昭和四十四年一月二十八日、大雄寺本堂は火災に逢い、本堂大伽藍をことごとく焼失した。
私も子供ながらに覚えているが、火災のために高山の空が夜中にも関わらず、夕焼けのように
真っ赤に燃えていたことを思い出す。当時、本尊が焼失しているときに、阿弥陀様が光となって
天に昇っていかれたということで、写真が撮影され、マスコミ等で話題になった。そのときのことを、
闡誉大僧正が書き残して本堂廊下に紹介されていたので、その全文をご紹介したい。
「阿弥陀様の顕現」
「昭和四十四年一月二十八日夕刻、当寺本堂が火災にあった。火の勢いの凄まじさにはほどこす
術もなく、あっという間に堂内に火がまわり、多くの人々が見守る中、ついに本堂の屋根が落ちた。
その時の写真が残っている。焼け落ちた本堂から立ちあがる光の柱はまさに阿弥陀様のお姿
そのものであり、この不思議な写真は当時、浄土宗のみならず新聞やニュースで大変な話題
となった。
多くの学者が研究した中、大本山鎌倉光明寺の藤吉慈海大僧正は次のようにお説き下された。
「火災によって念仏信仰の依り所をなくした飛騨の人々が悲しむのを阿弥陀様が哀れんで、たとえ
仏像としての姿はなくなろうとも本当の仏身は永遠にここにいるから安心しなさいとお姿を現して
下さった。この写真は阿弥陀様の顕現のお姿である。飛騨の念仏信仰の中心である大雄寺本堂の
火災であるからこのような寺瑞が起きたのであろう。」
科学や経済第一主義の現代の中で、目に見えるものしか信じることの出来なくなった私達にとって
阿弥陀様が自らその実在をお示し下さった正に貴重な写真である。
その後十年はかかるであろうと思われた本堂再建も檀信徒の方々の多大なる協力によりわずか
二年後の昭和四十六年六月六日、尊き仏縁により伊勢樹敬寺より阿弥陀如来を請来し、本堂
開堂式を奉修することが出来た。
昔の本堂を知る人も少なくなってきたこの頃であるが、現在よりはるかに大きい軒先十五間四面、
うぐいす張りの総縁で龍画の鏡天井といった豪壮な大伽藍は宝暦十二年(1763)飛騨の匠棟梁、
初代水間相模の作であり、堂内には一丈六尺の本尊阿弥陀如来、聖徳太子御手作の聖観世音
菩薩、飛騨之国の徳川家菩提寺として家康公の等身大の位牌等が安置されていた。」
徳積善太