(1月25日放送分136回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けして
まいります。
なんかあれよあれよという間に、一月も終ろうとしています。早いですよね。こんな
ことをしているときっと今年もあと少しという感じになるのでしょうか。本当に光陰
矢のごとし。月日のたつのは早いですね。
さて、本日の放送は、先週予告をしましたように、軍神廣瀬武夫中佐のお話をしたい
と思います。本来でしたらこの内容は何日かに渡ってお話したほうがよろしいかとは
存じますが、とりあえず今月末にNHKの公開セミナーがありますので、かいつまんで
お話したいと思います。
実は、昨年の五月に、郷土館で調べ物をしていたら、偶然お会いした青年がいました。
現在、「坂の上の雲」で廣瀬武夫中佐を演じておられる藤本隆弘さんでした。
その時は、とっても背の高い好青年だなあという印象しかありませんでしたが、彼は
役作りのために廣瀬武夫の足跡を辿っておられました。彼は2度のオリンピックを経験
した水泳の選手で、俳優に転業して初の大作と言う事で張り切っておられました。
郷土館には城山の廣瀬中佐の胸像以外に沢山の資料があるようでしたので、それ以外に
知っていた廣瀬武夫の住居跡をご紹介しました。その場所は八軒町の一本杉白山神社の
前の一軒の住宅跡地です。
今はその建物を取り壊してしまったのですが、そこには、「軍神廣瀬中佐居住地跡」
という白い木柱が立てられています。丁度、一本杉白山神社の社号石の横のところに
あります。
実はここには私の祖父の姉が80年住んでいて、その建物の管理人が私でした。
建物もシロアリにやられてしまって老朽化したし、平成十四年に祖母もなくなったので、
大家さんに相談したところ、更地にして返して欲しいとの要望があり、平成15年の3月に
建物を取り壊しました。その建物が廣瀬中佐がかつて住んでおられた家だということを
知っていたので、藤本さんにお知らせした次第です。
なお、建物は、壊す前に郷土館の学芸員の方に、写真だけ撮っていただきました。
さて、廣瀬武夫中佐と聞いてピンと来る人は相当な軍事マニアだと思います。
かつて、廣瀬中佐といえば、軍神と言われて、文部省の唱歌にも歌われていたほどの人
ですが、昭和初期の軍国主義の時代に教育を受けた人しかすでにご存じないと思います。
現在、NHKにて司馬遼太郎の「坂の上の雲」で廣瀬武夫が登場していますが、簡単に
申し上げると、日露戦争の旅順作戦で三度の壮挙を決行。壮烈な戦死をとげたことで
軍神としてあがめられた人です。「杉野はいずこ、杉野はいずや」という名文句は大変
有名です。
高山には、廣瀬中佐の胸像が現在も城山の中佐平にあります。
これはもともとあったものを昭和18年に金属供出でなくなっていたものを昭和42年に
一回り小さくして作り変えられたものですが、そこの看板にはこう書かれています。
「海軍中佐 広瀬武夫銅像 この銅像は明治三十八年中佐の同窓である高山の有志に
よって建立せられ、昭和十八年大東亜戦に胸像のみおうしょう応召されたのである。
惟(おも)うに中佐は、明治元年(1868)5月27日大分県竹田町に生れる。父が高山裁判所
長として赴任したため明治十年高山煥章学校(現在の東小学校)に学び明治十五年小学校を
卒業、海軍兵学校に入学、明治二十四年一月少尉に任官、明治27,28年の日清戦争には
軍艦扶桑の航海士として参加。明治37年日露開戦で旅順港の閉鎖戦に三度の壮挙を決行。
同年3月26日壮烈な戦死をとげる。部下、杉野兵曹長の姿を求め「杉野はいずこ杉野・・・」
と叫びつつ戦死した有様は軍人の鑑として戦前の教科書に取上げられた。
柔道は30歳で四段。没後講道館より六段を贈られた。人間として人を愛し、部下を
慈(いつく)しんだ心は平和な現在もっとも大切なことであります。
胸像のなきままこれを放置するに忍びず、昭和42年特別寄進者の御協賛により中佐の偉勲
と徳風を景仰し、城山公園の風致を整え、以って高山観光の一助として補修復元したもの
です。 高山、大野海交会」となっています。
以前、飛騨春秋の社主をされていた菱村正文先生が、この廣瀬中佐と高山について、
書かれています。それによりますと、もともと廣瀬中佐のお父さんの重武と言う人は、
少数派の勤王党に属しそれだけに苦労が多く、弾圧―禁固―釈放―再禁固などを繰返
しながら、明治維新に際し新政府にとうよう登傭されました。
明治元年閏四月三日大阪裁判所取締役に補せられて堺の役所に勤め、その後新政府の
機構変化に従って各地を転々とし、明治九年神奈川、次いで松本裁判所詰となり、
筑摩県新設と同時に明治9年七月三日任判事補 筑摩県高山区裁判所長としてはじめて
松本から高山に赴任した人でした。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。
曲は「軍神廣瀬中佐」をヒッツFMの佐田鐘子さん提供でお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬中佐と高山についてお話しています。
お父さんの重武は高山在任六年三ヶ月、その間機構改革で区裁判所から始審裁判所に
なり、同時に治安裁判所長も兼務しました。当時年棒六百六十円、高山地方としては
高級生活者でした。
さて、当時、息子の武夫もお父さんと一緒に高山へ直ぐに来たかと言うとそうではなく、
大分の竹田に住居していたようです。当時九歳でした。丁度その時にお母さんの登久子
が病死し、家も、その時に西南戦争で西郷軍によって焼かれてしまったので、祖母は
武夫・潔夫・登代子の三人を連れ、祖先の位牌を武夫の背中にくくりつけて祖母の実家
三本松に避難しました。
この悲報に驚いた重武は家族を高山に引取るため竹田に帰りました。さすがに祖母も
高山行きを拒み続けていましたが、行く当てもないので高山に行く事にしました。
明治10年1月でした。
一行は大分―瀬戸内海―大阪-京都―岐阜を経て高山に着きました。飛騨街道二泊三日、
子供たちは駕篭で、途中武夫の駕篭の底が抜け、歩かされて泣き出したという逸話が
あります。明治十年ごろ、まだこの街道で駕篭が使われていたようです。
高山での当初の借家は八軒町の田近方でした。官舎に入るのは三年後であり、その間
田近と西町の森川家の借家住いが続く。田近というのはどういう家なのかわかりません
が、おそらく私の祖母の家が森川氏の持ち物だったので、八軒町の一本杉の前の家に
住んだものと思います。
実は、武夫の家族は相当複雑で、お父さんには、このとき妾の琴子(きんこ)がいて、
前妻との間には、武夫を含めて四人の子供。妾琴子との間には、二人の子供がありました。
武夫の兄は、海軍兵学校に行っており、高山には来ませんでしたが、結局高山には、祖母と
前妻の子供三人とお妾さんと子供2人の6人が一緒に来たそうです。
当時、この6人が一緒に住んでいたかどうかわかりませんが、武夫には、亡き実母と、祖母、
お妾の琴子、そして、当時女中として働いていた安川の有巣かのの4人が母親だったと菱村
先生は述べておられます。
武夫は、10歳で高山に来て少年時代の一番多感な時期をこの4人の母親に育てられました。
前述のように、武夫は煥章学校に入学しますが、当時、明治8年の高山大火で煥章学校が
再建されたばかりで、新築なった新しい「馬場学校」に通いました。最初下等五級に転入
しましたが、学業は優秀で、高山に来たすぐにあった昇級試験で、50点中40点と言う高得点
をあげ、一階級どころか、二階級特進しました。現在も遺品としてこの答案が東小学校に
残されています。
この時の順位は、2番が武夫。3番が杉下元次郎、4番が牛丸安太郎。彼らは、知己の友と
して一学年上の福田吉郎兵衛とともに大親友となります。そのほかにも武夫の友人は、後の
高山町長直井佐兵衛。日枝神社の神官で教師も勤めた富田豊彦など、地元では有名な方ばか
りです。
さて、明治15年春、武夫は優秀な成績で学校を15歳で卒業し、学校から委嘱されて代用教員
となりました。とても若い教員でしたが、友情に厚く、運動神経が発達しており、性格が純粋
だったこともあってとても子供たちにとても好かれていたようです。
この時の逸話に、学校の幹事某がとても横柄な男で、給料を支払う時に自分の懐から恵んで
やるような威張り方だったために、武夫は無視し、何ヶ月も給料を取りにいかなかったそう
です。結局相手のほうが折れて武夫がその態度を厳しく責め立てたと言うことです。
その後は、小説「坂の上の雲」にあるように、海軍予備校である攻玉社に入学。6年半に及ぶ
高山での生活にピリオドを打ちました。そして、ロシア留学、日清戦争、日露戦争へと移って
いきます。そこでは、先ほどの歌にもありましたように、日露戦争の旅順作戦において、港の
入り口を封鎖するために爆破した福井丸の乗組員杉野兵曹長の名を叫びながら死んでいきました。
37歳と言う短い生涯でした。
彼が亡くなる10日前の手紙が高山に残されています。
大親友の福田吉郎兵衛にあてた手紙で、そこには、こう書かれています。
「時下厳寒にて折々哨兵当直勤務などには稍々こたへ候も、最早永く続かざる可しと存じ候、
飛騨の雪景は如何、今日も疾風雪を捲き居申候間、想い出し候 再拝 武夫」
日露戦争の戦時にあって、最後まで飛騨の雪景色を思い浮かべた武夫。彼にとって飛騨高山
はとても思い出深き場所だったようです。
この続きは、NHKの公開セミナーでお勉強ください。
さて、本日も時間となりました。来週の放送は、先日、シルバー案内人会の方に高山を案内
していただきましたので、そのお話を話題にしたいと思います。今日は、この曲でお別れ
です。「月月火水木金金」ではまた来週!
徳積善太