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<title>飛騨の歴史再発見！</title>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com</link>
<description>ヒッツFMにて毎週月曜夜７：３０から放送している歴史番組。（再放送土曜日午前１０:３０より）飛騨の隠れた歴史をわかりやすく解説します。どうぞ応援をよろしくお願いします。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Sun, 01 Apr 2007 23:55:17 +0900</pubDate>
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<title>飛騨の匠の大工道具８＿錐（きり）</title>
<description>キリ（錐）一見簡単に見える錐も正確な位置に必要な大きさの穴をあける（錐揉）ことに繊細な注意が要求される。大工は、その仕事の難しさを"一錐、二鉋、三釿"とよんでいた。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Thu, 20 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具７＿のこぎり</title>
<description>ノコギリ（鋸）日本のノコギリは西洋と比べて薄く出来ている。日本の鋸は手前へ引くから薄いノコで良く、したがって精密な仕事が出来るのも薄いノコだからこそ。先端の尖ったものから四角い形状になり、明治には両刃のものがあらわれた。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Wed, 19 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具６＿げんのう</title>
<description>ゲンノウ（金槌・鉄槌）主としてノミ（鑿）の叩き込みに使われる道具である。ノミを叩く面は、常に平らに磨かれている。平らでないとノミの利きも悪く、その柄も割れやすいからである。一般には、かなづちと呼ばれていますよね。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Tue, 18 Nov 2008 22:18:03 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具５＿指しがね</title>
<description>サシガネ（指金）Ｌ字型の直角定規と物差しを合わせた工具。指金の裏目には実尺の√２倍の目盛りが刻まれ、日本独自の精巧な継手・仕口設計術（規矩術）の根本となっている。五重塔などの建物は、すべて比率が１：２：√3となっており、これは、直角三角形の形となっている。人間の「美」を追求したときに、一番美しいとされる比率はこの直角三角形の比率であり、古代ギリシャではピタゴラスの定理として知られています。大工さんたちは、このサシガネを使って、屋根の勾配の比率や、建物の寸法などを経験的、感覚的に出していき、建物を建造しています。それが規矩術と呼ばれるものです。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sun, 16 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具４＿まさかり・斧（おの）</title>
<description>マサカリ（鉞）「まさかりかついだ金太郎　熊にまたがり　お馬の稽古　はいしどうどう　はいどうどう・・・」と童謡にあるように、まさかりは、金太郎が担いでいたことで有名です。この「まさかり」は「鉞」とも書き、木に打ち付けて少しづつ三角状に削り、一定のところまで削ったところで、今度は反対側の部分を同じように削り、最後は、楔を打ち込んで一気に木を倒しました。オノ（斧）斧は、まさかりの小型版で、最も古くからの人間の道具であり、武器でもありました。オガ（大鋸）が出現する以前、打ち割り式の製材の時代では欠くことの出来ない大工道具でした。大工道具としては、鉞よりも斧を時々使いました。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sat, 15 Nov 2008 23:38:56 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具３＿墨壷</title>
<description>スミツボ（墨壺）大工が、これから割るべき部位や切り・削る箇所を罫描く道具。大工の技術の奥儀は墨を打つことにある。「其が無ければ、誰か懸けむよ」と歌われ大工の本領発揮の道具。万葉集に「かにかくに　ものは思わじ　ひだびとの　打つ墨縄の　ただ一道に」という歌があります。この歌は恋歌とも言われていて、人の思いというものが墨縄の打つ線に似ているということをあらわしているというお話もあります。墨縄というのは先に針が着いていて、はけでおさえながらずっと糸を持ってきて、ぴしっとやると、まっすぐに線がつくものです。その線のように、男性から女性への思いが一筋になっているというさまを読んだものだというお話です。さて、仕事のときは、大工さんはすべて自分の墨壷をじぶんでこしらえます。自分の手に合ったように。また、左利きの人と右利きの人では、持ち手の形が違いますから、使いやすいように自分で加工しました。また、仕事用のものとは別に、棟上式などにおいて、神事に使うための装飾した墨壷もありました。ここで、いくつかの墨壷をご紹介しましょう。高原忠吉氏所蔵の墨壷　　飛騨の特徴であるとされる一文字型松井氏所蔵の墨壷　　　寺院建築にもみられる絵様を立体的に彫り出したもので糸巻きも車輪にするなど手の込んだもの。底面には般若の面と刻銘がある。袈裟丸氏所蔵の墨壷　　　　　本墨壷は昭和31年に高山別院の用材を使用して作ったもの。高原正夫氏所蔵の墨壷　　ハンドルを使用せず、糸巻きを手の平で回転させて糸を巻き取ることが多かった飛騨の屋台を作った初代　村山郡鳳氏の墨壷棟上式用の装飾された墨壷儀式用の墨壷（M家所蔵）徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Fri, 14 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の大工道具２＿やりがんな</title>
<description>ヤリガンナ（槍鉋）チョウナ（釿）で削った木材の表面を、さらに平滑に仕上げる道具。オノ（斧）と共に最も早くから鉄器化し、弥生時代中期頃の遺跡からも数多く出土している。この槍鉋は、木の表面を少しづつ削って表面をつるつるに仕上げるもので、力の入れ具合によって深く削れたりしてしまうので、結構な技術を要します。奈良時代に建造された法隆寺の金堂や五重塔の柱などはすべてこの槍鉋を使って仕上げられました。後に、台かんなの登場によって、この槍鉋はすたれていきました。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Thu, 13 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠文化館</title>
<description>飛騨の匠文化館 　木の国飛騨で育った木材を使い、飛騨の匠の技を受け継ぐ地元の大工たちによって建てられ、釘を１本も使っていないのが特徴です。軒下には、腕木のささえである肘木に各大工の「雲」と呼ばれる紋様が彫りつけてあります。館内では各種の継ぎ手や木組み見本展示、千鳥格子を組んでみることのできるコーナーもあります。 このほど、匠館建設20周年を記念して先の日曜日（11/2）にイベントが開催されました。なんでも「はしご作りコンテスト」だったそうです。飛騨市のたくさんの大工さんが二人づつペアになって、梯子作りをします。面白かったのは、設計図に合わせて線引きをするときに、若い方は金尺を使っていたのに、お歳の方は、けびきという道具を使っておられました。　ケビキ（罫引）主に、材料の表面に必要な距離の平行線を引くのにつかわれる。罫引には大きくわけて筋罫引と割罫引があり造作用道具の部類に属する。 また、梯子の穴を開けるのに、のみを使う人、ねじきりの道具を使う人、さまざまでした。さて、どなたが優勝したんでしょうね。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Wed, 12 Nov 2008 23:41:49 +0900</pubDate>

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<title>先日、講演会がありました</title>
<description>平成２０年７月５日(土)　飛騨センターのミニシアターにおいて、飛騨の匠　市民勉強会が開催され、１２０人ほどの市民の皆さんがお勉強をされました。この講演会は、３回シリーズで行われますが、第１回目のこの日は、高山市郷土館長の田中彰氏が講師として招かれ、「飛騨の大火・土蔵としての役割」というテーマで講演をされました。先の４月１３日に起こった、上一之町の火災で、奇跡的に類焼を免れた三番曳の屋台蔵の話や、どのような構造になっているのか、というお話。過去に、高山では、どのくらいの火災があったのか、資料に基づいてお話をされました。今後、下記のような日程で、２人の方による講演がまだまだ続きます。興味のある方は、飛騨センターまでお申し込みください。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Fri, 11 Jul 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>大雄寺の棟札発見</title>
<description>大雄寺、ご住職に昨年の7月にお願いしていました大雄寺旧本堂の棟札が発見されたと連絡ありました。水野先生の論文に出ていたものです。 早速、写真を撮っていただきました。。 宝暦12年(1762)壬午九月十三日に建造の拾間三尺・梁間九間八寸七分という大変大きなものです。 中身を見ていただければ分かりますが、水間相模（初代）宗茂47歳の作品です。また、広田藤右衛門貴林ほか、25名の大工、5名の木挽きなどの名前があります。（松田太右衛門は、延享3(1746）没、廣田良親は、宝暦7(1757)没で、没後の作品ということになります。） ＜興味あるのは、＞廣田藤右衛門貴林・・・・・・・・・・・・・・廣田良親の親か？廣田清五郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廣田良親の子で、弟子安保清三郎諄紹・・・・・・・・・・・・・・・・旧本光寺（現　浄慶寺）の棟梁の末裔か？中村新七・中村弥七・・・・・・・・・・・・・水間相模の旧姓。関係者か？水間次四郎包好・・・・・・・・・・・・・・・・二代水間相模。小峠平助．．．．．．・・・・・・・・・・・・・・・・・小峠家初代？、飯山寺に名前有り村山善十郎・・・村山家の関係者か不明？系図に無し　（桂林寺脇７　明和４（1767））牛丸甚五郎．．．・・・・・・・・・・・・・・・・・良親弟子　牛丸半助の子か？足立七左衛門．．・・・・・・・・・・・・・・・・良親弟子（宝暦4　古川信行寺本堂　脇大工7)平瀬嘉助．．．．．・・・・・・・・・・・・・・・・太右衛門弟子？　福成寺脇3（延享4　1747) 榑師松山善兵衛．．．．・・・・・・・・・・・・・・・・確か大国寺の棟札にあった人か？今井忠五郎・今井吉良兵衛・・・・・・今井庄五郎との関係は？越中富山の大工たち・・・・・・・・・・・井波と関係か？ などということが、保管データより分かりました。もっと詳しく分かるといいのですが。。。。 徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e49560.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sat, 26 Apr 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>宗猷寺の改修</title>
<description>先日、改修中の宗猷寺にお邪魔してきました。宗猷寺の庫裡は、200年ほど前に建造されたとのことですが、雨漏りがひどく、このほど全面改修となったそうです。200年前と聞いて、現地に行ってみましたが、残された材木のくぎのことを、以前、信行寺の田中先生より聞いていたので、もし落ちていれば、もらってこようかとお尋ねした次第です。ところが、残された材木に使われていたのは、一般の丸釘でした。ということは、昭和に入ってからの建造物だったという事です。釘って、200年も前のものであれば、四角い釘が使われていたはずなので、それは、たたら製鉄で造ったものであり、それはそれは貴重なものなんだそうです。また、当時の左官の技術をみようと、こんな写真も撮ってみました。わらの組み方とか、壁の作り方など、参考になります。今まで、いろんな匠の方や先生から、技術の事をお聞きしたので、ちょっとしたゴミの中でもすごく興味を持つようになりました。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e46953.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Tue, 22 Apr 2008 20:30:00 +0900</pubDate>

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<title>飛騨の匠の「守」の称号について</title>
<description>昨年行った、「飛騨の匠展」にて、江戸時代の大工さんを顕彰しました。今回の大工さんの選定基準が「○○守」の称号を持った大工さんに限定しました。なぜなら、ものすごい数の大工さんが、飛騨で活躍されていたからです。公家への出入りを許された許状（匠展より）しかし、どうして、この「○○守」という称号を得たのかがわかりませんでした。守の称号を得た大工さんは、水間家＝相模守（さがみのかみ）谷口家＝権守（ごんのかみ）　　村山家＝陸奥守（むつのかみ）　　小野家より森本家＝大和守（やまとのかみ）　などがありました。同じように、刀の場合も、称号があったようですが、これについて、S寺のT先生に引き続き、教えていただきました。→刀の場合、江戸時代末期に「○○守」の称号を持つことはよくあった。中でもそういうことを商売にしていた向きもあって、ある家（名前を忘れました）に行くと称号が得られると言うので、こぞって金子（きんす）を持って刀師達が上洛したことが史実に残っています。大工さんの場合は、どうだったかわかりませんが、ほとんど同じだったのではないかと思います。それだけ、公家は領地を取られてしまっていて、生活が苦しかったはずです。ということでした。幕末には、公家の皆さんが苦慮しながら、資金集めに奔走しておられた姿が浮かびます。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e42807.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Tue, 11 Mar 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<item>
<title>お尋ねの件</title>
<description>昨日、ある学校の先生からこんなお電話を頂きました。「高山の雲龍寺の裏の所に、神社のような建物があるが、そこに龍の立派な彫刻があります。見ると、高山の恵比寿台の彫刻によく似ているのですが、谷口与鹿の作品ですか？」私も、見た事がありませんでしたし、知らない建造物でしたので早速調査に行って着ました。この建物で、建造年とかわかればいいのですが、灯篭にあった年代は、弘化四年とか慶応、文化年間というものがあり、もしその頃に建造されたのなら、谷口家かつ与鹿との関係があるはずなので、大変期待しました。問題の彫刻は、これです。若僧正にお尋ねしたら、「ああ、金毘羅堂のことですか。それなら雲龍寺記に載っています」と一冊の本を頂いてまいりました。そこには、金毘羅権現堂「金毘羅権現を勧請したのはいつの頃か詳らかではないが、金森時代の承応三年(1654)に鋳造した洪鐘の銘に 『 開説昔年金毘羅仏猷建之』の字句を刻してあったという文献がある。享保十四年(1729)の火災では類焼したようで、再建は寛政九年（1797)の記録がある。この六十年あまりの間はお堂が無かったのか仮の小祠があったのか明らかではない。「紙魚のやとり」によれば、文政三年(1820)当寺二十六世月胆凡丁和尚の時、金毘羅堂を新たに建立し、三月九日より十八日まで開扉したとあるがこの時の堂は、現在の奥殿と思われる。現在の奥殿前方の本殿は、大正二年（1913)棟梁 坂下甚吉(8代)の建立で、六月着工、十二月完成、工費千五百二十四円六十三銭とある。」となっていました。私が見たところ、前殿の蛙又が谷口家のものによく似ていますが、虹梁の雲は坂下家のものでした。奥殿もかなり古い建造物である事がわかりました。坂下甚吉(8代)は、名棟梁で数々の作品が高山に残っています。有名なものは、旧高山市役所（市政記念館）、東小学校（現存せず）、押上邸、平瀬酒造場旧三星製糸場などです。彫刻については、腹違いの息子 三枝伊兵衛が得意としており、馬瀬の桂林寺の経蔵の彫刻などが有名です。彼の作品ではないかと思いましたが、証拠がありません。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e39073.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sat, 09 Feb 2008 21:44:42 +0900</pubDate>

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<title>了泉寺の本堂</title>
<description>今日は、了泉寺さまに伺って、開基などいろいろとお聞きすることができました。その折、本堂を見せていただきましたが、昔、専念寺から火が出て類焼したときに、霊雲寺の旧本堂が、恩林寺に行っていたので、ご縁があって譲り受け、移築したとのことでした。昔は、お寺などはいい材料で作ってあったので、移築するケースが多かったんです。伝承ですが、有名な飛騨の匠の作品だということでした。棟札などは残っていませんのでわかりませんが、虹梁の雲の形からすると、谷口家のくもの形によく似ていますので、谷口家の人の作品ではないかと思いました。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e37377.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Fri, 25 Jan 2008 18:56:39 +0900</pubDate>

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<title>常蓮寺の聖徳太子像</title>
<description>神岡町吉田の常蓮寺には、先日お話した「聖徳太子像」が保管されています。年に一度、「太子踊り」のとき（毎年７月第４週日曜日）に公開され、檀家の皆さんに御披露されます。今年初めて、太子踊りを初めて見に行ったときに、その御尊顔を拝することが出来ました。</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e31009.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Tue, 04 Dec 2007 07:10:00 +0900</pubDate>

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<title>鶴を彫った場所（鞍作止利の伝説３）</title>
<description>鞍作止利は、奈良時代に都へ上り、伝説の鶴を彫ったと言われています。一説によると、信楽宮の造営のときに、鶴を彫り、唐の国に渡ったとされています。その場所が、先の匠展のときに確認されました。滋賀県の栗東市の山の中に、「大鳥居」という場所があります。その場所で、止利が鶴の彫刻を彫ったという伝承があることがわかりました。歴史のロマンが広がります。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e31006.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sun, 02 Dec 2007 00:10:00 +0900</pubDate>

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<title>鶴の墓（鞍作止利の伝説２）</title>
<description>平成１９年７月２１日から９月９日まで高山市の「飛騨世界生活文化センター」で行われた「飛騨の匠展」にて、次のような展示を行いました。福岡県の博多には、鞍作止利の乗った鶴の墓が存在し、福岡市史「大宰府市史」（200119GAKUさん、よりの情報）にその記述があります以下は、福岡市史「大宰府市史」に実際にある記述です。「鶴の墓（榎寺）榎社の前、踏み切りのすぐ傍らに、楕円形の自然石が立っている。これを「鶴の墓」または「碑」といって、木で作った鶴が、空を飛んだ話が伝わっている。昔、飛騨の匠が、木で大きな鶴を作った。すばらしい出来栄えで、匠はそれに乗って空を飛んでみたいと思った。匠がつるの背にまたがると、その鶴は、ゆっくりと羽ばたいて、青空高く見事に舞い上がった。鶴は匠を乗せて飛び続け、唐土（中国）まで行った。やがて、日本へ帰る途中、唐土の人は怪しんで、匠と鶴に向かって遠矢を放った。鶴の片方の羽は矢が当って折れてしまった。匠は片羽になった鶴をあやつって、ようやく大宰府のあたりまで飛んで来たが、とうとう力尽きた鶴は榎社の近くに落ちた。匠は、鶴をいとおしんで、そこに手厚く埋葬し、故郷の飛騨に帰ったという。　この鶴の片羽が折れて落ちた海辺の津を「片羽の津」といい、やがて転訛して「羽片の津」となり「博多の津」となったといわれている。　他に、飛騨の匠ではなく、博多の大工の名人が木で鶴を作り、不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」、現在の小字鶴畑あたりだ、という話も土地に伝えられている。（博多市史　第五編　文化伝承　第3章口頭伝承　P1034）徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e31003.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Sat, 01 Dec 2007 22:18:36 +0900</pubDate>

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<title>月が瀬伝説２</title>
<description>先日お伝えした「月ケ瀬伝説」の少し違った見方があるようです。飛騨木工連合会（監修：匠学会）の発行した「新飛騨の匠物語」には先日掲載したものと、少し違った記述がされています。「飛騨の匠（止利仏師）　むかし、九郎兵衛という百姓が小鳥川に沿う余部の里に住んでいました。来る日も来る日も暗いうちから、山仕事に、田畑に精出しても暮らしは少しもよくなりません。さらに九郎兵衛を暗くしたのは、一人娘の忍のことでありました。　　忍はうまれつき見るにたえないような醜い顔の女でありました。２５歳をすぎたというのにお婿さんも見つかりません。「困ったなぁ、あの娘には」「早いこと婿をさがさにゃ、おれたちの末が心配じゃ」こんな話を聞くにつけますます自分の醜さが恥ずかしくなり外にも出ず、一人寂しく夜じゅう泣いて泣き通したこともありました。　今年も村祭りがやってきました。一年一夜の楽しい村祭りの夜、忍はにぎやな鎮守の森へはいかず、川辺の淵にぼんやりとたたずんでいました。淵には、満月の月が映っていました。遥か籾糠山から一羽の鳥が川に映る月影に飛び込んだのであります。忍は美しい月影をすくって飲みほしました。　このことがあってから、この里には月影が映らなくなり里人はこのあたりを月ヶ瀬と呼ぶようになりました。月影をすくって飲みほした娘忍は、不思議にも身ごもってしまいました。九郎兵衛は、父親のいない子を生むなんてそんな恥ずかしいことはないと、人里離れた山中に住まわせました。「お月さまより授かった子」「天より授かった子」といわれ、この土地を「天生」と呼ぶようになりました。　生まれた子供は、鳥のような首をしていたので人々は「鳥」と呼びました。鳥は小さい頃から神技的な才能をもっており、鳥が作った木彫りの人形は人間のように働きました。鳥はその人形をつかって一日で田を造り稲を植えました。稲は一夜のうちに実り、夜が明けてみると穂が垂れていました。脱穀をした籾殻で山ができたそうです。　その住居跡が、今でも天生湿原に匠屋敷として残り、稲田は田形（天生湿原）をなし、両方合わせて「田形屋敷」と呼ばれ、籾がらの山は「籾糠山」と呼ばれています。　鳥は１７歳にして旅立ちをしました。鳥はその後「止利仏師」として名を残し、法隆寺の金堂には釈迦三尊像・壁画等の作品が残っています。 　　　　　　　　　　（河合村発行の「パンフレット」より転載）　　　　　　　　　　　　　　（資料提供/かわい夢らんど塾）」やはり、伝説と言うのは、いろいろと脚色されて伝わっていくものなんですね。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e30651.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Thu, 29 Nov 2007 00:28:42 +0900</pubDate>

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<title>両面スクナの想像図</title>
<description>画像で紹介できないのが残念ですが、両面スクナの想像図を紹介しています。これは、三重大学名誉教授で郷土館名誉館長の八賀晋先生の論によるものです。両面スクナはソマ匠の棟梁だったー一面。そして、武人としてのリーダーだったーーと言う一面。の２面を持っていたと考えられます。時代は４世紀から５世紀にかけて、飛騨一帯には、飛騨人と言う民族が住んでいました。そこには、木の加工技術に長けた人がたくさん居て、木の伐り出し方、加工の仕方など詳しく知っていました。あるとき、大和朝廷は全国統一をはかろうと、全国へ兵を送ります。平和に暮らしていた飛騨の人達は、侵略者から身を守るために最後まで抵抗します。ところが、大和朝廷側の人達は、朝廷に逆らう人達を「悪人」と決めつけ、兵の志気を高めようとしました。そのため、抵抗する人達は、「蝦夷＝えみし」「熊襲＝くまそ」「スクナ」などと怪物のような名前をつけて敵と位置づけました。そのことが、後日７世紀に書かれた「日本書紀」に見られる名前です。７世紀の時代になって、全国に国分寺・国分尼寺が建造されたとき、飛騨の人達は、技術をもっていたために重用され、匠の技術者として全国に散らばって行きました。これが飛騨の匠です。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e17573.html</link>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Wed, 25 Jul 2007 04:57:59 +0900</pubDate>

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<title>いよいよ始まりました「飛騨の匠展」</title>
<description>すっかりご無沙汰してしまいました。やっと7/21から、飛騨の匠展がスタートしました。このところ、連日の徹夜作業で、大変くたびれました。どうにか、オープンにこぎつける事ができました。５０年ぶりの、大工さんの顕彰を行なっているのが４コーナーです。是非一度はご覧下さい。徳積善太</description>
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<category>飛騨の匠調査内容</category>
<pubDate>Wed, 25 Jul 2007 04:44:51 +0900</pubDate>

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