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10月20日放送分_伏見城下での金森家

(10月20日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。

もう10月も半ばになりました。ついこの前、あんなに暑かった夏だったのに、気がついて
みたら随分涼しくなりましたね。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズン
として、毎日、たくさんのお客さんで賑うといいですね。

さて、放送の前にお詫びを申上げたいと思います。実は、先々週の放送で、八幡祭りの屋台が
今年も10台しか出なくて、来年から11台揃うようなお話をしましたが、残念ながら、来年も10台の
屋台しか見ることができません。八幡祭りの鳳凰台は、3年間の修理に入っているらしくて、
昨年から来年に掛けての話だそうです。お詫びして訂正させていただきます。私も、充分に
お調べしてお話しているつもりですが、ときどき、こういう間違った情報をお伝えする事もあろうか
と思います。そのときは、ぜひともお知らせいただきますようにお願い申上げます。

さて、今日は、第三週ですので、古川のお話をしたいと思います。先週予告しましたのは、
金森家についてのお話ですが、先月、9月1日から24日まで、飛騨市美術館のほうで、
「金森家とまちづくり」展を開催しました。皆さんご覧いただきましたでしょうか? 
お陰さまで、連日、たくさんのお客様にご覧いただいたようですが、遠くは名古屋や、
金山などからもお客様に来ていただきました。関係者の1人として御礼を申上げます。

金森家のことについては、今までは、高山の金森顕彰会ですとか、飛騨歴史民俗学会です
とか、また個人の研究者の方によって検証されてきました。ただし、どちらかというと、高山の
金森家を中心にした検証が行われていましたので、金森長近の直系の方のことが中心だった
ように思います。今後、関ヶ原の合戦のときの動きですとか、大坂冬の陣・夏の陣での動き。
また、浄土真宗との複雑な関係など、血縁を含めて再検証をしていきたいと思っていますので、
よろしくお願いいたします。
ちょっとここで、先月、お話した内容を振り返って見ましょう。9月15日の放送分では、増島城が
築城されたときのお話をさせていただきました。江戸時代に書かれた「飛州史」という本に記述
されている増島城の場所や掘割がどのようになされていたかについて、お話しました。
また、願生寺由来記という本をご紹介し、増島城が作られたときの物語をお話しました。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
願生寺由来記

また、9月22日の放送では、高山の城主だった金森長近という人がどのような家に出生したのか。
そして、2代目の高山城主となる金森可重という人を養子にするのですが、彼とはどんな関係が
あったのかについて、お話しました。私も今まで知らなかったのですが、長近が、幼少のときに
大畑可近といったのですが、金森を名乗る前に、垂井にいた長屋氏に助けられて、頼った事が
あったこと。後に長屋氏が板取の城主だったときに、信長に攻められて、人質として可重(喜蔵丸)
を信長に出し、その養育係だったのが長近だったということを知りました。
当時は、三木自綱に代表されるように、親子・兄弟といえども信用できない時代だったということを
考えると、逆に命の恩人などという関係を大事にしていたということには、大変驚きました。

さて、本日のお話ですが、今日は、当時の金森家がどのような状況だったのかという事をお話したい
と思います。
まず、飛騨平定後の金森長近ですが、彼は、豊臣秀吉のお話衆として、ほとんどを秀吉のそばで
暮らしました。したがって、飛騨を平定したとはいえ、彼の任務は、お話衆としての任務が殆んど
でしたから、生活の拠点は京都の伏見にあったと思われます。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
伏見の城下図を見ますと、金森長近(いや、このときは、剃髪して法印を名乗っていました)が、
法印の屋敷は、伏見城の二ノ丸のすぐ外側にありました。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
この場所は、他の武将達と一緒に肩を並べる形で屋敷を持っていたわけですが、ご近所さんで
有名な方をちょっとご紹介しましょう。
10月20日放送分_伏見城下での金森家

屋敷の少し南には、松平駿河の守=徳川家康。その隣に島津右馬頭、北には、福島政則。すぐ近所には、
茶の湯の古田織部などが名前を連ねていました。

ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「川島英吾で 酒と泪と男と女」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、金森家のお話をしております。

 当時、徳川家康は、ご内府様と呼ばれて、その地位は、相当高い、豊臣の次くらいの位置を占めて
いましたから、金森長近の屋敷がそのすぐそばにあったということは、長近という武将も相当、信頼され
ていた1人であったということができます。

 ここで、ちょっと京都東本願寺の創設だった、教如上人のお手紙の事をお話したいと思いますが、
岐阜県揖斐郡の光慶寺というところに伝わっている、教如上人が古田織部に宛てた手紙が現存して
います。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
そこには、「茶の湯に誘われたお礼が述べられていますが、午前中に、古田織部のところへ
行って、午後から金法印(金森法印のこと)のところへ行ってお茶をご馳走になる(云々)」などと書かれ
ています。
 東等寺の竹田ご住職がかねてからこの事に疑問を持っておられ、古田織部の家と金森法印の家とは
どのくらいはなれているのか、という疑問から、伏見城下の絵図を見て調べたところ、目と鼻の先である
ことがわかりました。距離がどのくらい離れていたのか、当時の地図では計りようがありませんが、当時
の道路幅が5mほどだったと仮定すると、道幅から推定して20mほどでしょうか。いずれにしても随分と
近いところに住まいがあったようです。

また、飛騨出身の歴史研究家、多賀秋五郎先生がお書きになった「飛騨史の研究」という本には、次の
ようなくだりがあります。「同じ客将でも常に家康が疑惑の眼を放さなかった福島政則の如きと、常に本陣
近くに居らせた長近の如きとでは、信用の程度に非常な差違がある。教如が新寺創立斡旋の労を長近に
懇望した事は、豊臣氏恩顧の多くの武将が只管家康の疑惑を恐れて居た際だけに、如何に長近が信用
され、又世間もかう見て居たか、家康と長近の関係を知る好史料であらう。」
 いかに、金森長近という人が、豊臣秀吉や徳川家康に信用されていた人物であったか、うかがい知る
事ができます。高山城と古川城、私達のお城を築いたお殿様は、ものすごい人だったんですねえ。
 
 さて、先ほどお話した伏見城下絵図には、あと2箇所、金森の屋敷跡と思わせる場所があります。
一つは、金森出雲守の屋敷跡。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
そしてもう一つは、金森法印の屋敷跡です。
10月20日放送分_伏見城下での金森家
この金森出雲守屋敷跡と
いうのは、現在でも京都市伏見に「金森出雲町」という町名が存在する事が知られています。つまり、
金森出雲守、当時は金森可重の屋敷があった場所です。地図で見ると、先ほどお話した金森法印など
の屋敷の集団がある場所のお堀の外側にあたります。丁度、お城からすると南東の方角にあたりますが、
堀の外に鍵の手になった場所があります。そこに屋敷がありました。
この場所からすると、お城に入るための門前ということになりますから、防備の上では、門外を守る重要な
役目を負っていたものと思います。

 最後に、金森法印屋敷跡ですが、これは、伏見城下の絵図を見ると、掲載されているものと掲載されて
いないものがあります。なぜかというと、お城の外側にあたる場所。つまり、城下の外に屋敷があったらし
いからです。したがって、城下の絵図としてみると、城下に含まれるか含まれないか、絵図の作者によって
そのコンセプトが分かれるところでしょうから、入っていないものもあるものと思われます。

 ところで、この伏見城が築かれた頃というのは、秀吉の目は、遠く韓国に向けられていた時代でも
ありました。歴史の時間に習いましたよね、文禄の役と慶長の役。熊本の加藤清正が熊退治をした
話でも有名な2つの朝鮮征伐ですが、秀吉は全国統一を果してからでも、新たな敵を求めて、戦争を
繰り返していました。金森長近も可重も彼について、福岡県の名護屋というところに陣取っていたよう
ですから、実際にはこのような屋敷を伏見に持っていたとはいえ、あちこちの戦闘に借り出されて、
長期間滞在するという事はほとんどなかったようです。

さて、本日も時間となりました。来週は、南方山と北方山の運材のお話をしたいと思います。
どうぞ、お楽しみに!
今日は、この曲でお別れです。曲は「竹内まりあ シングルアゲイン」ではまた、来週!

徳積善太
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