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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2008年08月21日

岩村城へ行ってきました4


ふもとにある、岩村城の案内図


岩村城の一番ふもとにある 太鼓櫓


岩村歴史資料館にある岩村城の模型。

実際に行ってみると、車でも上がれるので高さがわかりませんが、こうして模型で見ると
かなり大きな山を利用して作られているお城だということがわかります。

このお城、女城主で有名になっていますが、実は森欄丸も天正10年3月に城主になっています。
実際には、居城せず、家臣の各務氏を置いていました。
ところが、その3ヵ月後に、本能寺の変がおき、森欄丸は織田信長と共に討ち死にしますので、
実際には、3ヶ月間だけ城主だったということです。


岩村城古絵図


岩村城年表

徳積善太

  

2008年08月20日

二条家の掛け軸

今日、願生寺さまにおじゃましました。先頃入手された二条家の掛け軸を見せていただきました。
和尚様の曽祖母にあたるかたは、京都の二条家から来られた奇姫(くしひめ)と呼ばれた方でした。
  

2008年08月19日

岩村城へ行ってきました3


頂上にあった案内図

岩村城 出丸

出丸は本丸の南部の防衛の役目を持ち、東曲輪帯曲輪と共に本丸を防衛した。
櫓が二つ多門が三つあり、門は一つのみで帯曲輪からしか入れなかった。
櫓は二重櫓と太鼓櫓があって城下町がよく見える位置にある。太鼓櫓には大太鼓があって、
非常の際は城下に知らせた。この太鼓が打たれると武士達はただちに完全武装して登城し、
定められた部署について戦争等の準備をした。城下町の町民は火をすべて消し、木戸を締めて
城からの指令を待った。
多門は三つあり、一つは武者隠多門といって、戦争のときに城兵を待機させた建物である。
一つは大工小屋といって、城の営繕関係の中間(ちゅうげん)が仕事をしていた。



なんと、頂上にあった茶屋は「欄丸」という名前の茶屋でした。営業していなかったです。


頂上にあった茶屋の周辺。
この辺は、かつては出丸の建物があった場所でした。

徳積善太
  

2008年08月18日

8月18日放送分_茂住宗貞の謎について

<8月18日放送分>みなさんこんにちは。飛騨歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは、飛騨の生涯学習者第2号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、8月も第三週に入りました。お盆休みも終って、観光関連業者の方はほっと一息といったところでしょうか。
このお盆は、8月15日が金曜日という事もあり、今年は前半と後半に分かれてお休みを取られた方が多かった
のではないでしょうか。どちらかというと観光地は分散傾向にあったのではと思います。

子供たちも、夏休みはあと少し。気がついてみると、宿題の山がという子供も多いのではないでしょうか。
実は私も子供のときは、夏中遊んでいて、最後の一週間で、やっつけるように宿題と夏の自由研究をこな
していた1人です。そのためか、自由研究では、やっつけ仕事ばかりしていましたから、賞には恵まれません
でした。

さて、今週は、第三週ですので、古川や飛騨市のことについてお話したいと思います。
先週予告をさせていただきましたように、今日は「茂住宗貞」について、お話させていただきます。


皆さん、茂住宗貞って、どういう人かご存知でしょうか?
 飛騨では一般に、金森宗貞などとも呼ばれ、金森公が飛騨を知行していた時代の、鉱山師として
有名な方ですよね。この「茂住」(もずみ)というのは、漢字で書くと茂るに住むと書きますが、場所の
名前なんです。
神岡から国道41号線を富山方面に行くと、有峰湖へ行く跡津川の合流点がありますが、そこから
まだ先に5分ほど走ると、集落の集った地域があります。そこが茂住という地域です。

昨年、古川のふるさと案内人会の研修会で、私も初めて茂住という地域にお邪魔しました。
今まで、富山に行くときに41号線ですっと通るだけで、なかなか立寄った事はありませんでしたが、
行ってみると、かつてはそこに人口2000人以上の集落や、料理屋などが立並んでいたというだけ
あって、古くて大きな建物が密集しており、中には高山の三之町あたりにある建物と変わりがない
ようなものまでありました。その建物の土間に建つと、かつてここでたくさんの鉱山関係者の方が、
酒を飲み、情報交換をしたんだなと思いました。

さて、話を茂住宗貞に戻しますが、この人については、調べてみましたが、なかなか本になったものは
ありませんでした。金森史とか、飛騨編年史要とか、大野郡史などを見ますと、書いてあることがまち
まちで、いったいこの人は、いつからいつまで飛騨で活躍したのか、わかりませんでした。

たとえば、こんな記述があります。高山市郷土館の発行された「金森史」という本から引用しますと、

・天正17年(1589)、飛騨国東茂住の豪民にして糸屋彦次郎宗貞は国主長近に仕え、
姓を賜り金森宗貞といった。(越前大野城と金森長近)
・慶長13年(1608)長近が逝去したことを知った金森宗貞は、茂住のわが家に火をつけ、自身は
即刻越中へ逃げ、能登へ退いた。(飛騨国中案内)
・同8月24日 金森宗貞、邸を発して敦賀に逃げた。(越前大野城と金森長近)
・寛永8年(1631)この年、重頼、宮島平左衛門を金山奉行となす(大野郡史)
・寛永15年(1638)5月宮島平左衛門、讒者(=ザンシャ、そしる人)の言によって高山城中に殺さる。
・寛永18年(1641)5月重頼、城中に宮島平左衛門の霊を祀る。(大野郡史)
・寛永20年(1643)宗貞歿す。年八十五歳、法号岸松院殿乾應宗真大居士。
(越前大野城と金森長近)
・寛文8年(1668)9月18日頼業、鉱山師茂住村宗貞の驕奢を悪み、其下代宮島平左衛門を
城中に殺す(飛騨編年史要)
・寛文11年(1671)金森頼業、江戸にて卒去。

というような事が書かれているのですが、いまお聞きいただきましたように、一度死んだ人が生まれ
変わったり、また、宮島平左衛門という人が二度も死んだり、支離滅裂なことがかかれています。
歴史というのは、本などによっても記述が違いますので、時々こういうことがおこるんです。
後半では、この辺を整理していきたいと思います。

さて、ちょっとこの辺で一度ブレイクしましょう。曲は「中原めいこで 君たちキウィ・パパイア・マンゴーだね」
をお届けします。
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今日の飛騨歴史再発見は、茂住宗貞についてお話しています。
さて、私も調べているうちに結局わからなくなって、昨年のふるさと案内人会の研修会で講師を
勤められました、茂住の片山先生にお尋ねしました。先生は、茂住で十数代続く旧家の方で、茂住宗貞の
ことについていろいろとお調べになっておられました。

先生から一冊の本を見せていただきました。明治時代に柿下廣業という人がまとめた、茂住宗貞略伝
という本です。この本は、当時地域に伝わっていた口伝なども含めてまとめられたものですから、信憑性
については、薄いですが、結構詳しくまとめられていました。

それによりますと、茂住宗貞は、糸屋彦次郎宗貞といい、もともと越前の人で、金森長近が飛騨に入国
したときに、連れてきた人だったそうです。鉱山師とは書いてはありませんが、いわゆる商売人の類で、
鉱山師の人たちをまとめる元締めをしていた方だったようです。彼は、先ほどの話にもありましたように、
金森長近とは、昵懇の間柄だったようですが、彼が亡くなったことを察知してすぐに、飛騨を後にし、
越中へ逃れました。
途中、倶利伽羅峠のところで、蛇に出会い、それを殺した事から、打つという字に蛇と書いて、打蛇と
名乗り、そのままでは具合が悪いと、蛇の字から虫へんを取った字を使って、打它宗貞とそれからは
名乗ったそうです。その後、敦賀に逃亡したようです。その地で、商売をして、その後大商人になったと、
敦賀市史にも書かれています。

当時、北前船で秋田や山形といった米所から米を運ぶのには、日本海を南進して下関をぐるっと廻り、
瀬戸内海を通って大坂へ運ぶのが一般的でした。しかし、彼が行った商いは、敦賀で一旦米を水揚げして、
その米を陸送して、琵琶湖の北岸から琵琶湖~淀川を通じて京都・大阪に運ぶといった商売でした。
運賃が節約できるばかりか、納期も短縮できるため、かなりの商売を営んでいたようです。

もっとも、なぜ、敦賀に逃亡したという事ですが、おそらく、飛騨にいた頃から、彼は商売の拠点をそこに
作っていて、金森長近公の逝去を知ったと同時に、自分の身を守るべく、そこに移転したのではと思われます。

後に彼は、事業で大成功をおさめ、敦賀では、お寺に梵鐘を寄進したりして、一大檀那衆としての生涯を
終えます。彼の息子は、京都に支店を出していましたが、どちらかというと商売よりも茶の湯の先生として
活躍をしたということです。

さて、先ほどの話に戻しますが、先ほどの話の中で、2度死んだ方がありました。宮島平左衛門という方です。
飛騨編年史要には、彼は茂住宗貞の下代ということになっていますが、宗貞と平左衛門は、違う時期に活躍
した方と見た方がよろしいようです。また、平左衛門が2度目に死んだ事になっている寛文8年の話は、どうも
うさんくさい感じがします。
たまたまこの頃に、金森家に不幸が相次ぎ、当主の頼業も24歳という若さで亡くなったために、あとから人々が
「あれは、宮島平左衛門を城中で殺したたたりである」とのうわさが立ち、作られた話ではなかろうかと思います。

 実は、最近、JAひだで黄金菊を奉納されたニュースがありましたが、護国神社にある「黄金神社」。じつは
この神社の祭神が「今日お話した、茂住宗貞と宮島平左衛門」の二人なんです。
もともと、金森家に連続して不幸な事が起こるというので、平野神社として二ノ丸に宮島平左衛門が祀られて
いました。
文化年間になって、この祠が老朽化したために、町年寄が相談して、神社の祠の新築を高山陣屋に願い出ます。
ところが、新築は承認されず、結果的に修復ということで許可が出ますが、このときにどうも茂住宗貞と宮島平左衛門
を合祀して祀ったのが、いまの黄金神社だったようです。

この位牌は、高山市の大隆寺に保管されていて、右側に茂住宗亭の法名、左側に宮島平左衛門の法名が書かれた
位牌が、現在も大隆寺に祀られています。

実は、この宮島平左衛門という人、法名が2つありますので、これについては、現在調査中です。
もしご存知の方がありましたら、私までお知らせ下さい。

さて、今日も時間となりました。来週は、第4週目ですので、先月の続き、運材に関するお話をしたいと思います。
それでは、今日はこの曲でお別れです。曲は「杉山清隆とオメガトライブで サマーサスピション」
ではまた、来週!

徳積善太
  

2008年08月17日

岩村城へ行ってきました2

昨日に引き続き、岩村城の城跡の写真です。


大変大きな岩村城の立て看板


本丸の説明書き


本丸の説明書き2


上から見た、見事なまでの石垣


「昇竜の井戸」 こんな海抜の高いところでも井戸があったのは驚きです。


それにしても広い本丸

徳積善太
  

2008年08月16日

岩村城に行ってきました1

森欄丸の足跡をたずねて、岩村城に行ってきました。

岩村城は、旧恵那郡の岩村町にある山城で、女城主の伝説のあるお城です。
森欄丸は、わずかの期間でしたが、この城主をつとめていたそうです。
ただし、岩村の郷土館には、その展示がありませんでした。


頂上付近 面白い絵人形の立て看板が


頂上に残る見事な石垣


かつてはここに本丸の城門があったのでしょう


本丸広場


岩村城の看板

徳積善太  

2008年08月15日

飛水峡

金山以南、白川に至る30km程は、飛水峡と呼ばれている景勝地です。ここもかつては、材木運送の難所。高山線建設の難所でした。
  
Posted by rekisy at 16:36Comments(0)TrackBack(0)運材について

2008年08月14日

中山七里

下呂から金山を経て白川に至る30km程は、中山七里と呼ばれている景勝地です。かつては、材木運送の難所。高山線建設の難所でした。
  

2008年08月13日

9月1日からの展示会2

9月1日からの金森展では、たくさんの初公開展示史料を用意することができました。

その一部をチラシに掲載しました。



みなさん、ぜひお越しください。

徳積善太
  

2008年08月12日

9月1日からの展示会

9月1日から24日まで、飛騨市美術館において、「金森氏とまちづくり展」を開催することになりました。
昨日、そのチラシを作りました。

一晩で作り上げましたが、大変でした。



徳積善太  

2008年08月11日

8月11日放送分 飛騨に入った浄土真宗

(8月11日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。

さあ、世の中はお盆休みに入りました。今年のお休みは、大企業の方ですと9日から17日の9日間の
休みとなっているわけですが、高山は観光関連の業種の方が多いですから、今が一番の稼ぎ時です
ね。景気のほうはいかがでしょうか?

 今年はGW以後、ガソリンの相次ぐ値上げで、マイカーでお越しになる個人客の方がずいぶん少ない
ように思います。観光課に聞きましたところ、今年は日本人観光客は激減していて、逆に外国人観光客が
前年対比、3割増ということでございますので、高山も段々国際観光都市になってきているんだなあと
思います。
ただ、国内観光客が少ないかと思うと、京都では、外国人も含めて年間4800万人もの人が来ているそう
ですし、来年は5000万人を目標にしているとのことですし、先日の、日経ビジネスにも、外国人人気観光地
に、高山と金沢が上げられていました。高山の観光業者も頑張らないといけませんね。

さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、今週は、お盆の時期でもございますので、
浄土真宗に関したお話をしたいと思います。別にお盆の時期だからというわけではないのですが、この
ところ、浄土真宗の研究家 東等寺の竹田さんとご一緒する機会が多くて、今年3月からあちこち調査に
行ってきました。
 たいへんな発見もありましたので、少しだけご紹介したいと思います。

 学校で歴史の時間に習いましたが、浄土真宗など、仏教が新しい宗派のもとで、広がりを見せるように
なったのは、鎌倉時代だといわれています。 それまで、飛騨のみならず全国に広まっていたのは、天台宗
や、武士の保護を受けていた真言宗という2台勢力でした。中でも飛騨では、白山のお膝元ということもあり、
白山信仰などの山岳宗教の一部でもあった天台宗が、最も広まっていて、今でも白山神社を信仰することで
形を変えて飛騨には広まっています。

真言宗や天台宗が、下火になってきた頃、今度は禅宗が入ってきます。これは、臨済宗、曹洞宗などと
いった宗派で、室町時代になり、守護や地頭の保護を受けながら広まっていったものです。
いわゆる武家社会という強力なスポンサーの保護の下に、禅宗勢力は広まって行きました。
ただし、どちらかというとこの禅宗系の仏教は、自らが修行することによって精神を高めていくといった要素が
多分に含まれており、いわゆる一般民衆が修めるといったものではありませんでした。

一般民衆は、武家社会の狭間で、貧乏をしながら一生懸命生きていたという状況ですから、自分が死んだら
どうなるか、生き地獄から逃れて、せめて極楽に行きたいという信仰心があったことと思います。

その中でも、浄土宗を開いた法然上人は、「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土にいける。一度でも十度でも
いい。それは信心の深さによる。」と一般民衆を救うためのお念仏を説いたため、一般民衆に非常になじみ
やすかったと思われます。
その考えを継承したのが、親鸞上人で、浄土真宗の教えを広めるのに、いわゆる貧しい暮しを強いられている
山間部、一般民衆を救うために広めた為に、かなりの速さで広まって行きました。


親鸞聖人絵伝  
昔、道場ではこういった絵図を使ってどのように親鸞上人が真宗をお広めになったか物語風に話して聞かせた。

飛騨に浄土真宗が入ってきたのは、いつかというと、諸説ありますが、まず時宗が入ってきたと思われます。
いわゆる踊念仏というもので、「南無阿弥陀仏」と称えながらどんな人でも救われることを称えた一遍上人の
教えでした。そうしたものが広がって入る所へ、飛騨には2つの系統で浄土真宗が入ってきます。

一つは、親鸞上人の弟子で、後鳥羽上皇の皇子 嘉念坊善俊という人が、白川の中野に道場を開いた照蓮寺
の系統です。別院の発行した高山別院史によりますと、弘長2年(1263)に親鸞上人が入寂してから、白鳥で
道場を開かれ、その後白川の鳩ヶ谷に移り、弘安五年三月三日(1282)に69歳で亡くなったことが書かれて
います。

そしてもう一つは、願智坊という、真宗三代目の覚如という人の弟子が、最初は益田郡の小坂に道場を開き、
後に神岡の吉田に聞名寺を開いた系統です。後にこれは、常蓮寺・大国寺というお寺になって、北飛騨を中心に
広まりました。こちらは、照蓮寺よりも少し後の正和元年(1312)年頃のことです。

吉田の常蓮寺

飛騨の浄土真宗の寺院は、現在、お西系(聞名寺系統)が22ケ寺。お東系(照蓮寺系統)が80ケ寺あって、
飛騨の寺院勢力では一番大きなものになっています。ただ、昔は、お西とかお東といったものはなくて、全て
本願寺系統と呼ばれていました。
このお東とかお西とか言うようになったのは、ずっとあとの江戸時代の慶長7年(1602)のことです。
これについては、後でお話します。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「何も言えなくて夏」をお届けします。
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今日のひだ歴史再発見は、飛騨に入ってきた浄土真宗の事についてお話しています。

さて、飛騨の浄土真宗の寺院が広まったのは、8代目の蓮如上人が、京都を追われて、越前の吉崎という
ところに道場を開いたことによります。それまで、浄土真宗は、京都の大谷というところに本拠地を置き、
お念仏を広めておられましたが、一般の人でも南無阿弥陀仏と称えるだけで極楽浄土に生けるという
そんな簡単なものではないと、禅宗系の寺院や、天台系の寺院などより迫害を受け、京都から追われる
ことになりました。

そのため、三代目の婥如上人は、一時期、越中に逃れ、瑞泉寺に移っていた事もあります。
それ以後、浄土真宗の拠点は北陸が中心でした。8代目の蓮如上人もその一人で、越前の吉崎という
ところに道場を作り、浄土真宗の教義を広めておられました。越前は、飛騨とも比較的近いために、たくさん
の迷える人たちが飛騨から峠を越えて越前に入り、蓮如上人の下で、帰依されたようです。

そのため、蓮如上人の下賜された「六字名号=南無阿弥陀仏」や「九字名号=南無不可思議光如来」
「親鸞上人絵伝」といったものが飛騨には数多く存在し、あちこちに道場が開かれていきました。
大体、飛騨の浄土真宗寺院の創設を調べてみると、文明~永禄年間(1468~1490)にかけて作られた
寺院が圧倒的に多いです。

永禄から天正時代にかけて、いわゆる世の中が戦国時代と呼ばれていた時には、一般の農民も戦場に
借り出されました。それまで、田畑を耕す生活だった人が、鍬を刀や槍に変えて人殺しをするようになり
ます。戦場は生きるか死ぬかの戦いですから、自分がやらなければ相手にやられる。
当然、殺戮ということに対して心を傷めたことでしょう。何人も殺しても、殺すたびに、罪の意識を持った
でしょうから、「これだけの人を殺せば自分は極楽に生けるんだろうか。地獄に行くのではないか。」など
という罪の意識を持ったことと思います。

浄土真宗の信者の人たちに、仏敵と呼ばれた人がいます。それは、織田信長です。
彼は、天下布武を目標とするあまり、浄土真宗のみならずほとんどの仏教信者を敵に廻しました。
有名なのは、比叡山の焼き討ちや、石山本願寺の戦い、桑名の一向一揆、越前の一向一揆の掃討
ですね。彼は本能寺でなくなるまでに4万人の人を殺したといいます。
浄土真宗の信者からすれば、「ただでさえ、嫌な世の中で、自分を救ってくれるのは、阿弥陀様しかおられ
ないのに、それをも冒とくする信長は、仏様の敵である」と信じ、戦った事でしょう。

天正3年から10年まで起った、摂津石山本願寺の戦いには、飛騨からもたくさんの信者の人が石山本願寺
に行って戦っています。終了後、帰ってきた人もいますが、風呂にも入らず、毎日戦いを行っている間に、
すね当てにすね毛が絡まってしまい、なかなか取れなかったなどという逸話も残っています。

さて、そんな浄土真宗でしたが、飛騨を平定するのに巧みに浄土真宗を味方に付けた武将がいました。
それは、高山城主 金森長近でした。彼は、越前の一向一揆をわずかの時間で平定し、その褒美として
越前大野の2/3を知行地としてもらいます。天正3年のことです。
しかしその後、天正十四年に今度は飛騨を平定します。それにもそれだけの時間をかけていません。
また、彼の賢かった事は、その浄土真宗を自分の城下に取り入れて、城の中に本山を置き、戦争に明け
暮れる自分の代りに知行地を守らせたことです。おととし、岡崎の勝鬘寺というお寺から書状が発見され
ました。照蓮寺の明了に宛てた手紙です。
これには、「新門跡様(教如上人のこと)もおっしゃっているから、高山へ寺坊を移して、高山の町を留守中に
守ってほしい」ということが書かれていました。


顕如上人

この頃、天正時代に秀吉によって本願寺が2分され、石山本願寺を守った11代の顕如が亡くなったときに、
12代目を長男の教如上人が継ぐか、はたまた3男の實如上人が継ぐかでもめました。
その時、母親の如春尼の口添えで、自分が溺愛していた3男が跡目を継ぐ事になり、二つの本願寺系統に
なりました。後に、慶長になって教如上人は、分裂を拒んだようですが、徳川家康が寺地を寄進して2つの
本願寺が誕生したと言われています。
このとき、家康に教如上人を紹介したのも金森長近であったとのことです。
茶の湯を通じて、長近という人は教如上人と深いつながりがあったということです。

このお話のつづきは、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。

さて、本日も時間となりました。来週は、第三週目になりますので古川など飛騨市のお話、今回は、茂住宗貞
の謎というお話をお届けしたいと思います。今日は、この曲でお別れです。
曲は「山口百恵で ひと夏の経験」ではまた来週。

徳積善太
  

2008年08月10日

金森家と町づくり展3

昨日は、高山のT寺様にお邪魔して、借用品を確認してきました。


大阪冬の陣の陣形図   これは、本邦初公開となります。


大阪冬の陣の別の陣形図。 こちらには、3つの金森の名前が書かれています。

一つは、金森出雲守・・・金森可重のことです。
2つ目は、金森掃部介・・・金森長近の兄 政近の子供です。
3つ目は、金森出雲守・・・金森可重のことで、淀川河口の警護2番手として小出氏と共に
3千騎をもってあたるように書かれています。

昨年の郷土館長 田中氏の講演にもありましたが、金森家はお家存続のために、家康方と
豊臣方に分かれて戦ったとの事。お家存続のためかどうかわかりませんが、両陣営に
分かれてたたかったことは事実のようです。

また、編年史要によりますと、この掃部介は、萩原の旅館に住んでいたとなっています。
この史実については、あまり解明されていません。

徳積善太


  

2008年08月09日

佐藤家の所蔵品2

9/1から行う予定の「金森家と町づくり」展

佐藤家の所蔵品にこんなものがありました。


金森家先祖書

江戸時代の高山の豪商 桐山力所が所蔵していた本を佐藤家の先祖が書き写した
もの。弘化4年のもの(江戸時代末期)です。


中はこのようになっています。(内容は現在分析中。ほぼ皆さんのご存知の通りです)


備品のなかに、こんなものまで見つけました。田中大秀著の飛騨八景の絵図です。

これらのものは、来年までに「佐藤家遺品展」として開催しようという話になりました。
まだ、公開されていないものばかりだそうです。

徳積善太  

2008年08月08日

佐藤家の所蔵品

実は、このたび、9月1日から24日まで、古川の飛騨市美術館(旧 山樵館)にて、
「金森家と町づくり」展を行うことになりました。

現在、あと3週間しかないので、その準備に取り掛かっています。

そのため、金森関係の展示品を絞り込み中ですが、古川町上町にあった佐藤家の
所蔵品について、確認することができました。
展示する予定の一部をご紹介します。


金森宗和の花生け


金森重頼公、頼直公の短冊

このほかにも、たくさんの展示品を展示する予定です。
本邦初公開のものがたくさんあります。ぜひご覧ください。

徳積善太  

2008年08月07日

兼山に行ってきました5


欄丸のお兄さん 森長可(ながよし) 第二代金山城主 永禄年(1558)~天正12年(1584)

織田氏の家臣、のち羽柴秀吉に仕える。森可成の次男。一説に嫡男。
通称:勝蔵(勝三)武蔵守。 本名:長可
いみな:前武州太守鉄囲秀公大禅定門  菩提寺:可成寺(かじょうじ)

元亀元年(1570)、父可成討ち死にに伴い、十三歳で家督相続し、美濃兼山城主となる。
天正二年(1574)頃より織田信忠に属し、畿内諸国に従軍している。同十年二月甲斐・信濃
武田領侵攻の際にも、先方を務める信忠に従軍。飯田城・高遠城攻めに参加し、その
直後から上野(群馬県)へ進軍して国人(在地領主)を従属化させている。

戦後、信濃の高井・水内・更科・埴科四郡(金山を含め、約二十万石)を与えられ、信濃
海津城に在城。領内の治安維持、安定化に努めていたが、信長父子が本能寺で死去
(天正10年(1582))すると、信濃から撤収。本貫(本地)美濃金山城にもどり、
羽柴秀吉に所属。岐阜城の織田信孝と対峙する。

 同12年3月織田信雄・徳川家康と交戦する秀吉に従軍。犬山城を陥れる。
 同年4月9日、義父池田恒興とともに三河侵攻を図るが、長久手において家康の奇襲
に遭遇し、討ち死に。行年27歳。
なお、直前の3月26日付けで、尾藤知宣(甚右衛門)に対して遺言状を残している。」

徳積善太


  

2008年08月06日

兼山に行ってきました4


森家初代城主 森欄丸のお父さん 森可成(よしなり=三左衛門)1523~1570

「森家は、源義家の七男義隆より出で、相模国(神奈川県)森荘に住して「森氏」を称し、のち
美濃国に移り明智氏に仕えた。可成は義隆十八世の孫といい、「三左衛門」と称し、明智氏滅亡後
は斉藤道三に従い、さらに織田信長に属し献策するところが多かったと言われる。

信長の美濃東方侵攻時の勲功により烏峰城(うほうじょう)を与えられ、永禄8(1565)年、羽栗郡蓮台(田台)村
より金山に移り、烏峰城を修築して「金山城」と称し、城持ち武将となった。

 永禄11(1568)年には信長の近畿平定の軍に従い、信長の銘により滋賀・宇佐山の二城を守った。
しかし、信長が攝津に攻め入るや、可成は浅井長政・朝倉義景に攻められ、元亀元(1570)年9月19日
小勢ながら奮戦し討ち死にした。享年49歳。
信長の近習「欄丸」・金山第二代城主「長可(ながよし)」・第三代城主(忠政)の父である。」

徳積善太
  

2008年08月05日

別院の暁天講座



昨日と今朝と、別院の暁天講座に行ってきました。

今日の講師は、宮大工で大変有名な八野明さんが講師でした。
ご自身の体験談や、今までのご経験を中心にお話をされました。

修理した屋台は130台以上。寺院や鐘楼なども手がけておられます。
しかし、五重塔を作ったことや、玉虫の厨子を作ったこと、中田金太さんとの出会いで
屋台を8台も作られたことは大変な感激だったようです。
この模様につきましては、また改めてブログに掲載します。

今日、お話の中心は、屋台の車輪について。
いろいろなタイプがあることと、材料によって作り方が違うことをお話されました。


別院の暁天講座は今日で終わり。今年は私は2日だけ参加しました。


徳積善太
  

2008年08月04日

8月4日放送分 武田軍の飛騨侵攻について

(8月4日)みなさんこんにちは。このコーナーは飛騨歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 私 ながせきみあきがお届けしてまいります。

もう8月に入りました。今年の梅雨は、例年より入梅が早かったようですが、あまりまとまった雨は
降らずに終ってしまった観がありますね。しかし、それにしても、暑いですねえ。これも地球温暖化の
影響なんでしょうか、このまえ、台湾の友人にメールを出したら、なんと高山の気温と台湾の気温が
同じである事がわかりました。今年の中部地方は、熱い空気に覆われているようです。
どうぞ、体調管理にはくれぐれもお気をつけ下さい。

さて、今日の放送は、先週予告をさせていただきましたように、武田軍の飛騨侵攻についてお話
させていただきます。

私もこれについては、今まであまり知らなかったのですが、興味を持って
調べてみると、様々な人間関係の狭間に、飛騨という一国は置かれていたんだなということが
わかりました。
皆さんもそうだと思いますが、戦国の世の中で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった3英傑
の話や、隣国の齋藤道三の話などは、よく大河ドラマなどで取り上げられているので知っています
が、ではその時、地元飛騨ではどうだったか、ということはあまりご存じない事だと思います。

ちょっとここで、戦国時代に金森氏が飛騨に入国する前の戦力状況について、考えて見ましょう。
時代はだいたい永禄年間(1558~1570)前後40年のお話です。
織田信長は、愛知県の尾張にいて、秀吉はその家来として仕えていました。家康は、その少し南、
三河にいました。静岡県の駿河には、今川義元。隣の山梨県、甲斐と信州には武田信玄。
新潟県の越後には、上杉謙信。岐阜県の美濃は、齋藤道三。福井県の越前には朝倉氏。
滋賀県には浅井氏が勢力を張っていました。戦国時代にこういった英傑がいたというお話や、
三英傑の話しは、皆さんすでに大河ドラマなどでよくご存知ですよね。

さて、その頃、飛騨ではどうであったか。この番組でもお伝えしてきましたが、下呂市の竹原から
萩原あたりにかけては、三木氏が知行していました。高山盆地は、鍋山氏、飯山氏、岡本氏などが
知行していました。この3家はのちに三木氏によって滅ぼされますので、最終的には三木氏が
高山盆地を制する事になります。
白川郷は、南側が内島氏。北側が浄土真宗の照蓮寺がありました。
古川盆地は、南側を広瀬氏、北側を姉小路三家である小嶋氏、牛丸氏、姉小路氏が知行していました。
神岡のあたりは江馬氏が知行していました。

こうやって話してみると、かなりたくさんの小さな豪族が、飛騨を分割して仲良く知行していたわけ
ですが、これらの豪族を打ち破って、台頭してくるのが下呂あたりを知行していた三木氏です。
三木氏は、良綱、自綱の2代にわたってこれらの小さな豪族を破り、北へ北へと進出し、最終的
には飛騨を統一するまでになります。
この三木氏を破って飛騨の領主となったのが、再三お話しています金森長近という武将です。

 さて、この飛騨の武将が、この永禄年間にどういう状況にあったかというと、好むと好まざるとに
関わらず、武田と上杉のどちらの配下になるか、二者択一を迫られていました。
まず、三木氏は、自分が北進する為に、眼前の敵は、吉城郡にいた広瀬氏と江馬氏でした。
つまり背後にいた上杉謙信と手を結んでいました。再三、上杉に使者を送り、また最終的には、
自分の手下であった塩屋筑前守秋貞という人を上杉の貴下において、上杉が上洛する為に、
越中富山へ進軍する手助けをさせます。

 一方、攻められる側の広瀬氏は、三木氏の背後にいる武田軍と手を結びます。今まで平和に
小さな豪族達が仲良く暮らしてきたのを脅かそうとする三木氏の動きを広瀬氏は大変警戒して
いました。そこで、武田信玄に書状を送り、再三、出兵を促して三木氏を滅ぼしてくれるように
頼んでいます。
しかし、武田信玄の目的は、上洛と背後にいた上杉勢力の弾圧でしたから、上杉の上洛を阻止
する目的で信州から飛騨を通って、越中の浄土真宗と手を組み、援軍を差し向けています。
そのため、自分の手下や配下の軍を遣わして飛騨を攻めたのです。

 また、その頃の江馬氏は、飛騨のみならず越中にも進軍していましたから、家内が2つに
われていました。武田軍と手を結ぶもの、はたまた上杉軍と手を結ぶものの2つのグループが
ありました。江馬氏は、武田氏についたり、上杉に付いたり揺れ動いていました。
さて、武田軍が実際に飛騨に攻め入ってきたお話は、後半ですることにしましょう。
ちょっとここでブレイク。曲は「サザンで勝手にシンドバッド」をお届けします。
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今日のひだ歴史再発見は、武田軍の飛騨侵攻の事についてお話しています。

さて、飛騨に武田軍が何回来たかについてですが、神岡の郷土史研究家 葛谷先生の著述など
によると5回も飛騨に侵攻してきています。一部、諸説があって、解らない部分もございますが、
先生の著書「中世 江馬氏の研究」という本と、岡村利平氏の本、金森史などをもとに、私なりに
分析した話をご紹介したいと思います。

まず1回目は、永禄2年(1559)六月下旬、第二回の川中島の戦いの翌年に、飯富昌景、馬場景政、
甘利晴吉が、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠を越えて、信州から
攻めてきたというものです。この時は、飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、江馬が武田軍に
降伏して、知行地の安堵をされています。また、平湯温泉はこの時に発見されたとされています。

平湯で発見されたといわれる「神の湯」(平湯温泉HPより)

さて、飛騨に入ってきた2回目は、永禄3年(1560)の大威徳寺の戦い。これは、弘治元年(1555)より
武田軍と同盟下にあった苗木城の遠山氏が、飛騨に攻め入ってきたときの戦いです。下呂の舞台峠
のところに、かつて大威徳寺というお寺がありましたが、三木氏はこのお寺に立て篭もり、遠山軍を
迎え撃ちます。ただし、この時は、伽藍を含めて建物のほとんどを焼き尽くされ、三木氏が敗北する
という結果になりました。
この大威徳寺の戦いの年度については、諸説あって、飛騨では永禄3年(1560)とする説が最も有力と
されていますが、元亀3年(1572)ではないかとする説もあります。

3回目は、永禄7年(1561)3月、飯富軍が安房峠を越えて、飛騨に入り、高原の江馬の館を取り囲んだ
というもの。このとき、江馬父子は、再び武田方の軍門に下り、輝盛の弟 善立を人質として武田に
入れました。

4回目は、永禄7年(1561)5月。これも同じく、飯富昌景が山県昌景と名を変えて、飛騨に入ってきます。
この時は、江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を滅ぼすためでした。
このとき、塩屋筑前守秋貞の居城である丹生川の尾崎城が焼き討ちにあっています。同時に、スポン
サーである三木氏を擁護していた千光寺も一山ことごとく焼き討ちにあっています。この千光寺の焼き
討ちの話には、攻めていた江馬氏に内応して、国府にいた武田方の広瀬氏が裏山から火を掛けたの
ですが、真っ赤に焼けた鐘つきの鐘が、ごろごろところがって武田軍の兵を何人も殺したという逸話が
残っています。このとき、三木軍は一旦兵を引揚げて、益田郡に蟄居し、時期の到来を待ちました。
そのため、一時期、三木の居城であった新宮城、三仏寺城を江馬氏の家来 川上縫殿助に預けて城代と
しました。
このとき、飯富軍は三木氏の息の根を止めることはせず、それからすぐ、兵を引揚げます。
なぜかというと、使者が来て第5回目の川中島の合戦の為、兵をそちらへ差し向ける必要が出てきたので、
信州へと引き上げたといわれています。事実、この年の8月に川中島の合戦が起こっています。
しかしこれは、上杉軍が、三木良頼の要請を受けて、飛騨救援の為に、飛騨方面に江馬を背後から
攻めさせると同時に、自身も川中島へ出陣する事によって、武田勢をけん制するといったものでした。

川中島の戦いのメインとなった八幡原

このように、飛騨の戦いが第五回目の川中島の合戦を引き起こしたということです。これは、あまり知られて
いないお話ですね。
このあと、永禄7年に江馬時盛は、国府の広瀬氏と組んで、三木氏の息の根を止めようと、7月に兵を
挙げます。ところが、子の江馬輝盛が内紛によって、三木方につくため、形勢が逆転します。
時盛は上杉配下の越中松倉城主 椎名康胤によって逆に攻められたために高原の城に立て篭もり、
武田の援軍を待ちます。しかし、第5回の川中島の戦いが60日にも及ぶために、武田の援軍はとうとう
来ず、時盛は和睦を申入れて降伏します。江馬氏はこうして、三木氏と共に上杉方になります。
この話は永禄4年という説もあります。

最後に、5回目ですが、永禄10年(1567)5月に、武田信玄本人が、信州から安房越えに飛騨に入り、
越中に入り、椎名康胤の松倉城、神保氏春の増山城、瑞泉寺、聞名寺などを巡見し、甲州に帰って
いるようです。
この時、どうも神岡の江馬氏の館に信玄は逗留したという記録があるようです。

この辺の話は、興味のある方も多いと思いますので、またあらためて詳しくお話したいと思います。
さて、本日も時間となりました。
来週は、お盆の時期でも有りますので、飛騨の浄土真宗と金森長近のお話をお届けしたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。
曲は「ピンクレディで 渚のシンドバッド」ではまた来週お会いしましょう。

徳積善太
  

2008年08月03日

兼山に行ってきました3


森欄丸の母 妙向尼は、熱心な浄土真宗信者で、石山本願寺の一向一揆にて、信長と
顕如上人の間を取り持った人でした。これは発見でした。

織田信長と一向宗との和睦についての文書
天正2年(1574)4月織田信長は大坂石山(今の大阪城付近)の本願寺を攻めたが、顕如上人は
毛利宇喜多等の諸大名と手を握って頑独に抵抗した。満々たる野望と自信に満ちた信長は、
歳40才の正に人生の働き盛りであった。本願寺の勢いは以外にてごわく、その中心をなすものは
紀州雑賀の荘の門徒衆であった。
信長は天正五年(1577)3月、10万の大軍を率いて遂に雑賀征伐を決意した。
天正8年(1580)3月顕如上人は遂に信長の軍門に降り、本願寺は和泉村(和歌山県)貝塚へ立ち退く
事によって和睦が成立した。
このときの和睦について熱心な本願寺信者であった妙向尼は3男森欄丸とともに信長との和睦に
ついて尽力した。この為本願寺では正保2年(1645)酉8月2日妙向禅尼の50年忌法要が営まれ、
追善された作州津山の森家からは名大森宗兵衛が代参した。
この文書は森家から常照寺へ下されたもので後尾に下の墨書がある。
元禄五年(1692)申8月 木村救給居士  昌明花押
常照院玉床下」


徳積善太
  

2008年08月02日

兼山に行ってきました2



兼山町は、現在は可児市の一部となっていますが、合併前は可児郡兼山町といいました。
そこは、森欄丸のふるさとということで、町おこしが行われていました。


史跡金山城跡

金山城は天文六年(1537)可児郡兼山町の南にそびえる標高253mの古城山の絶頂に
稲葉山(岐阜)城主斎藤道三の猶子斎藤大納言正義が築城して、烏ケ峰城と称した。
室町末期の典型的山城遺構です。正義は同17年久々(利)城主土岐三河守に亡ぼされ
凡17年同一族の土岐十郎左エ門が留守城を守った。
永禄八年(1565)織田信長美濃経略に当って此城を森三左エ門可成に賜り、同年九月
入城し、即ち金山城と改称した。
これより三左エ門可成、その子武蔵守長可、末弟右近太夫忠政と父子三代に亘って
凡36年間在城し、七万石を領した。森欄丸長定は入城の年、此の城に生れ信長に仕え、
天正十年恵那郡岩村城五万の城主となった。
慶長五年(1600)二月、忠政信州川中島に転封するに及んで此城を犬山城主石川備前守
光吉に賜り、光吉は天守、諸櫓その外、城郭施設を悉く解体して、古材を筏に組み、木曽川を
狩り下し犬山に移建した。             兼山史蹟保存会
 
昭和42年 月 日 岐阜県史跡指定。」


 
森欄丸母の菩提寺 常照寺(浄土真宗大谷派)


かつて(H5.3.31)、テレビ愛知のロケが行われ、その看板が示されています。


慈光山常照寺の看板  欄丸母の菩提寺として設立された旨が示されています。

 
森家の菩提寺 可成寺

 
墓所への案内標識  墓所は、少し高台のところに白壁の塀でめぐらされています。


森家三代の墓に、歴代の城主が眠っておられ、そこには、森欄丸ほか本能寺で死んだ人も弔われています。

徳積善太