徳本上人の美濃教化_その4

rekisy

2011年07月22日 20:00

生き仏
徳本上人の美濃教化とその足跡を訪ねて
~徳本名号碑などの調査から~    北川雅弘
(岐阜市歴史博物館研究紀要 第15号 平成13年3月31日発行)


「九、美濃教化とその足跡

  「八月十七日(陽暦十月四日) 正七ツ時 摂津勝尾寺御出立被遊、皆々御供仕ける、御上人
御駕籠人足之儀ハ美濃国より江崎村御同行中御願により外之衆中に手伝申さす…」
上人のほかに随伴僧七人、同行二人と岐阜からのお迎えの二寺院と四十一人で、総勢五十人を
超える大名行列なみである。

   「廿日 七ツ半時御出立、呂久孫右衛門より御馳走、御上人様御座船に召玉ふて御念仏声高
に御唱へ遊ハし渡らせ玉ふ、美江寺瑞光寺御泊り、同行中ハ海老屋粂蔵方にて泊り」

   美江寺・瑞光寺(巣南町美江寺)の寺標左脇の自然石に徳本名号碑(高さ150cm)があり、
右裏に「文政元(一八一八)戊寅十月六日」と上人の寂日を刻み建立されている。(図版6)




 この寺の境内にある松井家の墓地には、徳本名号を刻んだ円筒型の小型の墓石三基が現存する。
 新月・千休寺(巣南町田之上)は旧中山道に沿った尼寺である。
入口左脇の自然石中央に徳本名号、右脇に「安心起行」、
左脇に「申せハもよいほどになき時のかた身」と刻んだ塔(高さ80cm)が建立されている。

その塔の台座には「為釈帰源・即住菩提、天保四年癸巳八月」と刻んであり、二人の供養のために
建てたものであろう。

 本堂左脇の無縁墓石の中ほどに、無縫塔(高さ54cm)の塔身に小字の徳本名号を刻んだものが
建立されている。その請花の台座には、「釈浄願・本誉孝真法尼・尼妙順・尼妙蓮」と、この寺の尼僧と
信者であろうか法名が刻んである。

  「廿一日 朝七ツ半時御出立。西荘立教寺へ御立寄ニて御小食御供養なされ暫時のうち御念仏
有て、加納西方寺へ御立寄りまたまた暫く御念仏御勤め被遊、同所欣浄寺にて御斎御供養被成、
又々御念仏有て加納御出立遊バし加納より岐阜迄の所参詣の人にて道すがら立ふさがり人馬通行
をとゝめ、程なく御上人様岐阜地江入らせ玉ふに山も崩るゝ高声念仏ミな念仏の外ハなし、実に有
かたき御事也」

 加納・欣浄寺(加納栄町二丁目)には、本堂裏手の無縁塔の中心に御影石の徳本名号碑(高さ142cm)
が建立され、裏に上人の法号、「名蓮社号誉上人祢阿弥陀佛徳本行者、文政元年寅十月初六日寂」、
右側面に「文政四年(一八二一)辛巳秋七月吉日」。左側面に「現住當誉代十二代天保十一年没」と
刻んである。

 加納・西方寺(加納新本町一丁目)には、本堂左脇岩石の上の自然石に徳本名号碑(高さ115cm)
が建立され、裏面に「名蓮社号誉上人祢阿弥陀佛徳本行者、文政元寅年十月正六日」と刻んである。
この名号碑は、戦災に遭っていて焼け跡と亀裂が生じている(図版7)


 加納藩士田辺政六は日記に、徳本上人が岐阜・誓願寺へお越しで、当町西方寺と欣浄寺にお立ち
寄りになった、と記している。(注9)

 「岐阜町へ御かゝり遊バしゑひとうとう群集をそしける。御駕籠横にそなへ数十人の手先へ指上
奉り御十念御授けまします。数万の諸人随喜の涙ふくに暇なし。上笹土居町仕立屋治左衛門ハ講中
の発頭なれば一番に立寄玉ひける。暫御小休有て因幡誓願寺江御着籠有ける、誓願寺にて暫く
御念佛ありて御庵室極楽寺へ御引取被遊御ひろひ被遊候、御歩行を拝待んと地内群集をなす

 廿二日 朝六ツ時より御念仏御勤被遊、初日より参詣群衆をなす事前代未聞、先一枚起請文の
有かたき御事を御説被遊、唯往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑ひなく往生するそと思ひ
とりて申す外ニハ別の子細候ハすと御説初め玉ふ、此文を能々聴聞申上奉るに何れの法を御教化
有とも南無阿弥陀仏に勝たるハなし…」

一枚起請文は法然上人が入寂二日前に書かれたもので、上人の教えの真髄をまとめてあり、浄土宗
の安心起行この一紙に至極せりとある。(注10)


 勝尾寺からの徳本上人一行は、一枚起請文を一万枚ほどと一枚起請文の版木も持参している。
現存するのは説教所となった伊奈波の誓願寺の一枚と、我が家の先祖がこの日にいただいたと思わ
れる一枚、それに版木の異なる徳本上人の一枚起請文が宿所となった極楽寺に一枚の計三枚しか、
発見することが出来なかった。(図版8)


 「廿三日 西材木町天野利兵衛より誓願寺江御帰寺在りて直ニ御念仏御勤被遊、長線香
壱本終りけれハ御説法始る、御上人様御厚徳を仰きてや貴賎男女の隔てなく我も我もと押合へ
合参詣するこそ奇特也

  廿四日 早朝より御念仏御勤め遊ハし、やゝありて又々御説法被遊重ね重ね聴聞申上奉るに
身にしミしミと有かたき御教へなり

  西美濃大垣の城下なる竹嶋町畳屋(水谷)惣助と言者の娘まだうら若きつぼミなるに、上人様
をしたひ来りて最早浮世は秋の紅葉に引かれて剃髪善尼となられける。皆々見る人涙をながし殊勝
ゝと申しける、速に御弟子となり、名は蓮微と申ける」


 城田寺・善光教会は山裾にある民家建ての尼寺であり、さらに山坂を登ると、竹薮の中にただ
一基、無縫塔がひっそりとたたずんでいる。その無縫塔(高さ54cm)の塔身には小字の徳本名号を
刻み、石塔の諸花の台座正面石には、「浄誉花岳蓮微法尼」、右側面に「文政八乙酉年(一八二五)
四月四日」と刻み、蓮微はここで生涯を終えている。(図版9)」


(つづく)

徳積善太

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