HOME › 獅子舞について

スポンサーリンク

この広告は一定期間(1ヶ月以上)更新のないブログに表示されます。
ブログ記事の情報が古い場合がありますのでご注意下さい。
(ブログオーナーが新しい記事を投稿すると非表示になります。)
  
Posted by at

石浦若宮八幡神社のまつり2


蔵の中には、古い獅子頭がしまってありました。


その横のほうには、たくさんの古文書が。
いずれ調べるといいと思います。


荒縄に縛られて、これだけの数の古文書は、調べ甲斐がありそうですね。


太鼓が載せられる台。これは、神楽屋台の原形でしょうか。


幟の数々。朱雀、白虎、玄武、青龍は東西南北を示す四神ですね。


闘鶏楽、獅子舞に加えて、槍踊りの幟がありました。

23日は雨が降って、今年は結局ご巡幸はありませんでした。
来年また見たいと思います。

徳積善太
  

石浦若宮八幡神社のまつり1

いろいろとご縁をいただいたので、石浦若宮八幡神社の祭典にお邪魔しました。

石浦若宮八幡神社は、石浦町一丁目の橋を渡った左側に鎮座されています。

森に囲まれており、普段ここを廃品回収などでお邪魔したことはあるのですが、
ここに神社があるとは気づきませんでした。



先日、お邪魔した時と違い、扉が全て外されていました。


ここには、雅楽会もあり、奉仕をされています。


神官は、水無神社の藤枝宮司。永年水無神社の神官が祝詞をあげられる
そうです。かつては、水無神社の領地だったという話ですが、これについては
一度調べなくてはいけません。


神社の縁起が板に書かれて奉納されていました。

石浦民謡 蹴石占捷

往古(凡1600年前)飛騨八賀の奥に両面宿儺と云う豪族が居た。身の丈け十尺余
一頭両面四肘四脚左右佩剣矢竝用力は十人力、走ることは馬よりも疾きと輩下大勢
引つれて飛騨中を暴れ廻り都の命に叛背の行多し時の斐陀国造は朝廷に誅伐を請た
都の帝は大将軍難波根子武振熊命に宿儺征伐を命じられた。命は屈強の将士と共に
美濃より飛騨へと真夏の嶮しい山道を困苦の末漸く飛騨の平地の南端に到着した。
命は杉林の中に渾々と湧き出る清水を発見、軍を屯し湧き水にて渇を潤し一同莫気
を甦す。命は杉林の中に祭壇を設、神薙立て遥か先帝(八幡皇大神)の御霊をお祀
りし戦捷祈願をなし石を蹴り上げて戦の勝敗を伺う「石占ひ」の神事を行なった。
占った石は神慮に依り勝と出た。将士一同歓喜此の上もなし皆槍を持って踊り嬉
んだ。之れが今も石浦の少年達が行う「槍踊り」の起源なりしと宿儺征伐の戦は
神慮通り勝利に終った。命は飛騨平定を終へ帰るとき前の「石占ひ」祈願の地に
軍を泊め戦捷御礼にとて一祠宇を建て先帝(応神天皇)の御霊を念し今上仁徳帝
の御稜威を祈請し奉りて各々の馬上の神像、二体を石にて彫み御神体として御相
殿奉祀し若宮八幡宮と称へ此の地域を石占の里と名付けられ都へ凱旋なされしと

奉納    昭和五十八年九月吉日

石浦民話 祭り聖者

旧暦八月十三夜年に一度の「石浦まつり」の神様迎への行列が神輿を中心に賑や
かに飯山の田圃道を帰って来た。森の下の大丸太の一本橋の袂には大勢の村人が
出迎へてゐる。夕日は西に沈み切り仲秋の名月が觥々と山の端に出かかると北の
方から次第に月の光明るくなって来る。行列が橋の袂につく頃川の向から喨々と
笛の音が流れて近づいてくる。此の笛の主は何処から来るのか毎年仲秋十三夜然
も雲が無く月の輝く夜しか聞えない。月が照らすと共に中島天神西川原と通称「
下の街道」をだんだんと森の橋へと近づいてくる。月の光が大丸太の一本橋を
照すと笛の主の姿が朧に見える。人々は「月の精者様だ」「祭り聖者が見えた」
と大嬉びだ。透して見れば一本橋の上には黒い牛に横乗りに黒い装束、黒い冠の
聖者が黒い笛を吹いてゐる。行列の囃子も何時しか聖者の笛に合せ唄ひ乍ら社殿
へと登って行く。そして其の夜は聖者に習って吹舞ひ時を忘れるのであった。
月が西に傾く頃、聖者は皆が幾ら名残りを惜しんでも明日の祭りが待ってゐると
て黒牛の背に嶮しい山道を水壷 沓替場 牛休場 奥孫兵衛を越え山梨領(八尺)
を至て月見山へと笛の音は消えて行ったと。
石浦まつりの翌日は山梨まつりであり石浦と山梨は祭り囃子が同じであったと
云う。聖者に教へられた大切な石浦祭り囃子であると。
 「ボオ(男の子)ボオの ボオの字ワア 菩薩の 菩の字ヨ」
                             謹撰



献撰、撤撰は女子の手によって行なわれる伝統が続いています。
この日の献撰奉楽は、平調の越天楽、撤撰奉楽は五常楽急でした。


玉串奉奠のあと、浦安の舞が奉納されました。演奏は雅楽会が行ないました。


明日は蔵にしまってあった神輿に神様がお乗りになられ、町内を回られる
ことでしょう。
(本祭りは今日23日に行なわれました。)

つづく

徳積善太  

石浦若宮八幡の獅子舞4

<オチャエ>

オチャエとは、江戸時代後期の流行歌で、全国的に流行った歌の一つです。
ただ、こちらのオチャエは、歌詞が他の地域のものと大変に異なりました。

「御茶屋の二階で 剣を打つ 勝てばよし 勝たねば女郎の買い収め」

という歌詞になっています。
これは、大変な意味の歌詞だと思いました。


獅子舞のほうも変わっていて、前の人が足を伸ばして座り、その足を
徐々になめていくというしぐさをします。
この形態は非常に変わったものだという印象を受けました。

<カヤシカケ>

これは、この石浦の独自のもので、他の地域には見られない踊りです。
歌詞も、フレーズもこれは聞いたことがありません。


舞の一番最後に、後ろ足の人が逆立ちをします。
これが、とても難しくて、なかなか決まらない。決めるのが大変筝でした。

こんな獅子舞は初めてみました。

<カネマキ>

この歌詞は変わっています。

「カネマキはおいてくりょ おたあ(おりゃ)ノミじゃねえ おいてくりょ」
という歌詞になっています。

このカネマキという言葉、飛騨弁で何を指すのかわかりませんが、何かノミを
除去するための防虫剤のようなイメージが浮かびます。
それか、読んで字の如く「金撒き」かもしれません。



獅子舞の前に、蛇を置かれていました。これはまさに、「へんべとり」(まむしとり)
ですね。




このしぐさは、間違いなく「へんべとり」です。徳兵衛獅子でもへんべとりは舞います
が、3回くらいへんべに近寄ったり、遠ざかったりします。
そういうところは全く一緒だと思いました。


最後に、獅子がへんべをくわえて、後ろに下がり放り投げます。
この動作で、食べてしまうところもありますが、一般的には、蛇を魔にたとえて、
魔よけのしぐさをするという意味合いがあります。

このことから、獅子はまむしが大好物といういわれにもなっているようです。

<下街道>

あと、下街道という曲があります。これは、めでたと同じ歌詞で、節が異なります。


この曲は演奏だけで、全ての舞が終った後に、お旅所から出る時、神社から出る時
などに演奏されます。舞はありません。
ただ、締め太鼓のたたき方は、徳兵衛獅子で言うところの屋台の「曳き分かれ」と
全く同じです。早拍子で締め太鼓をたたきます。
これにも驚きました。

さて、このほかに、「カズ」という曲がありますが、これは数え歌のことだと思われます。
ただし、まだしっかり奉納できるほど練習していないということで、復活させたいと
いうお話でした。

また、一つ上げも昔やったという伝承があるそうですが、実際にどのような舞を舞うのか、
節もどのようなものなのか伝わっていないということでした。

ここまで、拝見したら、徳兵衛獅子とは音も一緒ですが、ひょっとすると徳兵衛獅子の
原典はこの獅子舞なんじゃないか。そう思うようになりました。

これについては、一度楽譜に起して、比較したものを論文か何かにしないといけないと
思いました。

徳積善太
  

石浦若宮八幡宮の獅子舞3_ボボ

<ボボ>
ボボとは、九州地方では、たいへん卑猥な意味を持つ言葉ですが、そんな名前が
獅子舞の曲にあるとは大変驚きました。
こんな歌詞になっています。
「ボボのボの字は、菩薩のボよ」




一見したところ、ノミ取りという獅子舞がありますが、それに似ているようです。



後ろの人が、足をやんだして、それを獅子舞がかじるというような動作をします。

九州弁の「ボボ」の意味とは全然違いました。

徳積善太  

石浦若宮八幡宮の獅子舞2

巻上げという曲を最初に舞いましたが、それは徳兵衛獅子の場ならしでした。
そのあと、きょくを舞いました。
<きょく>




<二つ上>

四体舞でした。



<扇踊>

この舞は、扇を振りながら、2体の肩車した獅子が宮に入っていく、舞だそうです。
お旅所での舞ということで、宮入の事をさすことがわかりました。
この曲は、徳兵衛獅子の「道行き」と同じでした。



<高い山>

高い山は、江戸時代の流行歌であると聞いていましたが、徳兵衛獅子の高い山とは
節が全く異なります。
よく聞いていると、一つ上げと、二つ上げの合体した曲のような感じでした。



舞のほうは、いわゆる玉そばえのように、前足を前に突き出して何かを探るような
動作が含まれていました。

つづく

徳積善太
  

石浦若宮八幡の獅子舞1

昨日、石浦若宮八幡神社の獅子舞を見せていただきました。

石浦若宮八幡神社は、現在の石浦町1丁目に社殿があります。
その歴史は古いようですが、あまり明らかにされていません。

以前は、一之宮に近いところにトンネルがありますが、その高山側のところに
社殿があったそうですが、火災で焼失。大正2年に当時、諏訪社があった現在地に
移転され、現在に至るそうです。

そこの獅子舞の自言集は、こんな冊子でした。

道行、下街道、高い山、扇小踊、巻揚となっています。

今まで見たことのない、扇小踊、巻揚というのがどのようなものか、非常に興味深い
ところがありました。


獅子頭は、まん中のおでこの部分が盛り上ったもので、この形も飛騨にある
獅子舞でも珍しいほうの形だと思いました。


石浦町公民館では、ステージに笛の人達。そして、広い畳の部分で獅子舞の
練習が行なわれるようです。

子供たちも多かったのですが、担当の方によると、以前は男性の大人だけで演奏を
していたとのことですが、近年、子供や女性も入れるようにしたとのこと。
一時期、存続が危ぶまれる時期もあったそうですが、「今ではメンバーも増えて
継続でき、よかった」とのこと。



太鼓は胴太鼓、撥は紅白の布で巻いてあり、左右が逆の色使いとなっています。


そうこうしているうちに、獅子舞が始まりました。

詳細については明日。

徳積善太


  

秋祭り近し_三日町白山神社の獅子舞

先日、三日町の友人にお願いして白山神社の獅子舞の練習にお邪魔しました。

こちらの獅子舞は、明治時代にはげ下徳兵衛氏によって、徳兵衛獅子舞が伝授されて
います。
吹き切り、場ならし、ざいふり、高い山、きょく、二つ上げ、一つ上げが伝授されていました。

ざいふり。神事の最高の曲が伝わっていました。


ざいも、ちゃんと片方は剣の形をしています。


形こそ、120年以上の間に、少しづつ変わって来てはいますが、三日町白山神社独特の
獅子舞として、定着しているようです。


きょくは、首の振り方が森下組の徳兵衛獅子より多くまわすようです。


一つ上げ。省略バージョンで舞われる事が多いこの曲ですが、ここではフルバージョンで
練習されていました。私の友人は、この中でも長老のようですが、バテバテになってました。
片足立ちのときに、ふらついてかなりえらそうでした。ガンバレ!


この会では、後ろ立ちの人は、前の獅子頭を持った人と同じ動きのために、通常は獅子頭の
練習のみをするそうです。確かに、長時間だと舞い方もえらいですよね。

本番は、7日8日に丸二日、三日町の白山神社周辺で舞われるそうです。
機会があったら、ご覧になってください。ここには、神楽台の屋台もあります。

徳積善太
  

獅子会館の田端会長を訪問しました3

もう一つ、御神体の獅子舞に関して面白いお話。

あるとき、伊勢神宮から20kmほど行ったところにある神社で御神体が盗難にあったそうです。
その御神体と言うのは、獅子頭で、神社関係者の方々は、血眼になってその御神体を捜索
されていました。

「獅子頭なら、高山に獅子会館というのがある。そこに古い獅子頭が集められているが、
ひょっとすると、そこにあるかもしればい。」
というので、関係者が写真と控えてあった図面を持って、獅子会館を訪問されたそうです。

そうすると、たくさんある獅子頭の中に、自分たちの御神体によく似た獅子頭を発見。
ショーウィンドーをあけてもらい、確認したところ、間違いなく、彼等の御神体でした。

後日、その関係者の皆さんは、一旦ふるさとへ戻られ、今度はバス一台で獅子会館を訪問。
そのときのいでたちは、紋付袴、神官も正装といういでたちでした。

いきなり、獅子会館を訪問した一行は、そこで、御神体を前に神事を始められました。
関係者の方から「申し訳ございませんが、これは私共の神社の御神体に間違いありません。
いま、こうして、大々的に神事を努めさせていただいたので、何とか御神体をお返し下さい。
もちろん、ただでとはいいません。ご取得になったお代金は払わせていただきます。」とのこと。

田端さんはかなり悩まれたそうです。御神体というのであれば、お返ししよう。
ただ、問題がある。困った。  ということで、
「個人的にはお返ししてもよろしいと思いますが、実はこれらのものは、個人のものであっても、
国の重要文化財に登録されています。一応、文化庁の方へ問い合わせてみますので、後日
ご返事申し上げます。今日のところはお引取り下さい。」

といって、一旦帰ってもらった。

国に問い合わせたところ
「獅子会館のものは、全部国の重文として登録されている。したがって、一個でも欠けるわけには
いかない。何とかして断わって欲しい。」という返事だった。

困った田端会長は、その旨を神社のほうへ告げると
「実は、犯人が見つかりました。それは、わが子でした。申し訳ない。」と言う返事。

よくよくお尋ねしてみると、神官の子供さんが、お金に困って、本殿の鍵を開け、御神体となっていた
獅子頭を持ち出し、大阪の業者に売り渡した事がわかった。

立場をなくしたのは、神官ばかりでなく、神社の総代さんたち。盗難届けを警察へ出した以上、
いくら神官の子供さんが犯人であっても取り下げる事は出来なかった。

結局、その神社では、新しい御神体の獅子頭を作ることになり、それに御霊を移して、奉納
することになったらしい。

困ったのは、田端さん。御神体とは知らず、展示していた獅子頭が、御神体という事はいくら
盗まれたものでも、神様が宿っておられる。しかも、国の重文になっている以上、一つでも
欠かすわけには行かない。
そこで、結局、御霊を獅子頭から抜いていただき、展示する事になったそうです。

後日、獅子会館には、出雲大社のご分霊をお祀りし、獅子会館の中央に遷座された。
この御神体の獅子頭は、そのご分霊と一緒にお祀りされることになったそうです。
獅子会館の獅子頭の横にある神社は、正式な神社で、「飛騨出雲神社」というそうです。

かつて、田端さんが山の仕事をなさっていたとき、山の神様におまいりをする風習が在った
ことから、こういったご分霊を獅子会館にお祀りし、現在でも五月に隣の桜山八幡神社の
神官に来ていただいて、会社役員が総出で、祭典を行なわれるとのこと。
これは、毎週仕事でお邪魔していた私も、20年来存じ上げないお話でした。

徳積善太

  

獅子会館_田端会長を訪問しました2

先日の続き。獅子会館の会長 田端会長を訪問しました。

先日のお話は、田端会長が獅子頭を集める事になったきっかけですが、今日のお話は、
御神体となっていた獅子頭について。

獅子の種類は大きく分けると、獅子舞を行なうための獅子頭と、神迎えとして神社に据え置く
タイプの大きな獅子頭とに分ける事が出来ます。

あるとき、獅子頭をかなり集めるようになっていた頃、古い獅子頭を差し上げるので、新しい
獅子頭を作って欲しいとの要望があったそうです。
どこか、岐阜県の郡上大和の奥の神社だったそうですが、支配人さんは、会長からの指示で
古い獅子頭を集める事を任務としていたそうです。

いつもの通り、写真と図面、寸法などを送ってもらい、幾日かかけて、獅子頭が出来上がりました。
支配人さんは、何月何日の何時ごろ、その新しい獅子頭を持参しますといって、車に積み込みました。
郡上の大和といえば、当時は高速が在りませんから、高山から車で2時間半くらいの場所です。
ドライブ気分で、支配人さんはお出かけになりました。

神社に到着すると、そこの部落の皆さんが、全員が紋付に羽織袴。神官の人も正装してお出迎え。
ドライブ気分で行った支配人さんは大変驚かれたようです。
そうです。その獅子頭は、神社の御神体だったそうです。
着の身着のままできた支配人さんは、自分の格好のことを気にして、「出直してまいります」
と申し上げましたが、「どうぞどうぞ、お気になさらずに」ということで神事に望まれました。

ちゃんとその神社では、神主が五人、雅楽の演奏で始まり、献撰の儀式があり、太太神楽で玉串奉奠。
巫女さんの舞奉納があって、撤撰があるという。神社の正式なお祭であったそうです。
その後、直会(なおらい)となり、神主の横へ行くように進められ、上座でお料理をいただいたそうです。
そこでも、服装の事が気になり、断わられたそうですが、「どうぞ、どうぞ」というので、仕方なくお神酒を
頂戴したとのこと。

獅子頭が、御神体として使われている地方もあるというエピソードをお話くださいました。

つづく

徳積善太

  

愛宕神明神社の獅子舞

愛宕神明神社の獅子舞の練習にお邪魔しました。

愛宕神明神社は、「松原獅子の徳兵衛獅子」というのが伝わっているとのお話でした。

珍しい、鼻輪のある獅子頭です。


勇壮な舞は、2匹の獅子で行なわれますが、皆さんベテランのため、大変よくそろっています。

それもそのはず、獅子頭の高さなどは、後ろの舞い手が前の舞い手の所作にすべて合わせて
舞うしきたりになっているそうです。

ここの獅子舞の見どころは、獅子頭を回すこと。
最初、獅子頭を担当する人は、四角いお盆をまわして練習をし、どうやったら獅子頭がよく
回るかと言うことを基礎練習するそうです。


最初、松原獅子が残っているのかと思って、大変興味がありました。
ところが、良く考えてみると、隣の錦山神社が市の文化財の徳兵衛獅子。反対となりの
東山白山神社が徳兵衛獅子のため、わざと意識して、松原獅子と呼んでいるのではないか
と思われました。

獅子舞そのものと節回しは、徳兵衛獅子と全く同じでした。
ただ、伝承によって一部、節が異なる部分はありました。

舞われている曲は、「高い山」 「一つ上げ」 「二つ上げ」 「かけあい」 「きょく」 「まむしとり」の
六曲でした。吹き切りは、最初の高い山のみについていました。

皆さんが大変なのは、氏子の間を行列で回るときに、それぞれの短いバージョンを各家で確実に
まわすということです。氏子が300軒あるそうですが、その各家を2匹しかいない獅子で回します。
当然、体力も相当必要になりますから、若い方しか舞えません。
どこの神社でも、いろいろと苦労があるんだなと思いました。

今日は、5日の前哨戦で、護国神社のお祭が開かれました。当番だった愛宕神社の皆さんには
お疲れ様でした。
5日は、愛宕神社、錦山神社、東山白山神社の例大祭が行なわれます。
どの神社でも、獅子舞と神社の関係者の皆様には、頑張ってください。

徳積善太