先日、あまり知られていない論文を見つけました。
昭和61年に高原郷土研究会と言うところから発行された論文です。
茂住宗貞についてのものです。
「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬(神岡町高原町)
はじめに
茂住宗貞の身分を鉱山師とする説が根強く、これが宗貞の定説となっている。
この宗貞について唯一の文献である横山村の牛役の請取書から宗貞の身分を深く探ることを主題とし、
後章に於いて「茂住宗貞略伝」の分析を試みたいと思う。
金森藩の牛役と請取書
越中東街道筋の飛騨国最北端に横山村が在り、小字荒田に金森藩の口留番所が設けられ番人二名が
常駐、越中国への出入の人を改ため物資の課税を勤としていた。
横山村を北進千貫橋を渡ると越中国新川郡猪谷村、此処には加賀藩の関所が在った。
神岡町横山
この新川郡は天正十五年六月加賀藩主前田利家が秀吉より預っていたが、文禄四年秋正式に加賀藩の
支配領地となった。
文禄三年正月加賀藩主から新川郡の牛カ増村から猪谷村間の村々百姓中に対して加賀藩領内から飛騨国
への登荷運搬を牛による村継ぎを令している。
猪谷村から横山村に運搬された荷は此の村の牛によって東街道を以奥に運搬されたが大部は茂住銀山の
需要物資であった。
文録・慶長年間の茂住銀山は隆盛を極め多くの人が此処に稼動、これを賄う大量の米・肴・塩・たばこ等の
物資は主として加賀藩領内で購入茂住に運搬されていた。
物資運搬による駄賃は牛方の収入となりこれが横山村を支える最大の財源でもあった。
この当時の横山村で飼育されていた牛の頭数これは知る事ができない。
牛方が得た駄賃に対し金森藩が極めて高額の税を課したこれが租税の牛役である。
請取書から横山村に課せられた税をみると文禄四年が25石、同五年が40石に増税、それ以降年々40石の
課税となっている。
この租税は加賀藩の牛役銀と同じように銀納であった。
この請取書では牛役の請取人が宗貞であるが宗貞の身分は何か、また請取書四枚が富山県の窪田家所蔵、
この窪田家と請取書との関係も十分視なければならない。
飛騨各街道各村々からは一枚の牛役の割付状、請取書はみていない。
徳積善太