中橋の歴史と江戸時代の色について260215放送分

rekisy

2014年04月08日 00:54

(平成26年2月15日放送分 329回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第2号、わたくし長瀬公昭がお届けして参ります。

 今週は寒くなって、やっと高山らしくなりましたね。冬というのに雪が少なくて、道路を走りやすいので大変
ありがたいですが、一月の末には、道路の雪も溶けてしまった上に、雨まで降って、とても飛騨の冬とは思え
ない気候が続いていましたね。今年は、11月に国分寺の銀杏が一気に落ちて、大雪ではないかと心配され
ましたが、1月の初めには、大寒波が来て、大変寒い日が続きましたが、低気圧が太平洋側を過ぎてから
発達することが多くて、東北や北海道では大変な大雪となっているところもあるようです。

普段なら、西高東低の冬型の気圧配置になって、飛騨では大雪になりやすいのですが、日本列島から離れた
ところで低気圧が発達していることもあって、飛騨に日本海から湿った寒風が吹きこむこともなく、雪の少ない
冬を過ごさせていただいています。ただし、寒波は降りてきているので、-15度ほどになったりして大変凍み
ましたね。どうぞ、こういうときには寒暖の差が激しいので、風邪など召される方が多いと思いますが、暖かく
してお過ごしください。

 風邪といえば、インフルエンザ。そして今年は胃腸風邪が流行っているようです。
おまけに、冬にはあまり起こらなかった食中毒が流行しています。ノロウィルスというウィルスのようですが、
風邪の予防もノロウィルスの予防も、うがいと手洗いが大事なようです。仮に空気感染したとしても、水を
一日に2.5リットル飲むと、体内の繊毛活動が活発になり、体内に取り入れた菌をうまく輩出してくれるそう
ですから、うがい、手洗い、そして水を大量に飲むことで、体調管理に努めてください。

 さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、先週予告をしましたように、「中橋の歴史と江戸時代の色」
についてお話したいと思います。本来なら第三週ですので古川の話題をお届けしないといけないのですが、
古川の橋も取り交ぜてお話しさせていただきたいと思います。


現在、高山の中橋は、しょうばん(桁の上)のものが古いので新しいものに変更するための工事が行われて
います。実はこの工事は、昨年の10月21日に始まっていますが、第一期工事が今年の3月31日まで。
この第一期工事では、上部部分の工事が中心に行われます。
そして、第二期工事が平成26年にかけて行われる予定で、今度は、橋げたの下の部分が改修される予定です。
耐震工事がなされるというわけです。総工費は予定額ですが、1憶一千万円の費用をかけて行われます。

実は振り返ってみますと、橋げたは大正14年に建設されており、1924年のことですから、すでに90年もたって
いるんですね。昭和40年には上部だけ改修されて、皆さんご存知の赤い中橋に生まれ変わったとのことです。
今はこの補修・耐震補強工事のため、その姿を目にすることができませんが、ちょっとここで中橋の歴史も振り
返りながら知っていただければと思います。

以前の放送でも少しふれたことがありますが、この中橋、今から400年前の天正16年(1588)頃 金森氏により
高山城下町が作られ始めたときに中橋がかけられたといわれています。金森氏による街づくりでは、上流の枡形橋、
下流の鍛冶橋とそしてその2つの橋の真ん中に架けられたという中橋の3つの橋が高山の城下町と現在の本町通り
に当たる向町を結び付ける橋でした。

棟札によると、貞享4年(1687)に架けかえられ、「三度目の架け替え」と書かれていますので、おそらくこの時までに、
3回は流失しているものと思われます。
その後、この橋は、④元禄十四年(1701)普請、⑤享保4年(1719)普請、⑥元文ニ丁巳年(1737) 普請、棟梁は社寺
建築で有名な、松田太右衛門の名前が棟札に見ることができます。⑦明和9年(1772)大原彦四郎代官のときに
大破損しました。丁度大原騒動の渦中ということもあってか4年後の安永5年(1776)になってやっと架替えられました。
このとき、欄干に擬宝珠が取り付けられたということです。
そのあと、⑧寛政7年(1795)飯塚常之丞郡代のときにまた大水で破損し、補修されました。

あと、高山陣屋に残されている記録を見ますと、次のような記録が残されています。
⑨文化8年(1811) 榊原小兵衛郡代、大洪水により東詰が決壊し、擬宝珠が2個流出。翌年、流出した擬宝珠2個が
新調される、というのをはじめ、⑩天保2年(1831)補修、⑪天保15年(1844)欄干取替、⑫弘化2年(1845)補修、
⑬万延元年(1860)補修、⑭文久元年(1861)架替などとなっていますので、江戸時代には合計14回、
その後、⑮大正14年架替、⑯昭和40年補修、⑰平成25年補修など、過去17回の補修や架け替えが繰り返し行われ
てきたようです。ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「   」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「中橋の歴史と赤い橋について」お話しています。

さて、赤い橋は、私の知る限りでは、高山の中橋、古川の真宗寺の前の若宮橋、杉崎の橋、高山江名子川の桜橋
と錦橋。高山の東照宮の橋、国府町半田の琴平神社の前の橋、飛騨市古川町笹ヶ洞の恵比寿神社、あと各所の
お稲荷さんの橋などがあります。もっとあるかもしれませんが、ちょっと気がついたところはこんな所です。

高山の中橋は、昭和40年3月に工事が開始され、4月の祭りが始まる前に完成しました。
当時の高山市の広報紙「広報たかやま」によりますと、次のようなことが書かれています。
「中橋が改良工事、高欄には擬宝珠をー 屋台の行列に、四季それぞれ移り変る美しい宮川になくてはならない
中橋に、一段と風情をそえようと、こんど中橋の改良を行うことになり工事にかかっております。今までの中橋は、
大正十四年にかけられたもので、今度の改良は、三月から行われており、四月の高山まつりまでに完成しようと
するもので、高欄を昔のようにコンクリートで擬宝珠に、欄干は朱塗りとし、照明はアンドン式のものに、床面は
コンクリート舗装されます。擬宝珠はそで高欄ともに両側で十二個。工費は百三十万円です。」などとなっています。

江名子川の桜橋の由来が桜橋のたもとにありますが、そこの記述には、「擬宝珠は中橋と左京橋にしか付ける
ことが許されなかったが、いつしか桜橋にもつくようになった」とされています。
左京橋が改修されたのは、昭和46年のこと。
しかし、現在は、錦橋と桜橋が赤く塗られ、左京橋は目立たない色に塗り替えられています。

古川町文化財審議委員の田中先生によりますと「杉崎の橋は、今から25年ほど前に杉崎の人が橋を架けかえる
ときに、あの橋の場所が姉小路にちなんだ「柳の御所」という字名の場所だったことから、観光の名所にしようと、
高山の中橋にちなんで橋を赤くしたそうです。

また、古川の真宗寺のところの今宮橋は、かつて今宮神社が向町の渡辺家のところに今宮神社がありました。
神社の前の橋ということで今宮橋という名前が付き、その後、神社は喜多若宮神社に合祀されましたが、10年ほど
前に、高山の中橋にならって赤くした」とのことです。

太鼓橋のように反り上がった、小さな赤い神橋=反り橋は、この世と未知なるあの世をつなぐ架け橋だといわれます。
あるいは、神域と現実社会を区別する橋と言う意味があり、ここを渡ることができるのは、神様、天皇、神官に限られ
るとされる地域もあります。
そのため、場所によっては、急こう配になっており、すぐに渡れないような角度になっている場所もあります。

広島の厳島神社では、この橋を反橋(そりばし)、別名・勅使橋(ちょくしばし)とも言い勅使が鎮座祭などの重要な
祭事の際に、この橋から本社内に入ったとの事。勅使が参向した際には、橋板の上に組立式の階段を置いて渡り
やすくしていたそうです。古川の田中先生も「日光東照宮などは、天皇、将軍、神官の人以外は通行できないという
ことになっているらしい。それほど赤い橋は江戸時代は一般の人が渡れないように区別されていたようです。
ただし神道のことですので、一度宮司さんにお尋ねしてみてはどうですか。」というお話でした。

そこで高山の東照宮にお邪魔して、この橋について調べてきました。
宮司さんに依りますと「あの橋は、神様が通る橋だからということで昔から誰も渡っていない。東照宮のお祭りのとき
には、参列者は下で祓い戸のお祓いを済ませてから、長い階段を上がって本殿の下の広場に整列し、上の本殿に
は神主しか上がれない習わしと成っている。飛騨では、唯一、拝殿のない神社なんですよ。神様をお神輿に移して
からも、お神輿でさえ人がかかわるので、その橋は通らないようにしている。」ということでした。


さて橋の色ですが、そもそも赤い橋というのは先ほど来お話ししていますように、神域と人間界を分けるための色
だったということを考えますと、高山の中橋は一般の人が通るわけですから、赤い橋ではなかったと考えられます。
おそらく、白木で造られた橋で、時間がたってから、防腐剤のようなものが塗られていたことが考えられます。
防腐剤といえば、当時は、柿渋かベンガラが塗られていたのではないでしょうか。

また、朱を塗るにはたいへん高価な費用がかかったと思われますので、朱は使われていないと思われます。

そう考えると、おそらく柿渋やベンガラの色で、赤茶系の色ではなかったかと思います。

これについては、まだ検証が必要と思われますが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。    


 本日も時間となりました。今日の放送では古川町文化財審議委員の田中先生、東照宮宮司の三木さん、まちの
博物館職員の皆様に大変お世話になりました。どうもありがとうございました。

来週の放送は、4週目ですので匠の話題についてお届けしたいと思います。

それでは本日はこの曲でお別れです。曲は「    」をお届けします。また来週お会いしましょう!


徳積善太

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