みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。この番組は、飛騨の生涯学習者
第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、ゴールデンウィークも終盤にさしかかりましたが、今年は少し暖かくなるのが早いので、今度は
つつじの花盛りとなっているところもあるようです。皆さんのご近所ではいかがでしょうか?
先週、この放送で、高山のまちづくりについて、お話することを予告いたしましたが、実は、高山祭の
前日4月13日に私の町内で火事がありました。今日は、予定を変更して、そのことについてお話したいと
思います。
私の所にも、近所だったために、近火お見舞いをいただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げたい
と思います。
出火元となった、Sさん宅は全焼。隣の日下部みそさんは、自宅部分が全焼。店は類焼。そして、上手に
ある日下部のレンガ館は、幸い、屋根部分をこがしただけで、もう翌日の高山祭には、営業をされていま
した。
レンガ造りの建物は、火災に強いんですね。まるで童話の「三匹のこぶた」の物語のようですね。
下手にある三番曳の屋台蔵は、扉を開けて屋台を出すか出さないか、検討されていたようですが、
最終的には、近所の他の屋台組の人のアドバイスで、扉をあけると火が入りやすいと言う事で、
開けませんでした。また、水をかけると蔵に穴が空いて、そこから火や水が入りやすい上に、中まで
台無しになるので、水もかけませんでした。そのため、翌日の山王祭には、多少焦げ臭い煙のにおいは
あったそうですが、無傷で引き出すことができました。
平成8年の三之町 船坂酒造さんの火災の時に、蔵に水をかけずに済ませたという教訓があったので、
水をかけなかったそうです。
平成17年の古川の朝日館の火事の時には、上手の蒲酒造の蔵に水をかけたために、屋根の下の部分
が水を含んで重くなり、下にどさっと泥がおちてきて、あとかたづけが大変だったことがありました。
やはり、蔵と言うものは、火災に強い建物なんですね。
高山の屋台蔵は、皆さんご存知の通り、江戸万(江戸屋万蔵)という人が、江戸時代の後期に江戸から
流れてきて、盛んの技術を伝えたために、できたと言われています。おそらくそれまででも左官の技術は
あったでしょうが、この扉のように、大きな扉を寸分の狂いも無く、作り上げる技術が、江戸万の登場に
よって、伝えられたということでしょう。
どこの屋台の蔵も、よく見ると、扉のちょうつがいは、3箇所にありますが、幅30cm長さ1.2m~1.8m
もの鉄を組み合わせて作られており、飛騨の大工さんと鍛冶やさん、そして左官の技術が融合した結晶
だと思います。
計算すると、扉が片側だけで、2t以上の重さになりますから、それだけの重さのものを長い間支えていたり、
閉めたときに外の明かりがまったく漏れないように作るということは、たいへんな技術だと思います。
実は、ことしの初めに、町の中を歩いていまして、ふと気になる物があって、調べた事がありました。
それは、たまたま今の類焼された、日下部さんのところのレンガの煙突です。
日下部さんのところでは、一之町側にあるレンガ館のほかに、遊ほう館の駐車場側のところにある、
巨大なレンガの塀。そして、これは城坂からしか見えないのですが、レンガの煙突があります。
これについて、調査をさせていただき、丁度今回、類焼した所の屋根の部分を写真撮影させて
いただきました。
高山のレンガの煙突は、私の調査では、この日下部さんのもの以外にも、平瀬酒造さん、二木酒造さん、
そして下三之町の田辺酒造さんにあります。また、レンガの蔵は、この日下部さんのレンガ館の他に、
下二之町の松華堂文具店さんの下手の裏に、レンガ製の蔵があります。このへんのお話は後半に
致しましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲は、狩人で「あずさ2号」をお届けします。
今日のひだ歴史再発見は、高山のレンガの建造物の事についてお話しています。
さて、ではどうして、このようなレンガの建造物が作られたかということですが、これは、調べて見ると高山で
明治時代にレンガを焼くことを商売にしていたということがわかりました。
高山市の歴史を書いた、「高山市史」によりますと、明治時代から昭和の初め頃まで、4軒のレンガ商があった
事が記されています。大正14年の『飛騨の高山』という本には、・飛騨窯業株式会社(瓦・レンガ・土管)・
白川寅蔵(ヤマト瓦)・三輪工業出張所(セメント瓦)・蓑輪刀太郎(土管・レンガ)の4社があると書かれて
います。
そのうちの一社、蓑輪さんの末裔の方に先日、お話を伺う機会がありました。おじいさんにお聞きしたところ、
蓑輪さんのお店は、現在のたかしんさんまち通り支店のあったところにあったそうで、レンガと土管の商売を
されていたそうです。工場は 高山の山田町=現在の高山短大へ行く途中、峠の手前の三叉路を左に行くと
トンネルがあったらしいのですが、そのトンネルを抜けたところに工場があって、小学校の時によく通った
そうです。
そこでは、下水用の土管やレンガを焼いていたそうです。大型の枠に粘土をはりつけ、大きな窯で長時間焼く
方法で作っていたそうです。
レンガなどの土は、神岡の方から持ってきたとの事ですが、後に調べたら神岡の吉田にそういう土を採取する
場所があって、そこから荷車で大量の土が運ばれていたということがわかりました。
当時は、現在のセメントパイプなどが流通する前の話ですから、地場にそういうものを焼く窯がたくさんあって、
飛騨としては自給自足していたようです。
また、市史には飛騨窯業株式会社は大正7年3月に創設、下切の工場でレンガ・瓦・土管等を製造販売して
いましたが、昭和6年12月解散したとあります。長倉三郎先生の『飛騨のやきもの』にも記載がありました。
日下部さんにお聞きしたところ、この飛騨窯業株式会社の社長が、高山市の初代市長 直井左兵衛さんで、
直井さんの妹さんが、日下部さんのおばあ様にあたられる方だったそうです。
実は、上一之町の一帯が、大正3年に火災があり、日下部さんも含めて近隣40軒ほどが焼けた大火事が
ありました。そのため、日下部さんのおじいさんが、「いくら自分の所で火の扱いに気をつけていても、他所
から火をもらうこともある。だから自衛するしかない。」といって、親戚の会社である飛騨窯業株式会社に、
大正時代に大量のレンガを発注されたということがわかりました。
当時は、火を使うとなると、山の木を燃やしていたため、近所に大量の煙が出ると迷惑になるために、煙突
などを高くして近所のクレームに対応したそうです。それが、大量のレンガが必要になった理由と言うわけ
です。
余ったレンガを利用して、レンガの煙突の他に、現在の遊ほう館の駐車場側に、レンガの巨大な塀を作り、
また、上手のところには、レンガ館を建設したそうです。
したがって、ぐるりと周囲を囲むようにレンガと土蔵で覆われていたために、不幸中の幸いですが、今回の
火事があれ以上広がらなかったと言う事が言えます。
また、平成8年の上三之町の火事も同様で、店舗部分をぐるりと土蔵が取り囲んでいたために、火災は
大きくなりましたが、結果的には、防火壁の役割をしたために火が燃え広がることがありませんでした。
もうひとつ、昨年の正月にあった、国分寺の火事でも、高山で唯一のうだつのある建物があり、火災が大きく
なりましたが、その家はまったく無傷で終わったということがありました。
火災が発生しますと、家財道具のみならず、自分たちの思い出までも一瞬にして消し去ってしまいます。
そういうことのないように、私たちの祖先は、火事に対する教訓を生かしてきたんですね。
今後、高山の町を火から守るために、普段の火の取り扱いには十分気をつけなければいけませんが、
先祖がこうして残してくれた教訓を今後も生かして行きたいと思います。
さて、今日もお時間となりました。来週は、今日お伝えする予定だった金森氏のまちづくりについてお話
します。今日は、この曲でお別れです。石野真子で「狼なんか怖くない」ではまた来週。
徳積善太