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プロフィール
rekisy
rekisy
飛騨に住んで40年。文化の町「高山」に住んでいながら、知らないことが多い事に気づきました。少しでも、皆さんに知っていただくために、文化のまちおこしを目指します。 「歴史」と「音楽」のまちづくりを目指します。応援してください!
<所属研究会>
飛騨の匠学会 所属
立川流彫刻研究会 後援会会員
山王祭 神楽組 所属
日枝雅楽会 会員
倭舞保存会 責任者
飛騨歴史民俗学会 会員
飛騨古川ふるさと案内人会 準会員
下呂検定2008合格者

元 金森顕彰会 理事
日本ホスピタリティ学会 関西支部 客員聴講者
佐藤一斎研究会 客員会員
オーナーへメッセージ

2012年05月20日

若宮多門さんの講演_帰雲城調査会

先日、白川郷にお邪魔した時に、たまたま帰雲調査会の総会があるから行ってみてはと
お誘いをいただきました。

そこで、以前からお会いしたいと思っていた、白山長滝神社の若宮多門宮司さんに偶然
お会いすることができました。
まさかとは思いましたが、お会いできてよかったです。

講演録を記録しましたので、お知らせいたします。

「平成22年5月19日 帰雲城調査会記念講演
於:白川郷総合施設
白山信仰の広がり   若宮多門氏

2年に1度、露払いでどぶろく祭に来ています。白川郷平瀬に来ている状況です。昔川上の荘
から白川郷が縄張りであった頃にこんなに来た事は無いと思います。歴代神主で一番やって
来たのは私だと思います。

来週土曜日、この白山スーパー林道の登り口に茶屋があり、そこをメイン会場にして、国定公園に
なってから50周年という事で、白山を取巻く岐阜・福井・石川の一部・富山の県で連動していろんな
イベントを企画しようという事になっています。
県のレベルのイベントですが、用意ドンのキックオフを最初のスタートとして来週の26日土曜日に
岐阜県側のイベントをスタートします。
ウォーキングと交流会をやられます。その時に1時間ほど、豊田の方、郷土史家。白山写真集で
知られる曽我さんとトークセッションをやります。もしお時間があれば覗いて下さい。主幹は白川村です。

白鳥町の方では、2つ講演会を予定しています。
展覧会も予定していますが、特筆すべき内容として2つあります。
私の先輩ですが、郡上の郷土史に詳しい白石博雄さんが、6月16日に白鳥の町でふれあい総合館にて
「弁慶義経の逃避の道」を話されます。おそらくなかなか聞けないのではないかと、健康状態がよろしく
ないので、今日の話と連動しますので興味を持たれたら来て下さい。

11月の終り頃の日曜あるいは土曜日には中尊寺のお坊さんに来ていただいて、中尊寺のはせくさんに
来ていただきます。文化財担当です。平泉や中尊寺の面白い話しが聴けるのではと期待しております。
前置きの話しをさせていただきました。

書いた物の冊子を以前お渡しいただいたのかどうか定かではありません。
随分前に書いた物です。出会うきっかけもこんなところにあったのではと思っています。
どういう事かと言うと、私自身は長瀧の歴代神主ですが、事情があって、先代の神主が経済的な理由で
お宮の維持を考えて、岐阜の町に出掛け、商売をしていた時があります。その時にその地で生まれ育って
いました。
先代の神主があって、その後帰って来たという事で、資格をいただいただけですが、先代と共に平行して
勉強したというわけではありません。
親父が突如亡くなって帰って来た。御前峰(ごぜんがみね)が「ごぜんほう」だった。子供心に長瀧の場所が、
義経が、弁慶が、家康がということを親父が言ってました。ほらふきだったので、子供の関心を引こうとして
いるのだと思いました。

帰って来て数年経つうちに、少しづつ白山の神様を通じていろんな事が見えてきた。
うちの親父が言っていたのはオーバーでも何でもなかった。私もそう真面目な神主でもなかったので遊んで
ばかりいましたが、そういう事が見えてくる中で、地元の若い人達の地域に対する愛情、そういう時代が地域
起こし、町起こしの時代だった。
一村一品運動とか。バブルの時代でした。そんなことから、ほぼ僕と同じ年代の人達と勉強会をするように
なっていろんなものが見えてきた。

白山信仰を基盤にしながら、地域文化を紐解こうという流れになった。
地域起こし、村起こしの事業をやって商工会を通じて潤沢な資金もあった。町起こし事業の文化部門を担当
させていただくことになりました。一緒に勉強していた人が3人位いた。分科会をやったときに、石徹白にある
虚空蔵菩薩の金銅仏。県で一番大きな金仏。これは藤原秀衡 3代目。義経のパトロンが寄進したものらしい
ということで、1986年頃に打診があった。藤原秀平が亡くなって800年経つ。そして貸してくれないかと。

秘仏=一字金麟仏という物と二つ並べて、日本中の人に見ていただきたいという話しがありました。
石徹白から中尊寺に運ばれて、見ていただいた。その次の年に平泉サミットがあった。
天台仏教との中尊寺のつながり、義経弁慶のつながり。それでサミットをやろうと依頼があり、当時の町長さん
とお付きの人が2人程行ってサミットをやった。

地域起こし村起こしの勉強会の何をやろうかと合致して、きっと平泉に行くと何かあるという事になった。
長瀧寺の延年の舞がありますが、毛通寺の延年の舞は事に有名。中尊寺の宋版の一切経という物が渡って
います。長瀧にも宋版の一切経があります。

4000冊200箱ある。弁慶と義経の話しが残っているから調査にいけば面白いのでは。
平泉サミットも見て来ては。ということで調査研究費用をお願いして、スタッフ5人で平泉の地へ行くというのを
提案した。

いろんな事をお尋ねするという事で、二泊三日位で行ってきた。予算を請求したらそんな前例がないと。
そういう交通費や宿泊費に使ったという前提が無いという事で再検討という事になった。総意で決定した事
なので、説明ができない。辞めさせて欲しいと言ったら、若宮さんの言うとおりご自由にという事になった。
それがスタートとなりました。

30~40歳位の人間が三島十郎町長のお供で行って勉強してきました。延年の舞との交流があったり、
6・7回平泉に行きました。多くの事が見えてきました。そのことがお手元にある資料です。

白山信仰はどういう物であったかということで、たぶんなら皆さんとこうやって交流が起る様になった最初の
気付きだと思っています。ややもすると一般寺院の中では考えられなかった分野からスタートして、学芸員
の資格を持っていますので、いわば博物館相当施設で文物を紹介したり展示したりという勉強をやって
きました。
そちらの方をやっていこうという中で、特別に歴史の勉強をしてきたわけではありませんが、そういうきっかけ
から神社だけではなくて、神道や仏教。いわば時代時代の宗教勢力がいかに地域、日本全国の政治の流れに
色濃く関わってきたか。
関わり。気が付けば真っ只中のこの地域の事象に宗教が関わっている事が見えてきました。

そのお話しの中で大村さんなどとも知り合い、皆さん方との交流が生まれたという事です。

今日はスタートであるところの、白山信仰がどのように始まったかということを後ほど時間があれば読んで
いただきたいと思います。書いた通りの話しをする訳ではありません。


さて、中尊寺に行かれた事はありますか?皆さん金色堂に行きますよね。99.9%金色堂に行かれます。
そこから奥に入って行くと、野外能楽堂があります。国の重文です。
そして橋掛かりの廊下があり、小さな社務所があり、そこに白山神社が祀ってあります。
白山からは750km離れています。中尊寺に白山の神様が祀ってあります。金色堂は、白山神社の持ち物。
白山の神社に僧侶達がお能を奉納するための能楽堂。重要な演目が行われていません。
御一つ馬行事とかです。中尊寺には象徴的な物です。長瀧寺。延暦寺。高野山と言うのは総称で、その
前に塔頭があって、メーン会場になっている。

昔から中尊寺の廻りにお坊さん達がいて、事務や仏事をやっていた。御奉仕いただいていた。中尊寺の
坊中塔頭にお坊さん方がたくさん見えて、男児が生れて跡取りとする場合に、7歳になった時に神馬に
乗せて白山詣でをする。その事で初めてその子が、中尊寺の今後お坊さんになることを認められた。

白山の神が乗り移ると、その子が白山神に認められないと、お坊さんになれない。
北の護り鎮守社ですが、単なる護り神ではなくて、それ以上の意味合いを持っています。
中尊寺の前身、弘大寿院というのがありますが、そこが元になっています。

円仁=慈覚大師の開山です。
その方は天台仏教を日本全土に広げて行く時に、北の神を白山神、南を日吉神を携えて行ったという
伝承があります。東北には恐山にまで伝承があります。白山神=古い白山神、古い日吉神社は、慈覚
縁起を全部持っています。平安時代に開基した所には、東北一円に慈覚縁起があります。白山の神様は
天台仏教は本来関係ありませんが、実は元になる比叡山の山中には、白山神が降り立つ場所があります。

降臨所があって、下の日吉秘密記等の記録の中に、そこに参って、白山の神に寄り添ってから修業に
入るというのがあります。
天台の大本に於いて、僧侶自身を護る、その者が修行者として認められるかどうかを白山神が司って
いたという記録がある。今話しをしてもピンときません。

南の所には、マロウド権現=客人として白山神社が祀ってあります。
白山神社は日吉の神より信念がある。国の重文としてなっていますが、白山神は修業の中に山林修行
というのがありますが、その守り神として奈良時代以降、そういう位置にあったのではないかと思われます。

奈良仏教から京都仏教に代っていく時に、叡山の中に白山神を護りとして、僧侶の気持ちを高めるというか、付加価値を付けるというか、そういう白山の神様の位置付けがあって、最澄が平安時代に拓く時に白山の神を大事にした。長い歴史の中で、大本の比叡山には、白山の神を大事にするという思想が薄れていった。ドーナツ現象の様に東北の地に残っているという事です。

もっと他の宗教的な意味合いだけではないのではないかという事です。それは何か。慈覚大師の時代に白山信仰は広げられますが、開山の祖、泰澄大師は、奈良時代初期です。平安時代初期は、慈覚大師縁起が、白山信仰を広めて行きます。そして道玄さんが、白山妙理大権現仏法大頭了という事で一番の護り神として同じ様に修業の場合には白山神に護られて修業する。地元に帰ると白山の神を勧請して、という形になった。

全国に点が広がって行った。城山の神とか広がっていくが表向きのご利益が白山の水をいただくとか、白は再生の神であるとか。白山の山中で修業する人達の能力をいわばあてにするというか、そういう形が生れて行った。白山という山は三方に登り口が開かれた。三馬場という物が確立されて道場が出来上がり、一大勢力になっていきます。各馬場各行場で修業している何千何百の修業の人達を抱えていました。そこだけに留まる事なく、全国の霊山霊場を巡り歩きました。その土地で新しい力を得たり、問答合戦をやったりして自分を高めて行きました。誡告修業をして行きました。北は恐山から出羽三山。日光山。近くでは立山、秋葉山であったり。紀伊半島では吉野熊野。四国は石鎚。伯耆大山。九州では彦山ありという形で、実際に彦山の人達が白山で修業をしていた。彼らは日本中を旅して歩いた。天台の寺院か白山神社へ立ち寄ったと思われる。各所に支店を持ちながら、修行者でありますから、最も健脚であり、山林修業の人であり、勧進の旅というものを修業僧や山伏に認めていた。人知れず、気が付かれずにあちこちを移動する能力もあったし、表街道も所属する神社寺院のお墨付きで通れた。しかもあの時代で最も健脚の人である。各所に支店がある。修験者、修業僧という人達を中央にいる公家勢力などは地方の情報を山伏から手に入れる。地方の武士たちは同じように他の廻りの、遠く離れた情報、中央の出来事、情報を山伏を通じて堂々と、また人知れず知る事ができた。今日の電報電話であり、携帯電話の役目を負っていたのが山伏だと思われる。
そういう人達ですから、巨大な物は別として小さな物は運ぶ事ができた。今でいう宅急便です。公家も地方の武士達も山伏を大事にしたという事です。それが御利益という物ではなかったかと思います。彼らは修験者や山伏や修業僧を抱える宗教集団を大事にした。どうしたか。営善をやったり建物を立てるお金を出したり、仏像を寄進したり。一番多かったのは荘園です。この辺りは長瀧の荘園でした。守護して欲しいという神頼みですが、いざという時には自分たちの味方について欲しいというそういう思いがありましたから、寄進をしてて宛しました。他の勢力に突かれても困りますから、そうやって宗教的な組織を大事にしていきました。受領地というのがそういう意味で沢山あった。
やがて、そういうものを自分達の力で守るようになります。そこにお上や公家や武士からもらった既得権を守るために武力や能力を身につけて行った。
鴨川の流れ、サイ法師、サイの目 これは意のままにならないと清盛で言っていましたが、強大な寺院がどんどん生まれて行った。武力を身に付けて行ったという訳です。あまり知られていませんが、山鉾の祇園などもそうですが、八坂神社の犬地にと言われた総会屋やヤクザ組織と言われた物だったでしょう。神の末端の部分でそういう者を抱えていたようです。
お坊さんや神主、全く今の方が宗教的に見ているのではないかと。先祖供養や神頼み。実は昔は、仏教勢力はただ単に宗教的な先祖とかそういうものを司るだけではなくあらゆる物を司っていた。医療や天文学、芸術、美術工芸、建築、鉱山資源の発見、精錬、加工品。そういう能力を持っている人達がお坊さんだった。経典を読むだけではなく、舞を舞うのもお坊さんだった。いかに舞を通じて庶民に見せるか?お経を上げる事と一緒だった。今言った武力もそうだった。長瀧のお坊さんが自分の弟子や子供に譲る譲り状がありますが、自分が受けた時より、大きくしました、こういう経典があります。備品が増えましたそういう物を残しています。槍とか刀とか、本数が書いてあります。それがお坊さんの持ち物なんです。お坊さんというのは自分達の既得権を守るために、武力を持っていた。一向宗だけではないんです。そういう事をやったという事を頭に入れておいて欲しい。そういう土壌を考えながら、中野照蓮寺はどうであったかとか。田口さんもおっしゃいましたが、蓮如が阿弥陀如来の事を根付かせながら、説いて行った。阿弥陀の為には命も惜しまないという気運が生まれる中で一向宗の布施をする気持ち。労を厭わない気持ち。命を厭わない気持ち。女子供も一緒。極端な例は別にしても、宗教勢力は後ろ側にそういうものを持っていた。日本という国は八百万の神と融合しながら宗教的にケンカする事もなく、原理主義的なキリスト教、イスラム教の考え方を批判する人もありますが、そういう事も取り入れた。武力で指す場合もあるが、片方では本来宗教が持つべき部分の反対側のネガな部分も持っていた。そういう事を含めて、ある宗教勢力とその地を治める武士達の考えを一緒に考えないと、その地域の歴史は見えてきません。
それを最初に思ったのは藤原秀衡です。

 
何故そこまで大事にされてきたのか。秀衡は白山信仰を大切にしてきたという現われ、白山の美濃馬場の長瀧、越前馬場の合流点の石徹白。それから越前馬場の平泉寺。加賀馬場の白山比女神社。白山山中。大変な数の仏像や狛犬。梵鐘。数多く寄進をしています。それはさっき言った。建物の修復をするだけの関係ではなく、ご仏像を奉納したら、建物も建てる。ほかりっ放しという訳にいきませんから、立ち上がるまで、家来がその場所にいます。立て上がると奉仕者を残します。美濃にも加賀にも越前にも石徹白にも宗教的な名を借りた者の中に自分の家来を置きました。長瀧には上村なるものを置きました。石徹白にも12人衆の上村を置きました。そういった人を通じて色んな情報を通じて自分の部下を配置した。たぶん、想像ですが三馬場には重要な人員を常に派遣していたんではと思われます。そういう事によって、中央にあって出入り口が三つ。日本中に出ていく事ができる。日本の中心的な集中的な場所。浄法という事を考えると、アメリカの中央情報局CIAみたいな能力を持っていたのではないかと。そして自分の家来も派遣した。彼らの勢力を派遣しながら、うまく天台宗に転派した。延暦寺と強いつながりを持った。そこからいろんな所から伝えて行くようになった。
秀衡はそういう事で白山麓を特に大慈にした。そういう事情ではなかったか。それが今日まで大事にされてきた理由。ご利益を大事にして、時代時代で政治的な事を、東アジアに於ける白頭山に於ける白山信仰があって、高句麗が唐に滅ぼされて、高句麗の人が日本に渡ってきて、鉄を吹く技術等を伝えたと言われています。東北の文化を支えたのもそういう人達だったという俗説もありますが、1時間や二時間で済まない位の物を持っています。鉱山の技術、海で生活する人達の話しですとか、いろんな関わり。芸道民達。白山信仰は内在していますので、一口では言えません。
その中の一つ、御利益として情報能力、物流能力。そういうものを大事にした。そしてそれが将来発揮されます。自分の手元で育てた義経という人物が、兄に追われて逃亡を繰り返し、そして東北にたどり着くという。幕府の記録の『吾妻鏡』には、鎌倉幕府に追い立てられて、海を渡って西へ逃げて、海を渡れずに京都。そのあと吉野熊野の後どこへ行ったかわからない。「伊勢美濃を経て、やがて平泉に現われた」とある。
実は勧進帳や安宅の関。歌舞伎や能の中のは作り話で、白山山伏の力を借りて、伊勢美濃から登って来れば白山がありますから、そこには自分の派遣した僧侶がいて、護られながら白山越えをして平泉まで逃げたのでは。山伏姿に変装して落ち延びたと。それは秀衡の計らいであったと鎌倉幕府は記録している。白山山伏が働き掛けたのだろうというのが定説になっている。
6月16日にもっと詳しい話を白石博雄さんにしていただきますので、興味のある方には来ていただきたい。帰り雲の研究者の方から何人か来ると伝えます。
まさに、山伏、修行僧は裏社会にあったり、表社会にあったりしながら、いろんな関わりを持ち、繋がりを持ってきた。公家の歴史や武士の歴史であったり、近年になって、庶民の側から見る様にもなった。もう一極に宗教の歴史があるのではないか。内ヶ島を探る部分でもこの地で言うならば中野照蓮寺であり、天台仏教であり、大元の白山信仰。各所にあるお堂とか祠とか宗教的な遺跡とか、その手法だとか、田口さんのおっしゃった位置関係ですとか、そういう事を研究する事をする皆さんが頭に置いておいていただければと思います。
最初の原点になった、中尊寺、藤原秀衡という事から関わったという事を話させていただきました。
お坊さんはそういう存在です。戦国時代には武士勢力、宗教勢力いろんな側からいろんな事があった。内ヶ島、東飛騨の東部一帯には姉小路があり、京極があり、江馬があり、幹があり。そこに金森が入ってきた、。武士の動きからだけ捕えるとちがうとおもう。大いにそこには宗教勢力が関わっていたと思いますので、そういうアンテナを持っていて欲しい。武士は単に宗教勢力を自分の味方につけるためだけに大事にするのではなく、隠れ蓑に使う場合もある。そういう表現はいい表現とは言えないが、15代足利将軍はお坊さんです。兄が死んでしまうので、この人を連れてこないと、足利家が続かないという事で、司馬章太郎さんは、明智光秀などに連れて来るようにしたと書かれている。
田楽をしている最中に今川家も滅びます。元は坊さんです。結果的に桶狭間で滅ぼされます。もっと高名なのは上杉謙信でしょう、長尾家の為に武将に変わります。そういう坊さんがいっぱいいました。
各お寺に武器武具がいっぱいあると言いましたが、そういう坊さんがいっぱいいた。下剋上もいっぱいあった。各武士は自分達を護らないといけないので嫁を取ったり、三男四男。いっぱいそういう人を連れてきた。三木も江馬もそうです。郡上で言うと遠藤がそうです。鷲見一族もそうです。市村などもそうです。8人9人10人といった人の子弟が長瀧にはお寺にいました。

東家が遠藤家に討ち滅ぼされ下剋上がありますが、その時には坊さんがみんな逃げて行きました。やっていけなくて逃げて行ったと考えていましたが、そうではなくて、殺されるから逃げて行った。お家の再興もあるかもしれない。敵対する勢力の子供達だった。長瀧の坊さんをやれずに逃げて行った。それ位武士と宗教勢力とが深い関係にあった。それを無視しては地元文化を紐解けない。
先ほどの砦の話しや、照蓮寺の明心は、本願寺で育った。中野に再興して内ヶ島から嫁さんをもらい安定した勢力になった。そういう風に考えても、武力を持つという事や比内勢力を持つという事も宗教が絡んでいます。
どこかで宗教的な関わりがあると、中野道場を再興させた。内ヶ島にやられてしまうから、一度逃げて三島将監に殺されて兄も弟も殺され、生まれたての子供を連れて石山本願寺に逃げ、教如の口利きで、戻って来て中野に道場を造ったという風になっていますよね。

雅氏からの手紙があります。内ヶ島家から経聞坊というお寺ができ、長瀧寺の中心的なお寺として大変な勢力を持っていますが、長瀧を大事にしてくれている。白山の別山のお堂だったか忘れましたが修復して資金が無い。長瀧に。その時に雅氏に経聞坊の叔父さんに当る方おうえんという人でしたか、寄附をして欲しいと頼む。内ヶ島は中野照蓮寺に聞いて相談をして地元の宗教勢力を大事にしていたから、聞いたらダメだと言われたという事であった。関係を結んだら中野が強大な勢力になっていた。長瀧も相当の勢力を持っていたはずなのに、中野照蓮寺のほうが内ヶ島にとって大事だった。今まで以上に仏教勢力を紐解きの材料にしていかなければと思う話しです。

郡上における飛騨における武士たちの話しをしないといけないと思いましたが、もう一度宗教勢力との関わりを持ちながら紐解きの気づきにしていただきたい。
ここ5年間お付き合いをしながら、原点の話しをさせていただきました。

後ほど、ご質問があればお付き合いをさせていただきたいと思います。」


(徳積善太記)




  
Posted by rekisy at 23:56Comments(0)TrackBack(0)中世の飛騨

2012年05月19日

5月18日放送分_木曽義仲ゆかりの地について

(5月18日放送分 第245回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

最長9連休と云うGWも終わってしばらくたちますね。私は、GWの間は仕事でしたが、一日だけ
休みを取って田舎のお祭を拝見しに行っておりました。
今年は飛騨の獅子舞研究家のはげ下さんと一緒に、飛騨の獅子舞の分布と、いつどうやって
伝わったかについて調査しておりました。
その折に、朝日町の立岩地区と云う場所に、立派な神楽台が残っているというので、行ってまいり
ました。

飛騨にはあちこちのお祭で、大々神楽や獅子舞が伝わっていますが、神事のスタイルが現在の
ようになったのは、江戸時代の終わりころではないかと思っております。
それが、高山には屋台と云う立派なものがありましたから、田舎の方では、行列で氏子の区域を
回るのに、氏子の区域が広い所は太鼓を大八車のような物に乗せて曳いて回ったようです。
そのため、古くから神楽台とよばれる太鼓屋台が発達し、地方にも屋台が有る所が多いようです。

全国的に「神楽台」と呼ぶところは、この飛騨地区だけのようですが、あったところも含めると23カ所、
今日現在19台の神楽台を確認しております。
立岩の神楽台は、小さいながらも立派な屋台でした。
これについては、またの機会にまとめてお知らせしたいと思います。

ところで、田舎の祭をいくつか拝見しまして大変驚きました。
神様が氏子の区域をお神輿に乗って回られますが、財力のあった場所はそのお神輿が大変立派
なこと。こんな田舎にと思っていても、お神輿に大変細かい彫刻が施されていたり、金の金具をふん
だんに使ったものが存在したり。
また、どんな場所でも、獅子舞、舞姫、カンカコカン、大々神楽、そして人数の居る場所では雅楽の
社中が存在し、地元の人によって維持されています。
 また、行列の時には四神旗や錦の御旗が飾られ、行列の大小こそありますが、高山祭の行列に
引けを取らない立派な行列をしてお見えになっているということです。

私も自分の氏子のお祭しか知りませんでしたが、屋台というものを除けば、飛騨のお祭はどこもやって
おられる神事はそう大差ないんだということを改めて知りました。

最近は、少子高齢化が進んで、旗を立てたり行列したり、獅子舞をやったり…ということができなく
なっているお祭も大分出てきています。
神岡の奥地や旧朝日村が一番著しいという印象を受けました。
各地の伝統はやはり確実に次の世代に受け継いでいかないと、そのうち無くなってしまうなあと云う
危機感も持ちました。どうぞ、地元の伝統の火を大切に守って頂きたいと心より思います。

さて、前置きが長くなりましたが本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お伝えしましたように「木曽義仲の由緒の場所について」のお話をしたいと思います。

まず、木曽義仲についてですが、木曽義仲は、今から800年前の平安時代末期の信濃源氏の武将です。
源義賢の次男で、源頼朝・義経とは従兄弟にあたります。
木曽を拠点として居たので「木曾 義仲(きそ よしなか)」の名でも知られている武将です。木曽義仲が
戦った戦いとしては、寿永2(1183)年5月11日に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で
平維盛(これもり)率いる平家軍との間で戦われた倶利伽羅峠の合戦が有名ですね。

これは、義仲がすこし前の治承4(1180)年に、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵し、
翌治承5(1181)年に平家方の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げ
ました。
そのため平家は寿永2(1183)年4月に平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた
というものです。

この時、平家軍は、能登国志雄山に3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に7万余騎の二手に
分かれて陣を敷きました。5月11日義仲は兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かい
ました。
義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄・樋口兼光の一隊を
ひそかに平家軍の背後に回りこませました。
平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら総攻撃を仕掛けました。
浮き足立った平家軍は退却しようとしましたが、退路は樋口兼光に押さえられていたため、大混乱に
陥り、平家軍は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとしました。

ところがそこは倶利伽羅峠の断崖絶壁でした。

平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った
というものです。

それでは、後半で飛騨に残る木曽義仲ゆかりの地についてお話します。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「      」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、「飛騨に残る木曽義仲ゆかりの地」についてお話しています。

先週の放送で、お話ししましたが、日枝神社と三仏寺城を造ったと言われている平時輔朝臣の曾孫
平景家と云う人が飛騨を知行していた頃、治承五年(1181)に木曽義仲が兵を起し、飛騨を攻めました。
その時、景家と4人の子供たちは、皆京都におり留守でした。
その留守中に、石光山の砦にあった日吉宮や三仏寺城を攻め滅ぼし、焼き打ちにしたというお話を
致しました。

この時に凱旋した時か、高根町には、木曽義仲が腰かけたという、「腰掛け石」と云うのが残っています。
実はこの話以外にも木曽義仲の伝承が残っている場所が、飛騨にあります。

以前、平成23年2月4日の放送で、国府の阿多由太神社のお話しをしました。
そのお社が大変古いので、今から200年ほど前に、京都の吉田神道の方が調査に見えて、ここが荒城
神社に違いないと言って荒城神社と命名したところ、この地区には、かねてから河伯宮が存在していて、
地元の人たちからは荒城神社と云われていたのに、大反発をされたので、阿多由太神社と云う名前に
した。
ところが、古川の杉崎地区にはかつてから阿多由太神社の跡地が存在していたので、古川の人たちは
阿多由太神社の石碑を造った。

それが現在、古川の杉崎の交差点の所にある阿多由太神社碑という石碑ですというお話しをさせていた
だきました。

この阿多由太神社、実は江戸時代の中期以前はこの名前ではなかったようです。
地元のちゃんとした伝承が残っていなかったので、この名前が付けられた時にだれも反論せず、ここが
阿多由太神社と云う名称になったようです。
といいますのは、この地域、国府の木曽垣内という名称になっておりますが、実は、木曽義仲に関係
する由来があります。『斐太後風土記』という本には、次の様なことが書かれています。 

「木曽義仲が亡くなった後、4人の子供があった。長男の義高は鎌倉に逃れ、入間川の戦いで戦死。
次男と三男、四男の三人については、その後どうなったか解らないが、そのうちの一人がこの村に
逃れてきて、村人が柵をめぐらし、住んだためにこの地を木曽垣内と呼んだのでは」と富田礼彦は
言っています。

また、「その後、建久四年に、源頼朝が多好方を荒城郷の地頭職に命じて、荒城の宮道村(現在の
荒城神社の奥の処)に住まわせたので、木曽氏は世をはばかり、家来の今井氏らと共に移り住んだ。
それが、丹生川村の小木曽と云う場所だったのではないか」ということです。

この阿多由太神社の裏山には、木曽義仲の子供が隠れたと言われる岩屋があり、またこの阿多由太
神社もかつては、「権現社」と呼ばれていたようです。
『飛州志』には「金毘羅権現」と書かれていますが、これがこの神社の元の名だったようです。

実際に、この山に登ってみますと、裏山の頂上に金毘羅権現の立派な石碑が現在も残されており、
そこを奥の院としていた時代があったようです。

木曽義仲は、代々御嶽権現を崇敬していたという事から、この神社を産土神として祀っていたという
事ですから、地元の人たちによって崇敬されていた神社を、文化年間に式内八社と間違って吉田家の
社人が「これは阿多由太神社に違いない」といって式内八社の一つであると断定してしまった。
そのため、荒城郷には、荒城神社と阿多由太神社の2つの式内八社が存在することになってしまい
ました。

ところが、かつて式内社と云うのは一郷に1社しか作られなかったわけですから、荒城郷に2つの式内社
が存在するというのは、矛盾しているという事になります。


さて、次に丹生川の小木曽ですが、丹生川の町方から現在の丹生川ゴルフ場方面に向かうと小八賀川に
かかった橋があります。丁度丹生川の禅寺正宗寺の手前の消防社の車庫があるあたりですが、その橋の
手前の処を小木曽といいます。

こちらには「昔幼君を守護して来りし人、この村に寓居して若者なればとて、小木曽殿と言った」という伝承
があります。
そのあと、小坂郷の大洞村に逃れ、その子孫は宮田村と四美村の幸左衛門の先祖とに分かれて今井姓を
名乗ったとも言われています。
現在も、どちらにも今井家が現存しており、木曽義仲の家来であったとの伝承があります。

なお、現在、富山県では、倶利伽羅峠の戦いのときに義仲の妻 巴御前が戦死し、墓が南砺市にあるという
ことで、北陸新幹線が全通した時にNHKの大河ドラマにとりあげてもらおうと、数々のイベントが平成20年
より行われています。
富山県や長野県も参加して漫画を造ったり、ゆかりの地を知ってもらう活動をされています。

高山市や飛騨にも、これだけのゆかりの地がありますから、とりあげていただき、是非とも広域で連携される
といいなと思っています。

さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、古川の祭屋台。来週は弐之町の屋台「三光台」についてお話したいと思います。
どうぞお楽しみになさってください。

それでは本日はこの曲でお別れしましょう。
曲の方は「原由子で そんなヒロシにだまされて」をお届けします。それではまた来週、お会いしましょう。

(徳積善太)  

2012年05月18日

安望山登山レポート3_眺望

安望山に登ると、古川が一望できます。

ところが、今回のメンバーが上がると、お城の話になります。

左方向から「廣瀬城~高堂城」一帯のエリア。


その次に国府町打江~海具江にいたる砦のエリア。


次に、蛤城~高野~百足城一体の馬蹄形のエリア。



そして、平岩城~向小島城一体のエリア。





こういったエリアが一望できます。
いろいろと話していると、目的が果たせなくなるので、止めましたが、上から城を眺めて
いますと、いろんな話になりました。

かつて、姉小路氏がこの地を知行していたときにどんなことがあったのか。歴史ロマンですが
いろんな想像できることが、3人の間で話し合われました。


(つづく)

徳積善太

  
Posted by rekisy at 20:00Comments(0)TrackBack(0)中世の飛騨

2012年05月18日

安望山登山レポート2_25菩薩

8合目を過ぎたあたりに、25菩薩というのがあります。


8合目の標柱。


その上のところに、二十五菩薩という祠があります。
これは、古川の林昌寺の管理下にある菩薩様ですが、かつて、ここでは赤ちゃんが亡くなった
時に、ここまでもってきて埋めたという伝承があるそうです。







現在は、榊会という気多若宮神社の関係者によって供養が行われています。

標柱は、昭和59年に設立されたもので、かなり下の方が朽ちてしまっています。


(つづく)


徳積善太

  
Posted by rekisy at 12:20Comments(0)TrackBack(0)中世の飛騨

2012年05月17日

安望山登山レポート1

先日、古川の安望山に登ってきました。

ここには、今から600年前の応永飛騨の乱の際に、国府町鶴巣にある清峰寺(この当時は
どこにあったか不明。おそらく、桐山と山本の間にあったと思われる)小島城に向けて、兵糧
が運び込まれたという伝承があります。

今から2年前の「姉小路・廣瀬特別事業実行委員会」の時に、この山自体を縦走してみては
殿話があり、昨年は本の制作に忙しく、またブッシュも出てきていたということで、2年越しの
実施となりました。

当日は、元国府町史編纂室長の酒井先生と城郭研究家の佐伯先生と一緒に山にあがりました。

目的は
1)清峰寺跡地から小島城までを縦走する事。
2)清峰寺跡地を確認する事。
3)安望山の登山道の途中に、石垣の以降と思われる場所があるので、それを調査する事。
の3つでした。

まず、安望山の登山道から上がりました。

登り口の看板で、行き先を確認。


途中は、結構急ですが、足元が落ち葉があって歩きやすい道でした。

ときどき吹く風が心地よく、素晴らしい登山道です。

佐伯先生のお話では、「飛騨の道は、雑草がほとんど茂っていなくて、歩きやすい。
雪のために草の種が死んでしまうからか、こんなに歩きやすい道はありません。
能登の方などは、雑草が生い茂って道もわからなくなることもありますから、大変
なんですよ。」ということでした。


8合目のところで登山道を左に入った所に、石垣があります。
上の方が崩されているようですが、かつてはかなり立派なものだったでしょう。
おそらく、神社か祠がここにあったものと思われます。

登山道からは離れているので、一般の方の目に留まることはありません。


石垣の下に立って見ると、ここは、3mほどの石垣。
自然の石を積んだ形ですが、この辺に出土する石が、泥岩で、簡単に割ることができるため
自然の石とは言っても、まっすぐの側面を持った石で、加工がしやすいのが特徴です。


登山道のところにも、少し石が見られます。
おそらく、これは門の跡地だったのではということでした。
ある程度の石を積んで、そこに木の門を構えてあった遺構のようでした。


(つづく)


徳積善太


  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)中世の飛騨

2012年05月16日

安望山に登りました。

今日は城郭研究者の佐伯先生と国府町史編纂室元室長の酒井先生と安望山に登りました。

途中、地図にはない石垣の遺構と清峯寺の一番最初に作られた旧跡地に行き、実地調査をしました。

帰りは、安望山から、かつて応永飛騨の乱の時に、僧兵が兵糧を運んだとされるルートを歩きましたが、縦走するには自動車道が尾根を寸断しており、結果的には自動車道を歩いて、太江まで降りてきました。
総キロ数は16km。さすがに足にきました。

  
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2012年05月16日

安望山に登りました。

今日は城郭研究者の佐伯先生と国府町史編纂室元室長の酒井先生と安望山に登りました。

途中、地図にはない石垣の遺構と清峯寺の一番最初に作られた旧跡地に行き、実地調査をしました。
帰りは、安望山から、かつて応永飛騨の乱の時に、僧兵が兵糧を運んだとされるルートを縦走しました。
のべ16km、六時間のコースはさすがに足にきました。

縦走は、自動車道が尾根を寸断しており、結果的には自動車道を歩きましたが、かなり疲れました。

  
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2012年05月13日

日枝神社の天満神社

今日は日枝神社の末社天満神社の例祭が日枝神社でありました。
そのあと、神社の議会と先の例祭の反省会があり、直会が行われました。
日枝神社にも菅原道真をお祭りした天満神社があるんですよ。
  
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2012年05月12日

5月11日放送分_日枝神社と三佛寺城

(5月9日放送分 第244回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

最長9連休と云うGWも終わってしまいましたね。今年のGWは、曜日の配列が丁度良くて、
1日と2日を休みをとれば、長い人で9日間も休むことができるというサラリーマンにとっては
大変ありがたい曜日の配列でした。
ところが、観光客の皆さんは、4日まではどこか遠くで過ごして、5日と6日はゆっくり家で疲れた
体を休めて過ごすという方が多かったようです。

旅館やホテルの方も、3日と4日は早くから予約がいっぱいで埋まっておりましたが、5日は若干の
空きがあり、6日は結構たくさんの旅館が空いているといった状態でした。
また、休みが長いと分散傾向にもなりますから、前半に休みを取る人と、後半に休みを取る人と
分かれていたようです。

しかし、昨年、東日本大震災が影響したことを考えますと、観光客が激減した4月やその後減少が
尾を引いたシーズンからすると、今年は昨年より潤った観光業者が多かったようです。
景気も回復傾向にあると60%以上の企業が感じているということですから、景気の上向きが期待
されますね。

さて、以前この番組でお知らせしました、「鶏ちゃん」ですが、この程「鶏ちゃん合衆国」というのが
建国されることになりました。
7月20日に岐阜駅の周辺で、合衆国建国記念式典と鶏ちゃんEXPOが開催されるようです。
これは、昨年は「鶏ちゃんで笑えフェスティバル」という形で行われていましたが、今年は岐阜県が
絡んだイベントに発展しまして今後、鶏ちゃんを話題にしたイベントやマップの作成などを行って、
鶏ちゃんで岐阜県の中央地域を盛り上げて行こうという企画です。

7月に建国された後には、9/16(日)、17(祝)/JR岐阜駅前での「ぎふ清流国体&大会応援イベント」。
10/27(土)、28(日)/岐阜県庁前グランドでの「岐阜県農業フェスティバル」への出店など、すでに
数々のイベントが計画されています。
また、今後は、鶏ちゃんの検定なども行われるそうです。

お店で鶏ちゃんを扱っておられる人たちは合衆国の州。鶏ちゃんイベントをサポートしていただく方は
国民として、現在募集を行っておられます。
岐阜県飛騨地方や郡上地方が中心となりますが、お店をやって見えてこの話をぜひ聞いてみたいと
いう方は、ヒッツFMまでご連絡ください。
大統領の長尾さんの連絡先等をお知らせいたしますので、ぜひとも皆さんのご協力をお願いいたします。

さて、前置きが長くなりましたが本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お伝えしましたように「日枝神社と三仏寺城」のお話をしたいと思います。

春の高山祭の鎮守の神様として知られる日枝神社のことは、皆さんご存じだと思いますが、三仏寺城
というのはどこにあるか御存じない方が多いでしょう。
このお城は、現在の高山市三福寺町に歓喜寺というお寺がありますが、その裏山にあったお城です。

どうして、この日枝神社と三仏寺城が関係あるかと云うと、どちらも同じ人によって設営されたからです。
その設営した人と云われているのは、平時輔朝臣と云う人です。
現在、大河ドラマで平清盛のことをやっておりますが、清盛が活躍した時代から4代ほど前=100年ほど
前のお話しですから、だいたい西暦1000年位から1100年位までの頃のお話しです。

平清輔朝臣と云う人は、飛騨の国司として任命され、飛騨守となりました。この頃、飛騨には、中央から
国造(くにのみやっこ)・飛騨守・国司が派遣されて飛騨を知行していたようです。『斐太後風土記』には、
大化二(646)年以降の応永年間に姉小路氏が国司として補任されるまでの800年間に、飛騨国司、
国造、飛騨守だったと思われる方の28名の人の名前が記されています。800年間で28名とはちょっと
少ないと思われますので、実際にはもっとたくさんの人が補任されていたものと思われますが、調査
されていません。

その中で、『大中臣氏系図』という書物の中に、「崇徳天皇御代、保延・永治の頃 平時輔」という人の
名前が見られ、また『木曽軍記』という書物の中に、「近衛天皇御代、久安年中 平時景」「後白河天皇
御代、保元の頃 平景則」と云う人が飛騨守として補任されていることがわかります。

平時輔朝臣という人がどのような方なのか、次に出てくるのは、三仏寺城の項と日枝神社の項に出て
きますので、後半ではその人についてお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「Zoneで Glory Colors風のトビラ」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、日枝神社と三仏寺城についてお話しています。

 さて、平時輔朝臣が日枝神社を勧請したことについては『斐太後風土記』に次のように書かれています。
「三仏寺城の城主として飛騨守時輔朝臣がいた頃、ある日狩に出て山野を駆けめぐり、片野山中に
入ったところ、奇瑞の事(神仏のご加護により特別こと)があったため、思い立って永治元年(1141)に
日吉山王を勧請して、本社弊殿を建立して年々代々祟敬された。
その時に、三仏寺城の下にもその日吉神社を祀り、城の鎮守として白山社を祭り、城の後ろには八幡宮
を祀られたということが『木曽討入軍記』にみえる。」などとなっています。

さて、三仏寺城についてはその後、時輔の曾孫・景家と云う人までこの三仏寺城に居城していました。
最近NHKの大河ドラマで平清盛の番組をやっておりますが、ちょうどその頃の話しです。
治承五年(1181)になると、木曽義仲が信濃で兵を起しました。丁度その時、飛騨守景家と4人の子供
たちは、皆京都にいて留守でした。景家の妻阿紀伊の方と景綱の息女鶴之前は、主人たちがおらず
大変心配しましたが、留守を守る人達を集めて、評議などしました。

結局は国人たちを集めて、片野村にある石光山や宮と久々野の境に兵を送り、渚の橋板を取り除いて
人が入ってこないように防禦していました。
ところが、すでに義中軍は竹原に攻入って、そこに益田の人たちも加わって、渚に板橋をかけ、その
川上にて川を乗り渡し、舟渡という場所にて合戦に及びました。夜に入り、石光山の光に驚き、いったん
萩原まで引き返しましたが、軍勢を立て直して再び責めました。
途中、久津八幡宮に戦勝祈願したところ、白い鳩が北方へ飛び立つのを見て、
「これは吉兆のあらわれだ」
と喜び勇んで、位山峠を越えて再び攻入りました。
夜になって、宮と久々野の砦を一日にして攻め落としました。

その翌日には、石浦と千島に出て、宮川を渡り、片野山の山上にある石光山を攻め落としました。
兵の勢いは留まるところを知らず、一気に三仏寺城も攻め落とし、焼き打ちにしたということです。
時に、治承5年(1181)のことです。
 そのとき、源義仲勢に攻められ社殿を兵火で焼失した日吉神社は、辛うじて御霊代を片野ケ丘に奉還し、
片野村の産土神としました。

木曽義仲は、その後御存じのように信州へ凱旋し、越後を経て北陸廻りで京都を目指しました。
寿永2年5月11日(1183年)の有名な倶利伽羅峠の戦いでは、多数の平家の人たちが亡くなり、敗走
したと伝えられています。
この時に、飛騨守景家は行方知れずとなり、息子の太郎判官景高は討ち死に。
それまで平家一門が押さえていた飛騨でしたが、都に居た平家一門が敗れて西国へ敗走してからは、
どんどん衰退していきました。

一方、京の都に入った木曽義仲勢は、同じ源氏の源義経に滅ぼされ、近江の粟津にて、一族郎党と
共に討ち死にしました。
そのあと、一の谷の合戦や屋島の戦いなど、有名な源平合戦に場を移しますが、この屋島の合戦で、
飛騨守景家の息子であった二郎左衛門尉景綱、四郎兵衛景俊が討ち死に。
その後の壇ノ浦の戦いに於いて飛騨三郎左衛門尉景経も討ち死にして、飛騨守の一族はことごとく
滅びてしまいました。

したがって、三仏寺城は、そのまま焼け跡となって幾星霜を過ごしたということです。
その後、鎌倉時代になって、左衛門尉藤原朝高と云う人や、新田義貞の家臣で数々の軍功をあげた
畑六郎左衛門時能(ときよし)と云う人の子孫で六郎左衛門安高と云う人がこの三仏寺城を改築して
ここに移り住んだと言われています。

その後、永正年中になって、萩原に居た三木直頼と云う人が、益田・阿多野郷の人を従えて、永正
17年(1520)に攻入り、この三仏寺城を押領しました。
しばらくここに居城していましたが、永禄7年(1564)七月に武田信玄の将 飯富正景が飛騨に攻め
入った時に、自らこの城に火を掛けて、萩原にひきこもったと伝えられています。

その後、三仏寺城は再建されることはありませんでしたが、残った三木氏の家来 平野右衛門尉の子
豊後守安室は再びこの界隈を横領して知行し、鍋山城を造って居住しました。
こちらの城は後に天正13年(1585)に、金森長近が飛騨を平定して入国するや、高山城を天神山に
築城するまで居城していました。
一方の日枝神社も、片野村の産土神を現在の地に奉還して高山城の鎮護神としたということです。

さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、本日の放送で「木曽義仲」についてお話ししましたが、「木曽義仲ゆかりの地名について」
お話しします。どうぞお楽しみになさってください

本日はこの曲でお別れしましょう。
曲は「チューリップで 魔法の黄色いくつ」をお届けします。それでは、また来週お会いしましょう!


徳積善太
  

2012年05月05日

与鹿の作?!東山白山神社の神楽台の獅子

今日の中日新聞にこんな記事が掲載されました。



平成24年5月5日 中日新聞

「与鹿一門作の獅子?
高山の白山神社所有屋台 きょう例祭で披露

 高山市の東山白山神社が所有する屋台に飾り付けられた獅子の彫刻六体が、江戸時代の彫刻
家谷口与鹿一門の作と示唆する記録が見つかった。
 与鹿は高山祭の屋台彫刻で知られるが、獅子の作者は分かっていなかった。屋台は、五日に市内
である同神社の例祭でお披露目される。
 獅子は、神楽台の四隅に備え付けられた縦約十センチ、横約四十センチのケヤキ製。神楽台の創
建時(一八四七年)の記録台帳「白山宮神楽再建議事払帳」に、「金八両 谷口与鹿 龍壱ツ志々
六ツ細工代」と記してあるのを、神社の宝物殿総代の池之端甚衛さん(75)が三月上旬、資料の整
理中に見つけた。
 「志々六ツ」が六体の獅子を指すとみられる。屋台彫刻に詳しい市内の彫刻家によると、材質も
良く、与鹿かその弟子が作った可能性が高いという。 屋台は四日、例祭準備のため蔵から出され、氏
子たちが「あらためて見ると勇壮な獅子だ」と感心していた。屋台は五日午後一時すぎから、安川
通りなどで引き回される。(山下洋史)」


その獅子について、今まで何度か撮影しようと思っていたのですが、いつも動いている神楽台にしか
遭遇しないので、詳細の映像を撮ったことがありませんでした。今日、早速撮影してきました。
(組の方に掲載は了承いただきました)


右前の獅子


右中の獅子


右後ろの獅子


左前の獅子


左中の獅子


左後ろの獅子


これは、山王神楽台のおそらく群鳳作の獅子だと思いますが、これは右中の獅子と
上向きとした向きが違うだけでよく似ています。比較して見てください。




徳積善太  

2012年05月05日

5月4日放送分_法華寺の洗い仏様について

(5月4日放送分 第243回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

さて、GWも真っ只中ですが、いかがお過ごしですか?
今年のGWは曜日の配列がいいので最長9連休と云う方もおられますが、たくさんのお客様で
にぎわっております。丁度、古川祭の頃に咲き始めた桜も、GWまで持つかどうかと云うところ
でしたが、先日28日に行われた神岡祭では、気温が31度まで上昇し、まるで春を飛びこして
夏のような陽気でした。
これだけ暑いと、桜の方も散ってしまうのではと心配しておりましたが、案の定、桜が今日現在、
散りかけてしまいましたね。

ところが、飛騨の春は桜も梅も桃もそして、花壇の花たちも一斉に咲き乱れますから、そちらの
方は、大変見事な百花繚乱と云う状態になっています。

私は、今年の春は、地方のお祭の取材にあちこちで掛けています。
先日は、古川町中野の白山神社のお祭にお邪魔してまいりました。
こちらの獅子舞を拝見しに行ったのですが、地方のお祭も、高山祭と規模は違うものの、それ
ぞれの氏子の皆さんが、神社のお祭を維持しておられるという状況を拝見してまいりました。
ただし、少子高齢化の影響で、だんだんお祭ができなくなった地域や、それまで伝わっていた
獅子舞や神楽などの伝承芸能が維持できなくなってきているというお祭も有るようです。

取材した限りでは、神岡の山奥ですとか、朝日町より東の地域でそういったことが起きている
ようですので、非常に残念に思いました。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週お伝えしましたように「法華寺の洗い仏様」のお話をしたいと思います。


法華寺がどこにあるのか、ご存じの方ばかりだとは思いますが、ちょっとご説明したいと思います。
高山の三町地区からえび坂を上がり、両側が石垣の坂を登っていくと、正面に見えてくるもう一つの
坂があります。江名子川を渡って、その坂を上ったところにあるのが、法華寺です。
飛騨地方で唯一の日蓮宗(法華宗)の寺院です。

そもそも、高山に法華宗が入ってきたのは、永禄時代の頃と言われています。
当初は、高山の西にある西之一色村、現在の東照宮のあたりに本行院と言う寺院があり、その
寺院が法華寺の前身で、後にその寺院が荒廃していたのを、現在の法華寺の場所に移して再興
したものが現在の法華寺(法花寺とも書く)であったとも言われています。

この法華寺は、江戸時代には加藤清正の孫の光正と云う人が流されてきて高山城主三代の金森
重頼が預った事で知られている寺院です。このお寺の境内にはたくさんの文化財がありますが、
今日はそこにある、洗い仏様のお話しをしたいと思います。

では、洗い仏様の場所ですが、この法華寺の参道を上がっていきますと、まず見えてくるのが山門です。
この門は薬医門とも呼ばれています。

薬医門と云うのは一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたという説や、かつて
医者の門として使われたことからきた説があります。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたことから、
そう呼ばれたようです。

その門をくぐるとまず最初に見えてくるのが、本堂です。

この本堂は、加藤光正が流罪となった時に法華宗の寺院の建立を金森重頼に頼まれ、金森重頼が
その意向を汲んで、高山城の城内にあった建物を移築されたものと云われています。
金森重頼は、熊本73万石の嫡子が改易となってこんな山奥に流罪となってきたことを哀れんで。
また、加藤光正は、徳川家康の孫を娶っておりましたから、徳川家にも気を使って自分の城中に
あった建物を移築したものと思われます。
しかし結果的には、高山城は元禄8年に打ち壊されてしまいますから、私たち高山市民にとっては、
現在観ることができる高山城の遺構として残して戴いたと言っても過言ではありません。

その建物を、左手に見ながら奥の方に行くと鐘楼があります。

その鐘楼の東側のところにあるのが、洗い仏様です。私の子供の頃は、よく近所のおばあさんたちが、
入れ替わり立ち替わり、この洗い仏様にお参りをされ、洗い仏様が乾いていることはありませんでした。

ところが、この頃この仏様にお参りしますと、乾いていることが多い。
これでは、仏様が浮かばれないなあと思っておりました。
後半では、この洗い仏様の後ろ側に、先代のご住職が書かれた由緒書きがありますので、それについて
お話ししたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「アグネスチャン ひなげしの花」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、法華寺の洗い仏様についてお話しています。

この洗い仏様の後ろの所に、こんな由緒書きが書かれています。

「浄行(洗い仏様)様の由来
飛騨郡亟 内藤好行という人は御母堂を伴って、高山陣屋へ赴任されたのは天保年間も末のようである。
内藤氏はまだ江戸に在住の頃、御母堂は永年の病床にあった。生と死の境を彷徨うが如く、悶々の日々
を送っていたのである。

そのようなある冬の黄昏どき、内藤家の門前に一人の旅僧が立って家人に告げるのであった。
「御当家には長のご病人があるようだが、江戸下谷に浄行様のお寺がある。毎日清水を持参して、祈願を
なさるとよい。きっと快方するであろう」と言い残して門前を去ったのである。家人はせめて御礼を言いたいと
思い、旅僧の後を追ったが、すでにその姿は夕闇に消えて見えなかった。

藁をも掴む思いの内藤家では早速下谷へ行き、浄行様を探し得て、その日より雨風の日をいとわず熱心に、
日参の日が続けられていった。
満願の頃には、わずかながらも重い体を病床に起して、食事がとれるようになったのである。

家人はそれに力を得て、日参の日が長く続けられていった。さしもの重病もいつとはなく癒えて、ご本人
自身が足を運ぶまでになったのである。
内藤好行氏はその後、飛騨高山陣屋へ赴任となって、家族一同来飛されたのである。

老境になられた御母堂は、嘉永六癸丑年七月廿六日、八十六歳の天寿を全うされたのである。
臨終の床にあって
「私が今日まで長命を保つことの出来たのは、浄行様のおかげです。どうか石像を、江戸の職人に造って
頂き、私の骨を等分して、ひとつは内藤家の墓地に。今ひとつは浄行様の下に納めてもらいたい。病に
苦しみ祈願する人があれば、浄行様のお慈悲の力と、私の御恩がえしの願力とによって、いついつまでも
末長くお助け申上げたい」
と強い念力の言葉を残して永眠されたのである。

 内藤好行氏は遺言に従って、お堂を建立し浄行様を安置されたのである。
御母堂のご意志は今日なお続けられて、祈願の人々の絶ゆることがない。
石像の背面には次ぎのように刻銘されてある。
         善慶院妙餘日縁信女     嘉永六癸丑年七月二十六日」

この洗い仏様は、現在2代目となっていますが、初代の仏様が段々痛んで来たので、新しく石像を造られた
時にこの由緒が書かれたようです。この由緒書きの続きに、次の様なことが書かれています。

「付記
 往時の石像は破損がみえて来たので、末長く保存の為、同質の石材御影石にて、名工下坂明氏の手に
よって新しく造立されました。百日の開眼供養を発願し、寒中に入り寒修行の一端ともなりました。
石像の下には遺言どおり、御母堂のお骨が美しく純白となって壺に納められてありました。
それはそのまま新しい、浄行様の真下にもと通りに納めたのであります。
壺には左記のように書かれてあった。
表  火滅以後収集舎利  南無妙法蓮華経   善慶院妙餘日縁信女
裏 嘉永六癸丑年七月二十六日   行年八十六才   分骨 」などとなっています。」

自分の体の中でよくなってほしい所、悪い所を心をこめて洗うと、たちどころに快癒するというので、
昔からたくさんの信者の方に守られている石仏です。
私も子どもの頃に祖母に連れられて、頭がよくなるように頭を一生懸命洗った覚えがあります。

 冒頭にも申上げましたが、最近は少子高齢化が空町でも進み、以前は御近所の方がよくお参りに
いらしていました。最近は乾いてしまっていることも多いように見受けられます。
どうぞ、御病気の方がお身内におられる方がおられましたら、一度この洗い仏様をお参りになっては
いかがでしょうか。病は気からとも言いますので、信じることで御病気が快癒するかもしれません。

さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、「日枝神社と三仏寺城の歴史」についてお話します。どうぞお楽しみになさってください。
本日はこの曲でお別れしましょう。
曲は「竹内まりあ 戻っておいで私の時間」をお届けします。それでは、また来週お会いしましょう!

徳積善太  

2012年05月04日

朝日村の神楽台

朝日には、立岩のほかに、万石と甲地区にも神楽台があることがわかりました。


万石の神楽台

こちらは、もう20年ほど前からひかれていないらしく、倉庫に入ったままです。
この屋台、「江名子からもらってきた」という伝承がありました。

かつて、江名子の古い書物に「明治37年に朝日村に神楽台を譲った」という記録があり、
この屋台であることがわかりました。

現在は、鉄工所の方がかなり修復をして、頑丈な屋台の上に旧屋台が乗るように作り
かえられています。

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もう一つ、甲地区にも神楽台がありました。


こちらの屋台は、かなり立派なものです。

こちらも、20年くらい前から曳かれなくなってしまったとのこと。

小さいながらも立派な屋台です。


朝日へ訪問して、3台の屋台を発見できたことはたいへんよかったです。


徳積善太  

2012年05月03日

立岩神社の例祭

5月3日は朝日町の立岩神社の例大祭でした。
昨日に続いて、お邪魔してまいりました。





小さい神社ながらも、神代踊、闘鶏楽、雅楽、大々神楽、剣の舞、弥栄(いやさか)の舞が
奉納されました。

この神社では、人数が少ないので、一人の人間が何でもできるようにすべての神振行事を
マスターしているとのこと。

獅子舞もかつてありましたが、人数が減ってしまって、もう年寄りの人しかまえないとのことでした。


この日は朝から雨模様だったので、近くの公民館で直会が行われました。
私も、参加させていただきました。

飲むほどに、だんだん高揚してきて、神代踊で普段やっていない舞を披露してくださいました。
神代踊は、6つ伝わっているそうですが、その中でも「白菅の舞」という舞を見せていただきました。

あと、「あや踊り」と言うのがあるらしいのですが、この文句が
「やんだせ やんだせ・・・」といいながら、棒に紙を巻いて先が細く、いくつもとぐろを巻いているような
棒を使って舞う、舞があるそうです。
これは、ちょっと卑猥なので、あまりやっていないということでした。

これは、棒とその歌詞からして、子孫繁栄を祈った舞なんでしょうね。




そのあと、今度はお年寄りの人たちが、獅子舞をやろうということになり、獅子舞を披露されました。
最初は、「まむしとり」
とてもご老人とは思えないフットワークにみんなが喜んでおられました。

そのあと、「高い山」を披露されましたが、笛を吹ける人がいないということで、高山の神楽台の曲ですが
私も参加させていただきました。
「どこの人か知らんけど、笛のうまい人がいる」といわれて、このあと、御老人に囲まれました。
芸は身をたすくですね。

徳積善太
  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)飛騨のまつり

2012年05月02日

立岩神社の神楽台

飛騨には高山祭以外にも神楽台が存在します。

先日、朝日の立岩神社に神楽台があるということをお聞きし、見せてもらいに行きました。




もう20年ほど引き出されていないらしく、ホコリをかぶっていました。

かつて、この屋台は引き回し中に倒れたことがあって、当時は道もアスファルトではありません
でしたから、引き出されなくなったとのこと。

これを処分するのはもったいないと、朝日道の駅に展示する話もあったそうですが、なかなか
維持費がかかるということで、取りやめになったそうです。

小さいながらも、4輪で、ちゃんと戻し車がついています。


徳積善太  

2012年05月02日

やっと『飛州志』を入手しました。

いまさらですが、『飛州志』を持っていませんでした。

やはり、研究するには、この本が欠かせません。

古本屋さんで探し、ないのでネットで予約していたのですが、全然連絡が入らず。
3年の日が流れていました。

昨日、久しぶりにアクセスしたら、ようやく1冊見つけて、高かったんですが、注文しました。
8000円もしました。どひゃー!


やっとゲットしましたが、これで手元にやっと本がそろいました。

あと、ないのは『斐山語草』だけです。


徳積善太  

2012年05月01日

またもや銭湯が廃業

高山市の神田湯が廃業されることになったそうです。

http://takayamalovesento.hida-ch.com/e438928.html

ボイラーの老朽化だそうです。

非常に残念ですね。


徳積善太  
Posted by rekisy at 22:31Comments(0)TrackBack(0)銭湯について

2012年05月01日

またもや銭湯が廃業

高山市の神田湯が廃業されることになったそうです。

http://takayamalovesento.hida-ch.com/e438928.html

ボイラーの老朽化だそうです。

非常に残念ですね。


徳積善太  
Posted by rekisy at 22:30Comments(0)TrackBack(0)銭湯について

2012年04月28日

4月27日放送分_古川麒麟台について

(4月27日放送分 第242回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

春の高山祭も古川祭も終わって、まだ寒い日が続いておりましたが、ようやく桜が咲きはじめ
ましたね。今年の冬は雪は少なかったですが寒く、都会の方で満開になったのが高山祭の頃
でしたから、例年より2週間くらい遅い状態でしょうか。
ようやく飛騨にも梅や桜、桃が咲き乱れ、春らしい季節がやって参りました。

高山は昔から春にはいっせいに花が咲き乱れます。
私はこの季節が躍動感があって大好きです。ただし最近は、花が咲き始めると同時に、杉花粉が
飛び散るので、花粉症持ちの私にとってはつらい季節でもあります。
今から20年くらい前、まだ「花粉症」という言葉がなかった頃、仕事で下呂方面に行くと、空に黄色い
もやが掛かっていることがありました。
下呂の町と云うのは、真下に風が吹くというので益田郡になったという場所です。
川上岳の方から強い強風=益田下ろしという風が吹きます。
下呂の東上田の辺りから下呂町に入るところに海抜767mの地元では下呂富士と呼ばれている山が
あります。風はそこにぶつかって裏側に吹き溜まりを造ります。
下呂町森の市役所の真上あたりで、黄色いもやが渦を巻いていることがありました。

後でわかったのですが、小坂から萩原にかけての杉の木が花粉を出して、それが風に乗って渦巻いて
いました。その頃から私の花粉症との戦いが始まりました。

植物は、温度変化や日照時間が変化すると、危険を感じて次の子孫を残すために花芽をつけると
いいます。丁度その年の前には異常に暑い夏がありましたが、その翌年の2月から3月にかけて
花芽を付けました。

杉は雄木と雌木があり、受粉するのに風に花粉を飛ばして受粉します。そのために、花粉がたくさん
飛ぶと、人間が呼吸している時に体内に入り、抗体を造ります。
その抗体が入ってくる花粉を押し出そうとくしゃみや鼻水となって体内から押し出そうとするのが
花粉症のアレルギーです。

第二次大戦で本土空襲があり、日本の大都市のほとんどが空襲によって焼き尽くされましたから、
家を造る為に昭和22年から28年頃にかけて木材需要が高まり、飛騨の山々がほとんど切りつく
されました。
飛騨は好景気になったのですが、木を切り出すと今度は雨が降った時に洪水となりますから、
成長の早い杉やヒノキが植林されました。

その木が今日まで60年経ち、丁度伐り出すのにいい状態になりましたが、人件費が高いので
なかなか木を切り出す事がなくなりました。おまけに異常気象のために木々が子孫を残そうと活動
します。それが花粉症の原因です。
今年の花粉はいかがでしょうか。花粉症の方にはお大事になさってください。

さて、前置きが長くなりましたが本日の放送に入りましょう。
本日の放送は先週予告をしましたように古川の祭屋台麒麟台についてお話したいと思います。

先日の古川祭に行ってまいりましたが、昨年は東日本大震災の影響で古川祭は自粛することが
早々と決定され、今回のお祭は2年ぶりの開催と云うことになりました。氏子の皆さんにとって祭を
やらないということが、自分たちの思いをそぎ取られるように感じて、中止決定の頃には賛否両論
がありました。古川の人たちは、そういう言葉はありませんが、屋台・木偶・起し太鼓にそれぞれ
キチとつくくらいに祭に命をかける人が多いですから、いつもは1年待たされるものが2年も待たされ
たわけですから、久しぶりの祭と云う事で今回の祭では2年分はじけた方もおられたことと思います。
今年の祭は、そういった人たちの熱意が見ている方にも伝わって来て、大変楽しい祭だったことと思います。

古川の壱之町の下組。丁度古川の17区にあたるのが麒麟台の区域です。
町名ですと、壱之町下と線路を挟んでスピリットガーデンホールから下の若宮二丁目のエリアがそうです。
ここの屋台組では、組の人たちのエリアをくまなく屋台を曳くということを行っておられますので、飛騨
古川駅下の踏切を横断して若宮の方にまで屋台を持っていくことがあります。
そういう点では、飛騨の屋台の中で唯一、踏切を渡る屋台なんですよ。

実はこの屋台については、もうお亡くなりになりましたが清水武平さんが書き遺された書類と、数年前に
亡くなられた小村勝衛さんに生前にいろいろと聞かせていただいておりました。
後半ではその内容からお話しさせて頂きます。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「      」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、古川の麒麟台についてお話しています。

さて、この屋台の創建は文久年間に高山二之町 石橋台を譲受けたもので同時に童子人形の獅子舞も
譲渡されました。
屋台は慶応元年二月二十五日の大火により焼失しましたが木偶は残りました。

その後しばらく屋台がなく、他町内でも屋台のない町内が多いので、ない方が楽という人もあったそう
でしたが、明治十四年に高山三之町の龍神台を譲受けました。
こちらも大正十三年の祭りを最後に廃台となりました。  

この両方の屋台でこの人形が踊っていました。
屋台の屋根が唐派風だったので「棺屋台」とさげすんで呼ばれていました。
これは、今の霊柩車もそうですが、禅宗の玄関によくつかわれる佛式の唐破風の屋根を持っているから
です。
幅がせまく、前後に長い屋台で、見送りや彫りはついていませんでした。
上段の幕には、立派な龍の刺繍がついており、現在は、飛騨高山まつりの森に展示してあります。

3代目の現在の屋台は、設計製作を当町二之中の名工 上谷彦一郎氏にお願いし、昭和八年に完成
しました。彫刻は富山の大島氏、中断欄間の牡丹は名古屋の岡田氏、彩色は高山の村山氏、金具は
高山の井上氏、塗りは当町の渡辺氏、長瀬氏などにお願いされたようです。

小村勝衛さんのお話では、「屋台作りに、旦那様はお金を出したが、皆で出した。昭和8年に麒麟台を
作った時は、各家が100円程度は出した。少し裕福なところは200~300円程度、今のJAのあるところ
にあった小瀬友吉さんは全盛期で600円以上出した上に瓔珞などを寄付された。古川劇場は、古川に
鉄道がついたときに建設されたものだがその時の建設費が1万円だった。
実は昭和10年に宮川が荒れて、宮城橋の石積みの下が決壊した時の堤防工事も同じくらいのゼニが
かかったが、当時の建設費用が一人区一円だと今では日当1万円以上になるので=今の金で一億円
以上ということになる。」ということでした。

この屋台にはカラクリがあります。
踊りの曲は、八千代獅子と呼ばれるもので、歌詞は

「いつまでもかわらぬ御代のあるたけを、ややはいく、千代に八千代に、千代に八千代にふる。」

というもので子孫繁栄を祈ったものです。
童子が大きい花籠を手にもって、左右を見、花籠を眺めてほほえみつつ進み出て、籠を覗くと花が昇る
ので、喜んで手をふり左右を向いて、太鼓と三味線に合せて小踊りしながらあとずさりする。
花が高く上がると、童子は背の着物の中に隠しもった獅子を、身をうつむかせ、頭をそらせてかぶる。
この時獅子の赤ユタンから、五色の紙片が飛び散り花吹雪となる。という大変精巧なものです。

木偶は、現在使っているものは、3代目の人形ですが、小村さんによると
「麒麟台は、かつて、高山から石橋台を買ったんで木偶が残っていた。その後龍神台を買って、人のお古
ばっかり買うのでだめになったんで、昭和8年に作った。」と言っておられました。

この木偶の一つの特徴は、見えにくいんですが足にあり、足は下の樋のくぼみに引っかかっては離れる
構造になっており、樋を前に進む時にまるで歩いているように見えるところがあります。

またこの人形の入っていた箱書きに
「文政三辰年調作、作者細工人 時鳥、亮長、秀彦」となっているため、一位一刀彫の祖 松田亮長の作品
ではないかと言われたことも有りましたが、京都の人形師で亮長という人であることがわかっています。


清水さんの記録には、
「譲渡される時、「顔にちょっとばかり傷が出来ても直しにやれな。」といわれたという。
一度(屋台から)落して後頭部のつぎたところが離れ京都に送ったが、
「この顔をかまうともとどおりに出来ぬから。」といって、戻ってきたことがある。」という逸話が残っている位、
優しい愛くるしい顔の童子人形で、現在の高山の龍神台の唐子人形とよく似ています。

見送りは、白彫りの二羽の鷹がくわえて吊る形式になっており、古川町出身で京都の玉舎春輝画伯の
「日本武尊草薙の図」でしたが、戦後しばらくして、前田青邨画伯の「風神雷神の図」に改められました。

囃子は大八崩しで高山、大新町鳳凰台のものと似通っていますが、囃子の地言に
「岡崎女郎衆が米こぼいた、米こぼいた、ひろってやったら、また、こぼいた」というのが残っています。
何処から習ったのかは不明です。

屋台は現在の二之上の三光台が最も参考にされ、間口で三寸くらい大きく造られており、装飾は高山の
麒麟台を参考にしたといわれています。総の白毛は支那原産のもので、猩々緋大幕と共に入手しがたい
ものとして、また、彫りと金具の華麗さは以後の屋台においては実現出来ないであろうといわれるくらいに
組の人の自慢になっています。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、法華寺の洗い仏さまについてお話します。

本日はこの曲でお別れしましょう。曲は「 春風とランチ」をお届けします。それでは、また来週お会いしましょう!


徳積善太  

2012年04月25日

第48回GS暮らしっく_赤谷城について

今日は、白川郷で第48回GS暮らしっくの講演会がありました。城郭研究家の佐伯先生が
講演をされました。その記録です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平成24年4月25日  白川郷総合研修センター
48回GS暮らしっく

司会:本日の司会は佐藤が行います。それでは、会を代表して山崎秀信が御挨拶します。



山崎です。何時も集まって頂き有難うございます。いつも同じ話になりますが、白川郷五箇山が
世界遺産になって見えなくなることを無くそうと48回前から話をしていただいています。
今日も面白い話しが窺えるのではと思います。
ガイドをやっていまして、研究するというのではなく、他の人の話しを面白おかしく話すということを
やっています。講演をやってくれないかと言われ出掛けることも有ります。南砺市の井波町で五箇山
の平家伝説を話してきました。

いつもたどたどしい挨拶をしておりますが、その中で一番受けた話を紹介します。
白川と五箇山の人はどこから来たか。いろんな話の中の一つですが、米沢やすしさん。利賀村の
歴史研究者の書かれたノート。昭和37年の中に、金沢大学医学部解剖学教室の論文がありました。
五箇山白川郷の解剖学的人類学的研究。どういうことかというと、身体計測をやったり瞳の色、
髪の毛。男女ともに最も飛騨人に類似し、アイヌ系。富山とは隔絶している。
どちらかというと九州の人に近い。関東・東北とは明らかに相違。
何故平家の話と関係するかというと、九州の人たちを漕ぎ手で雇ったので落人になった可能性が
あると言って紹介しました。
少なくとも五箇山と白川は同じだという事でした。
北日本新聞に取り上げられました。昭和25年の調査と云う事で、戦後すぐDNAを調べることが
できない時代に、同じだった。
最近、自分がお話しして下さいといって話した話しで受けた話でした。
今日の話しは大変興味深い話しですので、よろしくお願いします。お集まりいただき有難うございました。

司会:佐伯先生の紹介をします。北陸城郭研究会会員。富山市在住。関西電力にお勤めの傍ら、
全国の城を研究。1500か所以上。岐阜県300カ所。200か所が岐阜県。講演や白川郷の城郭調査
などを行っておられます。
今日は赤谷で発見された城についてお話しいただきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
御紹介いただきました佐伯です。
今日は、赤谷で発見されたお城と云う事で白川村ではなく荘川町で発見されたお城の説明となります。最初にお断りしますが、この中には帰雲城の話と思って期待されていると思いますが、その話しはしません。赤谷の城についてお話ししたいと思います。ただ、帰雲城はわかりません。これが帰り雲に対して貴重なヒントをもたらせてくれるかもしれない部分があります。
それでは、スライドで説明します。

1)平成21年に発見された赤谷の城です。赤谷城と云うのは荘川にあります。
156号線の対岸になります。



2)赤谷城につきましては田口さんが発見されました。その年の論文に既に発表されています。荘川と白川の境目にある。日崎の「むっきりこっきり」といわれていた伝承がありました。凹凸のある所をそう呼んでいたそうです。ます。その時の名前が日崎山城と中野山城として紹介されています。
本人がどういうつもりで付けたか存じませんが、一度論文に発表されるとそれが正式な名前になります。今のところそういう名前になっています。それが非常によろしくない。
中野があって、海上。城跡はどこにあるかと云うと、上の方になります。
字名は日崎でもなければ中野でもない所にありますので、学会に発表し直したいと思っています。赤谷城と下向山城で訂正したいと思っています。


3)因みに日崎山城は、尾神川と荘川の境目にある。日崎のむっきりこっきりといわれていた。凹凸のある所をそう呼んでいたそうです。そういう事で行きたいと思います。


4)赤谷城平面図
もう一つお断りしたいのは、3年立っていますので、幾人かの城郭研究者が調査済みです。
お城の上の方や下の方にあるという話も有りましたが、下流にも上流にも城跡が認められませんでした。この範囲が城跡だという事で話しをさせていただきます。


この資料の3番を見ていただきたいのですが、934m 遺構が240m飛騨ではまだまだ高い方ではありません。飛騨では標準的です。保存状態は良い。昔の姿をよくとどめています。もう一つこの城で重要なのは、場所です。昔は街道が下に走っていましたが、尾神郷からおりてくる丁度合流点に築かれているということを覚えておいてください。
道についても後ほど触れますが、信仰の道として重要です。


5)から堀の形です。人工的に切ってあります。6m位の自然地形を45度くらい削ってある。


6)尾根続きの処10m深さ4m大規模なもの。

お城の概要としては、こんな所ですが、お城に行ってびっくりしたのは大きさです。
130m位の大きさ。飛騨では之を超える規模のものは16個しかありません。16のうち、高原諏訪城や廣瀬城などの江馬や三木の城などです。

堀切は幅が14mくらい。回りの切ぬしが6m。之を超える規模のものは飛騨では8つ。飛騨でも10本の指に入る位の大きさと言える。

こういうものを築くことができる人間は、一村や二村を支配する人ではなくて郡クラスの豪族しかできない。御母衣湖の対岸に見つかったという事で、信じられませんでした。
観発見で残っていることが考えられなかった。発見できた喜びと云うより未発見であることの衝撃があった。

庄川沿いのお城。新渕城、向牧戸、荻町城。小白川砦は50mクラス。いかに大きいかと云うことがわかると思う。

7)小白川砦。堺川ダムの合流点。このお城の大事な所はその下に高坊と中坊と云うのがある。城の下の台地にお寺があったかもしれない。

これが小白川砦です。
今見つかったのは如何に巨大か解ると思います。

8)ただ大きいというだけではなく巧妙に造ってあります。尾根の先端に向けて城がありますが、尾根の先端から攻めてきた敵は堀切にぶつかります。45度も有ります。これはほとんど絶壁です。登れなかったと思います。敵はどうするかというと二手に別れます。分かれた敵は谷底に行くだけ。南に行った敵をどう対応するか考えられている。側面に廻り込ませないように、ずっと尾根に人工的な壁を延々と作っている。廻り込ませないようにしている。敵に対して、廓を造り、小さな廓があり見張っている。ここで廻り込ませない工夫をしています。尾根を切って横堀を廻らして絶対に敵を廻り込ませない工夫が見られます。
一つ考えていただきたいのは、これが全部ワンセットのお城だということです。どういうことかというと、これは堀とか切ぬしと云う斜面なんですが、ワンセットで機能する。どれか一つ欠けても機能しない。一つがワンセット。堀があったとしても、切ぬしがなければ敵が中に入ってきます。ずっと張り巡らすことで、敵がなかなか入れない。もう一つ谷に向けて切ぬしを造っている。小さな弊とか廓を造っている。ワンセットの防御機能になっている。これをさらに言わせていただくと、これが一つ欠けても機能しない。同一の人間が同一の時代に全部造ったということが言えます。ばらばらの時代に造ったとかいうのではありません。
東側についても、堀切を造って廻り込ませないような工夫がされています。
これが、お城を考える上で重要になってきます。
同一時代に同一の人間が造ったとすると、先祖代々何代にも渡って造ってきたお城ではないということです。一定の時期に造ったものでしかないということが言えます。それが現われているのが、平坦面です。ほとんど自然地形になっています。ほとんど建物が立っていた形跡がありません。これはどういうことかといいますと、建物が立って、ほとんど自然地形で整形されていないということです。回りは整形されています。
ほとんど自然地形の儘で残っています。そう解釈すると、大規模な建物が立たないということが裏返していえばいえます。大規模な建物が立たないということは、簡単なものであったと思われます。プレハブや小屋みたいなものだと思います。
短期間の籠城でしかあり得ない。先祖代々何100年にもたって使われたお城ではないということが言えます。

これはいつ頃のものか。
いつ誰が造ったかという決定的な遺構が残っています。幸いなことに残っているので年代の絞り込みが可能です。横堀がありますが、そこに溝があります。深さが50cmくらいですが、昔は1m位あったと思います。
その横堀が残っている事例は、13条残っていて、12条までが天正年間のものです。
さらに、この中で重要なのは、横堀が残っているという事と廻り込ませないような遺構がある。これは最終的には天正年間まで下ることができます。
下るつまり、下限の話しです。天正年間まで下がることができるだろうと思います。そしたら、上限はどこになるのか。横堀を持つお城は天正年間。もう一つはワンセットで全部作られているということでは、同一の人間が造ったということであれば、天正年間を余り遡らない時代だと思われます。
もう少し古いものが見られれば1500年代まで遡る事ができるのですが、そういうものがありません。

上の大規模な平坦面しかないという事で、天正年間に築城されてそのまま廃城になったと考えられます。

誰が築城したのか
小さな土豪クラスではない。まさに郡単位を支配。築城が天正年間。ということになると、たった1人しか該当しない。内ヶ島氏でいいのではと思います。
帰雲城とは言いません。そういう風に考えて行くと、内ヶ島氏が天正年間に築城した可能性が大です。

何故ここか。金森長近軍が飛騨に進攻。越前の石徹白から尾神郷を下ったという話しがある。しかし否定的な見解を持っている。石徹白にて話しを窺ったところ、尾神郷の、三の峰から下りたという人も有れば、勝山から赤兎岳を超えて来たという人も有った。修験者位しかないという見解を持っていた。ところが、石徹白に白山絵図があった。

この囲ってある所が重要で、「ひだがたへ」という峠があった。中州宿。尾根と尾根を修験していく尾根越えをする一般の宿であった。これがどこかと云うと、こちらになります。
金森軍が通ったとなると、これが重要なルート。
越前から飛騨に抜ける最短ルートとして信仰の道と相まって、存在していたと思われる。

そういうことであると、尾神郷のルートは重要なルートとなる。
何故ここに城があるかは、ルートがあった。天正13年飛騨に来た時には、赤谷城跡は内ヶ島氏の城であった。金森軍を撃退するということが考えられる。短期間と云うことであるので、金森軍が攻めてくることがわかり、この城を造った。一ヶ月くらいで出来たと思う。ということで考え方は合致する。
赤谷城は天正13年に内ヶ島氏によって築城されたと思われる、一時的な城郭だと思います。

色んな推測から言えるので有ります。これが赤谷城についての見解であります。

下向山城がもう一つ発見されています。800mしか離れていません。
この城は、超省エネの城。全く無駄を省いてある。平坦面が全くない。ずっと自然地形。城の鉄則である尾根の前と後ろを切ってある。だけど残念ながら時代を特定する物を残していない。形からだけでは推測ができない。推測すれば、赤谷と800mしか離れていないということ。このお城も、平坦面が全くないという事で、臨時的なお城だとすると、一つの可能性としては赤谷城と一緒に造られた出城・子城として作られたと考えてもよい。

残念ながら今言えるのはそれだけ。
下向山城については詳しく言及できない。800mしか離れていないので、赤谷城とつながりがあったものと思われます。

以上で2つの城を説明しました。縄張りを見ることで、天正13年に造ったものとして内ヶ島氏が造ったのではと思います。
内ヶ島氏は越中、美濃等に隣接する大きなエリアを持っていた。内ヶ島氏と云うのが国人級の人だということが、物証で証明できたと思う。
帰り雲城が、どんな形をしてどこにあったかというヒントを与えてくれたと思います。

お城の話しはこんなところで終わっておきます。
もう一つお話ししたいのは、お城の研究を30年やっていますが、登山も30年経験しています。日本の山を大体いっていますが、白川村の白山は年に45回登っています。好きな山です。白山は山陵がなだらか。ブナ林が多い。東北の白神山地のブナ林は知りませんが、白山のブナ林はトップクラス。立山もいいが、比較にならないくらいすごい。白山は富山石川岐阜福井にまたがっているが良く残っているのが白川村のブナ林。石川県のちぶりおね白山釈迦岳のブナ林がすごいというが白川村は問題にならないくらいすごい。白川村の貴重な宝の一部だと思います。うまく生かしていくことも重要。というのは、石川県の白山はバスを何台も連ねてくるので有名だが、単なるレジャー。白川村の白山は自然豊かで森の美しさを残している。だから、今日は石川県は悪い例として、ああなっちゃいけないということで白川村の宝を生かす手立てはないかと思います。
今後村の方と話し合っていきたいと思います。

石川、富山からみた白山の歴史がありますが、白川村からみた白山の歴史を研究してPRした方がいいと思います。
お城同様、失敗しない形でお勧めできればいいなと思います。

司会:それではせっかくの機会ですので、質疑応答に入りたいと思います。質問のある方は挙手をしてお願いします。

Q質問 山崎:山城は専門ではないのですが、どういう戦いをしたのですか。城に籠もって待っているというのではないと思いますが。

佐伯:おそらく立て籠って戦ったというものです。おそらくこの下に国人級の領主がいて、臨時的に1カ月か2カ月廃棄されたお城だと思います。

Q山崎:そこに立て籠もったという。ものですか。

佐伯:普段の居館は麓にあったと思います。
通り過ぎるのを待つか、籠城して戦ったものだと思います。
金森が石徹白から攻めてくるだろうというのは1年くらい前からありました。

Q長瀬:城と砦とのろし台というのは具体的にどう違うのですか?

佐伯:ほとんど違わないので答えがありません。でっかいのをお城。小さいのを砦。どこからどこまでが大きくて、どこからどこまでが小さいかというとわからない。
感覚的に、50mを下回ると何となく砦。50mを上回ると城かなと思います。のろし台は大きいとか小さいではなくて、いわゆる防御施設が無いもの。空掘りなどが無いもの。のろしの施設を併用したものだと言えます。
1カ月で作れるくらいの城なので、そんなに手は掛けてないと思います。
長期間滞在するつもりはないから、プレハブの小屋みたいなものだったと思います。

Q何人位籠城できるのか。
100人位は大丈夫かと思います。

Q飛騨界隈の城跡で短期間の城跡はあるのか
わずかながらあります。金森が攻めるにあたって造られたものは、三木氏も作っていまして、国府の城がそうです。

Q鉄砲は使わなかったのか
大規模な鉄砲の導入はなかったと思います。この形からは内ヶ島と三木はほんの数丁だった思われます。

それでは、これで、佐伯先生の後援を終りたいと思います。本日はどうもありがとうございました。


徳積善太記  
Posted by rekisy at 23:59Comments(0)TrackBack(0)白川郷

2012年04月24日

税務署で講演しました

24日午後3時より、高山税務署で講演を行ないました。


税務署長さんに伺うと、署員が57名いらっしゃって、地元の人が8人しかおられない。
折角高山に赴任したのに、高山のことを知らない方が多いので、高山の話をしてほしいとの
ことでした。

そこで、以前、小学校で講演した時に使ったクイズを20問行ない、クイズ形式でお話をさせて
いただきました。

残念ながら、全問正解の方はおられませんでしたが、それでも2人の方が17問正解ということで
うちのお豆をプレゼントしました。

当初は2時間の予定でしたが、お仕事がお忙しいこともあり、1時間半で切り上げました。
楽しみながら、勉強していただいたと思います。

徳積善太