(12月15日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。
12月に入りまして、やっぱり飛騨は冬が厳しいんだと言うことを実感しております。
今更ながら、本当に寒いですね。
これから寒い冬の到来ですね。今年は例年になく、不景気風のお陰で財布の紐まで
寒い状態となっております。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
先週の放送で、2箇所間違っていましたのでお詫びいたします。
一つ目は、米一俵の単位を間違えていました。(米1表=4石です。)そして天朝御用所の
看板の文字を書いたのは、竹沢寛三郎ではなくて、地役人の富田礼彦だそうです。
お詫びして訂正いたします。
さて、この放送ですが、すでに50回を越え、58回目の放送となります。毎週毎週お聞き
いただきまして有難うございます。毎週月曜日の夜7時半からと、土曜日の午前10時半
からお届けしておりますが、飛騨の歴史の話はいかがだったでしょうか。来年もまた続け
ていきたいと思いますので、ご意見ご感想などをヒッツFMのほうへお知らせいただきたい
と思います。ご意見を参考にさせていただきながら、番組作りを行っていきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
さて、今日は、第3週ということですが、先週予告をしておりますので古川のお話をしたいと
思います。
古川のお話といっても、この頃、何をお話しようか、非常に迷っております。
古川の場合、高山近辺よりも更に歴史が古く、古川町杉崎にあった杉崎廃寺の白鳳年代。
そしてずっとあとの姉小路一族が国司として赴任されていた室町時代初期のことがあります
が、未確認の情報がたくさんあり、とても私がお話できるような内容ではありません。
私も調査中のことはたくさんあるのですが、まだまだ確定的な部分がないんです。
またわかったことからお話したいと思いますので、お許しいただきたいと思います。
今日は、古川の蛤城に一時住んでいた「塩屋筑前守秋貞」の事についてお話したいと思います。
塩屋筑前守秋貞といっても、ご存じない方の方が多いでしょう。私も実は知りませんでしたが、
いろいろ調べていくうちに興味を持った武将の1人です。
塩屋秋貞は、まずどの時代の方かといいますと、室町時代の戦国期。ちょうど全国では、
織田信長が出てきて、武田信玄、上杉謙信が戦っていたころのお話です。
飛騨では、金森氏が飛騨に入ってきたのが天正14年(1586)の事ですから、それよりも約20年
前。永禄年間の頃のお話です。
当時の勢力状況を確認してみましょう。南飛騨には三木氏。北飛騨の高原郷=神岡地域には
江馬氏。国府には広瀬氏。北飛騨には姉小路氏の3家が君臨していました。
塩屋秋貞の出生は、高山の塩屋地区と言われていますが、定かではありません。
元々は、塩屋というくらいですから、その名の通り塩に関する商いをしていたようです。
その商人が、段々力を付けて、武将になった。知行していたのは、八賀町=現在の丹生川町町方
の地区です。そこには、尾崎城というお城があって、これは現在の丹生川中学の裏山にあたる
場所ですが、そこを居城としていました。
何年か前に尾崎城の発掘調査がされまして、そこからはいくつかの古銭やかわらけの出土品が
確認されました。大八賀とか小八賀とかいう地名や、大八小学校、大八中学校などという名前が
残っていますが、八賀という部落は、丹生川にあった地名です。
このお城は、今から440年ほど前、永禄7年(1564)に武田軍の武将 飯富昌景によって攻められ、
千光寺とともに抵抗した為に焼討ちにあいました。その頃、塩屋氏は、三木氏や江馬氏に、越中
からの塩を届けたりしていたそうですが、武田軍に真っ向から対立したのは、三木氏の家来だった
からだと言う説があります。
以前、この放送でもお話したことがありますが、武田家は、当時 本願寺の顕如と縁戚関係を持ち、
教如上人の第一夫人は武田信玄の娘でした。本願寺の宿敵は、織田信長で、彼とは石山合戦の
戦いで10年間も戦いをしていたくらいですから、信長は武田信玄と本願寺の共通の敵でした。
本願寺顕如は、信長の上洛を阻止するために、武田信玄を動かそうと再三手紙を書きますが、
武田信玄のもう1人の宿敵は上杉謙信でしたから、謙信の動きいかんでは、うかつに信玄といえ
ども上洛するわけには行きませんでした。
そこで、彼は部下に命じて、越中富山の浄土真宗の門徒を使って、上杉謙信の上洛を阻止させる
という事をやっていたわけです。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「松田聖子で 瞳はダイヤモンド」をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、塩屋筑前守秋貞についてお話しています。
上杉謙信は、越後の国の人でしたから、上洛する為には、越中富山を抜けないといけません。
しかし、そこに立ちはだかるのは、浄土真宗の門徒による一向一揆でした。
彼は再三、この一向宗の門徒と衝突を繰り返しますが、真剣に戦争をしようとすると、武田の軍が、
遠く離れた上州 群馬から、越後を目指して兵を動かし、上杉の留守を襲う行動を見せたりするので、
撤兵を余儀なくされたりしていました。
結果的に上杉謙信と武田信玄は、5回に渡り川中島で大合戦を繰り広げるわけですが、それ以外にも、
越中や上州などでも戦っていたわけです。
そこへ、飛騨も越中への通路を確保する為に、武田軍が侵攻してくるわけですが、当然、飛騨にも
上杉方の勢力が及んでいたわけで、その最たる人が三木氏でした。
別の本によると、広瀬氏はこの三木氏が北進して勢力を拡大する動きを見せたときに、武田信玄に
信書を送って、武田に呼応したとも言われていますし、高原郷の江馬氏は、一時、越中にも中地山城
などの城を持っていて、飛騨から越中の一部にかけて知行していたことから、武田に通じていたようです。
江馬氏は、最初、上杉方でしたが、永禄7年に武田が攻めてくる少し前に、家内で武田方と上杉方の
内紛があり、結果的に武田についていたとの話もあります。
したがって、現在の国府町三川のあたりを境にして、国府の広瀬氏を主体とする武田派。
そして高山まで知行地を増やしていた上杉方の三木氏が対峙する状況になっていたわけです。
そこへ、武田方の飯富昌景が、軍団を率いて、安房峠を切り開き、飛騨に攻め入ってきました。
余談ですが、平湯温泉はこの時、飯富軍が兵を休息させる為に温泉に漬からせ、発見されたとの
言い伝えがあります。猿が温泉につかっていたということでわかったらしいです。
さて、塩屋秋貞の話に戻しますが、塩屋秋貞は、尾崎城に立て篭もり烈しく抵抗しますが、
飯富昌景の軍にいとも簡単に破れて、城に火をかけられ、敗退します。この時、飯富軍は、
信書を送って武田方に従うように、千光寺にも伝えますが、千光寺では、徹底抗戦の構えを
見せたがために、武田軍によって攻められ、双方でかなりの死者をだしたようですが、内応した
広瀬軍に、裏山から火を掛けられて、千光寺山全山を焼き尽くしてしまいました。
この時、燃え盛る鐘楼を坂之上から落として、武田軍の兵を蹴散らしたと言う伝説が残っています。
この永禄7年の戦いでは、広瀬氏の呼応によって武田軍が飛騨に侵攻してきたわけですが、
尾崎城と千光寺の2つの陥落を目の当たりにした三木軍は、高山の三仏寺城まで兵を進めて
いましたが、さっさと南飛騨まで兵を引揚げてしまいました。そのため、三木氏を滅ぼそうと思えば、
この時に滅ぼすことが出来ましたが、上杉軍が動いて、川中島に兵を進めました。
武田の武将飯富昌景は、川中島の勃発によって、兵を進めることができず、本隊に合流する為に
兵を信州へと引揚げました。
こうして、三木氏は南飛騨に引きこもった一方、尾崎城で破れた塩屋秋貞は、息の根を止められる
ことなく、古川の蛤城がちょうど空き家になっていたので、そこを居城としました。
この蛤城はこの頃、空き屋になっていたとのことですが、姉小路氏の一族の向小嶋氏の家来
牛丸氏が管理していたようです。この蛤城の隣にあった五社神社に棟札が残っており、その棟札の
記録から、お社を牛丸氏が修繕していたことがわかりました。
塩屋筑前守はこの蛤城に3年ほど居住し、三木氏の庇護を受けながら再起を図ります。
その頃、塩屋筑前守秋貞は、飛騨三木氏の手下として、上杉謙信に謁見したことがわかっています。
彼は、上杉の手下として越中の方へ行き、猿倉城を築き、江馬氏の領地であった中地山城を攻撃
します。
現在、国道41号線を富山方面に行くと、大沢野町に入る手前に JRの笹津という温泉地があります
が、そこから右のほうへ入っていくと、猿倉スキー場があったあたりに、お城がありました。
現地は、ラッキョウの里として有名ですが、かつて、塩屋筑前の居城がそこにありました。
おそらく、この頃、飛騨は上杉の勢力下にあったことでしょう。
飛騨の戦国時代に武田氏と上杉氏の2大勢力の狭間で動いた人がこの塩屋筑前守秋貞でした。
さて、本日も時間となりました。来週は、今日のお話の続きをしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。 クリスマスも近いので、「松任谷由美で 恋人がサンタクロース」を
お届けします。ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太