2008年08月20日
2008年08月07日
兼山に行ってきました5
欄丸のお兄さん 森長可(ながよし) 第二代金山城主 永禄年(1558)~天正12年(1584)
織田氏の家臣、のち羽柴秀吉に仕える。森可成の次男。一説に嫡男。
通称:勝蔵(勝三)武蔵守。 本名:長可
いみな:前武州太守鉄囲秀公大禅定門 菩提寺:可成寺(かじょうじ)
元亀元年(1570)、父可成討ち死にに伴い、十三歳で家督相続し、美濃兼山城主となる。
天正二年(1574)頃より織田信忠に属し、畿内諸国に従軍している。同十年二月甲斐・信濃
武田領侵攻の際にも、先方を務める信忠に従軍。飯田城・高遠城攻めに参加し、その
直後から上野(群馬県)へ進軍して国人(在地領主)を従属化させている。
戦後、信濃の高井・水内・更科・埴科四郡(金山を含め、約二十万石)を与えられ、信濃
海津城に在城。領内の治安維持、安定化に努めていたが、信長父子が本能寺で死去
(天正10年(1582))すると、信濃から撤収。本貫(本地)美濃金山城にもどり、
羽柴秀吉に所属。岐阜城の織田信孝と対峙する。
同12年3月織田信雄・徳川家康と交戦する秀吉に従軍。犬山城を陥れる。
同年4月9日、義父池田恒興とともに三河侵攻を図るが、長久手において家康の奇襲
に遭遇し、討ち死に。行年27歳。
なお、直前の3月26日付けで、尾藤知宣(甚右衛門)に対して遺言状を残している。」
徳積善太
2008年08月06日
兼山に行ってきました4
森家初代城主 森欄丸のお父さん 森可成(よしなり=三左衛門)1523~1570
「森家は、源義家の七男義隆より出で、相模国(神奈川県)森荘に住して「森氏」を称し、のち
美濃国に移り明智氏に仕えた。可成は義隆十八世の孫といい、「三左衛門」と称し、明智氏滅亡後
は斉藤道三に従い、さらに織田信長に属し献策するところが多かったと言われる。
信長の美濃東方侵攻時の勲功により烏峰城(うほうじょう)を与えられ、永禄8(1565)年、羽栗郡蓮台(田台)村
より金山に移り、烏峰城を修築して「金山城」と称し、城持ち武将となった。
永禄11(1568)年には信長の近畿平定の軍に従い、信長の銘により滋賀・宇佐山の二城を守った。
しかし、信長が攝津に攻め入るや、可成は浅井長政・朝倉義景に攻められ、元亀元(1570)年9月19日
小勢ながら奮戦し討ち死にした。享年49歳。
信長の近習「欄丸」・金山第二代城主「長可(ながよし)」・第三代城主(忠政)の父である。」
徳積善太
2008年08月05日
別院の暁天講座
昨日と今朝と、別院の暁天講座に行ってきました。
今日の講師は、宮大工で大変有名な八野明さんが講師でした。
ご自身の体験談や、今までのご経験を中心にお話をされました。
修理した屋台は130台以上。寺院や鐘楼なども手がけておられます。
しかし、五重塔を作ったことや、玉虫の厨子を作ったこと、中田金太さんとの出会いで
屋台を8台も作られたことは大変な感激だったようです。
この模様につきましては、また改めてブログに掲載します。
今日、お話の中心は、屋台の車輪について。
いろいろなタイプがあることと、材料によって作り方が違うことをお話されました。
別院の暁天講座は今日で終わり。今年は私は2日だけ参加しました。
徳積善太
2008年08月03日
兼山に行ってきました3
森欄丸の母 妙向尼は、熱心な浄土真宗信者で、石山本願寺の一向一揆にて、信長と
顕如上人の間を取り持った人でした。これは発見でした。
織田信長と一向宗との和睦についての文書
天正2年(1574)4月織田信長は大坂石山(今の大阪城付近)の本願寺を攻めたが、顕如上人は
毛利宇喜多等の諸大名と手を握って頑独に抵抗した。満々たる野望と自信に満ちた信長は、
歳40才の正に人生の働き盛りであった。本願寺の勢いは以外にてごわく、その中心をなすものは
紀州雑賀の荘の門徒衆であった。
信長は天正五年(1577)3月、10万の大軍を率いて遂に雑賀征伐を決意した。
天正8年(1580)3月顕如上人は遂に信長の軍門に降り、本願寺は和泉村(和歌山県)貝塚へ立ち退く
事によって和睦が成立した。
このときの和睦について熱心な本願寺信者であった妙向尼は3男森欄丸とともに信長との和睦に
ついて尽力した。この為本願寺では正保2年(1645)酉8月2日妙向禅尼の50年忌法要が営まれ、
追善された作州津山の森家からは名大森宗兵衛が代参した。
この文書は森家から常照寺へ下されたもので後尾に下の墨書がある。
元禄五年(1692)申8月 木村救給居士 昌明花押
常照院玉床下」
徳積善太
2008年08月02日
兼山に行ってきました2
兼山町は、現在は可児市の一部となっていますが、合併前は可児郡兼山町といいました。
そこは、森欄丸のふるさとということで、町おこしが行われていました。
史跡金山城跡
金山城は天文六年(1537)可児郡兼山町の南にそびえる標高253mの古城山の絶頂に
稲葉山(岐阜)城主斎藤道三の猶子斎藤大納言正義が築城して、烏ケ峰城と称した。
室町末期の典型的山城遺構です。正義は同17年久々(利)城主土岐三河守に亡ぼされ
凡17年同一族の土岐十郎左エ門が留守城を守った。
永禄八年(1565)織田信長美濃経略に当って此城を森三左エ門可成に賜り、同年九月
入城し、即ち金山城と改称した。
これより三左エ門可成、その子武蔵守長可、末弟右近太夫忠政と父子三代に亘って
凡36年間在城し、七万石を領した。森欄丸長定は入城の年、此の城に生れ信長に仕え、
天正十年恵那郡岩村城五万の城主となった。
慶長五年(1600)二月、忠政信州川中島に転封するに及んで此城を犬山城主石川備前守
光吉に賜り、光吉は天守、諸櫓その外、城郭施設を悉く解体して、古材を筏に組み、木曽川を
狩り下し犬山に移建した。 兼山史蹟保存会
昭和42年 月 日 岐阜県史跡指定。」
森欄丸母の菩提寺 常照寺(浄土真宗大谷派)
かつて(H5.3.31)、テレビ愛知のロケが行われ、その看板が示されています。
慈光山常照寺の看板 欄丸母の菩提寺として設立された旨が示されています。
森家の菩提寺 可成寺
墓所への案内標識 墓所は、少し高台のところに白壁の塀でめぐらされています。
森家三代の墓に、歴代の城主が眠っておられ、そこには、森欄丸ほか本能寺で死んだ人も弔われています。
徳積善太
2008年08月01日
兼山に行ってきました1
子供と「夏休みの自由研究を何にする?」といったら、「森欄丸のことを調べる」といったので、
「親の子だな」と思いながら、森欄丸が城主だった、兼山城に行ってきました。


兼山城というのは、岐阜県の美濃地方。八百津の南側に兼山町というところがあります。
現在は、可児市の一部になっていますが、そこに昔は、7万石のお城がありました。
飛騨が63千石ですから、どれだけ広い領地を持っていたかがわかります。
西は美濃太田、東は恵那まで。南は岩村、北は白川町あたりまで、広い範囲が領土でした。
とはいっても、戦国時代の話。それ以後江戸時代には、土岐氏の勢力を恐れた徳川家の策略によって、
譜代で分断され、1万石に満たない小さな譜代が外様大名に入り込む形で、数多くの知行に
分断されていました。
森欄丸は、16歳の歳で、織田信長に仕え、18歳で城主となり、その年に起った明智光秀の
反逆によって、主君ともども本能寺で討ち死にしました。

森欄丸とその弟の墓(坊丸、力丸=ともに本能寺で討死)
ところで、どうして、うちの息子が森欄丸に興味を持ったかですが、現代っ子ですね。

森欄丸のイベントも開かれるようです。
ゲームに登場する森欄丸がかっこいいので、彼の本物を知りたくなったとの事です。
ま、理由がどうあれ、親としては、歴史に興味を持ってくれたことにうれしさを感じました。
徳積善太
「親の子だな」と思いながら、森欄丸が城主だった、兼山城に行ってきました。
兼山城というのは、岐阜県の美濃地方。八百津の南側に兼山町というところがあります。
現在は、可児市の一部になっていますが、そこに昔は、7万石のお城がありました。
飛騨が63千石ですから、どれだけ広い領地を持っていたかがわかります。
西は美濃太田、東は恵那まで。南は岩村、北は白川町あたりまで、広い範囲が領土でした。
とはいっても、戦国時代の話。それ以後江戸時代には、土岐氏の勢力を恐れた徳川家の策略によって、
譜代で分断され、1万石に満たない小さな譜代が外様大名に入り込む形で、数多くの知行に
分断されていました。
森欄丸は、16歳の歳で、織田信長に仕え、18歳で城主となり、その年に起った明智光秀の
反逆によって、主君ともども本能寺で討ち死にしました。
森欄丸とその弟の墓(坊丸、力丸=ともに本能寺で討死)
ところで、どうして、うちの息子が森欄丸に興味を持ったかですが、現代っ子ですね。
森欄丸のイベントも開かれるようです。
ゲームに登場する森欄丸がかっこいいので、彼の本物を知りたくなったとの事です。
ま、理由がどうあれ、親としては、歴史に興味を持ってくれたことにうれしさを感じました。
徳積善太
2008年07月24日
東林寺(浄土宗)に行ってきました
浄土宗のお寺は、飛騨に数が少ないです。
高山には、大雄寺、天照寺、洞雲院、善光寺の4つが現存しますが、飛騨にはあと一つ東林寺という
お寺が、神岡の谷・中山という部落にあります。今回そこへ行ってきました。

現在は、無住となっている本堂

国道41号線沿いにある、東林寺の石柱

南無阿弥陀仏の石柱

ひっそりとした本堂内部

正門のところの、懸魚と向梁 獏が内側を向いています。非常に珍しい。
徳積善太
高山には、大雄寺、天照寺、洞雲院、善光寺の4つが現存しますが、飛騨にはあと一つ東林寺という
お寺が、神岡の谷・中山という部落にあります。今回そこへ行ってきました。
現在は、無住となっている本堂
国道41号線沿いにある、東林寺の石柱
南無阿弥陀仏の石柱
ひっそりとした本堂内部
正門のところの、懸魚と向梁 獏が内側を向いています。非常に珍しい。
徳積善太
2008年06月29日
越前大野訪問~大野市の寺町~
先日、ラジオ放送で、越前大野城が作られたときに、高山や古川の町と同じように「風水を考えて
作ったのでは」というお話をしました。
実際、現地に行ってみました。

鬼門の方角に作られた 誓念寺 浄土真宗のお寺

その周囲に集められた浄土真宗のお寺の一つ 長勝寺

そのすぐ南に浄土宗のお寺 善導寺があるのも面白い。浄土宗は、徳川家の宗派。

寺町にある掲示板。この地区には、16カ寺のお寺があり、400年も前から同じ場所で
脈々と法灯を守っておられます。
現在では、石畳の道筋になっていますが、高山が東山に寺院を集めたように、越前大野でも
寺を城下の東側に集めることによって、防御の役目をさせていたことがわかります。
時間がなかったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、高山と越前大野、大変よく似た
二つの町は、どちらも金森長近が建設した町です。
またの機会に、時間をとってゆっくりと見たいと思います。
徳積善太
作ったのでは」というお話をしました。
実際、現地に行ってみました。
鬼門の方角に作られた 誓念寺 浄土真宗のお寺
その周囲に集められた浄土真宗のお寺の一つ 長勝寺
そのすぐ南に浄土宗のお寺 善導寺があるのも面白い。浄土宗は、徳川家の宗派。
寺町にある掲示板。この地区には、16カ寺のお寺があり、400年も前から同じ場所で
脈々と法灯を守っておられます。
現在では、石畳の道筋になっていますが、高山が東山に寺院を集めたように、越前大野でも
寺を城下の東側に集めることによって、防御の役目をさせていたことがわかります。
時間がなかったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、高山と越前大野、大変よく似た
二つの町は、どちらも金森長近が建設した町です。
またの機会に、時間をとってゆっくりと見たいと思います。
徳積善太
2008年06月28日
越前大野訪問~大野氏歴史資料館~
先日、ラジオの放送原稿を作っていたときに、いろいろとお尋ねした、大野歴史資料館の
岩井先生と、大野市観光課の金森氏にお会いしてまいりました。

大野歴史資料館 遠くに越前大野城が見える。

大野歴史資料館の岩井館長さん(右)と観光課の金森氏
岩井先生は、越前の天台宗研究の第一人者で、大変お寺に関してはお詳しいのですが、
専門が白山信仰と岩佐又兵衛ということで、私も岩佐又兵衛の研究をしている関係で
かなり専門的なお話をうかがうことができました。
金森氏は、名前を聞いて大変驚いたのですが、ご本人は金森の末裔かどうかということは
ご存じなく、おそらく、武生にいた金森左京家の末裔にあたる方ではということを申し上げて
きました。

金森家伝来の甲冑
特別に撮影許可をいただき、いろいろと越前大野で、金森氏に関して調査されていることを
知ることができました。
このブログでは、掲載できませんが、越前大野には、金森に関する資料が乏しく、なかなか
研究が進んでいないというのが現状でした。
また、金森氏は、現在の越前大野の町を造った人ではありますが、天正3年から13年のわずか
10年ほどしかこの地におらず、その後すぐに飛騨に入国したとのことでしたので、地元では、
金森氏の検証があまり行われていませんでした。
そのため、飛騨の歴史研究とはかなり温度差があることもわかりました。
研究者も数名おられたようですが、お亡くなりになって以降は、誰も研究されていないとの事で
残念でしたが、未開の地であることがわかりました。
今後の研究が待たれます。
徳積善太
岩井先生と、大野市観光課の金森氏にお会いしてまいりました。
大野歴史資料館 遠くに越前大野城が見える。
大野歴史資料館の岩井館長さん(右)と観光課の金森氏
岩井先生は、越前の天台宗研究の第一人者で、大変お寺に関してはお詳しいのですが、
専門が白山信仰と岩佐又兵衛ということで、私も岩佐又兵衛の研究をしている関係で
かなり専門的なお話をうかがうことができました。
金森氏は、名前を聞いて大変驚いたのですが、ご本人は金森の末裔かどうかということは
ご存じなく、おそらく、武生にいた金森左京家の末裔にあたる方ではということを申し上げて
きました。
金森家伝来の甲冑
特別に撮影許可をいただき、いろいろと越前大野で、金森氏に関して調査されていることを
知ることができました。
このブログでは、掲載できませんが、越前大野には、金森に関する資料が乏しく、なかなか
研究が進んでいないというのが現状でした。
また、金森氏は、現在の越前大野の町を造った人ではありますが、天正3年から13年のわずか
10年ほどしかこの地におらず、その後すぐに飛騨に入国したとのことでしたので、地元では、
金森氏の検証があまり行われていませんでした。
そのため、飛騨の歴史研究とはかなり温度差があることもわかりました。
研究者も数名おられたようですが、お亡くなりになって以降は、誰も研究されていないとの事で
残念でしたが、未開の地であることがわかりました。
今後の研究が待たれます。
徳積善太
2008年06月08日
高山駅の展示「懐古写真展」4
高山本線の工事の歴史 高山本線 岐阜~飛騨金山
高山本線工事は大正8年に工事が開始されました。
用地取得はもとより、難所が多く、非常に工事が難航した部分もあります。
この表示の工事日程でわかることは、金山以南については、飛水峡という現在は観光の名所と
なっていて、高山線から見るとたいへんに美しい場所がありますが、あのあたりは、川と山が
競り合っていて、工事関係者にとっては難所でした。しかも、岩が多く、掘削しては進むという
工事は、たいへんな労力だったと思われます。
下麻生~上麻生~白川口 は距離にしては短いですが、実に4年の歳月がかかっています。
高山本線の工事の歴史 高山本線 飛騨金山~渚
こちらの工事は比較的難所が多かったにもかかわらず、順調に路線が引かれていきました。
飛騨小坂までは、昭和8年ですから、じつにここまで13年の年月がかけられていました。
高山本線の工事の歴史 飛越線 富山~坂上
一方、富山からの工事も大正15年からはじめられました。
平野部分は比較的工事の進捗も早かったことと思われます。
難所は、やはり猪谷~杉原間で、2年もの歳月がかかっています。ここは越中西街道でも
難所中の難所、蟹寺(かんでら)を含む地域で、トンネル化して路線建設がなされました。
高山本線は、昭和9年に全通しましたが、飛越線と高山本線の接合式はこれより前に
岡本町の願正寺のところで、全通されました。
昭和9年10月25日に全通し、記念祝賀会が高山市のいたるところで開かれました。
徳積善太
2008年06月07日
高山駅の展示「懐古写真展」3
昭和44年10月1日 蒸気機関車のさよなら運転
高山線全線が気動車化されました。
それに伴い、高山駅にあった修理車庫や、金山駅にあった水補給タンクなどが沿線から
撤去されました。
高山市 高山駅から市街地を望む
この写真からわかることは、木材の集積地としての高山駅が機能していたことです。
現在のひだホテル、市民文化会館、高山グリーンホテルなどの場所は、木材の集積所
として役割がありました。この写真は昭和30年代でしょうか、高層ビルなどの建物が
まだなく、上三之町にも電信柱があった時代です。
平成元年 ワイドビューひだ登場
平成になって、現在の新型車量が登場しました。確かフランスのエンジンだったと思いますが
この車両の登場によって、高山~名古屋が最短2時間16分となりました。
「メタモルフォーゼ飛騨高山」というキャンペーンが展開されて、全国的に有名になりました。
この車両はのちに、名古屋~南紀白浜への路線へも採用されました。
徳積善太
2008年06月06日
高山線「懐古写真展より」2
高山線の懐古写真展を高山駅でやっていますので、コメントを追加します。

昭和29年 4月3日 準急ひだ号 運転開始
この頃から昭和43年のダイヤ改正まで走っていたのは、準急ひだ号でした。
このひだ号は、高山~名古屋~津まで走っていました。
このひだ号のほかに、あまり知られていませんが、循環こがねというのがあって、
名古屋~米原~金沢~富山~高山~岐阜~名古屋
というルートを通る準急がありました。この「こがね」は昭和48年ごろまで急行として
残っていたと思います。

昭和29年9月15日 高山祭り(秋の高山祭りが10月になったのは昭和43年以降)

昭和43年10月1日 特急ひだ号運転開始 (名古屋~高山~金沢間を運転)
特急の運行に伴い、急行のりくらができました。
猪谷発、高山朝6:43発の急行は、名古屋に10時頃までにつくので、朝一番の急行として
人気がありました。
徳積善太
昭和29年 4月3日 準急ひだ号 運転開始
この頃から昭和43年のダイヤ改正まで走っていたのは、準急ひだ号でした。
このひだ号は、高山~名古屋~津まで走っていました。
このひだ号のほかに、あまり知られていませんが、循環こがねというのがあって、
名古屋~米原~金沢~富山~高山~岐阜~名古屋
というルートを通る準急がありました。この「こがね」は昭和48年ごろまで急行として
残っていたと思います。
昭和29年9月15日 高山祭り(秋の高山祭りが10月になったのは昭和43年以降)
昭和43年10月1日 特急ひだ号運転開始 (名古屋~高山~金沢間を運転)
特急の運行に伴い、急行のりくらができました。
猪谷発、高山朝6:43発の急行は、名古屋に10時頃までにつくので、朝一番の急行として
人気がありました。
徳積善太
2008年06月05日
高山駅の展示「懐古写真展」1
今年は高山線全線が開通して、74年目になります。
高山駅のところで、懐古写真展がなされています。
(コピーのコピーですので、あくまでイメージです。実物は高山駅でご確認ください)


昭和10年代 高山線 8600系の蒸気機関車です。
高山線を走った蒸気機関車は、8600系、9600系の蒸気機関車が主に貨物を引きました。
有名なD51なども走りましたが、こちらはどちらかというと客車専用でしたが、高速化を
目指した機関車だったため、高山線の準急を数本引く程度だったようです。

昭和10年代 高山駅が開業した当時の高山駅
当時の高山駅は、灘郷のど真ん中に作られました。
何もない、沼地だった土地をまっすぐに線路が引かれたために、今でも石浦から下岡本
にかけて、一直線の線路となりました。これは、用地買収が比較的楽に行われたこと、
蒸気機関車が煙をはいて走るために、火事等の心配から郊外に線路を引くことが求められ
た事などによります。
当時の人は、煙をはいて走る蒸気機関車が珍しくて、開通の時には線路際まで、走りよって
行ったりして、子供にとっては衝撃的な出来事だったそうです。
徳積善太
高山駅のところで、懐古写真展がなされています。
(コピーのコピーですので、あくまでイメージです。実物は高山駅でご確認ください)
昭和10年代 高山線 8600系の蒸気機関車です。
高山線を走った蒸気機関車は、8600系、9600系の蒸気機関車が主に貨物を引きました。
有名なD51なども走りましたが、こちらはどちらかというと客車専用でしたが、高速化を
目指した機関車だったため、高山線の準急を数本引く程度だったようです。
昭和10年代 高山駅が開業した当時の高山駅
当時の高山駅は、灘郷のど真ん中に作られました。
何もない、沼地だった土地をまっすぐに線路が引かれたために、今でも石浦から下岡本
にかけて、一直線の線路となりました。これは、用地買収が比較的楽に行われたこと、
蒸気機関車が煙をはいて走るために、火事等の心配から郊外に線路を引くことが求められ
た事などによります。
当時の人は、煙をはいて走る蒸気機関車が珍しくて、開通の時には線路際まで、走りよって
行ったりして、子供にとっては衝撃的な出来事だったそうです。
徳積善太
2008年05月21日
馬場町界隈
馬場町は、もともとお城の馬場があったことから、この名がつけられました。
今でも、歩いてみると、雰囲気のいい面白いものが見つかります。

広田古物さんの前にある、石の道しるべ。
「左 御坊さま、右 城山みち」と書いてあります。

えび坂をあがったところにある、後藤醤油店
私の同級生の家ですが、私が小学校のときから、ぜんぜん変わっていません。
暖簾がかなり古ぼけてしまいました。

店内に飾ってある醤油のビン。昭和のはじめころまで、こういった陶器のものが主流でした。
お酒のボトルも同じ形のもので、飛騨で焼かれていたそうです。

料亭角正の店構え
ここも昔から、変わっていません。洲さき、萬代、月波楼、金亀館といえば、高山の
五大有名料亭でした。時代の波とともに、高級料亭も姿を消しつつあります。

現在、角正さんは、高山市の指定文化財として登録されています。
こちらの庭を一度ゆっくり眺めてください。
町の中に、すばらしい空間が広がっています。
徳積善太
今でも、歩いてみると、雰囲気のいい面白いものが見つかります。

広田古物さんの前にある、石の道しるべ。
「左 御坊さま、右 城山みち」と書いてあります。

えび坂をあがったところにある、後藤醤油店
私の同級生の家ですが、私が小学校のときから、ぜんぜん変わっていません。
暖簾がかなり古ぼけてしまいました。

店内に飾ってある醤油のビン。昭和のはじめころまで、こういった陶器のものが主流でした。
お酒のボトルも同じ形のもので、飛騨で焼かれていたそうです。

料亭角正の店構え
ここも昔から、変わっていません。洲さき、萬代、月波楼、金亀館といえば、高山の
五大有名料亭でした。時代の波とともに、高級料亭も姿を消しつつあります。

現在、角正さんは、高山市の指定文化財として登録されています。
こちらの庭を一度ゆっくり眺めてください。
町の中に、すばらしい空間が広がっています。
徳積善太
2008年05月17日
錦山について2
錦山について、先日お伝えしましたが、守ケ洞というところに、登山口があります。

守ケ洞という場所は、錦町の一番奥のところ、になります。

地図では、見にくいですが、一番真中の道の突き当たりになります。
入り口には、こんな看板があります。

最初に見えてくるのは、不動様です。

もう少し上ると、お地蔵様がたくさんあります。

途中まであがりましたが、崖が崩れていて、今回は登山をあきらめました。
徳積善太
守ケ洞という場所は、錦町の一番奥のところ、になります。
地図では、見にくいですが、一番真中の道の突き当たりになります。
入り口には、こんな看板があります。
最初に見えてくるのは、不動様です。
もう少し上ると、お地蔵様がたくさんあります。
途中まであがりましたが、崖が崩れていて、今回は登山をあきらめました。
徳積善太
2008年05月16日
錦山神社について2
錦山神社は、高山の城山の東側にありますが、まるで城壁のような石垣が特徴です。


これって、ひょっとして、有事のときには、この建物にこもって、敵の侵入を防ぐ城壁
だったのではないでしょうか?
真実は、謎に包まれたままです。
徳積善太
これって、ひょっとして、有事のときには、この建物にこもって、敵の侵入を防ぐ城壁
だったのではないでしょうか?
真実は、謎に包まれたままです。
徳積善太
2008年05月15日
錦山神社
高山の東山の南端、江名子との境目のところに、錦山神社があります。

その由緒について、「大野郡神社明細帳」と「飛州志」「飛騨国中案内」 「飛騨遺乗合府」には、
下記のように記されています。
錦山神社の縁起
大名田村江名子稲荷平
村社 錦 山 神 社
一、祭 神
物部(もののべ)弓削(ゆげ)守屋大連(もりやのおおむらじ)
外
倉稲(うがの)魂神(みたまのかみ) 火産(ほむす)霊神(びのかみ)
一、由 緒
慶長年間 当国の領主 金森可重再営し、改めて山城国に坐 稲荷大神を勧請し崇敬ありしに
(里人は其頃より本社をいわず稲荷とのみ云いし由)元禄元戊辰年に至り、当国の領主金森頼時、
故有て上ノ山に遷坐す云々とあり、故に当社を里人は奮稲荷社とも称せしを、明治三年丁卯四月
錦山神社と改称せらる。
相殿火産霊神の勧請来由不詳、古来当組及高山町の村社也、
一、 本殿間敷 縦五尺 横五尺
一、 幣殿間敷 縦四間 横三間
一、 境内坪数 百九十四坪
一、 境内神社 二社
春日神社
祭神 武甕突(たけみかづ)智神(ちのかみ)(経津(ふつ)主神(ぬしのかみ)) 天兒(あまのこ)
屋根(やねの)命(みこと)(姫神)
由緒 当社は高山町大隆寺の鎮守にて天保十一年庚子五月創立する処なり、明治元年
戊辰六月当地に遷し奉り、錦山神社の末社とす。
保食神社
祭神 宇氣母智神
由緒 当社も高山大隆寺の鎮守にて創立未詳、明治元年戊辰六月当地に遷し奉りて
錦山神社の末社とす。 〔以上 大野郡神社明細帳〕
金森可重 慶長年間、江名子村守屋の地に、稲荷神を勧請す。
錦山稲荷宮 灘郷江名子村錦山の麓にあり、里人曰、往古は同村守屋の社地にあり、後此地に移す。来由未詳。
〔以上 飛州志〕
別 当 金 剛 院
江名子村、稲荷大明神境内七畝五歩、合一反四畝十八歩、則別当は真言宗にて金剛院と
いふ近年錦山金剛寺と改む、当山方山伏なり、草創年数不相知候、高山の鎮守、金森家より
建立修覆有之、宮守居地は高山一之町村分なり、此山は権者ケ峰という。〔飛騨国中案内〕
錦山稲荷大明神縁起
錦山稲荷大明神は、禾稷蠶(しびさん)飼(し)を守給ふ御神にして、稲生稲成とも、又位成とも奉称、
日本紀神代上之巻に、倉稲魂命、また保食神とも有之、其神霊の掲焉なること世の人々知る所なり、
抑当社は其来歴久し、往古は纔(わずか)の小祠にしてあれともなきか如し、傳へ聞、むかし三木氏
飛騨の押領使たりし時、江名子村に郷士畑氏某か内に、菅茂源左衛門といふ者一人の娘をもてり、
容色艶美なり、十歳計りより癩病になやみて、巫医に家財を抛て(なげうって)仏神の丹心を尽したりと
いへども其功なし。或時源左衛門其娘を誘ひしるへの方へ趣けるに、錦山の辺にて一人の老翁此娘を
見て曰く、此山に毎夜燈をかヽけなば、此病癒えしと告げるに、源左衛門不審ながら、三年に及まで教の
如く油燈を点しければ年を追て其病癒ける、源左衛門夫より小社を再興しけり、其後金森出雲守可重の
代に、山城国日本惣司稲荷宮より勧請あり、森ケ洞山に鎮座成し奉る、飛州稲荷宮の惣社とし給ひ別当
修験宗金剛院に被命、天下太平、国家安全、五穀成就、蠶飼満足の祈り、春秋の御祭礼怠ることなかりき、
斯て凡百年の後邦君頼時公、御霊夢に依て、元禄元年七月、当山御遷宮御造営被成ける、其武誠に
厳重なり、特に
影うつす山のにしきも明らけき神の惠を三つの玉垣
と御詠あり、此時より森ケ洞山を原稲荷宮と申す、此趣は竹渓散人の当社縁起に委しけれども、其記甚だ
繁文にして童蒙に読かたきゆへ、其か十の一を略して後人に知らしむるといふ。
寛永二年乙酉正月 稲荷宮別当金剛院阿闍梨大越家玄祐法印誌
〔以上 飛騨遺乗合府〕
徳積善太
その由緒について、「大野郡神社明細帳」と「飛州志」「飛騨国中案内」 「飛騨遺乗合府」には、
下記のように記されています。
錦山神社の縁起
大名田村江名子稲荷平
村社 錦 山 神 社
一、祭 神
物部(もののべ)弓削(ゆげ)守屋大連(もりやのおおむらじ)
外
倉稲(うがの)魂神(みたまのかみ) 火産(ほむす)霊神(びのかみ)
一、由 緒
慶長年間 当国の領主 金森可重再営し、改めて山城国に坐 稲荷大神を勧請し崇敬ありしに
(里人は其頃より本社をいわず稲荷とのみ云いし由)元禄元戊辰年に至り、当国の領主金森頼時、
故有て上ノ山に遷坐す云々とあり、故に当社を里人は奮稲荷社とも称せしを、明治三年丁卯四月
錦山神社と改称せらる。
相殿火産霊神の勧請来由不詳、古来当組及高山町の村社也、
一、 本殿間敷 縦五尺 横五尺
一、 幣殿間敷 縦四間 横三間
一、 境内坪数 百九十四坪
一、 境内神社 二社
春日神社
祭神 武甕突(たけみかづ)智神(ちのかみ)(経津(ふつ)主神(ぬしのかみ)) 天兒(あまのこ)
屋根(やねの)命(みこと)(姫神)
由緒 当社は高山町大隆寺の鎮守にて天保十一年庚子五月創立する処なり、明治元年
戊辰六月当地に遷し奉り、錦山神社の末社とす。
保食神社
祭神 宇氣母智神
由緒 当社も高山大隆寺の鎮守にて創立未詳、明治元年戊辰六月当地に遷し奉りて
錦山神社の末社とす。 〔以上 大野郡神社明細帳〕
金森可重 慶長年間、江名子村守屋の地に、稲荷神を勧請す。
錦山稲荷宮 灘郷江名子村錦山の麓にあり、里人曰、往古は同村守屋の社地にあり、後此地に移す。来由未詳。
〔以上 飛州志〕
別 当 金 剛 院
江名子村、稲荷大明神境内七畝五歩、合一反四畝十八歩、則別当は真言宗にて金剛院と
いふ近年錦山金剛寺と改む、当山方山伏なり、草創年数不相知候、高山の鎮守、金森家より
建立修覆有之、宮守居地は高山一之町村分なり、此山は権者ケ峰という。〔飛騨国中案内〕
錦山稲荷大明神縁起
錦山稲荷大明神は、禾稷蠶(しびさん)飼(し)を守給ふ御神にして、稲生稲成とも、又位成とも奉称、
日本紀神代上之巻に、倉稲魂命、また保食神とも有之、其神霊の掲焉なること世の人々知る所なり、
抑当社は其来歴久し、往古は纔(わずか)の小祠にしてあれともなきか如し、傳へ聞、むかし三木氏
飛騨の押領使たりし時、江名子村に郷士畑氏某か内に、菅茂源左衛門といふ者一人の娘をもてり、
容色艶美なり、十歳計りより癩病になやみて、巫医に家財を抛て(なげうって)仏神の丹心を尽したりと
いへども其功なし。或時源左衛門其娘を誘ひしるへの方へ趣けるに、錦山の辺にて一人の老翁此娘を
見て曰く、此山に毎夜燈をかヽけなば、此病癒えしと告げるに、源左衛門不審ながら、三年に及まで教の
如く油燈を点しければ年を追て其病癒ける、源左衛門夫より小社を再興しけり、其後金森出雲守可重の
代に、山城国日本惣司稲荷宮より勧請あり、森ケ洞山に鎮座成し奉る、飛州稲荷宮の惣社とし給ひ別当
修験宗金剛院に被命、天下太平、国家安全、五穀成就、蠶飼満足の祈り、春秋の御祭礼怠ることなかりき、
斯て凡百年の後邦君頼時公、御霊夢に依て、元禄元年七月、当山御遷宮御造営被成ける、其武誠に
厳重なり、特に
影うつす山のにしきも明らけき神の惠を三つの玉垣
と御詠あり、此時より森ケ洞山を原稲荷宮と申す、此趣は竹渓散人の当社縁起に委しけれども、其記甚だ
繁文にして童蒙に読かたきゆへ、其か十の一を略して後人に知らしむるといふ。
寛永二年乙酉正月 稲荷宮別当金剛院阿闍梨大越家玄祐法印誌
〔以上 飛騨遺乗合府〕
徳積善太
2008年05月14日
錦山について
錦山は、735m。高山市内からその姿を見ることができます。

私は、東小学校の卒業生なので、学校時代には、毎日、この山を眺めて勉強しました。
高山の郵便局のあたりから、こんなにはっきりと見えるとは思いませんでした。
実は、錦山と錦山神社について、関係があるのかと思って、調査しました。
関係有りそうでなさそうですので、そのへんがわからず、調査をしておりました。
結論から言うと関係なさそうです。
錦山は霊山となっておりますが、その歴史は確認できる部分では比較的浅く、
昭和28年ごろに正式に霊山となったそうです。
ただし、金森公知行の時代に、水神様を頂上に安置した伝承があり、これが本当だと
すると霊山としての地位は、400年前にさかのぼります。以下、新名藤助さんの孫娘
梅村ちづさんにお聞きした事や、御嶽教の元信者の末裔の方よりお聞きしたことをお知らせします。
現在は、誰も管理されていませんが、戦前に、新名藤助という人が御嶽教の信者で、先達の
位を持っていた。神様を呼び起こすのが先達で、神様が宿り人間の言葉で伝える人を神代
(かみしろ)といった。
ある日、藤助は、「古川へ行って教えを広めるように」との神勅を受け、古川に御嶽教の教会を造り、
古川で教えを広めていた。
歳も取ってきたし、高山で自分だけで御嶽教をやるつもりで、四畳半の小さな道場を高山の島川原町
に造り、自分だけの道場を持った。
以前、製糸業をやっていた関係で、女工さんなどが集まり、四畳半の道場では非常に狭いくらいだった。
近くの岩崎鶴次郎氏(岩崎建具)が神代の資格を持っていたので、一緒にお伺いを立てたところ、
ある日、神勅が下り、「日輪社として勤めよ」との御触れがあった。
そのころには、御嶽教は、高山に3つ道場があり、光明教会、飛州教会(さんまち地区)と飛騨教会
(七日町不動様)があり、日輪教会として4つ目の道場を高山に開いた。ただ、藤助は昭和27年7月1日
に逝去し、彼の死後、残された人達が錦山を霊山として管理するようになった。
この山に登る事で、御嶽山(見る事はできないが)に登山して詣でたことと同じになるというので、
たくさんの信者の方が上るようになりました。
頂上には、金森氏がお祀りしたといわれる水神様など、次ぎの神様がお祀りされています。
1)日輪大神遥拝所、2)御嶽大神遥拝所、3)水神大神、4)中央不動明王尊、5)白川大神、
6)聖観世音菩薩、7)山桜観世音菩薩、8)教会祖霊神碑、9)天荒霊神碑、10)飛鶴霊神碑など
ただし、後を継いだ会長 田中善七氏のご逝去により、その数年後に教会を解散することになり、
後継者もなく現在に至っています。
参道には、天照寺様の所有と言われる観音様があちこちに点在しており、それを信者が数箇所に
まとめて整備したそうです。

麓には、神力不動明王像がありますが、これらのものも信者が管理してきたものだということでした。
江戸時代に、錦山神社の別当として金剛院という山伏が管理する寺院がありましたが、その山伏が
修験道場の山として錦山を使用していたかどうかは、想像の域を出ず、証拠がありません。また、
錦山神社の名称は、明治元年以降に制定されたものですので、直接の関係はなさそうです。
ただし、昨日気がついたのですが、高山駅前、イブの喫茶から見ると、広小路通りから錦山頂上が
正面に見えます。広小路は、北六塗料のあたりで左にカーブしており、喫茶イブのあたりからですと、
ちょうど真正面になります。かつて、田んぼの広がった地域から、正面に見える山に水神を置いたと
なれば非常にうなづける話だと思いました。
徳積善太
私は、東小学校の卒業生なので、学校時代には、毎日、この山を眺めて勉強しました。
高山の郵便局のあたりから、こんなにはっきりと見えるとは思いませんでした。
実は、錦山と錦山神社について、関係があるのかと思って、調査しました。
関係有りそうでなさそうですので、そのへんがわからず、調査をしておりました。
結論から言うと関係なさそうです。
錦山は霊山となっておりますが、その歴史は確認できる部分では比較的浅く、
昭和28年ごろに正式に霊山となったそうです。
ただし、金森公知行の時代に、水神様を頂上に安置した伝承があり、これが本当だと
すると霊山としての地位は、400年前にさかのぼります。以下、新名藤助さんの孫娘
梅村ちづさんにお聞きした事や、御嶽教の元信者の末裔の方よりお聞きしたことをお知らせします。
現在は、誰も管理されていませんが、戦前に、新名藤助という人が御嶽教の信者で、先達の
位を持っていた。神様を呼び起こすのが先達で、神様が宿り人間の言葉で伝える人を神代
(かみしろ)といった。
ある日、藤助は、「古川へ行って教えを広めるように」との神勅を受け、古川に御嶽教の教会を造り、
古川で教えを広めていた。
歳も取ってきたし、高山で自分だけで御嶽教をやるつもりで、四畳半の小さな道場を高山の島川原町
に造り、自分だけの道場を持った。
以前、製糸業をやっていた関係で、女工さんなどが集まり、四畳半の道場では非常に狭いくらいだった。
近くの岩崎鶴次郎氏(岩崎建具)が神代の資格を持っていたので、一緒にお伺いを立てたところ、
ある日、神勅が下り、「日輪社として勤めよ」との御触れがあった。
そのころには、御嶽教は、高山に3つ道場があり、光明教会、飛州教会(さんまち地区)と飛騨教会
(七日町不動様)があり、日輪教会として4つ目の道場を高山に開いた。ただ、藤助は昭和27年7月1日
に逝去し、彼の死後、残された人達が錦山を霊山として管理するようになった。
この山に登る事で、御嶽山(見る事はできないが)に登山して詣でたことと同じになるというので、
たくさんの信者の方が上るようになりました。
頂上には、金森氏がお祀りしたといわれる水神様など、次ぎの神様がお祀りされています。
1)日輪大神遥拝所、2)御嶽大神遥拝所、3)水神大神、4)中央不動明王尊、5)白川大神、
6)聖観世音菩薩、7)山桜観世音菩薩、8)教会祖霊神碑、9)天荒霊神碑、10)飛鶴霊神碑など
ただし、後を継いだ会長 田中善七氏のご逝去により、その数年後に教会を解散することになり、
後継者もなく現在に至っています。
参道には、天照寺様の所有と言われる観音様があちこちに点在しており、それを信者が数箇所に
まとめて整備したそうです。
麓には、神力不動明王像がありますが、これらのものも信者が管理してきたものだということでした。
江戸時代に、錦山神社の別当として金剛院という山伏が管理する寺院がありましたが、その山伏が
修験道場の山として錦山を使用していたかどうかは、想像の域を出ず、証拠がありません。また、
錦山神社の名称は、明治元年以降に制定されたものですので、直接の関係はなさそうです。
ただし、昨日気がついたのですが、高山駅前、イブの喫茶から見ると、広小路通りから錦山頂上が
正面に見えます。広小路は、北六塗料のあたりで左にカーブしており、喫茶イブのあたりからですと、
ちょうど真正面になります。かつて、田んぼの広がった地域から、正面に見える山に水神を置いたと
なれば非常にうなづける話だと思いました。
徳積善太
2008年05月06日
錦山神社まつりの装束
5月5日は、東山一帯の3つの神社でお祭がありました。
南から、錦山神社例祭。 愛宕神明神社例祭。 東山白山神社例祭。の3つです。
昨年、愛宕と白山にお邪魔したので、今年は錦山神社の例祭にお邪魔しました。
今回、行って見て、装束が高山祭の装束に非常に似ている事に驚きました。
それもそのはず、火消し組の装束でした。

東組というのは、江戸時代、天保年間に定められた火消し組の一つです。


総締方、締方の装束は、火消しの取締役の装束です。


一般の火消し組の装束は、表が組の名。そして裏には「青龍台組」と同じく、染めがしてありました。
龍の染めが見事でした。
実はこの装束、リバーシブルになっていて、裏返すと、職人の粋を表現します。

表は、「東」を文字った「飛賀志」の名前になっていました。非常に粋ですね。

錦山神社のゆかりは、古く、物部氏の祭神を祀っているとのことから、6世紀にさかのぼる
そうです。

これについては、またお知らせします。
徳積善太
南から、錦山神社例祭。 愛宕神明神社例祭。 東山白山神社例祭。の3つです。
昨年、愛宕と白山にお邪魔したので、今年は錦山神社の例祭にお邪魔しました。
今回、行って見て、装束が高山祭の装束に非常に似ている事に驚きました。
それもそのはず、火消し組の装束でした。
東組というのは、江戸時代、天保年間に定められた火消し組の一つです。
総締方、締方の装束は、火消しの取締役の装束です。
一般の火消し組の装束は、表が組の名。そして裏には「青龍台組」と同じく、染めがしてありました。
龍の染めが見事でした。
実はこの装束、リバーシブルになっていて、裏返すと、職人の粋を表現します。
表は、「東」を文字った「飛賀志」の名前になっていました。非常に粋ですね。
錦山神社のゆかりは、古く、物部氏の祭神を祀っているとのことから、6世紀にさかのぼる
そうです。
これについては、またお知らせします。
徳積善太





今日、願生寺さまにおじゃましました。先頃入手された二条家の掛け軸を見せていただきました。