2008年08月11日
8月11日放送分 飛騨に入った浄土真宗
(8月11日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さあ、世の中はお盆休みに入りました。今年のお休みは、大企業の方ですと9日から17日の9日間の
休みとなっているわけですが、高山は観光関連の業種の方が多いですから、今が一番の稼ぎ時です
ね。景気のほうはいかがでしょうか?
今年はGW以後、ガソリンの相次ぐ値上げで、マイカーでお越しになる個人客の方がずいぶん少ない
ように思います。観光課に聞きましたところ、今年は日本人観光客は激減していて、逆に外国人観光客が
前年対比、3割増ということでございますので、高山も段々国際観光都市になってきているんだなあと
思います。
ただ、国内観光客が少ないかと思うと、京都では、外国人も含めて年間4800万人もの人が来ているそう
ですし、来年は5000万人を目標にしているとのことですし、先日の、日経ビジネスにも、外国人人気観光地
に、高山と金沢が上げられていました。高山の観光業者も頑張らないといけませんね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、今週は、お盆の時期でもございますので、
浄土真宗に関したお話をしたいと思います。別にお盆の時期だからというわけではないのですが、この
ところ、浄土真宗の研究家 東等寺の竹田さんとご一緒する機会が多くて、今年3月からあちこち調査に
行ってきました。
たいへんな発見もありましたので、少しだけご紹介したいと思います。
学校で歴史の時間に習いましたが、浄土真宗など、仏教が新しい宗派のもとで、広がりを見せるように
なったのは、鎌倉時代だといわれています。 それまで、飛騨のみならず全国に広まっていたのは、天台宗
や、武士の保護を受けていた真言宗という2台勢力でした。中でも飛騨では、白山のお膝元ということもあり、
白山信仰などの山岳宗教の一部でもあった天台宗が、最も広まっていて、今でも白山神社を信仰することで
形を変えて飛騨には広まっています。
真言宗や天台宗が、下火になってきた頃、今度は禅宗が入ってきます。これは、臨済宗、曹洞宗などと
いった宗派で、室町時代になり、守護や地頭の保護を受けながら広まっていったものです。
いわゆる武家社会という強力なスポンサーの保護の下に、禅宗勢力は広まって行きました。
ただし、どちらかというとこの禅宗系の仏教は、自らが修行することによって精神を高めていくといった要素が
多分に含まれており、いわゆる一般民衆が修めるといったものではありませんでした。
一般民衆は、武家社会の狭間で、貧乏をしながら一生懸命生きていたという状況ですから、自分が死んだら
どうなるか、生き地獄から逃れて、せめて極楽に行きたいという信仰心があったことと思います。
その中でも、浄土宗を開いた法然上人は、「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土にいける。一度でも十度でも
いい。それは信心の深さによる。」と一般民衆を救うためのお念仏を説いたため、一般民衆に非常になじみ
やすかったと思われます。
その考えを継承したのが、親鸞上人で、浄土真宗の教えを広めるのに、いわゆる貧しい暮しを強いられている
山間部、一般民衆を救うために広めた為に、かなりの速さで広まって行きました。

親鸞聖人絵伝
昔、道場ではこういった絵図を使ってどのように親鸞上人が真宗をお広めになったか物語風に話して聞かせた。
飛騨に浄土真宗が入ってきたのは、いつかというと、諸説ありますが、まず時宗が入ってきたと思われます。
いわゆる踊念仏というもので、「南無阿弥陀仏」と称えながらどんな人でも救われることを称えた一遍上人の
教えでした。そうしたものが広がって入る所へ、飛騨には2つの系統で浄土真宗が入ってきます。
一つは、親鸞上人の弟子で、後鳥羽上皇の皇子 嘉念坊善俊という人が、白川の中野に道場を開いた照蓮寺
の系統です。別院の発行した高山別院史によりますと、弘長2年(1263)に親鸞上人が入寂してから、白鳥で
道場を開かれ、その後白川の鳩ヶ谷に移り、弘安五年三月三日(1282)に69歳で亡くなったことが書かれて
います。
そしてもう一つは、願智坊という、真宗三代目の覚如という人の弟子が、最初は益田郡の小坂に道場を開き、
後に神岡の吉田に聞名寺を開いた系統です。後にこれは、常蓮寺・大国寺というお寺になって、北飛騨を中心に
広まりました。こちらは、照蓮寺よりも少し後の正和元年(1312)年頃のことです。

吉田の常蓮寺
飛騨の浄土真宗の寺院は、現在、お西系(聞名寺系統)が22ケ寺。お東系(照蓮寺系統)が80ケ寺あって、
飛騨の寺院勢力では一番大きなものになっています。ただ、昔は、お西とかお東といったものはなくて、全て
本願寺系統と呼ばれていました。
このお東とかお西とか言うようになったのは、ずっとあとの江戸時代の慶長7年(1602)のことです。
これについては、後でお話します。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「何も言えなくて夏」をお届けします。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日のひだ歴史再発見は、飛騨に入ってきた浄土真宗の事についてお話しています。
さて、飛騨の浄土真宗の寺院が広まったのは、8代目の蓮如上人が、京都を追われて、越前の吉崎という
ところに道場を開いたことによります。それまで、浄土真宗は、京都の大谷というところに本拠地を置き、
お念仏を広めておられましたが、一般の人でも南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽浄土に生けるという
そんな簡単なものではないと、禅宗系の寺院や、天台系の寺院などより迫害を受け、京都から追われる
ことになりました。
そのため、三代目の婥如上人は、一時期、越中に逃れ、瑞泉寺に移っていた事もあります。
それ以後、浄土真宗の拠点は北陸が中心でした。8代目の蓮如上人もその一人で、越前の吉崎という
ところに道場を作り、浄土真宗の教義を広めておられました。越前は、飛騨とも比較的近いために、たくさん
の迷える人たちが飛騨から峠を越えて越前に入り、蓮如上人の下で、帰依されたようです。
そのため、蓮如上人の下賜された「六字名号=南無阿弥陀仏」や「九字名号=南無不可思議光如来」
「親鸞上人絵伝」といったものが飛騨には数多く存在し、あちこちに道場が開かれていきました。
大体、飛騨の浄土真宗寺院の創設を調べてみると、文明~永禄年間(1468~1490)にかけて作られた
寺院が圧倒的に多いです。
永禄から天正時代にかけて、いわゆる世の中が戦国時代と呼ばれていた時には、一般の農民も戦場に
借り出されました。それまで、田畑を耕す生活だった人が、鍬を刀や槍に変えて人殺しをするようになり
ます。戦場は生きるか死ぬかの戦いですから、自分がやらなければ相手にやられる。
当然、殺戮ということに対して心を傷めたことでしょう。何人も殺しても、殺すたびに、罪の意識を持った
でしょうから、「これだけの人を殺せば自分は極楽に生けるんだろうか。地獄に行くのではないか。」など
という罪の意識を持ったことと思います。
浄土真宗の信者の人たちに、仏敵と呼ばれた人がいます。それは、織田信長です。
彼は、天下布武を目標とするあまり、浄土真宗のみならずほとんどの仏教信者を敵に廻しました。
有名なのは、比叡山の焼き討ちや、石山本願寺の戦い、桑名の一向一揆、越前の一向一揆の掃討
ですね。彼は本能寺でなくなるまでに4万人の人を殺したといいます。
浄土真宗の信者からすれば、「ただでさえ、嫌な世の中で、自分を救ってくれるのは、阿弥陀様しかおられ
ないのに、それをも冒とくする信長は、仏様の敵である」と信じ、戦った事でしょう。
天正3年から10年まで起った、摂津石山本願寺の戦いには、飛騨からもたくさんの信者の人が石山本願寺
に行って戦っています。終了後、帰ってきた人もいますが、風呂にも入らず、毎日戦いを行っている間に、
すね当てにすね毛が絡まってしまい、なかなか取れなかったなどという逸話も残っています。
さて、そんな浄土真宗でしたが、飛騨を平定するのに巧みに浄土真宗を味方に付けた武将がいました。
それは、高山城主 金森長近でした。彼は、越前の一向一揆をわずかの時間で平定し、その褒美として
越前大野の2/3を知行地としてもらいます。天正3年のことです。
しかしその後、天正十四年に今度は飛騨を平定します。それにもそれだけの時間をかけていません。
また、彼の賢かった事は、その浄土真宗を自分の城下に取り入れて、城の中に本山を置き、戦争に明け
暮れる自分の代りに知行地を守らせたことです。おととし、岡崎の勝鬘寺というお寺から書状が発見され
ました。照蓮寺の明了に宛てた手紙です。
これには、「新門跡様(教如上人のこと)もおっしゃっているから、高山へ寺坊を移して、高山の町を留守中に
守ってほしい」ということが書かれていました。

顕如上人
この頃、天正時代に秀吉によって本願寺が2分され、石山本願寺を守った11代の顕如が亡くなったときに、
12代目を長男の教如上人が継ぐか、はたまた3男の實如上人が継ぐかでもめました。
その時、母親の如春尼の口添えで、自分が溺愛していた3男が跡目を継ぐ事になり、二つの本願寺系統に
なりました。後に、慶長になって教如上人は、分裂を拒んだようですが、徳川家康が寺地を寄進して2つの
本願寺が誕生したと言われています。
このとき、家康に教如上人を紹介したのも金森長近であったとのことです。
茶の湯を通じて、長近という人は教如上人と深いつながりがあったということです。
このお話のつづきは、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週は、第三週目になりますので古川など飛騨市のお話、今回は、茂住宗貞
の謎というお話をお届けしたいと思います。今日は、この曲でお別れです。
曲は「山口百恵で ひと夏の経験」ではまた来週。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。
さあ、世の中はお盆休みに入りました。今年のお休みは、大企業の方ですと9日から17日の9日間の
休みとなっているわけですが、高山は観光関連の業種の方が多いですから、今が一番の稼ぎ時です
ね。景気のほうはいかがでしょうか?
今年はGW以後、ガソリンの相次ぐ値上げで、マイカーでお越しになる個人客の方がずいぶん少ない
ように思います。観光課に聞きましたところ、今年は日本人観光客は激減していて、逆に外国人観光客が
前年対比、3割増ということでございますので、高山も段々国際観光都市になってきているんだなあと
思います。
ただ、国内観光客が少ないかと思うと、京都では、外国人も含めて年間4800万人もの人が来ているそう
ですし、来年は5000万人を目標にしているとのことですし、先日の、日経ビジネスにも、外国人人気観光地
に、高山と金沢が上げられていました。高山の観光業者も頑張らないといけませんね。
さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、今週は、お盆の時期でもございますので、
浄土真宗に関したお話をしたいと思います。別にお盆の時期だからというわけではないのですが、この
ところ、浄土真宗の研究家 東等寺の竹田さんとご一緒する機会が多くて、今年3月からあちこち調査に
行ってきました。
たいへんな発見もありましたので、少しだけご紹介したいと思います。
学校で歴史の時間に習いましたが、浄土真宗など、仏教が新しい宗派のもとで、広がりを見せるように
なったのは、鎌倉時代だといわれています。 それまで、飛騨のみならず全国に広まっていたのは、天台宗
や、武士の保護を受けていた真言宗という2台勢力でした。中でも飛騨では、白山のお膝元ということもあり、
白山信仰などの山岳宗教の一部でもあった天台宗が、最も広まっていて、今でも白山神社を信仰することで
形を変えて飛騨には広まっています。
真言宗や天台宗が、下火になってきた頃、今度は禅宗が入ってきます。これは、臨済宗、曹洞宗などと
いった宗派で、室町時代になり、守護や地頭の保護を受けながら広まっていったものです。
いわゆる武家社会という強力なスポンサーの保護の下に、禅宗勢力は広まって行きました。
ただし、どちらかというとこの禅宗系の仏教は、自らが修行することによって精神を高めていくといった要素が
多分に含まれており、いわゆる一般民衆が修めるといったものではありませんでした。
一般民衆は、武家社会の狭間で、貧乏をしながら一生懸命生きていたという状況ですから、自分が死んだら
どうなるか、生き地獄から逃れて、せめて極楽に行きたいという信仰心があったことと思います。
その中でも、浄土宗を開いた法然上人は、「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土にいける。一度でも十度でも
いい。それは信心の深さによる。」と一般民衆を救うためのお念仏を説いたため、一般民衆に非常になじみ
やすかったと思われます。
その考えを継承したのが、親鸞上人で、浄土真宗の教えを広めるのに、いわゆる貧しい暮しを強いられている
山間部、一般民衆を救うために広めた為に、かなりの速さで広まって行きました。
親鸞聖人絵伝
昔、道場ではこういった絵図を使ってどのように親鸞上人が真宗をお広めになったか物語風に話して聞かせた。
飛騨に浄土真宗が入ってきたのは、いつかというと、諸説ありますが、まず時宗が入ってきたと思われます。
いわゆる踊念仏というもので、「南無阿弥陀仏」と称えながらどんな人でも救われることを称えた一遍上人の
教えでした。そうしたものが広がって入る所へ、飛騨には2つの系統で浄土真宗が入ってきます。
一つは、親鸞上人の弟子で、後鳥羽上皇の皇子 嘉念坊善俊という人が、白川の中野に道場を開いた照蓮寺
の系統です。別院の発行した高山別院史によりますと、弘長2年(1263)に親鸞上人が入寂してから、白鳥で
道場を開かれ、その後白川の鳩ヶ谷に移り、弘安五年三月三日(1282)に69歳で亡くなったことが書かれて
います。
そしてもう一つは、願智坊という、真宗三代目の覚如という人の弟子が、最初は益田郡の小坂に道場を開き、
後に神岡の吉田に聞名寺を開いた系統です。後にこれは、常蓮寺・大国寺というお寺になって、北飛騨を中心に
広まりました。こちらは、照蓮寺よりも少し後の正和元年(1312)年頃のことです。
吉田の常蓮寺
飛騨の浄土真宗の寺院は、現在、お西系(聞名寺系統)が22ケ寺。お東系(照蓮寺系統)が80ケ寺あって、
飛騨の寺院勢力では一番大きなものになっています。ただ、昔は、お西とかお東といったものはなくて、全て
本願寺系統と呼ばれていました。
このお東とかお西とか言うようになったのは、ずっとあとの江戸時代の慶長7年(1602)のことです。
これについては、後でお話します。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「何も言えなくて夏」をお届けします。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日のひだ歴史再発見は、飛騨に入ってきた浄土真宗の事についてお話しています。
さて、飛騨の浄土真宗の寺院が広まったのは、8代目の蓮如上人が、京都を追われて、越前の吉崎という
ところに道場を開いたことによります。それまで、浄土真宗は、京都の大谷というところに本拠地を置き、
お念仏を広めておられましたが、一般の人でも南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽浄土に生けるという
そんな簡単なものではないと、禅宗系の寺院や、天台系の寺院などより迫害を受け、京都から追われる
ことになりました。
そのため、三代目の婥如上人は、一時期、越中に逃れ、瑞泉寺に移っていた事もあります。
それ以後、浄土真宗の拠点は北陸が中心でした。8代目の蓮如上人もその一人で、越前の吉崎という
ところに道場を作り、浄土真宗の教義を広めておられました。越前は、飛騨とも比較的近いために、たくさん
の迷える人たちが飛騨から峠を越えて越前に入り、蓮如上人の下で、帰依されたようです。
そのため、蓮如上人の下賜された「六字名号=南無阿弥陀仏」や「九字名号=南無不可思議光如来」
「親鸞上人絵伝」といったものが飛騨には数多く存在し、あちこちに道場が開かれていきました。
大体、飛騨の浄土真宗寺院の創設を調べてみると、文明~永禄年間(1468~1490)にかけて作られた
寺院が圧倒的に多いです。
永禄から天正時代にかけて、いわゆる世の中が戦国時代と呼ばれていた時には、一般の農民も戦場に
借り出されました。それまで、田畑を耕す生活だった人が、鍬を刀や槍に変えて人殺しをするようになり
ます。戦場は生きるか死ぬかの戦いですから、自分がやらなければ相手にやられる。
当然、殺戮ということに対して心を傷めたことでしょう。何人も殺しても、殺すたびに、罪の意識を持った
でしょうから、「これだけの人を殺せば自分は極楽に生けるんだろうか。地獄に行くのではないか。」など
という罪の意識を持ったことと思います。
浄土真宗の信者の人たちに、仏敵と呼ばれた人がいます。それは、織田信長です。
彼は、天下布武を目標とするあまり、浄土真宗のみならずほとんどの仏教信者を敵に廻しました。
有名なのは、比叡山の焼き討ちや、石山本願寺の戦い、桑名の一向一揆、越前の一向一揆の掃討
ですね。彼は本能寺でなくなるまでに4万人の人を殺したといいます。
浄土真宗の信者からすれば、「ただでさえ、嫌な世の中で、自分を救ってくれるのは、阿弥陀様しかおられ
ないのに、それをも冒とくする信長は、仏様の敵である」と信じ、戦った事でしょう。
天正3年から10年まで起った、摂津石山本願寺の戦いには、飛騨からもたくさんの信者の人が石山本願寺
に行って戦っています。終了後、帰ってきた人もいますが、風呂にも入らず、毎日戦いを行っている間に、
すね当てにすね毛が絡まってしまい、なかなか取れなかったなどという逸話も残っています。
さて、そんな浄土真宗でしたが、飛騨を平定するのに巧みに浄土真宗を味方に付けた武将がいました。
それは、高山城主 金森長近でした。彼は、越前の一向一揆をわずかの時間で平定し、その褒美として
越前大野の2/3を知行地としてもらいます。天正3年のことです。
しかしその後、天正十四年に今度は飛騨を平定します。それにもそれだけの時間をかけていません。
また、彼の賢かった事は、その浄土真宗を自分の城下に取り入れて、城の中に本山を置き、戦争に明け
暮れる自分の代りに知行地を守らせたことです。おととし、岡崎の勝鬘寺というお寺から書状が発見され
ました。照蓮寺の明了に宛てた手紙です。
これには、「新門跡様(教如上人のこと)もおっしゃっているから、高山へ寺坊を移して、高山の町を留守中に
守ってほしい」ということが書かれていました。

顕如上人
この頃、天正時代に秀吉によって本願寺が2分され、石山本願寺を守った11代の顕如が亡くなったときに、
12代目を長男の教如上人が継ぐか、はたまた3男の實如上人が継ぐかでもめました。
その時、母親の如春尼の口添えで、自分が溺愛していた3男が跡目を継ぐ事になり、二つの本願寺系統に
なりました。後に、慶長になって教如上人は、分裂を拒んだようですが、徳川家康が寺地を寄進して2つの
本願寺が誕生したと言われています。
このとき、家康に教如上人を紹介したのも金森長近であったとのことです。
茶の湯を通じて、長近という人は教如上人と深いつながりがあったということです。
このお話のつづきは、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。来週は、第三週目になりますので古川など飛騨市のお話、今回は、茂住宗貞
の謎というお話をお届けしたいと思います。今日は、この曲でお別れです。
曲は「山口百恵で ひと夏の経験」ではまた来週。
徳積善太
2008年06月27日
越前大野訪問~南専寺~
越前大野では、南専寺さんを訪問しました。

南専寺は、越前大野から東に10kmほど行ったところにあり、昔、教如上人が、石山本願寺の
戦いの後に、諸国を流浪されたとき、飛騨に入る前に立ち寄られたところです。
当時は、天正3年に金森長近が、越前大野を平定し、そこに城下町が作られていました。
長近が、この地を訪問せよと言ったかどうかは定かではありませんが、この地域には、浄土真宗の
信者がたくさんおり、金森氏が信長の命令で、柴田勝家と共に越前の浄土真宗を平定し、そのときに
越前大野地区の2/3を所領としてもらった土地です。
おそらく、長近は、浄土真宗と結託していたからこそ、わずか1年ほどで越前を平定できたものと
思われます。
その土地に、教如上人が、訪問され、蓮如上人の絵像が下賜されています。

また、この南専寺は、井波の瑞泉寺とも関係があり、このお寺から井波の瑞泉寺へ4代目の住職
が行っておられます。
ちなみに、10代目の住職は、金森長近の曾孫 高山城主4代目の頼直の弟であることを、昨年
発見しました。
ということは、金森氏とも何らかのご縁があったと考えても不思議ではありません。
この関係についても、いずれ発表したいと思っています。
徳積善太
南専寺は、越前大野から東に10kmほど行ったところにあり、昔、教如上人が、石山本願寺の
戦いの後に、諸国を流浪されたとき、飛騨に入る前に立ち寄られたところです。
当時は、天正3年に金森長近が、越前大野を平定し、そこに城下町が作られていました。
長近が、この地を訪問せよと言ったかどうかは定かではありませんが、この地域には、浄土真宗の
信者がたくさんおり、金森氏が信長の命令で、柴田勝家と共に越前の浄土真宗を平定し、そのときに
越前大野地区の2/3を所領としてもらった土地です。
おそらく、長近は、浄土真宗と結託していたからこそ、わずか1年ほどで越前を平定できたものと
思われます。
その土地に、教如上人が、訪問され、蓮如上人の絵像が下賜されています。
また、この南専寺は、井波の瑞泉寺とも関係があり、このお寺から井波の瑞泉寺へ4代目の住職
が行っておられます。
ちなみに、10代目の住職は、金森長近の曾孫 高山城主4代目の頼直の弟であることを、昨年
発見しました。
ということは、金森氏とも何らかのご縁があったと考えても不思議ではありません。
この関係についても、いずれ発表したいと思っています。
徳積善太
2008年06月26日
石徹白家の古文書1
石徹白には、12件の石徹白家が存在します。
もともと、石徹白家は、越前朝倉氏の家来でしたが、早くから金森長近の家来となり、代々金森の
家来として石徹白地区を知行していました。
金森が転封になってあとは、代々、白山神社の神主として持ち回りで神官をつとめ、
所領を安堵されてきたそうです。そのため、たくさんの歴史資料が存在しています。

石徹白家の仏壇。
ものすごく大きくて立派な仏壇が掲げられている。中央のご本尊は、お寺に掲げるほどの
立派なもので、ここが在家の道場だったことを示している。

石徹白家に伝わる兜
天正期に戦った武士のもの。かなり古い兜です。

古文書もたくさんあり、中には飛州志に掲載してあるものの原本もありました。
これらの古文書については、これから分析します。
徳積善太
もともと、石徹白家は、越前朝倉氏の家来でしたが、早くから金森長近の家来となり、代々金森の
家来として石徹白地区を知行していました。
金森が転封になってあとは、代々、白山神社の神主として持ち回りで神官をつとめ、
所領を安堵されてきたそうです。そのため、たくさんの歴史資料が存在しています。
石徹白家の仏壇。
ものすごく大きくて立派な仏壇が掲げられている。中央のご本尊は、お寺に掲げるほどの
立派なもので、ここが在家の道場だったことを示している。
石徹白家に伝わる兜
天正期に戦った武士のもの。かなり古い兜です。
古文書もたくさんあり、中には飛州志に掲載してあるものの原本もありました。
これらの古文書については、これから分析します。
徳積善太




