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大雄寺の仁王像について

今日は、午前中は音楽連盟の調査。午後は、図書館で古写真のコメント書きのために
いろいろと調べ物をしておりました。

そうしたら、大雄寺の仁王像に関する記事を「日の出新聞」(昭和43年)に見つけ
ました。



「大雄寺(高山)の山門を飾る 仁王様(一対)を製作
木彫家・都竹峰仙人氏の手で

山都東山の浄土宗、東林山・大雄寺は本山の知恩院を写したものとして豪壮な
建築美が高く評価されているが、その山門を飾る仁王像一対は、同寺院のその
豪壮なスケールに対してすこし規模が小さいうらみがあるなどの批評があった
ので、これをより大きいものに取り替えることになり、大きい仏像の彫刻に熟
練した木彫家、都竹峰仙氏(中部美術協会会員、高山市森下町)に制作を依頼
した。
一体の高さ七尺五、六寸(目方約七十貫)を予定する仁王像の材は、民有林か
らはとても入手できそうにないので、都竹氏は久々野営林署からトーヒの巨木
を払い下げてもらい、早速山王山のアトリエに立てこもってこの仕事に取り掛
かった。
すでに一体は彫刻が相当進行しているが、二体の完全な仕上げには二ヵ年はタ
ップリかかる見込みだという。
この巨体の仁王さまが大雄寺の山門に飾られると、観光高山、仏教王国高山の
名物がまた一つふえることになり、完成の日が期待される。
なお、都竹氏はさる三十余年前御岳教飛騨教会の栃目不動尊を彫刻したが、こ
れに次ぐ大作が今度の仁王像である。」





徳積善太


  

大雄寺の瓦について2


先日お知らせした、瓦に付いてですが、M先生によりますと、この瓦は
江戸時代中期以降のものだそうです。

飛騨の室町期以前の寺院は古代寺院と言われておりますが、この瓦の形は
写真の石橋廃寺瓦のように、瓦と先端部分が分かれている形態のものが多い
そうです。

石橋廃寺瓦  国府郷土館所蔵

それに引き換え、大雄寺の瓦と思われるものは、三州瓦の形態で、瓦を重ねて
行くタイプ。しかも、屋根のほうには、ずれを防止する垂木を打って、その上に
瓦を敷き詰めていくという形式だそうです。

今回の、大雄寺瓦が現地から出土したとすれば、元大雄寺の建物の跡地に別の建物が
建設されていた可能性があり、それについては、厳密な調査を必要とするとの事でした。

飛騨には中世にあった寺院がたくさんありますが、古代ばかり注目されていてあまり
発掘されていないので、まだまだ謎が多そうです。

徳積善太
  

徳川家康の位牌_大雄寺

高山にも徳川家康の位牌があるのを御存じですか?


徳川幕府は、江戸時代に一国一寺に大御所様の位牌を拝むように命じました。
そのため、浄土宗のお寺には、位牌があります。

その横には、大雄寺の歴代のお坊さんの位牌があります。


徳積善太
  

大雄寺の古瓦

昨日、祖母の三回忌の法要を大雄寺にて営みました。

その折、以前から和尚様にお願いしていた、古瓦と大雄寺記について見せていただきました。


この瓦は、かつて大雄寺が国府の上広瀬にあった時に、上広瀬の旧大雄寺跡から
発見され、前住職がお持ち帰りになられたものです。

そこには、私の調査では、柱の礎石も見つかっており、以前、写真撮影をさせていただいた
ことがあります。


今回、「大雄寺記」についても拝見する事ができました。


これは、現住職のお爺様が昭和25年に書き残されたものであるとのことですが、
寺伝について、いろいろと伺っていることについては、証拠がありません。
引き続き、書き物を探して行きたいと思いますが、高山城築城に関する伝承が
寺伝として残っているので、検証していきたいと思います。

徳積善太  

大雄寺の火災と再建   闡誉上人 昭和44年

  昭和四十四年一月二十八日、大雄寺本堂は火災に逢い、本堂大伽藍をことごとく焼失した。
私も子供ながらに覚えているが、火災のために高山の空が夜中にも関わらず、夕焼けのように
真っ赤に燃えていたことを思い出す。当時、本尊が焼失しているときに、阿弥陀様が光となって
天に昇っていかれたということで、写真が撮影され、マスコミ等で話題になった。そのときのことを、
闡誉大僧正が書き残して本堂廊下に紹介されていたので、その全文をご紹介したい。


「阿弥陀様の顕現」

「昭和四十四年一月二十八日夕刻、当寺本堂が火災にあった。火の勢いの凄まじさにはほどこす
術もなく、あっという間に堂内に火がまわり、多くの人々が見守る中、ついに本堂の屋根が落ちた。

その時の写真が残っている。焼け落ちた本堂から立ちあがる光の柱はまさに阿弥陀様のお姿
そのものであり、この不思議な写真は当時、浄土宗のみならず新聞やニュースで大変な話題
となった。
多くの学者が研究した中、大本山鎌倉光明寺の藤吉慈海大僧正は次のようにお説き下された。

「火災によって念仏信仰の依り所をなくした飛騨の人々が悲しむのを阿弥陀様が哀れんで、たとえ
仏像としての姿はなくなろうとも本当の仏身は永遠にここにいるから安心しなさいとお姿を現して
下さった。この写真は阿弥陀様の顕現のお姿である。飛騨の念仏信仰の中心である大雄寺本堂の
火災であるからこのような寺瑞が起きたのであろう。」

科学や経済第一主義の現代の中で、目に見えるものしか信じることの出来なくなった私達にとって
阿弥陀様が自らその実在をお示し下さった正に貴重な写真である。

 その後十年はかかるであろうと思われた本堂再建も檀信徒の方々の多大なる協力によりわずか
二年後の昭和四十六年六月六日、尊き仏縁により伊勢樹敬寺より阿弥陀如来を請来し、本堂
開堂式を奉修することが出来た。

 昔の本堂を知る人も少なくなってきたこの頃であるが、現在よりはるかに大きい軒先十五間四面、
うぐいす張りの総縁で龍画の鏡天井といった豪壮な大伽藍は宝暦十二年(1763)飛騨の匠棟梁、
初代水間相模の作であり、堂内には一丈六尺の本尊阿弥陀如来、聖徳太子御手作の聖観世音
菩薩、飛騨之国の徳川家菩提寺として家康公の等身大の位牌等が安置されていた。」

徳積善太  

大雄寺山門の仁王像

今日、大雄寺にお邪魔しました。

そうしたら、掃除のために初めて、山門の仁王様を表に出したとの事。

間近で、見せていただきました。




今まで気づきませんでしたが、鎌倉の運慶快慶の仁王像ほどではありませんが、大変立派な
仁王様が高山にもいらっしゃるんですね。

皆さんも一度ご覧になってください!

徳積善太