止利仏師(鞍作止利)について

rekisy

2007年11月27日 00:04

皆さん、いかがお過ごしですか?
ネコ先生から「止利仏師の伝承は、どこまで信憑性があるのか?」
とのご質問をいただきました。

この時代(飛鳥時代)の出来事というのは、証拠がなく、なかなか伝承の域を出ません。
しかし、飛騨には、数々の伝承が残っていることも事実です。
今回は、この止利仏師について、お知らせしたいと思います。

まず、私の所属します、匠学会が発行した「新飛騨の匠物語」という本には、つぎのように
出ています。

「この名工の生没年や、生誕地を正史は何も記していない。
しかし、飛騨の山中に生まれたという伝承が、今日まで長く言い伝えられている。

村の伝説では、止利仏師は同村天生の山中に誕生。17歳の時に奈良の都に上がり、
父多須奈に技術を習って彫刻師となった。
その後、法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像など、現在は国宝に指定されている
20数体の仏像を製作したと伝えられている。
飛鳥寺(法興寺)の日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏、釈迦如来像(606年)も
止利の作といわれているが、仏像よりお堂が先に完成し、入口より大きい仏像を入れる
という不可能なことを、止利の秘技で入口を壊さず、その日のうちに納めたという逸話もある。

止利仏師(鞍作 鳥)は、飛鳥時代第一とうたわれた仏師で、わが国仏工の租といわれる。
法隆寺の三尊像の光背銘には、司馬鞍首止利仏師と明確に刻まれている。
 「日本書紀」は、父を鞍部多須奈、祖父を鞍作司馬達等と記している。
司馬達等は中国南梁からの渡来人といわれているが、梁を南梁と呼ぶことは少なく、
朝鮮半島の出身であろうという説もある。鞍作部は元来は馬具製作の技術者集団だった
そうである。

天生伝説では、鳥(止利)の父である多須奈が推古天皇の命により、飛騨に入って材をさがし、
河合から白川郷にぬける天生峠で樹を伐ろうと斧を振るうと、樹から血が吹き出したり大荒れ
になった。
そこで多須奈は都に帰って、聖徳太子が16歳の時に作られた自我の仏像三体のうちの一体
を授けられ帰山。天生に安置したところ、それ以後は平穏になり何の異変も起きなかったという。
この仏像は平清盛が病気の時に拠出を命ぜられたが、現在では神岡町の吉田常蓮寺にあるという。


 月ヶ瀬伝説は、天生峠近くの余部の里の農夫九郎兵衛の娘、忍が満月の夜に川面に映った
月を掬って飲みほすと身重になり、生まれた子供は首が鳥に似ているところから鳥と名づけられた
という伝説である。これを裏付けるかのように和漢三才図会(江戸時代正徳2年成立の図入り辞典)に、
止利仏師は司馬達等の孫であるが、飛騨国鞍作の手為名の子である。
天生に来て神女と結ばれ子が生まれた。これが飛騨工となり、と載っている。
更に、それにまつわる伝承も幾つかある。いずれにしてもそれらを実証するものは残っていないが、
飛騨の山村に長い間伝えられてきたのには、やはりそれなりのことがあってのことと思う。
また、止利仏師生誕伝説があるのは、全国でもここだけという。

河合村月ヶ瀬には飛騨の匠の碑が建ち、小鳥川には多須奈渕、忍岩、神女の泉と名付けられた
場所がある。また、聖徳太子の秘仏を祀ったという跡には、法隆寺の間中定泉管主(1963~1982)
の筆による「聖徳太子堂跡」と刻まれた石碑も建っている。


天生伝説の場所に建つ飛騨匠堂では匠祭りも毎年行われ、獅子舞とともに勇壮な匠太鼓も披露され
など、村を挙げて止利仏師での地域活性化、村おこしに取り組んでいる。
 やはり、ここ河合村は止利仏師ゆかりの地であり、飛騨の匠発祥のルーツなのかも知れない・・・。」


飛騨には、鞍作止利の伝承が昔から残っており、月ケ瀬の伝説として今日に受け継がれています。
ただし、実証するものが残っておらず、証拠はありません。

また、月ヶ瀬という地名は、全国に数カ所あるといわれていますが、近くでは、東名阪自動車道の途中に
月ヶ瀬というところがあります。あの場所にはこの月ヶ瀬伝説は残っていないらしいです。
そういうことからすると、飛騨に残っているということは、可能性が高いという話になります。

明日は、この止利仏師の伝説について、お知らせしましょう。

徳積善太




関連記事
紙魚のやとり
笹魚(ササウオ)
佐美川の石碑
白真弓の特別展示
飛騨の匠の伝説1
月ヶ瀬伝説1
止利仏師(鞍作止利)について
Share to Facebook To tweet