽き木を寄席、かかる烈しき最中に父御のため秀梅といふ禅僧を招き寄せ給ひ、城敷へ流るる溝上に敷地を囲ひ新閣を建立あり。すなはち、林昌寺と号し菩提所になし給ひける。城は大手の大門より西の手は大馬場を付け、その左右は塚弥市右衛門、筧九右衛門、柚原弥五右衛門、中村平四郎、この人々御作事成就なる。(後略)
徳積善太

高山別院史のP137~138には、次のような記述があります。

はぶ省かせ、仏法と王法を車の輪立ちのごとく国家を治めんと仰せられたりし由、世間の人の知る所なり。げ実に嘉念坊明了と金森長近の御仲よく、折々茶の湯の御会あって明了の茶の湯の手元を褒め給ひて、等安と名づけ給ひし由と、とりどりに物語をぞ致しけれ。
長近より長屋喜蔵丸へは荒城郷の六郷を進ぜられ、彼の嶋田、日根野へ預け置き給ひしおおすみ大隅君を参らせて、その身は大坂へ給ひける。いかなれば討入りの首尾宣しかりしにより、毎日の登城にて御咄しの挨拶に次の間を退り給はず、在大坂と聞こえしかども、国の城御普請は真っ最中。可重はこれに係はり給はず、古川郷蛤ケ城筑前守内桂休が居たる城内へ遷りましまして、まず御父美濃の樽井にましませしを召し請け給ひ、唐松の館と言ふへ入居ありしを林昌院殿と申し奉る。
可重思しめしけるは、当世は鉄砲の要害を専要に構へ城郭を改築なされたく、増嶋野を見立て給ふに、この地東はふけ泓沼田、南西は流れ川要害に定め給ひて、川岸は大土居、その内は百間の大堀、その外東北の方も大堀の構へ。まづ西の寺大門の囲みの内に十二間半に八間の大広間を建て、てんしゅやぐらしき殿守櫓敷は平地にさんじん三仭に高く四方より築き上げ、二里四方の間は、山坂を言はずに石を牽き木を寄席、かかる烈しき最中に父御のため秀梅といふ禅僧を招き寄せ給ひ、城敷へ流るる溝上に敷地を囲ひ新閣を建立あり。すなはち、林昌寺と号し菩提所になし給ひける。城は大手の大門より西の手は大馬場を付け、その左右は塚弥市右衛門、筧九右衛門、柚原弥五右衛門、中村平四郎、この人々御作事成就なる。(後略)
徳積善太

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この記事へのコメント
飛騨市、高山市には増島城以外に平城はあるのでしょうか?あと古戦場跡のようなものはあるのでしょうか?先日あらためて小学生卒業以来 増島天神に上がりました。今みればこそ天正の時代に思いを馳せて見れます。
Posted by おが茶 at 2008年09月08日 19:00
増島城は、飛騨で唯一の本格的な平城です。ただ、萩原の諏訪城が平城ではないかと思われますので、平城は2つということになりましょうか。
増島天神、上がってみるといろいろとロマンが思い起こされたことでしょう。
増島天神、上がってみるといろいろとロマンが思い起こされたことでしょう。
Posted by rekisy at 2008年09月09日 00:04




