万人講の石碑5_喚応是誰庵主墓
角竹先生の記述より抜粋したものです。
「(5)喚応是誰庵主墓(かんのうぜすい)
是誰は高山の大工で打保屋源蔵というた。文化十二年(1815)剃髪(五十二歳)喚応是誰
と号した。諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に見える。
同十五年二月高山に帰えり、松倉山に簡居し文政三年馬頭観音堂を修理し、峠よりの
新道を設けた。同十一年二月発起し、桐生万人講に茶接待所を取立て(経費は日下部
家負担)自らは其処に居て行旅の人に法話し善導に力めたという。
天保五年十一月二十日死去(1834)」
喚応是誰と言う人は、串柿仙人とも呼ばれていますから、そちらの名前の方が有名かも
しれません。
「もとは、八軒町に住んだ大工で、俗名を打保屋源蔵。妻の死を機に剃髪し一人娘も尼に
して了心尼と名付け、自分は文化12年(1815)6月諸国行脚に出発。九州から函館まで
巡って文化15年2月7日帰郷。
素玄寺の吾秀和尚の世話で寺内に庵を与えられ、松倉観音堂の修理、参道の改修に
奉仕。文政11年(1828)4月に日下部九兵衛の援助を受けて、越中街道の万人講に茶
接待所を開き、旅人に湯茶の接待をしながら処刑罪人の供養を続ける。
松倉観音堂の「不動明王」「出山釈迦」を彫刻。
(松倉絵馬市と観音堂の法要)
飛騨の民話「串柿仙人」は是誰の話。享年71・天保5年(1834)11月20日没。」
(『飛騨人物事典』)
徳積善太
「(5)喚応是誰庵主墓(かんのうぜすい)
是誰は高山の大工で打保屋源蔵というた。文化十二年(1815)剃髪(五十二歳)喚応是誰
と号した。諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に見える。
同十五年二月高山に帰えり、松倉山に簡居し文政三年馬頭観音堂を修理し、峠よりの
新道を設けた。同十一年二月発起し、桐生万人講に茶接待所を取立て(経費は日下部
家負担)自らは其処に居て行旅の人に法話し善導に力めたという。
天保五年十一月二十日死去(1834)」
喚応是誰と言う人は、串柿仙人とも呼ばれていますから、そちらの名前の方が有名かも
しれません。
「もとは、八軒町に住んだ大工で、俗名を打保屋源蔵。妻の死を機に剃髪し一人娘も尼に
して了心尼と名付け、自分は文化12年(1815)6月諸国行脚に出発。九州から函館まで
巡って文化15年2月7日帰郷。
素玄寺の吾秀和尚の世話で寺内に庵を与えられ、松倉観音堂の修理、参道の改修に
奉仕。文政11年(1828)4月に日下部九兵衛の援助を受けて、越中街道の万人講に茶
接待所を開き、旅人に湯茶の接待をしながら処刑罪人の供養を続ける。
松倉観音堂の「不動明王」「出山釈迦」を彫刻。
(松倉絵馬市と観音堂の法要)
飛騨の民話「串柿仙人」は是誰の話。享年71・天保5年(1834)11月20日没。」
(『飛騨人物事典』)
徳積善太