飛騨の歴史再発見! HOME

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冊子 飛騨の歴史再発見 9号~12号発行プロジェクト

現在、冊子 飛騨の歴史再発見9号~12号の制作を行っております。

新規会員を募集するため、FAAVOで募集を行っております。
ぜひ、飛騨の歴史について、詳しくお知りになりたい方はご支援をお願いいたします。

https://faavo.jp/hidatakayama/project/2818  

高山市公式youtubeチャンネルに出演しました

「高山祭」高山市公式Youtubeチャンネル  

I was introduced into the official Youtube Channel as a regional history researcher of Takayama Festival.
It is honor foe me to select as the reporter.


日本語版

https://www.youtube.com/watch?v=Io_KDzsFs6Y


英語版(English version)

https://www.youtube.com/watch?v=sRcyJ8DHyM8  

第4号発行!

少し遅れましたが、冊子 飛騨の歴史再発見 第4号を発刊しました。
平成21年(2009)1月5日88回放送〜6月22日111回放送分まで掲載してます。






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第3号発行

冊子 飛騨の歴史再発見!第3号を本日より発売します。
高山市内(田近書店、ブックスアイオー、ぜんな書房)でお求めください!

税込1300円です。





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お久しぶりです。

飛騨の歴史再発見のファンの方に朗報。
ヒッツFMが、海外でも聞けます。
サイマル放送が8月から開始します。

ぜひ、飛騨の歴史再発見!もお聞きください。
毎週土曜日午前1030からと午後700からの再放送です。
エリアが広がりますので、ますます精度を上げたいと思います。





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鍋山城に登ってきました

久しぶりの投稿です。

今日は、城郭研究家の先生の案内で鍋山城に初めて登ってきました。



知らなかったのですが、鍋山城は大鍋山=本丸、小鍋山=出丸、下鍋山=二之丸という3つの山に
分かれているんですね。

本丸の部分は結構広い場所で、ここにどんな館があったのか、歴史ロマンを語りました。



鍋山城の由緒について


本丸のところにある、鍋山城の碑。



上には立派な石垣があるのですが、大手から登った側にしか石垣はなく、これは急造した石垣で
あろうとのこと。
また、松倉城の石垣は、角のところが、大きな石→小さな石→大きな石と計画的に積まれているのに
対して、こちらのものは、まばらになっており、急造したことがわかるとのお話でした。

実は、このお城に住んでいた、三木自綱の弟 顕綱の命を狙ったのが、長瀬甚平と土川新左エ門という
2名です。書状にわざとわからない文字を書き入れており、その時にこれは何を書いてあるのだと尋ねた
殿様に、近くに行かないとわかりませんとのことで、おそば近くに立ち寄り、文字の説明を長瀬甚平が
していたところ、後ろから土川新左エ門が切りかかり、殿様の首を取ったそうです。

逃げるときに、半狂乱になった奥方が追いかけてきて、その首をはねたところ、大蛇になったという
伝説があります。これが、七夕岩の大綱の伝説として今に伝えられています。

この長瀬甚平は、我が家のご先祖様と伝わっています。


このところ、運動不足で、帰りには足がつってしまい、二之丸や出丸には行けませんでした。
体力作りが不可欠です。がんばります。

徳積善太





  

秋祭りの屋台が上町区域へ

今日は、高山市政80周年をお祝いして屋台の引き揃えがなされております。
秋祭りの布袋台が上町のエリアへ引きこまれました。





私が調査したところでは、昭和2年8月29日に秩父宮が来高された時に、春祭りと秋祭りの屋台が陣屋前に引き揃えられました。
その時以来、90年ぶりのことではないかと思いますが、定かではありません。






昭和30年台に秋祭りの屋台と春祭りの屋台が安川通りに引き揃えられたことは、何回もありました。
以前、『ふるさと飛騨』『飛騨の昭和』に書きました原稿を引用すると下記の通りです。



「昭和25年から昭和37年まで春秋二大祭りには屋台をお互いに曳きだそうという話が出た。昭和25年4月15日には高松宮ご観覧のため安川通りに曳き出された。
以下、春秋の屋台が安川通りに揃った年は、昭和26年4月、昭和28年4月、昭和29年4月・7月23日夕刻、昭和33年5月4日5日・9月、昭和34年4月9月、昭和35年4月、昭和37年4月9月であった。昭和39年には秋祭りが二つに分裂し、春秋に分れて屋台が曳き出された。昭和40年には国体協賛で10月26日に。昭和41年には春祭り14・15日、八幡祭り16・17日となり昭和43年以降は現在の形になった。写真は、昭和37年の春のものと思われる。左側が秋の神楽台、行神台、鳩峰車、右側が崑崗台(春)などが見られる。」「郡代に拝謁した」という記録を元に、150年ぶりというお話になっているようです。その頃は、桜山八幡祭の時に、拝謁するために陣屋前に屋台が引き揃えられたとのこと。
その時は、別々のはずです。

ところが、考えてみれば、「石橋台」のからくりは明治時代に風紀上の関係から禁止され、永らく上演されていませんでした。

そう考えると、高山のからくり屋台が4台揃うというのは、史上初ではないでしょうか。


ながせきみあき
  

飛騨学の会講演会

今日は飛騨学の会の講演会がありました。
斐太紀14号執筆者への質問コーナーがあると思い、参加しましたが、時間が足らず、そのコーナーはなくなりました。

3人の方の講演がありました。
堀尾雄二先生の「闘鶏楽の歴史」では、文永文禄の役に金森軍が800人で参加しましたが、その時に、九州に伝来していた、朝鮮の踊りを、飛騨に伝承したのではとのこと。九州に飛騨の闘鶏楽と同じ服装や踊りが伝わっていることを、ビデオを見せて証明されました。

本永先生の「大野郡と吉城郡の富山県併合問題」では、大正3年に富山市で大水害がおき、毎年被害が甚大なので、神通川の上流の大野郡と吉城郡を富山県にして、河川改修や治山を行いたいと富山県が動いた話でした。
なかなか面白かったです。

最後は、静岡県の黒柳大造さんが、飛騨出身の作家に共通するビルドゥングスロマンについてお話しされました。
これは、若者の精神的な成長を描くという共通性があるが、それがどうしてこの飛騨出身の作家に共通するのかというお話でした。

なかなか勉強になりましたが、時間が足らなくなり、執筆者コーナーがなくなったのは残念でした。





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「飛騨の歴史再発見!」冊子発行について

皆様にはいつもこのブログをご愛顧くださり、ありがとうございます。

さて、放送も平成28年3月を持ちまして430回の放送を数えるまでになりました。
これもひとえに、応援していただいている皆様のお陰だと感謝申し上げます。

300回を越えた時に、放送で皆様にお約束いたしましたが、ようやく冊子を発行することに致しました。


つきましては、FAAVOというファンドシステムにて、募集をいたしますので、ぜひご協力を頂きたいと
思います。
下記をクリックして頂き、5000円、10000円、20000円の中から、ご支援金額を選択してください。

FAAVO申し込みはこちら


これからも、飛騨の歴史再発見!を続けていけますよう、皆様のご協力をお願い申し上げます。


徳積善太 こと 長瀬公昭