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秋祭りの屋台が上町区域へ

今日は、高山市政80周年をお祝いして屋台の引き揃えがなされております。
秋祭りの布袋台が上町のエリアへ引きこまれました。





私が調査したところでは、昭和2年8月29日に秩父宮が来高された時に、春祭りと秋祭りの屋台が陣屋前に引き揃えられました。
その時以来、90年ぶりのことではないかと思いますが、定かではありません。






昭和30年台に秋祭りの屋台と春祭りの屋台が安川通りに引き揃えられたことは、何回もありました。
以前、『ふるさと飛騨』『飛騨の昭和』に書きました原稿を引用すると下記の通りです。



「昭和25年から昭和37年まで春秋二大祭りには屋台をお互いに曳きだそうという話が出た。昭和25年4月15日には高松宮ご観覧のため安川通りに曳き出された。
以下、春秋の屋台が安川通りに揃った年は、昭和26年4月、昭和28年4月、昭和29年4月・7月23日夕刻、昭和33年5月4日5日・9月、昭和34年4月9月、昭和35年4月、昭和37年4月9月であった。昭和39年には秋祭りが二つに分裂し、春秋に分れて屋台が曳き出された。昭和40年には国体協賛で10月26日に。昭和41年には春祭り14・15日、八幡祭り16・17日となり昭和43年以降は現在の形になった。写真は、昭和37年の春のものと思われる。左側が秋の神楽台、行神台、鳩峰車、右側が崑崗台(春)などが見られる。」「郡代に拝謁した」という記録を元に、150年ぶりというお話になっているようです。その頃は、桜山八幡祭の時に、拝謁するために陣屋前に屋台が引き揃えられたとのこと。
その時は、別々のはずです。

ところが、考えてみれば、「石橋台」のからくりは明治時代に風紀上の関係から禁止され、永らく上演されていませんでした。

そう考えると、高山のからくり屋台が4台揃うというのは、史上初ではないでしょうか。


ながせきみあき
  

立岩神社の例祭

5月3日は朝日町の立岩神社の例大祭でした。
昨日に続いて、お邪魔してまいりました。





小さい神社ながらも、神代踊、闘鶏楽、雅楽、大々神楽、剣の舞、弥栄(いやさか)の舞が
奉納されました。

この神社では、人数が少ないので、一人の人間が何でもできるようにすべての神振行事を
マスターしているとのこと。

獅子舞もかつてありましたが、人数が減ってしまって、もう年寄りの人しかまえないとのことでした。


この日は朝から雨模様だったので、近くの公民館で直会が行われました。
私も、参加させていただきました。

飲むほどに、だんだん高揚してきて、神代踊で普段やっていない舞を披露してくださいました。
神代踊は、6つ伝わっているそうですが、その中でも「白菅の舞」という舞を見せていただきました。

あと、「あや踊り」と言うのがあるらしいのですが、この文句が
「やんだせ やんだせ・・・」といいながら、棒に紙を巻いて先が細く、いくつもとぐろを巻いているような
棒を使って舞う、舞があるそうです。
これは、ちょっと卑猥なので、あまりやっていないということでした。

これは、棒とその歌詞からして、子孫繁栄を祈った舞なんでしょうね。




そのあと、今度はお年寄りの人たちが、獅子舞をやろうということになり、獅子舞を披露されました。
最初は、「まむしとり」
とてもご老人とは思えないフットワークにみんなが喜んでおられました。

そのあと、「高い山」を披露されましたが、笛を吹ける人がいないということで、高山の神楽台の曲ですが
私も参加させていただきました。
「どこの人か知らんけど、笛のうまい人がいる」といわれて、このあと、御老人に囲まれました。
芸は身をたすくですね。

徳積善太
  

試楽祭と本楽祭

今回の春の高山祭は、「日枝神社の例大祭」というのが正式名称です。

一般には、「山王祭り」と言われています。


毎年4月14日と15日の二日間にわたって開催されますが、日枝神社では昔から
14日を試楽祭
15日を本楽祭
   と呼んでいます。


ある方から質問がありました。

「八幡祭りでは、7日が試楽祭、9・10日を例大祭と言っているみたいですが、これの違いは
なんですか?」

ということで、さっそく調べてまいりました。



<神社の重要神事>
神社では数多くのお祭りがなされていますが、その中でも最も重要なお祭りが3つあります。
それは、
1)五穀豊穣を祈るための祈年祭(=春祭)
2)神社がその場所に遷座されたことをお祝いする氏子のためのお祭り=例大祭
3)収穫したことを神様に感謝するためのお祭り=新嘗祭
の3つです。


<例大祭>
例大祭には、「試楽祭」と「本楽祭」の2つがありますが、ほとんどの神社が「本楽祭」のみを
やられています。


他の神社は次のようになっています。
・古川祭 (気多若宮神社例大祭)  4月19日試楽祭   20日本楽祭
・飛騨護国神社例大祭          5月4日試楽祭    5日本楽祭
・八幡祭(桜山八幡神社例大祭)   10月7日試楽祭・抽籤祭 9日・10日本楽祭
・一本杉神社例大祭           4月15日試楽祭(2時) 15日本楽祭(6時より)
・飛騨総社例大祭            5月4日献幣祭     5日御巡幸祭

高山管内では、上記以外に新宮神社(新宮)と若宮八幡神社(石浦)の2つが試楽祭・本楽祭を行なって
おられます。


それぞれ神社によって異なることがわかりました。

桜山八幡神社では、試楽祭において抽籤祭を行なっておられますが、山王祭りと古川祭では
3月の初旬に抽籤祭を別に行っておられます。


<試楽祭>
一般に試楽祭は、本楽祭(本番)のための準備のお祭りで、本楽祭が今から始まるぞという
合図のためのお祭りの意味や、神楽を打ち出すお祭りとして認識されているようです。
所によっては、前夜祭的に行われているところが多いようです。

<本楽祭>
一般にこちらが本番ですが、神社本庁から献幣を持参されるお祭りがおこなわれます。
一年に一度、例大祭が行われるため、神社本庁から幣を持参されます。


<献幣祭>

一般に、神社本庁から幣を持参し献上するというお祭り。通常は本祭である本楽祭において
献上の儀式がおこなわれることになっています。


(桜山八幡神社の例大祭にて。中央にあるのが金幣)

<神様の御巡幸>
こちらは、神様が氏子の区域内をおまわりになることを指し、お旅所がある場合は、お旅所に行くまでや
氏子の区域内を回ることを「御巡幸(行)」(ごじゅんこう)。お旅所から神社の本殿に神様が帰られる
場合を「還御(かんぎょ)」といって区別しています。

御巡幸が、幸せという字を書く意味については、「神様が氏子の区域をお周りになり、神様の御遺徳や
光があまねく届き、氏子が幸せになること」を意味しています。

またこれは、国見の意味合いがあり、神様がお周りになることで、家が建て替えられたり、子供が
生まれたりすることを確認したり、国の変化を確認されるという意味合いがあります。
一方で、行列される人たちが、国を見るという意味合いもあると思われます。

またこれは、未確認のことですが、江戸時代に入ると参勤交代があり、江戸に城主が詰めないと
いけませんでした。そのときに、家来や村民を借り出して参勤交代を行なうこともあったことや、
祭行列絵図の中に、「鉄砲隊」が含まれていたことから、参勤交代の予行演習的な意味合いも
あったものと思われるとのお話でした。



<神官の装束について>
一般に神職の方々には位があり、特級・一級・二級上・二級・三級・四級の6等級あります。
この方々はそれぞれ、身分によって着用できる装束が異なっています。

詳しくはこちら

日枝神社の例大祭においては、14日の試楽祭では宮司、権禰宜は正装。他の神社から
お手伝いに来られた神職の皆さんは白の装束で奉仕されます。


また、お旅所で行われる夜祭(やさい)では、狩衣でのご奉仕。

14日15日の御巡幸で奉仕される場合は、それぞれの身分の調衣で奉仕をされるので、
それぞれ異なるカラフルな色の装束を拝見する事が出来ます。






<献幣について>

元来、明治2年に全国の神社は、
県社、
郷社、
村社    に分けられました。
しかし、戦後になって、全国の神社を一律に平等に扱うことになり、この制度は廃止されました。

ところが、岐阜県においては、古川の上杉一枝氏が岐阜県の代表になられたときに、社格が一律
なのはおかしいということになり、
金弊社、
銀弊社、
白弊社、
無格社     の4つに分類されました。
したがって、この制度はどうやら岐阜県だけのもののようです。


また、金弊社の中から特別金弊社として神社本庁に届けてある神社があります。
これは、規則の中に「次の表に掲げるもの」という一項目があり、それを指す神社です。
飛騨においては、一宮水無神社と桜山八幡神社の2つです。

金弊社と特別金弊社の違いは、神社本庁に上納する金額が異なることと、全国の神社のリスト
(全国主要神主名簿)に結果的に掲載されるか否かということがあります。
したがって、神社本庁からの正式参拝のある場合は、この2社のみが正式に参拝されている
ようです。


(以上、飛騨総社宮司さん、飛騨護国神社権禰宜さんに確認)


徳積善太
  

還御祭

昨日まで高山祭が行われていました。

日枝神社に神様が還御されました。
氏子崇敬者が待機するところを神輿が到着しました。



赤い鳥居の前にお神輿が到着。宮司さんが御神体を本殿に移しました。





見たことある人だなと思ったら、ガレッジセールのゴリさんでした。
法被来て写真撮りませんかって誘ってみましたが、丁重にお断りになられました。





午後5時30分頃に無事千秋楽を迎え高山祭が終りました​。
到着後、還御祭の神事が行われました。還御祭は、神様がご神殿にお帰りなされる儀式です。



そのあと宮本のご発声で呼び込み(各屋台組・神輿組の順​番で呼ばれ、捺印を行う儀式)が行われました。




例年、一つは組の方が参集されていないことがありますが​、今年は、ある組の方が印鑑をお忘れになり、一同がお待​ちになるというハプニングがありました。
司会の方が飛ばして捺印してはと言われましたが、宮本旗​にある「すべからく先例によるべし」との言葉通り、順番​を狂わすことなく、印鑑が到着するまで全員で待ちました​。

その組の方は大変反省しておられましたが、こういった厳​格なルールに基づいて大きな祭礼が執行されているという​ことがしきたりであり、永年の祭の運営を支えて来たとい​うことを改めて実感した調印式でした。

その後、宮司さん・総代長さんの御挨拶があり、


日枝神社​議長さんのご発声で古例に則ってお神酒をいただかれまし​た。


最初に一口つけて、お肴が入り、


全員で謡曲の「千秋楽」を合唱。


そのあと、すべてを飲みほして、千秋楽が終了しました。


全体には天候にも左右された一幕も有りましたが、大変い​い祭でした。

関係者の皆様には、大変お疲れさまでした。  

今日は取材がありました。

今日は、飛騨産業さんの顧客会員様向けの小冊子の取材を受けました。東京から、デザイナーさん、カメラマンさん、ライターさんのインタビューを受けました。


春の高山祭(山王祭)の祭運営のシステム(宮本)について、日枝神社副議長の長尾さんと共に、宮本のシステムについてお話しました。
自分でもびっくりするくらい、いろんなお話が飛び出しましたが、3時間しゃべりっぱなしでした。
改めて、高山祭の奥の深さに驚きましたし、長尾さんの話には、私も知らない話がいっぱいでした。

徳積善太