2010年09月01日
展示品の一部を紹介_
間もなく展覧会が始まります。
現在その準備に追われています。
東等寺に伝わる 「本願寺系譜」 です。


応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
現在その準備に追われています。
東等寺に伝わる 「本願寺系譜」 です。


応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月31日
展示品の一部を紹介_文明歌合
間もなく展覧会が始まります。
現在その準備に追われています。
東等寺に伝わる 「文明歌合」 富田礼彦の写本です。



応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
現在その準備に追われています。
東等寺に伝わる 「文明歌合」 富田礼彦の写本です。



応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月27日
8月27日放送分_飛騨の屋台1「山王神楽台」
(平成22年8月27日放送分 第164回)
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。このコーナーは飛騨の生涯
学習者 第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
あっという間に、8月も終わりに近づいていますね。今年の夏は、6月が長雨、7月が
猛暑でお客さんが少なかっただけに、観光業者の皆さんも8月に期待されていたと思い
ますが、毎年の8月のようにお客さんが入らなかったばかりか、外国人観光客の姿ばかり
が目立って、経済的にも今一つという感じでした。
旅館業の方とお話していましたら、最近はインターネットで予約する方々が増えてきて、
複数の旅館を複数予約して、じっくりとサービスなどを検討して、キャンセル料が取られ
ない時期になって、一つだけ残してあとはキャンセルするというお客様が増えているとの
事でした。
今までは、ある程度旅行社の方で空きが出来ると埋められたのが、一週間前に空きができる
という状態だそうです。そのため、旅館側でインターネットの担当者を造って、なるべく
空きがでないように管理していかないと、なかなか満館状態というのを造ることが出来ない
ということでした。
直前になってたくさんの空き部屋ができるとこれは経営を圧迫しますから、少しでもダン
ピングしてなるべく空いた部屋をなくすような経営が求められているそうです。
そのため、会社によっては、パソコン予約担当者を5人とか抱えているので、その分の
人件費がかかる。
そういった点でも、力のある会社とそうでない会社に次第に売り上げにも開きが出て
きているというお話でした。
今までは、旅行会社に部屋を卸販売して、旅行会社の方である程度空きができると、
営業マンが必死になって営業をして、なるべくキャンセルが発生しないように努力
されていましたが、今ではそれぞれの旅館単位で必死になって営業をしないといけ
ないということです。
これは、雲をつかむような話ですから、大変だなあと思いました。
また、人件費をかけると、高山は冬場があります。冬場のお客さんの少ない時に、
人件費が今度は負担になりますから、旅館を経営される皆さんも大変な時代に
なったと思いました。
高山はまだお客さんが来て下さる方ですから、まだいい方ですが、下呂温泉、
奥飛騨、古川などでは、お客さんがかなり減っています。飛騨の観光経済を考える
と、広範囲で考えないといけませんね。
さて、前置きが長くなりました。本日の放送に移りましょう。
先月末に予告しましたように、今月から第四週目には、高山祭りの屋台をはじめと
した屋台のお話をしたいと思います。今まで飛騨の屋台に関しては、「高山屋台雑考」
「高山祭」「高山市史」「平成元年の古川祭」「朝日グラフ」「日枝神社史」など
たくさんの本や、「高山祭りの祖形について」などという研究報告書。ずっと連載
されていた「かわら版」という新聞、ひだしんが一時期発行していたチラシ、この他
にも写真集などが出版されていますから、私があえてお話ししなくても、既に皆さん
ご存じだと思います。
研究者としては、屋台雑考をお書きになった、長倉三朗先生が一番詳しいと思います。
先生は、昭和4年頃から50年以上にわたって調査された内容をおまとめになったのが
「屋台雑考」という本でした。先生は、高山祭りの屋台以外に、犬山ですとか東海地方
の祭りをご覧になり、今まで誰もやられていなかった比較検証をされたという点で、
素晴らしい実績を残されたと思います。今回はこの本を中心にお話しします。
さて、この飛騨に何台の屋台があるかといいますと、こちらは意外と御存知ないと
思いますが、全部で50台の屋台が現存しています。内訳をお話ししますと、春の
高山祭が12台。秋が11台。そして東山白山神社の神楽台と飛騨総社の神楽台を合せて、
25台が国の有形民俗文化財となっています。
それ以外に、国の無形民俗文化財になっている古川祭の屋台が9台。その他には、
祭りの森に平成の屋台が8台。あと小さな神社に神楽台があります。それは、清見町
三日町白山神社神楽台、高山の愛宕神社神楽台。錦山神社神楽台=これは、枠が高山市
郷土館に残っています。荘川に1台、白川郷に3台、平成の屋台が古川に1台、工業高校
に1台、金山が1台などとなっています。
これ以外に現存しない屋台、春が5台、秋が6台、古川が1台、あと小さな神社
にかつてあったものなどを合わせますと、65台の屋台があったことになります。
全部、1台づつ放送しますと、5年くらいかかりますので、なるべくかいつまんで1回に
2台くらいのペースで、お話ししたいと思います。
今回は、前置きだけですでに半分の時間を使ってしまいましたので、今日は、一台だけ
の御紹介になります。
後半部分からお話ししていきたいと思います。
ちょっとブレイクしましょう。曲は「北島三郎で まつり」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、飛騨の祭屋台についてお話しています。

さて、一番バッターは、私の所属する神楽台のお話をしたいと思います。
そもそもこういった歴史の事を始めるきっかけだったのが、自分の屋台の屋台組史を
書くことがきっかけでした。
したがって、調査している内容は、かなり多いのですが、謎もたくさんありますので、
分っている事をかいつまんでお話しします。
実は、山王祭りの神楽台は、屋台の中では一番古い歴史を持っています。
そもそも山王祭りが始まったとされるのが、「金森三代の重頼の時代に、東川原町
(後の青龍台組)と一之町(後の神楽台組)の人達が申し合せて神輿をかつぎ、神楽を
奏でて枡型橋詰にあった追手門から、城中へ練行して、城内で神楽を奏した所、城主が
ことのほか感ぜられて、毎年の嘉例として神輿の巡幸あるべき旨を申し渡された」
(日枝神社由来記)というのが、始とされています。
ただし、これは明治20年に古老の記録をもとにしたものですので、一番の証拠としては、
元禄時代に高山城が破却され、その責任者永井織部に板坂平内が書いた覚え書きに
「三年に一度、三月時分に山王祭り御座候」と書かれているのが一番古い記録です。
さて、その頃の神楽台は、「白木の枠に太鼓を吊り、二人で担いだものであった」
ものだそうです。今でも神輿行列に、太々神楽や、小さな神社での神楽行列にその形態が
見られます。「天明5年に黒漆塗りの荷車風の物にして、大輪には梅鉢の紋を付けた」
とされます。
長年、その形が分っていませんでしたが、現在は、高山市郷土館に文化年間に描かれた
「山王祭り屋台行列図」にその姿を見ることができます。
人が一人傘をさして、子供らしき人物が頭巾をかぶって乗っています。
屋台には巴のマークがついた太鼓と、梅鉢紋の紋をつけた台座の二輪の屋台です。
その前方では、赤い湯単をつけた獅子舞が二頭、舞を待い、その両側に笛を吹く人が
2人ほどいます。
これについて、その後いろいろ調べました。そうしたら、これは伊勢神楽の形態で、
その後江戸方面にて広がった大道芸の社中の物でした。「おめでとうございますう」
と言って、傘を持ってボールやマスを傘の上で転がす芸当で知られる芸人さんがおられ
ましたが、ああいう芸をしながら、祝ったということが昔高山でも行われていたようです。
また、子供に見えるのは、猿で、猿回しなどもしたものと思われます。
そもそもこの伊勢神楽というのは、伊勢神宮に代参するということを行っていたもので、
各所のお祭で神楽を演じ、お賽銭を渡すと、伊勢神宮の御札をもらえるというので、
いくつかの社中がそういうことを仕事として行っていたようです。
屋台に付けられていた梅鉢紋は、金森公の家紋で、この家紋を付けることを許された屋台は、
神楽と青龍台の二つでした。
これは、祭りの神事を司る「宮本」を勤めることを金森公から許可されたという言い伝えが
あります。神楽台は、獅子舞を行う行列の「先導」として、青龍台は祭の一切を仕切る
「宮本」としてその任にあたることを任されたという意味があります。
そのため、神楽台組が明治24年に一度だけ、宮本を勤めましたが、先導を勤める屋台が、
一番最後に行くのはおかしいと、その後は宮本から除外されています。
さて、屋台の方ですが、文化8年にこの屋台は一度分裂しています。
13軒の者が分かれて「太平楽台組」という屋台組を造りました。
長年、明治25年まで75年間、分裂状態でした。その頃に「屋台建造の話で分裂した」と
長倉先生は書かれていますが、それは定かではありません。
ただし文化13年に「牡丹彫刻一式」という箱が谷口与鹿の師匠とされる中川吉兵衛の
署名で屋台組に残っている事から、その頃から屋台建造の話しがあったと思われます。
結局、現在の屋台の祖形については、それより40年以上も後の嘉永7年に大改修が
行われ、作者谷口延儔、彫刻谷口与鹿などとなっています。
ただし、作者とされる延儔は、没して18年も経っており、この年には与鹿は伊丹に
居るなど謎も多い屋台です。彫刻で有名な村山家に神楽台の絵図が残されており、
これは、明治24年に再改修される前の神楽台の図であることがわかりました。
これによると、現在取り付けられている彫刻が異なったり色合いも事なり、緑色の幕が
使われていることがわかります。
その後、明治24年に村山民次郎を棟梁として、彫刻に初代村山群鳳が携わって、
塗や金具を一新して、現在の形の屋台が出来上がりました。
本当はもっとお話ししたいのですが、時間も参りましたので、この続きはまたどこかで
お話ししたいと思います。
来月は、三番曳台と黄鶴台についてお話しします。
また、来週の放送は、いよいよ姉小路氏と廣瀬氏の展示会が始まりますので、その話題に
ついてお話しします。
今日はこの曲でお別れです。「松任谷由美 カンヌ8号線」ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。このコーナーは飛騨の生涯
学習者 第二号 わたくし、ながせきみあきがお届けしてまいります。
あっという間に、8月も終わりに近づいていますね。今年の夏は、6月が長雨、7月が
猛暑でお客さんが少なかっただけに、観光業者の皆さんも8月に期待されていたと思い
ますが、毎年の8月のようにお客さんが入らなかったばかりか、外国人観光客の姿ばかり
が目立って、経済的にも今一つという感じでした。
旅館業の方とお話していましたら、最近はインターネットで予約する方々が増えてきて、
複数の旅館を複数予約して、じっくりとサービスなどを検討して、キャンセル料が取られ
ない時期になって、一つだけ残してあとはキャンセルするというお客様が増えているとの
事でした。
今までは、ある程度旅行社の方で空きが出来ると埋められたのが、一週間前に空きができる
という状態だそうです。そのため、旅館側でインターネットの担当者を造って、なるべく
空きがでないように管理していかないと、なかなか満館状態というのを造ることが出来ない
ということでした。
直前になってたくさんの空き部屋ができるとこれは経営を圧迫しますから、少しでもダン
ピングしてなるべく空いた部屋をなくすような経営が求められているそうです。
そのため、会社によっては、パソコン予約担当者を5人とか抱えているので、その分の
人件費がかかる。
そういった点でも、力のある会社とそうでない会社に次第に売り上げにも開きが出て
きているというお話でした。
今までは、旅行会社に部屋を卸販売して、旅行会社の方である程度空きができると、
営業マンが必死になって営業をして、なるべくキャンセルが発生しないように努力
されていましたが、今ではそれぞれの旅館単位で必死になって営業をしないといけ
ないということです。
これは、雲をつかむような話ですから、大変だなあと思いました。
また、人件費をかけると、高山は冬場があります。冬場のお客さんの少ない時に、
人件費が今度は負担になりますから、旅館を経営される皆さんも大変な時代に
なったと思いました。
高山はまだお客さんが来て下さる方ですから、まだいい方ですが、下呂温泉、
奥飛騨、古川などでは、お客さんがかなり減っています。飛騨の観光経済を考える
と、広範囲で考えないといけませんね。
さて、前置きが長くなりました。本日の放送に移りましょう。
先月末に予告しましたように、今月から第四週目には、高山祭りの屋台をはじめと
した屋台のお話をしたいと思います。今まで飛騨の屋台に関しては、「高山屋台雑考」
「高山祭」「高山市史」「平成元年の古川祭」「朝日グラフ」「日枝神社史」など
たくさんの本や、「高山祭りの祖形について」などという研究報告書。ずっと連載
されていた「かわら版」という新聞、ひだしんが一時期発行していたチラシ、この他
にも写真集などが出版されていますから、私があえてお話ししなくても、既に皆さん
ご存じだと思います。
研究者としては、屋台雑考をお書きになった、長倉三朗先生が一番詳しいと思います。
先生は、昭和4年頃から50年以上にわたって調査された内容をおまとめになったのが
「屋台雑考」という本でした。先生は、高山祭りの屋台以外に、犬山ですとか東海地方
の祭りをご覧になり、今まで誰もやられていなかった比較検証をされたという点で、
素晴らしい実績を残されたと思います。今回はこの本を中心にお話しします。
さて、この飛騨に何台の屋台があるかといいますと、こちらは意外と御存知ないと
思いますが、全部で50台の屋台が現存しています。内訳をお話ししますと、春の
高山祭が12台。秋が11台。そして東山白山神社の神楽台と飛騨総社の神楽台を合せて、
25台が国の有形民俗文化財となっています。
それ以外に、国の無形民俗文化財になっている古川祭の屋台が9台。その他には、
祭りの森に平成の屋台が8台。あと小さな神社に神楽台があります。それは、清見町
三日町白山神社神楽台、高山の愛宕神社神楽台。錦山神社神楽台=これは、枠が高山市
郷土館に残っています。荘川に1台、白川郷に3台、平成の屋台が古川に1台、工業高校
に1台、金山が1台などとなっています。
これ以外に現存しない屋台、春が5台、秋が6台、古川が1台、あと小さな神社
にかつてあったものなどを合わせますと、65台の屋台があったことになります。
全部、1台づつ放送しますと、5年くらいかかりますので、なるべくかいつまんで1回に
2台くらいのペースで、お話ししたいと思います。
今回は、前置きだけですでに半分の時間を使ってしまいましたので、今日は、一台だけ
の御紹介になります。
後半部分からお話ししていきたいと思います。
ちょっとブレイクしましょう。曲は「北島三郎で まつり」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、飛騨の祭屋台についてお話しています。
さて、一番バッターは、私の所属する神楽台のお話をしたいと思います。
そもそもこういった歴史の事を始めるきっかけだったのが、自分の屋台の屋台組史を
書くことがきっかけでした。
したがって、調査している内容は、かなり多いのですが、謎もたくさんありますので、
分っている事をかいつまんでお話しします。
実は、山王祭りの神楽台は、屋台の中では一番古い歴史を持っています。
そもそも山王祭りが始まったとされるのが、「金森三代の重頼の時代に、東川原町
(後の青龍台組)と一之町(後の神楽台組)の人達が申し合せて神輿をかつぎ、神楽を
奏でて枡型橋詰にあった追手門から、城中へ練行して、城内で神楽を奏した所、城主が
ことのほか感ぜられて、毎年の嘉例として神輿の巡幸あるべき旨を申し渡された」
(日枝神社由来記)というのが、始とされています。
ただし、これは明治20年に古老の記録をもとにしたものですので、一番の証拠としては、
元禄時代に高山城が破却され、その責任者永井織部に板坂平内が書いた覚え書きに
「三年に一度、三月時分に山王祭り御座候」と書かれているのが一番古い記録です。
さて、その頃の神楽台は、「白木の枠に太鼓を吊り、二人で担いだものであった」
ものだそうです。今でも神輿行列に、太々神楽や、小さな神社での神楽行列にその形態が
見られます。「天明5年に黒漆塗りの荷車風の物にして、大輪には梅鉢の紋を付けた」
とされます。
長年、その形が分っていませんでしたが、現在は、高山市郷土館に文化年間に描かれた
「山王祭り屋台行列図」にその姿を見ることができます。
人が一人傘をさして、子供らしき人物が頭巾をかぶって乗っています。
屋台には巴のマークがついた太鼓と、梅鉢紋の紋をつけた台座の二輪の屋台です。
その前方では、赤い湯単をつけた獅子舞が二頭、舞を待い、その両側に笛を吹く人が
2人ほどいます。
これについて、その後いろいろ調べました。そうしたら、これは伊勢神楽の形態で、
その後江戸方面にて広がった大道芸の社中の物でした。「おめでとうございますう」
と言って、傘を持ってボールやマスを傘の上で転がす芸当で知られる芸人さんがおられ
ましたが、ああいう芸をしながら、祝ったということが昔高山でも行われていたようです。
また、子供に見えるのは、猿で、猿回しなどもしたものと思われます。
そもそもこの伊勢神楽というのは、伊勢神宮に代参するということを行っていたもので、
各所のお祭で神楽を演じ、お賽銭を渡すと、伊勢神宮の御札をもらえるというので、
いくつかの社中がそういうことを仕事として行っていたようです。
屋台に付けられていた梅鉢紋は、金森公の家紋で、この家紋を付けることを許された屋台は、
神楽と青龍台の二つでした。
これは、祭りの神事を司る「宮本」を勤めることを金森公から許可されたという言い伝えが
あります。神楽台は、獅子舞を行う行列の「先導」として、青龍台は祭の一切を仕切る
「宮本」としてその任にあたることを任されたという意味があります。
そのため、神楽台組が明治24年に一度だけ、宮本を勤めましたが、先導を勤める屋台が、
一番最後に行くのはおかしいと、その後は宮本から除外されています。
さて、屋台の方ですが、文化8年にこの屋台は一度分裂しています。
13軒の者が分かれて「太平楽台組」という屋台組を造りました。
長年、明治25年まで75年間、分裂状態でした。その頃に「屋台建造の話で分裂した」と
長倉先生は書かれていますが、それは定かではありません。
ただし文化13年に「牡丹彫刻一式」という箱が谷口与鹿の師匠とされる中川吉兵衛の
署名で屋台組に残っている事から、その頃から屋台建造の話しがあったと思われます。
結局、現在の屋台の祖形については、それより40年以上も後の嘉永7年に大改修が
行われ、作者谷口延儔、彫刻谷口与鹿などとなっています。
ただし、作者とされる延儔は、没して18年も経っており、この年には与鹿は伊丹に
居るなど謎も多い屋台です。彫刻で有名な村山家に神楽台の絵図が残されており、
これは、明治24年に再改修される前の神楽台の図であることがわかりました。
これによると、現在取り付けられている彫刻が異なったり色合いも事なり、緑色の幕が
使われていることがわかります。
その後、明治24年に村山民次郎を棟梁として、彫刻に初代村山群鳳が携わって、
塗や金具を一新して、現在の形の屋台が出来上がりました。
本当はもっとお話ししたいのですが、時間も参りましたので、この続きはまたどこかで
お話ししたいと思います。
来月は、三番曳台と黄鶴台についてお話しします。
また、来週の放送は、いよいよ姉小路氏と廣瀬氏の展示会が始まりますので、その話題に
ついてお話しします。
今日はこの曲でお別れです。「松任谷由美 カンヌ8号線」ではまた来週お会いしましょう!
徳積善太
2010年08月26日
展示予定品の一部_廣瀬宗域安堵状
これは、廣瀬宗域という人が、廣瀬神社(当時は神明神社)に土地を安堵すると
伝えた知行状です。

そもそも廣瀬氏は、どこからも正式には知行地を安堵されていませんでしたが、
長年にわたって、武安郷を知行し、隣接する姉小路家・江馬家と仲良く不可侵
の状況で、知行を続けてきました。
一番古い廣瀬氏の時代から数えると214年も知行していたことになりますから
大変驚きです。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
伝えた知行状です。
そもそも廣瀬氏は、どこからも正式には知行地を安堵されていませんでしたが、
長年にわたって、武安郷を知行し、隣接する姉小路家・江馬家と仲良く不可侵
の状況で、知行を続けてきました。
一番古い廣瀬氏の時代から数えると214年も知行していたことになりますから
大変驚きです。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月25日
展示品の一部を紹介_広瀬美作入道支状案
こちらは、廣瀬美作入道と云う人が将軍足利義満からいただいたといわれる
知行状です。原本は東大にあります。

これは、複製品ですが、廣瀬神社に古くから伝わるものです。
廣瀬氏の名前が刻まれた大変貴重な資料です。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
知行状です。原本は東大にあります。
これは、複製品ですが、廣瀬神社に古くから伝わるものです。
廣瀬氏の名前が刻まれた大変貴重な資料です。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月24日
展示予定品の一部_
廣瀬氏ゆかりの品。「やら棒」といいます。

いわゆる、現代の警察官の警棒のようなもので、門番が使ったという伝承が
残っています。

一本だけ、腰に下げたためか、穴が開いています。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太

いわゆる、現代の警察官の警棒のようなもので、門番が使ったという伝承が
残っています。

一本だけ、腰に下げたためか、穴が開いています。
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月23日
2010年08月22日
里の朝
でも、忙中閑あり、なかなか一杯〓入ると進まないものですね〓
久しぶりに楽しい夜となりました。リフレッシュ〓
たまにはこういうのもいいか〓
2010年08月20日
8月20日放送分_古川盆地の古城について
(平成22年8月20日 163回放送分)
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けして
まいります。
さて、お盆も終わりましたね。今年の夏は酷暑になるということでお伝えして
いましたが、太平洋側は相変わらず暑いようですが、高山は雨が多くて、何かもう
秋ではないかと思うくらい涼しくなりましたね。
私もいつもこの時期は、音楽をやっておりますので、演奏で出演させていただく
ことが多いのですが、今年の陣屋前夜市では、途中から雨が降って来ましたし、
翌日の下呂いで湯夜市は、開催自体が中止になりました。
本当に天候不順だったと思います。
お客さんの方は、お盆休みに入ってたくさんの方が来て下さり、観光業界も
活気を取り戻しましたが、暑かったせいか、8月の前半がとても静かでした。今年は
6月は雨。7月は酷暑で、どのホテルも入館者が3割位落ちていたようです。どなたも
8月に入れば、何とかなると思っていたのですが、8月の7日を過ぎたあたりから、
お客さんが多かったと思います。それまでは、全くお客さんがなくて、大変困り
ました。
こんな状態が続くと、ちゃんと冬が越せるのか心配だという方もおられました。
観光商売というのはある意味、客待ち商売ですから、高山が魅力ある街であり
続けるためにも、努力していかないといけないと思いました。
私もこの番組を通じて、飛騨の再発見をしていきたいと思います。
さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は先週の続き。今回の応永飛騨の乱600年祭に関しまして、姉小路家と
廣瀬家のゆかりの地についてお話してまいりましたが、古城に関してお話してい
ませんでしたので、今日はまとめてお話したいと思います。
今回の姉小路氏の調査を進めるうちに、私も今まで知らなかったのですが、
古川盆地から見えるほとんどの山が、古城跡であることがわかりました。
ちょうど、手をじゃんけんのパーに広げた状態で、テーブルの上に置きますと、
指の部分が放射状に広がります。ちょうど、テーブルを古川盆地。手をそこに
広がる山なみだとしますと、爪の部分にあたるところに、古城がある状態だと
思ってください。一つ一つを見ると、単独の古城のように思えますが、実は、
手首に当たる部分に、主城があって、そこから放射状に出城が広がっている
状態なんですね。
また、その城がある範囲を縄張りと云って、城の勢力がその地域に及んでいた
ということを示します。
そのグループはいくつあるかというと、古川盆地には、一番南には、廣瀬氏が
居城にしたという廣瀬城と高堂城のグループがあります。宮川を挟んでその向側
のところには、山崎城から上廣瀬の光寿庵というお寺につながる山があります。
ここまでが、その頃、武安郷と呼ばれていた廣瀬氏の縄張りです。
また、その裏側には、牛丸氏の居城だった白米城がありました。
また、そこから荒城川を挟んだ向かい側には、清峯寺と安寧寺の寺域が広がった
山がありました。このエリアは、荒城郷と呼ばれていました。
そのさらに北、ここは、小島郷と呼ばれていたエリアですが、そこには、南から
袈裟丸城、小島城と続き、一番北側が野口城というお城がありました。

宮川をはさんで反対側=西側になりますが、そこは、小鷹利郷と云われていた
場所ですが、そこには、向小島城、小鷹利城、という主城がありますが、そこ
には池の山城という城と、岩井戸観音という砦跡が現在も残っています。

さらにそこから南に行きますと、古川郷といわれていた場所です。
そこには、姉小路古川家があったとされ、今までは蛤城がその中心と云われて
いましたが、今回の私たちの調査で、宇津江と海具江の間に唐松砦があり、その
奥の所に、字殿の洞という場所があることがわかりました。
そこを調査したところ、大変古い形態ですが、古城の縄張り跡である、堀切と
廓を確認することができました。
調査された人たちが「奥古川城」という名称をつけられました。
丁度、唐松砦―奥古川城―ウシロゴ砦という三つの城跡が馬蹄形の形で、残って
いることがわかりました。
そのまた南にも、現在の五社神社があるあたりですが、蛤城―高野―百足城―
落岩城と3つの城と一つの地域が馬蹄形の形でグループを組織していることが
わかりました。
後半ではそれぞれの城跡について、詳しくお話していきたいと思います。
それではちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「郷ひろみ マイレディー」をお届けします。
-----------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、古川盆地に広がる古城についてお話しています。
古城といいますと、皆さんが想像されるのは、姫路城や大坂城といった石垣の
上に立派な天守閣を持ったお城ではないかと思いますが、そういう城が造られる
ようになったのは、安土桃山時代に入ってからの事で、それまでのお城の形態は、
全国的に殆ど山城でした。
それまでは、源平の合戦に代表されるように、それまでの戦は、平地で行われる
形がほとんどでした。
室町時代に入って、一番有名な山城の戦いといいますと、楠木正成が足利軍と
戦ったと言われる戦いです。楠木正成が立て籠ったのが千早城・赤坂城という
山城でした。
なぜこういった山城が室町時代に盛んになったかというと、少ない人数で防御が
可能になるという点です、そのため、予め、古城の縄張りをつくる際に、落とし
穴を掘ったり、山の尾根を利用して堀切というくぼみ=空掘りを作ったりして
簡単に敵が上られないように防御しました。
ところどころには、曲輪を作って、兵を配置し、木の柵を作ったり、生木を切って
下から上がってくる敵に対して向けると、立派な防御柵になります。そういった
防御施設を予め城の所々に造って防御したというわけです。
それが、室町時代も後期になると、畝状に堅堀を何本も造ったりする形態が生まれ
てきます。そういった防御構造が、現在も古川盆地のあちこちに遺構としてそのまま
残っているために、現在でも山城が探しやすいということです。
さて、それぞれのお城についてお話しましょう。
国府のお城については、先々週のこの放送でお話ししましたので、省略しますが、
今日は古川町近辺のお城についてお話しします。まず、小島城ですが、古川町杉崎の
JR杉崎駅の裏にある山が小島城跡です。

ここへは、麓の沼町の所からと、裏側の太江のところから上ることができます。
太江側の方は、最近地元の方が自動車道を開発しましたので、途中までは車で上がる
こともできます。

上に上がりますと、本丸、二の丸、出丸があり、かなり広いエリアになっています。
一番驚いたのは、ここから見渡す景観が大変素晴らしいことです。
城からは、神原峠から麓の杉崎一帯。そして、北側には向小島城、そして、南西側には
古川町から蛤城まで一望できる場所です。おそらくその出城でしょうか、南側には
下気多城、そして北側には、袈裟丸城と野口城があります。
国道41号線が361号線と別れるところに青い大きな鷹狩橋という橋がありますが、
その橋の所に突き出している山が野口城です。

小島城から宮川を挟んで向側には、向小島城がありました。
この向小島城とその裏の小鷹利城が向氏の治めていたエリアとされています。
そのエリアには、一番東側に池の山城というお城がありました。これは、古川町の
下野のところに、採石場がある山がありますが、その山の上にあったお城です。
そのお城の所と、裏側の笹ヶ洞・寺洞、少し北の信包、谷、そして河合町の角川と
いったエリアが向氏の縄張りだったとされます。

最後に、古川郷のエリアですが、一番北側が、古川大橋のところから西側を見ますと、
3つのこぶ状になった山が見えます。そこが、落岩城という古城跡でした。
ちょうど、アルプス薬品の工場の裏側の山になります。
ここを北限として、その南側には百足城というお城がありました。
古川消防署のところから、畝畑を抜けるこぶし街道が最近造成されて、2車線の道路が
いったん左に曲がり、すぐを右に曲がっていますが、その両側の山が百足城跡という
古城跡でした。

二之丸と三之丸の間が削られた形になりましたので、古城が破壊されてしまいましたが、
今でも上に上がりますと、曲輪などの遺構が残っています。
そこから、古川スキー場があった場所に向けて、馬蹄形の城跡が広がっており、そこの
南端が蛤城になっています。
このお城は、かつて、金森氏が入国した時に一時期ここに滞在していた事で知られて
います。
最後に、蛤城の南側に、ウシロゴ砦と呼ばれていた場所がありますが、ここにも曲輪が
ありました。先ほどもご紹介したように、ここから馬蹄形に、山の尾根が広がっており、
一番奥に、今回発見した「奥古川城跡」そして、一番南側が唐松砦へとつながって
いました。
このように、古川盆地は、そのほとんどが古城で取り囲まれており、今まで地元の方にも
あまり認識されていませんでしたが、日本でも大変珍しい地域であることがわかりました。
また機会がございましたら、古城に上ってみてください。
さて本日も時間となりました。来週の放送は、第4週ですので、匠の話。高山祭りの屋台の
お話をシリーズでしていきたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。 「チャゲ&飛鳥で 万里の河」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けして
まいります。
さて、お盆も終わりましたね。今年の夏は酷暑になるということでお伝えして
いましたが、太平洋側は相変わらず暑いようですが、高山は雨が多くて、何かもう
秋ではないかと思うくらい涼しくなりましたね。
私もいつもこの時期は、音楽をやっておりますので、演奏で出演させていただく
ことが多いのですが、今年の陣屋前夜市では、途中から雨が降って来ましたし、
翌日の下呂いで湯夜市は、開催自体が中止になりました。
本当に天候不順だったと思います。
お客さんの方は、お盆休みに入ってたくさんの方が来て下さり、観光業界も
活気を取り戻しましたが、暑かったせいか、8月の前半がとても静かでした。今年は
6月は雨。7月は酷暑で、どのホテルも入館者が3割位落ちていたようです。どなたも
8月に入れば、何とかなると思っていたのですが、8月の7日を過ぎたあたりから、
お客さんが多かったと思います。それまでは、全くお客さんがなくて、大変困り
ました。
こんな状態が続くと、ちゃんと冬が越せるのか心配だという方もおられました。
観光商売というのはある意味、客待ち商売ですから、高山が魅力ある街であり
続けるためにも、努力していかないといけないと思いました。
私もこの番組を通じて、飛騨の再発見をしていきたいと思います。
さて、本日の放送に移りましょう。
本日の放送は先週の続き。今回の応永飛騨の乱600年祭に関しまして、姉小路家と
廣瀬家のゆかりの地についてお話してまいりましたが、古城に関してお話してい
ませんでしたので、今日はまとめてお話したいと思います。
今回の姉小路氏の調査を進めるうちに、私も今まで知らなかったのですが、
古川盆地から見えるほとんどの山が、古城跡であることがわかりました。
ちょうど、手をじゃんけんのパーに広げた状態で、テーブルの上に置きますと、
指の部分が放射状に広がります。ちょうど、テーブルを古川盆地。手をそこに
広がる山なみだとしますと、爪の部分にあたるところに、古城がある状態だと
思ってください。一つ一つを見ると、単独の古城のように思えますが、実は、
手首に当たる部分に、主城があって、そこから放射状に出城が広がっている
状態なんですね。
また、その城がある範囲を縄張りと云って、城の勢力がその地域に及んでいた
ということを示します。
そのグループはいくつあるかというと、古川盆地には、一番南には、廣瀬氏が
居城にしたという廣瀬城と高堂城のグループがあります。宮川を挟んでその向側
のところには、山崎城から上廣瀬の光寿庵というお寺につながる山があります。
ここまでが、その頃、武安郷と呼ばれていた廣瀬氏の縄張りです。
また、その裏側には、牛丸氏の居城だった白米城がありました。
また、そこから荒城川を挟んだ向かい側には、清峯寺と安寧寺の寺域が広がった
山がありました。このエリアは、荒城郷と呼ばれていました。
そのさらに北、ここは、小島郷と呼ばれていたエリアですが、そこには、南から
袈裟丸城、小島城と続き、一番北側が野口城というお城がありました。
宮川をはさんで反対側=西側になりますが、そこは、小鷹利郷と云われていた
場所ですが、そこには、向小島城、小鷹利城、という主城がありますが、そこ
には池の山城という城と、岩井戸観音という砦跡が現在も残っています。
さらにそこから南に行きますと、古川郷といわれていた場所です。
そこには、姉小路古川家があったとされ、今までは蛤城がその中心と云われて
いましたが、今回の私たちの調査で、宇津江と海具江の間に唐松砦があり、その
奥の所に、字殿の洞という場所があることがわかりました。
そこを調査したところ、大変古い形態ですが、古城の縄張り跡である、堀切と
廓を確認することができました。
調査された人たちが「奥古川城」という名称をつけられました。
丁度、唐松砦―奥古川城―ウシロゴ砦という三つの城跡が馬蹄形の形で、残って
いることがわかりました。
そのまた南にも、現在の五社神社があるあたりですが、蛤城―高野―百足城―
落岩城と3つの城と一つの地域が馬蹄形の形でグループを組織していることが
わかりました。
後半ではそれぞれの城跡について、詳しくお話していきたいと思います。
それではちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「郷ひろみ マイレディー」をお届けします。
-----------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、古川盆地に広がる古城についてお話しています。
古城といいますと、皆さんが想像されるのは、姫路城や大坂城といった石垣の
上に立派な天守閣を持ったお城ではないかと思いますが、そういう城が造られる
ようになったのは、安土桃山時代に入ってからの事で、それまでのお城の形態は、
全国的に殆ど山城でした。
それまでは、源平の合戦に代表されるように、それまでの戦は、平地で行われる
形がほとんどでした。
室町時代に入って、一番有名な山城の戦いといいますと、楠木正成が足利軍と
戦ったと言われる戦いです。楠木正成が立て籠ったのが千早城・赤坂城という
山城でした。
なぜこういった山城が室町時代に盛んになったかというと、少ない人数で防御が
可能になるという点です、そのため、予め、古城の縄張りをつくる際に、落とし
穴を掘ったり、山の尾根を利用して堀切というくぼみ=空掘りを作ったりして
簡単に敵が上られないように防御しました。
ところどころには、曲輪を作って、兵を配置し、木の柵を作ったり、生木を切って
下から上がってくる敵に対して向けると、立派な防御柵になります。そういった
防御施設を予め城の所々に造って防御したというわけです。
それが、室町時代も後期になると、畝状に堅堀を何本も造ったりする形態が生まれ
てきます。そういった防御構造が、現在も古川盆地のあちこちに遺構としてそのまま
残っているために、現在でも山城が探しやすいということです。
さて、それぞれのお城についてお話しましょう。
国府のお城については、先々週のこの放送でお話ししましたので、省略しますが、
今日は古川町近辺のお城についてお話しします。まず、小島城ですが、古川町杉崎の
JR杉崎駅の裏にある山が小島城跡です。
ここへは、麓の沼町の所からと、裏側の太江のところから上ることができます。
太江側の方は、最近地元の方が自動車道を開発しましたので、途中までは車で上がる
こともできます。
上に上がりますと、本丸、二の丸、出丸があり、かなり広いエリアになっています。
一番驚いたのは、ここから見渡す景観が大変素晴らしいことです。
城からは、神原峠から麓の杉崎一帯。そして、北側には向小島城、そして、南西側には
古川町から蛤城まで一望できる場所です。おそらくその出城でしょうか、南側には
下気多城、そして北側には、袈裟丸城と野口城があります。
国道41号線が361号線と別れるところに青い大きな鷹狩橋という橋がありますが、
その橋の所に突き出している山が野口城です。

小島城から宮川を挟んで向側には、向小島城がありました。
この向小島城とその裏の小鷹利城が向氏の治めていたエリアとされています。
そのエリアには、一番東側に池の山城というお城がありました。これは、古川町の
下野のところに、採石場がある山がありますが、その山の上にあったお城です。
そのお城の所と、裏側の笹ヶ洞・寺洞、少し北の信包、谷、そして河合町の角川と
いったエリアが向氏の縄張りだったとされます。

最後に、古川郷のエリアですが、一番北側が、古川大橋のところから西側を見ますと、
3つのこぶ状になった山が見えます。そこが、落岩城という古城跡でした。
ちょうど、アルプス薬品の工場の裏側の山になります。
ここを北限として、その南側には百足城というお城がありました。
古川消防署のところから、畝畑を抜けるこぶし街道が最近造成されて、2車線の道路が
いったん左に曲がり、すぐを右に曲がっていますが、その両側の山が百足城跡という
古城跡でした。

二之丸と三之丸の間が削られた形になりましたので、古城が破壊されてしまいましたが、
今でも上に上がりますと、曲輪などの遺構が残っています。
そこから、古川スキー場があった場所に向けて、馬蹄形の城跡が広がっており、そこの
南端が蛤城になっています。
このお城は、かつて、金森氏が入国した時に一時期ここに滞在していた事で知られて
います。
最後に、蛤城の南側に、ウシロゴ砦と呼ばれていた場所がありますが、ここにも曲輪が
ありました。先ほどもご紹介したように、ここから馬蹄形に、山の尾根が広がっており、
一番奥に、今回発見した「奥古川城跡」そして、一番南側が唐松砦へとつながって
いました。
このように、古川盆地は、そのほとんどが古城で取り囲まれており、今まで地元の方にも
あまり認識されていませんでしたが、日本でも大変珍しい地域であることがわかりました。
また機会がございましたら、古城に上ってみてください。
さて本日も時間となりました。来週の放送は、第4週ですので、匠の話。高山祭りの屋台の
お話をシリーズでしていきたいと思います。
今日は、この曲でお別れです。 「チャゲ&飛鳥で 万里の河」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
2010年08月19日
2010年08月18日
姉小路氏ゆかりの地_諏訪神社
古川町岡前にある諏訪神社には姉小路氏の墓所といわれる場所があります。

昭和初期に建てられた石碑の揮毫は、日枝神社の神官だった富田豊彦です。

その場所からは、晴れると、御岳が正面によく見えます。
昭和初期に建てられた石碑の揮毫は、日枝神社の神官だった富田豊彦です。
その場所からは、晴れると、御岳が正面によく見えます。
2010年08月17日
姉小路氏ゆかりの地_細江の碑
姉小路基綱は、飛騨に残る景勝地を「飛騨八所」として定め、よく歌にしたためた。
飛騨八所とは、「細江」のほかに、春・久々野・山口、夏・保濃府(本母)・
宮、秋・錦山・灘、冬・細江、位山の八個所である。
江戸時代中期に、『飛州志』を編纂した代官長谷川忠崇は、飛騨の古くから伝わる
景勝地を後に伝えるために、各所に石碑を建造し、今日現在、萩原の「阿さむ川橋」
(萩原町尾崎)と「細江」の2か所の碑が確認されいる。

「細江」の碑は、古川西小学校のグランドの西側角にひっそりと立っており、その碑
には、現在も享保13年(1728)に建立されたことが確認できる。

江戸時代後期には、姉小路基綱卿の顕彰をされた国学者 田中大秀によってこの
「飛騨八所」の再検証がなされ、図絵などが残されている。
大秀の弟子であった富田禮彦も著書の『斐太後風土記』などに絵図を紹介している。
徳積善太
飛騨八所とは、「細江」のほかに、春・久々野・山口、夏・保濃府(本母)・
宮、秋・錦山・灘、冬・細江、位山の八個所である。
江戸時代中期に、『飛州志』を編纂した代官長谷川忠崇は、飛騨の古くから伝わる
景勝地を後に伝えるために、各所に石碑を建造し、今日現在、萩原の「阿さむ川橋」
(萩原町尾崎)と「細江」の2か所の碑が確認されいる。
「細江」の碑は、古川西小学校のグランドの西側角にひっそりと立っており、その碑
には、現在も享保13年(1728)に建立されたことが確認できる。
江戸時代後期には、姉小路基綱卿の顕彰をされた国学者 田中大秀によってこの
「飛騨八所」の再検証がなされ、図絵などが残されている。
大秀の弟子であった富田禮彦も著書の『斐太後風土記』などに絵図を紹介している。
徳積善太
2010年08月16日
姉小路氏ゆかりの地_細江歌塚
古川町の杉崎地区には細江歌塚と云う石碑があります。

細江歌塚。
これは、高山の国学者 田中大秀が長年にわたり姉小路基綱を顕彰し、その
顕彰碑を建てようと計画しました。ところが、ゆかりの墓碑を探したのですが
見つからず、また、時代も天保ということもあり、飢饉などで人々が苦しんで
いるときに、そういった顕彰碑の設立をはばかられました。
ところが、大秀は志半ばで亡くなり、明治20年になって、大秀の門下の方と
有志によって、この石碑が建造されたのでした。そのことが看板に書かれています。

「市指定 史跡
細江歌塚
昭和46年8月2日指定
天保七年(1836)、高山の国学者田中大秀は、飛騨国姉小路基綱、
同済継の功績を讃えるため、姉小路ゆかりの地に
碑の建設を計画したが、志なかばで没した。
その後、大秀の流れをくむ「杉の二本社」車中が中心となり、
命じ二十年(一八八七)に建立したものである。
不るさとに乃こる心はこころにて
みはなほひなのみをなけくかな。
従二位権中納言 藤原基綱卿
久もをわけにこりをいてしこころもや
於なしはちすのつゆの月かけ
参議正三位 藤原済継卿
(碑表) 正二位権中納言藤原実愛書
(碑裏) 荏野田中大秀文 門人 蒲八十村書
平成十八年十月
飛騨市教育委員会」
徳積善太
細江歌塚。
これは、高山の国学者 田中大秀が長年にわたり姉小路基綱を顕彰し、その
顕彰碑を建てようと計画しました。ところが、ゆかりの墓碑を探したのですが
見つからず、また、時代も天保ということもあり、飢饉などで人々が苦しんで
いるときに、そういった顕彰碑の設立をはばかられました。
ところが、大秀は志半ばで亡くなり、明治20年になって、大秀の門下の方と
有志によって、この石碑が建造されたのでした。そのことが看板に書かれています。
「市指定 史跡
細江歌塚
昭和46年8月2日指定
天保七年(1836)、高山の国学者田中大秀は、飛騨国姉小路基綱、
同済継の功績を讃えるため、姉小路ゆかりの地に
碑の建設を計画したが、志なかばで没した。
その後、大秀の流れをくむ「杉の二本社」車中が中心となり、
命じ二十年(一八八七)に建立したものである。
不るさとに乃こる心はこころにて
みはなほひなのみをなけくかな。
従二位権中納言 藤原基綱卿
久もをわけにこりをいてしこころもや
於なしはちすのつゆの月かけ
参議正三位 藤原済継卿
(碑表) 正二位権中納言藤原実愛書
(碑裏) 荏野田中大秀文 門人 蒲八十村書
平成十八年十月
飛騨市教育委員会」
徳積善太
2010年08月15日
高田神社の姉小路顕彰碑
古川町太江にある高田神社には、姉小路顕彰碑があります。
この石碑は、地元の皆さんによって昭和63年に建造されました。
そもそも、この地にこの顕彰碑が建造されたのには、十楽観という姉小路氏にゆかりの
居館跡がこの神社のすぐ横にあるからです。
高田神社
徳積善太
2010年08月14日
姉小路宮と石像
安政年間に宮川村小谷字古宮にて、石像が発見されました。

その後、昭和47年に石の台座が発見され、以前発見された石像とくぼみが
一致しました。
その台座には「姉小路」の文字が。
地元の人たちにより、明治初年にお宮が建設され、現在も姉小路宮として、
お祀りされています。

今年、応永飛騨の乱600年にあたるため、井之口卓義さんにより、石碑が
建造されました。

宮川町小谷に行くと、現在もこの石碑を見ることができます。
徳積善太

その後、昭和47年に石の台座が発見され、以前発見された石像とくぼみが
一致しました。
その台座には「姉小路」の文字が。
地元の人たちにより、明治初年にお宮が建設され、現在も姉小路宮として、
お祀りされています。

今年、応永飛騨の乱600年にあたるため、井之口卓義さんにより、石碑が
建造されました。
宮川町小谷に行くと、現在もこの石碑を見ることができます。
徳積善太
2010年08月13日
8月13日放送分_姉小路氏ゆかりの地
(8月13日放送分 第163回)みなさんこんにちは、飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくしながせきみあきがお届けしてまいり
ます。
この放送でも再三お伝えしておりますが、9月4日から、飛騨市美術館におきまして、
応永飛騨の乱600年祭記念展示会を行います。現在、その準備が佳境に入ってきており
ますが、おそらく史上初めてではないかと思えるくらいたくさんの展示物をご紹介する
事ができると思います。先日は、姉小路家とほぼ同時期に古川入りしたとされる後藤家
について、いろいろと調べておりました。今までは、姉小路家来四天王の一つとされて
きましたが、実は姉小路氏と肩を並べるほどの公家だったことがわかりました。
その家では長い間分家を作らず、跡取りが元服すると、必ず、関の鍛冶に依頼して刀を
作らせたそうです。そのため、今では分散していますが、関係あるお宅に、室町時代の
刀が残されていました。今回の調査では、10以上の刀剣が発見されましたが、その一部
を展示させていただけることになりました。
また、飛騨の国司として有名な姉小路基綱。今まで出版された本には白黒の絵像しか
掲載されていませんでしたが、カラーの原本を展示させていただきます。
これは、江戸時代後期に高山の国学者 田中大秀が京都の絵師に造らせたものですが、
本邦初公開となります。

その他にも、沢山の初公開品がございます。9月の放送で、その辺は詳しくお話し
していきたいと思いますが、過去に類を見ない、展示会となりそうです。
どうぞ、ご期待いただきたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
今日の放送は、「姉小路氏と廣瀬氏ゆかりの地について」先週の続きをお話ししたい
と思います。
先週のお話しは、国府地区を中心に、廣瀬氏のゆかりの地についてお話ししました。
今週は姉小路氏ゆかりの地についてお話します。ただし、予めお断りしておきますが、
お城につきましては、来週の放送でお話したいと思います。
まず、姉小路氏にゆかりの建物についてお話しましょう。
古川町を北進すると、JR高山本線の飛騨古川駅の次は「杉崎」という場所です。
この杉崎駅の周辺は、姉小路氏のゆかりの場所だらけです。杉崎駅の裏辺り一帯は
「柳の御所」と呼ばれる場所で、ここに姉小路小島氏の舘があったとされています。
現在も古地図で確認すると、字名に「柳の御所」という場所を確認できます。
そこの少し南に、大歳神社という神社がありますが、この神社は、姉小路家・後藤家
のゆかりの神社でした。現在この神社の入口は、旧国道のほうを向いていますが、
かつて、JRが通る前は、入口は反対の東側にあったそうです。
そして、この杉崎駅のすぐ北側には、「細江の歌塚」があります。
この石碑は、明治時代になって、田中大秀の門人たちによって、先生である大秀が、
存命中に建造できなかった姉小路基綱と濟継の和歌を記した石碑を建立したと場所です。
その石碑の北側には、踏切を挟んで西光寺があります。
そこは後藤家の土地に建てられた後藤家の菩提寺だそうです。
そして、その西光寺の北側に、杉崎の町並みがあります。かつてここは、城に一番近い
ほうから、一之町、二之町、三之町があったというお話でした。今では車が一台やっと
通れる通りですが、昔の街並みの幅を残している場所です。
そこから、神原峠の方へ行きますと、左手に寿楽寺というお寺があります。
ここには、姉小路基綱の位牌があります。そして、最近分かったのですが、谷の信行寺
の裏山に当る場所、本堂山といいますが、ここの上に祀ってあった、観音様がこのお寺
に現存するそうです。そして、この観音様が姉小路尹綱が奉納したと言われる伝説が
あるそうです。
その寿楽寺の真裏に、高田神社があります。高田神社の入り口には、「姉小路家顕彰碑」
という大きな石碑が立っています。地元の皆さんによって昭和62年4月に建てられた顕彰碑
です。その顕彰碑の裏側には、「姉小路奥津城跡」の石碑があります。
そもそも、ここに顕彰碑を建てられたのは、姉小路氏の居館「十楽館」という建物が
あったとの伝承があるからです。その「十楽館跡」の石碑が高田神社の左手境内に
あります。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「キャンディーズ 暑中お見舞い申し上げます」をお届けします。
------------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、姉小路氏ゆかりの地のお話をしています。
この顕彰碑の裏側にも書いてありますが、この杉崎の地には、京都にちなんだ地名
があります。小島城跡を東山にたとえ、北野、嵯峨、賀茂川という地名をつけたとの
こと。現在も古地図や小字名にその名前を確認することができます。この高田神社の
西側には、家来の田近家があった石垣が今も残されています。
さて、もう少し北に行ってみましょう。
JR高山線の杉崎駅の次は細江ですが、この細江という場所は、飛騨八所・飛騨八景
として有名な景勝地でした。姉小路基綱がよく和歌にしたためていたこともあり、
江戸時代に入って、『飛州志』を編纂した代官長谷川忠崇ですとか、高山の国学者
田中大秀が飛騨八所の和歌を撰した場所です。
長谷川忠崇は、この八所に石碑を建立していますが、現存するものは、この細江と
小坂町のあさんずだけです。細江の名を記した石碑は、現在の古川西小学校の東角。
ちょうど歩道橋の下あたりに看板も何もなく据えられています。
西小学校から、東の方へ行くと、諏訪神社がありますが、ここにも姉小路氏一族
の墓と称されるお墓があります。明治期に細江村村長さんの発案で建てられた石碑
があります。揮ごうは高山日枝神社の社人富田豊彦が書いています。
その諏訪神社の左手一帯の地名は、岡前といいます。現在の字は岡と前の漢字を
あてていますが、これを御構えとすると、姉小路一族の建物があったとされる場所に
なります。証拠はありませんが、神岡の江馬の舘のような建物がこの辺にあったのでは
ないかとされています。
現在も空堀の一部が確認でき、地元の方にご案内いただきました。
また、岡前と諏訪神社からは晴れた日には御岳が真正面に見え、まさに絶景を楽しむ
ことができます。今でも景色のいい場所には、家を建てたいと思いますが、ここに
住んだのではないでしょうか。
今度は、もう少し北の方に目を向けてみましょう。
袈裟丸から41号線をいきますと、国道361号線と別れるところがあります。その正面に
みえる山の向こう側。そこが宮川町小谷です。ここには、姉小路氏の家来が逃げ込んだ
と伝承があって、応永飛騨の乱の戦いで小谷城が落城したとする説があります。
個人で管理されているお宮ですが、『姉小路宮』というお社があります。この場所は
新しい場所ですが、実は古宮という場所から、江戸時代末期の安政年間に一つの石像が
発見されました。そして、昭和47年に同じ場所から「姉小路氏」と彫られた石板が
見つかり、くぼみがあったので、安政に発見された像と合せた所、ぴったりと一致
しました。それ以来、姉小路宮を建造され、現在もお祀りがされています。

少し戻って、袈裟丸北の鷹狩橋を渡り、信包方面に行くと、向善寺があります。
この寺は、大正時代に二つの寺が合併しましたが、合併する前の善行寺は、姉小路氏の
家来が開基のお寺です。ここには、姉小路基綱の木像が安置されています。

そのお寺の正面に見える場所が「城見寺城跡」と呼ばれる城跡です。
実は、地元の方しかご存知ないものがここにあります。それは「小鷹利氏の墓」と
刻まれた墓碑です。かなり大きなもので2mくらいの高さがあります。小鷹利氏の
末裔の方によって、明治初年に建立されています。私も見た時にはたいへん驚きました。

このあたりには、小鷹利城と向小島城がありますが、お城の方については、来週
お話したいと思います。
ちょっと、南に目を向けますが、古川消防署から畝畑に抜ける新しい道がありますが、
山裾を大きくカーブしています。じつはこの山の上が百足城というお城があった場所
なのですが、そのカーブが右に大きく曲がっていくところの左手に広がるのが高野と
いう場所です。この高野には、五社神社があります。五社神社は、現在は蛤城のあった
山の下にありますが、この神社も姉小路ゆかりの場所と伝えられています。
そして、高野を上の方に上がっていくと、かつてここに古川スキー場がありましたが、
その手前の所が、字光専寺という場所があります。岡村利平さんは、光専寺は姉小路氏
ゆかりの寺院ではなかったかと「飛騨史料」に述べられています。
今まであまり、姉小路氏に関しての研究がされていませんでしたので、こういった
場所が紹介される事はありませんでしたが、今でも古川にたくさんの伝承の地がある
ということをお分かりいただけましたでしょうか。
来週の放送は、今日のつづきで、今度は「古川盆地の古城について」お話したいと
思います。どうぞお楽しみになさって下さい。
今日はこの曲でお別れです。「ゴダイゴで銀河鉄道999」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくしながせきみあきがお届けしてまいり
ます。
この放送でも再三お伝えしておりますが、9月4日から、飛騨市美術館におきまして、
応永飛騨の乱600年祭記念展示会を行います。現在、その準備が佳境に入ってきており
ますが、おそらく史上初めてではないかと思えるくらいたくさんの展示物をご紹介する
事ができると思います。先日は、姉小路家とほぼ同時期に古川入りしたとされる後藤家
について、いろいろと調べておりました。今までは、姉小路家来四天王の一つとされて
きましたが、実は姉小路氏と肩を並べるほどの公家だったことがわかりました。
その家では長い間分家を作らず、跡取りが元服すると、必ず、関の鍛冶に依頼して刀を
作らせたそうです。そのため、今では分散していますが、関係あるお宅に、室町時代の
刀が残されていました。今回の調査では、10以上の刀剣が発見されましたが、その一部
を展示させていただけることになりました。
また、飛騨の国司として有名な姉小路基綱。今まで出版された本には白黒の絵像しか
掲載されていませんでしたが、カラーの原本を展示させていただきます。
これは、江戸時代後期に高山の国学者 田中大秀が京都の絵師に造らせたものですが、
本邦初公開となります。

その他にも、沢山の初公開品がございます。9月の放送で、その辺は詳しくお話し
していきたいと思いますが、過去に類を見ない、展示会となりそうです。
どうぞ、ご期待いただきたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
今日の放送は、「姉小路氏と廣瀬氏ゆかりの地について」先週の続きをお話ししたい
と思います。
先週のお話しは、国府地区を中心に、廣瀬氏のゆかりの地についてお話ししました。
今週は姉小路氏ゆかりの地についてお話します。ただし、予めお断りしておきますが、
お城につきましては、来週の放送でお話したいと思います。
まず、姉小路氏にゆかりの建物についてお話しましょう。
古川町を北進すると、JR高山本線の飛騨古川駅の次は「杉崎」という場所です。
この杉崎駅の周辺は、姉小路氏のゆかりの場所だらけです。杉崎駅の裏辺り一帯は
「柳の御所」と呼ばれる場所で、ここに姉小路小島氏の舘があったとされています。
現在も古地図で確認すると、字名に「柳の御所」という場所を確認できます。
そこの少し南に、大歳神社という神社がありますが、この神社は、姉小路家・後藤家
のゆかりの神社でした。現在この神社の入口は、旧国道のほうを向いていますが、
かつて、JRが通る前は、入口は反対の東側にあったそうです。
そして、この杉崎駅のすぐ北側には、「細江の歌塚」があります。
この石碑は、明治時代になって、田中大秀の門人たちによって、先生である大秀が、
存命中に建造できなかった姉小路基綱と濟継の和歌を記した石碑を建立したと場所です。
その石碑の北側には、踏切を挟んで西光寺があります。
そこは後藤家の土地に建てられた後藤家の菩提寺だそうです。
そして、その西光寺の北側に、杉崎の町並みがあります。かつてここは、城に一番近い
ほうから、一之町、二之町、三之町があったというお話でした。今では車が一台やっと
通れる通りですが、昔の街並みの幅を残している場所です。
そこから、神原峠の方へ行きますと、左手に寿楽寺というお寺があります。
ここには、姉小路基綱の位牌があります。そして、最近分かったのですが、谷の信行寺
の裏山に当る場所、本堂山といいますが、ここの上に祀ってあった、観音様がこのお寺
に現存するそうです。そして、この観音様が姉小路尹綱が奉納したと言われる伝説が
あるそうです。
その寿楽寺の真裏に、高田神社があります。高田神社の入り口には、「姉小路家顕彰碑」
という大きな石碑が立っています。地元の皆さんによって昭和62年4月に建てられた顕彰碑
です。その顕彰碑の裏側には、「姉小路奥津城跡」の石碑があります。
そもそも、ここに顕彰碑を建てられたのは、姉小路氏の居館「十楽館」という建物が
あったとの伝承があるからです。その「十楽館跡」の石碑が高田神社の左手境内に
あります。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「キャンディーズ 暑中お見舞い申し上げます」をお届けします。
------------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、姉小路氏ゆかりの地のお話をしています。
この顕彰碑の裏側にも書いてありますが、この杉崎の地には、京都にちなんだ地名
があります。小島城跡を東山にたとえ、北野、嵯峨、賀茂川という地名をつけたとの
こと。現在も古地図や小字名にその名前を確認することができます。この高田神社の
西側には、家来の田近家があった石垣が今も残されています。
さて、もう少し北に行ってみましょう。
JR高山線の杉崎駅の次は細江ですが、この細江という場所は、飛騨八所・飛騨八景
として有名な景勝地でした。姉小路基綱がよく和歌にしたためていたこともあり、
江戸時代に入って、『飛州志』を編纂した代官長谷川忠崇ですとか、高山の国学者
田中大秀が飛騨八所の和歌を撰した場所です。
長谷川忠崇は、この八所に石碑を建立していますが、現存するものは、この細江と
小坂町のあさんずだけです。細江の名を記した石碑は、現在の古川西小学校の東角。
ちょうど歩道橋の下あたりに看板も何もなく据えられています。
西小学校から、東の方へ行くと、諏訪神社がありますが、ここにも姉小路氏一族
の墓と称されるお墓があります。明治期に細江村村長さんの発案で建てられた石碑
があります。揮ごうは高山日枝神社の社人富田豊彦が書いています。
その諏訪神社の左手一帯の地名は、岡前といいます。現在の字は岡と前の漢字を
あてていますが、これを御構えとすると、姉小路一族の建物があったとされる場所に
なります。証拠はありませんが、神岡の江馬の舘のような建物がこの辺にあったのでは
ないかとされています。
現在も空堀の一部が確認でき、地元の方にご案内いただきました。
また、岡前と諏訪神社からは晴れた日には御岳が真正面に見え、まさに絶景を楽しむ
ことができます。今でも景色のいい場所には、家を建てたいと思いますが、ここに
住んだのではないでしょうか。
今度は、もう少し北の方に目を向けてみましょう。
袈裟丸から41号線をいきますと、国道361号線と別れるところがあります。その正面に
みえる山の向こう側。そこが宮川町小谷です。ここには、姉小路氏の家来が逃げ込んだ
と伝承があって、応永飛騨の乱の戦いで小谷城が落城したとする説があります。
個人で管理されているお宮ですが、『姉小路宮』というお社があります。この場所は
新しい場所ですが、実は古宮という場所から、江戸時代末期の安政年間に一つの石像が
発見されました。そして、昭和47年に同じ場所から「姉小路氏」と彫られた石板が
見つかり、くぼみがあったので、安政に発見された像と合せた所、ぴったりと一致
しました。それ以来、姉小路宮を建造され、現在もお祀りがされています。

少し戻って、袈裟丸北の鷹狩橋を渡り、信包方面に行くと、向善寺があります。
この寺は、大正時代に二つの寺が合併しましたが、合併する前の善行寺は、姉小路氏の
家来が開基のお寺です。ここには、姉小路基綱の木像が安置されています。
そのお寺の正面に見える場所が「城見寺城跡」と呼ばれる城跡です。
実は、地元の方しかご存知ないものがここにあります。それは「小鷹利氏の墓」と
刻まれた墓碑です。かなり大きなもので2mくらいの高さがあります。小鷹利氏の
末裔の方によって、明治初年に建立されています。私も見た時にはたいへん驚きました。
このあたりには、小鷹利城と向小島城がありますが、お城の方については、来週
お話したいと思います。
ちょっと、南に目を向けますが、古川消防署から畝畑に抜ける新しい道がありますが、
山裾を大きくカーブしています。じつはこの山の上が百足城というお城があった場所
なのですが、そのカーブが右に大きく曲がっていくところの左手に広がるのが高野と
いう場所です。この高野には、五社神社があります。五社神社は、現在は蛤城のあった
山の下にありますが、この神社も姉小路ゆかりの場所と伝えられています。
そして、高野を上の方に上がっていくと、かつてここに古川スキー場がありましたが、
その手前の所が、字光専寺という場所があります。岡村利平さんは、光専寺は姉小路氏
ゆかりの寺院ではなかったかと「飛騨史料」に述べられています。
今まであまり、姉小路氏に関しての研究がされていませんでしたので、こういった
場所が紹介される事はありませんでしたが、今でも古川にたくさんの伝承の地がある
ということをお分かりいただけましたでしょうか。
来週の放送は、今日のつづきで、今度は「古川盆地の古城について」お話したいと
思います。どうぞお楽しみになさって下さい。
今日はこの曲でお別れです。「ゴダイゴで銀河鉄道999」
ではまた来週お会いしましょう。
徳積善太
2010年08月11日
展示予定品の一部_T神社の兜
姉小路氏の小島家の当主だった小島時光が着用したとされる兜です。
今度の展示会にて展示予定。

応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
今度の展示会にて展示予定。

応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月10日
展示予定品の一部_親鸞6字名号
姉小路基綱から、東等寺初代が賜ったと伝わる、六字名号。

応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
於:飛騨市美術館
平成22年9月4日から26日 午前10時から4時まで。開催予定。
徳積善太
2010年08月09日
大変申し訳ございません。
このごろブログがおろそかになっています。

現在、9月の出版に向けて、本の原稿を毎晩書いております。
総ページ数300ページの本ですが、内容はかなり高度なものになりそうです。
今まで、こういった本がなかったのですが、タイトルは「姉小路と廣瀬」。
執筆者が20名以上という、相当な本になりそうです。
こうご期待ください!
徳積善太
現在、9月の出版に向けて、本の原稿を毎晩書いております。
総ページ数300ページの本ですが、内容はかなり高度なものになりそうです。
今まで、こういった本がなかったのですが、タイトルは「姉小路と廣瀬」。
執筆者が20名以上という、相当な本になりそうです。
こうご期待ください!
徳積善太
2010年08月06日
8月6日放送分_姉小路氏と廣瀬氏ゆかりの地
(8月6日放送分 第162回)みなさんこんにちは、飛騨の歴史再発見のコーナーです。
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
それにしても暑いですね。6月は雨ばかりと思っていたら、梅雨が明けたらいきなり
猛暑というか酷暑になりました。この前テレビを見ていましたら、8月は激暑になると
いっていました。これは、地球全体でいいますと地球全体の温度が上がっているために、
北極の空気が南下しようとして、偏西風が蛇行しているそうです。
ちょうど、ロシアのあたりと、アリューシャン列島のあたりで南下しているそうですが、
日本列島のあたりにいつも通っている偏西風が北の方に蛇行し、そこに太平洋高気圧が
北上して入り込んでいるそうです。そして、太平洋高気圧の上から、チベット高気圧が
押さえつける形になっていて、日本列島が、太平洋高気圧とチベット高気圧の二つの蓋の
下に入った状態になって、熱が宇宙へ逃げずに異常高温になっているということでした。
8月もこの状態が続くそうですので、しばらくこの酷暑が続くという事でした。
こうなりますと室内にいても熱中症にかかる場合があります。7月の中頃から全国ではたく
さんの方がこの熱中症でお亡くなりになっていると聞きます。
どうぞ、十分な水分と塩を取り、そして何よりも涼しい場所で安静にしていただく事を
お勧めします。この熱中症は若いとか年寄りとか年齢は関係ありません。亡くなった方の
年齢を見ましても、40代の方でもお亡くなりになっています。どうぞお気をつけください。
さて、本日の放送に入りましょう。
今日の放送は、「姉小路氏と廣瀬氏ゆかりの地について」お話ししたいと思います。
現在、応永飛騨の乱600年祭と称して、9月に開催する展示会の準備をしております。
同時に記念誌を発行するという事でその準備もしております。総ページ数300ページという
膨大なもので、今回調査したことなどや発見したことなどを画像などで紹介したり、また
中世の研究者の皆様20名ほどに論文の形で執筆頂いております。
今まで研究されていなかったことなども発表いたしますので、どうぞご期待下さい。
なお、9月中旬の発行予定で、一冊2500円でお分けする事になっております。
さて、姉小路氏・廣瀬氏ゆかりの地ということですが、8月4日に今回の事務局で私と
茂住修史さんとでお話しをさせていただきました。ゆかりの地はたくさんあって、
とてもこの放送ですべてをお話しすることができませんので、二週に分けてお話し
したいと思います。今週のお話しは、廣瀬氏ゆかりの地ということでお話ししたいと
思います。
実は、去る7月11日(日)に「廣瀬氏ゆかりの地ツアー」を今回のイベントの一環として
開催させていただきました。20名ほどの方のご参加をいただきましたが、ご参加いただいた
方にはありがとうございました。

その時に回りましたのは、まず、国府町の名張と瓜巣の間にある廣瀬城に上りました。
この廣瀬城は、参加された方もおっしゃっていましたが、国府のアピタの裏にある山なの
ですが、皆さん同じように「え、ここがお城だったの?」とおっしゃっていました。
それほど、普段からご覧になっている山なんです。ここへの上がり口は、アピタから少し
北に行くと、浄土真宗の浄覚寺というお寺があります。そこにお城の鳥瞰図がありますので、
すぐにわかりますが、そこから上がることができます。
上にあがるには少しきつい場所もありますが、運動靴で楽に上れるなだらかな小山です。
上には、大手道を上がると山の中腹に見えて来るのが、田中筑前守の墓碑です。

明治時代に造りかえられたもののようですが、これには永正2年()という年号が彫って
あります。

そしてそこを右手の方に上がっていくと、県下有数の畝状堅堀があります。大体幅2m
高さ1m長さ7mくらいの空掘りが無数に掘られています。私も初めてみた時は大変感動
しました。
あまり詳しく話しますと今日の放送では話しきれませんので、これくらいにしますが、
ぜひここは一度ご覧になるとよろしいかと思います。
そして、今回は行きませんでしたが、その廣瀬城の裏山が寺洞城砦群という砦が集った
所があり、その後が天正13年に金森氏が入国した時に、三木氏の雄 三木自綱が最後
まで立て籠ったという高堂城があります。
ここは、大変急峻な山城で、頂上まで上がるにはちょっときついかもしれません。
しかし、途中にはわずか1mの幅で左右が崖になっている所や、大変見晴らしの良い、
頂上本丸跡がありますので、一度ご覧いただくとよろしいかと思います。
ハイキング気分で、お弁当などを持参されるといいかもしれません。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「西條秀樹 ブルースカイブルー」をお届けします。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬氏ゆかりの地のお話をしています。
今回のツアーでは、ちょうど雨の晴れ間でしたので、よかったのですが、次に村山
天満宮へ行きました。ここは、廣瀬氏というより姉小路尹綱にゆかりの地で、尹綱の
奥方が野口城から逃げて来た時に、3体の仏像があった。それを上廣瀬の人が祀って
いたら、あるとき泥棒に盗まれた。
ところが、途中でだんだん重くなって草むらに放り投げた所、村山の古老の方の夢枕に
菅原道真公が立たれて、「私は菅原道真である。私はこの村山の地が気に入った。
この土地に祀ってもらえないか」ということで、草むらを探したところそのお像が
見つかったので安置したという傳説がある所です。
その次に行きましたのが、早稲香清水。

この場所は、あじめ橋を村山から渡ってすぐを左に行った所に、清水さんというお宅が
あります。そのお宅のすぐ前の石垣の下にあります。残念ながら現在は土地改良のために
水が出ていませんし、看板も何もないのでわかりにくいですが、姉小路尹綱の奥方が
命からがら逃げて来た時に飲んだと言われる清水です。
この清水さんは、明治時代にこの清水にちなんで苗字を清水にしたそうです。
そして、この放送でも何度かお話ししました、上廣瀬の諏訪神社。

この神社の前の辺りが「だんど」といって墓地になっています。そこに、「廣瀬氏
一族の墓」があります。今でも五輪塔21基があり、毎年地元の皆さんによって法要が
営まれているそうです。
諏訪神社の右手の道を上に上がった所が、「光寿庵跡」。

一説にはこの寺院跡は、
廣瀬氏一族の菩提寺であったとの伝承があります。今回のツアーで一番見ていただき
たかったのが、寺院跡もですが、土門の跡です。前日に見やすいようにスタッフで
草刈りをしたのですが、幅5m高さ4m奥行き20mほどもある土門がきれいに残って
います。奥に行くほど、鍵の手状になっていて、おそらく敵が攻めて来た時にまっすぐ
入れないような構造になっています。何も手がつけられなかったのか、地元の人に
よって大切に保存されたのか、500年以上前の遺構がこんなにきれいに良く残っていた
なあと感心する場所です。

諏訪神社から北に行くと、左手に桜野があります。
ここの桜は、廣瀬氏が7種類の桜を吉野から持って来たとされる場所ですが、今でも
桜の名所となっていますよね。春にはたくさんの桜が、観光客の目を楽しませてくれ
ます。この桜、廣瀬氏の誰が持って来たのか、歴史的にはよくわかっていません。
『菩提院古縁起』には、後醍醐天皇の頃という説。江戸時代中期に書かれた『飛州志』
には、室町中期に廣瀬左近将監利治によってもたらされたとされ、また、明治時代の
『飛騨編年史要』には、天正の頃、廣瀬山城守宗域となっています。
いずれにしても今よりも3倍から5倍は面積があったそうで、現在は一部が残っているに
すぎません。
そこから山手の方には、度瀬神社があります。地元の人はわたりせと呼んでいますが、
この境内から鳥居と道の方をみると、その正面に廣瀬城が見えます。風水に関係ある
のではと思わせる場所です。度瀬神社の由緒はよくわかっていませんが、平安時代に
書かれた延喜式には、飛騨の式外十社の一つとされています。
度瀬神社からさらに北に行くと、廣瀬神社があります。丁度、国府小学校の南にある
神社です。この神社には、棟札があって、廣瀬氏が建造したとの記録があります。
その神社の境内一番南側に、今回の応永飛騨の乱に関係する、姉小路尹綱と広瀬常登の
首をさらしたという首塚があります。小さな五輪塔があり、左右に姉小路宰相墓と広瀬常登
墓という墓碑が立っています。

そこにある桜は、地元の人がこの二人を慰めるために植えたとされる桜です。
その上の山は、山崎城跡で、廣瀬氏が飛騨に入国した時に最初にこの城を築いたとされる
場所です。
国府支所の裏の所には、応永飛騨の乱で亡くなった人を埋めたとされる千人塚があります。
千人とは大げさでしょうが、たくさんの人を埋めた塚であると思われます。

あと、国府には、鶴巣の清峯寺があります。
ここは、円空の十一面観音像で有名ですが、現在の御堂の左手の山手を10分ほど登ると、
土門と白山神社跡の碑。そしてそのさらに奥には、姉小路一族の墓と伝承されている
墓地があります。

やっぱり全部は紹介できませんでしたね。来週の放送は、今日のつづきで、今度は「姉小路氏
のゆかりの地について」お話したいと思います。どうぞお楽しみになさって下さい。
今日はこの曲でお別れです。「山口百恵 しなやかに歌って」ではまた来週お会いし
ましょう。
徳積善太
この番組は、飛騨の生涯学習者第二号 わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
それにしても暑いですね。6月は雨ばかりと思っていたら、梅雨が明けたらいきなり
猛暑というか酷暑になりました。この前テレビを見ていましたら、8月は激暑になると
いっていました。これは、地球全体でいいますと地球全体の温度が上がっているために、
北極の空気が南下しようとして、偏西風が蛇行しているそうです。
ちょうど、ロシアのあたりと、アリューシャン列島のあたりで南下しているそうですが、
日本列島のあたりにいつも通っている偏西風が北の方に蛇行し、そこに太平洋高気圧が
北上して入り込んでいるそうです。そして、太平洋高気圧の上から、チベット高気圧が
押さえつける形になっていて、日本列島が、太平洋高気圧とチベット高気圧の二つの蓋の
下に入った状態になって、熱が宇宙へ逃げずに異常高温になっているということでした。
8月もこの状態が続くそうですので、しばらくこの酷暑が続くという事でした。
こうなりますと室内にいても熱中症にかかる場合があります。7月の中頃から全国ではたく
さんの方がこの熱中症でお亡くなりになっていると聞きます。
どうぞ、十分な水分と塩を取り、そして何よりも涼しい場所で安静にしていただく事を
お勧めします。この熱中症は若いとか年寄りとか年齢は関係ありません。亡くなった方の
年齢を見ましても、40代の方でもお亡くなりになっています。どうぞお気をつけください。
さて、本日の放送に入りましょう。
今日の放送は、「姉小路氏と廣瀬氏ゆかりの地について」お話ししたいと思います。
現在、応永飛騨の乱600年祭と称して、9月に開催する展示会の準備をしております。
同時に記念誌を発行するという事でその準備もしております。総ページ数300ページという
膨大なもので、今回調査したことなどや発見したことなどを画像などで紹介したり、また
中世の研究者の皆様20名ほどに論文の形で執筆頂いております。
今まで研究されていなかったことなども発表いたしますので、どうぞご期待下さい。
なお、9月中旬の発行予定で、一冊2500円でお分けする事になっております。
さて、姉小路氏・廣瀬氏ゆかりの地ということですが、8月4日に今回の事務局で私と
茂住修史さんとでお話しをさせていただきました。ゆかりの地はたくさんあって、
とてもこの放送ですべてをお話しすることができませんので、二週に分けてお話し
したいと思います。今週のお話しは、廣瀬氏ゆかりの地ということでお話ししたいと
思います。
実は、去る7月11日(日)に「廣瀬氏ゆかりの地ツアー」を今回のイベントの一環として
開催させていただきました。20名ほどの方のご参加をいただきましたが、ご参加いただいた
方にはありがとうございました。
その時に回りましたのは、まず、国府町の名張と瓜巣の間にある廣瀬城に上りました。
この廣瀬城は、参加された方もおっしゃっていましたが、国府のアピタの裏にある山なの
ですが、皆さん同じように「え、ここがお城だったの?」とおっしゃっていました。
それほど、普段からご覧になっている山なんです。ここへの上がり口は、アピタから少し
北に行くと、浄土真宗の浄覚寺というお寺があります。そこにお城の鳥瞰図がありますので、
すぐにわかりますが、そこから上がることができます。
上にあがるには少しきつい場所もありますが、運動靴で楽に上れるなだらかな小山です。
上には、大手道を上がると山の中腹に見えて来るのが、田中筑前守の墓碑です。

明治時代に造りかえられたもののようですが、これには永正2年()という年号が彫って
あります。

そしてそこを右手の方に上がっていくと、県下有数の畝状堅堀があります。大体幅2m
高さ1m長さ7mくらいの空掘りが無数に掘られています。私も初めてみた時は大変感動
しました。
あまり詳しく話しますと今日の放送では話しきれませんので、これくらいにしますが、
ぜひここは一度ご覧になるとよろしいかと思います。
そして、今回は行きませんでしたが、その廣瀬城の裏山が寺洞城砦群という砦が集った
所があり、その後が天正13年に金森氏が入国した時に、三木氏の雄 三木自綱が最後
まで立て籠ったという高堂城があります。
ここは、大変急峻な山城で、頂上まで上がるにはちょっときついかもしれません。
しかし、途中にはわずか1mの幅で左右が崖になっている所や、大変見晴らしの良い、
頂上本丸跡がありますので、一度ご覧いただくとよろしいかと思います。
ハイキング気分で、お弁当などを持参されるといいかもしれません。
ちょっとここでブレイクしましょう。
曲は「西條秀樹 ブルースカイブルー」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬氏ゆかりの地のお話をしています。
今回のツアーでは、ちょうど雨の晴れ間でしたので、よかったのですが、次に村山
天満宮へ行きました。ここは、廣瀬氏というより姉小路尹綱にゆかりの地で、尹綱の
奥方が野口城から逃げて来た時に、3体の仏像があった。それを上廣瀬の人が祀って
いたら、あるとき泥棒に盗まれた。
ところが、途中でだんだん重くなって草むらに放り投げた所、村山の古老の方の夢枕に
菅原道真公が立たれて、「私は菅原道真である。私はこの村山の地が気に入った。
この土地に祀ってもらえないか」ということで、草むらを探したところそのお像が
見つかったので安置したという傳説がある所です。
その次に行きましたのが、早稲香清水。
この場所は、あじめ橋を村山から渡ってすぐを左に行った所に、清水さんというお宅が
あります。そのお宅のすぐ前の石垣の下にあります。残念ながら現在は土地改良のために
水が出ていませんし、看板も何もないのでわかりにくいですが、姉小路尹綱の奥方が
命からがら逃げて来た時に飲んだと言われる清水です。
この清水さんは、明治時代にこの清水にちなんで苗字を清水にしたそうです。
そして、この放送でも何度かお話ししました、上廣瀬の諏訪神社。
この神社の前の辺りが「だんど」といって墓地になっています。そこに、「廣瀬氏
一族の墓」があります。今でも五輪塔21基があり、毎年地元の皆さんによって法要が
営まれているそうです。
諏訪神社の右手の道を上に上がった所が、「光寿庵跡」。

一説にはこの寺院跡は、
廣瀬氏一族の菩提寺であったとの伝承があります。今回のツアーで一番見ていただき
たかったのが、寺院跡もですが、土門の跡です。前日に見やすいようにスタッフで
草刈りをしたのですが、幅5m高さ4m奥行き20mほどもある土門がきれいに残って
います。奥に行くほど、鍵の手状になっていて、おそらく敵が攻めて来た時にまっすぐ
入れないような構造になっています。何も手がつけられなかったのか、地元の人に
よって大切に保存されたのか、500年以上前の遺構がこんなにきれいに良く残っていた
なあと感心する場所です。
諏訪神社から北に行くと、左手に桜野があります。
ここの桜は、廣瀬氏が7種類の桜を吉野から持って来たとされる場所ですが、今でも
桜の名所となっていますよね。春にはたくさんの桜が、観光客の目を楽しませてくれ
ます。この桜、廣瀬氏の誰が持って来たのか、歴史的にはよくわかっていません。
『菩提院古縁起』には、後醍醐天皇の頃という説。江戸時代中期に書かれた『飛州志』
には、室町中期に廣瀬左近将監利治によってもたらされたとされ、また、明治時代の
『飛騨編年史要』には、天正の頃、廣瀬山城守宗域となっています。
いずれにしても今よりも3倍から5倍は面積があったそうで、現在は一部が残っているに
すぎません。
そこから山手の方には、度瀬神社があります。地元の人はわたりせと呼んでいますが、
この境内から鳥居と道の方をみると、その正面に廣瀬城が見えます。風水に関係ある
のではと思わせる場所です。度瀬神社の由緒はよくわかっていませんが、平安時代に
書かれた延喜式には、飛騨の式外十社の一つとされています。
度瀬神社からさらに北に行くと、廣瀬神社があります。丁度、国府小学校の南にある
神社です。この神社には、棟札があって、廣瀬氏が建造したとの記録があります。
その神社の境内一番南側に、今回の応永飛騨の乱に関係する、姉小路尹綱と広瀬常登の
首をさらしたという首塚があります。小さな五輪塔があり、左右に姉小路宰相墓と広瀬常登
墓という墓碑が立っています。
そこにある桜は、地元の人がこの二人を慰めるために植えたとされる桜です。
その上の山は、山崎城跡で、廣瀬氏が飛騨に入国した時に最初にこの城を築いたとされる
場所です。
国府支所の裏の所には、応永飛騨の乱で亡くなった人を埋めたとされる千人塚があります。
千人とは大げさでしょうが、たくさんの人を埋めた塚であると思われます。
あと、国府には、鶴巣の清峯寺があります。
ここは、円空の十一面観音像で有名ですが、現在の御堂の左手の山手を10分ほど登ると、
土門と白山神社跡の碑。そしてそのさらに奥には、姉小路一族の墓と伝承されている
墓地があります。

やっぱり全部は紹介できませんでしたね。来週の放送は、今日のつづきで、今度は「姉小路氏
のゆかりの地について」お話したいと思います。どうぞお楽しみになさって下さい。
今日はこの曲でお別れです。「山口百恵 しなやかに歌って」ではまた来週お会いし
ましょう。
徳積善太





