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帰雲城調査会講演会_田口さんの講演

帰雲調査会 平成24年度総会 田口さん講演  平成24年5月19日白川総合文化施設
帰雲城調査会講演会_田口さんの講演
山城をテーマに内ヶ島がどのような館も含めて城郭の有り様であったか。という発想の展開で、保木脇から打ち切りにして、白川郷という所に内ヶ島の築いたお城はどういうものかということで徹底的に地元の伝承を拾った。一切なかった。小白川(飛騨と越中の教会)から城郭の断片が出て来た。古地名(昔の記録)小白川の背後に城山という地名があった。そこに確かに山城構造があった、図面化して発表したことも有る。帰り雲調査会の文化会の文献に投稿したことはありませんが、学術関係の論文集に投稿しております。
それから、余談ですが、保木脇の対岸に木谷という所がありますが、そこに松尾砦という場所を図面を造って発表した。白川村審議会で否定された。ところが図面を見ると山城です。規模が小さいので砦としております。字の境界が分かれているので、両方の名前を取って松尾砦とつけた。事後問題になることもあります。

帰雲城調査会講演会_田口さんの講演
本題ですが、小白川と松尾砦と保木脇の帰雲を方向転換したら出てきた。赤谷城ですが、A3二枚をつないだもの。簡単な概略を説明します。これを見つける元になった根拠は、ダムがあって、上流に行くと左岸に尾神郷川がある。それの源流が別山。ダム湖に沈んだところに荘川桜があった中野がある。橋を渡った所に海塩という所があった。日崎と言う地名がある。内ヶ島の研究をされている方ならご存じだが、5ヶ城という中に日崎城がある。新渕城(荘川)牧戸に向牧戸城という所がある。日崎城。荻町城。もう一つは五箇山の一角に利賀村の谷があって芋井谷城がある。
従来の内ヶ島研究に出てくる。白川村史のすり壁さんから教えを乞うて、書かれたのがこの5つの城です。文献資料から拾い出したもの。

日崎のお城は、中野海塩の文献の中に館の部分があったと思われる堀が残っていたという話しがあった。水没前ですから庄川に住んでおられた方の話しをとっている。日崎の所に山城が無いと思い、調べた。国道の所をしらみ潰しに調べたが、無かった。このあたりに住んでいた人から、「むっくりこっくり」という言葉があった。日崎の館の「むっくりこっくり」。凹凸という意味ですが、そういう話しがありました。対岸の所に赤谷区という集落の山中に山のむっくりこっくりがあるよと教えていただいた。深さ1.5m長さ5m位のけものを落とすには大きな所が2ヶ所あると言われた。荘川村の職員が見に行かれた。当時の職員と興味のある方と見に行かれたが訳がわからなかった。深い堀状のものがあったという事だった。
場所を教えてもらって、2年ほどおいて、対岸へ行くのに大変だが、湖岸に沿って道を作ったが寸断されていた。平成20年に初めて林道を車で行き、あとは歩いてその場所に行って登った。そうしたら、実はこの城郭の縄張り図ですが、この部分が、主閣。中心の曲輪。山の裾にダム湖畔に2時間位かかって行った。そして主閣に遭遇した。規模は、下の堀切。尾根を分断するもの。上部の堀切。この主閣の部分が100m以上あった。横巾が60m位。深さが3mから4m位残っていた。幅が広い所で13mから15m位。この堀で切り取った切岸は、高い所で6mから7m。側面も全部切ってあって、空間を出しているが、尾根は西から東に登って行っている。主閣の部分が、伝承も一切無かった。文書記録も無かった。初めて見た時に、内ヶ島の城を見つけようと思って行ったが、内ヶ島の城ではないので、2年ほどほおっておいた。平成22年になってやっとこれを世に紹介しないといけないと思い図面化した。図面化した人は熊沢さん。図面化するのに6日ほど通った。できたのが、22年10月23日に図面化が完成。こういう事で、一応縮尺で3cmほどが100m。末端から山城の遺構として確認できるものが、その上にもある。その部分について、研究者によっては、上手さん、長瀬さんが見ています。
現状は知っておられます。その時に佐伯哲也さんがみています。中部地方の研究者の方を伴われて主格だけ図面化した。主格を取上げて年代を分析された。主格部分だけを取上げて研究されているのが佐伯さんです。
熊沢さんは、美濃方面をやっておられますが、熊沢さんのポリシーはすべての地表の観察によって城郭の一部だと思われると書く人です。
人によっては、主閣だけはわかりますが、末端までは見る人によって認識できないし、何の目的でやるかわからない人。故意に飛ばす人もいます。
ものすごいエネルギーを費やします。
1550年以降。現状は石垣なし。1550年以降の山城は土を急峻にしてよじ登れないようにしている。そういう状況で土だけの山城としては最も新しい物を持っていると、考えていました。末端から、1006m1040m尾根のピーク平。そこから1070mまで歩いて登りましたが、上部の連続性の城郭の一部を確認しております。熊沢先生は体を悪くして上部へ行っておりませんが、荘川町の人とかと何回かわけて現地を見ていただいています。将来いろいろと論争が起きた時に見ておいてもらいたいと思って一緒に入って頂いています。
上部にまだあります。
最後にお話ししたいのは、ここから下まで湖底に沈んでいますから、沈むところが770m。庄川の湖水に沈んでいる所は、海抜700m。ここまでは遺構があるかもしれません。崖のような地形で、では、このお城の意味だけ話しますと。
麻谷というのがあります。
地元の伝承調査をすると、庄川の東側に1200mの山があり、これを超えると六厩金山の鉱区があります。古い伝承には、そこを鉱山師が登ったという伝承があります。麻谷の周辺に居を構えたという伝承もあります。この谷が山越えをする道があったという事を言っています。ゆえに、麻谷の人の往来がある処に築城したと考えられる。
もう一つ。尾神郷川。金森長近が福井県大野から白山別山の南方を通って侵攻したという道がありますが、これは越前から来ます。南から白川街道に保木脇を通り、越中へ行きます。丸木橋があったものと思います。ここに一ヶ所と上流に一ヶ所、対岸に渡れる橋が架けられたといいます。
お城の下を通って、通って行くと、森茂金山があります。東西南北の通行路の接点にあたる所の対岸にある城がこの城でした。照蓮寺というものが中野にありましたし、ここに創られた事がわかります。そこに想像を絶するお城があったという事です。

どうして、この城が創られたか。伝承にも無いかという事ですが。
中野の照蓮寺。真宗門徒は総本山ですから、荻町とかは戸谷とか道場と言われる時代はここに行きました。飛騨のお寺の前身、総本山は、多くの人が出入りしますし、中野には相当の人が住んでいた。尾神にもあった。実はここの事務局の大村さんの、22年度の小冊子を預けてあります。ここのエリアに新しい山城が出た事を記述してありますが、やっと去年図面が出来たので、今回説明させていただきました。
この場所は、内ヶ島。照蓮寺、また他の歴史上はっきりしないけれども強大な勢力を持った何者かが築いたという事を考えています。これ一本に絞るのが難しいと思っています。
照蓮寺の門徒、戦国期に入って、金森氏が攻めてくる時代になって、住民そっくり、避難する場所。村の城という概念がありますが、大きな集落ごとに山に防備を伴った拠点を創るという所に逃げ込んだという村の城ではないかと考えることを最近思っています。
内ヶ島の氏義・氏郷の時代に創られる訳ですが、当時の勢力、労働力、結集力からみて、単独で創るのは不可能と思っています。内ヶ島と照蓮寺との政治的背景がマッチングして、従来の牧戸城とかというレベルでは、金森氏位の武将が侵攻してきては守りきれない。従来の物では考えられない規模の物を創って、外界に発信して、権勢する役目と、いざ戦乱になった時に、門徒住民すべて避難するという目的であれば、照蓮寺の権威で、飛騨国すべてから集められる。内ヶ島では強制勢力をしても無理だと思う。内ヶ島と照蓮寺の勢力を集めて、こういった物を創ったのではないか。
内ヶ島が籠もって戦ったのではなくて、照蓮寺の門徒が籠もった事が目的。外界に発信して、心理戦で阻止しようと築いたと思います。

お断りしたいのが2年前に飛騨の中世という雑誌で、その時はここの海塩に日崎城というのがあって、家臣の中で3家老職がありました。荻町山下氏。筆頭家老の尾神氏がなかった、尾神という集落がここにあった。尾神の名を取っているというのは、中野の目付として尾神氏がいたのでは。尾神備中の守氏綱と言います。その方の山城かとも思いましたが、その当時の城の名前を日崎の山城と付けました。中野の照蓮寺の真向かいにありますが、そこにも名前を付けてあります。他の方は承知していますが、和田砦と付けました。規模は小さいのですが、築城思想はほぼ等しいし、同じ年代です。佐伯さんは、1575年から80年くらいまで。金森侵攻が1585年です。内ヶ島はそれで滅亡しますが、その直前に築かれたであろう。築城様式でそう判定されました。
私どもとそう差はありません。一つ言っておきたいのは、なぜ1070mあるかという事。内ヶ島が単独で創ったという事は、延ばす理由がありません。戦闘目的ではない。このお城の特質がこれだけ巨大な物を外界に発信するという目的がある。
これは、普通のレベルの権力のある武将の場合でも飛騨で一番高いのが1200mです。主閣が1200mにあるのですが、背後にどうしてそこまであるのかわかりません。六厩の一番上にある麻谷に向かっているのは、道を封鎖するためではないか。麻谷の所に全部防備がしてある。そういう構造になっている。主閣以外に上部の構造物。末端にある構造物が麻谷を通行する者を、牽制あるいは、保護する。金山資源の保護があるのではと考えています。この程度にしておきます。

もう一つ、内ヶ島氏。真宗一向宗の照蓮寺は、表に浮いて来ている歴史ですが、もう一点加えると、じつは松古れいこさんを通じてある方が訪問された。鷲見尚子さん。その方の素性は申し上げませんが、白山信仰にまつわる、俗に言う祭主あるいは、神主と言われるような白山信仰にまつわる血筋の方でした。自分の所の文書から赤谷という地名が、実は私の所に鷲見の文書の中にここを示しているという。尋ねて来られてしつこくいろいろと質問をされました。和田砦の他に赤谷エリアの山中にもう一ヶ所城郭構造を見つけました。3つあります。一般常識では考えられません。図面上の海塩の所に一ヶ所。荘川桜のドライブインの所の赤谷の橋がありますが、地形上2ヶ所しか架けられない。その場所対岸に渡るという事が地元でも無かったそうです。森茂を通って、高山に行く道もあります。金森が侵攻する時にどうしてもここを通っています。
そういう風に普通は人が往来しない対岸の急峻な山に二ヶ城も三ヶ所も創るというのは私の中では説明がつきません。これからの課題です。ミステリーなエリアです。

世に出てますから、色んな関係者が訪ねて見えます。
その時に、地権者、ここを教えて頂いた方々、現在、牧戸城の所に出ていますのも、宇多正治さんが気付いて論考を出しておられます。高山市教育委員会で文化財にする為に公的に動き出しています。グループの方にこの辺も見ていただいていますので、私自身だけではなくて、地権者の情報を提示していますので、是非連絡を取って調査していただきたいと思います。足掛け5年以上かかって、大勢の方に礼を尽くしてやっておりますので、そういう事をしてやっていただきたいと思います。これで終ります。

内ヶ島の伝承の中に保木脇が崩れてダム湖ができたという話しがあります。
上白川の尾神郷川の下流の所に出来たと言われます。
天正大地震だと思われますが、白山の大爆発で、別山の南側の斜面に堰き止め湖があり、土石流が出来て流れて来てダム湖ができたという口伝があります。
それだけお知らせしておきます。まだ多少ありますが、これでやめておきます。

(徳積善太記録)
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