(11月26日放送分 第176回)みなさんこんにちは、飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、私ながせきみあきがお届けしてまいります。
今年もあっという間に終わりそうですね。あと一週間で師走となります。
師走というのは師も走ると書きます。
下劣な私などは、この字を見て「忙しい先生の隣で暇そうにしている先生でも、
走り回る」という意味なのかなと思ってこの字を眺めておりましたが、実際の語源
はそうではなく、語源由来辞典によりますと、師走の主な語源説として、
「師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する「師 馳す」があり、
平安末期の「色葉字類抄(しきようじるいしょう)」に「しはす」の注として説明
されているのが元となって、師が走るの字が当てられた」と考えられています。
また、この他に「年が果てる」という意味の「年果つ」が変化したという説や、
四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からという説や、「一年の最後に
なし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からという説もあります。
いずれにせよ、12月になると年賀状は書かなくてはいけないわ、忘年会のお誘いは
あるわ、正月のために大掃除はしないといけないわと、大変忙しい月ですよね。
そこへ持って来て、最近の日本人は、仏教徒が多いはずなのにクリスマスのお祝いも
しなくてはいけないわけですから余計に忙しいわけです。
私の友人の中国人の方が、「日本人は、おかしいね。クリスマスも正月もお祝いして、
誕生日がお正月の人はどうするね。」って、おっしゃって二人で大笑いしたことがあり
ました。それだけ、他の文化を吸収する民族という事でしょうか。
さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、8月から毎月第四週にお話しして
おります、高山をはじめとした屋台の話をしたいと思います。今日で4回目になりますが、
上二之町の屋台「南車台」と「五台山」のお話しをしたいと思います。
「南車台」というのは、皆さんご存知でしょうか?
御存知ない方もおられると思いますが、現存していない屋台ですから、無理もありません。
この屋台、南に車に台と書くのですが、もともと「指南車」といって、屋台の上に飾られた
人形が、常に南を指すということで知られています。
この機構について、かつては磁石がついていて、南を指したのではないかという話し
がありましたが、平成元年(1989)に愛知県立豊橋工業高校の
石田正治先生の指導のもと、
学生たちが「指南車」の製作に取り組みました。
先生は、中国の古書「古今注、輿服」並びに「宋史輿服志」に指南車が詳しく述べられて
いるのがわかり、その内、「宋史」が愛知県立図書館にあるのをつきとめられて、復元に
取り組まれました。
そうして、実際に「指南車」の構造が複雑な歯車の組み合わせによって成り立っている
ことがわかり、そのことがきっかけとなって、平成2年に高山の「指南車」復元へとつな
がりました。
現在、この時に造られた「南車台」は、高山市郷土館に、参考となった文化祭の展示物
2台は古川まつり会館に保管されています。
そもそも、この指南車というものの歴史は古く、古代中国の伝説の帝王、黄帝軒轅
(けんえん)が敵蚩尤(しゆう)とたく鹿( たくろく)の野で戦った時、黄帝は指南車を造り、
蚩尤が起こした大霧の中でも迷わずに敵を捕らえたという話や、周の時代( 紀元前770
年~紀元前221年)指南車を造ったとの伝説があります。
しかし、それらは寓話、逸話の類で実際に指南車が造られたのは魏代(220~265)以降
のようです。
それから800年ほど後の歴代史書の『宋史』には車上の指南人形である仙人像の手が
車がいかなる方向に転換しても常に南を指すと述べており、指南の仕組みは磁石による
ものではなく、歯車によるからくりであることが詳細に書かれています。
中国では、磁石の利用は古くから知られ、司南針(指南針)として羅針盤として、
あるいは占いなどに使用されました。また、それは方位を示すことから隊列の先頭を
いく車として、黄帝伝説とあいまって、皇帝の威光の象徴とされました。
常に人を導いたことから転じて、「教え授けること」「指し示すこと」などの意味
として『指南』という言葉が今日も使われています。
さて、この南車台組の地域ですが、現在のさんまち通りのファミリーマートがあります
が、そこの南側のNTT駐車場との境目に屋台蔵があり、北には、上二之町の魚問屋川上屋
や、味噌醤油醸造の森七(現在のNTT)、酒造業の代瀬屋などの大店があり、現在は件数
僅か十数件の組ですが、昔は金持ちの組でした。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、杉山清貴で「タイをはずして」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「高山祭りの屋台 パート4 南車台・五台山」について
お話ししています。
さて、その南車台は、先ほど申し上げた大店の皆さんが多かったことから、天保年間の
南車台は、森七左衛門が寄贈したものだったようです。
そのため、森七の使用人の人がその屋台を曳くことが多く、また、これといった彫刻
などが付けられている事がなかったので、「何にもなんしゃ」と人からさげすまれる
ことが多かったようです。
天保改修の前の南車台は、指南車という名前で、文化年間高山祭屋台絵図に載っています。
唐子が二人、屋台の上で指南する唐子の乗った牛車を曳き、2人の唐子が後ろから押す
というものです。おそらく、屋台の上でこの牛車が回ったというものだったんでしょう。
この屋台は、明治31年(1898)に組内34件が焼けるという大火があり、屋台は焼け残った
ものの曳航が困難となったために、郡上八幡の方へ売却がきまったとのことでした。
その時の大火の話しは、斐太高校の校長先生だった代瀬先生が子供の頃の記憶として、
使用人の女性に抱かれ、火の中を逃げたことを回想録に書いておられます。
その後、その屋台も、郡上八幡で2年ほど曳いたようですが、大正初年の火災で焼失した
とも、空き地に放置している内に破損消滅したともいわれています。
次に、五台山ですが、この組は、春祭り屋台の中でも一番少ない6軒で現在は維持管理
がなされています。この創建は大変古く、寛政年間に創建されたとの記録が組内にあり
ますが、屋台雑考の長倉先生によると、宝暦年間だったのではないかといわれております。
そもそもこの屋台は現在の平田記念館のところにあった上野屋清三郎氏が独力で作り、
近所の9軒と共に、下の鳳凰台からわかれて創始したと伝えられています。
この屋台には、「邯鄲の夢枕」というカラクリがあり、文化年間高山祭屋台絵図には、
邯鄲という名前で。文化11年には「蘆生」という台名を中国の名山「五台山」からとって
曳かれていました。
現在の「五台山」という名称になったのは、文化12年から19年後の天保3年に組内の
福島屋から出火した火事で焼失した後、天保8年に、再建された時ではないかといわれて
います。
この屋台の特徴は、縫幕には、円山応挙の下絵で造ったといわれる緋羅紗の唐獅子牡丹の
幕で、この幕だけで35両もしたもので、森七から分家した大坂屋左兵衛が、組入りの引き出
物として本家が造ったものだそうです。
また、車輪は、御所車で、朱塗りの格子の中に納め、曳く時に格子の隙間から車の廻るのが
見えるという趣向のこらされたもので、谷口与鹿の父 与三郎延恭の設計といわれています。
その車輪の、上の所の丸窓には、諏訪の和四郎富昌の作品といわれる飛び獅子が取り付け
られています。屋台組の人には、この獅子が取り付けられてから、獅子が屋台を持ち上げる
ので、屋台を引くのが軽くなったという伝承が伝わっています。
この諏訪の和四郎富昌という人は、歴代の諏訪の和四郎の中でも最高の技術を持った人で、
彼の作品は、静岡の浅間神社を始め、知多半田の亀崎や成和(なるわ)の山車など、たく
さんの作品が残っています。
飛騨には、諏訪の和四郎の流れを汲む作品は、この五台山の彫刻のほか、丹生川の還来寺の
山門彫刻や、古川の龍笛台の一部にも残っている大変貴重なものです。
また、この屋台のもう一つの自慢は、見送り幕で、明治20年から23年の改修の時に、
小森文助氏が病気保養のため、京都に逗留中に、森寛斎・浅井柳唐の両画伯に原図を
相談すると、幸野棋嶺を紹介され、当時皇居の格天井の絵を揮ごう中でしたが、快諾を
受け、群雲昇天龍の図を描いて渡されたということです。
この絵を下絵にして、西陣で唐織に織ったもので、大変立派なものです。
近年、この初代の見送り幕が傷みが激しくなって来たので、修繕され、現在は、2代目の
見送り幕が掛けられていますが、この新調にかなりのお金がかかったようです。
さて、本日も時間となりました。
来週は、来年が桜山八幡神社の式年大祭ということで、市内各所に看板が掲げられて
いますが、飛騨の大祭・おお祭りのことについて、調べましたので、そのことについて
お話ししたいと思います。
今日は、この曲でお別れしたいと思います。
曲の方は、「山口百恵 夢前案内人」ではまた来週、お会いしましょう!
徳積善太
(Zenta Tokutsumi all rigths reserved)
参考文献:屋台雑考 長倉三朗著、石田正治先生レポート、日枝神社史ほか