面食いだった、可重

rekisy

2008年09月28日 21:45


「英雄、色を好む」とは、かの有名なナポレオンをさした言葉ですが、我らが二代高山城主
金森可重も、美形好みの男性だったようです。

彼の初婚は、天正3年。
当時、金森長近は、わずか6ヶ月で越前大野を平定し、原氏と共に越前大野を知行する大名
へとのし上がり、原氏が1/3、長近が2/3を知行しました。

そのときに、隣国、郡上八幡の城主 遠藤慶隆との間で、縁戚関係を結ぶ政略結婚であった
と思われますが、慶隆の娘 室町殿を迎え、夫婦となります。その間に生れたのが、重近
(のちの金森宗和)だったといわれています。

その後、名護屋因幡守高久の娘を妻としますが、この人は、当初、津田織部へ嫁いでいました
が離縁されて、伊勢の弟のところに住んでいたのを、可重に見染められて来た、かなりの美女
だったようです。

時が定かではありませんが、三木氏の系統 宮の山下氏の娘も可重の側室として嫁いでいた
ようです。その系図には、「美人なり」と書かれています。

もう一人、江馬氏の娘を側室にしています。これは、のちに金森左京となる重勝の母です。
彼女が美人だったかどうかは、わかりません。

あと一人、これは最近になってわかったことですが、伏見にいたときにも側室がいて、二人の
子供をもうけています。そのうちの一人は、可重が亡くなった翌年に生まれ、すぐに本願寺の
宣如上人に預けられて育てられ、後に井波の瑞泉寺の第10代住職として迎えられた宣良と
いう人がいました。

可重の側室などについては、詳しく調べられていませんが、私が確認したところでは5人の
妻がいたと思われます。

徳積善太




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