2008年11月01日
古川の増島城の全容
今回、金森展で展示させていただきましたが、古川の増島城は、このような配置になっています。

増島城の城跡は、ご存知の通り古川小学校のグランドにあたりますが、平成に入ってから、
数々の調査がなされてきました。
今回、展示にあたり、次のような写真を展示しました。トレンチといって、全体の地図から掘る場所を
割り出し、その場所を部分的に掘る方法が取られました。



トレンチ調査を行ったところ、グランドの下から古い石垣が現れました。
現在は、埋め戻して、元のグランドに戻っていますが、今でもグランドの下にはお城の遺構が
ちゃんと残っています。
今度、古川小学校が建て替えられるそうですが、こういった遺構を残すようにして、次世代に
継承したいものですね。
徳積善太
増島城の城跡は、ご存知の通り古川小学校のグランドにあたりますが、平成に入ってから、
数々の調査がなされてきました。
今回、展示にあたり、次のような写真を展示しました。トレンチといって、全体の地図から掘る場所を
割り出し、その場所を部分的に掘る方法が取られました。



トレンチ調査を行ったところ、グランドの下から古い石垣が現れました。
現在は、埋め戻して、元のグランドに戻っていますが、今でもグランドの下にはお城の遺構が
ちゃんと残っています。
今度、古川小学校が建て替えられるそうですが、こういった遺構を残すようにして、次世代に
継承したいものですね。
徳積善太
2008年10月31日
大坂冬の陣で戦った、金森軍と金森軍

金森展も終わって、すでに1ヶ月以上がたちます。
今回の飛騨市での金森展で展示しました「大坂冬の陣 陣配置図」をご覧いただきましたでしょうか。
この陣図には、金森出雲守(可重)の名前のほかに、金森掃部介可憲と金森主殿義隆という2人の人の
名前を見ることができます。
この方々が、どういう人なのか。系図によると金森長近の兄の子供になるようです。

それについて、金森展では、このような展示をいたしました。

さて、それから、あちこちの資料を調べて、この2人について調べてみましたが、確証となる証拠が
見つかりません。子孫と思われる人の資料は、加賀藩、尾張藩からそれぞれ見つけました。
どなたかご存じないでしょうか?
徳積善太
2008年10月30日
天保13年治水の古地図
少し、以前のお話ですが、金森展の資料を調査中に古地図を発見しました。
古川のK家に保管されていたもので、天保13年の治水の時の古地図でした。
この地図には、「天保13年寅年写 古川上北町尻〆切堰絵図 小島屋与三兵衛扣(ひかえ)」
となっています。
天保7年から13年にかけての飛騨は、天災が続き、それはそれはたいへんな時期でした。
金森史から抜き出してみても、下記のような状況です。
天保7年(1836)
1/18偽金の使用取締り、くじの売買禁止
5月この頃雨多く6月土用に入っても止まず。気温降下して老幼綿入れを着る。諸作不熟。栗栃の実まで熟さず。
9/3米価高値につき酒造高三分の2を減石させる。
11/23米価高値につき、酒造高を減らさせ売出樽数も制限。
12/22酒造高を4分の1に。
冬、山中村々の窮民、乞食のため高山町へ入り来るもの千人内外あり。飢寒によって餓死するもの相次ぐ。
浅井屋善右衛門は自費を投じて小屋を建てて雨風をしのぐに使わせ、市中の裕福な人々は粥を煮て与えるが力及ばず。
天保8年(1837)
春 餓死者続出
5月下旬疫病流行し、餓死者、疫死者相次ぎ、野にも里にも屍骸横たわる。 6月高山町民に倹約を守らせ風俗を取り締まる。
7/19貫名海屋飛騨に遊び、国分寺を訪れる。(翌年まで滞留)
11月上旬小作人小作米減免の強訴を企てる。
11月越前の飛騨天領にて大井郡代の検見寛大の取り計らいに碑文を大秀に依頼。
天保9年(1838)
2月高山の家数1674軒。人別9094人。
4/26南方元伐材を西の丸復旧用材として切り出し
4月杉・檜の板物を江戸に送る
5/10諸道具に金銀の装飾を禁止し、金銀を用いた品物の仕入れ売買を停止する。
7月高山町餓死者の碑を照蓮寺北ケ洞に葬り碑を立てる。
8/27江戸西の丸用檜の大材を乗政・大野から江戸へ
秋諸作不熟。再び飢饉状態に。
西の丸普請に献上金532両。
天保10年(1839)
4月飛州洪水古川町の被害最も多く、二軒茶屋地蔵堂決壊して川筋が東へ5,60間寄る。
10月豊田郡代赴任。厳しい倹約令
天保11年(1840)
8月凶年手当てを徴収し、米を貯蔵。百石五粒法制定し飢饉の対策。
天保12年(1841)
1/12将軍逝去により普請鳴り物を禁止。三人以上の会合や仏前読経も発生なしを通知。
5月飛州洪水。古川町の中北堤防崩れる。随行の地役人山崎弘泰は紀行を草して「御供の日記」と名づける。
益田川筋の被害は更に甚大。
6/28大倹約令発布。
8月益田郡に植林令。42200本。
9月贋金造りの一之町善助を磔、使用の三之町啓右衛門を死罪に。
9月高根小坂の24日村に植林令52000本。
11/24無料診断施薬で窮民。百石五粒の法にて高山に郷倉、1451.2695石を買入れ。
天保13年(1842)
2月赤田教諭所に郡代が参拝。
2/8糸挽女の出稼ぎ禁止。春、谷屋九兵衛復旧工費として1457両余を無利息貸し出し。
5月冬頭村で「食事三度以外もちうべからざる」の倹約書。
6月郡代妻、陣屋で養蚕の試験。
8月歌舞伎の禁止。
9月花火の禁止。
11月小作減免強訴の9人逮捕。
上記のように、天保10年と12年の2度にわたる河川の決壊で、古川は甚大な被害を被り、
旦那衆がお金を出し合って、その復旧工事を行ったものと思われます。
この絵図には、一枚の紙が貼ってあり、本図のほうには、治水工事完了後の絵図。
上から貼った紙には、決壊箇所が詳しく記されており、
当時の土木工事の技術の高さと、たくさんの人によってこういった工事が行われたことを
物語っています。
(この資料は、古川町史にも掲載されている資料だと思われます)
徳積善太
2008年10月29日
増島城を壊したのは誰か?

元禄8年、幕府は加賀藩に命じて、高山城の破却を命じました。
では、旅館となっていた、増島城、諏訪城(萩原)、下原旅館は誰が壊したのでしょうか。
おそらく、同じく加賀藩が破却したものと思われます。
それに関する記述あるいは日記などが、加賀藩=石川県に存在していないかと思い、いま調査中です。
以前、地元の歴史研究家 大野政雄先生が、金沢大学に赴かれ、調査されたとのお話を伺ったことが
あります。しかし、のべ5回ともいわれる加賀藩のお城番に関して、資料が全く見つからなかった事。
地元には、盆踊りの飛騨やんさに「お城番 こたえかねたよ加賀の衆が」という歌で伝わっている程度で、
破却に関する資料が全く存在しない事。などから、お城の全体の規模、破却状況、費用、その他について
一切、不明の状況です。増島城に関しても、「高山城と同時期に破却されたと思われる」だけで、その史実
につきましては、一切不明です。
そのため、増島城の全容を解明する意味でも、幕府から破却命令を出され、城の一切を壊す段取りをした
加賀藩の資料や、そういったことを記した日記などがそちらに存在しないかと思っています。
手元にある「飛騨編年史要」(編)(岡村利彦著)・飛騨大野郡史(郡)・高山市史に拠れば、高山城の破却に
関しては、次のようになっております。
元禄5年(1692)壬申 7月28日 金森頼とき、出羽上山へ移封される。
8月22日 金沢藩主松平加賀守綱紀、高山城在番を命じられる(郡、編)
※金沢藩の在番は元禄5年10月2日から同8年の2月12日までの五交替で
中止となり、同年4月22日から破却総奉行 奥村市右衛門によって破却が
始り、6月15日に終了(高山市史)
8月29日 高山城下の状況を金沢藩に報ず(郡)
9月12日 頼とき、書を左京近供へ送り、素玄寺・大隆寺両寺にある歴代遺骨は
京都金龍院へ移し、寺坊は破却しないように告げる。(編)
10月朔日 目付浅野伊左衛門高山へ着し、金森家給人の城下引払期限を城引渡日
から三十日と定め、これを掲示す。(編・郡)
10月3日 金森兵庫・森四郎右衛門ら、高山城地その他を伊奈半十郎へ引渡し、
永井織部入城して警備に就く(編・郡)
元禄八年(1695)乙亥 1月12日 幕府、高山城の破却を金沢藩へ命ず(郡)
(編年史要には、2月13日とある)
2月24日 高山城破却に要する諸道具並びに人足を見積る(郡)
4月22日 伊奈代官、金森向屋敷を高山陣屋と改め、ここで政務を見る。(郡)
(編年史要には、元禄五年十月とある)
4月 金森左京屋敷を破却(高山市史)
数多くの資料を見ても、高山にとっては一大事であった、高山城の破却や、古川増島城の破却といった
事実が、これだけの文章に閉じ込められ、その詳細についての一切が不明という状況になっているのが
現状です。
どなたか、ご存じないでしょうか?
徳積善太
2008年10月28日
高山別院の旅行13_九頭竜湖
皆さん、ご存知でした?
九頭竜湖のつり橋は、日本で一番古い、本格的近代建築のつり橋だそうです。
瀬戸内の大橋が作られる前に、テストで作られ、これをきっかけに、瀬戸内海の大橋が
つくられたそうです。
バスガイドさんが言っておられました。
徳積善太
2008年10月27日
10月27日放送分_南方山と北方山
(10月27日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。
もう10月も半ばをすぎました。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズン
として、毎日、たくさんのお客さんで賑っていますね。紅葉情報は、このヒッツFMでもお知らせ
していますので、どうぞ参考になさってください。
さて、この放送ですが、毎週月曜日の夜7時半からの放送と、土曜日の午前10時半からの
再放送でお届けしています。毎回お知らせしておりますが、今までの放送内容につきましては、
ひだっちブログの方へ掲載しておりますので、バックナンバーをご覧になりたい方は、ひだっち
ブログで、「飛騨の歴史再発見」と検索してください。放送していない内容などもお知らせして
おりますので、一度、ご覧いただければと思います。
さて、今日は、第4週ですので、運材のお話をしたいと思います。飛騨の山奥からどうやって
材木を運んだかについては、いままでシリーズでお話してまいりました。運材図会や官材画譜
草稿という本をもとにして、どのように木が運ばれていったか、いままでお話してまいりました。
先月の放送で、飛騨川を例にとって、高根から小坂を流し、中山七里を通って、下原の綱場で
改められ、下麻生に流し、そこで筏を組んで、最終的に名古屋の白鳥湊へと運ばれていった
経緯について、簡単にかいつまんでお話してまいりました。
飛騨は分水嶺によってわけられています。たとえば宮峠の上で、コップの水を流すと、下呂方面に
向かって水を流せば、その水は益田川を通って、飛騨川の流れとなり、その流れは木曽川に通じて、
伊勢湾へと注ぎます。
一方で、高山方面に向かって水を流すと、その水は、宮川の流れとなり、神通川に通じて、富山湾
=日本海側へと注ぎます。そういった場所が、一般に分水嶺と呼ばれていますね。

木地谷渓谷(高原川の支流の一部)
江戸時代には、木を伐って運ぶ方法にはもっぱら川が使われていましたので、分水嶺によって伐る
場所を区別していました。分水嶺から北側を北方山。南を南方山と呼んでいました。日本全国を見
ても、このように分水嶺によって国を二分するところは、飛騨と信州くらいしかありませんでした。
信州でも塩尻と松本の間には、分水嶺があって、飯田のほうへ流れていく川=天龍川と、北の
千曲川を通って信濃川に流れる川と2種類がありますよね。
さて、南方山のお話は、先月までお話していたお話が、南方山を中心にしたお話でしたので、今日は
北方山のお話を中心にしたいと思います。
北方山の川は、2つのルートがあります。一つは、宮川や川上川、高原川が神通川へと下り、富山湾へ
と注ぐルート。そして、もう一つは、白川郷のほう。荘川に水源を発して、庄川を下り、富山湾(高岡市・
新湊市)へと注ぐルートがありました。この場所を通って、先のルートでは、富山湾の黒崎港。後の
ルートでは、富山湾の伏木港へと材木が運ばれ、全国の需要地へと木材が運ばれていきました。
運材に関しては、いつごろから川を利用したことがなされていたのかは、文献資料に乏しく、詳しい事は
わかりませんが、古くは両面宿難の時代から、飛騨の匠たちがこういった川利用の運材方法に長けて
いた事から、「飛騨の匠」として、有名になったとするお話があります。それが事実だとすると、4~5世紀
の話ですから、1600年も前の話だということになります。
史実のわかっている所で、お話しますと、一番古い記録が、永享四年(1432)の記録に、幕府から飛騨
守護 京極持光あてに、「三間御厨部材木」の奉書が出されています。また、その15年後の文安4年
(1447)に、南禅寺造営の為のヒノキの用材を運んでいます。この記録は、南方山を使って木を切り出した
ものであろうことが、史料によってわかります。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ビリーバンバン 白いブランコ」をお届けします。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、北方山と南方山の運材のお話をしております。
北方山の史料でわかっている一番古いお話は、文禄3年(1594)6月に前田利家が庄川上流からの
流木を庄金屋(現在の高岡市)で上げるように命じているお話が一番古い史実です。どちらかというと、
記録から類推すると、南方山の材木は、京都や江戸の資材として。北方山の材木は、主に富山藩や
加賀藩の調達木として使われていた傾向があったようです。
昨年調査していて発見したのは、金森家のお殿様が、井波の瑞泉寺の造営に対して、材木の伐りだし
を許可し、1万本ものヒノキが切り出されて、本堂造営に使われたというお話です。おそらく、3代重頼公か、
4代頼直公の頃のお話だと思われますが、1万本というと、川を埋め尽くすくらいの量だったでしょうね。

瑞泉寺本堂(南砺市井波町)
金森氏の時代には、ある程度山が管理されて伐り出しが行われていたようですが、元禄5年(1692)に
幕府の直轄地となり、森林開発に全国をまたにかけた大商人の力が入るようになりました。彼らは
元禄8年に、本格的に南方山や高原郷での伐採を始め、宝永2年(1705)には、大乱伐を行います。
結果的に、山に木がなくなってしまい、明和8年(1771)には、留め山といって、木の伐り出しをやめる
ことになりました。昨年、匠学会で発表した小冊子にグラフを掲載しましたが、南方山と北方山で伐り
だされた材木の量を塗り替えた場合、享保20年(1735)より本格的に北方山での伐採が始り、留め山に
なる頃には、北方山の方が伐採量が多かった事がわかりました。
さて、北方山で江戸まで運んだ場合と、南方山で江戸まで運んだ場合とどのくらいの違いがある
でしょうか。
これについては史料が乏しいのですが、明和2年の数字があります。このとき南方では5567本、
北方では7470本の木材が伐りだされました。北方の場合は、先ほど申上げた、黒崎の湊で荷揚げし、
船に積み込んで、遠く下関を廻り、瀬戸内海を通って、大坂に運び。そこから更に、紀伊半島を回って、
江戸へ運びます。距離的に考えても、時間的に考えても、相当な距離と時間をかけて運んだ事が
考えられます。
最終的に、川下げ賃や海上運送費などを含めて計算すると、南方山で運んだ場合が、970両余。
北方山のものを運んだ場合が、3773両余という計算になりました。これを一本辺りで計算すると、
南方山が1.7分余。北方山が5分余という数字になりますから、実に3倍もの運賃をかけて運んで
いた計算になります。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がありますが、それほど江戸では大火が絶えませんでした。
手元にある、江戸の大火の資料によると、江戸の八百野町が燃えた「振袖火事」を始めとして、500軒
以上も焼けた火事が20回以上あったようですから、たいへんな数の材木が全国のあちらこちらで伐られ、
江戸へとはこばれたものと思われます。
したがって、江戸での木の需要に合せて、南方山(太平洋側の)木を伐りつくしてしまってからは、
今度は、北方山(日本海側)の木を、どれくらい費用をかけてでも、持ってこないと、江戸の町が再興
しない。おそらく、当時の町奉行は、材木の確保に必死だったことでしょうね。
飛騨には、この江戸の需要を見込んで、大もうけした大商人がいました。それは、高山の田中半十郎
英積という人と、飛騨(下呂)から出て現在の青森県、南部藩の大畑というところを拠点にして、蝦夷の
エゾマツなどを伐り出し、江戸に販売した、飛騨屋久兵衛という人でした。彼らは巨万の富をこの材木で
得て、一時は大豪商として君臨したということも、お伝えしておきます。現在、田中半十郎については
高山市郷土館で特別展示が行われています。皆さんも、展示物を一度ご覧になってください。
さて、本日も時間となりました。来週は、お祭りの舞奉納のお話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみに!
今日は、この曲でお別れです。曲は「薬師丸ひろ子 探偵物語」ではまた、来週!
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。
もう10月も半ばをすぎました。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズン
として、毎日、たくさんのお客さんで賑っていますね。紅葉情報は、このヒッツFMでもお知らせ
していますので、どうぞ参考になさってください。
さて、この放送ですが、毎週月曜日の夜7時半からの放送と、土曜日の午前10時半からの
再放送でお届けしています。毎回お知らせしておりますが、今までの放送内容につきましては、
ひだっちブログの方へ掲載しておりますので、バックナンバーをご覧になりたい方は、ひだっち
ブログで、「飛騨の歴史再発見」と検索してください。放送していない内容などもお知らせして
おりますので、一度、ご覧いただければと思います。
さて、今日は、第4週ですので、運材のお話をしたいと思います。飛騨の山奥からどうやって
材木を運んだかについては、いままでシリーズでお話してまいりました。運材図会や官材画譜
草稿という本をもとにして、どのように木が運ばれていったか、いままでお話してまいりました。
先月の放送で、飛騨川を例にとって、高根から小坂を流し、中山七里を通って、下原の綱場で
改められ、下麻生に流し、そこで筏を組んで、最終的に名古屋の白鳥湊へと運ばれていった
経緯について、簡単にかいつまんでお話してまいりました。
飛騨は分水嶺によってわけられています。たとえば宮峠の上で、コップの水を流すと、下呂方面に
向かって水を流せば、その水は益田川を通って、飛騨川の流れとなり、その流れは木曽川に通じて、
伊勢湾へと注ぎます。
一方で、高山方面に向かって水を流すと、その水は、宮川の流れとなり、神通川に通じて、富山湾
=日本海側へと注ぎます。そういった場所が、一般に分水嶺と呼ばれていますね。
木地谷渓谷(高原川の支流の一部)
江戸時代には、木を伐って運ぶ方法にはもっぱら川が使われていましたので、分水嶺によって伐る
場所を区別していました。分水嶺から北側を北方山。南を南方山と呼んでいました。日本全国を見
ても、このように分水嶺によって国を二分するところは、飛騨と信州くらいしかありませんでした。
信州でも塩尻と松本の間には、分水嶺があって、飯田のほうへ流れていく川=天龍川と、北の
千曲川を通って信濃川に流れる川と2種類がありますよね。
さて、南方山のお話は、先月までお話していたお話が、南方山を中心にしたお話でしたので、今日は
北方山のお話を中心にしたいと思います。
北方山の川は、2つのルートがあります。一つは、宮川や川上川、高原川が神通川へと下り、富山湾へ
と注ぐルート。そして、もう一つは、白川郷のほう。荘川に水源を発して、庄川を下り、富山湾(高岡市・
新湊市)へと注ぐルートがありました。この場所を通って、先のルートでは、富山湾の黒崎港。後の
ルートでは、富山湾の伏木港へと材木が運ばれ、全国の需要地へと木材が運ばれていきました。
運材に関しては、いつごろから川を利用したことがなされていたのかは、文献資料に乏しく、詳しい事は
わかりませんが、古くは両面宿難の時代から、飛騨の匠たちがこういった川利用の運材方法に長けて
いた事から、「飛騨の匠」として、有名になったとするお話があります。それが事実だとすると、4~5世紀
の話ですから、1600年も前の話だということになります。
史実のわかっている所で、お話しますと、一番古い記録が、永享四年(1432)の記録に、幕府から飛騨
守護 京極持光あてに、「三間御厨部材木」の奉書が出されています。また、その15年後の文安4年
(1447)に、南禅寺造営の為のヒノキの用材を運んでいます。この記録は、南方山を使って木を切り出した
ものであろうことが、史料によってわかります。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「ビリーバンバン 白いブランコ」をお届けします。
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今日の飛騨の歴史再発見は、北方山と南方山の運材のお話をしております。
北方山の史料でわかっている一番古いお話は、文禄3年(1594)6月に前田利家が庄川上流からの
流木を庄金屋(現在の高岡市)で上げるように命じているお話が一番古い史実です。どちらかというと、
記録から類推すると、南方山の材木は、京都や江戸の資材として。北方山の材木は、主に富山藩や
加賀藩の調達木として使われていた傾向があったようです。
昨年調査していて発見したのは、金森家のお殿様が、井波の瑞泉寺の造営に対して、材木の伐りだし
を許可し、1万本ものヒノキが切り出されて、本堂造営に使われたというお話です。おそらく、3代重頼公か、
4代頼直公の頃のお話だと思われますが、1万本というと、川を埋め尽くすくらいの量だったでしょうね。
瑞泉寺本堂(南砺市井波町)
金森氏の時代には、ある程度山が管理されて伐り出しが行われていたようですが、元禄5年(1692)に
幕府の直轄地となり、森林開発に全国をまたにかけた大商人の力が入るようになりました。彼らは
元禄8年に、本格的に南方山や高原郷での伐採を始め、宝永2年(1705)には、大乱伐を行います。
結果的に、山に木がなくなってしまい、明和8年(1771)には、留め山といって、木の伐り出しをやめる
ことになりました。昨年、匠学会で発表した小冊子にグラフを掲載しましたが、南方山と北方山で伐り
だされた材木の量を塗り替えた場合、享保20年(1735)より本格的に北方山での伐採が始り、留め山に
なる頃には、北方山の方が伐採量が多かった事がわかりました。
さて、北方山で江戸まで運んだ場合と、南方山で江戸まで運んだ場合とどのくらいの違いがある
でしょうか。
これについては史料が乏しいのですが、明和2年の数字があります。このとき南方では5567本、
北方では7470本の木材が伐りだされました。北方の場合は、先ほど申上げた、黒崎の湊で荷揚げし、
船に積み込んで、遠く下関を廻り、瀬戸内海を通って、大坂に運び。そこから更に、紀伊半島を回って、
江戸へ運びます。距離的に考えても、時間的に考えても、相当な距離と時間をかけて運んだ事が
考えられます。
最終的に、川下げ賃や海上運送費などを含めて計算すると、南方山で運んだ場合が、970両余。
北方山のものを運んだ場合が、3773両余という計算になりました。これを一本辺りで計算すると、
南方山が1.7分余。北方山が5分余という数字になりますから、実に3倍もの運賃をかけて運んで
いた計算になります。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がありますが、それほど江戸では大火が絶えませんでした。
手元にある、江戸の大火の資料によると、江戸の八百野町が燃えた「振袖火事」を始めとして、500軒
以上も焼けた火事が20回以上あったようですから、たいへんな数の材木が全国のあちらこちらで伐られ、
江戸へとはこばれたものと思われます。
したがって、江戸での木の需要に合せて、南方山(太平洋側の)木を伐りつくしてしまってからは、
今度は、北方山(日本海側)の木を、どれくらい費用をかけてでも、持ってこないと、江戸の町が再興
しない。おそらく、当時の町奉行は、材木の確保に必死だったことでしょうね。
飛騨には、この江戸の需要を見込んで、大もうけした大商人がいました。それは、高山の田中半十郎
英積という人と、飛騨(下呂)から出て現在の青森県、南部藩の大畑というところを拠点にして、蝦夷の
エゾマツなどを伐り出し、江戸に販売した、飛騨屋久兵衛という人でした。彼らは巨万の富をこの材木で
得て、一時は大豪商として君臨したということも、お伝えしておきます。現在、田中半十郎については
高山市郷土館で特別展示が行われています。皆さんも、展示物を一度ご覧になってください。
さて、本日も時間となりました。来週は、お祭りの舞奉納のお話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみに!
今日は、この曲でお別れです。曲は「薬師丸ひろ子 探偵物語」ではまた、来週!
徳積善太
2008年10月26日
高山別院の旅行12_長滝寺2
長滝寺の宝物館内部にあった、釈迦三尊像

誰も入らないので一人で行ってきましたが、見事な仏像が展示してありました。

国道をはさんで向側には、長滝寺の資料館がありました。

かつての長滝寺の鳥瞰図 ミニチュア模型。かなりたくさんの御坊があったようです。

白山の護符。
これと同じものを石徹白の石徹白家で見せていただいたことがあります。

木造のお面が特別展示してありました。
徳積善太
誰も入らないので一人で行ってきましたが、見事な仏像が展示してありました。
国道をはさんで向側には、長滝寺の資料館がありました。
かつての長滝寺の鳥瞰図 ミニチュア模型。かなりたくさんの御坊があったようです。
白山の護符。
これと同じものを石徹白の石徹白家で見せていただいたことがあります。
木造のお面が特別展示してありました。
徳積善太
2008年10月25日
高山別院の旅行11_長滝寺1
最終訪問地は、白鳥の長滝寺でした。
ここはかつて、泰澄大師が白山を開山されたときに、白山登山の入り口としてかつては大変な賑わいを
したところです。

ここは、お寺と神社が一緒になっており、お寺のほうは長滝寺(ながたきでら)、神社のほうはちょうりゅうじ
と呼ぶそうです。

長滝寺の看板。かつてはここにたくさんの御坊があった。



正面には、拝殿があり、後ろに回ると本殿があります。
かつてこの本殿は、室町期に飛騨の匠 藤原宗安が本殿を造立した記録がありますが、火災で焼けて
現在の本殿、拝殿は江戸時代に再建されたものです。

横にもお社があります。

左手には、長滝寺があり、こちらでは仏教のお勤めがなされています。

長滝寺の内部。

裏には、泉があり、この泉は白山頂上の千蛇ケ池という池から湧き出しているもので
昔から霊泉として語り継がれています。腹薬としても多くの人に親しまれているという。
この池は夏でも雪に覆われ、伝説によると昔泰澄大師が白山に住む千匹の毒蛇をこの
池に封じ込めて、万年雪で蓋をしたという伝説があります。
徳積善太
ここはかつて、泰澄大師が白山を開山されたときに、白山登山の入り口としてかつては大変な賑わいを
したところです。
ここは、お寺と神社が一緒になっており、お寺のほうは長滝寺(ながたきでら)、神社のほうはちょうりゅうじ
と呼ぶそうです。
長滝寺の看板。かつてはここにたくさんの御坊があった。
正面には、拝殿があり、後ろに回ると本殿があります。
かつてこの本殿は、室町期に飛騨の匠 藤原宗安が本殿を造立した記録がありますが、火災で焼けて
現在の本殿、拝殿は江戸時代に再建されたものです。
横にもお社があります。
左手には、長滝寺があり、こちらでは仏教のお勤めがなされています。
長滝寺の内部。
裏には、泉があり、この泉は白山頂上の千蛇ケ池という池から湧き出しているもので
昔から霊泉として語り継がれています。腹薬としても多くの人に親しまれているという。
この池は夏でも雪に覆われ、伝説によると昔泰澄大師が白山に住む千匹の毒蛇をこの
池に封じ込めて、万年雪で蓋をしたという伝説があります。
徳積善太
2008年10月24日
高山別院の旅行10_南宣寺
東本願寺の祖 教如上人が、秀吉から受難を受け、放浪をしているときに、天正9年から
10年にかけて一年近く滞在したのが、越前大野の南宣寺でした。

当時の領主は、金森長近。
このときに、長近が、教如を誘ったかどうかは定かではありませんが、このお寺にいたときに
おそらくうわさを聞きつけてあっていたのではと思います。

お寺のご住職から、今回の旅行についてのいきさつを伺う。
「まだ新人の頃、おまいりをさせてもらったとき、仏様の前に座って、お経を唱えているときに『どうして、
今日は鉦が鳴らないのだろう』とお経を唱えながら思っていると、、導師の方がこっちをみて
おられた。目配せをされたので、ふと横を見てみると、鉦が目の前にあることに気が付いた。
慌てて、鉦をならすようにさせていただいたことがあった。
目の前にあるのに、見えないものってあることがありますというお話の後に、自分のところにある宝物に
気づかず、東等寺さまに教えていただいた。今日は、初めて皆様に披露させていただきます。」とのこと。

南宣寺と教如上人のことについてお話される東等寺 竹田ご住職

親鸞聖人絵伝。 教如上人下付。 滞在のお礼に慶長になって下付されたもの。

金泥十字名号。 かなり古いもの。いつごろのものか不明。

顕如上人絵像 教如上人下付。 これも滞在のお礼に下付されたもの。

南宣寺由来記。 江戸末期に書かれたもの。

その由来記に、飛州高山の名が見える。
「天正八年之秋
教如上人飛州高山、御潜居、○○更○ヨリ越前石動白村に御越之後同穴馬八ケ村之内
半原村に御越年 天正九年之春 当寺入御 天正十年之春まで御逗留」
となっており、高山照蓮寺(当時は白川中野にあった)にお滞在になっていたことがわかります。
徳積善太
10年にかけて一年近く滞在したのが、越前大野の南宣寺でした。
当時の領主は、金森長近。
このときに、長近が、教如を誘ったかどうかは定かではありませんが、このお寺にいたときに
おそらくうわさを聞きつけてあっていたのではと思います。
お寺のご住職から、今回の旅行についてのいきさつを伺う。
「まだ新人の頃、おまいりをさせてもらったとき、仏様の前に座って、お経を唱えているときに『どうして、
今日は鉦が鳴らないのだろう』とお経を唱えながら思っていると、、導師の方がこっちをみて
おられた。目配せをされたので、ふと横を見てみると、鉦が目の前にあることに気が付いた。
慌てて、鉦をならすようにさせていただいたことがあった。
目の前にあるのに、見えないものってあることがありますというお話の後に、自分のところにある宝物に
気づかず、東等寺さまに教えていただいた。今日は、初めて皆様に披露させていただきます。」とのこと。
南宣寺と教如上人のことについてお話される東等寺 竹田ご住職
親鸞聖人絵伝。 教如上人下付。 滞在のお礼に慶長になって下付されたもの。
金泥十字名号。 かなり古いもの。いつごろのものか不明。
顕如上人絵像 教如上人下付。 これも滞在のお礼に下付されたもの。
南宣寺由来記。 江戸末期に書かれたもの。

その由来記に、飛州高山の名が見える。
「天正八年之秋
教如上人飛州高山、御潜居、○○更○ヨリ越前石動白村に御越之後同穴馬八ケ村之内
半原村に御越年 天正九年之春 当寺入御 天正十年之春まで御逗留」
となっており、高山照蓮寺(当時は白川中野にあった)にお滞在になっていたことがわかります。
徳積善太
2008年10月23日
高山別院の旅行9_朝倉資料館3
朝倉氏資料館には、一乗谷遺跡から発掘されたたくさんのものが展示されています。


香道をやられていたと思われる、香炉やお香の破片が出土しました。
青磁のもの、灰釉のものなどは、完全品で出土し、重要文化財となっています。

蝉の茶たんす 茶道具に使われたものを片付けておく茶たんす

天目茶碗 なかなかいい色をしています。(重要文化財)

仏花器、鉦などのものも出土しています。 (重要文化財)
「茶の湯は、戦乱で荒廃した京から足利義昭をはじめとして公家の右大臣三条公頼、
大納言飛鳥井雅綱、一乗兼良、高僧の大覚寺義俊、月舟、当代随一の漢学者で
儒学者でもあった清原宣賢、医書「八十一難経」を版木で出版した谷野一柏、連歌
師宗祇、宗長など多くの文化人を朝倉氏は庇護していたため、一乗谷にはたくさんの
京都の文化が流入しました。
朝倉文化と呼ばれるものは、これらの人々によって開花し、朝倉の武将達によって
深く育まれたものといえます。下の絵巻物にみられる座敷飾の花器、茶器、香炉なども
谷のいたるところから出土しており、茶の湯・生け花・聞香などの遊芸が当時の一乗谷
でいかに広汎でかつ高い水準に達していたかをしることができます。
さらに、すずりや水滴などの文房具の出土と共に、和歌や漢詩を書いた木片、「庭訓往来」
などの断簡もみられ、日常の余暇を楽しむ将棋の駒や、双六のさいころや駒石、小舟、
人形などの遊戯具の出土もみられ、当時の人々の遊芸に対する意欲を如実に伺い
知ることが出来ます。」
(展示物掲示板より)
徳積善太

香道をやられていたと思われる、香炉やお香の破片が出土しました。
青磁のもの、灰釉のものなどは、完全品で出土し、重要文化財となっています。
蝉の茶たんす 茶道具に使われたものを片付けておく茶たんす
天目茶碗 なかなかいい色をしています。(重要文化財)
仏花器、鉦などのものも出土しています。 (重要文化財)
「茶の湯は、戦乱で荒廃した京から足利義昭をはじめとして公家の右大臣三条公頼、
大納言飛鳥井雅綱、一乗兼良、高僧の大覚寺義俊、月舟、当代随一の漢学者で
儒学者でもあった清原宣賢、医書「八十一難経」を版木で出版した谷野一柏、連歌
師宗祇、宗長など多くの文化人を朝倉氏は庇護していたため、一乗谷にはたくさんの
京都の文化が流入しました。
朝倉文化と呼ばれるものは、これらの人々によって開花し、朝倉の武将達によって
深く育まれたものといえます。下の絵巻物にみられる座敷飾の花器、茶器、香炉なども
谷のいたるところから出土しており、茶の湯・生け花・聞香などの遊芸が当時の一乗谷
でいかに広汎でかつ高い水準に達していたかをしることができます。
さらに、すずりや水滴などの文房具の出土と共に、和歌や漢詩を書いた木片、「庭訓往来」
などの断簡もみられ、日常の余暇を楽しむ将棋の駒や、双六のさいころや駒石、小舟、
人形などの遊戯具の出土もみられ、当時の人々の遊芸に対する意欲を如実に伺い
知ることが出来ます。」
(展示物掲示板より)
徳積善太
2008年10月22日
高山別院の旅行8_朝倉氏資料館2
一乗谷朝倉氏遺跡資料館

一乗谷朝倉氏遺跡から発掘された出土品を展示する資料館。地図入りのパンフレットが入手できるので、遺跡巡りにも役立てたい。主な展示品は、朝倉氏の歩みが分かる古文書や武具、火縄銃、朝倉館の復元模型など。また、櫛やかんざし、食器などの日用品や、茶の湯で使われた青磁碗や天目茶碗、娯楽品の将棋の駒などからは、当時の暮らしぶりが偲ばれる。
一乗谷朝倉氏遺跡
福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、
東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の
山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる
天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。
また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を
抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。
さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と
連絡した。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、武家屋敷、
寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、城下町の主要部を形成していた。
朝倉氏の歴史

朝倉氏は但馬国養父軍(兵庫県養父市)出身の武士。南北朝時代に越前守護 斯波高経に従って
入国した。その後、越前北部に根拠地を築き、一乗谷に居城した。
初代朝倉孝景は、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返り、越前の支配権を獲得。この氏景と
ともに越前一国を平定した。
その後、3代貞景、4代孝景、5代義景と103年間に渡り、一乗谷は北陸の小京都として、政治・
文化の中心地として繁栄した。
永正3年(1506)加賀から一向一揆が侵攻したが3代貞景はこれを打ち破った。5代義景は、室町
幕府将軍 足利義昭を、安養寺の御所に迎え、庇護するなど平和な日々が続いた。
しかし、天正元年(1573)8月、織田信長と4年にわたって合戦を続け、朝倉氏は刀根坂の戦いで
敗れ、一乗谷も灰燼に帰した。
徳積善太

一乗谷朝倉氏遺跡から発掘された出土品を展示する資料館。地図入りのパンフレットが入手できるので、遺跡巡りにも役立てたい。主な展示品は、朝倉氏の歩みが分かる古文書や武具、火縄銃、朝倉館の復元模型など。また、櫛やかんざし、食器などの日用品や、茶の湯で使われた青磁碗や天目茶碗、娯楽品の将棋の駒などからは、当時の暮らしぶりが偲ばれる。
一乗谷朝倉氏遺跡
福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、
東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の
山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる
天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。
また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を
抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。
さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と
連絡した。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7kmの「城戸ノ内」に、朝倉館をはじめ、武家屋敷、
寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、城下町の主要部を形成していた。
朝倉氏の歴史

朝倉氏は但馬国養父軍(兵庫県養父市)出身の武士。南北朝時代に越前守護 斯波高経に従って
入国した。その後、越前北部に根拠地を築き、一乗谷に居城した。
初代朝倉孝景は、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返り、越前の支配権を獲得。この氏景と
ともに越前一国を平定した。
その後、3代貞景、4代孝景、5代義景と103年間に渡り、一乗谷は北陸の小京都として、政治・
文化の中心地として繁栄した。
永正3年(1506)加賀から一向一揆が侵攻したが3代貞景はこれを打ち破った。5代義景は、室町
幕府将軍 足利義昭を、安養寺の御所に迎え、庇護するなど平和な日々が続いた。
しかし、天正元年(1573)8月、織田信長と4年にわたって合戦を続け、朝倉氏は刀根坂の戦いで
敗れ、一乗谷も灰燼に帰した。
徳積善太
2008年10月21日
高山別院の旅行7_朝倉氏資料館1
朝倉氏の一乗谷の遺跡跡の次は、朝倉氏の資料館にお邪魔しました。
一乗谷の場所は、福井市と大野市の間の少し南にあたります。

朝倉氏城館の地図

朝倉氏一乗谷にあった、居館のミニチュア模型

朝倉孝景(初代)画像 複製 重要文化財 原品は心月院蔵

朝倉義景(五代)画像 複製 重要文化財 原品は心月院蔵

永正三年 一向一揆との合戦・布陣図
朝倉氏は、越前の一向一揆とたびたび合戦を繰り返しました。
80年以上にもわたって、一向一揆との戦いを越前で繰り広げたことになります。
徳積善太
一乗谷の場所は、福井市と大野市の間の少し南にあたります。
朝倉氏城館の地図
朝倉氏一乗谷にあった、居館のミニチュア模型
朝倉孝景(初代)画像 複製 重要文化財 原品は心月院蔵
朝倉義景(五代)画像 複製 重要文化財 原品は心月院蔵
永正三年 一向一揆との合戦・布陣図
朝倉氏は、越前の一向一揆とたびたび合戦を繰り返しました。
80年以上にもわたって、一向一揆との戦いを越前で繰り広げたことになります。
徳積善太
2008年10月20日
10月20日放送分_伏見城下での金森家
(10月20日放送分)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。
もう10月も半ばになりました。ついこの前、あんなに暑かった夏だったのに、気がついて
みたら随分涼しくなりましたね。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズン
として、毎日、たくさんのお客さんで賑うといいですね。
さて、放送の前にお詫びを申上げたいと思います。実は、先々週の放送で、八幡祭りの屋台が
今年も10台しか出なくて、来年から11台揃うようなお話をしましたが、残念ながら、来年も10台の
屋台しか見ることができません。八幡祭りの鳳凰台は、3年間の修理に入っているらしくて、
昨年から来年に掛けての話だそうです。お詫びして訂正させていただきます。私も、充分に
お調べしてお話しているつもりですが、ときどき、こういう間違った情報をお伝えする事もあろうか
と思います。そのときは、ぜひともお知らせいただきますようにお願い申上げます。
さて、今日は、第三週ですので、古川のお話をしたいと思います。先週予告しましたのは、
金森家についてのお話ですが、先月、9月1日から24日まで、飛騨市美術館のほうで、
「金森家とまちづくり」展を開催しました。皆さんご覧いただきましたでしょうか?
お陰さまで、連日、たくさんのお客様にご覧いただいたようですが、遠くは名古屋や、
金山などからもお客様に来ていただきました。関係者の1人として御礼を申上げます。
金森家のことについては、今までは、高山の金森顕彰会ですとか、飛騨歴史民俗学会です
とか、また個人の研究者の方によって検証されてきました。ただし、どちらかというと、高山の
金森家を中心にした検証が行われていましたので、金森長近の直系の方のことが中心だった
ように思います。今後、関ヶ原の合戦のときの動きですとか、大坂冬の陣・夏の陣での動き。
また、浄土真宗との複雑な関係など、血縁を含めて再検証をしていきたいと思っていますので、
よろしくお願いいたします。
ちょっとここで、先月、お話した内容を振り返って見ましょう。9月15日の放送分では、増島城が
築城されたときのお話をさせていただきました。江戸時代に書かれた「飛州史」という本に記述
されている増島城の場所や掘割がどのようになされていたかについて、お話しました。
また、願生寺由来記という本をご紹介し、増島城が作られたときの物語をお話しました。

願生寺由来記
また、9月22日の放送では、高山の城主だった金森長近という人がどのような家に出生したのか。
そして、2代目の高山城主となる金森可重という人を養子にするのですが、彼とはどんな関係が
あったのかについて、お話しました。私も今まで知らなかったのですが、長近が、幼少のときに
大畑可近といったのですが、金森を名乗る前に、垂井にいた長屋氏に助けられて、頼った事が
あったこと。後に長屋氏が板取の城主だったときに、信長に攻められて、人質として可重(喜蔵丸)
を信長に出し、その養育係だったのが長近だったということを知りました。
当時は、三木自綱に代表されるように、親子・兄弟といえども信用できない時代だったということを
考えると、逆に命の恩人などという関係を大事にしていたということには、大変驚きました。
さて、本日のお話ですが、今日は、当時の金森家がどのような状況だったのかという事をお話したい
と思います。
まず、飛騨平定後の金森長近ですが、彼は、豊臣秀吉のお話衆として、ほとんどを秀吉のそばで
暮らしました。したがって、飛騨を平定したとはいえ、彼の任務は、お話衆としての任務が殆んど
でしたから、生活の拠点は京都の伏見にあったと思われます。

伏見の城下図を見ますと、金森長近(いや、このときは、剃髪して法印を名乗っていました)が、
法印の屋敷は、伏見城の二ノ丸のすぐ外側にありました。

この場所は、他の武将達と一緒に肩を並べる形で屋敷を持っていたわけですが、ご近所さんで
有名な方をちょっとご紹介しましょう。

屋敷の少し南には、松平駿河の守=徳川家康。その隣に島津右馬頭、北には、福島政則。すぐ近所には、
茶の湯の古田織部などが名前を連ねていました。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「川島英吾で 酒と泪と男と女」をお届けします。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、金森家のお話をしております。
当時、徳川家康は、ご内府様と呼ばれて、その地位は、相当高い、豊臣の次くらいの位置を占めて
いましたから、金森長近の屋敷がそのすぐそばにあったということは、長近という武将も相当、信頼され
ていた1人であったということができます。
ここで、ちょっと京都東本願寺の創設だった、教如上人のお手紙の事をお話したいと思いますが、
岐阜県揖斐郡の光慶寺というところに伝わっている、教如上人が古田織部に宛てた手紙が現存して
います。

そこには、「茶の湯に誘われたお礼が述べられていますが、午前中に、古田織部のところへ
行って、午後から金法印(金森法印のこと)のところへ行ってお茶をご馳走になる(云々)」などと書かれ
ています。
東等寺の竹田ご住職がかねてからこの事に疑問を持っておられ、古田織部の家と金森法印の家とは
どのくらいはなれているのか、という疑問から、伏見城下の絵図を見て調べたところ、目と鼻の先である
ことがわかりました。距離がどのくらい離れていたのか、当時の地図では計りようがありませんが、当時
の道路幅が5mほどだったと仮定すると、道幅から推定して20mほどでしょうか。いずれにしても随分と
近いところに住まいがあったようです。
また、飛騨出身の歴史研究家、多賀秋五郎先生がお書きになった「飛騨史の研究」という本には、次の
ようなくだりがあります。「同じ客将でも常に家康が疑惑の眼を放さなかった福島政則の如きと、常に本陣
近くに居らせた長近の如きとでは、信用の程度に非常な差違がある。教如が新寺創立斡旋の労を長近に
懇望した事は、豊臣氏恩顧の多くの武将が只管家康の疑惑を恐れて居た際だけに、如何に長近が信用
され、又世間もかう見て居たか、家康と長近の関係を知る好史料であらう。」
いかに、金森長近という人が、豊臣秀吉や徳川家康に信用されていた人物であったか、うかがい知る
事ができます。高山城と古川城、私達のお城を築いたお殿様は、ものすごい人だったんですねえ。
さて、先ほどお話した伏見城下絵図には、あと2箇所、金森の屋敷跡と思わせる場所があります。
一つは、金森出雲守の屋敷跡。

そしてもう一つは、金森法印の屋敷跡です。

この金森出雲守屋敷跡と
いうのは、現在でも京都市伏見に「金森出雲町」という町名が存在する事が知られています。つまり、
金森出雲守、当時は金森可重の屋敷があった場所です。地図で見ると、先ほどお話した金森法印など
の屋敷の集団がある場所のお堀の外側にあたります。丁度、お城からすると南東の方角にあたりますが、
堀の外に鍵の手になった場所があります。そこに屋敷がありました。
この場所からすると、お城に入るための門前ということになりますから、防備の上では、門外を守る重要な
役目を負っていたものと思います。
最後に、金森法印屋敷跡ですが、これは、伏見城下の絵図を見ると、掲載されているものと掲載されて
いないものがあります。なぜかというと、お城の外側にあたる場所。つまり、城下の外に屋敷があったらし
いからです。したがって、城下の絵図としてみると、城下に含まれるか含まれないか、絵図の作者によって
そのコンセプトが分かれるところでしょうから、入っていないものもあるものと思われます。
ところで、この伏見城が築かれた頃というのは、秀吉の目は、遠く韓国に向けられていた時代でも
ありました。歴史の時間に習いましたよね、文禄の役と慶長の役。熊本の加藤清正が熊退治をした
話でも有名な2つの朝鮮征伐ですが、秀吉は全国統一を果してからでも、新たな敵を求めて、戦争を
繰り返していました。金森長近も可重も彼について、福岡県の名護屋というところに陣取っていたよう
ですから、実際にはこのような屋敷を伏見に持っていたとはいえ、あちこちの戦闘に借り出されて、
長期間滞在するという事はほとんどなかったようです。
さて、本日も時間となりました。来週は、南方山と北方山の運材のお話をしたいと思います。
どうぞ、お楽しみに!
今日は、この曲でお別れです。曲は「竹内まりあ シングルアゲイン」ではまた、来週!
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、長瀬公昭がお届けしてまいります。
もう10月も半ばになりました。ついこの前、あんなに暑かった夏だったのに、気がついて
みたら随分涼しくなりましたね。山々も紅葉しはじめていますし、これからは紅葉のシーズン
として、毎日、たくさんのお客さんで賑うといいですね。
さて、放送の前にお詫びを申上げたいと思います。実は、先々週の放送で、八幡祭りの屋台が
今年も10台しか出なくて、来年から11台揃うようなお話をしましたが、残念ながら、来年も10台の
屋台しか見ることができません。八幡祭りの鳳凰台は、3年間の修理に入っているらしくて、
昨年から来年に掛けての話だそうです。お詫びして訂正させていただきます。私も、充分に
お調べしてお話しているつもりですが、ときどき、こういう間違った情報をお伝えする事もあろうか
と思います。そのときは、ぜひともお知らせいただきますようにお願い申上げます。
さて、今日は、第三週ですので、古川のお話をしたいと思います。先週予告しましたのは、
金森家についてのお話ですが、先月、9月1日から24日まで、飛騨市美術館のほうで、
「金森家とまちづくり」展を開催しました。皆さんご覧いただきましたでしょうか?
お陰さまで、連日、たくさんのお客様にご覧いただいたようですが、遠くは名古屋や、
金山などからもお客様に来ていただきました。関係者の1人として御礼を申上げます。
金森家のことについては、今までは、高山の金森顕彰会ですとか、飛騨歴史民俗学会です
とか、また個人の研究者の方によって検証されてきました。ただし、どちらかというと、高山の
金森家を中心にした検証が行われていましたので、金森長近の直系の方のことが中心だった
ように思います。今後、関ヶ原の合戦のときの動きですとか、大坂冬の陣・夏の陣での動き。
また、浄土真宗との複雑な関係など、血縁を含めて再検証をしていきたいと思っていますので、
よろしくお願いいたします。
ちょっとここで、先月、お話した内容を振り返って見ましょう。9月15日の放送分では、増島城が
築城されたときのお話をさせていただきました。江戸時代に書かれた「飛州史」という本に記述
されている増島城の場所や掘割がどのようになされていたかについて、お話しました。
また、願生寺由来記という本をご紹介し、増島城が作られたときの物語をお話しました。

願生寺由来記
また、9月22日の放送では、高山の城主だった金森長近という人がどのような家に出生したのか。
そして、2代目の高山城主となる金森可重という人を養子にするのですが、彼とはどんな関係が
あったのかについて、お話しました。私も今まで知らなかったのですが、長近が、幼少のときに
大畑可近といったのですが、金森を名乗る前に、垂井にいた長屋氏に助けられて、頼った事が
あったこと。後に長屋氏が板取の城主だったときに、信長に攻められて、人質として可重(喜蔵丸)
を信長に出し、その養育係だったのが長近だったということを知りました。
当時は、三木自綱に代表されるように、親子・兄弟といえども信用できない時代だったということを
考えると、逆に命の恩人などという関係を大事にしていたということには、大変驚きました。
さて、本日のお話ですが、今日は、当時の金森家がどのような状況だったのかという事をお話したい
と思います。
まず、飛騨平定後の金森長近ですが、彼は、豊臣秀吉のお話衆として、ほとんどを秀吉のそばで
暮らしました。したがって、飛騨を平定したとはいえ、彼の任務は、お話衆としての任務が殆んど
でしたから、生活の拠点は京都の伏見にあったと思われます。

伏見の城下図を見ますと、金森長近(いや、このときは、剃髪して法印を名乗っていました)が、
法印の屋敷は、伏見城の二ノ丸のすぐ外側にありました。
この場所は、他の武将達と一緒に肩を並べる形で屋敷を持っていたわけですが、ご近所さんで
有名な方をちょっとご紹介しましょう。
屋敷の少し南には、松平駿河の守=徳川家康。その隣に島津右馬頭、北には、福島政則。すぐ近所には、
茶の湯の古田織部などが名前を連ねていました。
ちょっとここで、ブレイクしましょう。曲は「川島英吾で 酒と泪と男と女」をお届けします。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、金森家のお話をしております。
当時、徳川家康は、ご内府様と呼ばれて、その地位は、相当高い、豊臣の次くらいの位置を占めて
いましたから、金森長近の屋敷がそのすぐそばにあったということは、長近という武将も相当、信頼され
ていた1人であったということができます。
ここで、ちょっと京都東本願寺の創設だった、教如上人のお手紙の事をお話したいと思いますが、
岐阜県揖斐郡の光慶寺というところに伝わっている、教如上人が古田織部に宛てた手紙が現存して
います。

そこには、「茶の湯に誘われたお礼が述べられていますが、午前中に、古田織部のところへ
行って、午後から金法印(金森法印のこと)のところへ行ってお茶をご馳走になる(云々)」などと書かれ
ています。
東等寺の竹田ご住職がかねてからこの事に疑問を持っておられ、古田織部の家と金森法印の家とは
どのくらいはなれているのか、という疑問から、伏見城下の絵図を見て調べたところ、目と鼻の先である
ことがわかりました。距離がどのくらい離れていたのか、当時の地図では計りようがありませんが、当時
の道路幅が5mほどだったと仮定すると、道幅から推定して20mほどでしょうか。いずれにしても随分と
近いところに住まいがあったようです。
また、飛騨出身の歴史研究家、多賀秋五郎先生がお書きになった「飛騨史の研究」という本には、次の
ようなくだりがあります。「同じ客将でも常に家康が疑惑の眼を放さなかった福島政則の如きと、常に本陣
近くに居らせた長近の如きとでは、信用の程度に非常な差違がある。教如が新寺創立斡旋の労を長近に
懇望した事は、豊臣氏恩顧の多くの武将が只管家康の疑惑を恐れて居た際だけに、如何に長近が信用
され、又世間もかう見て居たか、家康と長近の関係を知る好史料であらう。」
いかに、金森長近という人が、豊臣秀吉や徳川家康に信用されていた人物であったか、うかがい知る
事ができます。高山城と古川城、私達のお城を築いたお殿様は、ものすごい人だったんですねえ。
さて、先ほどお話した伏見城下絵図には、あと2箇所、金森の屋敷跡と思わせる場所があります。
一つは、金森出雲守の屋敷跡。
そしてもう一つは、金森法印の屋敷跡です。
この金森出雲守屋敷跡と
いうのは、現在でも京都市伏見に「金森出雲町」という町名が存在する事が知られています。つまり、
金森出雲守、当時は金森可重の屋敷があった場所です。地図で見ると、先ほどお話した金森法印など
の屋敷の集団がある場所のお堀の外側にあたります。丁度、お城からすると南東の方角にあたりますが、
堀の外に鍵の手になった場所があります。そこに屋敷がありました。
この場所からすると、お城に入るための門前ということになりますから、防備の上では、門外を守る重要な
役目を負っていたものと思います。
最後に、金森法印屋敷跡ですが、これは、伏見城下の絵図を見ると、掲載されているものと掲載されて
いないものがあります。なぜかというと、お城の外側にあたる場所。つまり、城下の外に屋敷があったらし
いからです。したがって、城下の絵図としてみると、城下に含まれるか含まれないか、絵図の作者によって
そのコンセプトが分かれるところでしょうから、入っていないものもあるものと思われます。
ところで、この伏見城が築かれた頃というのは、秀吉の目は、遠く韓国に向けられていた時代でも
ありました。歴史の時間に習いましたよね、文禄の役と慶長の役。熊本の加藤清正が熊退治をした
話でも有名な2つの朝鮮征伐ですが、秀吉は全国統一を果してからでも、新たな敵を求めて、戦争を
繰り返していました。金森長近も可重も彼について、福岡県の名護屋というところに陣取っていたよう
ですから、実際にはこのような屋敷を伏見に持っていたとはいえ、あちこちの戦闘に借り出されて、
長期間滞在するという事はほとんどなかったようです。
さて、本日も時間となりました。来週は、南方山と北方山の運材のお話をしたいと思います。
どうぞ、お楽しみに!
今日は、この曲でお別れです。曲は「竹内まりあ シングルアゲイン」ではまた、来週!
徳積善太
2008年10月19日
高山別院の旅行6_朝倉氏一乗谷遺跡
宿に泊まった翌日は、一路、一乗谷へ向かいました。
一乗谷は、朝倉氏の居館が長い間あったところで、織田信長によって滅ぼされました。
それが有名な、一乗谷の戦いです。
その居館跡が発見され、町ごと保存されている史跡です。

よくパンフレットなどに掲載されている、唐門です。

室町時代の街並みが再現されています。

武家屋敷跡の内部。正確に建物が再現されています。

これは、将棋を打つ風景。これは、跡地から将棋の駒が発見され、その駒が現在の
将棋には無い駒であったために、朝倉駒と言われているものです。

朝倉義景公の墓所

朝倉氏の邸宅跡を上から見たところ。この建物だけを見ても非常に大きいことがわかります。

湯殿跡庭園 現在は水がありませんが、水を蓄えた立派な庭園だったようです。
徳積善太
一乗谷は、朝倉氏の居館が長い間あったところで、織田信長によって滅ぼされました。
それが有名な、一乗谷の戦いです。
その居館跡が発見され、町ごと保存されている史跡です。
よくパンフレットなどに掲載されている、唐門です。
室町時代の街並みが再現されています。
武家屋敷跡の内部。正確に建物が再現されています。
これは、将棋を打つ風景。これは、跡地から将棋の駒が発見され、その駒が現在の
将棋には無い駒であったために、朝倉駒と言われているものです。
朝倉義景公の墓所
朝倉氏の邸宅跡を上から見たところ。この建物だけを見ても非常に大きいことがわかります。
湯殿跡庭園 現在は水がありませんが、水を蓄えた立派な庭園だったようです。
徳積善太
2008年10月18日
古文書同好会
昨晩、校下の古文書同好会の勉強会がありました。
林先生のご指導で、「夢物語」の講義がありました。

初めて参加しましたが、とてもわかりやすく、ときどき脱線する話が結構面白いです。
さすがに、林先生は、大原騒動を中心に永年研究されているだけあって、いろんなことに
造詣が深く、いろんな話をうかがうことができました。
たとえば、「乍」という文字が入っていたら、必ずといっていいほど役所に提出する文書。
「乍恐=おそれながら」とかいう文章になっているはず。
「江戸時代に、高山陣屋では、地役人が政治を行っていた。江戸から派遣される人間だけでは
地元のことはわからなかった。代官と手代は江戸から派遣される人がほとんどだったが、地役人
は、金森の時代からずっと世襲制で役人をやっていた。したがって、地元に関してのエキスパート
が多かった。」
「賄賂は、当時は誰でもやっていたことであるが、松平氏はそれを厳格に取り締まった。
しかし、地役人をあまり逮捕してしまうと、高山の場合、政治が成り立たないので、一旦は
取り締まっても、そのあと許されて再度採用になることもあった。」
「郡上の宝暦騒動のときに処罰された人が、辞世の句を詠んだといわれているが、どれもが
内容的に似ているものが多く、あとから作られたものである可能性がある。高山の大原騒動
の場合は、どの句も、完成度がなかなか高く、農民でありながら、きっと京都等へ行って、
勉強していた人が多い。それだけ、飛騨の農民は文化的レベルも高かった。」
「傘連判状などを籠訴、越訴などで持って行ったと社会の教科書に書かれていたが、そんなものを
持って行くわけがない。それをやったらすぐに首謀者が誰かわかってしまう。当時は、罰せられる
といっても名主級の人が裁かれたのであって、農民が直接裁かれることはあまりなかったようだ。」
というような、裏話がたくさん聞けて、勉強になりました。
徳積善太
林先生のご指導で、「夢物語」の講義がありました。
初めて参加しましたが、とてもわかりやすく、ときどき脱線する話が結構面白いです。
さすがに、林先生は、大原騒動を中心に永年研究されているだけあって、いろんなことに
造詣が深く、いろんな話をうかがうことができました。
たとえば、「乍」という文字が入っていたら、必ずといっていいほど役所に提出する文書。
「乍恐=おそれながら」とかいう文章になっているはず。
「江戸時代に、高山陣屋では、地役人が政治を行っていた。江戸から派遣される人間だけでは
地元のことはわからなかった。代官と手代は江戸から派遣される人がほとんどだったが、地役人
は、金森の時代からずっと世襲制で役人をやっていた。したがって、地元に関してのエキスパート
が多かった。」
「賄賂は、当時は誰でもやっていたことであるが、松平氏はそれを厳格に取り締まった。
しかし、地役人をあまり逮捕してしまうと、高山の場合、政治が成り立たないので、一旦は
取り締まっても、そのあと許されて再度採用になることもあった。」
「郡上の宝暦騒動のときに処罰された人が、辞世の句を詠んだといわれているが、どれもが
内容的に似ているものが多く、あとから作られたものである可能性がある。高山の大原騒動
の場合は、どの句も、完成度がなかなか高く、農民でありながら、きっと京都等へ行って、
勉強していた人が多い。それだけ、飛騨の農民は文化的レベルも高かった。」
「傘連判状などを籠訴、越訴などで持って行ったと社会の教科書に書かれていたが、そんなものを
持って行くわけがない。それをやったらすぐに首謀者が誰かわかってしまう。当時は、罰せられる
といっても名主級の人が裁かれたのであって、農民が直接裁かれることはあまりなかったようだ。」
というような、裏話がたくさん聞けて、勉強になりました。
徳積善太
2008年10月17日
応龍台の絵図について
現在、高山市郷土館で展示されている、応龍台の絵図について、屋台雑考に次のような
記述がありましたので、参考までに引用いたします。
「組内に住んでいた小川貞太郎(後に浦町へ移住された)と押上森蔵(陸軍中将)の二人からの
話である。当時"応龍台"に乗ったことがあり、知っておられるのは、この二人しかなかった。
二人の話で作られたのが、現在山桜神社にある富田令禾氏の描かれた絵である。
この絵を見ながら小川老が車の話をされ、近衛は違うといわれた。
下段は丸窓で、中は唐草模様の金唐皮を張り、朱塗りの堅格子をいれ、外側は茶金砂子、
窓の上には鬼の顔のような憤怒形の彫刻を入れ、欄間は黒地に金の菱つなぎの彫り込みで
ある。中段の匂欄は黒塗りの緑に茶金砂子の青海波を崩し、緋羅紗の大幕を四面に巻き、
上部から四隅に緑幕を下げた。これは白地に金糸で花模様が刺繍してあった。欄間は
極彩色の応龍が八個入れてあり、四隅の応龍は木鼻となっていた。
上段の匂欄は朱塗りの蕨手刎匂欄(はねこうらん)、上段柱は朱塗りの角柱、天幕は紫地雲模様、
欄間は極彩色の波、四隅の木鼻からは紅玉を付けた瓔珞を吊っていた。屋根は、二重切破風、
妻は銀鏡に彩色の波、屋根裏は金地に龍の絵が描いてあった。」
となっています。
2008年10月16日
郷土館の特別展示_応龍台について
郷土館では、現在、特別展示が行われています。
その展示物は、いくつかに分けられていて、
1)富田家所蔵の品々
2)田中半十郎家の品々
3)街道に関する地図
となっています。
中でも富田家の物の中に、「応龍台」の掛軸がありました。

(応龍台組のちょうちん)
応龍台とは、本町2丁目の現在の馬頭組にあった屋台で、明治5年の大火のときに
押上家の前、筏橋のところに引き出されましたが、焼けてしまいました。
その模様は、山本茂美の「高山祭」という本に紹介されています。
建造は、文政年間に作られたものだそうですが、谷口与鹿、松田亮長、今村面平といった
当時の有名な彫刻師たちが関わった屋台として有名です。
応龍台の図面を見ると、どの部分に誰が携わったのか、よくわかりませんが、中段部分が
中国(清時代)の門のような形をしていて、非常に特徴があります。
また、富田家に伝わる、応龍台の屋根飾の応龍の模型や、富田家の屋台模型、屋台蔵
模型なども展示してあります。
皆さんも一度ご覧になるといいと思います。
(画像は撮影しておりますが、許可が要りますので、このブログには掲載しません。)
徳積善太
その展示物は、いくつかに分けられていて、
1)富田家所蔵の品々
2)田中半十郎家の品々
3)街道に関する地図
となっています。
中でも富田家の物の中に、「応龍台」の掛軸がありました。

(応龍台組のちょうちん)
応龍台とは、本町2丁目の現在の馬頭組にあった屋台で、明治5年の大火のときに
押上家の前、筏橋のところに引き出されましたが、焼けてしまいました。
その模様は、山本茂美の「高山祭」という本に紹介されています。
建造は、文政年間に作られたものだそうですが、谷口与鹿、松田亮長、今村面平といった
当時の有名な彫刻師たちが関わった屋台として有名です。
応龍台の図面を見ると、どの部分に誰が携わったのか、よくわかりませんが、中段部分が
中国(清時代)の門のような形をしていて、非常に特徴があります。
また、富田家に伝わる、応龍台の屋根飾の応龍の模型や、富田家の屋台模型、屋台蔵
模型なども展示してあります。
皆さんも一度ご覧になるといいと思います。
(画像は撮影しておりますが、許可が要りますので、このブログには掲載しません。)
徳積善太
2008年10月15日
高山別院の旅行5_五村別院
一路、長浜から国道を通り、かの有名な「姉川の戦い」の姉川を渡ると、そこには五村別院が
ありました。(本堂、表門などが国の重要文化財指定となっています。)
場所は、東浅井郡虎姫町大字五村というところです。


五村別院本堂 国の重要文化財。

本堂の上がり口。いかにも古い建造物という重厚感と格式がある。

本堂内部。柱は丸柱だが、正面鴨居が違い段になっており、古い形式である。

江戸時代に、寺としては珍しく、銅版の屋根となっていたため、豪商の寄進を受けている。
有名な方としては、西武鉄道社長の堤氏の先祖 堤孫兵衛や、池野財閥の前身 池野屋喜三郎、
三越の前身 越後屋与三郎などの名前が見える。銅版とはいえ、金も混ぜて作っていたらしい。

教如上人の廟。遺骨を分骨して納めてあるとのこと。

大変立派なご本尊。他の寺院のものよりも一回り大きな阿弥陀様がいらっしゃいました。

御内陣内部。格天井がさらに格天井になっていて金箔であったことと、柱の上の枡組が
内陣の内部にまで及んでいたことには驚きました。一般のお寺ではこのようなつくりには
なっていません。別院が
ありました。

この五村別院は、教如上人ゆかりのお寺で、文禄2年(1593)に豊臣秀吉により、本願寺12世の
職を解かれた教如上人が、慶長2年(1597)に大村刑部らによって迎えられたお寺です。


入って、すぐ左側のところに、略年賦と教如上人の銅像がありました。
教如上人の略年譜
永禄元年(1558) 本願寺11世顕如の長男として石山本願寺で誕生
元亀元年(1570) 織田信長と本願寺の間で石山合戦始まる。
天正8年(1580) 本願寺、信長と和睦。四月に顕如は紀州鷺宮へ退去。教如は徹底抗戦を主張し、
湖北三郡始め全国各地へ檄文を送る。しかし、8月ついに教如も本願寺を退去し、
各地を流浪する。(このとき、白川の照蓮寺に半年、越前大野の南宣寺1年滞在)
天正十年(1582) 本能寺の変で信長死す。父顕如と和解する。
文禄元年(1592) 顕如、今日と本願寺で急逝し、教如が本願寺十二世を継職。
文禄二年(1593) 豊臣秀吉、教如に隠居を明示、本願寺は弟 准如が継職。
慶長2年(1597) 大村刑部ら教如を向かえ、坊舎建立のための土地を寄進。「五村道場草創」
慶長4年(1599) 教如「正信偈・和讃」を開板する。
慶長5年(1600) 関東に徳川家康を見舞う。帰路、西軍方に追われ、美濃春日谷を越えて湖北に
逃れる。関ヶ原合戦終わる。
(この時、羽島の西方寺、安八の光顕寺に逃げ隠れ、土手組が教如上人をお守りしました)
慶長6年(1601) 「江州浅井郡坂田郡惣道場」宛に教如の寿像下付。
慶長7年(1602) 「五村御坊を再建」教如、家康より東六条の土地を得て東本願寺を創建。東西本願寺が
分立する。
慶長16年(1611) 宗祖親鸞聖人350回御遠忌を勤修す。
慶長19年(1614) 十月五日、教如示寂。享年57歳。

経蔵。回転式の経蔵になっており、これは国府の安国寺や古川の真宗寺にもあります。一回しすると
お経を1回読んだことになるといわれているもの。中にはお経がたくさん詰まっていました。

この山門も国の重要文化財です。

五村別院の太鼓楼

庫裏の天井部分。 姉川大地震(震度7)の時に、震源地に近かったにもかかわらず、倒壊を免れた
ということでしたが、天井部分を見ると、天井と柱が上から吊り下げられた構造になっていました。
大変珍しい作り方をしてありました。
徳積善太
ありました。(本堂、表門などが国の重要文化財指定となっています。)
場所は、東浅井郡虎姫町大字五村というところです。
五村別院本堂 国の重要文化財。
本堂の上がり口。いかにも古い建造物という重厚感と格式がある。
本堂内部。柱は丸柱だが、正面鴨居が違い段になっており、古い形式である。
江戸時代に、寺としては珍しく、銅版の屋根となっていたため、豪商の寄進を受けている。
有名な方としては、西武鉄道社長の堤氏の先祖 堤孫兵衛や、池野財閥の前身 池野屋喜三郎、
三越の前身 越後屋与三郎などの名前が見える。銅版とはいえ、金も混ぜて作っていたらしい。
教如上人の廟。遺骨を分骨して納めてあるとのこと。
大変立派なご本尊。他の寺院のものよりも一回り大きな阿弥陀様がいらっしゃいました。
御内陣内部。格天井がさらに格天井になっていて金箔であったことと、柱の上の枡組が
内陣の内部にまで及んでいたことには驚きました。一般のお寺ではこのようなつくりには
なっていません。別院が
ありました。
この五村別院は、教如上人ゆかりのお寺で、文禄2年(1593)に豊臣秀吉により、本願寺12世の
職を解かれた教如上人が、慶長2年(1597)に大村刑部らによって迎えられたお寺です。
入って、すぐ左側のところに、略年賦と教如上人の銅像がありました。
教如上人の略年譜
永禄元年(1558) 本願寺11世顕如の長男として石山本願寺で誕生
元亀元年(1570) 織田信長と本願寺の間で石山合戦始まる。
天正8年(1580) 本願寺、信長と和睦。四月に顕如は紀州鷺宮へ退去。教如は徹底抗戦を主張し、
湖北三郡始め全国各地へ檄文を送る。しかし、8月ついに教如も本願寺を退去し、
各地を流浪する。(このとき、白川の照蓮寺に半年、越前大野の南宣寺1年滞在)
天正十年(1582) 本能寺の変で信長死す。父顕如と和解する。
文禄元年(1592) 顕如、今日と本願寺で急逝し、教如が本願寺十二世を継職。
文禄二年(1593) 豊臣秀吉、教如に隠居を明示、本願寺は弟 准如が継職。
慶長2年(1597) 大村刑部ら教如を向かえ、坊舎建立のための土地を寄進。「五村道場草創」
慶長4年(1599) 教如「正信偈・和讃」を開板する。
慶長5年(1600) 関東に徳川家康を見舞う。帰路、西軍方に追われ、美濃春日谷を越えて湖北に
逃れる。関ヶ原合戦終わる。
(この時、羽島の西方寺、安八の光顕寺に逃げ隠れ、土手組が教如上人をお守りしました)
慶長6年(1601) 「江州浅井郡坂田郡惣道場」宛に教如の寿像下付。
慶長7年(1602) 「五村御坊を再建」教如、家康より東六条の土地を得て東本願寺を創建。東西本願寺が
分立する。
慶長16年(1611) 宗祖親鸞聖人350回御遠忌を勤修す。
慶長19年(1614) 十月五日、教如示寂。享年57歳。
経蔵。回転式の経蔵になっており、これは国府の安国寺や古川の真宗寺にもあります。一回しすると
お経を1回読んだことになるといわれているもの。中にはお経がたくさん詰まっていました。
この山門も国の重要文化財です。
五村別院の太鼓楼
庫裏の天井部分。 姉川大地震(震度7)の時に、震源地に近かったにもかかわらず、倒壊を免れた
ということでしたが、天井部分を見ると、天井と柱が上から吊り下げられた構造になっていました。
大変珍しい作り方をしてありました。
徳積善太
2008年10月14日
高山別院の旅行4_長浜の黒壁
今回の旅行は、『教如上人のゆかりを尋ねて』というテーマですので、次の場所は、五村別院に
行きましたが、その前に、大通寺の門前にある、長浜の黒壁街を歩きました。

昔ながらの建物が残る、長浜の町並み。

この町でも「うだつ」を見つけました。

旧商家の二階。そこには、何かのまじないか、小さな人形が飾られていました。

昔の旅館。屋根が低いのが特徴です。

昔の金物屋さんが、観光協会などの総合事務所になっています。

これが長浜の黒壁だっ! ガラス工芸館なんですね。

長浜には山車のお祭があり、これは高山のような屋台蔵だそうです。
徳積善太
行きましたが、その前に、大通寺の門前にある、長浜の黒壁街を歩きました。
昔ながらの建物が残る、長浜の町並み。
この町でも「うだつ」を見つけました。
旧商家の二階。そこには、何かのまじないか、小さな人形が飾られていました。
昔の旅館。屋根が低いのが特徴です。
昔の金物屋さんが、観光協会などの総合事務所になっています。
これが長浜の黒壁だっ! ガラス工芸館なんですね。
長浜には山車のお祭があり、これは高山のような屋台蔵だそうです。
徳積善太
2008年10月13日
10月13日放送分_錦山と錦山神社について2
<10月13日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、秋祭りも終りました。今年の祭りはいかがだったでしょうか?
数年前までは、10月10日が体育の日でしたから、必ず祝日で、高山も賑いましたが、ここ数年、
国民の祝日が変更になって、今までのお休みが変更になりましたから、今年は2日間とも平日
でした。秋祭りが平日でお休みでないというのは、春祭りの氏子の私にはちょっと信じられない
のですが、今年は、平日にしてはお客さんが多かったのではと思います。
さて、今日のお話に移りたいと思います。去る6月にミュージアムひだから、「飛騨の散歩道」
という本が発行されました。今回は、「山」についてということがテーマで各文化委員が執筆を
担当したのですが、実は私もそこの文化委員をさせていただいています。
今回私は、「錦山」について書かせていただきました。そのときに、大隆寺ですとか、錦山神社
ですとかいろいろな場所を取材したのですが、いろいろと知らない事がたくさんありました。
今日は、その取材ノートから、「錦山神社」について、先月の続きをお話したいと思います。

ちょっとここで、先月お話した内容を簡単に振り返って見ましょう。
錦山神社は、仏教が伝来した頃、聖徳太子の時代に活躍した、蘇我氏と物部氏という二つの
勢力がありました。その物部氏の代表、物部守屋という豪族の長が、蘇我氏によって亡ぼされ、
日本はそれまでの日本古来の八よろずの神様を信仰する宗教から、仏教による政治へと大きく
変革していきました。その一族が、遠く奈良の都から逃げてきて、飛騨に住むようになった。

そのため、先祖の霊をなぐさめるために物部守屋を主神として、祀った。これが、錦山神社の
起こりでした。江戸時代までは、守屋宮と呼ばれていて、明治時代の神仏分離によって、近くに
あった霊山 錦山にちなんで、錦山神社と名称を変更したという事でした。

また、この近くには、金森可重公が勧請した、錦山稲荷大明神があって、こちらでは、別当
修験宗 金剛院に命じて、天下太平、国家安全、五穀成就、蠶飼満足の祈り、春秋の御祭礼
を怠ることがないようにしたという内容のお話をしました。覚えておられるでしょうか?
さて、錦山は霊山となっておりますが、その歴史は確認できる部分では比較的浅く、昭和28年
ごろに正式に霊山となったそうです。ただし、金森公知行の時代に、水神様を頂上に安置した
伝承があり、これが本当だとすると霊山としての地位は、400年前にさかのぼります。
以下、新名藤助さんの孫娘 梅村ちづさんにお聞きした事や、御嶽教の元信者の末裔の方より
お聞きしたことをお話したいと思います。
現在の錦山は、誰も管理されていませんが、戦前に、新名藤助という御嶽教の信者の方がおられ、
その方が管理をされていました。彼は、先達の位を持っていた方でした。先達というのは、神様を
呼び起こすという役割の人で、神様が宿り人間の言葉で伝える人=神代(かみしろ)という方と2人
でペアになって神様のお告げを人間界の皆様にお伝えするということをやっておられました。
ある日、藤助は、「古川へ行って教えを広めるように」との神勅を受け、古川に御嶽教の教会を造り、
古川で教えを広めていました。
十数年後、歳も取ってきたし、高山で自分だけで御嶽教をやるつもりで、
高山に移り住みました。四畳半の小さな道場を高山の島川原町に造り、自分だけの道場を持った
そうです。以前、彼は製糸業をやっていた関係で、そのときの女工さんなどが集まり、熱心に修業を
行ったそうです。四畳半の道場では非常に狭いくらいの方が集まっていたそうです。
その頃は、近くの岩崎鶴次郎氏(岩崎建具)が神代の資格を持っていたので、2人で一緒に神様に
お伺いを立てていました。
ある日、神様から神勅が下り、「日輪社として勤めよ」との御触れがありました。これが日輪教会の
創始でした。
さて、このつづきは、後半にお話したいと思います。
ちょっとここでブレイク 曲をお届けしましょう。曲は「狩人で コスモス街道」
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
今日の飛騨歴史再発見は、錦山神社パート2と題してお届けしています。
藤助が高山に開いた協会は、お告げの通り、「日輪教会」という名前道場で、高山では4つ目の
道場でした。
昭和20年頃には、高山には、御嶽教の道場が3つありました。 一つは「光明教会」という教会。
二つ目はさんまち地区の人が中心に修業した「飛州教会」という道場。そして、3つめは、現在も
ございますが、七日町の不動様のところにある「飛騨教会」の3つがありました。
藤助は、錦山を霊山として、修業の場所として管理していました。しかし、道場主としては長続き
せず、昭和27年7月1日に逝去しました。 彼の死後、残された人達が錦山を霊山として管理
するようになったということです。
この山の頂上に登ると、少ししか見る事はできませんが、御嶽山を拝む事ができます。
どうやら藤助には、「錦山に登る事によって、御嶽山に登山して詣でたことと同じになる」という
お告げがあったらしいので、たくさんの信者の方が上るようになりました。一時は、年間に数千人
の方が登山を行ったそうです。私が子供の頃、東小学校では遠足の対象として、中学年の遠足を
行ったり、普段の遊びの山としてカブトムシを採りに行ったり、よく錦山には登ったものです。
参道がだんだん賑ってきたので、参道自体を整備する事になりました。当時は、この山の参道は
天照寺様の所有であったらしく、天照寺さまが所有されていたと言われる観音様があちこちに
点在していました。それを信者の方が数箇所にまとめて整備したそうです。それが、現在も参道の
ところどころに固めてある観音様だそうです。

これがいつごろの頃のものなのか、天照寺さまの所有物なのか、天照寺さまに確認したところ、
どうやら所有である事には間違いないらしいのですが、いつ頃からこの観音様の石仏があるのかは
解らないとの事でした。想像にすぎませんが、天正十四年に天照寺が現在地に建て替えられたとき、
その前身が、般若院といって修験僧のいた寺院だった可能性もあり、その頃のものかもしれないとの
和尚様のお話でした。
また、麓には、神力不動明王像がありますが、これらのものも信者の方が設立して、ずっとそのあと
管理してきたものだということでした。

頂上には、金森氏がお祀りしたといわれる水神様など、次ぎの神様がお祀りされています。
1)日輪大神遥拝所、
2)御嶽大神遥拝所、
3)水神大神、
4)中央不動明王尊、
5)白川大神、
6)聖観世音菩薩、
7)山桜観世音菩薩、
8)教会祖霊神碑、
9)天荒霊神碑、
10)飛鶴霊神碑など たくさんの神様がお祭りされているそうです。
藤助の死後、後を継いで会長になられたのは、田中善七氏でした。
しかし、彼のご逝去により、その数年後に日輪教会を解散することになり、後継者もなく現在に
至っているということでした。
江戸時代に、錦山神社の別当として金剛院という山伏が管理する寺院がありましたが、その山伏が
修験道場の山として錦山を使用していたかどうかは、想像の域を出ず、証拠がありません。
また、錦山神社の名称は、明治元年以降に制定されたものですので、錦山とは、直接の関係は
なさそうです。最近、昨日気がついたのですが、高山駅前の喫茶店イフのところから東を見ると、
広小路通りから錦山頂上が正面に見えます。

広小路通りは、北六塗料のあたりで北にカーブしており、喫茶イフのあたりからですと、ちょうど
真正面になります。かつて、田んぼの広がった地域から、正面に見える山に水神を置いたと
なれば非常にうなづける話だと思いました。

現在、錦山の参道は、数年前の台風23号の影響か、山の樹木が倒れたりしているところがあったり、
途中に崖が少し崩れたところがありますが、大変荒廃しています。それでも、高山市民の方が、散歩に
訪れたり、ハイキングをされたり、運動不足を解消されたりと今でも高山市民に親しまれています。
運動するには丁度良い、ミニハイキングができる山ですから、メタボの方、運動不足解消に一度、
登ってみてください。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、古川の話について「金森可重についての続編」をお話したいと思います。
今日はこの曲でお別れです。 曲は 「石野真子で わたしの首領」ではまた来週!
徳積善太
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
さて、秋祭りも終りました。今年の祭りはいかがだったでしょうか?
数年前までは、10月10日が体育の日でしたから、必ず祝日で、高山も賑いましたが、ここ数年、
国民の祝日が変更になって、今までのお休みが変更になりましたから、今年は2日間とも平日
でした。秋祭りが平日でお休みでないというのは、春祭りの氏子の私にはちょっと信じられない
のですが、今年は、平日にしてはお客さんが多かったのではと思います。
さて、今日のお話に移りたいと思います。去る6月にミュージアムひだから、「飛騨の散歩道」
という本が発行されました。今回は、「山」についてということがテーマで各文化委員が執筆を
担当したのですが、実は私もそこの文化委員をさせていただいています。
今回私は、「錦山」について書かせていただきました。そのときに、大隆寺ですとか、錦山神社
ですとかいろいろな場所を取材したのですが、いろいろと知らない事がたくさんありました。
今日は、その取材ノートから、「錦山神社」について、先月の続きをお話したいと思います。
ちょっとここで、先月お話した内容を簡単に振り返って見ましょう。
錦山神社は、仏教が伝来した頃、聖徳太子の時代に活躍した、蘇我氏と物部氏という二つの
勢力がありました。その物部氏の代表、物部守屋という豪族の長が、蘇我氏によって亡ぼされ、
日本はそれまでの日本古来の八よろずの神様を信仰する宗教から、仏教による政治へと大きく
変革していきました。その一族が、遠く奈良の都から逃げてきて、飛騨に住むようになった。
そのため、先祖の霊をなぐさめるために物部守屋を主神として、祀った。これが、錦山神社の
起こりでした。江戸時代までは、守屋宮と呼ばれていて、明治時代の神仏分離によって、近くに
あった霊山 錦山にちなんで、錦山神社と名称を変更したという事でした。
また、この近くには、金森可重公が勧請した、錦山稲荷大明神があって、こちらでは、別当
修験宗 金剛院に命じて、天下太平、国家安全、五穀成就、蠶飼満足の祈り、春秋の御祭礼
を怠ることがないようにしたという内容のお話をしました。覚えておられるでしょうか?
さて、錦山は霊山となっておりますが、その歴史は確認できる部分では比較的浅く、昭和28年
ごろに正式に霊山となったそうです。ただし、金森公知行の時代に、水神様を頂上に安置した
伝承があり、これが本当だとすると霊山としての地位は、400年前にさかのぼります。
以下、新名藤助さんの孫娘 梅村ちづさんにお聞きした事や、御嶽教の元信者の末裔の方より
お聞きしたことをお話したいと思います。
現在の錦山は、誰も管理されていませんが、戦前に、新名藤助という御嶽教の信者の方がおられ、
その方が管理をされていました。彼は、先達の位を持っていた方でした。先達というのは、神様を
呼び起こすという役割の人で、神様が宿り人間の言葉で伝える人=神代(かみしろ)という方と2人
でペアになって神様のお告げを人間界の皆様にお伝えするということをやっておられました。
ある日、藤助は、「古川へ行って教えを広めるように」との神勅を受け、古川に御嶽教の教会を造り、
古川で教えを広めていました。
十数年後、歳も取ってきたし、高山で自分だけで御嶽教をやるつもりで、
高山に移り住みました。四畳半の小さな道場を高山の島川原町に造り、自分だけの道場を持った
そうです。以前、彼は製糸業をやっていた関係で、そのときの女工さんなどが集まり、熱心に修業を
行ったそうです。四畳半の道場では非常に狭いくらいの方が集まっていたそうです。
その頃は、近くの岩崎鶴次郎氏(岩崎建具)が神代の資格を持っていたので、2人で一緒に神様に
お伺いを立てていました。
ある日、神様から神勅が下り、「日輪社として勤めよ」との御触れがありました。これが日輪教会の
創始でした。
さて、このつづきは、後半にお話したいと思います。
ちょっとここでブレイク 曲をお届けしましょう。曲は「狩人で コスモス街道」
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今日の飛騨歴史再発見は、錦山神社パート2と題してお届けしています。
藤助が高山に開いた協会は、お告げの通り、「日輪教会」という名前道場で、高山では4つ目の
道場でした。
昭和20年頃には、高山には、御嶽教の道場が3つありました。 一つは「光明教会」という教会。
二つ目はさんまち地区の人が中心に修業した「飛州教会」という道場。そして、3つめは、現在も
ございますが、七日町の不動様のところにある「飛騨教会」の3つがありました。
藤助は、錦山を霊山として、修業の場所として管理していました。しかし、道場主としては長続き
せず、昭和27年7月1日に逝去しました。 彼の死後、残された人達が錦山を霊山として管理
するようになったということです。
この山の頂上に登ると、少ししか見る事はできませんが、御嶽山を拝む事ができます。
どうやら藤助には、「錦山に登る事によって、御嶽山に登山して詣でたことと同じになる」という
お告げがあったらしいので、たくさんの信者の方が上るようになりました。一時は、年間に数千人
の方が登山を行ったそうです。私が子供の頃、東小学校では遠足の対象として、中学年の遠足を
行ったり、普段の遊びの山としてカブトムシを採りに行ったり、よく錦山には登ったものです。
参道がだんだん賑ってきたので、参道自体を整備する事になりました。当時は、この山の参道は
天照寺様の所有であったらしく、天照寺さまが所有されていたと言われる観音様があちこちに
点在していました。それを信者の方が数箇所にまとめて整備したそうです。それが、現在も参道の
ところどころに固めてある観音様だそうです。
これがいつごろの頃のものなのか、天照寺さまの所有物なのか、天照寺さまに確認したところ、
どうやら所有である事には間違いないらしいのですが、いつ頃からこの観音様の石仏があるのかは
解らないとの事でした。想像にすぎませんが、天正十四年に天照寺が現在地に建て替えられたとき、
その前身が、般若院といって修験僧のいた寺院だった可能性もあり、その頃のものかもしれないとの
和尚様のお話でした。
また、麓には、神力不動明王像がありますが、これらのものも信者の方が設立して、ずっとそのあと
管理してきたものだということでした。
頂上には、金森氏がお祀りしたといわれる水神様など、次ぎの神様がお祀りされています。
1)日輪大神遥拝所、
2)御嶽大神遥拝所、
3)水神大神、
4)中央不動明王尊、
5)白川大神、
6)聖観世音菩薩、
7)山桜観世音菩薩、
8)教会祖霊神碑、
9)天荒霊神碑、
10)飛鶴霊神碑など たくさんの神様がお祭りされているそうです。
藤助の死後、後を継いで会長になられたのは、田中善七氏でした。
しかし、彼のご逝去により、その数年後に日輪教会を解散することになり、後継者もなく現在に
至っているということでした。
江戸時代に、錦山神社の別当として金剛院という山伏が管理する寺院がありましたが、その山伏が
修験道場の山として錦山を使用していたかどうかは、想像の域を出ず、証拠がありません。
また、錦山神社の名称は、明治元年以降に制定されたものですので、錦山とは、直接の関係は
なさそうです。最近、昨日気がついたのですが、高山駅前の喫茶店イフのところから東を見ると、
広小路通りから錦山頂上が正面に見えます。
広小路通りは、北六塗料のあたりで北にカーブしており、喫茶イフのあたりからですと、ちょうど
真正面になります。かつて、田んぼの広がった地域から、正面に見える山に水神を置いたと
なれば非常にうなづける話だと思いました。
現在、錦山の参道は、数年前の台風23号の影響か、山の樹木が倒れたりしているところがあったり、
途中に崖が少し崩れたところがありますが、大変荒廃しています。それでも、高山市民の方が、散歩に
訪れたり、ハイキングをされたり、運動不足を解消されたりと今でも高山市民に親しまれています。
運動するには丁度良い、ミニハイキングができる山ですから、メタボの方、運動不足解消に一度、
登ってみてください。
さて、今日もお時間となりました。
来週は、古川の話について「金森可重についての続編」をお話したいと思います。
今日はこの曲でお別れです。 曲は 「石野真子で わたしの首領」ではまた来週!
徳積善太




