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11月16日放送分_高堂城について
(11月16日放送分 第127回)
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし ながせきみあきがお届け
してまいります。
11月中旬に入って、高山の周辺では、紅葉もだんだん散ってきて、何となく寂しさ
を感じる今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしですか?
お陰様で、高山には観光客の皆さんも、紅葉を楽しみにたくさんの方がお見えに
なっています。しかし、今年はETCが1000円の関係もあって、土日にお客さんが
集中するのですが、平日が今ひとつです。幸い先週は、観光バスが多くて、どうして
かなと思っていたら、先週は真光様の50周年がありましたんで、観光バスのお客さん
で大変賑わいましたね。久しぶりに高山市内も渋滞して、観光地らしい雰囲気になり
ました。
ただ、観光業者の皆さんは、「一週間が7日あるのに、土日の二日間ではなかなか飯が
食えない」とおっしゃる方もおられます。このところ、平日のお客様がちょっと少ない
ように思いますが、冬になると観光業者は冬眠状態になりますから、なるべく雪が降ら
ないで、紅葉が続いてくれるといいなと思います。
私の方は、このところ、歴史イベント続きで、あちこちへ出かけては、放送のネタとなる
取材をしております。
10月末には、いつもお世話になっております東等寺さまで、東等寺の寺宝展が開催され
ました。これは、岐阜県歴史資料保存協会と飛騨歴史民俗学会の共催で開催されたの
ですが、仕事の関係上、個人的に事前に見せていただきました。
たくさんの寺宝があり、ご住職ご自身も驚いておられました。そのくらいたくさんの
歴史的史料で一杯でした。今後、私たちのグループで史料の整理をしようということに
なっております。

11月8日には、奥飛騨の歴史を学ぶ会主催で、開催された「鎌倉街道シンポジウム」に
参加させていただきました。

九州大学大学院の服部英雄教授が、講演をされました。越中を治めていた佐々成政が、
徳川家康に会いに行くのに、どこの道を通ったか、ということでお話をされました。
結論としては、一般には、ザラ峠という、北アルプスの立山連峰の峠を冬に越したのでは
という説がありますが、実は「大峠」と呼ばれる峠が、平湯にあり、そこを通ったのでは
ないか。というお話でした。
この峠は、武田信玄が今から450年前の永禄2年(1559)と7年(1564)に飛騨に攻め入って
きたのですが、そのときに通って、平湯温泉を発見した事で知られています。
今は、がけ崩れで通行不能ですが、もともと、鎌倉街道はこちらのルートを通って、信濃側
の大野川に抜けるルートだったのではとおっしゃっていました。

もう一人、講演をされた服部祐雄(ゆうお)先生は、30年にわたる調査の末、発見された
鎌倉街道の道について発表され、鎌倉から延びる街道はメインが3本あって、一本が常陸に
続いている道。そしてもう一つが、白川の関から会津地方へ伸びている道。
そして、もう一つが、鎌倉から信州を通って、平湯のアカンダナ山と乗鞍の間を通る大峠を
通り、平湯地区に出て、新平湯の禅通寺から山の尾根伝いに神岡ヘ向い、神岡から漆山、
有峰へと続き、越中へと続く「神の道」と呼ばれた道が、鎌倉街道であるとおっしゃい
ました。
鎌倉の切通しと呼ばれる道は、人一人、馬一頭がやっと通れるくらいの細い道で、昔薬を
作った薬研という道具がありましたが、あのようにV字型の形をした、ヤゲン堀といわれる
道であることをつきとめられました。
先生はとにかくヤゲン堀にこだわって現地をくまなく歩き、地図上にそのルートを落とされ
て、昨年本を出されました。一時、笠ケ岳のルートを探索中に遭難された経験もあるとの
事で、そのときは命の危険も体験された、たいへんな調査であったことをお話されました。
また、先の服部秀雄先生のお話に対して、「佐々成政が通ったという伝承が信濃側には一つ
も残っていないので、大峠を通ったのは間違いではないか」と否定されておりました。
なかなか有意義なシンポジウムでした。
さて、前置きがかなり長くなりましたが、本日の話題に入りましょう。先週、お話をしました
が、今日のお話は、最近開催されたイベントの中で、国府町のNPO主催で10月31日に
国府で行われました「高堂城に登る会」の話題について取上げたいと思います。

さて皆さん、高堂城と聞いて、誰の城かわかりますでしょうか。
おそらく歴史を少しかじったことのある方は、三木自綱の城だとお答えになると思います。
それも正解といえば正解ですが、正確にはこのお城は、もともと国府町一帯を治めていた
廣瀬氏の居城でした。
廣瀬氏は、現在も国府町の広瀬という地名になっていますが、いまからおよそ600年ほど前
から国府町一帯を治めていた豪族です。詳しくは後半でお話します。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「 」をお届けします。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、広瀬氏の高堂城についてお話しています。
この高堂城、場所はといいますと、国府町の瓜巣という地区にあります。
瓜巣というのは、高山からですと、現在の高山ICに車を走らせると、右手の山頂に高山の
TV塔があります。それを見ながら、山あいの峠を越えます。これが、瓜巣峠です。
その峠を降りていくと、正面に見える上がちょっと丸くなっている山が、高堂城の城跡です。
大体の場所はわかりましたでしょうか。
先日、開かれました国府町のNPO「国府のふるさとを歩こう会」の主催で、この山頂に
上がってきました。国府町史編纂室長の酒井先生の説明をいただきながら、山頂を目指し
ました。
ここに上がるには、瓜巣公民館の横のところから上がっていきます。

瓜巣公民館のところには、「史跡 高堂城址」という白い標柱と、高堂城についての説明
看板があります。看板にはこう書かれています。

「高堂城跡 岐阜県重要文化財 昭和45年8月11日指定
かつて廣瀬郷を治めていた廣瀬氏の居城であり、天文年間(1532~54年)に廣瀬左近将監利治
がこの地に築城したとされている。標高はおよそ700m。四面は天然の要害となっており、
宮川を南北に俯瞰することができ、山頂には平地があり、以下段々に小さな平地がある。
名張地区にある廣瀬城の詰城としてその規模は、高山市にある高山城、松倉城に継ぐものと
言われている。
後、廣瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、城の城主は三木氏に移ったが、この三木氏も天正十三年
(1585)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近により攻められ、廣瀬城により防戦したが、降伏した。」
と書かれていました。
しばらくなだらかな道があるのですが、自動車も上がれる道は途中までで、そこからは徒歩で
上がらないといけません。丁度紅葉が大変綺麗で、栗やシイ、クヌギといった木の実が道一杯
に落ちていました。

徒歩で3分ほど上がったところに、古墳がありました。
酒井先生のご説明によりますと、かうと洞古墳1号と2号だそうです。

国府町にはこういう古墳がたくさんあって、今日までに384の古墳が確認されているそう
です。
ちなみに高山は92、古川が102で、益田郡は0とのこと。
どうしてここに作られたか。
人が住むところは平地で、高いところは位も高いと思われていて、地元の有力者などを高い
ところに祭ったのではないかと考えられているそうです。

ここには、今でも入り口幅1mx奥行き2m位の石室がはっきり残っていますが、盗掘された
らしく、中身は全く残されていません。
そこから、しばらく行くと、空堀のようなV字型の谷があって、そこを左の方へ行くと尾根に
出ます。逆の右の方へ降りていくと宇津江におりられるようになっている道がありました。

尾根伝いに細い道がありました。右も左も木が生えているので、怖さは感じませんでしたが、
よく見るとどちらも急ながけになっています。

簡単には攻められないような構造になっていて、しかも道が細いため、急には走れません。
しばらくいくと、馬止めという少し広くなっている場所に出ました。

奥のほうは、郭という少し広い場所になっていました。

標識には馬場となっていましたが、馬つなぎの場所だと思われます。
そこから、最後の急な上り坂を登りきると、高堂城の本丸跡でした。

下からだいたい標高で300mくらいあがってきたでしょうか。距離にすると1800m
くらいあったとのこと。心臓の悪い人にはちょっときつい坂でしたが、お年寄りでもハイ
キング程度の感覚で十分に上がれる高さでした。
上に上がってみると、結構広いばしょになっていますが、江戸時代の飛州志という本にも、
8間x13間と書かれていますから、およそ7.2mx11.7mという広さです。
実際にその場所に立って見るともう少し広かったように思います。

頂上では、ところどころ土を掘り返された場所があって、自然観察員の方にお聞きすると、
イノシシがセミの幼虫を食べるために掘り返したものだと言うことでした。
東の方に国府中学校から国府町の町並み。

北の方には山があって、西の方には国府町の宇津江。

南には瓜巣の集落を遠くに見ることができました。
三木自綱は、金森長近に攻められた時に、しばらくここに滞在していましたが、城が落と
されると見るや、ここを抜け出して、京都まで逃げ延びたと言います。
そういった歴史ロマンを感じた場所でした。
皆さんも一度、機会がありましたら登ってみてください。
さて、本日も時間となりました。来週は、第4週目ですので、匠の話をしたいと思いますが、
リスナーの方からご質問をいただいておりますので、それにお答えする形で、市政記念館の
建物についてお話したいと思います。
本日はこの曲でお別れです。
曲は「左ト全とひまわりキャンディーズ 老人と子供のポルカ」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし ながせきみあきがお届け
してまいります。
11月中旬に入って、高山の周辺では、紅葉もだんだん散ってきて、何となく寂しさ
を感じる今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしですか?
お陰様で、高山には観光客の皆さんも、紅葉を楽しみにたくさんの方がお見えに
なっています。しかし、今年はETCが1000円の関係もあって、土日にお客さんが
集中するのですが、平日が今ひとつです。幸い先週は、観光バスが多くて、どうして
かなと思っていたら、先週は真光様の50周年がありましたんで、観光バスのお客さん
で大変賑わいましたね。久しぶりに高山市内も渋滞して、観光地らしい雰囲気になり
ました。
ただ、観光業者の皆さんは、「一週間が7日あるのに、土日の二日間ではなかなか飯が
食えない」とおっしゃる方もおられます。このところ、平日のお客様がちょっと少ない
ように思いますが、冬になると観光業者は冬眠状態になりますから、なるべく雪が降ら
ないで、紅葉が続いてくれるといいなと思います。
私の方は、このところ、歴史イベント続きで、あちこちへ出かけては、放送のネタとなる
取材をしております。
10月末には、いつもお世話になっております東等寺さまで、東等寺の寺宝展が開催され
ました。これは、岐阜県歴史資料保存協会と飛騨歴史民俗学会の共催で開催されたの
ですが、仕事の関係上、個人的に事前に見せていただきました。
たくさんの寺宝があり、ご住職ご自身も驚いておられました。そのくらいたくさんの
歴史的史料で一杯でした。今後、私たちのグループで史料の整理をしようということに
なっております。
11月8日には、奥飛騨の歴史を学ぶ会主催で、開催された「鎌倉街道シンポジウム」に
参加させていただきました。
九州大学大学院の服部英雄教授が、講演をされました。越中を治めていた佐々成政が、
徳川家康に会いに行くのに、どこの道を通ったか、ということでお話をされました。
結論としては、一般には、ザラ峠という、北アルプスの立山連峰の峠を冬に越したのでは
という説がありますが、実は「大峠」と呼ばれる峠が、平湯にあり、そこを通ったのでは
ないか。というお話でした。
この峠は、武田信玄が今から450年前の永禄2年(1559)と7年(1564)に飛騨に攻め入って
きたのですが、そのときに通って、平湯温泉を発見した事で知られています。
今は、がけ崩れで通行不能ですが、もともと、鎌倉街道はこちらのルートを通って、信濃側
の大野川に抜けるルートだったのではとおっしゃっていました。
もう一人、講演をされた服部祐雄(ゆうお)先生は、30年にわたる調査の末、発見された
鎌倉街道の道について発表され、鎌倉から延びる街道はメインが3本あって、一本が常陸に
続いている道。そしてもう一つが、白川の関から会津地方へ伸びている道。
そして、もう一つが、鎌倉から信州を通って、平湯のアカンダナ山と乗鞍の間を通る大峠を
通り、平湯地区に出て、新平湯の禅通寺から山の尾根伝いに神岡ヘ向い、神岡から漆山、
有峰へと続き、越中へと続く「神の道」と呼ばれた道が、鎌倉街道であるとおっしゃい
ました。
鎌倉の切通しと呼ばれる道は、人一人、馬一頭がやっと通れるくらいの細い道で、昔薬を
作った薬研という道具がありましたが、あのようにV字型の形をした、ヤゲン堀といわれる
道であることをつきとめられました。
先生はとにかくヤゲン堀にこだわって現地をくまなく歩き、地図上にそのルートを落とされ
て、昨年本を出されました。一時、笠ケ岳のルートを探索中に遭難された経験もあるとの
事で、そのときは命の危険も体験された、たいへんな調査であったことをお話されました。
また、先の服部秀雄先生のお話に対して、「佐々成政が通ったという伝承が信濃側には一つ
も残っていないので、大峠を通ったのは間違いではないか」と否定されておりました。
なかなか有意義なシンポジウムでした。
さて、前置きがかなり長くなりましたが、本日の話題に入りましょう。先週、お話をしました
が、今日のお話は、最近開催されたイベントの中で、国府町のNPO主催で10月31日に
国府で行われました「高堂城に登る会」の話題について取上げたいと思います。
さて皆さん、高堂城と聞いて、誰の城かわかりますでしょうか。
おそらく歴史を少しかじったことのある方は、三木自綱の城だとお答えになると思います。
それも正解といえば正解ですが、正確にはこのお城は、もともと国府町一帯を治めていた
廣瀬氏の居城でした。
廣瀬氏は、現在も国府町の広瀬という地名になっていますが、いまからおよそ600年ほど前
から国府町一帯を治めていた豪族です。詳しくは後半でお話します。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「 」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、広瀬氏の高堂城についてお話しています。
この高堂城、場所はといいますと、国府町の瓜巣という地区にあります。
瓜巣というのは、高山からですと、現在の高山ICに車を走らせると、右手の山頂に高山の
TV塔があります。それを見ながら、山あいの峠を越えます。これが、瓜巣峠です。
その峠を降りていくと、正面に見える上がちょっと丸くなっている山が、高堂城の城跡です。
大体の場所はわかりましたでしょうか。
先日、開かれました国府町のNPO「国府のふるさとを歩こう会」の主催で、この山頂に
上がってきました。国府町史編纂室長の酒井先生の説明をいただきながら、山頂を目指し
ました。
ここに上がるには、瓜巣公民館の横のところから上がっていきます。
瓜巣公民館のところには、「史跡 高堂城址」という白い標柱と、高堂城についての説明
看板があります。看板にはこう書かれています。
「高堂城跡 岐阜県重要文化財 昭和45年8月11日指定
かつて廣瀬郷を治めていた廣瀬氏の居城であり、天文年間(1532~54年)に廣瀬左近将監利治
がこの地に築城したとされている。標高はおよそ700m。四面は天然の要害となっており、
宮川を南北に俯瞰することができ、山頂には平地があり、以下段々に小さな平地がある。
名張地区にある廣瀬城の詰城としてその規模は、高山市にある高山城、松倉城に継ぐものと
言われている。
後、廣瀬氏は三木自綱に滅ぼされ、城の城主は三木氏に移ったが、この三木氏も天正十三年
(1585)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近により攻められ、廣瀬城により防戦したが、降伏した。」
と書かれていました。
しばらくなだらかな道があるのですが、自動車も上がれる道は途中までで、そこからは徒歩で
上がらないといけません。丁度紅葉が大変綺麗で、栗やシイ、クヌギといった木の実が道一杯
に落ちていました。
徒歩で3分ほど上がったところに、古墳がありました。
酒井先生のご説明によりますと、かうと洞古墳1号と2号だそうです。
国府町にはこういう古墳がたくさんあって、今日までに384の古墳が確認されているそう
です。
ちなみに高山は92、古川が102で、益田郡は0とのこと。
どうしてここに作られたか。
人が住むところは平地で、高いところは位も高いと思われていて、地元の有力者などを高い
ところに祭ったのではないかと考えられているそうです。
ここには、今でも入り口幅1mx奥行き2m位の石室がはっきり残っていますが、盗掘された
らしく、中身は全く残されていません。
そこから、しばらく行くと、空堀のようなV字型の谷があって、そこを左の方へ行くと尾根に
出ます。逆の右の方へ降りていくと宇津江におりられるようになっている道がありました。

尾根伝いに細い道がありました。右も左も木が生えているので、怖さは感じませんでしたが、
よく見るとどちらも急ながけになっています。

簡単には攻められないような構造になっていて、しかも道が細いため、急には走れません。
しばらくいくと、馬止めという少し広くなっている場所に出ました。
奥のほうは、郭という少し広い場所になっていました。
標識には馬場となっていましたが、馬つなぎの場所だと思われます。
そこから、最後の急な上り坂を登りきると、高堂城の本丸跡でした。
下からだいたい標高で300mくらいあがってきたでしょうか。距離にすると1800m
くらいあったとのこと。心臓の悪い人にはちょっときつい坂でしたが、お年寄りでもハイ
キング程度の感覚で十分に上がれる高さでした。
上に上がってみると、結構広いばしょになっていますが、江戸時代の飛州志という本にも、
8間x13間と書かれていますから、およそ7.2mx11.7mという広さです。
実際にその場所に立って見るともう少し広かったように思います。
頂上では、ところどころ土を掘り返された場所があって、自然観察員の方にお聞きすると、
イノシシがセミの幼虫を食べるために掘り返したものだと言うことでした。
東の方に国府中学校から国府町の町並み。
北の方には山があって、西の方には国府町の宇津江。
南には瓜巣の集落を遠くに見ることができました。
三木自綱は、金森長近に攻められた時に、しばらくここに滞在していましたが、城が落と
されると見るや、ここを抜け出して、京都まで逃げ延びたと言います。
そういった歴史ロマンを感じた場所でした。
皆さんも一度、機会がありましたら登ってみてください。
さて、本日も時間となりました。来週は、第4週目ですので、匠の話をしたいと思いますが、
リスナーの方からご質問をいただいておりますので、それにお答えする形で、市政記念館の
建物についてお話したいと思います。
本日はこの曲でお別れです。
曲は「左ト全とひまわりキャンディーズ 老人と子供のポルカ」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太