平成25年6月22日放送分_北飛騨の浄土真宗について

rekisy

2013年06月22日 23:59

(平成25年6月21日放送分 第297回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 それにしても毎日暑いですね。先日は6月というのに摂氏39度を記録した所もあったり、高山でも33
度を記録し、六月としては観測史上初めて最高気温が30度を越えたと云うニュースをやっていました。
先週の放送で、雨の方も5月の降水量が例年の3分の1ということをお話ししましたが、やっと3日ほど
前にまとまった雨が降りました。名古屋の水がめである下呂市金山町の岩屋ダムでは、貯水量が
例年の半分以下となり、とうとう、節水や取水制限が行われていますから、恵みの雨になったでしょうか。
高山地区では有難いことに、取水制限などは行われていませんが、それでも、農作物などは雨が降らな
かったので、水まきが大変なようです。

 私の家には、2坪ほどの中庭が有るんですが、あまりに暑いので先日水まきをしました。
植物の葵も、水不足のせいか、下の方の葉っぱが黄色く変色し出しましたので、これは水不足だと思い、
水まきをしました。ちょうど大阪で37度を記録した日です。いつもは、だいたいバケツに4杯くらいかければ、
地面が有る程度湿りますので、その位で十分なんですが、水をまいてもすぐに乾いてしまい、この日は、
なんとバケツに10杯水まきをして、ようやく地面が湿ってくれました。地面自体が乾いてしまっているん
ですよね。これには驚きました。

 これだけ気温が上がりますと、一番怖いのは熱中症です。適度な水分を補給しないと、室内にいても
体温が上昇してしまいます。今年は熱中症による死者も出ているようですから、どうぞ気をつけて下さい。
ただし、水だけとればいいかというとそうでは無く、塩分も必要なようです。いちばんいいのは、スポーツ
ドリンクを取るのが一番でしょうが、適度な塩分と適度な水分を取って下さい。皆さんには、お気を付け
いただきたいと思います。

 さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は先週予告をしましたように、第三週ですので飛騨市の
話題をお届けしたいと思います。先週は白川郷の浄土真宗の調査活動をお手伝いしたそのときのお話し
をしましたが、今日は、北飛騨地区の浄土真宗のお話をしたいと思います。

以前、4月の放送でお話ししましたが、浄土真宗の教如上人の400回忌が今年4月1日~7日まで京都の
東本願寺で開かれました。私は浄土真宗信徒ではありませんが、4月2日にその展覧会を見に、京都まで
行ってきました。それは、今年の10月5日から高山別院で開催する「飛騨と教如上人展」の勉強と、具体的に
借用する物がないかと調査に行ったことが目的です。

実は、現在、その展覧会に向けての調査を行っています。教如上人の足跡と飛騨における関係を調査する
ためです。先日は、一緒に調査活動を行っている竹田さんが、神岡町吉田にある常蓮寺に調査に行かれ
ました。
そこには、教如上人とお父さんの顕如上人が一緒に信長と闘った時に、全国の門徒に石山本願寺にこもって
闘うために応援を要請した、文書が残されています。この文書のことを「檄文」といいますが、その顕如如の
檄文には、この様な事が書かれています。「近年信長より無理難題を押し付けられ、法儀がおろそかになって
いる。何とか仏恩報謝のために念仏いただきたい。

詳しくは、上野法眼や下間刑部より連絡させます」などという内容になっています。つまり、本願寺を守る為に、
全国の門徒や僧侶に対して本願寺への結集を呼び掛けたものです。

今から400年以上前の話しですが、織田信長が群雄割拠していた時代のことです。織田信長は尾張と三河を
統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破り、斎藤道三も滅ぼして美濃を手中に入れたころの話しです。京都に
上洛を志した信長は、上洛を阻止しようとした浅井朝倉の連合軍と戦います。
この時に一度は、信長は負けるのですが、最終的には姉川の戦いで浅井朝倉軍を殲滅し、滅ぼしてしまうと
云う有名な戦いが有ります。これは、NHKの大河ドラマなどにも取上げられていますから、みなさんもよく
ご存じだと思います。

その頃、この朝倉軍の陰で、朝倉氏を操っていたと云われる僧侶がいます。それが浄土真宗の僧侶顕如上人
でした。顕如上人は、信長が京都に及び、徹底的な武力による宗教弾圧を行おうと、本願寺に無理難題を
押しかけ、矢銭の提供などをしてきましたが、ついに寺院破却を通告してきたがために、徹底抗戦を計るのが
石山本願寺の戦いです。
信長の宗教弾圧で一般的に有名なのは、永禄( )年の比叡山の焼き打ちですが、これは読みものなどで
信長自身の残虐さを表現するために、比叡山で僧侶のみならず女子供も徹底して殺害したと云うことで、よく
物語などに取り上げられていますが、信長の弾圧は仏教界全体に及んだものでした。後半ではもう少し詳しく
お話します。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は「    」をお届けします。
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本日の放送は、北飛騨の浄土真宗調査についてお話ししております。

実は、調べてみますと、同じ年に比叡山ばかりでなく、浄土真宗の金ヶ森御坊も同じ年に徹底して焼き討ちに
遭っていることが分かりました。ここで、金ヶ森と云いますと、高山城主金森長近公の名字、金森を思い浮か
べる方が多いと思いますが、そうです、金森氏の名字の由来となった金ヶ森御坊その場所です。

この金ヶ森御坊は、蓮如上人の一番弟子、川那辺弥七入道道西の開基した場所で、当時はこの御坊を
中心に沢山の人が比叡山と同じ目に遭ったと思います。一方で金森長近にとっては、自分の知り合いも
含め、子どもの頃から見ていた自分の故郷を焼き打ちにされたわけですから、それはそれは さぞかし無念な
思いであった事でしょう。この時からおそらく長近は、自分の退路を断たれ、信長に絶対服従を誓ったのでは
と想像します。

さて話を戻しますが、この頃、顕如は本願寺を摂津の石山本願寺、現在の大阪城のある場所に本拠地を移し、
信長に徹底して抗戦を計ります。そのため、信長包囲網という物を用意周到に作りました。公家の三条公頼の
3人の娘は、長女が細川晴元の妻、次女が武田信玄の妻ですが、三女が顕如の妻となります。
したがって、先ほど浅井朝倉連合軍が信長と闘った話をしましたが、この朝倉義景の妻は細川晴元の子供
ですから、細川家・朝倉家・武田家とは縁戚関係になるわけです。信長が上洛を計る時に、朝倉軍と戦いを
行っていますが、その時に、顕如は武田氏に呼び掛けて、京都に出陣するように催促したり、各地の浄土真宗
門徒に呼びかけて、一向一揆を起こしたり、石山本願寺に集結することを呼び掛けて用意周到に、信長の宗教
弾圧から浄土真宗を守ろうとしました。

それが先ほどご紹介した顕如のご消息といわれる檄文で、神岡の吉田常蓮寺に遺されているもので、現在は、
飛騨市の文化財となっているものです。それは全国のあちこちの浄土真宗門徒に対して、浄土真宗の本山で
ある石山が危ない。自分たちの信じている阿弥陀様のご加護によって浄土真宗を守ろうとしたというわけです。

実は、今回の調査で、顕如の檄文以外に、防官の下間頼廉の文書も常蓮寺に残されていることがわかりました。
そちらの内容もだいたい、顕如の檄文と同じですが、門主としての檄文の方は、浄土真宗の安堵の事が書き加え
られ、最後には、浄土真宗の常とう句である「あなかしこ あなかしこ」でしめられています。

本来、顕如の檄文一つで呼びかけが行われるべきところですが、当時ですから、文書を偽造される事も考え
られます。そのために2つの文書を差し出したのではと、竹田さんにお尋ねしますと、「当時必ず本人が書く
以外にも、こうして防官が同じ内容のことを書く習わしになっていた。上人は、僧侶のトップとして浄土真宗の
安堵の内容も含まれているが、防官の方は事務的な内容となっている。」とのことでした。

さて、こうして飛騨の門徒たちも、そういった2つの檄文により、石山本願寺の戦いに参戦しました。
後々、その人達が帰国する時に参戦してくれたお礼にと、父親の顕如上人と教如上人は、自筆あるいは父親の
書いた「南無阿弥陀仏の6字名号」を下付したりして、手土産に持たせています。そのため、在家といって、
信者の人の家の仏壇にこの六字名号が懸けられて居たり、大切に保管されたりして居ます。今までも、高山の
東等寺、玄興寺の六字名号などが知られ、門徒衆の人達が石山本願寺に行った事は確認されていましたが、
今回の調査で、朝日町の長圓寺や法正寺。飛騨市の北部地方や白川郷の一般の家庭に在るお仏壇に
そのときの六字名号を多数確認しています。
詳しくは10月の展覧会で展示可能なものは展示したいと思いますので、楽しみになさってください。

一見、織田信長等の諸侯が群雄割拠した時代に、飛騨というのはそういった戦争に全く関係がなかった様に
思いがちですが、そういうわけでは無く、石山本願寺の戦いで信長と戦った人々があったということです。

地元で知られる三木氏と江馬氏などの戦いの他に、織田信長の連合軍と戦ったわけですから、石山本願寺の
戦いに参戦して無事に帰って来た人たちは、当時としては相当な英雄として称えられ、行ったご本人も相当、
英雄気取りだったんでは無かったでしょうか。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、第4週ですので屋台の話題。今回のお話は、先日、大津市に
行って、「大津絵」について調べてきました。かつて高山祭りに「大津絵」という名前の屋台がありましたので、
お調べしたことをお話したいと思います。どうぞお楽しみになさってください。
本日はこの曲でお別れです。雨が降ってくれますように、雨雨降れ触れもっと降れという歌詞のある 八代亜紀
で「雨の慕情」をお届けします。それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太

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