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帰雲調査会講演会_安達先生の講演

帰雲調査会 平成24年度総会 安達さん講演  平成24年5月19日白川総合文化施設

天正大地震は火山の噴火、連動地震、津波、山崩れ
安達正雄
帰雲調査会講演会_安達先生の講演

若狭湾周辺に14の原発。安全性の見直し。地元の報告会があり、電力会社が若狭湾に派歴史的大津波が無かったと報告。鶴が短大の歴史の先生から、天正自身の時に大津波があったという報告。かねみ卿記。吉田兼好の子孫の吉田かなみの日記に載っていた。その時代にポルトガルの宣教師の手紙。2種類あって、本国へ送った手紙と、マニラにあった教区。キリスト教のアジア地区の事務局の様な所に送った物とあった。それにも天正地震の時に津波があったという報告がある。
そういう事で、若狭湾沿岸に津波があったことが分かっている。具体的にどこが被害が大きかったかは分かっていない。
最初は火山の噴火。高鷲村史に書いてあった。白山自然保護センターで火山の歴史を調べてみた。その時は間違いでしょうと言われた。おそらく地鳴りを火山の鳴動とされていたのではと否定されていた。北国新聞の一面に大きく白山で爆発があり、これまで見のがされていたものがあったと出ていた。天正地震の時にもあったのではないか。それを調べて見ようと思ったのが、この火山の研究のきっかけです。

まず、同時代史料、その時代に書かれたものを調べた。一応見たけれど見つからなかった。後で見直しをした所それらしきものがあったので、史料で紹介している。
史料① 山城 京都に住んでいた、梵舜という人。これも吉田兼好の子孫に当る人です。これが梵舜記(舜旧記)となっている。
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史料①「天正十三年十一月廿九日、夜半時分に大地震良久し、明日まで如此也。近国之浦浜・・・(以下略)
晦日、同大地震、当東に如雷鳴響也。是夜半時分也。」

雷鳴の如きなりというのが白山の爆発ではないかと推定。時間が合わないので検討しないといけない。

史料② 美濃高鷲村 高鷲村史
「天正十三年十一月二十九日亥子の刻、一大音響と共に白山火山が大爆発して大地震が起こり、折立、ミゾレ・帰雲の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。
同日、白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し、道場も山崩れのため押しつぶされて浄念寺の三幅の仏もこの難にあわれた。
同日夜白山大爆発による大地震は、飛騨・越前・越中・加賀・美濃等数カ国の地が大いに古い、白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東、帰雲の裏山続きに天に向かってごうがの如く突きそそる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊したのもこの時であった。

何代か言い伝わっていくうちに伝説は面白い方に代る。時間がずれていたが、爆発と同時に起きていたが、地震に代っていったのではと思う。爆発の時間と地震の起きた時間が同時かどうかというのがわからない。


史料③ 信濃、天竜村 「天龍村史」
天正自身は(以下略)地震と共に白山・焼岳も噴火している。

天竜村史は、間違えていて、12月1日の未明という事になっている。30日の晩に地震も起きて噴火も有ったと言っているので、わからない。ひょっとしたら暦を間違えているのではと思う。11月は小月だとおもい、間違えたのではないか。検討課題です。

白山の爆発についてはこれであったということがわかる。時間についてははっきりしない。

(2)焼岳の噴火 
大分後の史料ばかりで古い史料が無い。
史料④加藤鉄之助著「硫黄岳火山地質調査慨報(1913)
天正十三年、硫黄岳噴火して、山麓の中尾の村落を埋没せしめたる等の事実あり。此際中尾の村落を被覆せるは、里谷に沿いて運搬せられたる泥流(溶岩)にして、右泥流は今の同村神坂区の東に至りて止りたるものの如し」

史料⑤ 飛騨 高山市 岡村利平著 「飛騨編年史要」(1921)
天正十三年十一月二十九日、信濃・飛騨国境の硫黄岳噴火して溶岩山麓の村里道路を埋没し、神坂の古道(謂 信濃峠)絶えたり。

2.連動地震
 天正大地震はいくつもの地震が連動して起きた。

震源について、考えてみたのが表1
トレンチ発掘、考古学的な発掘が必要。それがないと正確にはわからない。表の一番左側の○3・4・7・11についてはトレンチ掘削されて天正大地震で動いたという記録がある。震源地になっている。
津波についてはほとんど知られていなかった。原発の調査で、天正大地震の津波が知られた。5月3日の毎日新聞に、かなぞう詩集の要石というのがあり、浅井了いという人の本。江戸時代の本。これは漢文の自習の時に面白い話しをまとめたもの。敦賀の話しで、敦賀の人が今自身があった。津波が来るかもしれないから早く逃げろ。海の藻屑となるぞとせかして安全な所へ逃げたという話しがある。特ダネとして載っていた。天正地震に出てくるのではと思った。そこまでは到達しないで終わった。せっかく特ダネで出して、結果は面白くなかった。おそらく天正地震の話しを聞いていて、早く逃げろと言ったのだと思う。

3.津波について
1)若狭湾の津波

2)琵琶湖の津波
長浜、ファカタという地名などがあり、検証が必要。それは平方の間違いではないかという事を書いている。地名を訂正すればかなり細かいことがわかるのではと思う。

滋賀県立大学の林教授の琵琶湖固定の調査。配布資料は2倍に拡大してある。琵琶湖の地図。時計回りに数えて行くと、93という数の遺跡が琵琶湖の湖底に沈んでいた。
大変驚いた。
林教授らは、地震の関係したもの3つを選んだ。その結果が表の2にある遺跡名と関与した地震。19、22、84番。昔の人は100以上は数えなかったのでは。そのため千軒となっている。
関与した地震はそれぞれのとおり。

敦賀の地震の時の話しは寛文年間のものではないか。調査の結果、下坂浜千軒遺跡は、液状化→地滑りで湖底に沈んだ。私は液状化→津波→地滑りだと思う。というのは、ポルトガル宣教師の地名にファカタが出てくる。これは平方の誤り。平方は下坂浜のすぐとなりにあった。ファカタが津波に襲われていれば、この下坂浜も津波の被害にあっているはず。

3)伊勢湾の津波
伊勢湾内で地震が起こり、伊勢湾内外に津波の被害があった。
史料⑦ 伊勢の長島町 長島町史上巻

地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・中島等は地盤沈下のところへ(津波が)来襲し、湧没した。善田(殿名村の小字)などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震と共に海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津波が見られた。

火災なども起きているのでそういうものを顕彰すると実情がわかる。東大宇佐美さんは実像がわからないと言っておられたが、実像がわかってきたと思う。史上最大の災害だったと思う。データを整理して比較しないとわからない。内陸部の地震としては一番大きなものが濃尾地震。それと比較してみたいと思う。


司会:原因が火山の噴火に伴って海底とか琵琶湖などでは津波が併発したのではないか。もともと地盤が弱い所については液状化が起った複合災害だったと思われる。
地表より下の所は目に見えないので、そういう歴史学でもデータがあるので、地球内部の大きなエネルギーが地表面に現われて来た時は災害になって出る。わかっていることとはいえ、大変だ。予防が出来ない。どうしたらいいかというと安全なところに住むしかないという事だと思う。安達先生の複合災害の研究は興味がある。もう少し掘り下げて研究していただきたい。



(徳積善太記録)
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