(8月3日放送分 第255回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
この所高山は毎日暑い日が続いてますねえ。
先日、高山では雷と共に一時的にものすごい豪雨が降り、大変怖かったですね。
でも、数時間で雨がやみ、木々には恵みの雨となりました。停電したところもあったようですが、
大丈夫でしたでしょうか。
実は先週、益田地方の神社仏閣を調べに金山まで行ってまいりました。その時に神社のある場所が、
山の上だったので、ミニ登山をしました。暑い中での登山でしたが、上がる途中で、地面がものすごく
乾いていました。少し歩いただけで砂ぼこりが舞い上がる状態でした。
地面の水分と言う水分が蒸発してしまって、森の中とはいえこれだけ水分がなくなっていると、植物も
大変だろうなと思いました。
山の上の神社に行きましたら、そこのイチョウの木が、付けているギンナンを落としていました。
おそらく、自己防衛なんでしょう、木に実がついていると、そちらのほうに養分が取られてしまいます。
そのため、イチョウの木がなっている実を落として、木そのものを護っている状態でした。
落ちているギンナンは、その実こそ梅の実の少し小さいくらいの大きさでしたが、中を割ってみると
堅い殻ができておらず、しいなになっていました。
一方で、丹生川町のトマト農家の友達と話していたら、一日に水やりを彼の畑で10tもやるそうです。
これだけ雨が降らないと、こういった水やりもできないわけですから、現代の用水は本当にありがたい
という事でした。
しかし、トマトの軸が太くならないらしいです。肥料の加減や水やりの加減でも変わるらしいのに、
今年のトマトはなかなか思ったように育たない。何でも朝晩の気温が低くて昼に高すぎるというのが
原因のようですが、トマト農家を悩ませる気候だそうです。
今年は、天保時代に飢饉があった時の気候に似ていると先日も申しましたが、もし江戸時代だったら、
確実に干ばつになっていたかもしれません。
おまけに、今年は台風の発生がいつもの年より日本近海で発生することが多いようです。
これから台風シーズンを迎えますから、農家の皆さんは天気予報には十分気を付けないといけないと
いうお話でした。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告しましたように、先日7月22日に国府町で行われました、「戦国の山城フォーラム
国府の山城の謎に迫る」の模様についてお話したいと思います。
当日は朝9時から、日本の城郭研究の第一人者、中井均先生をお迎えして、「中井先生と一緒に広瀬城に
あがろう」ということで、広瀬城の見学会を開催しました。
お陰さまで予定を大きく上回る50名の皆さんにさんかしていただきました。
ご参加いただいた皆さんには、大変ありがとうございました。
この日は、雨が降るかもしれないという天気予報でしたが、お陰さまで午前中は雨が降る事はなく、くもりの
状態でしたので、暑くも無く、登山するにはちょうど良い天候でした。
9時に簡単なセレモニーの後、マイクロバス2台に分乗して、まず、旧国府支所庁舎跡へ向かいました。
ここから、徒歩で少し宮川の河川敷の方に行きますと、そこからは広瀬城と背後の高堂城がよく見える場所が
あります。こちらでは、国府町史編纂室の元室長の酒井先生より、広瀬城と高堂城について説明がありました。
またバスに分乗して、国府町名張へ向かい、麓から広瀬城に上がりました。
大手道をまっすぐに上がり、田中筑前守の石碑のところにたどりつきました。
広瀬城は、この田中筑前守の石碑と共に岐阜県の史跡として指定されています。
田中筑前守という方は、どのような人だったのか、実はよくわかっていません。飛騨の歴史を書いた『飛州志』
という書物によれば、田中氏は広瀬氏の家臣で、広瀬氏が城からいなくなった後に、この城を治めたということ
になっています。
実際に、その末裔の方が国府町の金桶地区にお住まいになっておられますが、武士から農民に変わった一族
と言う事が想像できますが、確かな証拠はなにも有りません。
この石碑も江戸時代の中頃にどうも作られたもので、詳しいことが分からないというのが現状です。
広瀬城が別名田中城と呼ばれていたという伝承が地元に残っています。
また、それに関する伝説の遺品は、幅2m奥行き90cm、高さ90cmほどの米櫃が残されている程度です。
後半では登山と講演の内容についてお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「 」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、「戦国の山城フォーラム」について、お話しています。
さて、そこから、広瀬城の大堀切を左手に見ながら、広瀬城の一番高い場所に登りました。
そこには、西側に畝状竪堀が広がっており、中井先生より、岐阜県有数の畝状縦掘りであるとのお話を窺い
ました。
本来、こういった場所は、下草が生い茂り地形が変っているのが普通ですが、こちらは、杉林になっていて、
根元に光がほとんど当らないので、草がほとんど生えていません。
また、地元の保存会の皆さんが、草刈りや道を整備してくださっていることも有り、400年前のそのままの姿を
現在にとどめています。
そのあと、大堀切を登って、本丸の石積みの場所を見学し、中井先生の説明を聞きました。
それから、出丸から国府の町を眺めて、広瀬城の登山が終わりました。
2時間半ほどの行程でしたが、中井先生のお話を皆さん真剣に聞いておられました。
昼食後は、会場を昨年新しく出来ましたこくふ交流会館さくらホールで、研究発表会と基調講演を行いました。
午後1時半から城郭研究家の佐伯先生と元高山市郷土館長の研究発表が行われました。
佐伯先生のお話しのテーマは、「飛騨の山城の時代的変遷」というテーマでした。
飛騨の城郭の分布が北飛騨に多く、南飛騨に少ない状況であり、その数は、確実なものが110。不確実なもの
も含めると154にもなるとのことでした。富山が石高38万石に対して400あるのに、飛騨が10分の1の38千石に
対して、154という数は非常に多いということを示唆されました。
また、平安時代から鎌倉期にかけての遺構がいくつか確認されていますが、山城のほとんどが発掘調査も
されていないので、実態が全く分からない。現在、私たちが見ている遺構は、16世紀後半の遺構で、それ以前の
情報が無いことを示唆されました。
また、石垣の遺構が登場するのは、織田信長や豊臣秀吉の登場後で、安土城が造られた天正6年以後に全国に
広がっているということ。
そういうことからすると、高山の松倉城の石垣は、金森時代以後に造られたものである可能性が極めて
高いというお話でした。
続いて、田中先生のお話しは、「飛騨における武士団の集約と飛騨統一」というテーマで、文献などにみられる
飛騨地方の豪族がいつ頃どんな人がいたか。そして、最終的に天正13年に三木氏によって飛騨統一が図られる
まで、どのような動きがあったかというお話をされました。
特に、応永18年(1411)におきた、応永飛騨の乱によって、京極氏が飛騨の守護として進出したのち、三木氏など
京極氏の家臣として活躍した人達や、国司として飛騨に補任してきた姉小路氏が飛騨に居続けることによって、
徐々に知行地争いが始まっていったというお話をされました。
また、江戸時代の終わりに書かれた地図を示しながら、飛騨とその周辺地域がどのような人によって知行されて
いたかをお話しされました。
中井均先生は、「飛騨の山城 その魅力を語る」というテーマで基調講演をされました。
いま、お城が注目されている現状や、戦国時代が体験できる遺跡として全国的に注目を浴びており、
全国には、3~4万もの上巻が築かれ、ファンが増えているという話しでした。
また、岐阜県では、1996年から2005年にかけて、調査がなされ、調査報告書が発表されました。
飛騨は土造りの城が多く、曲輪、土塁、堀切、切岸といった軍事的防御施設が次々に築かれていった
実状をお話になり、一般の方にもわかりやすいように、それぞれの防御施設がどういう形のものか、
また、それぞれがどういうものなのかについて熱く語られました。
その中でも、広瀬城は圧巻的な存在で、畝状竪堀群が見事に400年前の姿をとどめていることを
絶賛されました。
広瀬城に一度上がられるとわかりますが、丁度掌を広げたような形の畝が山の上にあり、先ほど
お話ししましたように草があまり生えていない状態で残っています。ご存じない方は、一度上がられる
とよくわかると思います。
最後に、高山の松倉城についてお話をされ、石積みと石垣は全く違うものであるという事。
松倉城の石垣は、どう考えても織田信長・豊臣秀吉の登場以後に造られたものであるという事を語られ
ました。
お話を通じて、飛騨にはまだこういった山城の醍醐味が味わえる山城が複数存在しているという事を
改めて感じました。
さて、本日も時間となりました。来週の放送は、いま、飛騨の神社とお寺の建物について調査をして
おりますので、その話しをしたいと思います。どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。
曲の方は「 」をお届けします。それではまた来週、お会いしましょう。
徳積善太