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岩村城へ行ってきました5

岩村城へ行ってきました5
岩村城の年表2

岩村城は、「女城主の里」として一時期町おこしをしていたことがあり、今でも「女城主」などという
お酒の銘柄がありますので、有名になっています。

さて、この女城主ですが、天正元年に秋山信友の妻となる人が、一時期、女城主として君臨した
ということで、有名になっていますが、歴史的にはほんの数年のことです。

岩村城へ行ってきました5
岩村城は、そのご数回城主が交代しました。これは、松平乗寿公の着用具足。

乗寿は慶長19年(1614)大給松平本家の家督を継ぎ、15歳で岩村二代藩主となった。
その冬、大阪の役が起ると、美濃および信濃の士卒を率いて大阪城外牧方に初陣を
飾った。翌年、夏の陣にも出陣して武勲をあげた。大阪冬・夏の戦場に着用した唐冠
の具足は、江戸時代を通じ、松平家の家宝とされた。別称を「血染めの鎧」という。
(岩村町指定文化財)

岩村城へ行ってきました5
こちらは、松平乗薀公の着用具足

乗薀(のりもり)公は延享3年(1746)5月に藩主と成、同4年朝鮮使節を近江八幡に
接待した。郡上藩金森騒動にあたり八幡城を請取り、高山大原騒動にも出動し、
処理した。
この具足は、同公着用のもので、鎧作家として日本一の称のある明珍の作で、
籠手に銘があり、喉輪その他に蔦紋が入れてある。(岩村町指定文化財)


この大将が、大原騒動鎮圧に動いたわけですが、当時、八幡の人たちが先に着き、
かなりの人を殺戮して鎮圧したところへ、苗木藩は遅れて到着しました。
そのため、苗木藩の人は飛騨の人からは恨まれませんでしたが、八幡の人はいまだに
うらまれているようなところがあります。恨みの歴史は、DNAによって受継がれるのですね。

徳積善太

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