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<title>飛騨の歴史再発見！</title>
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<description>ヒッツFMにて毎週月曜夜７：３０から放送している歴史番組。（再放送土曜日午前１０:３０より）飛騨の隠れた歴史をわかりやすく解説します。どうぞ応援をよろしくお願いします。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Sun, 01 Apr 2007 23:55:17 +0900</pubDate>
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<title>金森可重の名古屋築城</title>
<description>慶長14年、名古屋築城の普請を仰せつかった、金森可重は、他の武将と共に、名古屋城の普請にとりかかりました。今回、T美術館のO文庫で、その資料を発見しました。その資料には、二の丸の隅櫓の石垣関係の仕切りを稲葉小左衛門、時任文左衛門と共に仕切ったことや、二の丸の壁　四間五尺七寸を担当したこと。他の20人ほどの武将と共に担当したことなどがわかりました。御殿守并小殿守除テ惣坪数二万二千三百八拾三坪六歩三厘高五面八拾六奮七千四面五十八石ニ付割府高十万石に府三十八坪一分五厘ツツ　　　　　　高五十二万二千五百拾石六厘加テ一　五千七十六坪七歩二厘　　　松平筑前守　　　此外四十四坪九分八厘素延　但凡そ○○ニテ相済　　　　　　高四十万三千石　　　右同一　千五百三十七坪六歩　　　　　黒田筑前守　　　内二分　　　　○上　　　　　　高三十九万石　　　　右同一　千四百八十八坪　　　　　　　羽柴越中守　　　内一分五厘　　○上　　　　　　高重々六万千百四十六石八歩　　　同一　千七百七十坪七歩二厘　　　　銑場信濃守　　　○○延ナシ　　　　　　高三十九万二千七百拾石壱斗　　　右同一　千四百九拾八坪二歩　　　　　田中筑後守　　　○○延ナシ　　　　　　高十二万二千六百八十九石八斗　同一　四百七十六坪三号弐厘　　　　寺沢志摩守　　　内一坪参百弐厘○上　　　　　　高参萬四千七百石　　　右同一　九拾四坪三歩　　　　　　　　毛利伊勢守　　　内七厘　　○上　　　　　　高二万六千石　　　　　右同一　百坪九歩　　　　　　　　　　竹中伊豆守　　　内一坪七歩　○上　　　　　　高六万五千七拾八石　　　同一　二百四十八坪七歩　　　　　　稲葉彦六　　　内四歩三厘　　○上　　　　　　高参萬九千石　　　右同一　百四十八坪八歩　　　　　　　木下右衛門太夫　　　未進○上ナシ　　　　　　高四万九千九百三拾四石　　　右同一　百八十九坪四歩　　　　　　　金森出雲守以下略徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Thu, 06 Nov 2008 21:35:09 +0900</pubDate>

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<title>古川の増島城の全容</title>
<description>今回、金森展で展示させていただきましたが、古川の増島城は、このような配置になっています。増島城の城跡は、ご存知の通り古川小学校のグランドにあたりますが、平成に入ってから、数々の調査がなされてきました。今回、展示にあたり、次のような写真を展示しました。トレンチといって、全体の地図から掘る場所を割り出し、その場所を部分的に掘る方法が取られました。トレンチ調査を行ったところ、グランドの下から古い石垣が現れました。現在は、埋め戻して、元のグランドに戻っていますが、今でもグランドの下にはお城の遺構がちゃんと残っています。今度、古川小学校が建て替えられるそうですが、こういった遺構を残すようにして、次世代に継承したいものですね。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sat, 01 Nov 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>大坂冬の陣で戦った、金森軍と金森軍</title>
<description>金森展も終わって、すでに1ヶ月以上がたちます。今回の飛騨市での金森展で展示しました「大坂冬の陣　陣配置図」をご覧いただきましたでしょうか。この陣図には、金森出雲守（可重）の名前のほかに、金森掃部介可憲と金森主殿義隆という2人の人の名前を見ることができます。この方々が、どういう人なのか。系図によると金森長近の兄の子供になるようです。それについて、金森展では、このような展示をいたしました。さて、それから、あちこちの資料を調べて、この2人について調べてみましたが、確証となる証拠が見つかりません。子孫と思われる人の資料は、加賀藩、尾張藩からそれぞれ見つけました。どなたかご存じないでしょうか？徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Fri, 31 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>増島城を壊したのは誰か？</title>
<description>元禄8年、幕府は加賀藩に命じて、高山城の破却を命じました。では、旅館となっていた、増島城、諏訪城(萩原）、下原旅館は誰が壊したのでしょうか。おそらく、同じく加賀藩が破却したものと思われます。それに関する記述あるいは日記などが、加賀藩＝石川県に存在していないかと思い、いま調査中です。以前、地元の歴史研究家　大野政雄先生が、金沢大学に赴かれ、調査されたとのお話を伺ったことがあります。しかし、のべ５回ともいわれる加賀藩のお城番に関して、資料が全く見つからなかった事。地元には、盆踊りの飛騨やんさに「お城番　こたえかねたよ加賀の衆が」という歌で伝わっている程度で、破却に関する資料が全く存在しない事。などから、お城の全体の規模、破却状況、費用、その他について一切、不明の状況です。増島城に関しても、「高山城と同時期に破却されたと思われる」だけで、その史実につきましては、一切不明です。そのため、増島城の全容を解明する意味でも、幕府から破却命令を出され、城の一切を壊す段取りをした加賀藩の資料や、そういったことを記した日記などがそちらに存在しないかと思っています。手元にある「飛騨編年史要」（編）（岡村利彦著）・飛騨大野郡史(郡)・高山市史に拠れば、高山城の破却に関しては、次のようになっております。元禄5年(1692)壬申　7月28日　金森頼とき、出羽上山へ移封される。　　　　　　　　　　8月22日　金沢藩主松平加賀守綱紀、高山城在番を命じられる（郡、編）　　　　　　　　　　※金沢藩の在番は元禄5年10月2日から同8年の2月12日までの五交替で　　　　　　　　　　　中止となり、同年4月22日から破却総奉行　奥村市右衛門によって破却が　　　　　　　　　　　始り、6月15日に終了（高山市史）　　　　　　　　　　8月29日　高山城下の状況を金沢藩に報ず（郡）　　　　　　　　　　9月12日　頼とき、書を左京近供へ送り、素玄寺・大隆寺両寺にある歴代遺骨は　　　　　　　　　　　　　　　　　京都金龍院へ移し、寺坊は破却しないように告げる。(編)　　　　　　　　　  10月朔日　目付浅野伊左衛門高山へ着し、金森家給人の城下引払期限を城引渡日　　　　　　　　　　　　　　　　から三十日と定め、これを掲示す。（編・郡）                    　10月3日　金森兵庫・森四郎右衛門ら、高山城地その他を伊奈半十郎へ引渡し、　　　　　　　　　　　　　　　　永井織部入城して警備に就く（編・郡）　元禄八年(1695)乙亥　1月12日　幕府、高山城の破却を金沢藩へ命ず（郡）　　　　　　　　　（編年史要には、2月13日とある）　　　　　　　　　2月24日　高山城破却に要する諸道具並びに人足を見積る（郡）　　　　　　　　　　4月22日　伊奈代官、金森向屋敷を高山陣屋と改め、ここで政務を見る。（郡）　　　　　　　　　（編年史要には、元禄五年十月とある）　　　　　　　　　　4月　　　　金森左京屋敷を破却（高山市史）数多くの資料を見ても、高山にとっては一大事であった、高山城の破却や、古川増島城の破却といった事実が、これだけの文章に閉じ込められ、その詳細についての一切が不明という状況になっているのが現状です。どなたか、ご存じないでしょうか？徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Wed, 29 Oct 2008 21:52:25 +0900</pubDate>

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<title>10月20日放送分＿伏見城下での金森家</title>
<description>（10月20日放送分）みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。この番組は、飛騨の生涯学習者第二号　わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。もう10月も半ばになりました。ついこの前、あんなに暑かった夏だったのに、気がついてみたら随分涼しくなりましたね。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズンとして、毎日、たくさんのお客さんで賑うといいですね。さて、放送の前にお詫びを申上げたいと思います。実は、先々週の放送で、八幡祭りの屋台が今年も10台しか出なくて、来年から11台揃うようなお話をしましたが、残念ながら、来年も10台の屋台しか見ることができません。八幡祭りの鳳凰台は、3年間の修理に入っているらしくて、昨年から来年に掛けての話だそうです。お詫びして訂正させていただきます。私も、充分にお調べしてお話しているつもりですが、ときどき、こういう間違った情報をお伝えする事もあろうかと思います。そのときは、ぜひともお知らせいただきますようにお願い申上げます。さて、今日は、第三週ですので、古川のお話をしたいと思います。先週予告しましたのは、金森家についてのお話ですが、先月、9月1日から24日まで、飛騨市美術館のほうで、「金森家とまちづくり」展を開催しました。皆さんご覧いただきましたでしょうか？　お陰さまで、連日、たくさんのお客様にご覧いただいたようですが、遠くは名古屋や、金山などからもお客様に来ていただきました。関係者の1人として御礼を申上げます。金森家のことについては、今までは、高山の金森顕彰会ですとか、飛騨歴史民俗学会ですとか、また個人の研究者の方によって検証されてきました。ただし、どちらかというと、高山の金森家を中心にした検証が行われていましたので、金森長近の直系の方のことが中心だったように思います。今後、関ヶ原の合戦のときの動きですとか、大坂冬の陣・夏の陣での動き。また、浄土真宗との複雑な関係など、血縁を含めて再検証をしていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。ちょっとここで、先月、お話した内容を振り返って見ましょう。9月15日の放送分では、増島城が築城されたときのお話をさせていただきました。江戸時代に書かれた「飛州史」という本に記述されている増島城の場所や掘割がどのようになされていたかについて、お話しました。また、願生寺由来記という本をご紹介し、増島城が作られたときの物語をお話しました。願生寺由来記また、9月22日の放送では、高山の城主だった金森長近という人がどのような家に出生したのか。そして、2代目の高山城主となる金森可重という人を養子にするのですが、彼とはどんな関係があったのかについて、お話しました。私も今まで知らなかったのですが、長近が、幼少のときに大畑可近といったのですが、金森を名乗る前に、垂井にいた長屋氏に助けられて、頼った事があったこと。後に長屋氏が板取の城主だったときに、信長に攻められて、人質として可重（喜蔵丸）を信長に出し、その養育係だったのが長近だったということを知りました。当時は、三木自綱に代表されるように、親子・兄弟といえども信用できない時代だったということを考えると、逆に命の恩人などという関係を大事にしていたということには、大変驚きました。さて、本日のお話ですが、今日は、当時の金森家がどのような状況だったのかという事をお話したいと思います。まず、飛騨平定後の金森長近ですが、彼は、豊臣秀吉のお話衆として、ほとんどを秀吉のそばで暮らしました。したがって、飛騨を平定したとはいえ、彼の任務は、お話衆としての任務が殆んどでしたから、生活の拠点は京都の伏見にあったと思われます。伏見の城下図を見ますと、金森長近（いや、このときは、剃髪して法印を名乗っていました）が、法印の屋敷は、伏見城の二ノ丸のすぐ外側にありました。この場所は、他の武将達と一緒に肩を並べる形で屋敷を持っていたわけですが、ご近所さんで有名な方をちょっとご紹介しましょう。屋敷の少し南には、松平駿河の守＝徳川家康。その隣に島津右馬頭、北には、福島政則。すぐ近所には、茶の湯の古田織部などが名前を連ねていました。ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「川島英吾で　酒と泪と男と女」をお届けします。-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------今日の飛騨の歴史再発見は、金森家のお話をしております。　当時、徳川家康は、ご内府様と呼ばれて、その地位は、相当高い、豊臣の次くらいの位置を占めていましたから、金森長近の屋敷がそのすぐそばにあったということは、長近という武将も相当、信頼されていた1人であったということができます。　ここで、ちょっと京都東本願寺の創設だった、教如上人のお手紙の事をお話したいと思いますが、岐阜県揖斐郡の光慶寺というところに伝わっている、教如上人が古田織部に宛てた手紙が現存しています。そこには、「茶の湯に誘われたお礼が述べられていますが、午前中に、古田織部のところへ行って、午後から金法印（金森法印のこと）のところへ行ってお茶をご馳走になる（云々）」などと書かれています。　東等寺の竹田ご住職がかねてからこの事に疑問を持っておられ、古田織部の家と金森法印の家とはどのくらいはなれているのか、という疑問から、伏見城下の絵図を見て調べたところ、目と鼻の先であることがわかりました。距離がどのくらい離れていたのか、当時の地図では計りようがありませんが、当時の道路幅が５ｍほどだったと仮定すると、道幅から推定して２０ｍほどでしょうか。いずれにしても随分と近いところに住まいがあったようです。また、飛騨出身の歴史研究家、多賀秋五郎先生がお書きになった「飛騨史の研究」という本には、次のようなくだりがあります。「同じ客将でも常に家康が疑惑の眼を放さなかった福島政則の如きと、常に本陣近くに居らせた長近の如きとでは、信用の程度に非常な差違がある。教如が新寺創立斡旋の労を長近に懇望した事は、豊臣氏恩顧の多くの武将が只管家康の疑惑を恐れて居た際だけに、如何に長近が信用され、又世間もかう見て居たか、家康と長近の関係を知る好史料であらう。」　いかに、金森長近という人が、豊臣秀吉や徳川家康に信用されていた人物であったか、うかがい知る事ができます。高山城と古川城、私達のお城を築いたお殿様は、ものすごい人だったんですねえ。　　さて、先ほどお話した伏見城下絵図には、あと2箇所、金森の屋敷跡と思わせる場所があります。一つは、金森出雲守の屋敷跡。そしてもう一つは、金森法印の屋敷跡です。この金森出雲守屋敷跡というのは、現在でも京都市伏見に「金森出雲町」という町名が存在する事が知られています。つまり、金森出雲守、当時は金森可重の屋敷があった場所です。地図で見ると、先ほどお話した金森法印などの屋敷の集団がある場所のお堀の外側にあたります。丁度、お城からすると南東の方角にあたりますが、堀の外に鍵の手になった場所があります。そこに屋敷がありました。この場所からすると、お城に入るための門前ということになりますから、防備の上では、門外を守る重要な役目を負っていたものと思います。　最後に、金森法印屋敷跡ですが、これは、伏見城下の絵図を見ると、掲載されているものと掲載されていないものがあります。なぜかというと、お城の外側にあたる場所。つまり、城下の外に屋敷があったらしいからです。したがって、城下の絵図としてみると、城下に含まれるか含まれないか、絵図の作者によってそのコンセプトが分かれるところでしょうから、入っていないものもあるものと思われます。　ところで、この伏見城が築かれた頃というのは、秀吉の目は、遠く韓国に向けられていた時代でもありました。歴史の時間に習いましたよね、文禄の役と慶長の役。熊本の加藤清正が熊退治をした話でも有名な２つの朝鮮征伐ですが、秀吉は全国統一を果してからでも、新たな敵を求めて、戦争を繰り返していました。金森長近も可重も彼について、福岡県の名護屋というところに陣取っていたようですから、実際にはこのような屋敷を伏見に持っていたとはいえ、あちこちの戦闘に借り出されて、長期間滞在するという事はほとんどなかったようです。さて、本日も時間となりました。来週は、南方山と北方山の運材のお話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみに！今日は、この曲でお別れです。曲は「竹内まりあ　シングルアゲイン」ではまた、来週！徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Mon, 20 Oct 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<title>越前朝倉氏遺跡</title>
<description>朝倉氏は越前一乗谷で11代に渡り、この地を治めてきました。かつてはここに人口一万人の町があったそうです。</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Fri, 03 Oct 2008 09:50:32 +0900</pubDate>

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<title>面食いだった、可重</title>
<description>「英雄、色を好む」とは、かの有名なナポレオンをさした言葉ですが、我らが二代高山城主金森可重も、美形好みの男性だったようです。彼の初婚は、天正3年。当時、金森長近は、わずか6ヶ月で越前大野を平定し、原氏と共に越前大野を知行する大名へとのし上がり、原氏が1/3、長近が2/3を知行しました。そのときに、隣国、郡上八幡の城主　遠藤慶隆との間で、縁戚関係を結ぶ政略結婚であったと思われますが、慶隆の娘　室町殿を迎え、夫婦となります。その間に生れたのが、重近（のちの金森宗和）だったといわれています。その後、名護屋因幡守高久の娘を妻としますが、この人は、当初、津田織部へ嫁いでいましたが離縁されて、伊勢の弟のところに住んでいたのを、可重に見染められて来た、かなりの美女だったようです。時が定かではありませんが、三木氏の系統　宮の山下氏の娘も可重の側室として嫁いでいたようです。その系図には、「美人なり」と書かれています。もう一人、江馬氏の娘を側室にしています。これは、のちに金森左京となる重勝の母です。彼女が美人だったかどうかは、わかりません。あと一人、これは最近になってわかったことですが、伏見にいたときにも側室がいて、二人の子供をもうけています。そのうちの一人は、可重が亡くなった翌年に生まれ、すぐに本願寺の宣如上人に預けられて育てられ、後に井波の瑞泉寺の第10代住職として迎えられた宣良という人がいました。可重の側室などについては、詳しく調べられていませんが、私が確認したところでは5人の妻がいたと思われます。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 21:45:18 +0900</pubDate>

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<title>金森展後片付けをしました</title>
<description>昨日は、金森展の後片付けをしました。朝7時半から、文化協会の方や関係者の方が協力して、借用品の返却と会場の後片付けを行いました。夕方から雨が降ってきたので、晴れている午前中に返却を完了することが出来てよかったです。それにしても、終わってみると、ずいぶんガランドウとした感じの会場であると思いました。　使用したキャプションなどは、またの機会のために保管されることになりました。一番大きな手作りの増島城の掲示板は、今度名古屋の「なごやまつり」に展示が決まったので丁寧に梱包されました。期間中の入館者数は、休日を除いて正味21日間の開催で900名を超えたそうで、今まででもっとも入館者の多い展示となったそうです。会期中、来ていただいた方には、ありがとうございました。夜は、深夜遅くまで、関係者の打ち上げ！がありました。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Fri, 26 Sep 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<title>人気のうちに閉幕「金森家とまちづくり展」</title>
<description>「金森家とまちづくり展」　9月1日より24日まで、飛騨市美術館にて開催しておりましたが、昨日、好評のうちに幕を閉じることが出来ました。関係者の一人として、御礼申し上げます。今後は、飛騨市に「金森顕彰会」が、9月13日に設立されましたので、金森可重公を中心とした金森家の顕彰を行って行きたいと思います。また、飛騨市の古川といえば姉小路氏の地盤として、あるいは、飛騨市の神岡の江馬氏の基盤として、歴史的には、伝統の残る地域です。そういったものを、検証し、顕彰できればと、飛騨に誇りをもとう実行委員会では考えておられます。私も協力していきたいと思いますが、飛騨の隠れた歴史文化、歴史遺産を少しでも表に出すことで飛騨の観光、文化の発展に寄与したいと、このブログに関しても同じことを思っております。今後とも応援をよろしくお願いいたします。なお、今回の展示の一部分が、名古屋の栄で開かれる「名古屋まつり」に展示が決まりました。10月の11-13まで。名古屋の栄で、増島城の地図などの展示が行われます。お近くに行かれる方は、ぜひご覧いただきたいと思います。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Thu, 25 Sep 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<title>田島の首塚</title>
<description>関ヶ原の戦いの前、1600(慶長5年)8月28日、西軍の郡上八幡城主 稲葉貞通と東軍の加茂白川小原城主 遠藤慶隆(元八幡城主)とが戦った古戦場です。この塚は、その戦死者を葬った墓です。近年までこの付近には、胴塚、足塚もまつられていましたが、現在はこの首塚と馬塚だけが残っています。この地で勝利した慶隆は、高山城主 金森可重と結んで八幡城を攻め落とし、再び八幡城主となりました。下呂市金山町田島地区に残る首塚です。</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e72175.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Wed, 24 Sep 2008 12:50:47 +0900</pubDate>

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<title>金森展明日までです！</title>
<description>金森展は、24日までの展示です。今日は、準備段階の画像を掲載したいと思います。増島城の詳細な絵図は、ゼンリンの住宅地図をもとに、堀の部分には青のシートを貼りました。深夜まで、地図を正確に作るために、作業が行われました。当時の道路の部分には、茶色のシートを切って貼り付けました。川の部分、宮川と荒城川、瀬戸川は水色の絵の具で仕上げました。仕上がった、増島城の地図です。キャプションは、何度も校正して修正を重ね、スプレーのりで貼り付けました。展示物の角度、キャプションの位置などを細かく調整して展示しました。こうして、深夜遅くまでの作業を2日間行って、展示を行ったわけです。こういった準備には、それまで、資料の製作、キャプションの製作、調査、資料集めなど裏方の作業がものすごくあったわけです。私も大変忙しい思いをしましたが、こういう展示で初めて知った事柄などもあり、大変勉強になりました。どうぞ、開催は明日までです。まだの方は、お時間を作ってご覧ください！徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e71831.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Tue, 23 Sep 2008 08:00:00 +0900</pubDate>

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<title>金森展覧会あと3日です！</title>
<description>「金森家とまちづくり展」が、飛騨市美術館にて開催中です。24日までです。まだの方は、ぜひお越しください。今日は、高山市のシルバーボランティアガイドご一行様の訪問がありました。シルバーボランティアガイドの皆さんは、普段から高山市の観光案内に一役買っておられます。金森氏のことについて非常に興味を持っておられました。2時半に、到着されたご一行は、飛騨古川ふるさと案内人会の代表の森さんの飛騨古川観光のガイドで、古川町内の観光をされてから、飛騨市美術館にこられました。私と茂住さんのガイドで、今度は、金森展の案内をさせていただきました。思わず熱のこもった案内となってしまい、1時間半という長時間の案内となりました。「金森可重のことを、あまり知らなかったが、大変勉強になった。」「よく調べてあって、すごく参考になりました。」とのお言葉をいただきました。金森展閉会まであと3日。まだお越しになっていない方は、ぜひともご覧ください。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e71822.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sun, 21 Sep 2008 22:58:39 +0900</pubDate>

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<title>稲葉先生の講演会</title>
<description>今日は稲葉先生の講演会におじゃましました。姉小路の歴史や、荒城川の変遷、古川の遺跡などについてのお話がありました。いろいろ知らないことがたくさんありました。飛騨の歴史は奥が深いです。</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sat, 20 Sep 2008 20:44:14 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました６</title>
<description>長敬寺山門郡上八幡への浄土真宗の伝播は、高橋先生によると、高山に移った照蓮寺の系統が一つで、それは、長敬寺を中心として広がりました。そしてもう一つは、越前大野にあった、最勝寺の系統の2つだそうです。かつて、最勝寺は、越前大野にあり、越中加賀の一向一揆が起った頃に、教線拡大のため越前大野から郡上八幡へ移ってきたそうです。そこで、白鳥の長滝寺の檀家を中心に教線を拡大し、一大勢力となっていったとのことでした。摂津石山本願寺の戦いのときに、飛騨へは、願智坊（常蓮寺）にあてた「顕如上人のご消息」(写真)をもって、仏敵信長に対抗しようと、飛騨の信者に向けて急ぎ本願寺に集まり、信長と戦うのに力を貸してくれるように、顕如が呼びかけました。当時は、東も西もなかったので、願智坊→照蓮寺（白川中野）→飛騨の各寺院に呼びかけられたルートと、願智坊(常蓮寺）→聞名寺傘下の飛騨の各寺院に呼びかけられたルートと２つありました。郡上では、照蓮寺→長敬寺→郡上の各寺院に伝えられたルートと、越前大野の最勝寺→郡上の浄土真宗の寺院に呼びかけられたルートの２つがあったようです。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e71341.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Thu, 18 Sep 2008 22:09:39 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました５＿大乗寺様訪問</title>
<description>郡上八幡の大乗寺様へお邪魔してきました。和尚様は、高橋先生といって、郡上の町史編纂の編纂委員をなされていた方で、いろいろと伺うことができました。まず、金森可重と奥さんの関係について、お尋ねしました。遠藤慶隆と言う人の娘で、のちに室町殿と呼ばれる方が、金森可重の奥方でした。天正3年に、金森長近が、越前大野を平定した頃に、金森可重は、長近の養子となります。そこへ、遠藤慶隆の娘を奥方として迎えたようです。とかく、戦国時代は、娘を政略結婚に使ったようで、面白い構図がわかりました。斎藤道三の娘　お濃は、織田信長に。　次女は、金森長近に。三女は三木自綱にとついでいます。また、遠藤慶隆の妹は、三木自綱に嫁いでいます。妻は、三木自綱の妹をもらっています。娘は、金森家にとついでいます。そして、慶隆の子供がありましたが、早世したために、自綱の孫（直綱）を養子として迎え、二代目を継がせています。三木氏が、天正初期に萩原の桜洞城に居城していた頃、盛んに郡上八幡方面への侵攻を行っていたようで、明宝村畑左地区にいた、畑左氏を盛んに攻め、結果的に遠藤氏が降伏したために、妹を差し出すことになりました。その方は、山本殿と言ったようです。なんともまあ、複雑な政略結婚の関係が、広範囲で浮き彫りになってきました。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Tue, 16 Sep 2008 23:42:16 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました４</title>
<description>宝暦騒動金森頼錦は宝暦４年(1754)、財政改革の一環として年貢の徴収を検見取（毎年の出来高により徴収率を変える）に改めましたが、各村での反対が強く嘆願書が藩に出されました。この嘆願が拒否されると百姓達は南宮神社（八幡町）に集まり、さらに城下へ強訴を行いました。この騒動は三家老の書状でひとまず収まり、翌年、庄屋たちが笠松代官所へ呼び出され承知させられたことから騒動が再燃し、那留ケ野（白鳥町）で傘連判状がつくられ反対組織がつくられました。反対運動は立百姓と寝百姓の分裂を生みながら老中酒井忠寿への篭訴、歩岐島騒動、箱訴とだんだんエスカレートし、ついに宝暦8年(1758)藩主改易、首謀者処刑をもって決着しました。ここには書かれていませんが、岐阜県内で起った百姓一揆で、唯一、藩主が負けた騒動として有名な騒動です。また、一説によると、当時、寛政の改革で有名な老中松平氏と田沼意次の政権争いに巻き込まれた騒動でもあったようで、金森頼錦が百姓一揆を押さえ込めず困ったところ、笠松代官に相談したことも騒動を中央の政権抗争をも巻き込んだ、一大騒動へと発展させたようです。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sun, 14 Sep 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました３</title>
<description>金森可重と遠藤慶隆の関係についてですが、知らないことがたくさんありました。「郡上古日記」というものから取った系図が陳列されていました。まず、遠藤慶隆の妻ですが、妻は、天正十三年に金森氏が飛騨を征する以前に知行していた三木自綱の妹でした。彼らの間には、一人の子供（慶勝）がありましたが早世しました。そのため、彼らは、養子に慶利（遠藤家3代目郡上八幡城主）を迎えますが、実はこの人、三木自綱の子　直綱の子供に当たりますから、自綱の孫ということになります。天正十三年、飛騨は金森氏によって平定されますが、三木自綱は、高堂城に。子の秀綱は松倉城にて戦いますが、金森氏に内通した家臣によって城内に火を放たれ、それを合図に総攻撃を受け、松倉城を追われます。秀綱は信州に逃げますが、途中で土民に殺されました。三木自綱は、高堂城を追われ、家臣の長瀬甚平とともに京都へ行き、京都の地でなくなりました。甚平が、高野山に葬ったとの記録があります。ということは、三木の血は、絶えたのではなくて、しっかりと郡上八幡の地に根付いていたことになります。また、金森氏とは、幾度の戦功で共にして、三木を滅ぼすほうに付くわけですから、戦国時代というのは非情な戦いの場だったんですね。郡上八幡城は、遠藤氏の代は7代まで。その後、井上氏が二代治め、金森氏が上山から再転封となって二代治めます。このときに、宝暦騒動（郡上一揆）が起り、農民が殿様に勝ちました。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Sat, 13 Sep 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました２</title>
<description>郡上八幡といえば、先の大河ドラマ　「功名が辻」の主人公　山内一豊の妻　の出生地として話題に登ったことがありました。そのことについて、大きく展示がなされていました。郡上出身　山内一豊の妻千代（見性院）山内一豊公の妻千代は、初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生れました。盛数は、郡上を統一したわずか3年後に病気で亡くなりました。そのとき千代はわずか3歳。息子の慶隆は13歳。家来達のすすめで慶隆を守るため、盛数の奥方は、関の安桜（あざくら）城主永井隼人と再婚しました。　永井隼人は、織田信長に一代反抗した武将で、信長に滅ぼされた後、奥方（盛数の妻）と千代は織田勢の残党狩りを逃れ、近江に身を隠し、やがて山内一豊のもとに嫁いだと伝えられています。　その後、千代の内助の功により一豊公は、土佐24万石の藩主に出世しました。遠藤氏の系図これによると、金森可重の妻　室町殿からみると、見性院（千代）は、叔母さんにあたります。また、可重の父親、長屋氏は、関のすぐ近くの板取というところの城主としていたことがあり、織田信長が攻めてきたとき、永禄14年に降伏しました。そのため、可重（喜蔵丸）が6歳のとき、信長に人質として預けられたことがありました。戦国の世の中、こういった人間関係が政略結婚という形でいろんな縁を生んでいたのですね。徳積善太</description>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Fri, 12 Sep 2008 21:00:38 +0900</pubDate>

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<title>郡上八幡へ行ってきました１</title>
<description>今日は、郡上八幡へ行ってきました。金森可重の妻＝室町殿が、郡上八幡城主　遠藤慶隆の娘ということを知ったので、いろいろと調べています。今日は、郡上博覧館へお邪魔しました。東常縁の人形八幡城の戦い　慶長5年(1600)慶長5年、関が原の戦いの前哨戦として9/1（関が原は9/15）に郡上八幡城主　稲葉氏(西軍)をやっつけるために、金森可重と遠藤慶隆の連合軍（東軍）が家康の命をうけて、戦いました。主力は、遠藤慶隆が稲葉氏を攻めましたが、一進一退の戦いの後、一旦、遠藤氏は金森可重の陣に逃げ込みました。そのあと、総攻撃をかけ、二の丸あたりで、激戦となり、稲葉氏が和睦を申し出ました。結果的に、金森と遠藤の連合軍が勝利し、稲葉氏は逃げ落ちました。金森可重は、遠藤慶隆の娘を天正3年に娶ったため、遠藤氏とは縁戚関係にありました。天正三年といえば、金森長近が越前大野を信長から知行地として拝領したときです。当時は、隣国の武将と、親戚関係になることで、知行地を守るような政略結婚が盛んに行われていたようですね。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e70271.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Thu, 11 Sep 2008 22:58:10 +0900</pubDate>

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<title>金森家とまちづくり展１１</title>
<description>江戸時代に長谷川忠崇という代官がいました。この代官は、将軍徳川吉宗の命により飛騨地方の歴史を書いた「飛州志」を編纂しました。ところが、この本は、忠崇とその子供が書いたにもかかわらず、地元に伝わることなく、忠崇が江戸へ赴任が決まったために、そのまま江戸のほうへ行ってしまいました。忠崇は江戸で亡くなり、その孫の代になって、浄書された飛州志が幕府へ献上されました。実に、忠崇がなくなってから70年もあとのことです。後に、有名な田中大秀が、その本を一部書き写しました。その話を聞いた田中英積という飛騨の材木商が大金を積んで、その全容を書き写させ、飛騨に持ち帰りました。それが、現在飛騨に伝わっている「飛州志」です。写本はだいたい12冊の本からなっているものです。今回、その一部を展示していますが、その飛州志の中に、増島城の記述があります。堀の大きさなどが、図示されています。天保年間に書かれた土地所有者をあらわした地図が古川の旧家に保管されていました。これを見ろと、緑色で書かれた、区域がすべて「下田」となっています。かつては、堀のあとだったところで、その場所が埋め立てられて、田んぼにされました。しかし、堀があった位なので、水はけがよかったのか悪かったのか、下田というくらいですから、あまり実りが無い田んぼだったと思われます。徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e69984.html</link>
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<category>飛騨の戦国時代（姉小路～三木～金森長近など）</category>
<pubDate>Wed, 10 Sep 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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