2012年01月26日
白川郷の雪
昨日、白川郷に行き、打ち合わせをしてまいりました。
今度、「白山広域文化研究会」を発足するための準備会として打合せをしました。
2月か3月に発足式を行ない、今後白川郷、荘川町、高鷲町、南砺市五箇山を中心とした
研究会を発足させます。
ところで、昨日の寒波により、帰るときには大雪。

3時間の打ち合わせの後、車に戻ったら30cmの積雪で車が埋っていました。
その後、会食をして帰るときには、また30cmの積雪。道路は雪で埋まっていましたが、
白川郷の人のたくましさを痛感しました。
徳積善太
今度、「白山広域文化研究会」を発足するための準備会として打合せをしました。
2月か3月に発足式を行ない、今後白川郷、荘川町、高鷲町、南砺市五箇山を中心とした
研究会を発足させます。
ところで、昨日の寒波により、帰るときには大雪。
3時間の打ち合わせの後、車に戻ったら30cmの積雪で車が埋っていました。
その後、会食をして帰るときには、また30cmの積雪。道路は雪で埋まっていましたが、
白川郷の人のたくましさを痛感しました。
徳積善太
2012年01月25日
2012年01月19日
1月19日放送分_山下家と廣瀬家の関係
(1月20日放送分 第229回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、古川の三寺参りが行われました。これは、古川の本光寺、真宗(しんしょう)寺、円光寺の
三か寺が浄土真宗の本願寺派になった事を記念して、江戸時代の中頃に宗祖親鸞上人の御命日
にお参りをしようと始まったものとされています。
観光パンフレットにはそのように書かれていますが、実は私もかなり調べてみましたが、歴史的事実は
はっきりしていません。

古川の円光寺(三寺参りのお寺の一つ)
古川のこの3つの寺のうち、もともと本願寺派の寺院だったのは、円光寺だけで、開基の岩佐喜兵衛正直
・正祐という人は富山の聞名寺末であったと伝わっています。
本光寺と真宗寺の2つの寺院は、そもそも照蓮寺の末寺で、江戸時代に、本願寺の東西分派が起きた
時には、大谷派(お東)の寺院でした。
その筆頭格だったのが、本光寺と真宗寺ですが、本光寺七世了誓の代に、転派という大きな出来事が
発生しました。
理由については今ひとつよくわかっていませんが、照蓮寺との支配関係における僧籍座位や賦課金に
あたる役銀の取り扱いを不服として本願寺派に転派したのではと言われています。
最終的には、宝永3年(1708)五月、西本願寺の寂如上人より、木仏本尊の裏書を賜り、お東からお西に
転派されました。古川のガイドブックの記述が正しければ、三寺参りは、この頃から始まっていると思われ、
すでに300年が経過していますが、残念ながらそれを裏付ける史料は見つかっていません。
いずれにしても、今年の三寺参りは日曜日という事もあって、たくさんの人でにぎわいました。
このところ、古川の観光客が激減していたので、久しぶりににぎわったと云う感じで、よかったと思うと同時に、
普段から古川にこうやって観光客の皆さんにも来ていただければなあと思いました。
さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は第三週ですから古川の話題をお届けしないといけない
のですが、ちょっと南の国府の話をしたいと思います。
先週予告をしましたように、「山下氏勝と廣瀬氏の関係」という事でお話したいと思います。
昨年3月に「姉小路と廣瀬」という本を出版させていただき、大変好評をいただきました。もしお求めで
ない方がありましたら、まだ40冊ほど残っていますので、ぜひお求めください。
私までヒッツFMを通じてご連絡くださいましたら、お届けさせていただきたいと思います。一冊3000円です。
その本の中に、レポートとして書かせていただいたのですが、廣瀬氏の系図が名古屋で発見されました。
以前から国府町上廣瀬の諏訪神社の総代さんの家に写真が保管されていたのですが、一昨年、私は現物
をお持ちの原栄氏を滋賀県の彦根市に尋ね、原本を見せていただきました。
写真ではなかなか判読できない文字も有りましたが、現物を確認することで、細かな文字や内容がはっきり
しました。その全容については、『姉小路と廣瀬』という本を参照していただきたいのですが、その内容に
ついては、比較検証するものがなく、御紹介にとどめる形でレポートとして掲載させていただきました。
今回、名古屋の蓬佐文庫で発見した山下家の系図の中に、廣瀬氏に関する部分があり、私が紹介した
レポートに合致する部分がありましたので、今日はそのことについて、お話したいと思います。

まず、調査レポートについてですが、序文の所にこんなことが書かれています。原文は漢文ですので、
意訳文をお話したいと思います。
「広瀬家傳に曰く、廣瀬氏は飛州廣瀬の城主である。天文年中同所高堂城主でもあった。江馬常陸守は
かつて妻が廣瀬右衛門尉の妹であったが、怨恨により、或夜廣瀬の城を襲い不急の強敵を防ぐに無術
であった。
遂に廣瀬父子は自殺したといわれる。右衛門尉の末子は当時二歳であったが、郎従は懐に抱き自ら後の
小門を逃げ去り、漸く成長して廣瀬右近と号しかつて越中国の二郎丸の城に居城後飛騨白川又は鍋山の
城に移り住んだ。飛騨にいた三木秀綱は、この頃、江馬の志を打ち破りひそかに廣瀬右近を興し、是を
認めて右近は自分で父の復讐があったがこれを許したままにしていた。
江馬の居城は高堂の城であったが、江馬常陸を殺し、すぐに三木はこの高堂の城に居住した。
廣瀬はこのため旧里を還し、かつての廣瀬の城に住んだ。山下時慶の娘は同姓山下氏勝の妻であると
いっていたが、一男一女をもうけた。
かつて飛騨に来て中興し、廣瀬の城を為氏に与え、天正十三年乙酉年、秀吉公の命を受けた金森五郎八
長近が飛州を征服し、長屋喜蔵可長(ママ可重)が先鋒として攻入り、内ヶ島家臣の川尻備中が内応した
ために、先制攻撃をした。略。」
などとなっています。ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「伊勢正三で あいつ」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬氏と山下氏の関係についてお話しています。
右近は暫く白川に蟄居し、同年十一月三十日飛州の大地震があり内島氏理の住むところは倒れてしまって、
氏理や幼い息子、家臣など数多の人が亡くなり断絶した。嘗て聞いたのは氏理の領内に大木があり、氏理が
家来に命じてこれを伐らせた。そのとき白木が血がしたたるようであった。
且人夫あまたの人が病にかかったようだ。これは鎮守のご神木だった。家臣や家来は恐れおののいて驚き、
氏理に急いで告げた。氏理はこの話を信用せず遂にその木を切り、谷中に倒しおき、枝葉を打ち切って、
薪とした。
氏理のいえは火事で焼けまたある日氏理の幼い子供がその側を通ったとき誤って火に入ってしまい、周りに
いた家来たちは助けようとしたが、即死だった。
いくほどもなく国中の大地が震え山は崩れ谷は埋まり谷水の流れが滞り、湖水のようであった。
数日後、水が溢れ流れ出した時にあの大木も行方知れずとなった。この原因は神を怒らしたことにある。
右近はその後あちこちを漂い、加賀に身をよせた。
天文廿二年癸丑年に生まれ、飛騨で慶長十四年乙酉年十二月十八加賀において逝去した。
年齢は五十七歳でその子は、廣瀬氏の號を浅野氏と改め、浅野氏と名乗り、俗称助右衛門と称した。」
というものです。
さて、今回、蓬佐文庫で発見した史料の中で、山下家系図がありました。それは、『士林沂洄』 巻第七十三
庚之部 御外戚家 山下 姓藤原 家紋 左巴という物に書かれていたものですが、徳川義直家の家来・
家臣の出自などを取りまとめた系図です。
その中に、山下氏勝の姉に「廣瀬右近妻」とあるのがわかりました。これが、国府の廣瀬城にいた、廣瀬
右近のことです。
昨年、御紹介した廣瀬氏の系図の中には、2代目の某となっていますが、これが廣瀬右近であると思われ
ます。そこには、こう書かれています。
「父滅亡の時、越中国次郎丸の城に逃げ去り、後、飛州白川。また鍋山の城に移り居て、三木秀綱と組み、
江馬常陸を再び討つ。廣瀬城主と為し、天正年中金森長近と戦い、軍は不利となりしばらく白川に蟄居し、
その後加州へ退く。慶長14年12月18日加州において死去。法名浄念」などとなっています。
また、その子供貞久のところには、
「母山下大和守氏勝女、実は同苗字の時慶の娘也」となっています。
今回、発見した山下家系図には、はっきりと山下時慶の女で、氏勝の姉という事が示されていますから、
この2つの史料は適合することになります。となると、かなり信憑性が高まるわけですから、飛騨の歴史に
とって新たな発見となります。
また、もう一つ、廣瀬氏系図の中に面白い記述があります。
貞久という人は、昨年NHKの大河ドラマで有名になりましたが、江の姉の嫁ぎ先、宮津城主の京極高広に
仕官をして200石を賜り、家来となります。その時に廣瀬の姓を捨てて浅野を名乗ります。
その子供、浅野一郎左衛門隆久という人がいますが、この人は、山下市正氏正の養子となり、慶安4年
辛卯年(1651)に御城代組に召され、知行100石を賜っています。
この城代になった年代が、正保4年(1647)~明暦元年(1655)ですから、年代が一致します。
これらのことから、山下家の系図も、廣瀬家の系図も信憑性がより一層増すことになりました。
ということは、今まで伝えられてきた廣瀬氏の系図という物については、2つ存在し、今までの物が名前を
つけるとすれば前廣瀬氏。そして上廣瀬の諏訪神社に伝えられたものが、後廣瀬氏ということになり、
後廣瀬氏は廣瀬城という地名の場所に知行したから、廣瀬氏を名乗ったということに信憑性が出てきます。
歴史検証をする場合に、私もいろんな先生から云われていることは、必ず一つの史料で判断しないで、
複数の史料から類推することが可能であれば、そういったものを比較検証して判断することが肝要だと
いうことです。
今回、名古屋で発見した史料。そして、昨年拝見した廣瀬氏の史料をもとに、もっと具体的な分析を進めて
行きたいと思います。
山下家の系図については、このほどまとめまして、3月のGS暮らしっくという白川郷の勉強会で発表させて
いただきますし、廣瀬家の系図については、冒頭にお話ししましたように『姉小路と廣瀬』という本にレポート
しておりますので、興味のある方はご確認ください。
さて本日の放送も時間となりました。来週の放送は、何時も第四週にお届けしております、高山祭の屋台に
ついて。八幡祭りの屋台が一通り終わりました。あと八幡祭りには、大正台組と水門組、佐久良組という
屋台のない組がありますのでそのお話と、国の有形民俗文化財になっている屋台は、高山祭屋台23台の
ほかに東山白山神社と飛騨総社の神楽台がありますのでそのお話をしたいと思います。
では、この曲でお別れです。曲の方は「由紀さおりで 手紙」。
それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、古川の三寺参りが行われました。これは、古川の本光寺、真宗(しんしょう)寺、円光寺の
三か寺が浄土真宗の本願寺派になった事を記念して、江戸時代の中頃に宗祖親鸞上人の御命日
にお参りをしようと始まったものとされています。
観光パンフレットにはそのように書かれていますが、実は私もかなり調べてみましたが、歴史的事実は
はっきりしていません。
古川の円光寺(三寺参りのお寺の一つ)
古川のこの3つの寺のうち、もともと本願寺派の寺院だったのは、円光寺だけで、開基の岩佐喜兵衛正直
・正祐という人は富山の聞名寺末であったと伝わっています。
本光寺と真宗寺の2つの寺院は、そもそも照蓮寺の末寺で、江戸時代に、本願寺の東西分派が起きた
時には、大谷派(お東)の寺院でした。
その筆頭格だったのが、本光寺と真宗寺ですが、本光寺七世了誓の代に、転派という大きな出来事が
発生しました。
理由については今ひとつよくわかっていませんが、照蓮寺との支配関係における僧籍座位や賦課金に
あたる役銀の取り扱いを不服として本願寺派に転派したのではと言われています。
最終的には、宝永3年(1708)五月、西本願寺の寂如上人より、木仏本尊の裏書を賜り、お東からお西に
転派されました。古川のガイドブックの記述が正しければ、三寺参りは、この頃から始まっていると思われ、
すでに300年が経過していますが、残念ながらそれを裏付ける史料は見つかっていません。
いずれにしても、今年の三寺参りは日曜日という事もあって、たくさんの人でにぎわいました。
このところ、古川の観光客が激減していたので、久しぶりににぎわったと云う感じで、よかったと思うと同時に、
普段から古川にこうやって観光客の皆さんにも来ていただければなあと思いました。
さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は第三週ですから古川の話題をお届けしないといけない
のですが、ちょっと南の国府の話をしたいと思います。
先週予告をしましたように、「山下氏勝と廣瀬氏の関係」という事でお話したいと思います。
昨年3月に「姉小路と廣瀬」という本を出版させていただき、大変好評をいただきました。もしお求めで
ない方がありましたら、まだ40冊ほど残っていますので、ぜひお求めください。
私までヒッツFMを通じてご連絡くださいましたら、お届けさせていただきたいと思います。一冊3000円です。
その本の中に、レポートとして書かせていただいたのですが、廣瀬氏の系図が名古屋で発見されました。
以前から国府町上廣瀬の諏訪神社の総代さんの家に写真が保管されていたのですが、一昨年、私は現物
をお持ちの原栄氏を滋賀県の彦根市に尋ね、原本を見せていただきました。
写真ではなかなか判読できない文字も有りましたが、現物を確認することで、細かな文字や内容がはっきり
しました。その全容については、『姉小路と廣瀬』という本を参照していただきたいのですが、その内容に
ついては、比較検証するものがなく、御紹介にとどめる形でレポートとして掲載させていただきました。
今回、名古屋の蓬佐文庫で発見した山下家の系図の中に、廣瀬氏に関する部分があり、私が紹介した
レポートに合致する部分がありましたので、今日はそのことについて、お話したいと思います。

まず、調査レポートについてですが、序文の所にこんなことが書かれています。原文は漢文ですので、
意訳文をお話したいと思います。
「広瀬家傳に曰く、廣瀬氏は飛州廣瀬の城主である。天文年中同所高堂城主でもあった。江馬常陸守は
かつて妻が廣瀬右衛門尉の妹であったが、怨恨により、或夜廣瀬の城を襲い不急の強敵を防ぐに無術
であった。
遂に廣瀬父子は自殺したといわれる。右衛門尉の末子は当時二歳であったが、郎従は懐に抱き自ら後の
小門を逃げ去り、漸く成長して廣瀬右近と号しかつて越中国の二郎丸の城に居城後飛騨白川又は鍋山の
城に移り住んだ。飛騨にいた三木秀綱は、この頃、江馬の志を打ち破りひそかに廣瀬右近を興し、是を
認めて右近は自分で父の復讐があったがこれを許したままにしていた。
江馬の居城は高堂の城であったが、江馬常陸を殺し、すぐに三木はこの高堂の城に居住した。
廣瀬はこのため旧里を還し、かつての廣瀬の城に住んだ。山下時慶の娘は同姓山下氏勝の妻であると
いっていたが、一男一女をもうけた。
かつて飛騨に来て中興し、廣瀬の城を為氏に与え、天正十三年乙酉年、秀吉公の命を受けた金森五郎八
長近が飛州を征服し、長屋喜蔵可長(ママ可重)が先鋒として攻入り、内ヶ島家臣の川尻備中が内応した
ために、先制攻撃をした。略。」
などとなっています。ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「伊勢正三で あいつ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、廣瀬氏と山下氏の関係についてお話しています。
右近は暫く白川に蟄居し、同年十一月三十日飛州の大地震があり内島氏理の住むところは倒れてしまって、
氏理や幼い息子、家臣など数多の人が亡くなり断絶した。嘗て聞いたのは氏理の領内に大木があり、氏理が
家来に命じてこれを伐らせた。そのとき白木が血がしたたるようであった。
且人夫あまたの人が病にかかったようだ。これは鎮守のご神木だった。家臣や家来は恐れおののいて驚き、
氏理に急いで告げた。氏理はこの話を信用せず遂にその木を切り、谷中に倒しおき、枝葉を打ち切って、
薪とした。
氏理のいえは火事で焼けまたある日氏理の幼い子供がその側を通ったとき誤って火に入ってしまい、周りに
いた家来たちは助けようとしたが、即死だった。
いくほどもなく国中の大地が震え山は崩れ谷は埋まり谷水の流れが滞り、湖水のようであった。
数日後、水が溢れ流れ出した時にあの大木も行方知れずとなった。この原因は神を怒らしたことにある。
右近はその後あちこちを漂い、加賀に身をよせた。
天文廿二年癸丑年に生まれ、飛騨で慶長十四年乙酉年十二月十八加賀において逝去した。
年齢は五十七歳でその子は、廣瀬氏の號を浅野氏と改め、浅野氏と名乗り、俗称助右衛門と称した。」
というものです。
さて、今回、蓬佐文庫で発見した史料の中で、山下家系図がありました。それは、『士林沂洄』 巻第七十三
庚之部 御外戚家 山下 姓藤原 家紋 左巴という物に書かれていたものですが、徳川義直家の家来・
家臣の出自などを取りまとめた系図です。
その中に、山下氏勝の姉に「廣瀬右近妻」とあるのがわかりました。これが、国府の廣瀬城にいた、廣瀬
右近のことです。
昨年、御紹介した廣瀬氏の系図の中には、2代目の某となっていますが、これが廣瀬右近であると思われ
ます。そこには、こう書かれています。
「父滅亡の時、越中国次郎丸の城に逃げ去り、後、飛州白川。また鍋山の城に移り居て、三木秀綱と組み、
江馬常陸を再び討つ。廣瀬城主と為し、天正年中金森長近と戦い、軍は不利となりしばらく白川に蟄居し、
その後加州へ退く。慶長14年12月18日加州において死去。法名浄念」などとなっています。
また、その子供貞久のところには、
「母山下大和守氏勝女、実は同苗字の時慶の娘也」となっています。
今回、発見した山下家系図には、はっきりと山下時慶の女で、氏勝の姉という事が示されていますから、
この2つの史料は適合することになります。となると、かなり信憑性が高まるわけですから、飛騨の歴史に
とって新たな発見となります。
また、もう一つ、廣瀬氏系図の中に面白い記述があります。
貞久という人は、昨年NHKの大河ドラマで有名になりましたが、江の姉の嫁ぎ先、宮津城主の京極高広に
仕官をして200石を賜り、家来となります。その時に廣瀬の姓を捨てて浅野を名乗ります。
その子供、浅野一郎左衛門隆久という人がいますが、この人は、山下市正氏正の養子となり、慶安4年
辛卯年(1651)に御城代組に召され、知行100石を賜っています。
この城代になった年代が、正保4年(1647)~明暦元年(1655)ですから、年代が一致します。
これらのことから、山下家の系図も、廣瀬家の系図も信憑性がより一層増すことになりました。
ということは、今まで伝えられてきた廣瀬氏の系図という物については、2つ存在し、今までの物が名前を
つけるとすれば前廣瀬氏。そして上廣瀬の諏訪神社に伝えられたものが、後廣瀬氏ということになり、
後廣瀬氏は廣瀬城という地名の場所に知行したから、廣瀬氏を名乗ったということに信憑性が出てきます。
歴史検証をする場合に、私もいろんな先生から云われていることは、必ず一つの史料で判断しないで、
複数の史料から類推することが可能であれば、そういったものを比較検証して判断することが肝要だと
いうことです。
今回、名古屋で発見した史料。そして、昨年拝見した廣瀬氏の史料をもとに、もっと具体的な分析を進めて
行きたいと思います。
山下家の系図については、このほどまとめまして、3月のGS暮らしっくという白川郷の勉強会で発表させて
いただきますし、廣瀬家の系図については、冒頭にお話ししましたように『姉小路と廣瀬』という本にレポート
しておりますので、興味のある方はご確認ください。
さて本日の放送も時間となりました。来週の放送は、何時も第四週にお届けしております、高山祭の屋台に
ついて。八幡祭りの屋台が一通り終わりました。あと八幡祭りには、大正台組と水門組、佐久良組という
屋台のない組がありますのでそのお話と、国の有形民俗文化財になっている屋台は、高山祭屋台23台の
ほかに東山白山神社と飛騨総社の神楽台がありますのでそのお話をしたいと思います。
では、この曲でお別れです。曲の方は「由紀さおりで 手紙」。
それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
2012年01月18日
新飛騨の匠_彫刻師村上さん
昨日ご紹介した村上さんは、かつて中日新聞に紹介されたこともあります。

「2011年10月1日中日新聞より
世界一の日本酒ラベル
フランス・パリで開かれた日本酒のアートラベル展
「Paris現代ジャポニズム芸術祭」で、国伝統工芸士の
村上貞夫さん【72】=高山市緑が丘町、の一位一刀彫
作品が最優秀の「仏日国民文化芸術振興賞」に輝いた。
芸術祭は、展覧会などを手掛けるMY・Yコミュニケー
ションズ(東京)が日本の文化を広めようとベルシー
美術館で初めて開催。日本の画家や書家、彫刻家など
の作品役360点を、特別醸造の日本酒「和の神聖寿」
(滋賀、池本酒造)のラベルにデザインして展示した。
村上さんの作品は幼少期の武田信玄をモチーフ。高山市
がJR高山駅前に植樹し、6年前に伐採したイチイで製作
した、来場したフランス人の評価も高く「日本の文化を
知ってもらうのにふさわしい作品」と最優秀に選ばれた。
村上さんは「一位一刀彫が世界に認められてうれしい。
またこのような賞を取れるように頑張っていきたい」と
話している。」
今回のルーブル美術館に展示されることになり、ますます飛騨の一位一刀彫が世界で
有名になることと思います。
徳積善太
「2011年10月1日中日新聞より
世界一の日本酒ラベル
フランス・パリで開かれた日本酒のアートラベル展
「Paris現代ジャポニズム芸術祭」で、国伝統工芸士の
村上貞夫さん【72】=高山市緑が丘町、の一位一刀彫
作品が最優秀の「仏日国民文化芸術振興賞」に輝いた。
芸術祭は、展覧会などを手掛けるMY・Yコミュニケー
ションズ(東京)が日本の文化を広めようとベルシー
美術館で初めて開催。日本の画家や書家、彫刻家など
の作品役360点を、特別醸造の日本酒「和の神聖寿」
(滋賀、池本酒造)のラベルにデザインして展示した。
村上さんの作品は幼少期の武田信玄をモチーフ。高山市
がJR高山駅前に植樹し、6年前に伐採したイチイで製作
した、来場したフランス人の評価も高く「日本の文化を
知ってもらうのにふさわしい作品」と最優秀に選ばれた。
村上さんは「一位一刀彫が世界に認められてうれしい。
またこのような賞を取れるように頑張っていきたい」と
話している。」
今回のルーブル美術館に展示されることになり、ますます飛騨の一位一刀彫が世界で
有名になることと思います。
徳積善太
2012年01月17日
新飛騨の匠_彫刻師の作品がルーブル美術館に
先日、彫刻師の村上さんがご来店くださいました。
最近、彫られた「手長足長」の彫刻が、このほどフランスのルーブル美術館に展示されるそうです。

その証明書。


賞状を見せてくださったのでお願いしたら、写真を撮らせてくださいました。

この手長足長は、平成23年12月15日発行の「美術の森」新年号 223P に掲載されています。
村上貞男さんは、1939年岐阜県生まれ。師 牛丸大峯市に師事した日本の伝統工芸士。一位一刀彫協会の
理事を務める傍ら、辻が森神社の宮司を務めておられます。
伝統工芸展では金賞4回受賞。その他、美術の社第一回伝統工芸作家大賞、パリ現代ジャパニズムj芸術祭、仏日
国民文化芸術振興賞などを受賞され、活躍されている現代の飛騨の匠です。
私とは、伝統工芸士研修会で谷口与鹿のお話をさせていただいた時からご縁が深まり、いろいろと彫刻に
ついて教えていただいています。今回は本当におめでとうございます。
なお、この手長足長像は約60cmくらいの大きさだそうです。
徳積善太
最近、彫られた「手長足長」の彫刻が、このほどフランスのルーブル美術館に展示されるそうです。
その証明書。
賞状を見せてくださったのでお願いしたら、写真を撮らせてくださいました。
この手長足長は、平成23年12月15日発行の「美術の森」新年号 223P に掲載されています。
村上貞男さんは、1939年岐阜県生まれ。師 牛丸大峯市に師事した日本の伝統工芸士。一位一刀彫協会の
理事を務める傍ら、辻が森神社の宮司を務めておられます。
伝統工芸展では金賞4回受賞。その他、美術の社第一回伝統工芸作家大賞、パリ現代ジャパニズムj芸術祭、仏日
国民文化芸術振興賞などを受賞され、活躍されている現代の飛騨の匠です。
私とは、伝統工芸士研修会で谷口与鹿のお話をさせていただいた時からご縁が深まり、いろいろと彫刻に
ついて教えていただいています。今回は本当におめでとうございます。
なお、この手長足長像は約60cmくらいの大きさだそうです。
徳積善太
2012年01月16日
龍の彫刻4_八幡祭り屋台2
高山祭の屋台には龍がいたるところに使われています。

仙人台の屋根についている巻龍

布袋台の上段幕についている龍

鳩峰車台の龍の彫刻

鳩峰車台の見送り
あちこちに龍の意匠が見られます。
徳積善太
仙人台の屋根についている巻龍
布袋台の上段幕についている龍
鳩峰車台の龍の彫刻
鳩峰車台の見送り
あちこちに龍の意匠が見られます。
徳積善太
2012年01月15日
2012年01月15日
2012年01月15日
2012年01月14日
1月13日放送分_山下氏勝について
(1月13日放送分 第228回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今年初めてこの放送をお聞きの皆様には改めまして明けましておめでとうございます。
どうぞ本年もこの「飛騨の歴史再発見」をよろしくお願いいたします。
先日、FBを見ておりましたら、ある若い方が「5日の日に〆縄を外したら、それは7日までかけて
おくものだよと注意された」という内容が載っておりました。
私も「松の内」というのは、そういうものだと思ってよく考えてみましたら、飛騨では「松の内」という
のは、確か15日までのことを指しますよね。旧暦の正月の事を指すはずです。
ちょっと調べてみましたら、関東では7日。関西では15日までを松の内と云うことがわかりました。
どうして地方によってそういう違いがあるのか、更に調べてみましたら、何とこれは、江戸の火事に
由来していることが分かりました。
寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する
最初の通達が江戸の城下に町触として発せられていて、それに倣った風習が徐々に関東を中心に
広まったと考えられています。
幕末の考証家である喜田川守貞という人は、この時同時に左義長(いわゆる「どんど焼き」)も禁止
されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の
一環ではないかとしているそうです。
飛騨は幕府の直轄地だったことから、同じような触れが出ていることが多いのですが、この松の内の
締め縄外しについては、触れが出ていなかったようですね。
15日には、高山市内のどこの神社でも「どんど焼き」といってこの左義長の行事が行われるところが
多いと思います。昔からこの左義長で締め縄やお札を焼いて沸かしたお湯を飲んだり、この火で
焼いたお餅を食べると風邪をひかないとか、お清めの意味もあるというお話ですが、皆さんもお出かけ
になって、古いお札の御加護に対する感謝の気持ちを神様にお伝えして下さい。
さて、本日の放送に入りたいと思いますが、ちょっとお詫びがあります。
先週の放送で、初代尾張藩主を徳川義春とお伝えしておりましたが、義直の間違いでした。謹んでお詫び
申し上げます。
さて、本日の放送は、先週予告でお伝えしましたように、「山下氏勝について」今回私が調べて解った
事をお話ししたいと思います。
実は、12月に名古屋城と徳川家の文庫=蓬佐文庫という施設に行ってまいりました。その時に調べて
まいりましたお話をもとにお話ししたいと思います。
先週の放送でも、山下氏勝のことについて少しお話ししましたが、御存じない方のために、改めてこの人の
事についてお話しましょう。
『飛騨編年史要』『飛騨人物辞典』という本などには、次の様に書かれています。
「山下氏勝 (うじかつ)白川郷荻町城主。幼名は万寿丸。長じて半三郎。従五位下大和守と称する。
内島氏が滅びると徳川家康に仕え、慶長7年(1602)に徳川義直の侍臣を命ぜられ随行して尾張へ
移る。名古屋城の築城を建議した人。後に5000石の領主となって三河国蒲生郡を領する。
矢術に優れた。永禄11年(1568)4月~承応2年(1653)11月没(飛騨編年史要・大野郡史・飛騨人物辞典)
先週の放送では、この氏勝について調べたことを簡単に申し上げました。
それは、文禄文永の役の時に、九州の名護屋城にて氏勝は家康の武将として功があった。その折に、
家康が氏勝を呼んで出自を訪ねると、氏勝は自分の出自や佐々の家来になったいきさつを詳しく家康
に話した。家康は、「お前ほどの人物なら、9男義直が今年3歳になる。後見人を引き受けてはくれない
か。そのためには、志水の娘(相応院の妹)と夫婦になる様に」ということで、家康が推薦して相応院の
妹を娶る事になったようです。その後、義直には武蔵国の忍城(川越城)が与えられ、家来として氏勝は
そちらに移ります。その後、忍城が大変湿度の高い場所であったために、相応院が家康に国替えを頼み、
義直は甲州に移ります。

その後、初代尾張藩主なる時に、城を当初は清洲に作ろうとしましたが、かつて清洲城に住んでいたこと
のある氏勝が、家康公に
「あの地は、川があり水運が栄え、要害ではあるが、川があるために湿度が高い。是非とも新しい城造り
には、名古屋の地に移された方がよろしいと存じます」ということをいうわけです。
そうして、清洲城の改築をやめて、名古屋城が築城されたということをお話ししました。
家康の武将として、大変功のあった人物だったというわけです。これで、地元の史料では分からなかった、
相応院の妹を妻にしたこと。家康の武将としての功績というものがわかりました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、「岩崎宏美 マドンナたちのララバイ」をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、「山下氏勝」についてお話ししています。
蓬左文庫で見つけたもう一つの論文は、初代徳川義直の家臣群についての考察と云う論文でした。
大変長い論文なのですが、当時の山下氏勝の立場がうかがえる資料ですので、ちょっと要約して
ご紹介したいと思います。
徳川義直が、武蔵国の忍城から甲斐に移った時に、新たに義直の家臣になった武田の集団がありました。
家康はこの武田の配下の武将たちを取り入れ、義直の家臣として尽くすように云いました。
その筆頭だった人が、もともと三河の出で、甲斐の武田の家臣団を取りまとめていた平岩主計親吉と
云う人でした。
徳川義直の家臣団としては、こうした甲斐系の家臣団だった人たちと、山下氏勝のように家康の息の
かかった相応院系統の人たちと2つの集団がありました。
後に、この平岩親吉が義直家臣団の中でも犬山城12万石を与えられ、力を付けて行きますが、この
甲州系の人たちと相応院系の人たちとの間には、だんだん確執が生まれて行きました。
その確執を一層強めたのが、大坂の冬の陣の時で、一番組を務めた山下氏勝だけが論功行賞の折に
唯一人恩賞を得たと云う事がありました。冬の陣において、此の合戦を機に少しでも高い家中序列と
身分格式を獲得し得る実績を築いておくことに、家臣団は第一の関心があったと思われます。
その中で、一番組を務めた氏勝だけが功績を認められ、他の者は主君について戦わずに帰陣した
わけですから、家康の後備をしていた義直軍に大した功績があろうはずがありません。
その中で、唯一人論功行賞を得たと云う事は、相当のねたみや、主君の坑道に従わずと云う思いが
家臣団の中に芽生えたと言っても不思議ではありません。
その後、家康公の亡くなったあと元和八年に、義直公は江戸の邸を建て、氏勝が経営の事を司りました。
秀忠公は営作速成の事を褒め、物若干を賜りました。
寛永二年に義直公は江戸邸館に於いて、秀忠公を招待しました。また家光公も招待しました。
皆、その時の饗応之総裁は氏勝でした。
酒井忠世が先客と為し、拝謁を奉った。今度饗応の公労は専ら氏勝にあった。忠世がこれを褒めたので、
秀忠公、家光公は御感じあり、若干の物を賜りました。将軍家の人たちは「享燕の式」というものが、
豊臣氏の時代にはありましたが、近年絶えてしまいこれをご存知ありませんでした。
氏勝は古例に従って、そのやり方を披露したので、世人は大いにほめたたえました。
其の後、義直公は江戸と尾張に於いて将軍家を招待し、氏勝は毎度饗応総裁を掌りました。
同年光義卿誕生しますが、母が卑賤の身であるが故に義直公はこれを挙げようとされました。
相応院大夫はかつて義直公に嗣子がないことを憂いたまたま男子が生れ大いに喜び、ひそかに
氏勝に命じ、その家で養ったことにした。
ほとんど二年たち、相応院大夫は人に書を氏勝妻に賜いその書はその子孫が持っているという
ことです。
其の後、義直公は其実子と出ある事を知り、世継としました。
六年江戸西の丸改築し、石塁を作る事を営ず。義直公は石を伊豆相模に於いて取り、氏勝は総裁と
為し、大石を運び出し、その功を成す。
十年酉三月、初めて寄合触れ流頭と為す。
十九年午倒れるまで仕え、承応二年十一月二十日に亡くなりました。八十六歳でした。

氏勝の子供は、市正氏正と云う人ですが、この人も飛騨とかかわりがあります。
この人は、氏勝が大変立派な方であったがゆえに、幼年より義直公に仕え、義直公の外戚となりました。
そのためにしばしば処遇を責められました。大坂の役には供奉した時には十二歳でした。
後に父の家領を継ぎ、寄合となり、寛永11年大番頭。正保4年には御城代となりました。
明暦元年、病により辞職し寄合となりますが、寛文3年卯年6月21日、間宮大隅の私婚姻の締めに
譴(せ)めを蒙り、氏政の一族郎党は改易となりました。
改易となった時には、その子氏輝、半左衛門、半太夫のほか、弟権之助とその子氏重、弟氏紹とその子
氏長、弟秀氏とその子氏定なども同時に改易となりました。
一時的に、現在の下呂市金山町に隠居し、下原旅館の城主として金森氏によって庇護されました。
氏政は金山町では、山下道安という雅号で玉龍寺などを再興した人としても知られ、また茶道宗和流
の祖 金森宗和の娘婿であることでも知られています。
この資料を、白川郷の郷土史研究家上手先生にお渡ししたところ、「今までの謎が一気に解けた」と
喜んでおられましたし、金山の郷土史研究家の長瀬先生からは、「今まで山下道安がいつ飛騨に
来たのかわからずにいましたが、寛文3年6月21日であることがはっきりした。」と喜んでおられました。
さて本日の放送も時間となりました。
来週の放送は、今日お話しした山下氏勝について。今度は、「国府の廣瀬氏との関係について」続きの
お話をお届けします。
では、この曲でお別れです。曲の方は「西城秀樹 ブルースカイブルー」。それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
今年初めてこの放送をお聞きの皆様には改めまして明けましておめでとうございます。
どうぞ本年もこの「飛騨の歴史再発見」をよろしくお願いいたします。
先日、FBを見ておりましたら、ある若い方が「5日の日に〆縄を外したら、それは7日までかけて
おくものだよと注意された」という内容が載っておりました。
私も「松の内」というのは、そういうものだと思ってよく考えてみましたら、飛騨では「松の内」という
のは、確か15日までのことを指しますよね。旧暦の正月の事を指すはずです。
ちょっと調べてみましたら、関東では7日。関西では15日までを松の内と云うことがわかりました。
どうして地方によってそういう違いがあるのか、更に調べてみましたら、何とこれは、江戸の火事に
由来していることが分かりました。
寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する
最初の通達が江戸の城下に町触として発せられていて、それに倣った風習が徐々に関東を中心に
広まったと考えられています。
幕末の考証家である喜田川守貞という人は、この時同時に左義長(いわゆる「どんど焼き」)も禁止
されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の
一環ではないかとしているそうです。
飛騨は幕府の直轄地だったことから、同じような触れが出ていることが多いのですが、この松の内の
締め縄外しについては、触れが出ていなかったようですね。
15日には、高山市内のどこの神社でも「どんど焼き」といってこの左義長の行事が行われるところが
多いと思います。昔からこの左義長で締め縄やお札を焼いて沸かしたお湯を飲んだり、この火で
焼いたお餅を食べると風邪をひかないとか、お清めの意味もあるというお話ですが、皆さんもお出かけ
になって、古いお札の御加護に対する感謝の気持ちを神様にお伝えして下さい。
さて、本日の放送に入りたいと思いますが、ちょっとお詫びがあります。
先週の放送で、初代尾張藩主を徳川義春とお伝えしておりましたが、義直の間違いでした。謹んでお詫び
申し上げます。
さて、本日の放送は、先週予告でお伝えしましたように、「山下氏勝について」今回私が調べて解った
事をお話ししたいと思います。
実は、12月に名古屋城と徳川家の文庫=蓬佐文庫という施設に行ってまいりました。その時に調べて
まいりましたお話をもとにお話ししたいと思います。
先週の放送でも、山下氏勝のことについて少しお話ししましたが、御存じない方のために、改めてこの人の
事についてお話しましょう。
『飛騨編年史要』『飛騨人物辞典』という本などには、次の様に書かれています。
「山下氏勝 (うじかつ)白川郷荻町城主。幼名は万寿丸。長じて半三郎。従五位下大和守と称する。
内島氏が滅びると徳川家康に仕え、慶長7年(1602)に徳川義直の侍臣を命ぜられ随行して尾張へ
移る。名古屋城の築城を建議した人。後に5000石の領主となって三河国蒲生郡を領する。
矢術に優れた。永禄11年(1568)4月~承応2年(1653)11月没(飛騨編年史要・大野郡史・飛騨人物辞典)
先週の放送では、この氏勝について調べたことを簡単に申し上げました。
それは、文禄文永の役の時に、九州の名護屋城にて氏勝は家康の武将として功があった。その折に、
家康が氏勝を呼んで出自を訪ねると、氏勝は自分の出自や佐々の家来になったいきさつを詳しく家康
に話した。家康は、「お前ほどの人物なら、9男義直が今年3歳になる。後見人を引き受けてはくれない
か。そのためには、志水の娘(相応院の妹)と夫婦になる様に」ということで、家康が推薦して相応院の
妹を娶る事になったようです。その後、義直には武蔵国の忍城(川越城)が与えられ、家来として氏勝は
そちらに移ります。その後、忍城が大変湿度の高い場所であったために、相応院が家康に国替えを頼み、
義直は甲州に移ります。

その後、初代尾張藩主なる時に、城を当初は清洲に作ろうとしましたが、かつて清洲城に住んでいたこと
のある氏勝が、家康公に
「あの地は、川があり水運が栄え、要害ではあるが、川があるために湿度が高い。是非とも新しい城造り
には、名古屋の地に移された方がよろしいと存じます」ということをいうわけです。
そうして、清洲城の改築をやめて、名古屋城が築城されたということをお話ししました。
家康の武将として、大変功のあった人物だったというわけです。これで、地元の史料では分からなかった、
相応院の妹を妻にしたこと。家康の武将としての功績というものがわかりました。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、「岩崎宏美 マドンナたちのララバイ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「山下氏勝」についてお話ししています。
蓬左文庫で見つけたもう一つの論文は、初代徳川義直の家臣群についての考察と云う論文でした。
大変長い論文なのですが、当時の山下氏勝の立場がうかがえる資料ですので、ちょっと要約して
ご紹介したいと思います。
徳川義直が、武蔵国の忍城から甲斐に移った時に、新たに義直の家臣になった武田の集団がありました。
家康はこの武田の配下の武将たちを取り入れ、義直の家臣として尽くすように云いました。
その筆頭だった人が、もともと三河の出で、甲斐の武田の家臣団を取りまとめていた平岩主計親吉と
云う人でした。
徳川義直の家臣団としては、こうした甲斐系の家臣団だった人たちと、山下氏勝のように家康の息の
かかった相応院系統の人たちと2つの集団がありました。
後に、この平岩親吉が義直家臣団の中でも犬山城12万石を与えられ、力を付けて行きますが、この
甲州系の人たちと相応院系の人たちとの間には、だんだん確執が生まれて行きました。
その確執を一層強めたのが、大坂の冬の陣の時で、一番組を務めた山下氏勝だけが論功行賞の折に
唯一人恩賞を得たと云う事がありました。冬の陣において、此の合戦を機に少しでも高い家中序列と
身分格式を獲得し得る実績を築いておくことに、家臣団は第一の関心があったと思われます。
その中で、一番組を務めた氏勝だけが功績を認められ、他の者は主君について戦わずに帰陣した
わけですから、家康の後備をしていた義直軍に大した功績があろうはずがありません。
その中で、唯一人論功行賞を得たと云う事は、相当のねたみや、主君の坑道に従わずと云う思いが
家臣団の中に芽生えたと言っても不思議ではありません。
その後、家康公の亡くなったあと元和八年に、義直公は江戸の邸を建て、氏勝が経営の事を司りました。
秀忠公は営作速成の事を褒め、物若干を賜りました。
寛永二年に義直公は江戸邸館に於いて、秀忠公を招待しました。また家光公も招待しました。
皆、その時の饗応之総裁は氏勝でした。
酒井忠世が先客と為し、拝謁を奉った。今度饗応の公労は専ら氏勝にあった。忠世がこれを褒めたので、
秀忠公、家光公は御感じあり、若干の物を賜りました。将軍家の人たちは「享燕の式」というものが、
豊臣氏の時代にはありましたが、近年絶えてしまいこれをご存知ありませんでした。
氏勝は古例に従って、そのやり方を披露したので、世人は大いにほめたたえました。
其の後、義直公は江戸と尾張に於いて将軍家を招待し、氏勝は毎度饗応総裁を掌りました。
同年光義卿誕生しますが、母が卑賤の身であるが故に義直公はこれを挙げようとされました。
相応院大夫はかつて義直公に嗣子がないことを憂いたまたま男子が生れ大いに喜び、ひそかに
氏勝に命じ、その家で養ったことにした。
ほとんど二年たち、相応院大夫は人に書を氏勝妻に賜いその書はその子孫が持っているという
ことです。
其の後、義直公は其実子と出ある事を知り、世継としました。
六年江戸西の丸改築し、石塁を作る事を営ず。義直公は石を伊豆相模に於いて取り、氏勝は総裁と
為し、大石を運び出し、その功を成す。
十年酉三月、初めて寄合触れ流頭と為す。
十九年午倒れるまで仕え、承応二年十一月二十日に亡くなりました。八十六歳でした。
氏勝の子供は、市正氏正と云う人ですが、この人も飛騨とかかわりがあります。
この人は、氏勝が大変立派な方であったがゆえに、幼年より義直公に仕え、義直公の外戚となりました。
そのためにしばしば処遇を責められました。大坂の役には供奉した時には十二歳でした。
後に父の家領を継ぎ、寄合となり、寛永11年大番頭。正保4年には御城代となりました。
明暦元年、病により辞職し寄合となりますが、寛文3年卯年6月21日、間宮大隅の私婚姻の締めに
譴(せ)めを蒙り、氏政の一族郎党は改易となりました。
改易となった時には、その子氏輝、半左衛門、半太夫のほか、弟権之助とその子氏重、弟氏紹とその子
氏長、弟秀氏とその子氏定なども同時に改易となりました。
一時的に、現在の下呂市金山町に隠居し、下原旅館の城主として金森氏によって庇護されました。
氏政は金山町では、山下道安という雅号で玉龍寺などを再興した人としても知られ、また茶道宗和流
の祖 金森宗和の娘婿であることでも知られています。
この資料を、白川郷の郷土史研究家上手先生にお渡ししたところ、「今までの謎が一気に解けた」と
喜んでおられましたし、金山の郷土史研究家の長瀬先生からは、「今まで山下道安がいつ飛騨に
来たのかわからずにいましたが、寛文3年6月21日であることがはっきりした。」と喜んでおられました。
さて本日の放送も時間となりました。
来週の放送は、今日お話しした山下氏勝について。今度は、「国府の廣瀬氏との関係について」続きの
お話をお届けします。
では、この曲でお別れです。曲の方は「西城秀樹 ブルースカイブルー」。それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
2012年01月13日
2012年01月12日
日枝雅楽会の新年会
全員が着物を着用し、洲岬さんに参集。初奏楽を行ったあとにゲームをして楽しみます。
老若男女、子供に帰ることができます。
このあと、座敷宴会へと移ります。
2012年01月12日
2012年01月11日
龍の彫刻3_秋祭りの屋台1
行神台の龍の彫金(龍を正面から見たところ)

行神台の龍の調金

金鳳台の欄間彫刻

神馬台の龍の中段高欄彫刻

鳳凰台の龍の彫金1

鳳凰台の龍の彫金2

結構屋台の彫金や彫刻に龍が使われていますね。
徳積善太
行神台の龍の調金
金鳳台の欄間彫刻
神馬台の龍の中段高欄彫刻
鳳凰台の龍の彫金1
鳳凰台の龍の彫金2
結構屋台の彫金や彫刻に龍が使われていますね。
徳積善太
2012年01月10日
小学生の書いたガイドブック
先日、ある市内のホテルで打ち合わせがあり、待っている間に、テーブルのところにおいてあった
手作りのガイドブックが目にとまりました。

見ると、西小学校の子供たちが、それぞれ自分たちの興味のあることを調べたガイドブックでした。
中身を見てびっくり。小学生が調べたにしては、ものすごく詳細にわたり調べられています。
私も、この番組をやっていて、知らないことも書き記してあり、大変勉強になりました。

ご近隣のお爺さんおばあさんに教えていただいたことを壁新聞調にまとめたものですが、
それはそれは、目を見張る内容です。
皆さんも一度、機会があったら、ごらんください。
徳積善太
手作りのガイドブックが目にとまりました。
見ると、西小学校の子供たちが、それぞれ自分たちの興味のあることを調べたガイドブックでした。
中身を見てびっくり。小学生が調べたにしては、ものすごく詳細にわたり調べられています。
私も、この番組をやっていて、知らないことも書き記してあり、大変勉強になりました。
ご近隣のお爺さんおばあさんに教えていただいたことを壁新聞調にまとめたものですが、
それはそれは、目を見張る内容です。
皆さんも一度、機会があったら、ごらんください。
徳積善太
2012年01月09日
白山広域文化研究会の設立準備
昨年末に発見された白川郷の中世の城について、いろいろと新発見の事実がでてきそうです。
そのため、白川郷地域の歴史研究者や、飛騨地域、越前、加賀を含めた広域の研究者を集めた
広域文化研究会を設立する動きになります。
昨日、名古屋の方と白川郷の方と、設立準備会の打ち合わせをしました。

詳細については、また準備ができ次第ご連絡いたします。
徳積善太
そのため、白川郷地域の歴史研究者や、飛騨地域、越前、加賀を含めた広域の研究者を集めた
広域文化研究会を設立する動きになります。
昨日、名古屋の方と白川郷の方と、設立準備会の打ち合わせをしました。
詳細については、また準備ができ次第ご連絡いたします。
徳積善太
2012年01月08日
松の内について
しらなかった。しめ縄は、7日までが普通につけておくものだと思ったら、関東と関西で違うんですね。
「関東関西で松明け(松の内)は違いますね。
ま~風習ってのは、法律で定めた物でもないし、宗教の教えの様に教祖が決めた様な縛りも無い、
起源は宗教絡みかもしれないが、地域地風土/文化に合わせ進化して行くるもので、
誰かが何かのキッカケに新しい風習を作り地区に広まるとか違っていて当たり前だと思ってます。
例)大阪と横浜じゃお盆も時期が違うし、関東の酉の市は関西には無いし、逆に関西の十日戎は関東には無い。
○大阪のお正月
松の内:元旦~1月15日(小正月)まで
七草粥:1月7日
鏡開き:1月20日(一部の商売関係者では1月11日もあり)
小豆粥:1月20日
○横浜のお正月
松の内:元旦~7日まで
七草粥:1月7日
鏡開き:1月11日
古い伝統では、
【松の内】大正月(元旦)~小正月(1月15日)
【左義長】(とんど焼き)1月15日
【鏡開き】1月20日
だったそうですが、
徳川三代将軍家光が1月20日に亡くなったので鏡開きを1月11日に変えたとか、
松の内が終わる前の11日に鏡開きするのも不自然なので松の内も7日に変えたとかで、
上の方が言われているように個人(家)の事情が最初のキッカケでしょう、
関東の風習も徳川将軍家の出来事がお膝元の江戸全般に広がったが、遠い地区には広がらなかった。
って事も言えます。
「関東関西で松明け(松の内)は違いますね。
ま~風習ってのは、法律で定めた物でもないし、宗教の教えの様に教祖が決めた様な縛りも無い、
起源は宗教絡みかもしれないが、地域地風土/文化に合わせ進化して行くるもので、
誰かが何かのキッカケに新しい風習を作り地区に広まるとか違っていて当たり前だと思ってます。
例)大阪と横浜じゃお盆も時期が違うし、関東の酉の市は関西には無いし、逆に関西の十日戎は関東には無い。
○大阪のお正月
松の内:元旦~1月15日(小正月)まで
七草粥:1月7日
鏡開き:1月20日(一部の商売関係者では1月11日もあり)
小豆粥:1月20日
○横浜のお正月
松の内:元旦~7日まで
七草粥:1月7日
鏡開き:1月11日
古い伝統では、
【松の内】大正月(元旦)~小正月(1月15日)
【左義長】(とんど焼き)1月15日
【鏡開き】1月20日
だったそうですが、
徳川三代将軍家光が1月20日に亡くなったので鏡開きを1月11日に変えたとか、
松の内が終わる前の11日に鏡開きするのも不自然なので松の内も7日に変えたとかで、
上の方が言われているように個人(家)の事情が最初のキッカケでしょう、
関東の風習も徳川将軍家の出来事がお膝元の江戸全般に広がったが、遠い地区には広がらなかった。
って事も言えます。
2012年01月07日
福王寺の鬼瓦
先日、小坂町の道の駅こけももに行きました。
夕方だったので、道路が凍結していましたが、ガソリンが少なかったので、不安になり引き返そうと
したところ、お寺の鬼瓦部分を発見。保管展示してありました。


福王寺は、飛騨に浄土真宗が入ってきた一番最初のお寺です。
嘉念坊善俊が、白川郷に入り、照蓮寺を作ったのが一番最初とされていますが、確たる証拠がなく、
一番証拠の残っているもので古いのは、福王寺なんです。
徳積善太
夕方だったので、道路が凍結していましたが、ガソリンが少なかったので、不安になり引き返そうと
したところ、お寺の鬼瓦部分を発見。保管展示してありました。
福王寺は、飛騨に浄土真宗が入ってきた一番最初のお寺です。
嘉念坊善俊が、白川郷に入り、照蓮寺を作ったのが一番最初とされていますが、確たる証拠がなく、
一番証拠の残っているもので古いのは、福王寺なんです。
徳積善太
2012年01月06日
1月6日放送分_名古屋城築城に関わった2人の飛騨人
(1月6日放送分 第227回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
皆様には改めまして明けましておめでとうございます。どうぞ本年もこの「飛騨の歴史再発見」を
よろしくお願いいたします。
今年のお正月はいかがでしたでしょうか。カレンダーの関係で、まだ正月休みという方もおられると
思います。今年は、元旦が日曜日ということもあり、年末からお休みを取りますと、9連休、10連休と
いう方もおられたのではないかと思います。
ただし、高山は観光産業が多いですから、例年のように、都会の方がお休みになる時は仕事で、
都会の方がお仕事に入るとやっと正月休みが取れるという方も多いように思います。
そういう方は、これからがお休みとなるのではと思いますから、どうぞゆっくりとお休みを取っていた
だきたいと思います。
休みが長いと、逆に観光業界というのは例年分散傾向になります。渋滞やお正月価格を避けてと
いう方もおられますから、正月三が日は家でゆっくり過ごし、三が日を過ぎて旅館やホテルが少し
安くなってから、ようやく動き出すという方もおられたのではと思います。
いずれにしても、高山近辺のホテル旅館の入り込みは、今年はほぼ順調にスタートした様ですが、
いつもですと2月に向かってお客様の減る傾向があります。
最近では、酒蔵巡りや飛騨の里・白川郷のライトアップなどで冬場のお客様も増えてきているよう
です。今年も順調に観光客の入込が推移してほしいと観光業者の一人としてお祈りしたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、12月に名古屋城に行ってまいりました。その時に調べてまいりましたお話をもとに
お話ししたいと思います。テーマは「名古屋城築城に関わった二人の飛騨人」というお話です。

慶長19年(1614)に徳川家康が、尾張・水戸・紀伊の御三家を作りました。名古屋には、名古屋城を
建造するために、20軒の外様大名に命じて、名古屋城の築城をさせました。
その時に建造を命じた武将には、黒田長政、鍋島勝茂、毛利高政、池田輝政、浅野幸長、加藤清正など、
皆さんご存じの名前が多いと思いますが、元々豊臣家温故の武将が多く、江戸幕府開府後、九州の方に
配流された武将がほとんどでした。
ところが、これらの武将に交じって、高山城二代城主金森可重も名古屋城の築城を命じられました。
実際に、名古屋城の築城については、其の知行する石高に応じた配分がなされていますが、当然、90
万石の肥後藩を領する加藤清正や、100万石の前田藩などは、担当する石垣や堀、建物など相当な
費用のかかる部分を担当しました。秀吉時代にも文永・文禄の役で、朝鮮征伐への出兵を行ったり、
九州の名護屋城の築城などを担当していましたが、関ヶ原の戦いの後は、表向きは豊臣政権に服従する
形を取っていましたが、実は徳川家の政策は、豊臣温故の武将の力をなくすことでした。
そのため、徳川に対して外様と言われる大名には、徳川家は執拗に城の普請や費用負担を強要
しました。そのため、金森可重も外様大名として城の普請に駆り出される結果となったわけです。
ところが、名古屋城学芸員の木村先生によりますと、
「どうやって名古屋城の築城普請に20の武将が選ばれたか定かではありません。しかし、石高に応じて
負担についてはち密な割り振りをされています。金森氏については、石高では大分の武将に次いで小さな
武将のために、何故選ばれたのかという事については、わかっておりません。」ということでした。
また、こんな逸話も有りました。
普請を担当された福島正則が「どうして徳川家では再三にわたりこのような城の普請を命じるのだろう」
と言ったところ、それを言われた、浅野幸長は何も答えなかったので、隣にいた加藤清正が「とにかく忠誠を
誓うかどうか試されているのだからやるしかあるまい。」と答えたといいます。
結局、本丸の建物の普請は清正が一人で請け負ったということですから、相当の覚悟で臨んだことでしょう。
また、前述の木村学芸員さんによれば
「結果的に、各武将は城造りの名人といわれる武将ばかりが集められたために、名古屋城の建造は広大な
土地だったのに、わずか8カ月ほどで普請が完成しています。石垣についてはわずか3カ月で建造されて
いますから、各武将が相当の技術者を持っていたといえるでしょう。」とのことでした。
確かに金森可重は、古川の増島城、高山の高山城の建造に関わっていましたから、当時の城の建造技術
では、相当の腕を持っていたことがうかがえます。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、「岡村孝子 夢をあきらめないで」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「名古屋城建造に関わった2人の飛騨人」についてお話ししています。
名古屋城の本丸の内部は、展示コーナーになっていますが、城の普請についての展示がありました。

その元資料は、蓬佐文庫という尾張徳川家に伝わる古文書や美術品などを保管している施設にあります。
可重が普請を行った場所は、名古屋城二ノ丸の北東角から南に5m程手前の石垣と、その場所から北側の
堀を掘るという普請でした。

可重本人が来たかどうかは分かりませんが、可重の家来でしょうか、稲元小左衛門という武将が担当して
建造の奉行をおこなっていました。
以前、金森長近の家来と金森可重の家来が高山城の普請などでもめたことがあり、関ヶ原の戦い後は、
長近が家康から論功行賞として美濃の上有知をもらってから、家臣団と一緒に美濃の方へ移りました。
その名簿の中に「稲元」という名字の人物があったかどうか覚えがありませんので、可重の家来では
ない方かもしれません。
また、名古屋城の普請には相当大きな石垣を加藤清正が持ってきたことが知られていますが、名古屋城
の石垣は、大きく分けて3つの石(花崗岩、センリョク花崗岩、砂岩)から成り立っているそうです。
その取得場所は、花崗岩が養老。センリョク花崗岩が養老。砂岩が小牧から持って来ているそうです。
内込めの石は、木曽川の中流域から船で持って来ていることが想定されており、今後どのような形で
どれくらいの人数で、こんなに早く普請が行われたか研究したいとのことでした。
当然、隣同士の奉行は協力したと思われ、石垣の積み方などは結構一定のルールで造られているとの
ことでした。
さて、今までは普請を行った金森可重のことを申上げてまいりましたが、実はその時に、もう一人、名古屋城
を建造するに当たり、徳川家康に進言した飛騨の人がいました。
それは白川郷の荻町城主 山下氏勝でした。
たまたま時間があったので、先ほど申し上げた蓬佐文庫に行き、過去の文献をひっくり返してみておりました。
今まで地元の史料では、この氏勝という人は内ヶ島氏の家来で、織田信長が佐々成正をして北陸の制圧に
遣わした時に、内ヶ島氏と縁戚であった山下氏勝に佐々との和睦のための人質として出されました。
その後、佐々の武将として後に秀吉と戦いますが、富山の伝説では、佐々成正と一緒に冬の北アルプスを
越えて、徳川家康に会いに行ったとされています。
これについては伝説の域を超えませんが、その後、徳川家康の側室 相応院の妹を娶り、名古屋初代城主の
徳川義春の後見人として採用されたことが知られていました。
その氏勝が、何故この義春の後見人たりえたのか。またどうして家康と縁戚関係を結ぶ事が出来たのか、
謎でした。今回、蓬佐文庫で見つけた山下家の由緒書きによって其の謎がはっきりしました。
それは簡単に申し上げると、文禄文永の役の時に、山下氏勝は家康の武将として功があった。
その折に、家康が氏勝の出自を訪ねると、氏勝は自分の出自や佐々の家来になったいきさつを詳しく家康に
話した。家康は、「お前ほどの人物なら、義直が今年3歳になる。後見人を引き受けてはくれないか。そのため
には、志水の娘(相応院の妹)と夫婦になる様に」ということで、家康が推薦して相応院の妹を娶る事になった
ようです。
その後、義直には武蔵国の忍城(川越城)が与えられ、家来として氏勝はそちらに移ります。
その後、忍城が大変湿度の高い場所であったために、相応院が家康に国替えを頼みます。
そこで、義直は甲州を賜ります。
その後、家康が後の徳川御三家(紀州家、尾張家、水戸家)を作る時に、義直を初代尾張藩主とします。
その城を当初は清洲に作ろうとしましたが、かつて清洲城に住んでいたことのある氏勝が、家康公に進言
します。
「あの地は、川があり水運が栄え、要害ではあるが、川があるために湿度が高い。是非とも新しい城造り
には、名古屋の地に移された方がよろしいと存じます」ということをいうわけです。
もともと、三河、尾張は地元であった家康は、城の適地を探し求め、かつて今川の居城であった、小牧・
名古屋・古渡に目を付け、小牧には小牧城を。名古屋には名古屋城を。古渡(現在の金山)には東別院を
建造することにしました。
その後、氏勝は徳川家康の武将として、秀忠・家光に仕え、86歳という高齢で亡くなったことがわかりました。
さて本日の放送も時間となりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
来週の放送は、今日お話しした「山下氏勝について」。続きのお話をお届けします。
では、この曲でお別れです。曲の方は、「松田聖子 真冬の恋人たち」。それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
(おわび。放送中、徳川義直のことを徳川義春として紹介しておりますが、義直の間違いでした。
謹んでお詫び申し上げます)
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
皆様には改めまして明けましておめでとうございます。どうぞ本年もこの「飛騨の歴史再発見」を
よろしくお願いいたします。
今年のお正月はいかがでしたでしょうか。カレンダーの関係で、まだ正月休みという方もおられると
思います。今年は、元旦が日曜日ということもあり、年末からお休みを取りますと、9連休、10連休と
いう方もおられたのではないかと思います。
ただし、高山は観光産業が多いですから、例年のように、都会の方がお休みになる時は仕事で、
都会の方がお仕事に入るとやっと正月休みが取れるという方も多いように思います。
そういう方は、これからがお休みとなるのではと思いますから、どうぞゆっくりとお休みを取っていた
だきたいと思います。
休みが長いと、逆に観光業界というのは例年分散傾向になります。渋滞やお正月価格を避けてと
いう方もおられますから、正月三が日は家でゆっくり過ごし、三が日を過ぎて旅館やホテルが少し
安くなってから、ようやく動き出すという方もおられたのではと思います。
いずれにしても、高山近辺のホテル旅館の入り込みは、今年はほぼ順調にスタートした様ですが、
いつもですと2月に向かってお客様の減る傾向があります。
最近では、酒蔵巡りや飛騨の里・白川郷のライトアップなどで冬場のお客様も増えてきているよう
です。今年も順調に観光客の入込が推移してほしいと観光業者の一人としてお祈りしたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、12月に名古屋城に行ってまいりました。その時に調べてまいりましたお話をもとに
お話ししたいと思います。テーマは「名古屋城築城に関わった二人の飛騨人」というお話です。
慶長19年(1614)に徳川家康が、尾張・水戸・紀伊の御三家を作りました。名古屋には、名古屋城を
建造するために、20軒の外様大名に命じて、名古屋城の築城をさせました。
その時に建造を命じた武将には、黒田長政、鍋島勝茂、毛利高政、池田輝政、浅野幸長、加藤清正など、
皆さんご存じの名前が多いと思いますが、元々豊臣家温故の武将が多く、江戸幕府開府後、九州の方に
配流された武将がほとんどでした。
ところが、これらの武将に交じって、高山城二代城主金森可重も名古屋城の築城を命じられました。
実際に、名古屋城の築城については、其の知行する石高に応じた配分がなされていますが、当然、90
万石の肥後藩を領する加藤清正や、100万石の前田藩などは、担当する石垣や堀、建物など相当な
費用のかかる部分を担当しました。秀吉時代にも文永・文禄の役で、朝鮮征伐への出兵を行ったり、
九州の名護屋城の築城などを担当していましたが、関ヶ原の戦いの後は、表向きは豊臣政権に服従する
形を取っていましたが、実は徳川家の政策は、豊臣温故の武将の力をなくすことでした。
そのため、徳川に対して外様と言われる大名には、徳川家は執拗に城の普請や費用負担を強要
しました。そのため、金森可重も外様大名として城の普請に駆り出される結果となったわけです。
ところが、名古屋城学芸員の木村先生によりますと、
「どうやって名古屋城の築城普請に20の武将が選ばれたか定かではありません。しかし、石高に応じて
負担についてはち密な割り振りをされています。金森氏については、石高では大分の武将に次いで小さな
武将のために、何故選ばれたのかという事については、わかっておりません。」ということでした。
また、こんな逸話も有りました。
普請を担当された福島正則が「どうして徳川家では再三にわたりこのような城の普請を命じるのだろう」
と言ったところ、それを言われた、浅野幸長は何も答えなかったので、隣にいた加藤清正が「とにかく忠誠を
誓うかどうか試されているのだからやるしかあるまい。」と答えたといいます。
結局、本丸の建物の普請は清正が一人で請け負ったということですから、相当の覚悟で臨んだことでしょう。
また、前述の木村学芸員さんによれば
「結果的に、各武将は城造りの名人といわれる武将ばかりが集められたために、名古屋城の建造は広大な
土地だったのに、わずか8カ月ほどで普請が完成しています。石垣についてはわずか3カ月で建造されて
いますから、各武将が相当の技術者を持っていたといえるでしょう。」とのことでした。
確かに金森可重は、古川の増島城、高山の高山城の建造に関わっていましたから、当時の城の建造技術
では、相当の腕を持っていたことがうかがえます。
さて、ちょっとここでブレイクしましょう。曲は、「岡村孝子 夢をあきらめないで」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、「名古屋城建造に関わった2人の飛騨人」についてお話ししています。
名古屋城の本丸の内部は、展示コーナーになっていますが、城の普請についての展示がありました。
その元資料は、蓬佐文庫という尾張徳川家に伝わる古文書や美術品などを保管している施設にあります。
可重が普請を行った場所は、名古屋城二ノ丸の北東角から南に5m程手前の石垣と、その場所から北側の
堀を掘るという普請でした。
可重本人が来たかどうかは分かりませんが、可重の家来でしょうか、稲元小左衛門という武将が担当して
建造の奉行をおこなっていました。
以前、金森長近の家来と金森可重の家来が高山城の普請などでもめたことがあり、関ヶ原の戦い後は、
長近が家康から論功行賞として美濃の上有知をもらってから、家臣団と一緒に美濃の方へ移りました。
その名簿の中に「稲元」という名字の人物があったかどうか覚えがありませんので、可重の家来では
ない方かもしれません。
また、名古屋城の普請には相当大きな石垣を加藤清正が持ってきたことが知られていますが、名古屋城
の石垣は、大きく分けて3つの石(花崗岩、センリョク花崗岩、砂岩)から成り立っているそうです。
その取得場所は、花崗岩が養老。センリョク花崗岩が養老。砂岩が小牧から持って来ているそうです。
内込めの石は、木曽川の中流域から船で持って来ていることが想定されており、今後どのような形で
どれくらいの人数で、こんなに早く普請が行われたか研究したいとのことでした。
当然、隣同士の奉行は協力したと思われ、石垣の積み方などは結構一定のルールで造られているとの
ことでした。
さて、今までは普請を行った金森可重のことを申上げてまいりましたが、実はその時に、もう一人、名古屋城
を建造するに当たり、徳川家康に進言した飛騨の人がいました。
それは白川郷の荻町城主 山下氏勝でした。
たまたま時間があったので、先ほど申し上げた蓬佐文庫に行き、過去の文献をひっくり返してみておりました。
今まで地元の史料では、この氏勝という人は内ヶ島氏の家来で、織田信長が佐々成正をして北陸の制圧に
遣わした時に、内ヶ島氏と縁戚であった山下氏勝に佐々との和睦のための人質として出されました。
その後、佐々の武将として後に秀吉と戦いますが、富山の伝説では、佐々成正と一緒に冬の北アルプスを
越えて、徳川家康に会いに行ったとされています。
これについては伝説の域を超えませんが、その後、徳川家康の側室 相応院の妹を娶り、名古屋初代城主の
徳川義春の後見人として採用されたことが知られていました。
その氏勝が、何故この義春の後見人たりえたのか。またどうして家康と縁戚関係を結ぶ事が出来たのか、
謎でした。今回、蓬佐文庫で見つけた山下家の由緒書きによって其の謎がはっきりしました。
それは簡単に申し上げると、文禄文永の役の時に、山下氏勝は家康の武将として功があった。
その折に、家康が氏勝の出自を訪ねると、氏勝は自分の出自や佐々の家来になったいきさつを詳しく家康に
話した。家康は、「お前ほどの人物なら、義直が今年3歳になる。後見人を引き受けてはくれないか。そのため
には、志水の娘(相応院の妹)と夫婦になる様に」ということで、家康が推薦して相応院の妹を娶る事になった
ようです。
その後、義直には武蔵国の忍城(川越城)が与えられ、家来として氏勝はそちらに移ります。
その後、忍城が大変湿度の高い場所であったために、相応院が家康に国替えを頼みます。
そこで、義直は甲州を賜ります。
その後、家康が後の徳川御三家(紀州家、尾張家、水戸家)を作る時に、義直を初代尾張藩主とします。
その城を当初は清洲に作ろうとしましたが、かつて清洲城に住んでいたことのある氏勝が、家康公に進言
します。
「あの地は、川があり水運が栄え、要害ではあるが、川があるために湿度が高い。是非とも新しい城造り
には、名古屋の地に移された方がよろしいと存じます」ということをいうわけです。
もともと、三河、尾張は地元であった家康は、城の適地を探し求め、かつて今川の居城であった、小牧・
名古屋・古渡に目を付け、小牧には小牧城を。名古屋には名古屋城を。古渡(現在の金山)には東別院を
建造することにしました。
その後、氏勝は徳川家康の武将として、秀忠・家光に仕え、86歳という高齢で亡くなったことがわかりました。
さて本日の放送も時間となりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
来週の放送は、今日お話しした「山下氏勝について」。続きのお話をお届けします。
では、この曲でお別れです。曲の方は、「松田聖子 真冬の恋人たち」。それでは、またお会いしましょう!
徳積善太
(おわび。放送中、徳川義直のことを徳川義春として紹介しておりますが、義直の間違いでした。
謹んでお詫び申し上げます)
2012年01月05日
下呂温泉の泉源
こうして泉源を守っています。
この塔が湯の島地区と対岸の幸田地区にありますが、湯質が若干違います。





