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ちゃつについて

今日は、FBで田中美香さんがお祭の料理、「ちゃつ」を御紹介されていたので、それをきっかけに調べて来ました。

高山のお祭は「ちゃつ」というごっつお(御馳走)を食べます。
家によって異なりますが、基本的には「赤飯」「こもどうふ」「わらび」が乗っていますが、家によって「いも天」「ごぼう天」
などをのせます。

一人一つの割り当てとなっており、来られたお客様に出される風習となっています。
この風習は、祭の呼び引きといって、お祭にその方のご自宅を訪問し、御馳走を食べながらお酒を飲む風習です。
高山地方から古川にかけて古くからおこなわれていますが、現在では、呼び引き自体をやめてしまったところが多くなり、まだ呼び引きをやっているところも、オードブルで済ませるところが多くなり、このちゃつを使ったところは高山市内と古川の一部(蒲酒造さん)くらいになりました。
古川の旧家、渡辺酒造さんや、杉下さんでも数年前に呼び引き自体をやめてしまったそうです。
国府地方でもかつてはありましたが、昭和50年代には、ほとんどこの風習はなくなったそうです。

この「ちゃつ」という名前は、料理を盛り付ける木のお皿のことをいいます。

漢字で書くと「楪子」とかくそうですが、業界に依って異なります。
春慶業界では「喋子」と書き、6寸=18cmの丸い皿の事をさします。また、当て字で「茶津」というところや、「千代久」「猪口」と書いて「ちょく」というものもあります。
国府町から古川にかけては「点心」がなまって「てしもり」と呼ぶところもあります。

全国的には、この6寸=18cm皿の事を「銘々皿」と呼ぶのが一般的です。


そもそも、この楪子(ちゃつ)は、懐石家具のひとつで、端反りの浅い木皿にやや高い足台をつけたもので、菓子や菜を盛ります。
現在では、精進椀に付随しています。
精進椀(しょうじんわん)は、禅院で饗応膳として使用された膳椀で、朱塗で、高台の内側が黒塗になっています。
天正時代に頻繁に使われている「鉢の子椀」というのが「精進椀」のことではないかといわれます。
精進椀は、飯椀の身が椀形であるのに、飯椀の蓋・汁椀の身蓋とも端反りになっています。
精進椀には、四つ椀のほかに「楪子」と「豆子」が添っています。
精進椀は、現在では真の膳椀として、仏事の茶事や格式の高い茶事に用いられています。


もともと、この楪子(ちゃつ)は、平安時代に貴族の料理に使われたものらしく、後にそれが輪島塗などの黒漆塗りのものや、蒔絵入り之ものなどに変化していったようです。
飛騨地方では、明治25年以降に春慶の楪子(ちゃつ)が全国的に販売されるようになりました。杉下家などでは、商売柄、春慶のものが使われていたとの事。
 

さて、上に乗せる料理ですが、春祭りの山王祭では、神社の直会のときには、必ず料亭洲岬さんの「ちゃつ」でお酒をいただきます。
 
(日枝神社では、直会の正席に着く人は「ちゃつ」。それ以外の方は弁当箱に同じ料理の入ったものをいただきます)

洲岬さんでは、宗和流本膳を崩したもので、昔から上に乗せるものを「赤飯」「こもどうふ」「ぜんまい」「赤カブ」「ますの照り焼き」「たまごやき」「結び昆布」「くずし(かまぼこ)」「花えび(べっこうえび)の甘露煮」の9品を乗せる習わしになっています。
焼き鱒を入れるのは、おめでたい席では、正月に「飛騨ぶり」を食べますが、ぶりの代わりに季節のものとして鱒を使うそうです。

同じ料理屋でも、角正さんでは、「赤飯」「こもどうふ」「つけあげ」わらび」「まんじゅうの天ぷら」を載せます。
こちらでは、精進料理のお店であると言う事で、殺生を嫌い、動物や魚物は載せません。また、懐石料理では、「一汁三菜」が基本となっているので、3,5,7という奇数盛二するのが基本とのことでした。
「まんじゅうの天ぷら」は、飛騨地方だけで食べられる料理の様ですが、この祭料理から来ているものと思われます。
昔は、各家でまんじゅうを揚げましたが、最近では揚げたものがスーパーなどで売られています。

懐石料理の世界では、上に載せる料理の数が決まっていますが、それぞれの料理屋さんでも異なり、また各家庭でも異なるので、何を載せるかはその家庭ごとに異なるようです。


そもそも、これが何時頃から始まったのか。女性史学会の神出さんのお話しによると、「旦那衆や庄屋さんなど地主さんのところに、小作農家やお百姓さんが呼ばれて行ったとき、一人づつに分けた料理を食べさせてもらった。お祭の時には無礼講となって、誰が行ってもタダで食べて飲ませてもらえる文化があった。
これは、日ごろの農民のうさばらしをさせ、打壊しや付け火などを予防するための文化だったんじゃないでしょうか。そのため、年に一回だけ、祭の日には地主さんの所にいくと、タダで飲んだり食べたり出来た。その名残だと思われます。」
とのことでした。明治の終わりごろには、赤飯のほかに「わらび」「こもとうふ」「干しエビ」「きざみするめ(干しいかの甘露煮)」「結び昆布」が乗せられて居たそうです。
赤い干し海老が色付けのために載っていましたが、それがだんだん売られなくなり、さびしいのでニンジンに変わったのではないかとのお話でした。
また、昆布を入れるのは、よろこぶというお祝いのときの語呂合わせから来ていますが、正月の料理では、年輪を重ねる=長寿をお祝いするために、こぶを巻くのに対して、お祭の料理や婚礼などでは人の結びつきを指し示すために、昆布を結ぶのが一般的とのことでした。


さて、この楪子(ちゃつ)ですが、飛騨地方にはいろいろなものが伝わっています。
古民芸倉坪さんで販売されているものは、飛騨地方の各所から集められたものがあり、朱塗りのもの、黒漆のもの、蒔絵の入ったものなどいろんな種類があります。
 
料亭洲岬さんのものは、おもに2種類で、一つは蒔絵のもの。そしてもう一つは、半月と呼ばれ、円の一ヶ所が欠けたものをお使いです。
 
お皿とは関係ありませんが、左官の世界で「丸は満月につながり、満つるは欠けるの始め也」といって、わざと一ヶ所を欠けさせて、十四日月(いざよい)にする風習があります。
おそらく、そういったことを表わしたデザインだと思われます。

料亭角正さんのものは数種類あり、見せて頂いたものは、春は桜の入った蒔絵の削り出しのもの。秋祭りでは、赤とんぼをあしらったものなどが使われているそうです。
さすがに料亭だけに、器にも凝った演出がなされています。


このほかに、春慶のちゃつもあり、杉下さんのところでは、春慶を扱っておられるので、春慶のものを使っておられたとのことでした。



高山のお祭の時には、料亭洲岬さん、角正さんや高山観光ホテルさんなどで、この「ちゃつ盛り」を召しあがることが出来ます。値段は少し高めで2500円位からとなっていますので、
若し興味がある方がありましたら、お祭の時にお問い合わせください。
洲岬さん「ちゃつ」料理 0577-32-0020

高山観光ホテル「ちゃつ」料理
0577-32-4100


以上



  

がんどうちの分布について

先日、「がんどうち」について話しましたが、今日は仕事のついでに益田郡の郷土史家の先生などに
その分布について確認してきました。

今日はたまたま仕事のついでに、金山の郷土史家の先生のところや、下呂の先生のところにお邪魔
して情報を収集しました。

金山では「がんどうち」と言わない。ひな祭りです。歌も違いますし、菓子蒔きがあります。
また、下呂では乗政、宮地辺りまではあります。付知はひな祭りで、ここでは甘酒が振る舞われます。
同じ下呂でも門和佐にはない。
また、白川町では、水戸野には「がんどうち」があります。

加子母は不明ですが、付知町では「ひな祭」として行われており、白酒や甘酒をふるまっていたということです。


まだ郡上を調べてませんが、南飛騨の萩原を中心とした行事のようです。引き続き調べます。

小池先生がもう一つおっしゃっていたのは、「雛様と言うのは早く片付けないといけない。
いつまでもあると嫁にいけないという事があり、早く片づけるのに手伝うような意味があった
のかもしれない。それで、お供え物の片づけをすることが、風習になったのでは」
とおっしゃっていました。

同じ下呂でも、森、湯之島、幸田では行なわれていません。
周辺の少ヶ野、竹原、宮地、乗政、保井戸、瀬戸(焼石)、東上田では、行なわれている。

また、小坂の都市部には伝わっていないようです。

これら、都市部のものは早くにすたれたと考えていいようです。また、個人によっても違いますから、益田地区もあちこちである所とないところがありそうです。

これは時間がかかりますね。

  

「がんどうち」の語源について

★がんどうちの語源について

「がんどうち」の語源について、いろいろ調べておりましたら、飛騨春秋に下記の記事を見つけました。
かつて社主の桑谷先生も同じことを思い、読者に疑問を投げかけていたようです。
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「がんどうち 桑谷正道 (飛騨春秋119号 12-414P) 
 益田郡地方では、四月三日に雛祭りをするが、子供たちが、お雛さまを見てお供えの菓子を貰いにいくこと
を、「がんどうちに行かんか」という。其の語源を考えてみると、 
 ①がんどは鋸で、うちは目立てをすること。または修理をする事で、騒々しい事。
  したがって騒ぎながら、悪童たちが雛様の歌詞を貰うこと。
 ②がんどは灯りでぼんぼりに通じ、うちは歌っての囀化。つまり雛さまの前で歌って菓子を貰うの意。
 ③がんは願、どは盗み願って菓子を盗むと言うわけ。
3つのうちで①が無難なように思われるがどうだろうか。大野郡宮村では「がんどびき」といっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文中に紹介されている「ガンド」というのこぎりであるが、春木を伐るためのかなり大きな鋸(のこぎり)で
、写真入りで紹介されている。
ガンド(雁頭鋸)  飛騨春秋第26年3郷(通巻271 P2)
 
ハルキ(春木)を切る鋸で、柄に目盛を附けている。
ハルキキリは二月から三月にかけ、共有林で一年間使う
燃料の木を切り、その地に積んで置き、一ヶ年乾燥させて
翌年家に運ぶ。
楢材を最高とし、他の木を雑木と呼んでいる。
各農家では、一年の燃料を確保し、余った分は売った。
 余談ですが、「ハルキ」について金森時代には、三福寺の小池家が春木を高山町内で売買することを許可さ
れ、大八賀川を船で流し、宮川を遡上して、高山町で売買していた時代もあったようである。(「小池文書」
・飛騨史談)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「がんどうち」について  大野政雄(飛騨春秋通巻120号 12-5 P13)
「貴誌四月号に御執筆の「がんどうち」を拝読いたしました。うめ草の間に合わせに、とっさにお書きになっ
たらしい玉稿に対してとやかく申し上げるのもおこがましい次第ですが、高説の①②③は、いずれも付会が過
ぎてるように感じました。「がんどびき」のほうは、どう説明されるのでしょうか。愚見を述べさせていただ
きます。
「がんど」とは、元来強盗を宋音読みにしたことばです。「がんど頭巾」は強盗が顔を隠すためにかぶるもの
でした。「がんど提灯」は強盗が自分の顔は見られないで、前方だけ照らしだそうと工夫したものです。(龕
燈にあらず)長崎では憎まれ口を「がんど口」というそうです。大型鋸の「がんど」も強盗切りの刑具に使わ
れてからの名であろうと思われます。
「演説をぶつ」「万引き」などというでしょう。強盗に押し入るのを「がんどうち」、物を強奪するのを「が
んどびき」というのです。
 勇壮な語感が腕白小僧どもをよろこばせて、よその家に押しかけ、雛様を見てほめ、お菓子をねだる。ある
いはおおっぴらに失敬してくることを、「がんどうち」などといわせるようになったのだと思います。
 なお、全国方言辞典によれば、静岡県や愛知県の一部には、雛祭りのお供えを下げてたべることや、お供え
そのものをも「がんど」とよぶ地方があるようです。」
 この「がんどうち」という言葉は、語源をたどってみると、結局は「強盗」という言葉の語源につながり、
あまり行儀のいい言葉ではないことがわかりました。

徳積善太  

山之村の風景3

山之村の一番奥にある打保の一番奥にある建物です。
もうここに人の住んでいる姿はありません。




人が住んでいたあかしに、赤いつつじの花が生き続けています。


人も住まなくなり、渡ることのなくなった橋。人が住まなくなった家が無造作にあわれを
物語っていました。



ここからは、車の入れない道が続き、北アルプスへの山岳道が続いていました。

徳積善太  

山之村の風景2

山之村の森茂には、今でもかやぶき屋根の家が残っています。




森茂から岩井谷を過ぎて、下之本まで行きました。
途中、下之本の神明神社に立ち寄りました。


下之本神明神社



下之本には、今でも福寿寺という寺院が存在します。ただし、無住のお寺です。



山之村の一番奥の打保と言う場所にも、ちゃんと神社がまつられていました。
このエリアには、一部落にちゃんと一つづつ神社が今でも存在します。


つづく

徳積善太
  

山之村の風景1

地図にない村として有名な神岡町山之村。正式な住所は神岡町伊西、森茂、下之本、和佐府、
打保、岩井谷などの集落の総称です。

先日、各地の神社と寺院を調べに、山之村まで行ってきました。


神岡から伊西峠の頂上にある伊西トンネルを越えると、そこは山之村地区です。



峠を越えたところには清水がこんこんとわき出ていました。大変おいしい軟水系の
水でした。



森茂まで行くと、昔も今も変わらぬJAのお店がありました。
雑貨店、郵便局、GSなどを併用した村の重要な生活源です。



そこには、どこまでも広い農村風景が広がっていました。


つづく

徳積善太
  

神岡の四柱神社の現状

いま、飛騨のあちこちの神社の写真を撮っていますが、今日はとてもショックな出来事がありました。
廃村になってしまった、栃洞まではたどりつけませんでしたが、途中にあった四柱神社に行ったところ、その社殿は雪でつぶれていました。


栃洞の入口のところにはまだ、石柱が立っています。


少し参道を上がると、立派な鳥居が現存しています。


参道を上がって行ったら、建物が見事につぶれていました。


建造物の木材を見ましたが、昭和になって作られた建物のようですね。
材料が非常に新しく、しかもかなり細い部材で作られていました。


横にあった末社の方は、まだ現存しています。




かつてものすごい繁栄をしていた神岡の栃洞ですが、人がいなくなるとこうも変化してしまう物かと、栄枯盛衰を感じました。

Googleで調べたら、かつての建物を撮影していた方がおられました。
http://underzero.net/html/tz/tz_361_1.htm

また、FBにアップしたところ、神岡の友達から次のコメントをいただきました。

「鉱山四柱神社は、栃洞の氏子がいなくなり、維持が不可能​になったので、現在神岡鉱業敷地内に遷されております。
以前見に行った際には、拝殿の扉にその経緯が張り紙して​ありました。

(建物が健在の時のありし姿)


現在は神岡鉱業にて管理されております。

大津神社遷座百周年大祭(20年前)の記念ビデオでは、​鉱山四柱神社、と現在の旭ヶ丘地区(神岡警部交番付近)​ にあった金山神社と鉱山ゆかりの神社も小さな神輿をもっ​て来ている姿が映っているので、今となっては貴重な映像​ですよ!」


徳積善太  

やっと『飛州志』を入手しました。

いまさらですが、『飛州志』を持っていませんでした。

やはり、研究するには、この本が欠かせません。

古本屋さんで探し、ないのでネットで予約していたのですが、全然連絡が入らず。
3年の日が流れていました。

昨日、久しぶりにアクセスしたら、ようやく1冊見つけて、高かったんですが、注文しました。
8000円もしました。どひゃー!


やっとゲットしましたが、これで手元にやっと本がそろいました。

あと、ないのは『斐山語草』だけです。


徳積善太  

税務署で講演しました

24日午後3時より、高山税務署で講演を行ないました。


税務署長さんに伺うと、署員が57名いらっしゃって、地元の人が8人しかおられない。
折角高山に赴任したのに、高山のことを知らない方が多いので、高山の話をしてほしいとの
ことでした。

そこで、以前、小学校で講演した時に使ったクイズを20問行ない、クイズ形式でお話をさせて
いただきました。

残念ながら、全問正解の方はおられませんでしたが、それでも2人の方が17問正解ということで
うちのお豆をプレゼントしました。

当初は2時間の予定でしたが、お仕事がお忙しいこともあり、1時間半で切り上げました。
楽しみながら、勉強していただいたと思います。

徳積善太