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カミオカンデ見学

茂住宗貞が活躍した、茂住鉱山。いまはスーパーカミオカンデなどの研究施設になっています。

今日は、ご縁をいただいて、旧鉱山の中に特別に入れてもらいました。

かつて、故片山一郎先生に連れて行っていただくことを約束していましたが、先生が急逝されて
ご縁がなくなったと思いましたが、新しい仕事の関係で、取引先になったコラジー岐阜さんが
坑道の中で、ワサビを栽培実験されているので、見学させていただきました。

跡津の坑道口から、自動車で2kmほど入った所に車を止めました。
この自動車は、ガソリンではなくて特殊な燃料で動く車です。



そこから、しばらく歩いたところに、ワサビの実験農場があります。
蛍光灯と、LEDランプの両方で、栽培がおこなわれており、年中12度から14度の水温で栽培が
無菌状態で行われています。


発育がよくて、通常なら2年~3年かかるところ、わずか1年で大きなワサビになります。
葉っぱは、食べさせていただきましたが、とってもおいしかったです。
この時期に、わさびの花が咲いています。


もう一か所では、ワインの熟成が行われていました。


現在、行なわれている東北大学の研究施設のモデル。
キセノンガスを注入した風船を20mx20mのタンクに入れて、そこにニュートリノがぶつかった時に
発生する電子と光を、光電子倍増管にて、観測するそうです。


光電子倍増管のモデル。本物がこうして並んでいるそうです。


今回特別に、東北大学の中村先生がニュートリノについてと、今回行なっている実験について
大変詳しくお話してくださいました。
今回の設備には、キセノンガスだけで400kgのガスが用意され、これだけでも6億円の費用が
かかっているそうです。


ニュートリノには質量があるということがわかっていますが、ニュートリノは自然界に存在する
放射能の一種で、原子力発電所の核分裂。地球内部の核分裂。太陽の核分裂。恒星の爆発による
核分裂など宇宙全体に存在しますが、それぞれのスペクトルが違うことによって、どこで発生した
ニュートリノであるかがわかるそうです。

ただし、10の21乗分の1の確率でしか発生しないために、計算上は10の26乗分のキセノンガスを
用意して、そのわずかな変化を観測するために備えているということでした。

このニュートリノの観測実験によって、将来人間の活動にどのように影響するかは未知数ですが、
そうやって観測を行なうための施設整備、技術開発に寄与する事が実験の成果であるとおっしゃって
いました。

宇宙の謎について、いろいろと最先端の研究がなされているということを知りました。
現在、20を超える大学の研究施設が、このカミオカンデには集結しているそうです。


最後に坑道から出てきたときに、見事な虹が見送ってくれました。
何か、将来いい兆候を示す暗示のように思えました。



徳積善太


  

茂住宗貞の画像

先日、今度10/24に金森シンポにて発表していただく、K先生宅にお邪魔しました。
その折、いろいろと打ち合わせをしているときに、茂住宗貞の画像がないかと
探していた時、先生が

「あ、そうだ。考えてみたら、うちに本物がある」

ということで、撮影させていただきました。


これは、本邦初公開の画像です。
以前、HPから取得した敦賀の画像といろいろと異なるところがあります。
当日、この掛軸はお借りすることになっています。





徳積善太  

茂住宗貞は商人か?5

 「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より

「中納言利長卿越中御城主の前より御懇意に罷成客侍となり富山御貸家被仰付茂住と両所に
居住仕諸事御用飛州へ投銀御用等相訪云々」
と系譜にみえ川上氏が相当以前より加賀藩の信任を得て富山にも家屋をもち必要物資を購入し
茂住に輸送して商っていた事が考えられ窪田家所蔵の加賀藩関係文書からも之を如実に物語
っている。

窪田家文書のほかに川上二郎四郎に関する慶長十二年三年頃の文書から川上氏の人間像を
知るために二、三の文書を扱ってみたい。

(茂住宗貞の屋敷跡の図)

 「川上二郎四郎さま 御返報
  返々いろいろ御きも入畏入候よし被申候其 上ニ御用事候者可承候
  去十日之御状令拝見候、今度者天井板の事 御きも入別而満足被申候殊信州へと其□御
  越し候て御調候段能々心得申入候へと被申 候我等への御状懸御目申候処ニ此分仰出候
  候間懸御目申候河上□□御用之事者可承候
                       恐々謹言
   (年次)6(月脱)十一日   □花押」
   (岐阜県史史料編  古代・中世四)
 川上氏は加賀藩からの注文材調達のために、わざわざ信州に出向き良質の天井板を手にして
藩に納品した。藩からこれに対する礼状をみても加賀藩に対し商人としての道を尽し、商を大切に
した人物だった事を知る好資料である。

富山県大山町亀谷に茂住宗貞に関する説話がある。

    法地  金昌寺
  一開創 慶長十一年六月七日飛騨国吉城 郡茂住坑城主宗貞公鉱山開拓の為め
      当所へ引籠之時金山繁昌の祈願所に 建立致さる。
      仝国仝郡神岡村金龍寺二世比庵良萩 和尚を講して開山となし即ち宗貞公
      基なり」

この記事は、亀谷の金昌寺、明治十九年一月の財産明細簿によるものであるが、この寺には
宗貞の坐像、位牌が祀られているが、以前同寺火災に遭い焼失、その後再建とあるので、この
木像、位牌は共に新しいが同寺にこれが祀られていること、宗貞との有縁に注目される。

同寺の境内に宗貞の顕彰碑がみられる。「亀谷鉱山創業金昌寺開基茂住宗貞翁之碑」
大正十四年六月七日三井鉱山関係者、同寺檀中によっての建立が碑裏銘により知られる。

加賀越中七鉱山の一つである亀谷鉱山は、文化八年の「亀谷山由来書上申帳」では天正六年之
頃加ね鉱見出、加ね山普請仕罷在候処、慶長元年加ね山地に被仰付」とみえるが、加賀藩は
亀谷鉱山の開発のために鉱山どころの川上氏に適当な探鉱技術者の出張方の話があり川上氏
は宗貞を亀谷に出張させた。

そこから亀谷鉱山と宗貞、宗貞と金昌寺の説話が生まれたとみえるが、これに対しての文書はなく、
伝説だけが生きている。

徳積善太

  

茂住宗貞は商人か?4

富山県の窪田家と所蔵資料 「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より

昭和四十年時、数回庄川町に窪田家を訪れて所蔵の資料を見、当主だった故粂二郎さんから種々
話を伺っていたのでそれを土台に窪田家に就いてみると、粂二郎さんは高岡の川上家に入籍され
ていたが家産が傾むき家計を整理して窪田家に復籍、居を庄川町に移された由である。

茲に永禄年間から続いた由緒ある川上姓が絶えたが、川上家に伝えられていた貴重な資料の
若干がこの窪田に移り家宝として保存されている。牛役の請取書四枚が張り継いて一枚物と
されているが以前は10枚余り斯様な請取書があった由である。

東町城代だった川上中務亟俊国を祖とする川上家の系譜一巻、川上中務亟の出陣を描いた
画像を軸物に二本、古位牌、古仏像、加賀藩関係の夥しい文書がみられ当家が慶長十六年
以降高岡に菱屋として加賀藩の御用商人として栄えた家柄であることを十分に物語っている。

茲で当家の系譜等を土台に茂住に在った川上氏に就いてみることにしたい。


茂住に於ける川上の商法とそれを支えた茂住宗貞

余り完全とは言えないが川上家の系譜と野史それに資料を拾い加えて川上氏と茂住宗貞に
就いてみる。
川上家の初代川上中務亟俊国は永禄元年三木氏と組んで川上荘新宮の山田氏を征め降し
この地に築城河上氏が城主となったが、永禄七年夏の江馬家内乱によって輝盛高原の諏訪
城主となった。その期川上中務亟は新宮神社の奉納品であった大般若経600巻と半鐘壱個
を引出物として輝盛に差し出し、東町城の城代に納まり、その後江馬氏越中に進出中地山に
築城、川上氏はこの城代となった。

二代目忠勝、三代目義睦と続き、その長男二郎四郎は天正十三年秋江馬家没落後は金森家の
家老となると系譜にはみられるが、それは余りにも大袈裟で金森可重から河上中務亟宛状の
和佐保山巣鷹おろしについての内容からみて河上氏は中務亟を名乗り金森藩の代官的な役割を
果して居たとも考えられる。

慶長八年―10年頃に金森可重が東町村の民家に身をおいて居た輝盛の娘を迎えて側室とした
説があり、また川上縫殿助の娘だと言われるが伝説的な説話に過ぎないが、可重の側室に就いて
は川上中務亟(二郎四郎)も一役担っていたとも相(ママ)像されるがどうか。

「慶長年中飛騨茂住と申所に罷越居住任」と系譜に書かれているが、川上氏が移った茂住の屋敷
は俗に言う宗貞屋敷と考えられる。
城畳のような石垣、広大なこの屋敷は一鉱山師や金山奉行のものではなく、越中国境の要として
江馬氏が築造した出城だと自分は観ておりこの線が崩れない。
屋敷に入った川上氏は多くの使用人を置き、加賀藩領内で購入の物資をこの茂住で商をなし、また
鉱山師への仕送りもしていたが、此川上氏を大きく支えて居たのが宗貞で優れた商才、力量、商人
としての茂住の宗貞があったとみるのである。

徳積善太
  

茂住宗貞は商人か?3

横山の孫佐衛門    「茂住宗貞の身分は商人か 林下数馬著(神岡町高原町)」より

(蟹寺城より飛騨中山を望む)

孫佐衛門を著「飛騨国中案内」の横山村の項からみると「村方の肝煎孫佐衛門と云者云々」とあり、
また「横山村に居住す川上孫佐衛門と云者は是は先祖の義江馬の氏族にて百姓ながらも居住の
ところに石垣等上部に築立居候、村より下に馬責馬場杯置候其跡も干今あり云々」

江馬氏は支配地の最北端越中国境に位置す横山村には家臣数名を居住させ越中国からの外的
侵入を厳しく警戒させていたが天正十三年秋江馬家没落此地に在った川上孫佐衛門は武士を捨て
横山村に土着、その後裔は代々孫佐衛門を名乗っていた。

江馬家没落時の川上孫佐衛門は江馬家の重臣河上中務亟家の支族に当り宗貞の主人とみる
川上二郎四郎の親族筋になるところから殿参と請取書に宗貞が書き渡したとみるのであるが
この判断は誤りかどうか。
横山の国道沿いに馬場跡が細長い田地として今日みられる。

徳積善太  

茂住宗貞は商人か?2

茂住宗貞は鉱山師か

伝承や多くの宗貞伝は宗貞を鉱山として扱い鉱山師説が定説となっているが実際には
宗貞が鉱山師だとする資料に欠けている。

茂住銀山。和佐保鉱山は宗貞の開発とされ、後に上宝村の蔵柱金山・平湯銀山も開発
したと伝えられている。丹生川村大字森部には金山が在ったが、この地に伝宗貞屋敷が
在り、小さな祠に鉱石を御神体とし茂住宗貞と書いた木札が添えて祀られていた。
荘川村大字六厩は古い時代に金山が在ったが此処にも茂住宗貞の伝説があった。

飛騨では大・小また新旧を問わず鉱山の由緒では開発者茂住宗貞が極めて多いが実際には
鉱山と宗貞を繋ぐ古文書等は皆無、また鉱山所在地の神社、寺院をみても宗貞の奉納品等は
何一つみられない。宗貞に関する唯一資料として横山村の牛役の請取書をみなければ宗貞の
身分を明らかにする事はできない。
神岡鉱山史の総監修をされた小葉田淳博士は雑誌「しらまゆみ」第八号に「茂住宗貞について」
の論文を寄せられているのでそれより一部分につき引用させていただく。

  「銀山町では何度も米を主食としたがこれは茂住では越中より搬入したるべく、この米を第一と
  する物資の運搬であろう。かつて課役を受理するものは企業者たる山師ではあり得ず、領主の
  代理たること明白である。宗貞は金森氏の銀山奉行であったことは最早疑いない」

  「大きく鉱山運営を差配した金山奉行としてである。それは勿論金森氏の代官である。立派な
  家核を持つ士分としてである。」

これは東茂住の柿下家所蔵文書慶長四年の請取書から宗貞の鉱山師説を完全に否定されたもので
あり、この牛役の請取書から宗貞を取上げられたのが同博士が最初でありそれより後この論文に
反論されたものは見ていない。
確かに鉱山師は藩の許可を得鉱山税を納めて稼業するもので従って税の請取人となることはあり得ない。
宗貞がこの請取書を作成している。この事は宗貞の身分が鉱山師ではなかったことを意味している。

宗貞の身分は金山奉行か
宗貞は金森藩の金山奉行と小葉田博士の論文にみられるように慶長2,4年の請取書からは宗貞の
金山奉行説に十分頷くことができる。而し乍ら文録4・5年慶長二年の三枚では納税者を「横山孫左衛
門殿参」と個人名になり文書の内容も慶長2,3年に比し若干異なっている。

特にこの三枚の請取所にみる「孫佐衛門殿参」の「参」が迚も気になり広辞苑でこれをみると
「身分の尊い人の手もとに差し上げる」とあり、これから判断すると藩を代行する金山奉行が
牛方代表者に対しての文書としては納得のゆかぬものであり、宗貞を金山奉行とみるには
まだ疑が残るので更に孫佐衛門についての解明と、富山県の窪田家と請取書の動きにも
十分みたい。


請取申候横山牛役之事
     合二十五石者
右如件
   文録四年十二月五日 宗貞 印
     横山孫佐衛門殿
           参
文禄4年(1595) 
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者
右如件
   文録五年十二月三日 宗貞 印
     横山孫佐衛門
           参
   文禄五年(1596)慶長元年
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者
右如件
   慶長弐年十一月   宗貞 印
     横山孫佐衛門 殿
           参

   慶長二年(1597)
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
  合四拾石者 但慶長三年分也
        但此内八石弐斗七升七合ハ
        慶長三年十二月ニ請取
       残ル三拾壱石七斗二升三合ハ今日請取也  
   慶長四年十二月九日 宗貞 印
     横山
           年寄中
   慶長四年(1599) 
-----------------------------------------------------------------
請取申候横山牛役之事
     合四拾石者

   慶長四年
十二月九日   宗貞 印
     よこ山
           年寄中
            慶長四年(1599)


横山の孫佐衛門
孫佐衛門を著「飛騨国中案内」の横山村の項からみると「村方の肝煎孫佐衛門と云者云々」とあり、
また「横山村に居住す川上孫佐衛門と云者は是は先祖の義江馬の氏族にて百姓ながらも居住の
ところに石垣等上部に築立居候、村より下に馬責馬場杯置候其跡も干今あり云々」
江馬氏は支配地の最北端越中国境に位置す横山村には家臣数名を居住させ越中国からの外的
侵入を厳しく警戒させていたが天正十三年秋江馬家没落此地に在った川上孫佐衛門は武士を
捨て横山村に土着、その後裔は代々孫佐衛門を名乗っていた。

江馬家没落時の川上孫佐衛門は江馬家の重臣河上中務亟家の支族に当り宗貞の主人とみる
川上二郎四郎の親族筋になるところから殿参と請取書に宗貞が書き渡したとみるのであるが
この判断は誤りかどうか。
横山の国道沿いに馬場跡が細長い田地として今日みられる。

徳積善太

  

茂住宗貞は商人か?1

先日、あまり知られていない論文を見つけました。
昭和61年に高原郷土研究会と言うところから発行された論文です。
茂住宗貞についてのものです。


「茂住宗貞の身分は商人か    林下数馬(神岡町高原町)

はじめに
茂住宗貞の身分を鉱山師とする説が根強く、これが宗貞の定説となっている。
この宗貞について唯一の文献である横山村の牛役の請取書から宗貞の身分を深く探ることを主題とし、
後章に於いて「茂住宗貞略伝」の分析を試みたいと思う。

金森藩の牛役と請取書
越中東街道筋の飛騨国最北端に横山村が在り、小字荒田に金森藩の口留番所が設けられ番人二名が
常駐、越中国への出入の人を改ため物資の課税を勤としていた。
横山村を北進千貫橋を渡ると越中国新川郡猪谷村、此処には加賀藩の関所が在った。

神岡町横山

この新川郡は天正十五年六月加賀藩主前田利家が秀吉より預っていたが、文禄四年秋正式に加賀藩の
支配領地となった。
文禄三年正月加賀藩主から新川郡の牛カ増村から猪谷村間の村々百姓中に対して加賀藩領内から飛騨国
への登荷運搬を牛による村継ぎを令している。

猪谷村から横山村に運搬された荷は此の村の牛によって東街道を以奥に運搬されたが大部は茂住銀山の
需要物資であった。
文録・慶長年間の茂住銀山は隆盛を極め多くの人が此処に稼動、これを賄う大量の米・肴・塩・たばこ等の
物資は主として加賀藩領内で購入茂住に運搬されていた。
物資運搬による駄賃は牛方の収入となりこれが横山村を支える最大の財源でもあった。

この当時の横山村で飼育されていた牛の頭数これは知る事ができない。
牛方が得た駄賃に対し金森藩が極めて高額の税を課したこれが租税の牛役である。
請取書から横山村に課せられた税をみると文禄四年が25石、同五年が40石に増税、それ以降年々40石の
課税となっている。
この租税は加賀藩の牛役銀と同じように銀納であった。
この請取書では牛役の請取人が宗貞であるが宗貞の身分は何か、また請取書四枚が富山県の窪田家所蔵、
この窪田家と請取書との関係も十分視なければならない。

飛騨各街道各村々からは一枚の牛役の割付状、請取書はみていない。

徳積善太  

茂住~茂住宗貞の謎について8


○敦賀経済発達史  P23  天野久一郎著  昭和五十五年一月十五日発行

一向堂(今の東晴明区)は、古くは此處に椿の井とて伝説の井あり、市の井の遺跡ならん
と謂ふ。この市は朝市の起りであって近郷近在の穀、菜、果、など持ち寄り商売せし所。
後に若州の神人一興なる者堂宇を建てゝ一興堂と称せりとは宮本家記の所載である。
その後もこの境内で朝市が続けられ徳川末葉以後失火ありてこの堂宇灰燼に帰しそれ
より東町(今の組区)に朝市立ちて百年近く明治の末頃まで続いたものである。

(附記)。一興堂に時の鐘とて、敦賀町中に時を報ずる鐘ありたり。鐘楼は寛文年中時の
町人頭宗貞打它伊兵衛の老母清月の建立寄進する所にして後、明治維新となり敦賀町
となりし時この鐘を町役場の楼上に持ち来り爾来、敦賀海岸に大和田二代荘七翁寄附
する所の大市役所移転迄、町中に時を報ずること五十年餘、今昭和十七年秋大東亜戦争
に鐘の應召ありて勇躍、国家鎮護の御用に赴かんとするに際しその鐘銘文を遺して思ひ
出の一助としよう。

敦賀一向堂町時鐘銘文
越刕敦賀郡會所鐘名
蘇迷盧南閻浮州大日本国越之前州敦賀故郡為其風光也氣比宮乃是神式第十四代
仲哀天皇統不孤隔海上常宮在十四代神功皇后金胎両部内證而曰城北陸之為鎮守
在隣天神霊廟年々八月祭禮老夫瞥花児童幣榊歓喜踊躍金ケ崎天筒山一夜涌出之
松原七里半四而金隣国而士農工商朝而来暮而還以夜繼日粤、照清月尼一者為二
世誓願二者為国土静謐令鳧氏而鎔範巨鐘々之為功徳笠支扶桑佛法東漸百八洋々
加旃遠村近縣修諸行老常善縁矧又警安眠困臥 之疎蕪維
時簾高架會處

 一楼之上銘曰
一天静謐 七十扶桑 敦賀故郷
士農工商 會所噌雑 諸行無常
簨簾高架 国土繁昌 孫子枝葉
花木向陽 萬春至祝 名鐘彌彰
矢鳥舌止々 恐懼誠惶
  寛文上瀧集己巳八月吉祥辰
    龜泉禅庵黔驢 子敬白
  願主   打宅(ママ=它)伊兵衛老母

照清月尼(敦賀一目鏡)
尚、この釣鐘献納のことは時と場合とこそ違ひ文久年間にもあった。安孫子氏記録によると、

釣鐘等銅器献納願書
奉願上候口上ノ覚
一方今海防御手宛ニ付御意書ヲ以後被仰付候儀深奉恐察候斯而御時體別而此度大砲鋳立
増等ニ付テ茂地銅夥敷御入費之段奉恐察候
右ニ付拙寺檀中安孫子治郎左衛門寄附釣鐘外ニ半鐘ニツ銅燈爈一對大火鉢一ツ金弐十両
相添聊為可奉報御国恩献上仕候乍恐拙寺始檀中一統之所願ニ御座候何卒大砲御鋳立之
中へ御差加被下置候ハヾ難有仕合ニ奉存上候
右願書之通御聞届ケ被下置候様奉願上候以上
 文久三癸亥年六月
                     泉村庄屋
                     何―――――
                   檀中総代
                     安孫子治郎左衛門
                     本郷彌七
                     大和田荘兵衛
                     打宅辨次郎
                     永厳寺
    團 五兵衛殿
    原田時之助殿

徳積善太  

茂住~茂住宗貞の謎について7


○敦賀市文化財 昭和三十五年三月五日発行 敦賀市教育委員会   

時鐘
 指定年月日 昭和三十三年三月二十八日
 指定番号  有形文化財第二十号
 名称    時鐘
 数量    壱口
 所有者   敦賀市金崎町 曹洞宗 永厳寺  住職 池野徹恵
 作者時代  寛文五年八月の鋳造にかゝり、打它宗貞の妻であった清月尼の誓願に
よるもので、鐘銘は清月尼の孫にあたる収玄の作である。鐘としての形式手法は江戸
時代の鋳造当時の時代相がひょうげんされているはの、普通当代の鐘と同様である。

 材質形状  銅鐘 総高四尺八寸四分 鐘身 三尺七寸五分 龍頭 八寸四分
       鐘径 二尺八寸三分
 由来伝来 清月尼の発願で時鐘を撞いて出入の船舶や町民近郷へ正確な時刻を報知
する為めが本義であり、非常の災禍の場合に撞く特別の鐘であって極めて異例の(後略)」

徳積善太
  

茂住~茂住宗貞の謎について6


○敦賀人物誌  昭和三十一年九月二十日発行 著者 敦賀市三島 石井左近

打它宗貞 蓬莱の人、糸屋彦次郎と称し、もと飛弾国吉城郡東茂住の豪民であった。
天正十七年に国主の金森長近に仕え、飛弾国東方鉱山奉行となって、鉱山採石に専念し、
開坑するもの数か所に及んだ。中でも東茂住・和佐保の両山は最も盛んで、鉱坑数百に
及び、諸国から人が集まって数千戸に達したという。領主から姓を賜って金森宗貞と称した。

宗貞の開坑したものは一つとして失敗したものがなく、したがって富有は近郷に並ぶものなく、
威勢は大いに揚がったので、世俗に「神や仏のまねなるけれど、茂住宗貞のまねならぬ」と
うたわれた。
時に領主との間に石の疎通を欠いたので、災の身に及ぶのを恐れ、慶長十二年八月二十
四日に敦賀にのがれてきた。その時金百万両を携えたという。
姓を打它と改め、屋号を糸屋と称した。領主の高極氏(ママ=京極氏)と酒井忠勝に仕えて
敦賀代官となった。福井城主の結城秀以も二十人扶持を給した。

寛永二拾年八月二十二日に年八十五才で没し、永厳寺墓地に葬った。

 宗貞の鉱坑の功績をたたえ、文化・文政のころに飛弾の高山の建金社に霊を祀られた。
宗貞の子の良亭は家を継がないので、領主の忠勝公の仲介で、大津大官の小野宗左衛門の
子を養子とした。家を次いで伊兵衛と合資、則親と称した。」

徳積善太