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煥章学校の写真

以前お知らせした、煥章学校の写真について、FBに女性が撮影したものとの話がありました。

詳しくはわかりませんが、よく本に掲載してある写真は、明治36年に学校の建物が、取り壊される
直前の写真ではないかということを文化財課の皆さんとお話していたことがあります。


一方で、こんな写真があります。


(出典;『飛騨の女性史』より)

子供たちが一緒に写っている写真ですが、この写真の方が古いのではと思います。


徳積善太
  

煥章学校の先生_生井修齋

昨日に続いて、煥章学校の話題。
今日は、最初の教授となった先生のことをお知らせします。


『高山市史百話』  角竹喜登著  昭和31年6月1日発行に、煥章学校の先生だった
生井修齋(いくいしゅうさい)のことが出ています。

「P7 
生井修斉先生
明治初年高山一之町百三十九番屋敷に塾を開き洋楽と漢学を教授し煥章学校へ生徒を
引継いた教育功績者の医師生井先生の御家庭を明治四年十一月高山県管轄第二区
戸籍帳に依って見よう。

先生は天性寺町百姓文蔵の長男で当年四十四才、妻はニ之町村町年寄川上斉右衛門の
養女とく(三十二才)長男順造は(十六才)実は一之町醤油渡世船坂雅平の次男で、当
時京都仏語学校に在学中である。氏神日枝社、寺は大野郡漆垣内村一向宗円徳寺。」

また、高山陣屋文書に彼の経歴があります。

「筑摩縣管轄
   第二十五大区小ニ区
    飛騨国大野郡高山一之町百三十九番屋敷
         平民医
            生井修齋
            当酉十一月四十五歳三ヶ月

一、安政乙卯正月ヨリ同三年丙辰四月迠西京車屋町夷川上ル牧善助ニ従ヒ一ヵ年
四ヶ月之間漢籍修業同年六月ヨリ同六年乙未年九月迠当所神明町故赤田新助ニ
従ヒ二ヵ年四ヶ月之間漢籍修業其後西洋翻訳書ニ就テ理学医学ホ独学修業仕候
以上

右之通相違無御座候以上

明治六年十一月廿日    生井修齋 印」

これによると、生井先生は、漢籍(漢文)の勉強を京都でされ、そのあと高山の赤田
新助に師事したようです。
医学に関しては独学と言うことになっています。
昔は、医師といっても、現在のように国家試験などありませんから、見立てということが
できれば、誰でも医者になれたんでしょうか。

徳積善太



  

煥章学校の前身_明正義塾

昨日の煥章学校の話題に続いて、今日も煥章学校についてお話します。

『高山市史百話』  角竹喜登著  昭和31年6月1日発行に次のような記事があります。

「P7 明正義塾(煥章学校の前身)
この塾は生井修斉・三輪源次郎氏らが発起し、一之町二丁目(今の上一之町)に創設したもので、
明治六年四月には元新宮藩士中川八郎を雇入れ英語教授を開港して居る。同年十二月二日煥章
学校開校式が勝久寺に挙行された当日塾生も煥章学校に入学し、教師中川八郎は英語の原書で
地学を、生井修斉は学制序自を講義して居る。
生徒田近方次郎外七名は窮理図解温論を、武田万造外十六名は史略神代部を諺誦して居る。
当日洋算加減乗除をやった澤田謙益も明正義塾の設立発起者の一人であったかと想われるが
判然しない。
明治七年四月には生井修斉は煥章学校の幹事心得となり間もなく幹事に昇った。
沢田・中川両人は同校教師に就任し三輪源次郎は学校新築の庶務係をやって居る。
市史下巻四十八頁を御覧下さい。」

『高山市史』 P48には、次のような記述があります。

「 第五節 明正義塾

明治六年ー同八年 明正義塾は生井修斎・三輪源次郎発起して創設したもので、
煥章学校の前身ともいえる。
三輪源次郎ー明治6年中高山町に於て明正義塾(学校)自分外二名にて発起相開、
同八年右明正義塾煥章学校と改称、寄附金として百円を納む筑摩県より銀盃一個
を賜はる。(鉱業身元調に拠る)

明治六年四月三十日 元新宮藩中川八郎、高山一之町明正義塾に於て、毎日英語
教授を始めた。

権典事殿方寄留旧新宮藩士中川八郎来る五月二日より明正義塾迄出張毎日午後
一時より五時迄英語学教授有之候に付有志のもの共入門いたし候様市中へ可触
示旨高山町戸長へ相達候事(明治六年御布告)

飯田権典事殿寄留旧新宮藩中川八郎当五月二日より午後一時より五時迄日々
一之町明正義塾へ出張英語学教授に付有志の者は入門いたし可申旨御沙汰有之
候事但日曜日は休日の事

【同】同文
右之趣其組下へ無洩可被相触候也
  四月三十日
           第五十区戸長
             田近盛域
小林甚九郎殿
島木市十郎殿        (外七人略す)(船坂半右衛門日記)

明治六年八月三十日  明正義塾経営者一之町生井修斎より同塾経費中へ金
十五円借用方願出た。

   以書付奉願上候

  一金 十五円也

  右者明正義塾入費の内へ書面之通拝借被仰付度奉願上候尤来る十二月中屹
  返納可仕候間此段御聞済被成下度奉願上候 以上

  明治六年八月三十日
                           生井修斎
  高 山
     御 役 所                    (願書留)」

明正義塾は、「明正義塾煥章学校」と言うのが正式名称で、これが後に煥章学校と
なったもののようです。

徳積善太

  

煥章学校の色


「現在、高山市図書館の「煥章館」となっている建物は、平成16年4月23日 開館し、
名前は明治初期に同地にあった小学校「高山煥章小学校」にちなみフランス風建築様式の
往時の建物の姿を再現し煥章館と名づけた。現在蔵書15万冊、今後最大蔵書計画数23万
5千冊に向けて充実予定  午後9時半まで開館」(煥章館Hpより)

その煥章学校といわれている建物がこれです。


製作者は、高山の大工 瀧井与六(小説家 瀧井孝作の祖父)で、長野の大工さんたちと
一緒にこの西洋式建造物を建築したそうです。
ここの内部に展示されている鷹は、長らくこの煥章学校の正門にあったものですが、この
煥章館が建造されるに当たり、現在の図書館の内部に展示されています。

さて、今日、別件で煥章学校を創建した当時のお話を伺いに、元高山市教育長の森瀬先生を
尋ねました。そのときに、大変面白いお話を伺いました。

この煥章館を建造するときに、「当時の色が何色であったか。非常に問題になった」という
のです。確かに、斬新的な建物だったに違いありませんが、写真で見る限りでは、白黒のため
はっきりしません。
そこで、外観の色を何色にしようか悩んだことがあり、手すりが緑色だったという古文書があり、
苦労したそうです。生井修齋(一之町の医師で、煥章学校の教授)が、西へよく行っていたという
記録があったので参考にしたそうです。
その時、西にそのような似た建物がないか調べたところ、「奈良女子大学の建物」が非常によく
似ているので、これだということで、緑を基調にした色合いにしたとのこと。
 

当時、そのような色の建物を建造したとすれば、非常に斬新なことだったでしょう。
高山の建物は、柿渋色の建物が多く、「緑色の手すりだった」ということから、現在
の色調にほぼ間違いないのではとのことでしたが、其の色を決定するのに、非常に
苦労したというお話を伺えました。

緑色なら、絵の具の緑青を使ったものと思われます。当時、建設資金がそんなに
あまっている状況ではなかったと思われます(明治8年にも大火があり、建築
資金集めに非常に苦労した話が残っている)ので、比較的入手し易い絵の具に
しないと、なかなか難しかったでしょうねと言う話をしていました。

このお話はどこかで、ラジオでもお話したいと思います。

徳積善太