2008年07月31日
茂住~茂住宗貞の謎について8
○敦賀経済発達史 P23 天野久一郎著 昭和五十五年一月十五日発行
一向堂(今の東晴明区)は、古くは此處に椿の井とて伝説の井あり、市の井の遺跡ならん
と謂ふ。この市は朝市の起りであって近郷近在の穀、菜、果、など持ち寄り商売せし所。
後に若州の神人一興なる者堂宇を建てゝ一興堂と称せりとは宮本家記の所載である。
その後もこの境内で朝市が続けられ徳川末葉以後失火ありてこの堂宇灰燼に帰しそれ
より東町(今の組区)に朝市立ちて百年近く明治の末頃まで続いたものである。
(附記)。一興堂に時の鐘とて、敦賀町中に時を報ずる鐘ありたり。鐘楼は寛文年中時の
町人頭宗貞打它伊兵衛の老母清月の建立寄進する所にして後、明治維新となり敦賀町
となりし時この鐘を町役場の楼上に持ち来り爾来、敦賀海岸に大和田二代荘七翁寄附
する所の大市役所移転迄、町中に時を報ずること五十年餘、今昭和十七年秋大東亜戦争
に鐘の應召ありて勇躍、国家鎮護の御用に赴かんとするに際しその鐘銘文を遺して思ひ
出の一助としよう。
敦賀一向堂町時鐘銘文
越刕敦賀郡會所鐘名
蘇迷盧南閻浮州大日本国越之前州敦賀故郡為其風光也氣比宮乃是神式第十四代
仲哀天皇統不孤隔海上常宮在十四代神功皇后金胎両部内證而曰城北陸之為鎮守
在隣天神霊廟年々八月祭禮老夫瞥花児童幣榊歓喜踊躍金ケ崎天筒山一夜涌出之
松原七里半四而金隣国而士農工商朝而来暮而還以夜繼日粤、照清月尼一者為二
世誓願二者為国土静謐令鳧氏而鎔範巨鐘々之為功徳笠支扶桑佛法東漸百八洋々
加旃遠村近縣修諸行老常善縁矧又警安眠困臥 之疎蕪維
時簾高架會處
一楼之上銘曰
一天静謐 七十扶桑 敦賀故郷
士農工商 會所噌雑 諸行無常
簨簾高架 国土繁昌 孫子枝葉
花木向陽 萬春至祝 名鐘彌彰
矢鳥舌止々 恐懼誠惶
寛文上瀧集己巳八月吉祥辰
龜泉禅庵黔驢 子敬白
願主 打宅(ママ=它)伊兵衛老母
照清月尼(敦賀一目鏡)
尚、この釣鐘献納のことは時と場合とこそ違ひ文久年間にもあった。安孫子氏記録によると、
釣鐘等銅器献納願書
奉願上候口上ノ覚
一方今海防御手宛ニ付御意書ヲ以後被仰付候儀深奉恐察候斯而御時體別而此度大砲鋳立
増等ニ付テ茂地銅夥敷御入費之段奉恐察候
右ニ付拙寺檀中安孫子治郎左衛門寄附釣鐘外ニ半鐘ニツ銅燈爈一對大火鉢一ツ金弐十両
相添聊為可奉報御国恩献上仕候乍恐拙寺始檀中一統之所願ニ御座候何卒大砲御鋳立之
中へ御差加被下置候ハヾ難有仕合ニ奉存上候
右願書之通御聞届ケ被下置候様奉願上候以上
文久三癸亥年六月
泉村庄屋
何―――――
檀中総代
安孫子治郎左衛門
本郷彌七
大和田荘兵衛
打宅辨次郎
永厳寺
團 五兵衛殿
原田時之助殿
徳積善太
2008年07月30日
茂住~茂住宗貞の謎について7
○敦賀市文化財 昭和三十五年三月五日発行 敦賀市教育委員会
時鐘
指定年月日 昭和三十三年三月二十八日
指定番号 有形文化財第二十号
名称 時鐘
数量 壱口
所有者 敦賀市金崎町 曹洞宗 永厳寺 住職 池野徹恵
作者時代 寛文五年八月の鋳造にかゝり、打它宗貞の妻であった清月尼の誓願に
よるもので、鐘銘は清月尼の孫にあたる収玄の作である。鐘としての形式手法は江戸
時代の鋳造当時の時代相がひょうげんされているはの、普通当代の鐘と同様である。
材質形状 銅鐘 総高四尺八寸四分 鐘身 三尺七寸五分 龍頭 八寸四分
鐘径 二尺八寸三分
由来伝来 清月尼の発願で時鐘を撞いて出入の船舶や町民近郷へ正確な時刻を報知
する為めが本義であり、非常の災禍の場合に撞く特別の鐘であって極めて異例の(後略)」
徳積善太
2008年07月29日
茂住~茂住宗貞の謎について6
○敦賀人物誌 昭和三十一年九月二十日発行 著者 敦賀市三島 石井左近
打它宗貞 蓬莱の人、糸屋彦次郎と称し、もと飛弾国吉城郡東茂住の豪民であった。
天正十七年に国主の金森長近に仕え、飛弾国東方鉱山奉行となって、鉱山採石に専念し、
開坑するもの数か所に及んだ。中でも東茂住・和佐保の両山は最も盛んで、鉱坑数百に
及び、諸国から人が集まって数千戸に達したという。領主から姓を賜って金森宗貞と称した。
宗貞の開坑したものは一つとして失敗したものがなく、したがって富有は近郷に並ぶものなく、
威勢は大いに揚がったので、世俗に「神や仏のまねなるけれど、茂住宗貞のまねならぬ」と
うたわれた。
時に領主との間に石の疎通を欠いたので、災の身に及ぶのを恐れ、慶長十二年八月二十
四日に敦賀にのがれてきた。その時金百万両を携えたという。
姓を打它と改め、屋号を糸屋と称した。領主の高極氏(ママ=京極氏)と酒井忠勝に仕えて
敦賀代官となった。福井城主の結城秀以も二十人扶持を給した。
寛永二拾年八月二十二日に年八十五才で没し、永厳寺墓地に葬った。
宗貞の鉱坑の功績をたたえ、文化・文政のころに飛弾の高山の建金社に霊を祀られた。
宗貞の子の良亭は家を継がないので、領主の忠勝公の仲介で、大津大官の小野宗左衛門の
子を養子とした。家を次いで伊兵衛と合資、則親と称した。」
徳積善太
2008年07月20日
茂住~茂住宗貞の謎について5
この大野郡史の「智徳院殿嶋仙忠芳大居士」の位牌のことを調べに、早速大隆寺に行ってきました。

大隆寺本堂。 坂下甚吉の作と伝えられる本堂は、角柱の古い形式の本堂。

大隆寺 本道横にある位牌堂 ここには、金森頼直以下の位牌が祀ってある。

ご本尊裏の位牌堂の中をくまなく探しました。

あった、ありました。
位牌には、2名の方のお名前が刻まれています。
一つは、岩松院殿乾応宗貞大居士=茂住宗貞のものです。
もう一つは、智徳院殿嶋仙忠芳大居士霊となっています。
この位牌の底を見ると

どこかの板に穴を彫って立てかけてあったものであることがわかります。
では、どうして、この位牌が大隆寺にあるのか。
これについては、黄金神社の由来を調べてみましょう。
徳積善太
大隆寺本堂。 坂下甚吉の作と伝えられる本堂は、角柱の古い形式の本堂。
大隆寺 本道横にある位牌堂 ここには、金森頼直以下の位牌が祀ってある。
ご本尊裏の位牌堂の中をくまなく探しました。
あった、ありました。
位牌には、2名の方のお名前が刻まれています。
一つは、岩松院殿乾応宗貞大居士=茂住宗貞のものです。
もう一つは、智徳院殿嶋仙忠芳大居士霊となっています。
この位牌の底を見ると
どこかの板に穴を彫って立てかけてあったものであることがわかります。
では、どうして、この位牌が大隆寺にあるのか。
これについては、黄金神社の由来を調べてみましょう。
徳積善太
2008年07月19日
茂住~茂住宗貞の謎について4
その宮島平左衛門について、大野郡史にこういうことが書かれています。
「寛永8年
重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。
「寛永六年乙巳九月、宮島平左衛門、小島郷片野新田を立退き、後高山に出て滞留中、国守金森家三代
出雲守重頼、之れを召出し家臣の格に列せられ、初め小姓役を務む。後西方半国金山奉行に任せられ、
家禄百五十石を食む。高山綴巷に居宅を定め、鉱石ある山々を巡見し、川上郷、小島郷、白川郷、所々
に新山十余箇所を見立て開坑し、鉱山益々盛んにして威勢大に振い、諸人の羨まさるはなかりきと云う」
(二村家文書)
「寛永八年辛羊年八月、平左衛門は国主出雲守重頼殿の家来となり、金山奉行職として同年九月より
鉱夫数千人を率て西方所々に入山して人夫を支配して諸山に其司人を置く。白川郷六厩村金山の
砂鉱数百人を置て開業するに不日にして黄金を得たり。同郷三谷村の鉱山は赤銅を堀得たり。同郷
三尾河村金山谷鉱山は白銅赤銅を鎔製し、同郷野ノ俣村瀧野鉱山は黄金を鎔製す。同郷新渕村字
宮谷の鉱坑は砂金を得、岩瀬村字向山の鉱山は砂金を得、其外諸山に草分試山と称して鉱坑を
試鑿する事数ヶ所あり。諸山より鎔製して差立る金銀銅鉛数百荷高山城に運送しければ、国主御喜悦
無限其年も月迫に成りければ、奉行を始め司人諸人夫に至る迄褒賞の祝儀として、酒肴物品数多賜り
越年近く下山して皆々住家に帰りけり。(柴田袖水記録)」

とある神社に奉納された 荘川六厩産の金鉱石
寛永十五年
「五月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる
寛永十五年寅五月、乾與右衛門、結党謀を遶(めぐ)らして町中に云觸し、人を替て讒訴しければ、
国主漸く之を信じ玉ひて、急に宮島の邸に使者を遣し、登城を命ぜらる。宮島何心なく登城して、二の丸を
通りかかるに、人の不意に打かかる者あり、宮島不意を被討、戦ひけれ共、早深手を負ひ刀を杖に
突立上り、本丸の方を白眼み、我近来勤功を尽し、莫大の金を製して、飛騨全国の貢金より我納めし
産金は遥に増りて其高多し、然るに其勤功をも思召し玉わず、讒者の舌頭に惑はされて糾明をも不正、
我に無実の罪を負わせ、謀て我不意を討玉ふは、良将に似合わぬ卑怯の致方、金森家世に有る限、
永々此恨を尽さて止ましと、大音にて言叫び遂に息絶えたり、(柴田袖水記録)
其頃諸方の山々に金銀をひただしくわき出、ほれどもほれども尽る事なく太守富貴にあきみち給ひけり、
諸大名の御参会にも萬清らかを尽し宛行はるる御知行より馬、物の具に至る迄花麗に美々しくぞをは
しける、ここに宮島平左衛門といへる者を諸方金山の奉行人と定め給ひける、何事も金山の事みな
平左衛門に打ちまかせ給へば御心のままにぞ金出たりける、其後乾與右衛門といへる者を相役にそ
付られける、此與右衛門といへる者邪曲の侫人なりければ、そひかに訴へ申けるは平左衛門私欲を
構へ夥敷金額をたくはへ候なり、いかやうに致候共相役の者もなく一人の心のままに候得は可然方を
御見立られ相役を御そへ候はば太守の御為可然なりとぞ申ける、太守諸役の人々まで左も有へき事
なりと内談一決しければ、乾與右衛門こそ可然なりとて、頓て乾與右衛門にそ仰付られける、平左衛門、
與右衛門か内訴を伝聞曇りなき心からに與右衛門をうらみ何事もしたしくなかりければ、與右衛門いろ
いろと讒訴して跡方なき事共をさまさまと申侍りければ太守実にもと思召終に平左衛門を斬罪し給ひけり。
(岷江記)
智徳院嶋仙忠芳大居士 宮島平左衛門 (大隆寺位牌)」
徳積善太
「寛永8年
重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。
「寛永六年乙巳九月、宮島平左衛門、小島郷片野新田を立退き、後高山に出て滞留中、国守金森家三代
出雲守重頼、之れを召出し家臣の格に列せられ、初め小姓役を務む。後西方半国金山奉行に任せられ、
家禄百五十石を食む。高山綴巷に居宅を定め、鉱石ある山々を巡見し、川上郷、小島郷、白川郷、所々
に新山十余箇所を見立て開坑し、鉱山益々盛んにして威勢大に振い、諸人の羨まさるはなかりきと云う」
(二村家文書)
「寛永八年辛羊年八月、平左衛門は国主出雲守重頼殿の家来となり、金山奉行職として同年九月より
鉱夫数千人を率て西方所々に入山して人夫を支配して諸山に其司人を置く。白川郷六厩村金山の
砂鉱数百人を置て開業するに不日にして黄金を得たり。同郷三谷村の鉱山は赤銅を堀得たり。同郷
三尾河村金山谷鉱山は白銅赤銅を鎔製し、同郷野ノ俣村瀧野鉱山は黄金を鎔製す。同郷新渕村字
宮谷の鉱坑は砂金を得、岩瀬村字向山の鉱山は砂金を得、其外諸山に草分試山と称して鉱坑を
試鑿する事数ヶ所あり。諸山より鎔製して差立る金銀銅鉛数百荷高山城に運送しければ、国主御喜悦
無限其年も月迫に成りければ、奉行を始め司人諸人夫に至る迄褒賞の祝儀として、酒肴物品数多賜り
越年近く下山して皆々住家に帰りけり。(柴田袖水記録)」
とある神社に奉納された 荘川六厩産の金鉱石
寛永十五年
「五月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる
寛永十五年寅五月、乾與右衛門、結党謀を遶(めぐ)らして町中に云觸し、人を替て讒訴しければ、
国主漸く之を信じ玉ひて、急に宮島の邸に使者を遣し、登城を命ぜらる。宮島何心なく登城して、二の丸を
通りかかるに、人の不意に打かかる者あり、宮島不意を被討、戦ひけれ共、早深手を負ひ刀を杖に
突立上り、本丸の方を白眼み、我近来勤功を尽し、莫大の金を製して、飛騨全国の貢金より我納めし
産金は遥に増りて其高多し、然るに其勤功をも思召し玉わず、讒者の舌頭に惑はされて糾明をも不正、
我に無実の罪を負わせ、謀て我不意を討玉ふは、良将に似合わぬ卑怯の致方、金森家世に有る限、
永々此恨を尽さて止ましと、大音にて言叫び遂に息絶えたり、(柴田袖水記録)
其頃諸方の山々に金銀をひただしくわき出、ほれどもほれども尽る事なく太守富貴にあきみち給ひけり、
諸大名の御参会にも萬清らかを尽し宛行はるる御知行より馬、物の具に至る迄花麗に美々しくぞをは
しける、ここに宮島平左衛門といへる者を諸方金山の奉行人と定め給ひける、何事も金山の事みな
平左衛門に打ちまかせ給へば御心のままにぞ金出たりける、其後乾與右衛門といへる者を相役にそ
付られける、此與右衛門といへる者邪曲の侫人なりければ、そひかに訴へ申けるは平左衛門私欲を
構へ夥敷金額をたくはへ候なり、いかやうに致候共相役の者もなく一人の心のままに候得は可然方を
御見立られ相役を御そへ候はば太守の御為可然なりとぞ申ける、太守諸役の人々まで左も有へき事
なりと内談一決しければ、乾與右衛門こそ可然なりとて、頓て乾與右衛門にそ仰付られける、平左衛門、
與右衛門か内訴を伝聞曇りなき心からに與右衛門をうらみ何事もしたしくなかりければ、與右衛門いろ
いろと讒訴して跡方なき事共をさまさまと申侍りければ太守実にもと思召終に平左衛門を斬罪し給ひけり。
(岷江記)
智徳院嶋仙忠芳大居士 宮島平左衛門 (大隆寺位牌)」
徳積善太
2008年07月18日
茂住~茂住宗貞の謎について3

金森長近が活躍したのは、大永4年(1524)~慶長13年(1608)8月12日まで、85歳という
年齢でなくなるまで、数多くの城下町を作り、活躍しました。
金森頼業は、寛文五年(1665)7月18日、父頼直の卒去により9月21日に飛騨を知行地として
賜ってから、寛文11年(1671)12月28日に江戸にて亡くなるまで、わずか24年の命でした。
(金森 頼業(かなもり よりなり、慶安元年(1648年) - 寛文11年12月28日(1672年1月27日))は、
飛騨国高山藩の第5代藩主。父は第4代藩主・金森頼直。母は本多忠義の娘。正室は井上正任の娘。
側室もいる。官位は従五位下、飛騨守。弟に金森近供、権之助(早世)、金森直清、金森重矩。
寛文5年(1665年)、父の死去により後を継ぐ。寛文8年(1668年)に藩内で鉱山騒動を起こして藩の
衰退を招いた。寛文11年(1671年)12月28日、24歳で死去し、後を子の金森頼時が継いだ。
法号:照見院殿。墓所:大隆寺。後に京都市北区紫野大徳寺町の龍源院。以上 Wikipediaより)
金森史に茂住宗貞・宮島平左衛門については、こう書かれています。
・天正17年(1589) 飛騨国東茂住の豪民にして、糸屋彦次郎宗貞」は国主長近に仕え、姓を賜り
金森宗貞といった。(越前大野城と金森長近)
・慶長13年(1608) 長近が逝去したことを知った金森宗貞は、茂住の我が家に火をつけ、
自身は即刻越中へ逃げ、能登へ退いた。(飛騨国中案内)
・慶長13年(1608)8月24日 金森宗貞、邸を発して敦賀に逃げた。(越前大野城と金森長近)
・寛永8年(1631)この年、重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす。(大野郡史)
・寛永15年(1638)5月 宮島平左衛門、讒者の言によって高山城中に殺さる。(大野郡史)
・寛文八年(1668)9月18日 頼業、鉱山師茂住宗貞の驕奢を悪み、其下代宮島平左衛門を城中に
殺す(飛騨編年史要)
さて、これを見てもわかるように、茂住宗貞は、金森長近が卒去したのち、すぐに可重との確執を感じ
越中から越前の敦賀に逃げていることがわかります。
また、下代といわれた宮島平左衛門については、上記の記述が確かならば、2度死んでいるという
不思議なことがあります。こんなことが、ありえるのでしょうか?
徳積善太
2008年07月17日
茂住~茂住宗貞の謎について2

飛騨一日一話に次のような記述があります。
「金森頼業の死 飛騨一日一話P256より
九月十一日 寛文五年(1665)
金森五代頼業は幼名五郎八といって慶安元年(1648)に生まれた。寛文二年従五位下飛騨守に
叙任したが三年後、父長門守頼直の死にあい、この日十七歳で父の遺領飛騨一円を与えられた。
頼業は生まれつき風流を好み、家臣木村昌悦、日根野宣潔などと連歌を興行して楽しみその遺作
が伝わる。寛文八年鉱山師茂住宗亭(ママ)の繁栄を憎んだ頼業は、宗貞の下代宮島平佐衛門を
城中によび寄せ殺害させた。平左衛門は金森家へ呪いの言葉を残して死んだが、異変を知った
宗貞は国外に逃亡し故郷越前に帰った。以来飛騨の鉱山は急激に衰え、高山城内にも怪異が起り、
頼業も病体となって遂に立てず、寛文十一年十二月二十八日江戸の藩邸で卒去した。
年二十四歳。照見院殿覚峰宗因大居士といい、高山大隆寺に帰葬したが元禄五年金森家国替の
とき、京都大徳寺塔頭金龍院(現龍源院)へ移葬した。
頼業は寛文十年武運長久を祈願し飛騨一之宮水無神社へ仁王門を寄進し造立したが、大原
安永騒動後の安永八年(1779)宮村往還寺に移されて現存し、宮村の文化財として保存されている。」
文中、宮島平佐衛門が、茂住宗貞の下代ということになっていますが、茂住宗貞は、金森長近が
高山に連れてきた鉱山師です。
宮島平佐衛門が、頼業の時代になくなったとすると、茂住宗貞は、金森長近の時代から五代あと
の頼業の時代まで、生きていたことになります。
これについて、疑問を持ちました。
徳積善太
2008年07月08日
茂住~茂住宗貞の謎について1
神岡町から富山方面に行くと、茂住という部落があります。
ここはかつて、銀山があったところで、江戸時代以前からあった鉱山を、金森長近が
越前大野から連れてきた「茂住宗貞(もずみそうてい)」という人が、鉱山奉行をして、
かなりの利益を金森家にもたらしました。
もともと、古い時代からこの地域からは、鉛が産出しており、有名な「三角縁神獣鏡」などに
使われていた鉛も、この茂住から産出したものであったとの、大学教授の報告があった
ようです。
さて、この茂住宗貞、調べてみると、いろんな書物で、いろんな謎を秘めていることが
わかりました。

そのいくつかをご紹介します。
(まず、神岡鉱山のHPより)
奈良時代の養老年間(720年頃)に、既に鉱山として歴史に登場し、室町・安土桃山・
江戸とその時代毎に統治者を替えながら、営々と鉱物資源の採掘が行われてきました。
時代が代わり、1874年(明治7)、三井組が近代的な鉱山経営を開始しました。
2001年6月、鉱石の採掘を中止するまで、実に130年間、近代化を歩む日本にあって
亜鉛・鉛資源の安定供給に貢献してきた“鉱山(やま)”なのです。
720 年頃 黄金を産し天皇に献じた口伝あり。
1589 年 越前大野の城主、金森氏の家臣、糸屋彦次郎(後の茂住宗貞)が鉱脈を発見。
金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営した。
1600 年頃 飛騨地方は江戸幕府の天領となり、文化14年(1816)には前平坑を幕府直轄
の鉱山(御手山)とした。
1874 年 三井組が大留・前平・蛇腹・鹿間の各坑(栃洞坑)を買収し、鉱山経営を開始。
1886 年 鹿間谷で洋式鉛製錬を開始。
1889 年 茂住坑を取得し、経営は神岡全山に及ぶ。
1905 年 鹿間選鉱場建設。
1927 年 鹿間選鉱場に優先浮遊法を採用。
1943 年 亜鉛電解工場完成。
1968 年 栃洞坑にトラックレス・マイニング法が我が国で最初に導入。
1986 年 三井金属より分離・独立。神岡鉱業株式会社設立。
2001 年 神岡鉱山鉱石採掘中止。
徳積善太
ここはかつて、銀山があったところで、江戸時代以前からあった鉱山を、金森長近が
越前大野から連れてきた「茂住宗貞(もずみそうてい)」という人が、鉱山奉行をして、
かなりの利益を金森家にもたらしました。
もともと、古い時代からこの地域からは、鉛が産出しており、有名な「三角縁神獣鏡」などに
使われていた鉛も、この茂住から産出したものであったとの、大学教授の報告があった
ようです。
さて、この茂住宗貞、調べてみると、いろんな書物で、いろんな謎を秘めていることが
わかりました。

そのいくつかをご紹介します。
(まず、神岡鉱山のHPより)
奈良時代の養老年間(720年頃)に、既に鉱山として歴史に登場し、室町・安土桃山・
江戸とその時代毎に統治者を替えながら、営々と鉱物資源の採掘が行われてきました。
時代が代わり、1874年(明治7)、三井組が近代的な鉱山経営を開始しました。
2001年6月、鉱石の採掘を中止するまで、実に130年間、近代化を歩む日本にあって
亜鉛・鉛資源の安定供給に貢献してきた“鉱山(やま)”なのです。
720 年頃 黄金を産し天皇に献じた口伝あり。
1589 年 越前大野の城主、金森氏の家臣、糸屋彦次郎(後の茂住宗貞)が鉱脈を発見。
金山奉行として茂住鉱山、和佐保銀銅山を経営した。
1600 年頃 飛騨地方は江戸幕府の天領となり、文化14年(1816)には前平坑を幕府直轄
の鉱山(御手山)とした。
1874 年 三井組が大留・前平・蛇腹・鹿間の各坑(栃洞坑)を買収し、鉱山経営を開始。
1886 年 鹿間谷で洋式鉛製錬を開始。
1889 年 茂住坑を取得し、経営は神岡全山に及ぶ。
1905 年 鹿間選鉱場建設。
1927 年 鹿間選鉱場に優先浮遊法を採用。
1943 年 亜鉛電解工場完成。
1968 年 栃洞坑にトラックレス・マイニング法が我が国で最初に導入。
1986 年 三井金属より分離・独立。神岡鉱業株式会社設立。
2001 年 神岡鉱山鉱石採掘中止。
徳積善太




