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<title>飛騨の歴史再発見！</title>
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<description>ヒッツFMにて毎週月曜夜７：３０から放送している歴史番組。（再放送土曜日午前１０:３０より）飛騨の隠れた歴史をわかりやすく解説します。どうぞ応援をよろしくお願いします。</description>
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<pubDate>Sun, 01 Apr 2007 23:55:17 +0900</pubDate>
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<title>高山別院の旅行１３＿九頭竜湖</title>
<description>皆さん、ご存知でした？九頭竜湖のつり橋は、日本で一番古い、本格的近代建築のつり橋だそうです。瀬戸内の大橋が作られる前に、テストで作られ、これをきっかけに、瀬戸内海の大橋がつくられたそうです。バスガイドさんが言っておられました。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Tue, 28 Oct 2008 21:26:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行１２＿長滝寺２</title>
<description>長滝寺の宝物館内部にあった、釈迦三尊像誰も入らないので一人で行ってきましたが、見事な仏像が展示してありました。国道をはさんで向側には、長滝寺の資料館がありました。かつての長滝寺の鳥瞰図　ミニチュア模型。かなりたくさんの御坊があったようです。白山の護符。これと同じものを石徹白の石徹白家で見せていただいたことがあります。木造のお面が特別展示してありました。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Sun, 26 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行１１＿長滝寺１</title>
<description>最終訪問地は、白鳥の長滝寺でした。ここはかつて、泰澄大師が白山を開山されたときに、白山登山の入り口としてかつては大変な賑わいをしたところです。ここは、お寺と神社が一緒になっており、お寺のほうは長滝寺(ながたきでら）、神社のほうはちょうりゅうじと呼ぶそうです。　長滝寺の看板。かつてはここにたくさんの御坊があった。正面には、拝殿があり、後ろに回ると本殿があります。かつてこの本殿は、室町期に飛騨の匠　藤原宗安が本殿を造立した記録がありますが、火災で焼けて現在の本殿、拝殿は江戸時代に再建されたものです。横にもお社があります。　左手には、長滝寺があり、こちらでは仏教のお勤めがなされています。長滝寺の内部。裏には、泉があり、この泉は白山頂上の千蛇ケ池という池から湧き出しているもので昔から霊泉として語り継がれています。腹薬としても多くの人に親しまれているという。この池は夏でも雪に覆われ、伝説によると昔泰澄大師が白山に住む千匹の毒蛇をこの池に封じ込めて、万年雪で蓋をしたという伝説があります。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Sat, 25 Oct 2008 21:00:43 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行１０＿南宣寺</title>
<description>東本願寺の祖　教如上人が、秀吉から受難を受け、放浪をしているときに、天正９年から１０年にかけて一年近く滞在したのが、越前大野の南宣寺でした。当時の領主は、金森長近。このときに、長近が、教如を誘ったかどうかは定かではありませんが、このお寺にいたときにおそらくうわさを聞きつけてあっていたのではと思います。お寺のご住職から、今回の旅行についてのいきさつを伺う。「まだ新人の頃、おまいりをさせてもらったとき、仏様の前に座って、お経を唱えているときに『どうして、今日は鉦が鳴らないのだろう』とお経を唱えながら思っていると、、導師の方がこっちをみておられた。目配せをされたので、ふと横を見てみると、鉦が目の前にあることに気が付いた。慌てて、鉦をならすようにさせていただいたことがあった。目の前にあるのに、見えないものってあることがありますというお話の後に、自分のところにある宝物に気づかず、東等寺さまに教えていただいた。今日は、初めて皆様に披露させていただきます。」とのこと。南宣寺と教如上人のことについてお話される東等寺　竹田ご住職親鸞聖人絵伝。　教如上人下付。　　滞在のお礼に慶長になって下付されたもの。金泥十字名号。　　　かなり古いもの。いつごろのものか不明。顕如上人絵像　教如上人下付。　　　これも滞在のお礼に下付されたもの。南宣寺由来記。　　江戸末期に書かれたもの。その由来記に、飛州高山の名が見える。「天正八年之秋　教如上人飛州高山、御潜居、○○更○ヨリ越前石動白村に御越之後同穴馬八ケ村之内半原村に御越年　天正九年之春　当寺入御　天正十年之春まで御逗留」となっており、高山照蓮寺（当時は白川中野にあった）にお滞在になっていたことがわかります。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Fri, 24 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行９＿朝倉資料館３</title>
<description>朝倉氏資料館には、一乗谷遺跡から発掘されたたくさんのものが展示されています。香道をやられていたと思われる、香炉やお香の破片が出土しました。青磁のもの、灰釉のものなどは、完全品で出土し、重要文化財となっています。蝉の茶たんす　　　茶道具に使われたものを片付けておく茶たんす天目茶碗　　なかなかいい色をしています。（重要文化財）仏花器、鉦などのものも出土しています。　(重要文化財）「茶の湯は、戦乱で荒廃した京から足利義昭をはじめとして公家の右大臣三条公頼、大納言飛鳥井雅綱、一乗兼良、高僧の大覚寺義俊、月舟、当代随一の漢学者で儒学者でもあった清原宣賢、医書「八十一難経」を版木で出版した谷野一柏、連歌師宗祇、宗長など多くの文化人を朝倉氏は庇護していたため、一乗谷にはたくさんの京都の文化が流入しました。朝倉文化と呼ばれるものは、これらの人々によって開花し、朝倉の武将達によって深く育まれたものといえます。下の絵巻物にみられる座敷飾の花器、茶器、香炉なども谷のいたるところから出土しており、茶の湯・生け花・聞香などの遊芸が当時の一乗谷でいかに広汎でかつ高い水準に達していたかをしることができます。さらに、すずりや水滴などの文房具の出土と共に、和歌や漢詩を書いた木片、「庭訓往来」などの断簡もみられ、日常の余暇を楽しむ将棋の駒や、双六のさいころや駒石、小舟、人形などの遊戯具の出土もみられ、当時の人々の遊芸に対する意欲を如実に伺い知ることが出来ます。」（展示物掲示板より）徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Thu, 23 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行８＿朝倉氏資料館２</title>
<description>一乗谷朝倉氏遺跡資料館　一乗谷朝倉氏遺跡から発掘された出土品を展示する資料館。地図入りのパンフレットが入手できるので、遺跡巡りにも役立てたい。主な展示品は、朝倉氏の歩みが分かる古文書や武具、火縄銃、朝倉館の復元模型など。また、櫛やかんざし、食器などの日用品や、茶の湯で使われた青磁碗や天目茶碗、娯楽品の将棋の駒などからは、当時の暮らしぶりが偲ばれる。一乗谷朝倉氏遺跡　福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい（一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル）に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。　また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。　一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7ｋｍの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、城下町の主要部を形成していた。朝倉氏の歴史　朝倉氏は但馬国養父軍（兵庫県養父市）出身の武士。南北朝時代に越前守護　斯波高経に従って入国した。その後、越前北部に根拠地を築き、一乗谷に居城した。　初代朝倉孝景は、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返り、越前の支配権を獲得。この氏景とともに越前一国を平定した。　その後、３代貞景、４代孝景、５代義景と１０３年間に渡り、一乗谷は北陸の小京都として、政治・文化の中心地として繁栄した。　永正３年(1506)加賀から一向一揆が侵攻したが３代貞景はこれを打ち破った。５代義景は、室町幕府将軍　足利義昭を、安養寺の御所に迎え、庇護するなど平和な日々が続いた。　しかし、天正元年(1573)8月、織田信長と４年にわたって合戦を続け、朝倉氏は刀根坂の戦いで敗れ、一乗谷も灰燼に帰した。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Wed, 22 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行７＿朝倉氏資料館１</title>
<description>朝倉氏の一乗谷の遺跡跡の次は、朝倉氏の資料館にお邪魔しました。一乗谷の場所は、福井市と大野市の間の少し南にあたります。朝倉氏城館の地図朝倉氏一乗谷にあった、居館のミニチュア模型朝倉孝景(初代）画像　複製　　重要文化財　　　　原品は心月院蔵朝倉義景(五代）画像　複製　　重要文化財　　　　原品は心月院蔵永正三年　一向一揆との合戦・布陣図朝倉氏は、越前の一向一揆とたびたび合戦を繰り返しました。80年以上にもわたって、一向一揆との戦いを越前で繰り広げたことになります。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Tue, 21 Oct 2008 22:46:02 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行６＿朝倉氏一乗谷遺跡</title>
<description>宿に泊まった翌日は、一路、一乗谷へ向かいました。一乗谷は、朝倉氏の居館が長い間あったところで、織田信長によって滅ぼされました。それが有名な、一乗谷の戦いです。その居館跡が発見され、町ごと保存されている史跡です。よくパンフレットなどに掲載されている、唐門です。室町時代の街並みが再現されています。武家屋敷跡の内部。正確に建物が再現されています。これは、将棋を打つ風景。これは、跡地から将棋の駒が発見され、その駒が現在の将棋には無い駒であったために、朝倉駒と言われているものです。朝倉義景公の墓所朝倉氏の邸宅跡を上から見たところ。この建物だけを見ても非常に大きいことがわかります。湯殿跡庭園　　現在は水がありませんが、水を蓄えた立派な庭園だったようです。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Sun, 19 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行５＿五村別院</title>
<description>一路、長浜から国道を通り、かの有名な「姉川の戦い」の姉川を渡ると、そこには五村別院がありました。(本堂、表門などが国の重要文化財指定となっています。）場所は、東浅井郡虎姫町大字五村というところです。　五村別院本堂　国の重要文化財。本堂の上がり口。いかにも古い建造物という重厚感と格式がある。本堂内部。柱は丸柱だが、正面鴨居が違い段になっており、古い形式である。江戸時代に、寺としては珍しく、銅版の屋根となっていたため、豪商の寄進を受けている。有名な方としては、西武鉄道社長の堤氏の先祖　堤孫兵衛や、池野財閥の前身　池野屋喜三郎、三越の前身　越後屋与三郎などの名前が見える。銅版とはいえ、金も混ぜて作っていたらしい。教如上人の廟。遺骨を分骨して納めてあるとのこと。大変立派なご本尊。他の寺院のものよりも一回り大きな阿弥陀様がいらっしゃいました。御内陣内部。格天井がさらに格天井になっていて金箔であったことと、柱の上の枡組が内陣の内部にまで及んでいたことには驚きました。一般のお寺ではこのようなつくりにはなっていません。別院がありました。この五村別院は、教如上人ゆかりのお寺で、文禄2年(1593)に豊臣秀吉により、本願寺12世の職を解かれた教如上人が、慶長2年(1597)に大村刑部らによって迎えられたお寺です。　入って、すぐ左側のところに、略年賦と教如上人の銅像がありました。教如上人の略年譜永禄元年(1558)　本願寺11世顕如の長男として石山本願寺で誕生元亀元年(1570)　織田信長と本願寺の間で石山合戦始まる。天正８年(1580)　本願寺、信長と和睦。四月に顕如は紀州鷺宮へ退去。教如は徹底抗戦を主張し、　　　　　　　　　　湖北三郡始め全国各地へ檄文を送る。しかし、8月ついに教如も本願寺を退去し、　　　　　　　　　　各地を流浪する。（このとき、白川の照蓮寺に半年、越前大野の南宣寺1年滞在)天正十年(1582)　本能寺の変で信長死す。父顕如と和解する。文禄元年(1592)　顕如、今日と本願寺で急逝し、教如が本願寺十二世を継職。文禄二年(1593)　豊臣秀吉、教如に隠居を明示、本願寺は弟　准如が継職。慶長２年(1597)　大村刑部ら教如を向かえ、坊舎建立のための土地を寄進。「五村道場草創」慶長４年(1599)　教如「正信偈・和讃」を開板する。慶長５年(1600)　関東に徳川家康を見舞う。帰路、西軍方に追われ、美濃春日谷を越えて湖北に　　　　　　　　　　逃れる。関ヶ原合戦終わる。　　　　　　　　　（この時、羽島の西方寺、安八の光顕寺に逃げ隠れ、土手組が教如上人をお守りしました）慶長６年(1601)　「江州浅井郡坂田郡惣道場」宛に教如の寿像下付。慶長７年(1602)　「五村御坊を再建」教如、家康より東六条の土地を得て東本願寺を創建。東西本願寺が　　　　　　　　　　分立する。慶長16年(1611)　宗祖親鸞聖人350回御遠忌を勤修す。慶長19年(1614)　十月五日、教如示寂。享年57歳。　経蔵。回転式の経蔵になっており、これは国府の安国寺や古川の真宗寺にもあります。一回しするとお経を1回読んだことになるといわれているもの。中にはお経がたくさん詰まっていました。この山門も国の重要文化財です。五村別院の太鼓楼庫裏の天井部分。　姉川大地震（震度７）の時に、震源地に近かったにもかかわらず、倒壊を免れたということでしたが、天井部分を見ると、天井と柱が上から吊り下げられた構造になっていました。大変珍しい作り方をしてありました。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Wed, 15 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行４＿長浜の黒壁</title>
<description>今回の旅行は、『教如上人のゆかりを尋ねて』というテーマですので、次の場所は、五村別院に行きましたが、その前に、大通寺の門前にある、長浜の黒壁街を歩きました。昔ながらの建物が残る、長浜の町並み。この町でも「うだつ」を見つけました。旧商家の二階。そこには、何かのまじないか、小さな人形が飾られていました。昔の旅館。屋根が低いのが特徴です。昔の金物屋さんが、観光協会などの総合事務所になっています。　これが長浜の黒壁だっ！　ガラス工芸館なんですね。長浜には山車のお祭があり、これは高山のような屋台蔵だそうです。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Tue, 14 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行3_大通寺</title>
<description>今回の旅行は、『教如上人のゆかりを尋ねて』というテーマですので、次の場所は、長浜の大通寺に行きました。今回のバスツアーの名物ガイドは、典ちゃん！彼女のお話はとても楽しかったです。大通寺は、教如上人の息子　宣如上人が開基となったお寺で、教如上人時代には、長浜城の総会場として、浄土真宗の教義を広く広められた場所です。大通寺の山門　彫刻がとても立派です。（国の重要文化財）どこか、井波の瑞泉寺を思わせるような彫刻の数々でした。大通寺の台所門　運動会で正門から入れなかったので、こちらから入りました。こちらは、元長浜城の大手門だった門だそうです。庫裏の入り口もどこか風格さえ感じさせます。大通寺の大広間　　伏見桃山城の広間を移築したものだそうです。撮影許可を得て撮影。大通寺本堂の裏側蘭亭庭園。枯山水の庭園で、有名な茶道家の作品だと伝わっているらしい。今回、私が最も見たかった、鶏の図。　「作は岸雅楽助平駒写」となっている。じつは、これと同じような絵が、飛騨市古川町にあります。よく似ているでしょう！徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Wed, 08 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行２＿光顕寺</title>
<description>高山別院にある「嘉念坊善俊顕彰会」という会の旅行に参加してきました。ルートは、荘川～岐阜羽島（西方寺・光顕寺）をお参りし、長浜別院の大通寺、五村別院に行ったのが1日目。2日目は、越前一乗谷　朝倉屋敷跡、南専寺、長滝寺へのルートでした。お寺めぐりという形のツアーでしたが、とても勉強になりました。西方寺の次は、光顕寺（安八町）へ行きました。こちらでも、ご住職のお話がありました。光顕寺は、教如上人が受難をうけ、西軍の石田光成方の兵に襲われたところです。教如上人を守って、土手組（どろてくみ）の皆さんが必死で戦い、19人が殉職しました。そのくらい、激しい戦闘の中で、須見檀下に隠れていた教如上人は、辞世の句を彫られました。ちょうどそのとき、光顕寺のご住職が、教如上人に似ていたので、犠牲となり、殺されたために教如上人は、命が助かりました。そのときの模様を漫画化して境内に掲示されていました。ご説明終了後、土手組の殉職された方々の石碑におまいりに行きました。本当はその石碑は、もう少し東にあったとのことで、その場所をご案内いただきました。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Tue, 07 Oct 2008 22:38:53 +0900</pubDate>

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<title>高山別院の旅行１＿西方寺</title>
<description>高山別院にある「嘉念坊善俊顕彰会」という会の旅行に参加してきました。ルートは、荘川～岐阜羽島（西方寺・光顕寺）をお参りし、長浜別院の大通寺、五村別院に行ったのが1日目。2日目は、越前一乗谷　朝倉屋敷跡、南専寺、長滝寺へのルートでした。お寺めぐりという形のツアーでしたが、とても勉強になりました。朝、高山を5時50分、荘川を7時に出発西方寺は、岐阜羽島にあります。この寺は、教如上人が、慶長5年に徳川家康を上州に訪問し、帰る途中で、西軍の石田光成方の兵に襲われたために、しばらくお隠れになっていたところです。見猿、言わ猿、聞か猿の彫刻が、本堂玄関にありました。本堂内部本堂内部には、立派な天女の彫刻などがありました。尾張の職人の作品だそうです。こちらには、諏訪の和四郎や尾張の彫刻師の作品が数多くありましたが、なかなか立派な彫刻が多く存在しました。宝物館（座敷）があって、ご住職がご説明してくださいました。数々の宝物があって、3ヶ月に一度、陰干しをかねて展示を行うそうです。石山本願寺の戦いのときに、信長と戦った西方寺の住職　浄祐という人の絵図の写し。中でもすごかったのは、室町時代の作と伝えられる、親鸞と法然上人の画像です。文化財に指定されていない、文化財級の絵像でした。よく見ると、お念仏を唱える先から、三体の阿弥陀様が口から出ています。かなり古い室町時代の絵像。こういったものがこのほかにもたくさんお寺にあるそうです。重要文化財になってもおかしくないものがたくさんありました。本堂入り口の天井には、格天井なのですが、百人一首の絵がはめ込まれています。庭の松も、大変立派な松が植えられていました。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Sun, 05 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>高山のO家に伝わる「十字名号」</title>
<description>今回、真宗学会の調査で、高山のO家を訪問しました。そこには、教如上人の下付と思われる、十字名号と六字名号。そして方便法身立形が伝わっていました。この十字名号とは、「帰命盡十方无●（得るの行人偏のないもの）光如来」の文字が書かれたもので、「阿弥陀様の光があまねく隅々まで照らす」という意味があります。門徒の人々は、この名号を持ち帰り、毎日、読経の日々をすごしたことでしょう。こういった、名号と呼ばれるものを下付されて、また寸志と共にお願いすると、方便法身尊形（尊像ともいうが、それは慶長以降）を下賜されます。その尊像も発見されました。なお、裏書には、「本願寺釈教如」の文字と「照蓮寺門徒」という文字がありました。飛騨で、こういったものをお持ちの方や、お持ちの方をご存知の方がありましたら、ぜひとも私までご一報ください！徳積善太</description>
<link>http://hidasaihakken.hida-ch.com/e73218.html</link>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Sat, 04 Oct 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>光顕寺(安八町)</title>
<description>この寺に教如上人が逃げ込み、助かったのですか、もはやこれまでと須見檀の後ろに隠れていた時に、時世の句を残しました。</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Thu, 02 Oct 2008 10:42:41 +0900</pubDate>

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<title>西方寺</title>
<description>羽島市にある西方寺は、教如上人が慶長5年に、関東からの帰り、西軍の石田光成方の兵により受難をうけた寺です。</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Thu, 02 Oct 2008 09:05:35 +0900</pubDate>

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<title>研修旅行に行きます</title>
<description>10月2日から3日まで、嘉念坊善俊顕彰会の研修旅行に連れていってもらうことになりました。いま、その研修資料を作っています。行程は、次の通りです。1日目高山ー岐阜羽島ー西方寺(羽島市)－光顕寺（安八町）－名神高速ー長浜別院　大通寺ー五村別院（虎姫町）－北陸道－芦原温泉（泊）2日目旅館ー北陸道ー一乗谷朝倉遺跡ー朝倉氏遺跡資料館ー越前竹人形の里ー南専寺（大野市）－長龍寺と白山文化博物館ー東海北陸道ー高山というルートです。今回は、教如上人の足跡を尋ねて行くツアーで、社中では教如上人と金森長近の関係など東等寺　竹田ご住職のレクチャーなどがあり、しっかり勉強してきます。平日ですが、今まで休みも取らず、忙しかった自分へのご褒美として、ちょっと休みをもらって行ってまいります。徳積善太</description>
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<pubDate>Sat, 27 Sep 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<title>８月１１日放送分　飛騨に入った浄土真宗</title>
<description>（８月１１日）みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。この番組は、飛騨の生涯学習者第二号　私 ながせきみあきがお届けしてまいります。さあ、世の中はお盆休みに入りました。今年のお休みは、大企業の方ですと9日から17日の9日間の休みとなっているわけですが、高山は観光関連の業種の方が多いですから、今が一番の稼ぎ時ですね。景気のほうはいかがでしょうか？　今年はGW以後、ガソリンの相次ぐ値上げで、マイカーでお越しになる個人客の方がずいぶん少ないように思います。観光課に聞きましたところ、今年は日本人観光客は激減していて、逆に外国人観光客が前年対比、3割増ということでございますので、高山も段々国際観光都市になってきているんだなあと思います。ただ、国内観光客が少ないかと思うと、京都では、外国人も含めて年間4800万人もの人が来ているそうですし、来年は5000万人を目標にしているとのことですし、先日の、日経ビジネスにも、外国人人気観光地に、高山と金沢が上げられていました。高山の観光業者も頑張らないといけませんね。さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、今週は、お盆の時期でもございますので、浄土真宗に関したお話をしたいと思います。別にお盆の時期だからというわけではないのですが、このところ、浄土真宗の研究家　東等寺の竹田さんとご一緒する機会が多くて、今年３月からあちこち調査に行ってきました。　たいへんな発見もありましたので、少しだけご紹介したいと思います。　学校で歴史の時間に習いましたが、浄土真宗など、仏教が新しい宗派のもとで、広がりを見せるようになったのは、鎌倉時代だといわれています。　それまで、飛騨のみならず全国に広まっていたのは、天台宗や、武士の保護を受けていた真言宗という2台勢力でした。中でも飛騨では、白山のお膝元ということもあり、白山信仰などの山岳宗教の一部でもあった天台宗が、最も広まっていて、今でも白山神社を信仰することで形を変えて飛騨には広まっています。真言宗や天台宗が、下火になってきた頃、今度は禅宗が入ってきます。これは、臨済宗、曹洞宗などといった宗派で、室町時代になり、守護や地頭の保護を受けながら広まっていったものです。いわゆる武家社会という強力なスポンサーの保護の下に、禅宗勢力は広まって行きました。ただし、どちらかというとこの禅宗系の仏教は、自らが修行することによって精神を高めていくといった要素が多分に含まれており、いわゆる一般民衆が修めるといったものではありませんでした。一般民衆は、武家社会の狭間で、貧乏をしながら一生懸命生きていたという状況ですから、自分が死んだらどうなるか、生き地獄から逃れて、せめて極楽に行きたいという信仰心があったことと思います。その中でも、浄土宗を開いた法然上人は、「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土にいける。一度でも十度でもいい。それは信心の深さによる。」と一般民衆を救うためのお念仏を説いたため、一般民衆に非常になじみやすかったと思われます。その考えを継承したのが、親鸞上人で、浄土真宗の教えを広めるのに、いわゆる貧しい暮しを強いられている山間部、一般民衆を救うために広めた為に、かなりの速さで広まって行きました。親鸞聖人絵伝　　昔、道場ではこういった絵図を使ってどのように親鸞上人が真宗をお広めになったか物語風に話して聞かせた。飛騨に浄土真宗が入ってきたのは、いつかというと、諸説ありますが、まず時宗が入ってきたと思われます。いわゆる踊念仏というもので、「南無阿弥陀仏」と称えながらどんな人でも救われることを称えた一遍上人の教えでした。そうしたものが広がって入る所へ、飛騨には２つの系統で浄土真宗が入ってきます。一つは、親鸞上人の弟子で、後鳥羽上皇の皇子　嘉念坊善俊という人が、白川の中野に道場を開いた照蓮寺の系統です。別院の発行した高山別院史によりますと、弘長2年（1263）に親鸞上人が入寂してから、白鳥で道場を開かれ、その後白川の鳩ヶ谷に移り、弘安五年三月三日（1282）に69歳で亡くなったことが書かれています。そしてもう一つは、願智坊という、真宗三代目の覚如という人の弟子が、最初は益田郡の小坂に道場を開き、後に神岡の吉田に聞名寺を開いた系統です。後にこれは、常蓮寺・大国寺というお寺になって、北飛騨を中心に広まりました。こちらは、照蓮寺よりも少し後の正和元年(1312)年頃のことです。吉田の常蓮寺飛騨の浄土真宗の寺院は、現在、お西系（聞名寺系統）が２２ケ寺。お東系（照蓮寺系統）が８０ケ寺あって、飛騨の寺院勢力では一番大きなものになっています。ただ、昔は、お西とかお東といったものはなくて、全て本願寺系統と呼ばれていました。このお東とかお西とか言うようになったのは、ずっとあとの江戸時代の慶長７年(1602)のことです。これについては、後でお話します。ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「何も言えなくて夏」をお届けします。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------今日のひだ歴史再発見は、飛騨に入ってきた浄土真宗の事についてお話しています。さて、飛騨の浄土真宗の寺院が広まったのは、8代目の蓮如上人が、京都を追われて、越前の吉崎というところに道場を開いたことによります。それまで、浄土真宗は、京都の大谷というところに本拠地を置き、お念仏を広めておられましたが、一般の人でも南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽浄土に生けるというそんな簡単なものではないと、禅宗系の寺院や、天台系の寺院などより迫害を受け、京都から追われることになりました。そのため、三代目の婥如上人は、一時期、越中に逃れ、瑞泉寺に移っていた事もあります。それ以後、浄土真宗の拠点は北陸が中心でした。8代目の蓮如上人もその一人で、越前の吉崎というところに道場を作り、浄土真宗の教義を広めておられました。越前は、飛騨とも比較的近いために、たくさんの迷える人たちが飛騨から峠を越えて越前に入り、蓮如上人の下で、帰依されたようです。そのため、蓮如上人の下賜された「六字名号＝南無阿弥陀仏」や「九字名号＝南無不可思議光如来」「親鸞上人絵伝」といったものが飛騨には数多く存在し、あちこちに道場が開かれていきました。大体、飛騨の浄土真宗寺院の創設を調べてみると、文明～永禄年間(1468～1490)にかけて作られた寺院が圧倒的に多いです。永禄から天正時代にかけて、いわゆる世の中が戦国時代と呼ばれていた時には、一般の農民も戦場に借り出されました。それまで、田畑を耕す生活だった人が、鍬を刀や槍に変えて人殺しをするようになります。戦場は生きるか死ぬかの戦いですから、自分がやらなければ相手にやられる。当然、殺戮ということに対して心を傷めたことでしょう。何人も殺しても、殺すたびに、罪の意識を持ったでしょうから、「これだけの人を殺せば自分は極楽に生けるんだろうか。地獄に行くのではないか。」などという罪の意識を持ったことと思います。浄土真宗の信者の人たちに、仏敵と呼ばれた人がいます。それは、織田信長です。彼は、天下布武を目標とするあまり、浄土真宗のみならずほとんどの仏教信者を敵に廻しました。有名なのは、比叡山の焼き討ちや、石山本願寺の戦い、桑名の一向一揆、越前の一向一揆の掃討ですね。彼は本能寺でなくなるまでに4万人の人を殺したといいます。浄土真宗の信者からすれば、「ただでさえ、嫌な世の中で、自分を救ってくれるのは、阿弥陀様しかおられないのに、それをも冒とくする信長は、仏様の敵である」と信じ、戦った事でしょう。天正3年から10年まで起った、摂津石山本願寺の戦いには、飛騨からもたくさんの信者の人が石山本願寺に行って戦っています。終了後、帰ってきた人もいますが、風呂にも入らず、毎日戦いを行っている間に、すね当てにすね毛が絡まってしまい、なかなか取れなかったなどという逸話も残っています。さて、そんな浄土真宗でしたが、飛騨を平定するのに巧みに浄土真宗を味方に付けた武将がいました。それは、高山城主　金森長近でした。彼は、越前の一向一揆をわずかの時間で平定し、その褒美として越前大野の２／３を知行地としてもらいます。天正３年のことです。しかしその後、天正十四年に今度は飛騨を平定します。それにもそれだけの時間をかけていません。また、彼の賢かった事は、その浄土真宗を自分の城下に取り入れて、城の中に本山を置き、戦争に明け暮れる自分の代りに知行地を守らせたことです。おととし、岡崎の勝鬘寺というお寺から書状が発見されました。照蓮寺の明了に宛てた手紙です。これには、「新門跡様（教如上人のこと）もおっしゃっているから、高山へ寺坊を移して、高山の町を留守中に守ってほしい」ということが書かれていました。顕如上人この頃、天正時代に秀吉によって本願寺が2分され、石山本願寺を守った11代の顕如が亡くなったときに、12代目を長男の教如上人が継ぐか、はたまた3男の實如上人が継ぐかでもめました。その時、母親の如春尼の口添えで、自分が溺愛していた3男が跡目を継ぐ事になり、二つの本願寺系統になりました。後に、慶長になって教如上人は、分裂を拒んだようですが、徳川家康が寺地を寄進して２つの本願寺が誕生したと言われています。このとき、家康に教如上人を紹介したのも金森長近であったとのことです。茶の湯を通じて、長近という人は教如上人と深いつながりがあったということです。このお話のつづきは、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。さて、本日も時間となりました。来週は、第三週目になりますので古川など飛騨市のお話、今回は、茂住宗貞の謎というお話をお届けしたいと思います。今日は、この曲でお別れです。曲は「山口百恵で　ひと夏の経験」ではまた来週。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Mon, 11 Aug 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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<title>越前大野訪問～南専寺～</title>
<description>越前大野では、南専寺さんを訪問しました。南専寺は、越前大野から東に１０ｋｍほど行ったところにあり、昔、教如上人が、石山本願寺の戦いの後に、諸国を流浪されたとき、飛騨に入る前に立ち寄られたところです。当時は、天正3年に金森長近が、越前大野を平定し、そこに城下町が作られていました。長近が、この地を訪問せよと言ったかどうかは定かではありませんが、この地域には、浄土真宗の信者がたくさんおり、金森氏が信長の命令で、柴田勝家と共に越前の浄土真宗を平定し、そのときに越前大野地区の2/3を所領としてもらった土地です。おそらく、長近は、浄土真宗と結託していたからこそ、わずか1年ほどで越前を平定できたものと思われます。その土地に、教如上人が、訪問され、蓮如上人の絵像が下賜されています。また、この南専寺は、井波の瑞泉寺とも関係があり、このお寺から井波の瑞泉寺へ4代目の住職が行っておられます。ちなみに、10代目の住職は、金森長近の曾孫　高山城主4代目の頼直の弟であることを、昨年発見しました。ということは、金森氏とも何らかのご縁があったと考えても不思議ではありません。この関係についても、いずれ発表したいと思っています。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Fri, 27 Jun 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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<title>石徹白家の古文書１</title>
<description>石徹白には、12件の石徹白家が存在します。もともと、石徹白家は、越前朝倉氏の家来でしたが、早くから金森長近の家来となり、代々金森の家来として石徹白地区を知行していました。金森が転封になってあとは、代々、白山神社の神主として持ち回りで神官をつとめ、所領を安堵されてきたそうです。そのため、たくさんの歴史資料が存在しています。石徹白家の仏壇。ものすごく大きくて立派な仏壇が掲げられている。中央のご本尊は、お寺に掲げるほどの立派なもので、ここが在家の道場だったことを示している。石徹白家に伝わる兜天正期に戦った武士のもの。かなり古い兜です。古文書もたくさんあり、中には飛州志に掲載してあるものの原本もありました。これらの古文書については、これから分析します。徳積善太</description>
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<category>浄土真宗について</category>
<pubDate>Thu, 26 Jun 2008 21:00:00 +0900</pubDate>

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