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福王寺の鬼瓦

先日、小坂町の道の駅こけももに行きました。

夕方だったので、道路が凍結していましたが、ガソリンが少なかったので、不安になり引き返そうと
したところ、お寺の鬼瓦部分を発見。保管展示してありました。




福王寺は、飛騨に浄土真宗が入ってきた一番最初のお寺です。

嘉念坊善俊が、白川郷に入り、照蓮寺を作ったのが一番最初とされていますが、確たる証拠がなく、
一番証拠の残っているもので古いのは、福王寺なんです。


徳積善太


  

鳥越に行ってきました

先日、古川の郷土史研究家 井之口さんに誘われて、鳥越に行ってきました。


鳥越というのは、石川県の白山市。ちょうど飛騨からは白川郷と白山を挟んで裏側にあります。




かつてここには、「百姓の持ちたる国」という浄土真宗の百姓たちが治める国があって、100年
近くも、武将のいない国があった地域です。




織田信長の命により、柴田勝家が大量に虐殺を行ないましたが失敗。その後佐久間氏によって、
鳥越城が攻められ、300人もの人を磔にしたという、地域です。



この国の建設については、飛騨の浄土真宗の門徒が関わったとされていますので、今後
詳しく調べて行きたいと思っております。

徳積善太

  

南砺市の専徳寺2

専徳寺は、そもそも城端町の山の際にありました。


隣には、上見城という城跡があり、かなり広大な広さの場所に、谷などの地形を上手に利用した城郭が
あったものと思われます。
谷を挟んで、左側が上見城という内ヶ島氏の家来渡邊氏の居城。そして右側が嘉念坊善俊の弟子が開基したという
専徳寺の跡です。



現在は、林道が開かれてすぐ近くまでいけるようになっています。



結構広い敷地が、だんだんになっていて、中央には石碑がありました。



石碑には、銘とかはなく、単なる庭石をこのように組んだ可能性もあります。
富山県では、寺院跡として調査がなされたそうです。


中には、石垣の跡と思われる石も散乱しており、また、明らかに川石を持ち込んだと思われる石が点在していました。



少し離れたところには、専徳寺跡を示す看板が設置されていました。

そこには下記のように書いてあります。

「塔尾専徳寺の歴史

塔尾専徳寺は、白川郷の嘉念坊善俊の門徒(浄土真宗)の
道場がこの地で開かれたことから始まった。
本願寺は、一向一揆の戦いで越前の領国が封鎖された後、
飛騨街道の要として「専徳寺」を本願寺直参の寺院とした。
戦国末期には、火薬調達確保や、金沢御堂陥落後の最後の
拠点として五箇山防衛の前線基地となっていた。
専徳寺跡は、富山県内の中世寺院遺跡として唯一のもので
ある。」



発掘調査の時の地図も掲示されており、詳しく説明されていました。



この寺院については、飛騨の内ヶ島氏との関連がわかっており、かつて内ヶ島氏の勢力が、白川郷にとどまらず、
城端~福光地方にまで及んでいたことを指示します。
かつて高原郷の江馬氏も、高原郷のみならず、越中にまで勢力をはっていたことが知られていますが、内ヶ島氏
も同じように越中方面にまで勢力をのばしていたことがわかります。
これは、飛騨の歴史研究者の間では、今まであまり調査されていませんでした。

五箇山衆の動きや、加賀一向一揆との関係については、いまだ不明な部分が多いですが、今後の調査が待たれる
部分だと思われます。

徳積善太  

飛騨にあるチベット寺院

今日、ほぼ5年ぶりに飛騨にあるチベット寺院へお邪魔してきました。


林さんが、朝日町の秋神上桑之島にて、12年前から自費で少しづつ、自分で寺院を
おつくりになって見えます。場所は、秋神の元小学校を過ぎて、左手の山の下です。

完成は今年中には何とか完成したいとのこと。

内部の撮影は、完成後に発表したいとのことで、撮影不可でした。

林さんは、チベット密教を広めるために、全国を講演して回っておられます。

帰りがけに、ニホンザルを見かけました。さすがに山奥ですね。


徳積善太  

祐念坊の方便法身尊形

今までその所在が明らかになっていなかった、飛騨市宮川町西忍の祐念坊
にあった開基仏の「方便法身尊形」を見つけることができました。


ある個人宅にそれは大切に保管されていました。

何でも、このお宅は、江戸時代の初期に祐念坊が火災にあい、その時に
建物があった場所が、現在の宮川町西忍の消防署のあたりだったそうです。

その後、90年ほど無住となり、近くのお宅に、道場が移され、しばらくはそこで
読経がなされていたそうです。

そのお宅では、祐念坊の道場が高牧の方に再建されたときに、方便法身尊形を
お寺のほうに返されました。
その後、安政の大地震にて、寺院が崩壊し、現在地に祐念坊が再建されました。

先々代のお坊さんが、「この寺も間もなく後継ぎがいなくて無住になる。この
本尊はもともとお宅にあったものだから、また預かってほしい」ということで、
預かられたということでした。

残念ながら、裏書きの文字が見えませんが、富安郷と書いてあるのか、何と
書いてあるのかが非常に興味の持たれるところです。

徳積善太



  

聞名寺訪問

飛騨に浄土真宗を伝えたルートは2つあるといわれています。

一つは、現在高山にある別院=照蓮寺のルート。

これは、親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊という人が、白川郷に一宇を建立して
飛騨に浄土真宗を広めたというものです。照蓮寺門下の寺院は、現在は、その大半が
真宗大谷派の寺院として、飛騨にかなりの数の寺院があります。
一時は、加賀の国や郡上八幡にも門徒が分布していました。

そしてもう一つは、聞名寺のルート

これは、三代本願寺門主 悼如の弟子である願智坊覚淳という人が、各務ヶ原から
当初、飛騨の小坂(落合)というところに、一宇を建立。その後、神岡の吉田に
移り、数度の移転を繰り返して、最終的に越中八尾の聞名寺となったというものです。
こちらの傘下の寺院は、吉田の常蓮寺をはじめとして、山田の大国寺そして、北飛騨を
中心にたくさんの寺院があります。
現在は、その大半が、本願寺派の寺院として分布しています。

実はこの他にも、高田派の流れの寺院や、時宗がその後浄土真宗になっていったとか
の話はありますが、大きく分けるとこの2つの流れとなります。

その聞名寺は、本願寺派の巨大寺院として、越中八尾にあります。
富山での浄土真宗は、勝興寺(高岡)、瑞泉寺(井波)、善徳寺(城端)、聞名寺(八尾)
が本山直属の4大寺院として有名です。


今回の調査の目的は、姉小路氏との関係。
姉小路基綱の、子供がこの寺に入寺していたことがわかり、それを確認するために、
系図を見せていただきました。

4代目の覚証という人が、姉小路宰相(基綱)の子であると記されています。
これは、今まであまり公表されていなかったことです。


また、のちの時代には飛騨を平定した金森長近いか金森氏は、この寺院と懇意にするために
贈り物をおくるなど付き合いをしています。
今回、聞名寺に所蔵されているいろんな古文書を見せていただきました。
それについては、今後、お知らせしていきたいと思います。

徳積善太

  

聞名寺にお邪魔しました

聞名寺は、越中八尾にあります。
飛騨に浄土真宗を広めた照蓮寺とは双璧のお寺で、願智坊覚淳という人が開基のお寺です。いま飛騨には神岡の吉田に常蓮寺がありますが、もともとはそこにあり、現在は風の盆のお寺として大変有名です。
いろいろと古文書を特別に見せていただきました!
  

飛騨にもあった「親鸞聖人の直筆」

今日は、調査で河合のお寺に行きました。

昭和15年ごろに発行された「飛騨真宗史編纂所報」に掲載されていた、
「親鸞聖人直筆文書」を確認しに行きました。

東等寺の竹田さんとお邪魔しましたが、直筆に間違いないことがわかりました。

飛騨では、唯一のものです。

 

親鸞聖人の和讃の直筆文書2通です。これは、石山本願寺の戦いの際、本になっていた
ものを一枚一枚に分けて、檀信徒に渡されたもののようです。

どういう経緯で、飛騨に入ったかわかりませんが、坂井喜四郎と云う人が、山岸家より
手に入れて、このお寺に寄進したものであるようです。

徳積善太