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5月14日放送分_加藤光正が左遷された理由
(5月14日放送分151回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまい
ります。
今年は、寒い春だと思っていたら、急に暖かいというか、暑くなって一気に夏が来た
みたいですね。皆さん如何お過ごしでしょうか。こういうときは寒暖の差が激しい
ですから、体調管理には充分気をつけてください。
さて、先週は記念すべき150回目の放送でした。記念放送と云うことで2年間の放送を
振り返ってみましたが、いろんな方から激励の言葉やメッセージをいただきました。
どうもありがとうございます。結構聞いてくださっている方が多いこともわかりました。
これからも頑張ってまいりますので、よろしくお願い致します。
最近、高山の巷では、ちょっと加藤光正ブームになっているようですね。
昨年3月に、前副市長の梶井さんが歴史民俗学会で加藤光正について発表をされ、
その後、丁度今年が加藤清正公没後400年と言うことで、熊本を中心にイベントが
開催され、梶井さんが熊本で講演をなさったようです。
その後、高山市民時報にも取り上げられ、社告コラムに加藤光正のことが掲載されて
いました。
最近は、ヒットネットTVでも光正ゆかりの地と言うことで、関係者の方が登場されて、
光正が流されてきた天照寺のご住職のお話ですとか、光正の妹が嫁いだ先の国府町の
加藤家、あるいは朝日町の谷口家のことがご紹介されています。
ヒットネットTVの「わがまち再発見」という番組は、これからも再放送がされる
ようですから、一度ご覧いただきたいと思います。なかなか勉強になりますよ。
さて、本日のお話ですが、今日はこの加藤光正のお話をしたいと思います。
加藤光正のお墓については、法華寺の裏にとてつもなく大きな墓がありますので、
ごらんになった方も多いのではないでしょうか。これはどういう方かと簡単に申上げ
ますと、秀吉の忠臣で、文永・弘安の役によって、朝鮮征伐に韓国に渡り、虎退治を
したということで、怪力で有名な加藤清正という人がいました。清正は秀吉直近の武将
として大変有名な方です。
徳川の世になってからは、外様大名として熊本73万石の知行を命ぜられ、からす城と
呼ばれる黒壁の城を作りました。
光正はその人の孫にあたる方です。その人が、今から370年前の寛永九年(1632)に
蟄居を命ぜられて、高山に流され、天照寺にかくまわれていました。
その時の高山の領主は三代目の重頼でした。
重頼は、光正のことを気の毒に思い、光正が日蓮宗の信者だったということもあり、
光正が亡くなった後、蓮乗寺を再興し、法華寺を建立しました。
現在、法華寺にある本堂は、高山城内にあった建物を移築したものだということです
から、重頼が光正を大変丁寧に扱ったということがわかります。
さて、この光正が、何故、蟄居を命ぜられる事になったか、ということですが、
明治時代に刊行された『斐太後風土記』という本が有りますが、そちらの方と、
同じ記事が雑誌「飛州第拾四号P9(明治27年2月4日号)」に紹介されています。
この二つの記述は、多少異なる部分があるのですが、おそらく法華寺の記録を写された
ものと思われます。斐太後風土記には、『武家盛衰記』『太平年表』という本にも記さ
れていることが記されていますが、この『法華寺記録』が、古老の話を記したという事
になっています。『斐太後風土記』の内容と言葉遣いが少し違うだけですので、今日の
お話は、『法華寺記録』から、ちょっとその内容をご紹介したいと思います。
原文は、難しいので意訳してお届けします。
「加藤主計頭清正朝臣の嫡孫加藤豊後守光正が配流された其の由来は、慶長十六年辛亥
六月廿四日清正朝臣卒去され、その後息子の肥後守忠廣朝臣が、慶長十六年八月に家督
相続された。
其の後寛永年間に、将軍家徳川家光公の御前で加藤光正が元服し、御称号の一字を賜り、
従五位下に叙され、松平豊後守光正と名乗られた。
名家の面目を施し、諸家一同にうらやましがられた。年来召使いとされた何某(武家盛衰
記には外様侍 廣瀬庄兵衛と云う魯鈍の者との記述がある)が、近習を勤ていたが、生
まれつき卑怯臆病だったのを、光正はおかしく思っていた。
或時その者が私用が有るといって出仕しないので、ニ日餘たってから近習や家来等と相談
して、「今晩、あの臆病者をからかってやろう」と言ったところ、
一同皆が、「さてさてそれは面白い事だ」といって、にわかに武具馬具を取出して、おの
おのが支度して日暮を待ち、廣瀬のところへ急ぎ使をつかわした。
それを聞いた廣瀬は、「それは何事ならんことだ」と、取物をとりあえず出仕した。
そうすると、「急いで書院へ」との事であったので、そちらへ行ったところ、驚いた事に
数多くのたいまつが灯され、あたかも白昼の如くであった。
主君の豊後守は甲冑陣刀に釆幣を持って、正面上座の床几に腰かけ、近習扈従も一同甲冑
に身を固めて、左右ニ群の列をなしていた。それはそれは堂々たる形勢であった。庭には
馬に鞍をかけて、旗指物を立て連ねて、弓矢鉄砲長刀などをうちたてて支度されていた。」
ということです。
この続きは、後半でお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲は、「岩崎宏美で 二重奏(デュエット)」をお届け
します。
----------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、加藤光正が配流された理由について、お話しています。
「元来大変臆病な若者だった廣瀬は、それを見て、より愕然とし仰天した。
その様子を見て、光正はじめ皆々は、深く笑いをこらえながら、「近く近く」と進めた
ところ、廣瀬はいよいよびくびくするようになった。
そこで、光正は大きな声で、近くへ呼よせ、「今夜火急に思ひ立ったのは、おまえに一方の
大将を頼みたい。いざ早く用意をするように」と言った所、廣瀬は青ざめて、手足の置く處
もなく、ますます戦々憟々と震えながら、物もいわずにいた。
それを見て、光正はいらだち、「是非ともすぐに準備してこい」と命令した。
そこで、震えながら「いったい何方ヘ御出馬されるのでしょうか」とやっとの思いで尋ねた
ところ、「言には及ぶまい。敵城はすぐ近くにある。その不意を討ってこそ、勝利を得る。
とにかく、すぐに用意をしろ」とせめられ、
「そうでしたら、一走リに私宅にて支度して、直に出てまいります。」と急いで帰った。
(実は、廣瀬は、家には帰らず、夜中ではあったが、登城して、急を告げ、江戸幕府に直訴
したようである)
その後、一同どっと大笑し、今見たことを繰返し、繰返し、真似などをして、おかしさに堪
かね語り合っていた。光正も調子に乗って、酒肴を出させ、一座は酒宴となった。
彼のことだけを笑いながら、宴も盛り上がっていった。
かなり時間がたったが、その者は、全く来ないので、皆々笑ながら、今頃は、かしこまって
妻女と水盃してないているだろうなどと、言いどよめいていた。
そこへ、お城の使が玄関外にきて、案内もなく書院に通り、此形勢を逐一見届けた。
それに豊後守光正をはじめ一同が大変に驚き、甲冑のまま平伏したところ、
「将軍家より御傳の旨があるから、急いで登城するように」
と云い捨てて、お使いは帰られた。
光正はじめ、一同は茫然として呆れはてたが、登城の催促が頻繁であったので、やむを
えず供の用意をして豊後守光正は登城した。
そうすると、すぐに帯刀を取あげられ、身柄を預けられ、肥後熊本へ急ぎ使を立てられた。
父の肥後守忠廣は何故呼ばれたのか理由もわからず、台命ということで、昼夜をかけて、
遙々江戸に出て、登城された。そこで言われたことは、
「陰謀の疑いが有り、直ちに究明しなければいけない。」ということであった。
過日の夜、豊後守屋敷での様子を聞き、お父さんの肥後守も始て驚愕した。
何も言い訳もできず、所領没収ということになって、終に寛永九年壬申六月肥後守忠廣は
出羽荘内に。豊後守光正は、飛騨高山に配流と云うことが決定し、無慙なこととなった
次第である。
祖父加藤清正朝臣は幼く若い頃より羽柴家に奉公し、合戦の度ごとに九死に一生を得て、
勇猛に戦い、大功を立て、生涯東征西伐の苦難は言うに及ばず、朝鮮征伐にまで責め渡り、
日本の鬼将軍と称された英勇であり、豊臣家に誠をつくし、忠義の武将は、徳川家へも
謹厚篤實の俊傑であり、殊に国民に仁心深く、七十三萬石の大諸侯と成って、繁栄して
いた其邦家、加藤家であったが、光正の一晩の座興で、自分の家臣を侮蔑したことによっ
てたちまち、滅亡してしまった。
これは、あさましいこととも、いたましいこととも言うに、詞もない事である。
光正は金森家に預けられて、法華寺にいらっしゃった。蟄居していたのは、わずか二年で
あった。寛永十年癸酉七月十六日に、二十歳の若さで卒去せられたということである。
法名は、蓮浄寺殿日慧大居士と名付けられた。」
このお話は、大変馬鹿らしい話ですが、当時戦国時代から余り時間のたっていないときです
ので、人情は常に殺伐としていた時です。こういった一坐の余興めいたことにも必ずその行
いを謹んだ上で楽しみとしなければいけませんでした。
またその器具や兵馬の如きも太平が長く続いていたので弓鎗などは、大切にしまっていないと
いけませんでした。
ただし、手近に置きて常に不虞に備えることが必要だったものです。
当時こういった戯れでおとりつぶしになるということはそんなに珍しいことではありません
でした。ただ、一時の戯を以て、その罪を遠く離れた熊本にいた父に責任を取らせ、領土を
奪ってしまった事は、残虐な事だと思います。言い傳えに依れば、この後幕府は光正を高山に
追放したにあきたらず、其親族の繁栄しない間に之を殺そうとしたことに、領主金森家は清正
の同輩であったことを考えて、此の無辜の人を殺すに忍びず、逆に保護したのではということ
です。
さて、今日もお時間となりました。来週は第三週ですので古川のお話をします。
現在、9月の展示会に向けて色々と調査しておりますが、その中間報告も含めて、姉小路の
お話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は加山雄三と谷村伸司で「サライ」をお届けします。
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまい
ります。
今年は、寒い春だと思っていたら、急に暖かいというか、暑くなって一気に夏が来た
みたいですね。皆さん如何お過ごしでしょうか。こういうときは寒暖の差が激しい
ですから、体調管理には充分気をつけてください。
さて、先週は記念すべき150回目の放送でした。記念放送と云うことで2年間の放送を
振り返ってみましたが、いろんな方から激励の言葉やメッセージをいただきました。
どうもありがとうございます。結構聞いてくださっている方が多いこともわかりました。
これからも頑張ってまいりますので、よろしくお願い致します。
最近、高山の巷では、ちょっと加藤光正ブームになっているようですね。
昨年3月に、前副市長の梶井さんが歴史民俗学会で加藤光正について発表をされ、
その後、丁度今年が加藤清正公没後400年と言うことで、熊本を中心にイベントが
開催され、梶井さんが熊本で講演をなさったようです。
その後、高山市民時報にも取り上げられ、社告コラムに加藤光正のことが掲載されて
いました。
最近は、ヒットネットTVでも光正ゆかりの地と言うことで、関係者の方が登場されて、
光正が流されてきた天照寺のご住職のお話ですとか、光正の妹が嫁いだ先の国府町の
加藤家、あるいは朝日町の谷口家のことがご紹介されています。
ヒットネットTVの「わがまち再発見」という番組は、これからも再放送がされる
ようですから、一度ご覧いただきたいと思います。なかなか勉強になりますよ。
さて、本日のお話ですが、今日はこの加藤光正のお話をしたいと思います。
加藤光正のお墓については、法華寺の裏にとてつもなく大きな墓がありますので、
ごらんになった方も多いのではないでしょうか。これはどういう方かと簡単に申上げ
ますと、秀吉の忠臣で、文永・弘安の役によって、朝鮮征伐に韓国に渡り、虎退治を
したということで、怪力で有名な加藤清正という人がいました。清正は秀吉直近の武将
として大変有名な方です。
徳川の世になってからは、外様大名として熊本73万石の知行を命ぜられ、からす城と
呼ばれる黒壁の城を作りました。
光正はその人の孫にあたる方です。その人が、今から370年前の寛永九年(1632)に
蟄居を命ぜられて、高山に流され、天照寺にかくまわれていました。
その時の高山の領主は三代目の重頼でした。
重頼は、光正のことを気の毒に思い、光正が日蓮宗の信者だったということもあり、
光正が亡くなった後、蓮乗寺を再興し、法華寺を建立しました。
現在、法華寺にある本堂は、高山城内にあった建物を移築したものだということです
から、重頼が光正を大変丁寧に扱ったということがわかります。
さて、この光正が、何故、蟄居を命ぜられる事になったか、ということですが、
明治時代に刊行された『斐太後風土記』という本が有りますが、そちらの方と、
同じ記事が雑誌「飛州第拾四号P9(明治27年2月4日号)」に紹介されています。
この二つの記述は、多少異なる部分があるのですが、おそらく法華寺の記録を写された
ものと思われます。斐太後風土記には、『武家盛衰記』『太平年表』という本にも記さ
れていることが記されていますが、この『法華寺記録』が、古老の話を記したという事
になっています。『斐太後風土記』の内容と言葉遣いが少し違うだけですので、今日の
お話は、『法華寺記録』から、ちょっとその内容をご紹介したいと思います。
原文は、難しいので意訳してお届けします。
「加藤主計頭清正朝臣の嫡孫加藤豊後守光正が配流された其の由来は、慶長十六年辛亥
六月廿四日清正朝臣卒去され、その後息子の肥後守忠廣朝臣が、慶長十六年八月に家督
相続された。
其の後寛永年間に、将軍家徳川家光公の御前で加藤光正が元服し、御称号の一字を賜り、
従五位下に叙され、松平豊後守光正と名乗られた。
名家の面目を施し、諸家一同にうらやましがられた。年来召使いとされた何某(武家盛衰
記には外様侍 廣瀬庄兵衛と云う魯鈍の者との記述がある)が、近習を勤ていたが、生
まれつき卑怯臆病だったのを、光正はおかしく思っていた。
或時その者が私用が有るといって出仕しないので、ニ日餘たってから近習や家来等と相談
して、「今晩、あの臆病者をからかってやろう」と言ったところ、
一同皆が、「さてさてそれは面白い事だ」といって、にわかに武具馬具を取出して、おの
おのが支度して日暮を待ち、廣瀬のところへ急ぎ使をつかわした。
それを聞いた廣瀬は、「それは何事ならんことだ」と、取物をとりあえず出仕した。
そうすると、「急いで書院へ」との事であったので、そちらへ行ったところ、驚いた事に
数多くのたいまつが灯され、あたかも白昼の如くであった。
主君の豊後守は甲冑陣刀に釆幣を持って、正面上座の床几に腰かけ、近習扈従も一同甲冑
に身を固めて、左右ニ群の列をなしていた。それはそれは堂々たる形勢であった。庭には
馬に鞍をかけて、旗指物を立て連ねて、弓矢鉄砲長刀などをうちたてて支度されていた。」
ということです。
この続きは、後半でお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲は、「岩崎宏美で 二重奏(デュエット)」をお届け
します。
----------------------------------------
今日の飛騨の歴史再発見は、加藤光正が配流された理由について、お話しています。
「元来大変臆病な若者だった廣瀬は、それを見て、より愕然とし仰天した。
その様子を見て、光正はじめ皆々は、深く笑いをこらえながら、「近く近く」と進めた
ところ、廣瀬はいよいよびくびくするようになった。
そこで、光正は大きな声で、近くへ呼よせ、「今夜火急に思ひ立ったのは、おまえに一方の
大将を頼みたい。いざ早く用意をするように」と言った所、廣瀬は青ざめて、手足の置く處
もなく、ますます戦々憟々と震えながら、物もいわずにいた。
それを見て、光正はいらだち、「是非ともすぐに準備してこい」と命令した。
そこで、震えながら「いったい何方ヘ御出馬されるのでしょうか」とやっとの思いで尋ねた
ところ、「言には及ぶまい。敵城はすぐ近くにある。その不意を討ってこそ、勝利を得る。
とにかく、すぐに用意をしろ」とせめられ、
「そうでしたら、一走リに私宅にて支度して、直に出てまいります。」と急いで帰った。
(実は、廣瀬は、家には帰らず、夜中ではあったが、登城して、急を告げ、江戸幕府に直訴
したようである)
その後、一同どっと大笑し、今見たことを繰返し、繰返し、真似などをして、おかしさに堪
かね語り合っていた。光正も調子に乗って、酒肴を出させ、一座は酒宴となった。
彼のことだけを笑いながら、宴も盛り上がっていった。
かなり時間がたったが、その者は、全く来ないので、皆々笑ながら、今頃は、かしこまって
妻女と水盃してないているだろうなどと、言いどよめいていた。
そこへ、お城の使が玄関外にきて、案内もなく書院に通り、此形勢を逐一見届けた。
それに豊後守光正をはじめ一同が大変に驚き、甲冑のまま平伏したところ、
「将軍家より御傳の旨があるから、急いで登城するように」
と云い捨てて、お使いは帰られた。
光正はじめ、一同は茫然として呆れはてたが、登城の催促が頻繁であったので、やむを
えず供の用意をして豊後守光正は登城した。
そうすると、すぐに帯刀を取あげられ、身柄を預けられ、肥後熊本へ急ぎ使を立てられた。
父の肥後守忠廣は何故呼ばれたのか理由もわからず、台命ということで、昼夜をかけて、
遙々江戸に出て、登城された。そこで言われたことは、
「陰謀の疑いが有り、直ちに究明しなければいけない。」ということであった。
過日の夜、豊後守屋敷での様子を聞き、お父さんの肥後守も始て驚愕した。
何も言い訳もできず、所領没収ということになって、終に寛永九年壬申六月肥後守忠廣は
出羽荘内に。豊後守光正は、飛騨高山に配流と云うことが決定し、無慙なこととなった
次第である。
祖父加藤清正朝臣は幼く若い頃より羽柴家に奉公し、合戦の度ごとに九死に一生を得て、
勇猛に戦い、大功を立て、生涯東征西伐の苦難は言うに及ばず、朝鮮征伐にまで責め渡り、
日本の鬼将軍と称された英勇であり、豊臣家に誠をつくし、忠義の武将は、徳川家へも
謹厚篤實の俊傑であり、殊に国民に仁心深く、七十三萬石の大諸侯と成って、繁栄して
いた其邦家、加藤家であったが、光正の一晩の座興で、自分の家臣を侮蔑したことによっ
てたちまち、滅亡してしまった。
これは、あさましいこととも、いたましいこととも言うに、詞もない事である。
光正は金森家に預けられて、法華寺にいらっしゃった。蟄居していたのは、わずか二年で
あった。寛永十年癸酉七月十六日に、二十歳の若さで卒去せられたということである。
法名は、蓮浄寺殿日慧大居士と名付けられた。」
このお話は、大変馬鹿らしい話ですが、当時戦国時代から余り時間のたっていないときです
ので、人情は常に殺伐としていた時です。こういった一坐の余興めいたことにも必ずその行
いを謹んだ上で楽しみとしなければいけませんでした。
またその器具や兵馬の如きも太平が長く続いていたので弓鎗などは、大切にしまっていないと
いけませんでした。
ただし、手近に置きて常に不虞に備えることが必要だったものです。
当時こういった戯れでおとりつぶしになるということはそんなに珍しいことではありません
でした。ただ、一時の戯を以て、その罪を遠く離れた熊本にいた父に責任を取らせ、領土を
奪ってしまった事は、残虐な事だと思います。言い傳えに依れば、この後幕府は光正を高山に
追放したにあきたらず、其親族の繁栄しない間に之を殺そうとしたことに、領主金森家は清正
の同輩であったことを考えて、此の無辜の人を殺すに忍びず、逆に保護したのではということ
です。
さて、今日もお時間となりました。来週は第三週ですので古川のお話をします。
現在、9月の展示会に向けて色々と調査しておりますが、その中間報告も含めて、姉小路の
お話をしたいと思います。
今日はこの曲でお別れです。曲は加山雄三と谷村伸司で「サライ」をお届けします。
ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太