「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より
「中納言利長卿越中御城主の前より御懇意に罷成客侍となり富山御貸家被仰付茂住と両所に
居住仕諸事御用飛州へ投銀御用等相訪云々」
と系譜にみえ川上氏が相当以前より加賀藩の信任を得て富山にも家屋をもち必要物資を購入し
茂住に輸送して商っていた事が考えられ窪田家所蔵の加賀藩関係文書からも之を如実に物語
っている。
窪田家文書のほかに川上二郎四郎に関する慶長十二年三年頃の文書から川上氏の人間像を
知るために二、三の文書を扱ってみたい。
(茂住宗貞の屋敷跡の図)
「川上二郎四郎さま 御返報
返々いろいろ御きも入畏入候よし被申候其 上ニ御用事候者可承候
去十日之御状令拝見候、今度者天井板の事 御きも入別而満足被申候殊信州へと其□御
越し候て御調候段能々心得申入候へと被申 候我等への御状懸御目申候処ニ此分仰出候
候間懸御目申候河上□□御用之事者可承候
恐々謹言
(年次)6(月脱)十一日 □花押」
(岐阜県史史料編 古代・中世四)
川上氏は加賀藩からの注文材調達のために、わざわざ信州に出向き良質の天井板を手にして
藩に納品した。藩からこれに対する礼状をみても加賀藩に対し商人としての道を尽し、商を大切に
した人物だった事を知る好資料である。
富山県大山町亀谷に茂住宗貞に関する説話がある。
法地 金昌寺
一開創 慶長十一年六月七日飛騨国吉城 郡茂住坑城主宗貞公鉱山開拓の為め
当所へ引籠之時金山繁昌の祈願所に 建立致さる。
仝国仝郡神岡村金龍寺二世比庵良萩 和尚を講して開山となし即ち宗貞公
基なり」
この記事は、亀谷の金昌寺、明治十九年一月の財産明細簿によるものであるが、この寺には
宗貞の坐像、位牌が祀られているが、以前同寺火災に遭い焼失、その後再建とあるので、この
木像、位牌は共に新しいが同寺にこれが祀られていること、宗貞との有縁に注目される。
同寺の境内に宗貞の顕彰碑がみられる。「亀谷鉱山創業金昌寺開基茂住宗貞翁之碑」
大正十四年六月七日三井鉱山関係者、同寺檀中によっての建立が碑裏銘により知られる。
加賀越中七鉱山の一つである亀谷鉱山は、文化八年の「亀谷山由来書上申帳」では天正六年之
頃加ね鉱見出、加ね山普請仕罷在候処、慶長元年加ね山地に被仰付」とみえるが、加賀藩は
亀谷鉱山の開発のために鉱山どころの川上氏に適当な探鉱技術者の出張方の話があり川上氏
は宗貞を亀谷に出張させた。
そこから亀谷鉱山と宗貞、宗貞と金昌寺の説話が生まれたとみえるが、これに対しての文書はなく、
伝説だけが生きている。
徳積善太