下呂門原の街道
今日、下呂市教育委員会の馬場さんより、天保時代に開発された街道筋があるとお話を
お聞きしました。
下呂では、最近、高速道路の建設が進んでいますが、かつてその場所は、交通の難所で、
保井戸から門原に出るのに、難所となっていました。
そこを切通しを作り、開発したのは、何と高山の豪商 永田吉右衛門でした。
天保18年に資金を投入して、それまでの難所だった門原から保井戸に抜ける道を作ったの
です。
保井戸側からみた切通し
天保18年に高山の豪商 永田吉右衛門が関わっていることを示す石碑
反対側の門原側からみた切通し
この切通しで保井戸~門原の間が通れるようにはなりましたが、なおも大八車などで荷物を
運んだりするには、大変な道路でした。
そのため、川の近くに隧道が求められ、岐阜県で初めての隧道建設が行なわれました。
そこには、立て看板が示されています。
「門原トンネル
このトンネルは、大正六年(1916)に県下で最初の道路隧道として、
当時の県道改良工事で造られたもので、延長47m、高さ幅それ
ぞれ4.5mの手堀のトンネルです。
それまでは、飛騨川(益田川)寄りの岸壁を削り取った幅1.5m程
の狭隘道路で、人や荷馬車の転落事故が絶えず、飛騨街道一の
難所でした。
そこで、大正四年(1914)岐阜市上芥見の篠田電機に掘削を依頼、
篠田義彦・敏司兄弟が声望を担って着工、水力発電の削岩機が
使えず手堀りで大変な苦労の末、二年間の歳月を費やして完成
したものです。
このトンネルの開通によって自動車も通れるようになり、難所
は一挙に解消、飛騨の夜明けに大きな功績をもたらしました。
平成十七年二月
中原ふるさと研究会
門原トンネル保存会
篠田貞子
後藤禮子」
門原の難所は、屏風岩と呼ばれ、川に崖が垂直に迫った場所です。
川に近くまで行って見ると、岩の下を道路、その下を飛騨川(益田川)が流れています。
屏風岩の看板
とにかく、すごい難所であったところが、高山の人の尽力によって通れるようになったことは
特記すべきです。
徳積善太