HOME › 飛騨の歴史再発見 › 8月19日放送分_万人講の話パート2

8月19日放送分_万人講の話パート2

(8月19日放送分 第209回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

さあ、お盆休みも終わりました。今年は曜日の関係や原発問題による節電の関係で、8月21日
までお休みの企業もある様ですが、お盆休みはいかがだったでしょうか。

都会に行っておられるお子さんやお孫さんが帰省されて大そうにぎやかにお過ごしになった
ご家庭もあれば、お亡くなりになったかたの初盆で、今年はひっそりとお過ごしになった
ご家庭もあることと思います。
このお盆に休みを取るというのは、そもそも仏教の関係で、亡くなった精霊がその時期に家の
仏壇に帰ってこられるという佛縁をいただき、亡くなった人の御霊をお慰みしたり、あるいは
親戚縁者が集まって供養をしたりと言う宗教的儀式に端を発したものだと思います。

また日本人の特性か、人が休んでいるときにしか休めないと云う、そういうお金もうけ主義に
乗じた風習なのか、お盆には都会の企業が一斉に休業となります。
そういうことが、日本の風習となって、8月のお盆にはお休みを取るところが多いんだと思います。

私も経験がありますが、その休みには、帰省したり、旅行に行ったりということをされますが、
帰省する場合には、どこもかしこも高速道路も鉄道も大渋滞・大混雑になりますから、
かえって疲れにいくようなものだと思ったことがあります。
しかし、最近は、フレキシブル勤務とか休みをまとめて別の日に取るといった傾向ができました
から、昔のようにお盆の数日がやたら混雑すると云う事がなくなって来たように思います。

また、お盆はオンシーズンと言う事で、どこの旅館やホテルも通常より割増料金を取られるところが
多かったため、一般の旅行より割高になると云うので、最近はそういったことが敬遠される傾向も
あるようです。
いずれにしても、高山は観光サービス産業が多いですから、稼ぎ時になります。
一年で一番忙しい時にそういう業者の方はおちおち休んではいられませんよね。仕事仕事で、
大変忙しかったことと思います。
そういう方にはどうぞ、これからゆっくりとお休みを取っていただきたいと思います。


さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先に予告しましたように、先週の話の続き、桐生町にある万人講の石碑の話し
パート2をお届けしたいと思います。
桐生町の万人橋の西詰の所には、現在も7つの石碑が存在します。
8月19日放送分_万人講の話パート2
先週の放送では、そのうち、南無妙法蓮華経と書いた水難供養碑。南無三是菩薩と書いた
大原騒動の義民を供養した石碑。延宝3年に建てられた高山の餓死者の供養碑。
そして、納経されたと思われる書写大乗妙典という石碑についてお話ししました。
今日は、そのお話の続きをしたいと思います。

まず、喚応是誰庵主墓という石碑について、お話します。
8月19日放送分_万人講の話パート2
この喚応是誰と言う人はそもそも高山の大工で、本名を打保屋源蔵といいました。
文化十二年(1815)に五十二歳のときに剃髪し喚応是誰と号した人です。
この人は、諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に書いてあります。
のちに文化十五年(1818)二月に高山に帰り、松倉山にこもり、文政三年(1820)に
絵馬市で有名な馬頭観音堂を修理し、峠よりの新道を建設しました。

後の文政十一年(1828)二月に一念発起し、桐生万人講に茶接待所を日下部家負担で
設けて、自らは其処に居住して旅行く人に法話を行い、その善導につとめたといわれます。
その方も、天保五年(1834)十一月二十日にお亡くなりになり、その方のお墓をこの万人講
に作られたと云う事です。


次に、お六地蔵のお話をします。
8月19日放送分_万人講の話パート2
これは、万人講の西側の所にある6つのお地蔵様のことですが、不思議なことに6体のお地蔵様
のことを六地蔵というのではなくて、お六さんと言う人を弔ったお地蔵様です。
どうして数も6つあるのかは定かではありませんが、6体のお地蔵さんがあります。

いまからおよそ300年前の正徳四年(1716)に高山下向町の座頭 清頓(せいとん)の娘おろくと
言う人が、一之町に住む大工久兵衛の家に放火したという罪で、桐生野に於て火あぶりに処せ
られました。
その火刑者おろくの供養のために、建てられたのが、この六地蔵尊であると伝えられています。
石碑には、寛政十一年(1799)造立と刻してあります。

 この石碑について、「ひだびと昭和15年4月号」には、おろくの火あぶりの刑と同じころに、
江戸で起こった有名な振袖火事に出てくる、お七の話を照らし合わせたお話が掲載されています。

今では男女雇用均等などで、男性と女性の地位と言う物が同じであるとされていますが、当時は
男尊女卑の世の中で、女性がつけ火をしたなどとなると社会的に大変な問題になったようです。
後半ではその辺を詳しくお話します。

さてちょっとここでブレイクしましょう。曲のほうは、風の盆の季節ですので、「石川さゆり 風の盆恋歌」
をお届けします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日の飛騨の歴史再発見は、「桐生町の万人講についてパート2」をお届けしています。

 さて、「ひだびと」の記事をご紹介します。かなり長いので要約してお話しますと、
「高山でも江戸の若い娘お七のような火罪が行われました。ちょうど八百屋お七が天和三年に18歳で
火刑に処せられてから、32年後の正徳四年冬のことでしたが、下向町の座頭清頓の娘おろくが一之町
の大工久兵衛と密通していたところ、何かの遺恨で久兵衛の宅へ放火して、吟味のうえ、桐生の仕置場
で火罪に処せられました。
江戸のお七の火刑が人心を衝動したのは、妙齢の放火犯人であったことと、徳川幕府始って以来、
このように若い女が極刑に処せられた例がないので、江戸で評判になり、全国津々浦々にまで広がり
ました。

世間の同情から、お七が世にも稀なる美少女であり純情無垢の少女ように幻想されますが、実は
「ふとり肉で少し疱瘡のあとがあり色は白いがよい女ではなかった」のに対し、高山のおろくは年は
21歳でしたが背延のした相当の美人であったようです。
その頃の、火刑は、市中引き回しのあと、火あぶりにされるとても重いものでした。

罪人は、罪状が書かれた札を先頭にして、菰をかけた馬ノ背に後手に縛ったままのせられ、市中で
見せしめにされました。身分によっては、立派な着物を着ることもできたそうですが、下着はお仕着せ
の浅黄木綿と決まっていました。

「紙魚のやとり」によると、おろく引回しのコースは、放火の場所と当人の住んでいた町ならびに目ぬき
の場所を通ったため、海老坂横の牢屋から久兵衛宅の一之町を桜橋まで下り、筋違橋から二之町へ
出て、安川より三之町を抜け、これから角定横町より片原町を下り、かじ橋を越え、自宅の下向町を
下り、桐生町の御仕置場で処刑されたようです。
まるで高山祭の行列のような進路を通り、市中の住民に見せしめにしたようです。
これは、わざと厳しく行う事で、次の犯罪を防止するという抑止効果を役人が目論んだからです。

一般に火刑の場面は綺麗な衣装を着たお七が釣り下げられ火焔に包まれている悲惨な姿を想像
しますが、実際は、お七もおろくも、かまど作りと言う同じ方法で処刑されたようです。
磔と言うと、まるでキリストが十字架にかけられた姿を思いがちですが、ちょっと違います。

丸竹の矢来で囲まれた刑場で、中央の部分に五寸角の栂の木で長さ二間(3.6m)の木を、15cm
ほど土中に埋めて立てます。そこに、青竹を二つ割りにして、その木の周りに立てます。
そして、2mほどの輪竹を半円形に曲げて釣りさげるように囚人の腰をひっかけて、元の木に縛り
付けられました。

つまり、丁度下で火を焚くと囲炉裏にぶら下げられたやかんのような状態になるのでこのような名前
になりました。

下の薪は囚人の足の高さまで積み上げられ、準備が整うと検番が点火を命じます。
云いつけられた者は「茅三把を一緒に持ち、風上から火を付け鑓で煽りかける。」と言った具合で、
一気に刺し殺す事はしませんでした。

「ひだびと」には、その無くなる瞬間や刑のことが、克明に記されています。
ちょっとラジオでは放送できないような内容ですので省略しますが、「執行の際おろくが炎に苦しみ
泣き叫ぶ声は数町に及び、気の弱い娘などは気の遠くなるものもあったという」ように、それは
むごい殺され方でした。
また、「相手の久兵衛も重追放となり、小豆沢口より国外へ送り出された。」ということです。


さて、話は変わりますが、悪女の墓と言われる墓が万人講にあります。
8月19日放送分_万人講の話パート2
この石碑には、「法名釈尼悪照墓」という記載がある六地蔵尊の下にある小さな墓で、延享二年
十月十三日の年月日が読めます。
御役所管理の刑場内に建てた墓であるから、何か由来がありそうと思われますが、一切内容が
わからないそうです。


最後に、徳本上人念仏供養碑ですが先々週の放送でお話ししたように、現在、徳本上人の碑は
八軒町の善光寺の前にありますが、かつては、万人講にありました。
8月19日放送分_万人講の話パート2

この石碑は、徳本上人の徳によって、万人講に埋められた人の霊を慰めようと、大雄寺が桐生万人講
の仕置場(死刑場)へも上人染筆の名号石塔を建てる計画を立て、郡代御役所へ願い出ていたところ、
幕府勘定奉行所からの指示で、文政2年正月に願書が却下されました。

その理由は、浄土宗は将軍家の宗門、お仕置場に南無阿弥陀仏の名号石塔は遠慮するがよいという
だけでした。

勘定奉行所ではいろいろ学者に検討させましたが、べつに制禁された前例はありません。
京都御仕置場の日の岡に六字名号の石塔がありますが、関東では鈴ヶ森や小塚原にもない。
ここで新例を作ることは旧例を破ることになりますから権力の土台骨をゆすぶることになるわけです。
町人百姓の新興勢力に対しての恐怖心が幕府官僚に潜在していたのでした。

文政4年2月、大雄寺では改めて出願し、万人講御仕置場の外ならばというので名号石塔が建てられた。
ということです。その石碑も道路の拡張などで明治時代に現在地に移されたようです。

さて本日も時間となりました。
来週の放送は、第四週ですので、屋台の話。次回は、下二之町の八幡祭りの屋台「鳩峰車と神馬台」
についてお話します。どうぞお楽しみに。
今日はこの曲でお別れです。曲は「坂本冬実で 恋は火の舞剣の舞」 ではまた来週お会いしましょう!


徳積善太
スポンサーリンク

同じカテゴリー(飛騨の歴史再発見)の記事画像
中橋の歴史と江戸時代の色について260215放送分
平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について
平成25年6月28日_大津絵について
平成25年6月22日放送分_北飛騨の浄土真宗について
250614白川郷の浄土真宗調査について
250607赤田家について
同じカテゴリー(飛騨の歴史再発見)の記事
 中橋の歴史と江戸時代の色について260215放送分 (2014-04-08 00:54)
 平成25年7月5日放送分_大津祭りは高山祭のルーツ?について (2013-07-06 11:00)
 平成25年6月28日_大津絵について (2013-06-28 23:59)
 平成25年6月22日放送分_北飛騨の浄土真宗について (2013-06-22 23:59)
 250614白川郷の浄土真宗調査について (2013-06-14 23:59)
 250607赤田家について (2013-06-08 14:34)

コメントする

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。