あめんぼの会 朗読会

rekisy

2013年01月20日 02:32

今日は高山市図書館で「音読サークルあめんぼの会」さんの音読会がありました。

会場にはたくさんのお客さんがお見えになっていました。

「飛騨人の語り」ということで、「谷口与鹿」について書いてほしいと言われ、文章を書きましたが、それをメンバーの方に読んでいただきました。
文章はさることながら、とても上手に読んでいただいたので、自分が書いた原稿とは思えないくらい、自分で感動しました。

お読みいただきました方には、ありがとうございました。


原稿です。

「赤い中橋を行く、豪華絢爛な屋台。毎年、桜の時期が重なると薄いピンクの色合いに赤い屋台の幕のコントラストが一層映え、たいへん美しい姿が観光客の目を楽しませてくれます。永い飛騨の冬を終えるかのように、木々も草花も一斉に芽吹き、屋台の彩に華を添えます。それが春の高山祭りと言われている、日枝神社(山王祭)の例大祭です。

春と秋に行われる山王祭と桜山八幡宮の例大祭=八幡祭りは、全国的に「高山祭り」として大変有名になりました。山都高山のこの2つの祭は江戸時代から続く屋台の祭として、よく知られています。高山祭りの屋台は、飛騨の匠の技術の総結晶であるといわれています。ゆらゆらと揺れる屋台の大工の技術。よく見ると中段部分と上段部分は逆に揺れ動くように作られています。猩々の血で染めたと言われる赤い幕は、色あせることなく屋台の中段に取り付けられ、目に鮮やかな色彩を施しています。柱やようらくには金(きん)をふんだんに使った装飾が施され、まばゆいばかりの輝きを放っています。下段には、白木彫りの彫刻を施し、躍動感の溢れる彫刻は、まるで生きているかのような雰囲気があります。

恵比寿台の手長足長や親子龍。麒麟台の唐子群遊。琴高台の波間の鯉。神楽台の欄間の龍など、これらの彫刻はすべて名工といわれた谷口与鹿の作品です。谷口与鹿は、今からおよそ190年前の文政7年(1822)に高山の向町で生れ、29歳で高山を離れるまで数多くの作品を残しました。もともと大工の家に生れ、江戸時代の社寺建築で有名な大工谷口権守一家の子供として、幼少から大工になる様に育てられました。大工の修業をしていた与鹿に最も影響を与えたのが、五台山の獅子の彫刻です。当時、高名をとどろかせた諏訪の和四郎と呼ばれた立川富昌(たてかわとみまさ)の彫刻が屋台にとりつけられ、ちょうど屋台蔵の建造を携わっていた谷口家の一員として与鹿はその彫刻に深い感銘をうけました。与鹿に彫刻の手ほどきを教えたのが、谷口家の一人であった中川吉兵衛(なかがわきちべい)でした。彼は屋台中段上部にある牡丹彫刻を最も得意としており、山王祭の神楽台、麒麟台、八幡祭りの布袋台などに数多くの作品を残しています。しかし、吉兵衛が教えたのは、彫刻の上に絵の具で色彩を施した色彩彫刻でした。与鹿は和四郎の白木彫刻を見て、木目の表わす動き、木目が表わす表情の素晴らしさに影響を受けました。それ以後、与鹿はほとんどの作品をこの白木彫刻で仕上げています。
また、与鹿の彫刻の特徴は、獅子の毛並みが風や動きを表わし、波は躍動感にあふれ、龍の瞳はにらみを利かせるなかにも優しさがあり、人物はそれぞれが優しさと悲哀の表情を合わせ持った不思議な魅力があります。

与鹿は、嘉永3年29歳の時に突如、飛騨を去り、京都の書家 貫名海屋(ぬきなかいおく)を頼って京都に向い、彼の紹介で伊丹の豪商岡田柿園(しえん)の所に寄宿しました。そこで与鹿は、岡田家に集まる文人墨客と交流しながら、好きな酒をたらふく飲み、元治元年(1864)9月23日に48歳の生涯を閉じるまで、勝手気ままに生涯を伊丹で過ごしたと言われています。
伊丹滞在中は、私塾明倫堂の初代校長橋本香坡(こうは)や、近衛家の侍従として力を発揮した梶曲阜(かじきょくふ)などとも交流しました。このご縁により、安政2年に与鹿は孝明天皇に拝謁するお許しを得て、天皇が卯年生まれであった事から兎の香合を献上したり、安政4年には、香坡と共に長崎に遊学したと伝えられています。

 今日なお、きらびやかな美しさを今に伝える高山祭りの屋台。それは、こうした谷口与鹿と言う無名の彫刻師によってその名声が広げられたと言っても過言ではありません。屋台の素晴らしさは、総合芸術としての匠の技の結晶ですが、それを作り、今日まで素晴らしさを伝えてくれている匠の人たちの事を考え、顕彰してみてはいかがでしょうか。」


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