(7月15日放送分 第205回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。
先日、町並み保存会連合会総会という会議があり、私も上一之町上の代表として参加してまいり
ました。高山には現在20の町並保存会が有り、その各代表3名づつの方と、役員の皆様、そして
高山市長、副議長をはじめ職員の皆さんと総勢70名くらいの会議でした。
毎年、この会が横の交流や情報交換、そして研修活動を行って、全国他地域の町並保存活動を
研究すると言った団体です。私は今までこういった団体で高山の町並保存をしているということを
知りませんでした。そういった先人の人たちの努力が、今日の高山の町を支えてきたんですね。
7月8日付けの高山市民時報に、この町並保存に関する2つの記事が出ていました。
1つは、鶏闘楽に、かつての松竹映画「遠い雲」のお話し。昭和32年ごろの高山の町を背景にロケが
行われたことや、高山市民が今まで気がつかなかった町の美しさを今後も維持し続けていこうと云う
内容。
そして、もう一つは投稿で、変わりゆく古い町並みの風景に危機感を持とうという内容でした。
それぞれの内容について、ここでは省略しますが、今まで維持してきた町並を今後も真剣に対処して
いくべきという記事でした。
時代がどんどん移り変わってきて、高山の町並を見に来て下さる観光客は後を絶ちませんが、最近、
古い町並みは「商店街だ」という方さえおられます。連合会総会の席上、今まで東日本大震災のような
破壊という事がなかったことで、この町で生活させていただけることに感謝したいと云うお話も有りました
が、先人が残して下さったこの町並という物を、今一度見直すことが必要なのではないでしょうか。
どういう町並がこの町に必要なのか。
商業の衰退、新しい商売の侵攻というもので、だんだん町の姿という物が変ってきています。
少子高齢化時代で、お年寄りの町になり、だんだん住まなくなった住宅が壊され、あるいは商売が出来
なくなって駐車場に変ったり、商売をする人が目立つために看板を作ったり、店舗を現代風に改装したり、
二世帯住宅を造るために土蔵が壊されたりなどなど。
この町が今後も維持されていくためにも、どういうことが必要なのか、私も改めて考えていきたいと思います。
さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告を致しましたように「長浜に逃げていった?廣瀬氏」というお話をしたいと思います。
先月の中ごろに、ちょっと滋賀県の長浜まで調べものに行ってまいりました。
目的は、長浜市にある長浜城歴史資料館に、室町時代に秀吉に弾劾されて逃げ回った浄土真宗の教祖
教如上人のことを調べに行ったのです。
歴史資料館では、もう終わってしまいましたが、親鸞聖人750回忌に合わせて、教如上人特別展が開かれて
いました。それを拝見し、学芸員の太田先生とお会いするために行ってまいりました。
ところが、私も気付かなかったのですが、長浜市はたくさんの観光客で賑わっていました。
それもそのはず、現在、NHKの大河ドラマ「江」をやっておりますが、その舞台となった浅井三姉妹のふるさと
が、この長浜だったんです。
歴史資料館も、その他周辺地域の資料館も「江」一色で、どこへ行っても
「浅井長政はどういう人物だったか」
「浅井という家はどうやって台頭してきた家であったか」
「浅井三姉妹はどのような人生を送ったか」
などの展示があちこちで行われていました。
また、NHKの大河ドラマで使われていた着物やセットを展示する「江の館」も作られていて、それはそれは
たくさんの観光客の皆さんが来られていました。
こちらのイベントは、今年の12月まで行われているそうですので、もしお時間がございましたら、お出かけ
してみてはいかがでしょうか。
さて、私の方は、調査しに行きましたので、そういった大変混雑している観光スポットはなるべく避けて、
教如上人の遺された史料ですとか古文書をゆっくりと拝見してきました。
浅井家の展示コーナーのほうは大変にぎわっているのに、教如上人の方は、ガラガラでしたので、ゆっくりと
拝見することが出来ました。
学芸員の太田先生にもお会いしましたが、先生も「江」に関して、全国を飛び回って講演をされている方でした
ので、来客が絶えず、面会していただく時間がなかなかとれず、逆に展示物の方をじっくりと拝見してきました。
その展示物の中で、大変驚いた内容の物を見つけました。
秀吉が広瀬兵庫に対して、500石の知行地を与えると云う宛行状(あてがいじょう)です。
それについては後半で詳しくお話ししたいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。懐かしい曲「キングトーンズで グッドナイトベイビー」
をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「長浜に逃げていった廣瀬氏」についてお話しています。
さて、私は昨年「姉小路と廣瀬」に関する一連のイベントを行ってまいりましたが、その時に廣瀬氏一族の
ことを調べてきました。
ちょっと振り返ってみますが、廣瀬氏一族というのは、現在でも国府町に廣瀬町とか上広瀬という地名が
残っていますが、国府町一帯を治めていた豪族です。
この番組でもお知らせしてまいりましたが、現在の国府のアピタという商業施設の裏山の所には、広瀬城
というお城が有り、そこに居住していました。
応永18年(1411)応永飛騨の乱以後、飛騨の守護として君臨した京極氏の士官として南飛騨に居留
していた三木氏が、その勢力を次第に拡大して、南飛騨の方からどんどん北飛騨へも進出してきました。
三木氏は長い時間かかって、朝日町のあたりに君臨していた東氏(ひがしし、とうし)。
三枝小学校あたりにいた三枝(さいぐさ)氏。
三福寺あたりにあった三仏寺城。
現在の高山の城山の旧名多賀山にいた高山氏などをその配下におさめて、どんどん飛騨北部に進出して
きました。
その後、現在の古川盆地を責めるときに三木氏は国府町あたりにいた廣瀬氏と手を結び、最終的には、
神岡あたりにいた江馬氏を亡ぼして、天正11年(1583)に飛騨全土を平定します。
そのあと、協力していた廣瀬氏も最終的には亡ぼしてしまい、廣瀬氏は城を追われることになりました。
このときに、三木氏と対峙したのが、三木山城守宗域という人で、彼はこの城で亡くなったとされています。
以上が、国府にいた廣瀬氏の大まかな説明ですが、この廣瀬山城守宗域という人の子供に、廣瀬兵庫守
宗直という人がありました。今回、私が長浜歴史資料館で見た廣瀬兵庫というひとはおそらくその方に当ります。
その史料を見たがために、早速太田先生にその文書の事についてお尋ねしましたところ、いろんなことが
わかりました。
高山の史料では、廣瀬宗直は、天正11年に三木氏に攻められ、広瀬城を抜け出し、天正13年に金森軍に
従い、広瀬城攻撃に便宜を図った事になっています。その後、一揆をおこし、敗れて滋賀県の彦根にいた
井伊家に仕官したことになっています。
ところが、長浜の史料によると、
「廣瀬兵庫は、岐阜の廣瀬村の出身で、天正10年に本能寺の戦いで明智光秀が乱を起こした際、長浜城に
いた羽柴秀吉の女房たちを岐阜へ避難させた。その功績として伊吹町甲津原、浅井町高山、木之本町杉野の
地500石をあてがわれています。そして、廣瀬兵庫居留の地として、現在の長浜市室町(むろちょう)にある
日枝神社の西隣にある室町の自治公園になっている場所を廣瀬兵庫の屋敷地という伝説が残っています。
また、同族の者に廣瀬加兵衛という秀吉の馬廻り衆があり、文禄元年に肥前名護屋城にて活躍した。」
ということでした。
その資料をいただき、早速室町に行ってみました。
室町は、長浜の中心市街地から車で5分ほどの所にある閑静な住宅街で、そこには、佛厳寺と昌徳寺という
2つの浄土真宗大谷派の寺院が有りました。廣瀬氏がそのあたりを治めた豪族で有れば、寺院と関係が有る
と思い、佛厳寺様にお邪魔して色々とお話を伺いました
が、かつてそういった屋敷地があったということは
聞いているが、その辺りに廣瀬という名前の家は一軒しか無く、しかもその家は最近引っ越してこられたと
云う事。
江戸時代に室町と言うあたりは、長浜縮の一大集積地で、近江商人の拠点が有ったことで知られ、その
お金持ちの家が檀家であったと云う事。
そして、近隣の昌徳寺というお寺は、その近江商人が喧嘩をして佛厳寺から別れて江戸時代に作られた寺院
だというお話を窺う事が出来ました。
日枝神社の隣には現在も、この地区の公園が広がっていて、結構広い、田んぼで一反位の広さですが、かつて
ここに廣瀬氏が住んでいたとされる場所がありました。
さて、高山の資料の廣瀬兵庫守ですが、長浜の資料では廣瀬兵庫介ということになっております。
年代も双方に若干のずれが有り、年代などを特定する詳細な史料はこの領地あてがい状しかありませんが、
当時同じような官位を付けることは考えられませんので、同一人物の可能性が有ります。
廣瀬宗直が一時期、岐阜の山奥に逃げ込み、そこに廣瀬村を作って滞在し、長浜に来たことは十分に考えられ
ますので、さらなる調査をすれば何か分かってくるかもわかりません。
さて、本日も時間となりました。
来週はシリーズでお届けしております「高山祭の屋台」について。
来週は、「大八台」と「文政台」「牛若台」についてお届けしたいと思います。
本日はこの曲でお別れです。リクエストがありましたので洋楽をお届けします。
曲は「エルビスプレスリーで 監獄ロック」をお届けします。また来週、お会いしましょう!
徳積善太
2011年7月15日の歴史再発見のコーナーでは、「広瀬兵庫助」を話題にして頂きまして有難うございました。
【「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物】について、ご連絡いたします。
「広瀬兵庫助」末裔に伝わる広瀬家史料に基づいて調査の結果、広瀬兵庫助は、「1558年生まれ~1624年3月15日、66歳亡」です。美濃国(岐阜県) 広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男として生まれ、親の命名による本名は広瀬康親です。
広瀬家史料によれば、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物として扱われ明確に記されています。兵庫頭(ひょうごのかみ)は、城主としての職名であります。
主たる通称名の「広瀬兵庫助」は、城主として「近江国(滋賀県)新庄城主・美濃国(岐阜県)広瀬城主 広瀬兵庫頭宗直」と記されています。
関ヶ原の戦いで敗れた広瀬兵庫助は、自らの意思で関ヶ原の戦いで戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせて、仏門に入り住職・西了となりました。
「広瀬兵庫助」に関する文献では、「東浅井郡志」(旧・滋賀県東浅井郡教育会:発行)には、「治乱記などの様々な説に従って判断しても(兵庫助と兵庫頭宗直についての活躍した)年代が一致することは、(通称名までもが「兵庫」と一致しており)どうすることも出来ない事実です」と書かれています。
各種の文献の記録や、日坂古文書にあるように「広瀬兵庫」を(若年時の)通称名として名乗っていることから、「広瀬兵庫頭宗直」は「広瀬兵庫助」と同じ人物であると判断しています。兵庫助直系の代々の子孫には真実を正確に伝えている証であります。
正確に事跡を把握していないと思われる「広瀬兵庫頭宗直」に関する史料の多くには、生年・没年不明、○○○の戦いで敗れて行方不明などとの推定による記事(推定伝説)がみうけられます。残念な限りでありますが、主たる通称名の「広瀬兵庫助」の史料が多いことが主因で、別人扱いにされていることと推定しています。
兵庫助の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与えられました。
ご参考までに、1390年11月、兵庫助の先祖で広瀬康述の子孫・宗勝は美濃国小島合戦の功績で当時の将軍・足利義満から感状を拝受し、美濃国の広瀬一族は飛騨国(岐阜県)広瀬郷に分家ができました。
詳細は、ブログ:広瀬兵庫助 http://blog.ko-blog.jp/hyogonosukehiro/
を、ご覧頂きたいと思います。
ご参考になれば幸いです。