坂の上の雲(廣瀬中佐)9_飛騨春秋より6(完)
◇ その遺跡など
廣瀬の死後、福田吉郎兵衛らが中心になって城山公園に胸像を建てた。除幕式は明治二十九
年九月二十九日、五十三センチ、原形鋳造ともに渡辺長雄、費用千円。いわゆる中佐平に
城下町を見下ろすこの胸像は、その後敗戦直前まで軍神廣瀬として市民に親まれ、毎年海軍
記念日(五月二十七日)には東小学校児童による除草清掃作業が行われた。
東校では修身教材として廣瀬を大きく採りあげ、幾つかの徳目を設定し学年別の大部の
教授要項を編綴していた。この教案も現在“資料”として保管されている。敗戦後の教育
の混乱期に天皇写真の保安箱さえ焼棄てた学校の多かった中で、厳しいGHQの監視の目を
のがれて廣瀬資料を散逸せしめず守り通した東校の管理者たちの英知と勇気は十分評価さ
れてよい。
廣瀬の銅像は敗戦直前、昭和十九年三月二十七日、金属回収の名のもとに撤去され、鋳潰
された。海の軍人のささやかな胸像すら回収して止まなかった当時の軍需のひ弱さと焦りが
そのままであらわれている。現在の胸像は戦後、廣瀬への追慕止みがたい旧海軍関係者有志
の手によって復元されたものである。しかしその像が来観者に訴えるものは極めて少ないか、
戦前のそれとは全く異質のもののようである。
某日、この像の傍で聞いた和解観光客の言葉。
「廣瀬中佐って何んだい、どうして死んだのさ、おれたちには関係ないよ」
私はEHカーの言葉を思い出した。「歴史とは現在と過去との対話である」。その対話の
手がかりすらすでに歴史の底深く埋没していきつつある。わたしは暗然として山を下った。
わたしが廣瀬資料の集成と整理に手をつけたのは数日後であった。
(註)資料としては主として次のものによって。ご協力いただいた各位に厚くお礼申上げ
ます。
福田家文書・東小学校廣瀬武夫資料・(大分県教育会)詳伝軍神廣瀬中佐・(高橋安美)
軍神廣瀬武夫・(司馬遼太郎)坂の上の雲・日進日露戦史類・高山裁判所文書・飛騨編年
史要・高山市役所市民課文書・住敏三氏談話・その他
中佐平 菱村正文
花をもつもたぬ荒草生いしげり
二の丸のあと道をとざしぬ
完
徳積善太 写す