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平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について

(平成25年7月5日放送分 第299回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

 平成18年4月からこの「飛騨の歴史再発見」の放送が始まって、5年と3カ月が経過しました。
今までこの放送をご愛顧いただきまして大変ありがとうございます。いよいよ記念すべき300回目
の放送が来週となりました。本日の放送まで299回の放送をしてまいりました。これもひとえに、
ご愛顧いただきましたリスナーの皆様のお陰であると、感謝申し上げます。

 今まで、この放送を続けるにあたり、毎回A4サイズでびっしり2枚の原稿を書いてきたわけですが、
毎回原稿を替えてまいりました。同じテーマでお話しする事は数回ありましたが、そのほとんどが全く
違う原稿を書き続けてまいりました。リスナーの皆さんから「よく調べているな」とか「すごい事だね」
といわれますが、何度もお話ししましたように、みなさんがお住まいのこの飛騨地域が、すごいところ
だと思います。
調べれば調べるほど、何もないと思っていた場所でも、ちゃんと人間の歴史があり、そこには物語がある。
そういう地域に皆さんがお住まいだと云う事です。いま、飛騨と教如上人の展示に向けて、いろいろと調べて
おりますが、本願寺の教如上人と飛騨の門徒衆が関わりがあり、今から400年前の石山本願寺の戦いの時に、
飛騨から多くの門徒衆が石山本願寺に馳せ参じ、織田信長と戦っているという歴史が有ります。そのため、
現代の感覚ではこんな山奥にという所に、教如上人がお礼のために渡された方便法身尊形が残っていると
いう史実が有ります。そのため、山間僻地といわれる場所にも必ず、人と人のつながりの歴史が存在すると
云う事を目のあたりにしてまいりました。探し方が異なるだけで、新しい発見につながるというようなことも
ありました。

 いま、リスナーの方のご要望にお応えしまして、今までの300回の原稿の一部をまとめて、本にしようかと
準備を始めております。当然、300回の原稿すべてを本にしますと単純計算で600頁以上になりますので、
そこまでの出版は出来ません。とりあえず150回までの放送分をまとめさせていただこうと思っております。
出版はいつになるかわかりませんが、なるべく年内には発刊したいと思っておりますので、またこの放送でも
お知らせいたします。どうぞお楽しみにお待ちください。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、先週お話ししましたように、高山祭りのルーツについて
考えられる事をお話ししたいと思います。先週の放送で、大津絵についてお話し致しました。
実は、下二之町にある鳩峯車台の屋台の旧名が「大津絵」という名前だったこともあり、早速、大津市歴史
博物館の知り合いの先生をお尋ねしました。大津市の歴史博物館は、大津市の比叡山の麓にある皇子山
陸上競技場の高台にあります。遠くに琵琶湖を眺める事が出来る絶景の場所です。そちらには、大津の
縄文時代から今日に至るまでの歴史について、常設展示がおこなわれているばかりか、ビデオなどのアー
カイブを使って、歴史、祭り、文化などを紹介するコーナーがありました。
平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について

今回は、大津絵について調べに行ったのですが、大津にも昔から祇園祭の山鉾のような「山」が存在すると
云う事で、大変興味深く、そのビデオを拝見しておりました。ビデオは2種類あって、大津祭を紹介する15分
程の短編と、大津祭の詳細について紹介している30分の長編のビデオでした。私は、時間が有ったので、
最初、長編の方から拝見しましたが、そこで大変驚いたことが有りました。それは、山の名前とその山の制作
方法です。大津祭りには、祇園祭よりは少ない13の山が存在しますが、その13の内、実に8つの山が、高山
祭りの屋台の旧名と同じでした。また、
こちらの山は、祭の一週間前に各山鉾組の皆さんが、各家や祭の集会所となる場所に保管していた山鉾の
材料を持ち寄って、山鉾を3日間から1週間かけて組み立てる、いわゆる高山で言う所の「屋台やわい」があり
ます。そして、祭が終了すると、また山鉾を分解して各家や集会所に保管すると云う儀式=高山で言う「屋台
片付け」があります。

そういった部分が、高山祭りと大変共通していると云うことを直感的に思いました。また、もし共通していると
すると、誰がこの高山と大津を結んだのか。それについては、2階の常設展示場を拝見して、確信を持ちました。
江戸時代中期に飛騨の豪商として、あるいは文人として活躍した加賀屋の二木長嘯という人が関わったに違い
ないということがわかりました。実は、遠く大津の地に至って、二木長嘯が描いた、大津出身の文化人「木内石亭」
の肖像画が、大津市歴史博物館に展示されていました。
後半ではそのお話しに就いて詳しくお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。松山千春で「私を見つめて」をお届けします。
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本日の放送は、大津祭と高山祭の共通点についてお話ししております。
先週の放送で、大津絵についてご紹介しましたが、高山の秋祭りの屋台「鳩峯車台」の前身は、「大津絵」という
名前でした。また「下法のはしご剃り」という古川の青龍台で演じられているカラクリですが、もともと高山のこの
鳩峯車台組にあったものです。そのため、大津絵と高山の祭屋台の鳩峯車台とは、関連があったということが
わかります。

先ほど、大津祭の山鉾13台の内8台が高山の祭屋台とテーマが同じであると申し上げましたが、いま手元にある
「大津祭総合調査報告書」には、高山の屋台と同じテーマの物が載っています。まず、石橋山。これは湊町の山鉾
で、石橋(しゃっきょう)は謡曲の石橋に基づいたものです。高山では上二之町の上組に石橋台があります。

次に白玉町の西宮蛭子山。こちらは、鯛釣り山といい、古くから西宮の蛭子を出して飾っていましたが、後に山に
乗せるようになったとの事。高山には恵比寿台があります。

次に、殺生石山。こちらは金毛の九尾の狐で帝の生命を奪おうとしていたのを安部泰親に見破られて東国に遁れ、
那須の殺生石となって旅人を悩ましていたが、玄翁和尚の法力によって成仏したという伝説をテーマにしています。
この屋台は高山では恵比寿台の前身がこの殺生石でした。

次に竜門滝山。これは太閤町の山鉾ですが、俗に鯉山と云います。魚の鯉をテーマにしています。黄河の上流の
竜門山の滝はどんな魚でも上がれないが、もし上がる魚が有れば直ちに昇天して竜になると云う故事にちなんで
作られました。俗に登竜門という言葉はこの故事からきています。高山で鯉をテーマにした屋台は本町の「琴高台」
があります。

次に、堅田町の神楽山。これは、屋台の名前だけですが、神楽台という名前の屋台が高山には沢山あります。

次に、上京町の月宮殿山。この山鉾は俗に鶴亀山ともいわれた山ですが、かつては鳳凰台山とよばれていました。
鳳凰台は、上二之町下組や大新町の屋台として存在します。

次に南保町の猩々山。こちらは能楽の猩々から来ていますが、高山の屋台には赤いビロードの幕が張られています
が、これはどの幕も「猩々の血で染めたと言われる幕」ということで、猩々が絡んでいます。
以上の8つの山が高山祭りと共通する山の名前です。

そして、最後にもう一つ、現在は大津祭りには残っていませんが、新町の山鉾組では、現在は山はありませんが、
練り物の布袋を所蔵していて、祭になると当番のヤドとよばれる祭会所に飾られています。布袋台は下一之町
上組です。このように、非常に高山祭と共通するテーマが多いのが大津祭です。

また、共通するシステムとして、先ほど、屋台やわいと屋台かたづけのお話しをしましたが、それ以外にも、祭の
作事方と呼ばれる曳き山の組み立てに専従する人夫衆の確保の方法があります。この祭の時には曳き山の組み
立てや巡行の総責任者として采配を振る晴れ姿と男粋を誇りとされていた人達が居ました。
かつて、この人達には近在の農家の人達が関わっておられました。自家生産の野菜などを町方の人に買ってもらい、
肥料(下肥え)などを供給してもらっているという関係が有ったようです。高山の場合も同じで、旦那衆の所に出入り
する人達がこの祭の日だけは、無礼講で祭料理とお酒をふんだんに飲む事が出来る習わしになっていました。

おまけに、屋台組の人口の少ない屋台組では、こうした在郷衆が祭の采配を司る事もあったようです。そういった
意味では、徒党や打壊しを避けるために、旦那衆が知恵を出して農民の人達に普段から振る舞ったり、機嫌を
とったりするのが祭であったようにも思いますので、そういうシステムとして取り入れたのではとも考えられます。

さて、そのシステムを取り入れたのは誰か。私は二木長嘯だったのではと思いました。
その頃、二木長嘯は、大津出身で珍しい石の収集家 木内石亭のところに再三通っていました。絵心のあった長嘯は、
木内石亭との交流の果てに、石亭に肖像画と讃を書いて寄贈しました。大津歴史博物館にはこの木内石亭の肖像画
のレプリカがあり、そこには「栗東市歴史博物館」所蔵・「飛騨高山の二木長嘯 画と讃」となっていました。
平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について
地元の二木酒造さんで確認した所、「原本は高山にあり、精巧に造られたレプリカが栗東市博物館にあります。また、
長嘯という人は、木内石亭と盛んに手紙のやり取りなどをしていて、現在56通の書状が国の重要文化財に登録されて
います。」ということでした。
平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について
これについて、高山市の文化財課に問い合わせたところ、登録されていないのかと思っていたら、この文書は、二木
長嘯コレクションの一つとして国の重要文化財となっていました。

後に津野創州なども長嘯の紹介で木内石亭と交流を持った事が知られています。まだ、想像にすぎませんが、大津祭り
と高山祭の共通点、これが長嘯を通じた関係で出来た事はおそらく間違いないのではと思っております。
もしこれについてご存じの方が有りましたら、是非ともお知らせいただければと思います。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、いよいよ300回目の放送になります。300回記念特集としまして、200回
から300回の放送について振り返ってみたいと思います。どうぞお楽しみになさってください。
本日はこの曲でお別れです。で「」をお届けします。それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太
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