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7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について

(7月15日放送分 第205回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

先日、町並み保存会連合会総会という会議があり、私も上一之町上の代表として参加してまいり
ました。高山には現在20の町並保存会が有り、その各代表3名づつの方と、役員の皆様、そして
高山市長、副議長をはじめ職員の皆さんと総勢70名くらいの会議でした。
7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について
毎年、この会が横の交流や情報交換、そして研修活動を行って、全国他地域の町並保存活動を
研究すると言った団体です。私は今までこういった団体で高山の町並保存をしているということを
知りませんでした。そういった先人の人たちの努力が、今日の高山の町を支えてきたんですね。

7月8日付けの高山市民時報に、この町並保存に関する2つの記事が出ていました。

1つは、鶏闘楽に、かつての松竹映画「遠い雲」のお話し。昭和32年ごろの高山の町を背景にロケが
行われたことや、高山市民が今まで気がつかなかった町の美しさを今後も維持し続けていこうと云う
内容。

そして、もう一つは投稿で、変わりゆく古い町並みの風景に危機感を持とうという内容でした。

それぞれの内容について、ここでは省略しますが、今まで維持してきた町並を今後も真剣に対処して
いくべきという記事でした。

時代がどんどん移り変わってきて、高山の町並を見に来て下さる観光客は後を絶ちませんが、最近、
古い町並みは「商店街だ」という方さえおられます。連合会総会の席上、今まで東日本大震災のような
破壊という事がなかったことで、この町で生活させていただけることに感謝したいと云うお話も有りました
が、先人が残して下さったこの町並という物を、今一度見直すことが必要なのではないでしょうか。

どういう町並がこの町に必要なのか。

商業の衰退、新しい商売の侵攻というもので、だんだん町の姿という物が変ってきています。
少子高齢化時代で、お年寄りの町になり、だんだん住まなくなった住宅が壊され、あるいは商売が出来
なくなって駐車場に変ったり、商売をする人が目立つために看板を作ったり、店舗を現代風に改装したり、
二世帯住宅を造るために土蔵が壊されたりなどなど。

この町が今後も維持されていくためにも、どういうことが必要なのか、私も改めて考えていきたいと思います。


さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告を致しましたように「長浜に逃げていった?廣瀬氏」というお話をしたいと思います。

先月の中ごろに、ちょっと滋賀県の長浜まで調べものに行ってまいりました。
目的は、長浜市にある長浜城歴史資料館に、室町時代に秀吉に弾劾されて逃げ回った浄土真宗の教祖 
教如上人のことを調べに行ったのです。
歴史資料館では、もう終わってしまいましたが、親鸞聖人750回忌に合わせて、教如上人特別展が開かれて
いました。それを拝見し、学芸員の太田先生とお会いするために行ってまいりました。

ところが、私も気付かなかったのですが、長浜市はたくさんの観光客で賑わっていました。
それもそのはず、現在、NHKの大河ドラマ「江」をやっておりますが、その舞台となった浅井三姉妹のふるさと
が、この長浜だったんです。
歴史資料館も、その他周辺地域の資料館も「江」一色で、どこへ行っても
「浅井長政はどういう人物だったか」
「浅井という家はどうやって台頭してきた家であったか」
「浅井三姉妹はどのような人生を送ったか」
などの展示があちこちで行われていました。

また、NHKの大河ドラマで使われていた着物やセットを展示する「江の館」も作られていて、それはそれは
たくさんの観光客の皆さんが来られていました。
こちらのイベントは、今年の12月まで行われているそうですので、もしお時間がございましたら、お出かけ
してみてはいかがでしょうか。

さて、私の方は、調査しに行きましたので、そういった大変混雑している観光スポットはなるべく避けて、
教如上人の遺された史料ですとか古文書をゆっくりと拝見してきました。
浅井家の展示コーナーのほうは大変にぎわっているのに、教如上人の方は、ガラガラでしたので、ゆっくりと
拝見することが出来ました。
学芸員の太田先生にもお会いしましたが、先生も「江」に関して、全国を飛び回って講演をされている方でした
ので、来客が絶えず、面会していただく時間がなかなかとれず、逆に展示物の方をじっくりと拝見してきました。

その展示物の中で、大変驚いた内容の物を見つけました。
秀吉が広瀬兵庫に対して、500石の知行地を与えると云う宛行状(あてがいじょう)です。
7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について


それについては後半で詳しくお話ししたいと思います。

ちょっとここでブレイクしましょう。 曲の方は。懐かしい曲「キングトーンズで グッドナイトベイビー」
をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「長浜に逃げていった廣瀬氏」についてお話しています。

さて、私は昨年「姉小路と廣瀬」に関する一連のイベントを行ってまいりましたが、その時に廣瀬氏一族の
ことを調べてきました。
ちょっと振り返ってみますが、廣瀬氏一族というのは、現在でも国府町に廣瀬町とか上広瀬という地名が
残っていますが、国府町一帯を治めていた豪族です。
この番組でもお知らせしてまいりましたが、現在の国府のアピタという商業施設の裏山の所には、広瀬城
というお城が有り、そこに居住していました。

 応永18年(1411)応永飛騨の乱以後、飛騨の守護として君臨した京極氏の士官として南飛騨に居留
していた三木氏が、その勢力を次第に拡大して、南飛騨の方からどんどん北飛騨へも進出してきました。

三木氏は長い時間かかって、朝日町のあたりに君臨していた東氏(ひがしし、とうし)。
三枝小学校あたりにいた三枝(さいぐさ)氏。
三福寺あたりにあった三仏寺城。
現在の高山の城山の旧名多賀山にいた高山氏などをその配下におさめて、どんどん飛騨北部に進出して
きました。

その後、現在の古川盆地を責めるときに三木氏は国府町あたりにいた廣瀬氏と手を結び、最終的には、
神岡あたりにいた江馬氏を亡ぼして、天正11年(1583)に飛騨全土を平定します。

そのあと、協力していた廣瀬氏も最終的には亡ぼしてしまい、廣瀬氏は城を追われることになりました。

このときに、三木氏と対峙したのが、三木山城守宗域という人で、彼はこの城で亡くなったとされています。

以上が、国府にいた廣瀬氏の大まかな説明ですが、この廣瀬山城守宗域という人の子供に、廣瀬兵庫守
宗直という人がありました。今回、私が長浜歴史資料館で見た廣瀬兵庫というひとはおそらくその方に当ります。

 その史料を見たがために、早速太田先生にその文書の事についてお尋ねしましたところ、いろんなことが
わかりました。
高山の史料では、廣瀬宗直は、天正11年に三木氏に攻められ、広瀬城を抜け出し、天正13年に金森軍に
従い、広瀬城攻撃に便宜を図った事になっています。その後、一揆をおこし、敗れて滋賀県の彦根にいた
井伊家に仕官したことになっています。

 ところが、長浜の史料によると、
「廣瀬兵庫は、岐阜の廣瀬村の出身で、天正10年に本能寺の戦いで明智光秀が乱を起こした際、長浜城に
いた羽柴秀吉の女房たちを岐阜へ避難させた。その功績として伊吹町甲津原、浅井町高山、木之本町杉野の
地500石をあてがわれています。そして、廣瀬兵庫居留の地として、現在の長浜市室町(むろちょう)にある
日枝神社の西隣にある室町の自治公園になっている場所を廣瀬兵庫の屋敷地という伝説が残っています。

また、同族の者に廣瀬加兵衛という秀吉の馬廻り衆があり、文禄元年に肥前名護屋城にて活躍した。」
ということでした。

 その資料をいただき、早速室町に行ってみました。
7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について

室町は、長浜の中心市街地から車で5分ほどの所にある閑静な住宅街で、そこには、佛厳寺と昌徳寺という
2つの浄土真宗大谷派の寺院が有りました。廣瀬氏がそのあたりを治めた豪族で有れば、寺院と関係が有る
と思い、佛厳寺様にお邪魔して色々とお話を伺いました

7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について

が、かつてそういった屋敷地があったということは
聞いているが、その辺りに廣瀬という名前の家は一軒しか無く、しかもその家は最近引っ越してこられたと
云う事。

江戸時代に室町と言うあたりは、長浜縮の一大集積地で、近江商人の拠点が有ったことで知られ、その
お金持ちの家が檀家であったと云う事。

そして、近隣の昌徳寺というお寺は、その近江商人が喧嘩をして佛厳寺から別れて江戸時代に作られた寺院
だというお話を窺う事が出来ました。

 日枝神社の隣には現在も、この地区の公園が広がっていて、結構広い、田んぼで一反位の広さですが、かつて
ここに廣瀬氏が住んでいたとされる場所がありました。
7月15日放送分_長浜に逃げていった?廣瀬氏について
 さて、高山の資料の廣瀬兵庫守ですが、長浜の資料では廣瀬兵庫介ということになっております。
年代も双方に若干のずれが有り、年代などを特定する詳細な史料はこの領地あてがい状しかありませんが、
当時同じような官位を付けることは考えられませんので、同一人物の可能性が有ります。

廣瀬宗直が一時期、岐阜の山奥に逃げ込み、そこに廣瀬村を作って滞在し、長浜に来たことは十分に考えられ
ますので、さらなる調査をすれば何か分かってくるかもわかりません。

さて、本日も時間となりました。
来週はシリーズでお届けしております「高山祭の屋台」について。
来週は、「大八台」と「文政台」「牛若台」についてお届けしたいと思います。

本日はこの曲でお別れです。リクエストがありましたので洋楽をお届けします。
曲は「エルビスプレスリーで 監獄ロック」をお届けします。また来週、お会いしましょう!

徳積善太
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この記事へのコメント

広瀬兵庫助 さんのコメント

 初めまして。広瀬兵庫助・末裔(12代目)です。よろしくお願いいたします。

 2011年7月15日の歴史再発見のコーナーでは、「広瀬兵庫助」を話題にして頂きまして有難うございました。

 【「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物】について、ご連絡いたします。
 「広瀬兵庫助」末裔に伝わる広瀬家史料に基づいて調査の結果、広瀬兵庫助は、「1558年生まれ~1624年3月15日、66歳亡」です。美濃国(岐阜県) 広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男として生まれ、親の命名による本名は広瀬康親です。

 広瀬家史料によれば、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物として扱われ明確に記されています。兵庫頭(ひょうごのかみ)は、城主としての職名であります。

 主たる通称名の「広瀬兵庫助」は、城主として「近江国(滋賀県)新庄城主・美濃国(岐阜県)広瀬城主 広瀬兵庫頭宗直」と記されています。

 関ヶ原の戦いで敗れた広瀬兵庫助は、自らの意思で関ヶ原の戦いで戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせて、仏門に入り住職・西了となりました。

 「広瀬兵庫助」に関する文献では、「東浅井郡志」(旧・滋賀県東浅井郡教育会:発行)には、「治乱記などの様々な説に従って判断しても(兵庫助と兵庫頭宗直についての活躍した)年代が一致することは、(通称名までもが「兵庫」と一致しており)どうすることも出来ない事実です」と書かれています。

 各種の文献の記録や、日坂古文書にあるように「広瀬兵庫」を(若年時の)通称名として名乗っていることから、「広瀬兵庫頭宗直」は「広瀬兵庫助」と同じ人物であると判断しています。兵庫助直系の代々の子孫には真実を正確に伝えている証であります。

 正確に事跡を把握していないと思われる「広瀬兵庫頭宗直」に関する史料の多くには、生年・没年不明、○○○の戦いで敗れて行方不明などとの推定による記事(推定伝説)がみうけられます。残念な限りでありますが、主たる通称名の「広瀬兵庫助」の史料が多いことが主因で、別人扱いにされていることと推定しています。

 兵庫助の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与えられました。

 ご参考までに、1390年11月、兵庫助の先祖で広瀬康述の子孫・宗勝は美濃国小島合戦の功績で当時の将軍・足利義満から感状を拝受し、美濃国の広瀬一族は飛騨国(岐阜県)広瀬郷に分家ができました。

 詳細は、ブログ:広瀬兵庫助  http://blog.ko-blog.jp/hyogonosukehiro/
を、ご覧頂きたいと思います。

 ご参考になれば幸いです。
Posted on 2014年03月20日 15:51

私も廣瀬 さんのコメント

「廣瀬宗直が一時期、岐阜の山奥に逃げ込み、そこに廣瀬村を作って滞在し、長浜に来たことは十分に考えられ...」とありますが、岐阜県春日村美束に廣瀬の姓があります。私の出身地です。地元で廣瀬城(千疋城)と呼ばれる山城もあります。国見岳をこえて滋賀県長浜に越える道があり、昔はよく往来があったと祖母から聞きます。何か関係があれば....と期待して書かせていただきました。
Posted on 2015年05月29日 20:51

rekisyrekisy さんのコメント

私も廣瀬さま

コメントありがとうございます。
そうです、その春日村周辺の廣瀬氏のことです。
裏付けや検証についてが不十分ですが、高山市国分町の郷土史家の先生によりますと、春日村の廣瀬氏は国分町の廣瀬氏と関係があるとのお話でした。どちらも利仁将軍の末裔とのお話ですが、史料に乏しく、検証ができていません。
Posted on 2015年05月29日 21:19

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

【広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまで】

1. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(広瀬家の分家となる飛騨国広瀬家の出身という記録は、広瀬家史料には全く存在しません。改めて記事にいたしまして、その旨ご報告いたします)

(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。

⑶広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。これは、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。

2.広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
⑴1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。これも、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。

⑵明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。

(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。

(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。

(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、秀吉の家臣となったのです。当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。
Posted on 2015年10月28日 18:46

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

【広瀬兵庫助のプロフィール】
1.生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県)広瀬郷 第17代広瀬城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しました。清和源氏の末裔と伝えられています。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と時代の統治者から登用等の諸事情で名を変えています。
(3) 1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、信長家臣・稲葉一鉄に攻められ城主・康則は討死し落城し領地を明け渡しました。その後の数年間は一家離散状態となりました。
(4)これまでの調査で、広瀬兵庫助には①長男・太郎②次男・浄念③三男・善可の3人の兄弟がいました。太郎には子孫がいなかった。
 広瀬兵庫助の次男・浄念と三男・善可の子孫は、それぞれ真宗大谷派(東本願寺)の寺院住職を継承しました。

2.「広瀬兵庫助」の主な活躍について
(1) 1574年、兵庫助は羽柴秀吉の長浜城築城に協力しています。
 さらに、1582年の「本能寺の変」直後に秀吉の家族の避難警護に尽力し家臣となりました。(500石の知行)
(2) 1583年に戦功で1500石の知行となり、美濃国広瀬城主・近江国新庄城主となりました。(秀吉の亡くなるまでの約16年間に亘り城主を務めた)
(3)豊臣秀吉が死亡して2年後、石田三成の誘いで関ヶ原の戦い(1600年9月15日)に出陣しましたが敗戦し、翌9月16日に自らを戦死とし福順寺(滋賀県長浜市高山町)に位牌を祀らせました。
(4)2年間の修行後、1602年に福順寺(長浜市高山町)住職・西了となりましたが、家族と元の家臣以外には広瀬兵庫助は戦死したとして極秘とされ、子孫の婚姻も元の家臣関係者の子孫以外とは縁を結ばなかったのです。(これが明治時代初期まで続いたという記録があります)
Posted on 2015年10月29日 10:08

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

【「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物である重要事実】


 「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物です。この根拠について、次の通り確認をさせていただきます。

1.「広瀬兵庫助」について
 広瀬兵庫助末裔に伝わる広瀬家史料に基づく調査結果は、次の通りです。
(1)1558年生~1624年3月15日、66歳で死亡しました。

(2)美濃国(岐阜県)広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男、親の命名による本名は広瀬康親です。

(3)主たる通称名は「広瀬兵庫助」。城主としては、「近江国(滋賀県)新庄城主・美濃国(岐阜県)広瀬城主 広瀬兵庫頭宗直」と史料に明記されています。

(4)関ヶ原の戦いで敗れた広瀬兵庫助は、自らの意思で関ヶ原の戦いでの戦死として「豊昌院理山道義大居士 広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせて、仏門に入り住職・西了となりました。

(5) 浄休寺寺誌などの広瀬家史料は、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭」の事跡を区別なく記述しており、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物扱いで明記し、兵庫助の代々の子孫には真実を正確に伝えています。

(6)仮に「広瀬兵庫頭宗直」が別人で関わりがなければ、広瀬家一族の事跡を時系列順に記す広瀬家史料に、「広瀬兵庫助」とは他家の事跡を記すことは全く意味のないことで、その必要はありません。これが確認をいたします重要なポイントであります。 103




2.「広瀬兵庫頭宗直」について
(1) ある歴史書には「広瀬兵庫助」が活躍した同じ時代に、『飛騨国(岐阜県)高堂城主の広瀬山城守宗城(むねくに)の子(弟?)「広瀬兵庫頭宗直」がいた』とされますが、①宗城の子とする文献、②宗城の弟とする文献のそれぞれが複数存在しています。歴史上の人物の記述として、宗城の子か弟か明確でないことは、歴史書として基本的にありえないことであります。

(2) 『広瀬山城守宗城は、三木(後の姉小路)大和守自綱と戦い、宗城は戦死(1,582年1月27日)したが、兵庫頭宗直は行方不明となった(東浅井郡志)』とありますが、行方不明ではありません。

(3)岐阜県揖斐川町の伝説では、『飛騨国の広瀬家は、美濃国の広瀬家の分家だという理由で、兵庫頭宗直は飛騨国を立ち去って、広瀬一族の先祖代々の墓地がある美濃国の広瀬村に移り住んだ』と伝えていますが、一時期に美濃国広瀬郷の広瀬家本家から飛騨国広瀬郷の広瀬家分家への養子として入り、養子先の事変(養父の戦死)後に美濃国の広瀬家本家へ帰郷したのが正しいものであります。

(4)他の歴史書等に、その後「広瀬兵庫頭宗直」は、「井伊家に仕官した」という記事があり、井伊家について詳細に調査のところ、徳川家臣で遠江国(浜松・井伊谷)に居住し、関が原の戦い(1600年)後に家康の命で彦根へ移っています。18年程の年代のずれがあり、歴史家や郷土史家による完全な誤認記事であります。

(5)念のため、彦根藩井伊家の全家臣団(283一族)を詳細に調査のところ、家臣団の中に広瀬姓は次の3家の一族がありました。
①広瀬郷左衛門(2000石)一族=郷左衛門は徳川家臣から井伊家臣になったとあります。

広瀬兵庫助の先祖の分家で甲斐国の武田家臣となった『広瀬安周』がおりました。戦国時代のある時期に、武田家臣が徳川家臣となった者が多かったことは有名です。

広瀬郷左衛門が徳川家臣から井伊家臣になっており、郷左衛門が広瀬であることから人物を特定せず広瀬兵庫頭と誤認された可能性が最も高い。
②広瀬助之進(200石)一族。 
③広瀬清兵衛(180石)一族。

(6)結論として「広瀬兵庫頭宗直」に関して、井伊家の家臣に該当者が見当らず、「井伊家に仕官したという」事実はありません。全くの誤認記事が某歴史書に記述されていることは嘆かわしい限りです。これらを記事にした歴史家や郷土史家に猛省を促したい。

(7)以上のとおり、正確に事跡を把握していない「広瀬兵庫頭宗直」に関する歴史書記事の多くには、「生年・没年不明、金森長近への反乱に敗れて他国に逃れ行方不明」などとの推定による誤認記事がみうけられるのが実態であり、明確にこれを否定しておきます。
Posted on 2015年10月31日 07:53

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

【広瀬兵庫助ら3兄弟は、信長に対抗して戦う】

広瀬兵庫助は信長に対抗して戦い、兵庫助一族伝承の広瀬家史料に次の通り記されています。

1.広瀬兵庫助の父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死落城
⑴1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、美濃国広瀬郷の初代・広瀬康述から代々受け継がれた372年間の長期の繁栄も領地を明け渡して幕を閉じました。
信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。「東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。

⑵明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」とあります。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録は全くなく、後述の通り1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
この記録は、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことを物語ります。

2. 広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、信長に対抗
(1)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

(2)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。(浄土真宗のことを他の宗派は一向宗と呼んでいました)

3. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。
1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。

(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。また、その時の立場で名前を使い分けています。

(3)広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。
Posted on 2015年11月01日 04:39

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

【広瀬兵庫助の祖父と父は大事件に直面】
 時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。
 戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。その実態は、頭角を表してきた守護大名(戦国大名のこと)の抗争の影響を受けて、守護大名と地頭からの二重支配(年貢の二重徴収など)の状態となりました。
 その結果、重税と過酷な労働に不満をもつ百姓を中心とした抵抗勢力の動きが活発となり、一向一揆(浄土真宗の信者の一揆、この宗派のことを他の宗派は一向宗といった)といわれる権力者に対抗する動きが全国各地に広がっていました。
 当時の一向一揆は、国人(地頭などの事実上の領主)や地方の土豪(その地の豪族)などが中心となり、守護大名から自治権を回復する為の抵抗運動が活発化していました。
 参考までに、この地域の当時の一向一揆と戦国大名の動きなどをみてみましょう。享禄4年(1,531年)の一向一揆では、越前国(福井県) 守護大名の朝倉教景は敗れ、浄土真宗の門徒側が多くの土地を占拠しました。
 天文元年(1,532年)には、山城国(京都府)の山科本願寺が法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。天文2年(1,533年)には、摂津国(大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。
 天文3年(1,534年)には、北近江(滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。(世に言う下克上で、南北朝から戦国時代における下級階級の台頭傾向のことをいう)
 浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるいましたが、浅井長政(淀君=秀吉の側室=の父)は天正元年(1,573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡しました。
【最初の大事件】
 天文3年(1,534年)の2月下旬(当時は旧暦の時代で、現在の暦では4月中旬にあたる)に、最初の大事件は起きました。
 康述の子孫にあたる広瀬彈正康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬郷の広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)第16代広瀬城主の時、康利の長男・康明(当時6歳)は広瀬村北村(北村に広瀬城がありました)の住人で百姓頭(農民の責任者)の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出されて監禁され、4日目に殺害されました。
 広瀬村北村の百姓たちは、地侍の立場にある城主の康利に対し長男・康明を人質に連れ出して、城主が百姓の先頭に立って一揆を起すよう要求したのです。
 城主・康利の判断が甘く守護大名(戦国大名)の抗争に巻き込まれることを恐れて、百姓の要求を受け入れないまま決断を思い悩んでいるうちに、幼い康明が殺害されたのです。百姓らの要求に対する回答期限の3日目を過ぎた4日目の早朝に殺害されました。
 広瀬郷の百姓たちは、最も地の利の良い(交通の便が良く経済圏として最も近かった)北近江の京極氏からの二重支配の触手に苦しんでいたのでした。
 ところが、この事件で事態は膠着状態のままとなったあげく、その年に京極氏は家臣の浅井氏に国を奪われ衰えたのです。
 京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の領地を奪うのが半年早く起きていたら、広瀬郷の城主・康利の長男・康明の殺害事件は無かったかも知れません。
 その後、越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏、近江国の浅井氏は、同盟を結び一時は落ち着きを取り戻したかと思われました。
 天文3年(1,534年)の2月(現在の暦では4月中旬)の事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機(第二の大事件)の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。
 それは、織田信長の覇業(武力で天下の支配者となる事業)著しい台頭(今まであった勢力に代わって新しく勢力を得て進出してくること)だったのです。
 また、一時は衰えたかにみえた京極氏は、浅井氏との政略結婚を重ねて、京極高次(浅井長政の次女・お初=淀君の妹=を妻として迎えた)の時代に豊臣秀吉に仕えて再興しました。
 話は元に戻りまして、この事件当時、分地政策として兵庫助の祖父・康利は、城主とその家族の一部が別々の土地に住んでいました。
 城主家族の生命の安全を確保するために康利の長男・康明は美濃国の広瀬郷広瀬村に住み、次男の康則(当時3歳・兵庫助の父)を飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)に住まわせていました。康則は将来の分家への婿養子含みで、分家の親族に預けられて養育されていたのです。
 この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。
 事件当時の康則は、その名も「広瀬飛騨四郎康則」でしたが、この事件のあと暫くして美濃国広瀬郷広瀬村に戻り「広瀬左馬亟康則」と名乗り、父・康利の死後に「広瀬加賀頭康則」として城主(地頭職に就いた)となりました。
 この事件後の康利は、再び決断ミスを繰り返さないようにと行動していました。後に、康利の3人の孫(康利の次男で康則の子=兵庫助を含む3兄弟)が信長に対抗して一向一揆の活動支援のために本願寺のある大坂の石山に出陣したのは、こうした事情があったからです。
 祖父の康利からの「城主を支えてくれている領民の強い要望には適切に判断して、その要望に出来る限り応える事」という教えを守り「世のため人のため」に実行したのでした。
 この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。
 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。
 こうした中で、美濃国と飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。
 そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。
 城主・康則と家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。
 城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。
 この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託領地となりました。
 広瀬城が落城してから400数十年後の現状については、「城跡は現在田園になっていて、その一角に小さく盛り上がった塚のようなものがあり、誰もここは掘らないことにしています」(岐阜県百科事典)とあります。
 以上の通り、天文3年(1,534年)には祖父の康利が重大な危機に直面し、元亀3年(1,572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1,600年)には兵庫助も戦いに敗れ親子孫と三代続けて絶望のどん底に突き落とされましたが、必ず生き残るという強い心が運命を変えたのです。

ご参考までに ご連絡申しあげます。
Posted on 2015年11月05日 07:55

【広瀬兵庫助 研究所】 さんのコメント

「広瀬兵庫助」に関する情報提供をさせていただきます。

1.私は、広瀬兵庫助の正統の末裔として広瀬兵庫助専門の研究家です。広瀬兵庫助一族として調査に基づく広瀬兵庫助の研究情報を最多研究保持しています。
2.「広瀬兵庫助」に関して、約10年前から長浜城歴史博物館様への情報提供をして参りました。
3.長浜城歴史博物館が10月29日の報道関係者への発表で、様々なマスコミの報道がありますが、一部「広瀬家史料」と異なる部分があります。その内容は、長浜城歴史博物館様へ既にEメールでご連絡済みです。
4.報道と「広瀬家史料」との異なる部分
⑴広瀬兵庫助は美濃国広瀬家本家の出身が正しく、分家の飛騨国広瀬家の出身は誤り。
⑵信長から拝領した領地を秀吉が追認したとあるのは誤りで、秀吉から正式拝領の所付(知行書)であります。領地を信長から拝領することがあり得ないことです。
5.本能寺の変の直後、秀吉家族の逃避行先は美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館が当初の避難予定先であり、避難先として滞在したのは近江国の甲津原です。
6.秀吉の家臣として広瀬兵庫助が秀吉家族の逃避行に尽力したのではなく、逃避行に尽力した結果の恩賞で秀吉の家臣に登用されたのが正しいのです。

広瀬兵庫助に関する情報は、私のブログ
【永遠の平和を祈り続けた広瀬兵庫助】
http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/
で公開しています。
ご参考までに ご連絡申しあげます。
ご無礼を謹んでお詫び申しあげます。
                   【広瀬兵庫助 研究所】
Posted on 2015年11月05日 17:38

【聖空】 さんのコメント

【広瀬兵庫助に関する報道等と広瀬家史料との差異】

広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と報道等との差異は、次の通りです。
1. 1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について

(1)広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村、近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。
 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2カ村・・・」とありますが、広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。

(2)広瀬2カ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。「その方在所、広瀬2カ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2カ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を知行するということではありません。

2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
(1)1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。
「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。

(2)明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を再び信長から拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。

(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。

(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。
そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。

(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。
当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

3. 広瀬兵庫助の出身地について
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。
美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2カ村が広瀬郷を構成していました。
(広瀬家の分家となる飛騨国広瀬家の出身という記録は、広瀬家史料には全く存在しません。)

ご参考までに ご連絡申しあげます。
Posted on 2015年11月13日 11:13

Rekisy さんのコメント

廣瀬兵庫助さま

以前から、ご連絡いただいていたのに、ご返事も申し上げず、大変失礼いたしました。
大変お詳しい、詳細情報をお調べ下さり、ありがとうございました。

廣瀬兵庫助の出自や、国府の広瀬氏との関係につきましては、国府の郷土史家 菅田先生がかつてお調べになったことしかなく、その信ぴょう性について、具体的に研究されたものではありませんでした。

今回のように、廣瀬家の資料などを具体的に調べあげ、国府との関連性がないということを証明くださり、ありがとうございました。

この資料を、私なりに再分析した上で、放送に反映させていただきたいと思います。

ありがとうございました。
Posted on 2015年11月15日 03:31

【聖空】 さんのコメント

この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。

 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。

 こうした中で、美濃国と飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。

 そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。

 城主・康則と家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。

 城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。

 この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託領地となりました。

いつも お世話になり ありがとうございます。
ご参考までに ご連絡申しあげます。
Posted on 2015年11月18日 06:16

rekisy さんのコメント

いくつもの資料と報告をありがとうございます。なかなか落ち着かなくて、ゆっくり読めませんでした。ご返事が遅くなりすいません。

文中「
 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。」の部分で、次の事を証明する資料はございますか?

1)飛騨の広瀬氏が、美濃の分家であるという証拠は?

2)田中家が城代家老であったとしう資料。

3)山崎城が、家臣が詰める城だという根拠は!
Posted on 2015年11月20日 00:54

【聖空】 さんのコメント

いつも お世話になり ありがとうございます。

【飛騨国の広瀬氏に関する情報について】

1.飛騨国の広瀬氏が、美濃国の分家であるという情報について
美濃国池田郡小島荘広瀬郷の初代・広瀬加賀守康述(1200年に大和国広瀬郷から移封)の子孫にあたる広瀬左近将監宗勝は、室町時代の明徳元年(1390年)11月25日、美濃国小島合戦(当時の美濃国広瀬郷は小島荘の一部)の功績で当時の将軍である足利義満から感状(戦功を賞する主君からの文書)をいただきました。宗勝は飛騨国瓜巣(後の飛騨国広瀬郷瓜巣村=岐阜県高山市国府町)を拝領し、瓜巣の領地を支配することとなり、ここで広瀬一族には、飛騨国広瀬郷に分家ができたのです。「広瀬兵庫助史料」より。
「東浅井郡志」【参考文献は旧・滋賀県東浅井郡教育委員会発行】には、「飛騨国の広瀬氏は美濃国の分流なり」と記されています。

2.田中家が城代家老であったとする情報について
室町時代の1580年代(天正年中)において、飛騨国広瀬郷瓜巣村の高堂城主・広瀬山城守宗城(むねくに)は飛騨国広瀬郷名張村の城を持分としており家臣の田中与左衛門に城代を務めさせて、広瀬城(田中城ともいう)と称したと記されています【参考文献は「岐阜県史」:岐阜県発行】。

3. 山崎城が、家臣が詰める城だという情報について
  飛騨国広瀬郷広瀬町村の山崎城は、天正年中において広瀬氏の持分として記されている【参考文献は「岐阜県史」:岐阜県発行】。他の書で「山崎城は詰城」という記述があった(書物名記憶なしです=10年ほど前の調査時)ので、当時その意味を文書化しています。国語的意味での詰所と同意語と理解しています。
☆広瀬兵庫助の個人史は、真実はただ一つです☆
☆広瀬家に伝わる「広瀬兵庫助史料」は兵庫助の日記の伝承です☆
 兵庫助のリアルな伝記を継承した広瀬家に伝わる「広瀬兵庫助史料」は、出版物等とは次元の異なる別格の貴重で重要な兵庫助からの「おき手紙」であり、歴史家等の知る機会のない兵庫助からの長文の履歴書であり自分史です。
 子孫として兵庫助の歩んだ正確な歴史を見極めて、後世に受け継いでいく大切な置き土産にしたいと思っています。

「飛騨国の広瀬氏情報」や「広瀬兵庫助史料」について情報を提供いたしました。何が史実かは、ご判断をお願いします。

ご参考までに ご連絡申しあげます。
Posted on 2015年11月20日 19:16

【聖空】 さんのコメント

下記の通り、ご参考までに ご連絡申しあげます。

【置き手紙】
http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/
Posted on 2016年07月08日 09:57

広瀬兵庫助 さんのコメント

ながせきみあき様

下記の通り、ご参考までに、ご連絡申しあげます。よろしくお願いいたします。広瀬兵庫助  2017.9.25

広瀬一族の起源と主な分類  (研究報告)

 広瀬氏の起源と分類について、信頼性の高い複数の系図関係文献と史料を参考にして、次の通り纏めてみました。日本最古の広瀬氏の祖は、岐阜県在住の郷土史家等の説によると藤原氏の末裔で飛騨国(岐阜県)高山市国分町の広瀬氏とされますが、確たる根拠の(連続する親子関係が明記された)系譜が示されず、未確認情報説であると思料します。

1.清和天皇(850~881年)を祖とする清和源氏宇野氏流広瀬氏
大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)
 信親(子の康述も含む)・俊治・光治の三兄弟の一族は、大和国広瀬郷に在住しましたが、1200年頃に権力者の命により超遠隔地への領地替えとなっています。

(1)源(宇野)有治の長男 広瀬信親→子・広瀬康述は美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への領地替えとなりました。【広瀬加賀守康述を元祖とする広瀬氏の発祥】

A.広瀬加賀守康述→(末裔)広瀬左近将監宗勝は、1390年11月25日に美濃国小島合戦(当時、美濃国広瀬郷は小島荘の一部)の功で、将軍・足利義満から飛騨国(岐阜県)広瀬郷(高山市国分町)を拝領し、美濃国広瀬本家の分家として飛騨国広瀬家ができました。宗勝とその末裔が、飛騨国広瀬郷に瓜巣城(別名:高堂城)、広瀬城(別名:田中城)、山崎城(家臣の詰城)の拠点をおきました。

B.広瀬加賀守康述→(末裔)第14代当主・広瀬康平 美濃国広瀬郷広瀬城主
・康平の弟・安周(号・安近)は、甲斐国(山梨県)八代郡小石和の広瀬村へ移住しました。
・安周(別号・安近)→(末裔)広瀬郷左衛門景房は、武田信玄の家老・山縣昌景に仕えました。後に、徳川家臣となり、江戸幕府になり家康の命で井伊直政(彦根藩主)に仕えました。
・広瀬郷左衛門景房の弟・広瀬将監正直は、甲斐国(山梨県)から筑前国(福岡県)博多へ移住して商人となりました。後に、豊後国 (大分県)日田へ移っています。
・広瀬正直は、広瀬淡窓・広瀬久兵衛・広瀬旭荘の三兄弟の祖です。

C.広瀬加賀守康述→(末裔)第16代当主・広瀬康利 美濃国広瀬郷広瀬城主
・康利の弟・広瀬泰好(号・隼人)は、美濃国(岐阜県)本巣郡別府(瑞穂市)へ移住し別府城主となりました。
泰好の末裔は、関ヶ原の戦いで敗れて別府城を捨て近在の只越城へ居を移しました。

D.広瀬加賀守康述→(末裔)第17代当主・広瀬康則 美濃国広瀬郷広瀬城主
・康則は、1572年6月13日に織田信長の家臣・稲葉一鉄に攻められ討ち死に落城しました。
・康則の二男・康親は、後に羽柴(豊臣)秀吉に仕えて「広瀬兵庫助」(広瀬兵庫頭宗直)を名乗っています。
1582年6月2日の本能寺の変直後に、羽柴(豊臣)秀吉家族の逃避の警護にあたり活躍しました。
広瀬兵庫助は、秀吉の命で近江国新庄城主(滋賀県長浜市)・美濃国広瀬城主(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を兼務で16年間務めました。1600年9月15日の関ヶ原の戦いに西軍で出陣し、戦い敗れて出家(住職・西了)しました。

(2)源(宇野)有治の二男 広瀬俊治→末裔は長期の繁栄があったとみられます。末裔には徳川家臣とみられる勘定吟味方役がいました。役職から江戸(東京)在住とみられます。

(3)源(宇野)有治の三男 広瀬光治(入野屋光治) 陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県のいずれかの地域) 入野屋荘園への領地替え→末裔は、この地で長期の繁栄があったとみられます。

2.宇多天皇(867~931年)を祖とする宇多源氏佐々木氏流広瀬氏
 宇多源氏→(末裔)秀義(佐々木氏元祖)出雲国(島根県)→(末裔)近江国(滋賀県)佐々木氏→(末裔)広瀬秀泰(広瀬氏元祖)

3.村上天皇(926~967年)を祖とする村上源氏赤松氏流広瀬氏
 播磨国(兵庫県)宍粟郡広瀬村に、村上源氏赤松氏が在住していた。その末裔で赤松師季の子・師頼(広瀬弥四郎)が広瀬氏の元祖です。

4.天武天皇(?~686年)の子・舎人親王(676~735年)の末裔→顕成(清原真人)→(末裔)成景(広瀬三郎)を元祖とする広瀬氏(清原氏流広瀬氏)

5.上記の1~4までの広瀬氏を除く諸国の広瀬氏
・阿波国(徳島県)などがみられますが、可能性としては1~4までの広瀬氏に繋がるものと推測されます。
                   以上(文中・敬称略)
【参考文献】
広瀬一族の起源と主な分類は、次の文献を参考にしました。
系図纂要(内閣文庫)・尊卑分脈・新編姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典・新訂寛政重修諸家譜・広瀬一族・日本史辞典・日本史年表地図・広辞苑・奈良県の歴史・岐阜県史・岐阜県百科事典・岐阜県郷土偉人伝・揖斐郡史・東浅井郡志・浄休寺寺誌・真敬寺史料など多数の著書。
Posted on 2017年09月25日 08:46

rekisy さんのコメント

廣瀬兵庫助さん

詳細にわたるご報告をありがとうございました。

これによると廣瀬氏の系譜は4系統あるという事ですね。
飛騨の廣瀬氏がどこから来たのか、もう少し調査してみたいと思います。
ありがとうございました。

なお、国分町ではなく国府町ですのでよろしくお願いいたします。

また、新しいことが分かりましたらお知らせください。
Posted on 2017年09月25日 17:29

広瀬兵庫助 さんのコメント

ながせきみあき様
下記の通り、ご参考までに、ご連絡申しあげます。よろしくお願いいたします。広瀬兵庫助  2017.9.29

清和源氏宇野氏流広瀬氏の広瀬信親が広瀬氏の始祖
-清和源氏は藤原鎌足の末裔でもあります-

1. 清和源氏宇野氏流広瀬氏の広瀬信親が、広瀬氏の始祖です。
A.清和源氏宇野氏流広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)は広瀬氏の始祖で、清和天皇と藤原鎌足は共に信親の先祖となります。
B.信頼性の高い参考文献等により精査しました結果は、藤原鎌足及び清和源氏の末裔にあたる広瀬信親の系譜が確認されました。その詳細は次の通りです。

2. 清和源氏の祖である清和天皇(850~881)の母方の源流をたどると藤原(中臣)鎌足です。
A. 清和天皇の母は「藤原明子」で、その先祖をたどりますと藤原(中臣)鎌足となります。(清和天皇から8世代前)
B. 【藤原北家】藤原房前の子で真楯の子孫・冬嗣の孫が「藤原明子」です。
C. 【藤原北家】藤原房前の子で魚名の子孫に藤原利仁(鎮守府将軍)がいます。「藤原明子」の遠縁にあたります。
(参考)清和天皇の子・貞純親王と孫の源経基の時代と、藤原利仁の時代は概ね同時代(900年代前半)となります。

3. 清和源氏宇野氏流広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)が広瀬氏の始祖で、清和天皇と藤原鎌足は共に広瀬信親の先祖となります。

A. 清和源氏・源(宇野)有治の長子で広瀬信親(別氏号:広瀬七郎)は、広瀬氏の氏長となり大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)を拝領して在住し、広瀬郷の領主となりました。
B. 広瀬信親の子・広瀬加賀守康述は1200年に、美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への領地替えとなりました。

4. 広瀬信親の子で広瀬加賀守康述の末裔の活躍がありました。
美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に在住した広瀬加賀守康述(広瀬家本家の初代)の末裔の活躍は、次の通りです。

A. 広瀬加賀守康述の末裔で広瀬左近将監宗勝は、1390年11月25日に美濃国小島合戦の功で、将軍・足利義満から飛騨国(岐阜県)広瀬郷(高山市国府町)を拝領し、美濃国広瀬本家の分家として飛騨国広瀬家ができました。宗勝とその末裔が、この地に瓜巣城(別名:高堂城)、広瀬城(別名:田中城)、山崎城(家臣の詰め城)の拠点をおきました。

B.広瀬加賀守康述の末裔で第14代当主は、広瀬康平で、美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康平の弟・安周(号・安近)は、甲斐国(山梨県)八代郡小石和へ移住し広瀬村を形成しました。
・安周(別号・安近)の末裔で広瀬郷左衛門景房は、武田信玄の家老・山縣昌景に仕えました。後に、徳川家康の家臣となり、江戸幕府になってから徳川家康の命で井伊直政(彦根藩主)に仕えました。
・広瀬郷左衛門景房の弟・広瀬将監正直は、甲斐国(山梨県)から筑前国(福岡県)博多へ移住して商人となりました。後に、豊後国 (大分県)日田へ移っています。
・広瀬正直は、広瀬淡窓・広瀬久兵衛・広瀬旭荘の三兄弟の祖です。

C広瀬加賀守康述の末裔で第16代当主は、広瀬康利で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康利の弟・広瀬泰好(号・隼人)は、美濃国(岐阜県)本巣郡別府(瑞穂市)へ移住し別府城主となりました。
泰好の末裔の広瀬十郎兵衛正好は、関ヶ原の戦いで敗れて別府城を捨て近在の只越城へ居城を移しました。

D広瀬加賀守康述の末裔で第17代当主は、広瀬康則で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康則は、1572年6月13日に織田信長の家臣・稲葉一鉄に攻められ討ち死に落城しました。
・康則の二男・康親は、後に羽柴(豊臣)秀吉に仕えて「広瀬兵庫助(広瀬兵庫頭宗直)」を名乗っています。
1582年6月2日の本能寺の変直後に、羽柴(豊臣)秀吉家族の逃避の警護にあたり活躍しました。
広瀬兵庫助は、秀吉の命で近江国新庄城主(滋賀県長浜市)・美濃国広瀬城主(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を兼務で16年間務めました。1600年9月15日の関ヶ原の戦いに西軍で出陣し、戦い敗れて出家し寺院住職・西了となりました。

5.源(宇野)有治の二男、三男の末裔の広瀬氏の活躍

A.源(宇野)有治の二男の広瀬俊治の末裔は、長期の繁栄があったとみられます。この末裔には徳川家臣とみられる勘定吟味方役がいました。役職から江戸(東京)在住とみられます。

B.源(宇野)有治の三男の広瀬光治(入野屋光治)は、陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県のいずれかの地域) の入野屋荘園への領地替えになり、この末裔は陸奥国で長期の繁栄があったとみられます。

=以下は、清和源氏宇野氏流以外の広瀬氏です=
6.宇多天皇(867~931)を祖とする宇多源氏佐々木氏流広瀬氏
宇多源氏の末裔で秀義(佐々木氏の祖)出雲国(島根県)の末裔は、後に近江国(滋賀県)へ移り、佐々木氏の末裔が広瀬秀泰(広瀬氏の祖)です。

7.村上天皇(926~967)を祖とする村上源氏赤松氏流広瀬氏
播磨国(兵庫県)宍粟郡広瀬村に、村上源氏赤松氏が在住していました。その末裔で赤松師季の子・師頼(広瀬弥四郎)が広瀬氏の祖です。

8.天武天皇(?~686)の子・舎人親王(676~735)の末裔になる顕成(清原真人)の末裔で、成景(広瀬三郎)を祖とする広瀬氏(清原氏流広瀬氏)

9. その他の広瀬氏
・阿波国(徳島県)などがみられますが、可能性としては上記のいずれかの広瀬氏に繋がるものと推測されます。 

  -( )内の数字のみは生存年を表記し、文中は敬称略-  以上

【参考文献】以上の情報を証明する主な文献は次の通りです。
系図纂要(内閣文庫・刊=1975年頃まで国会図書館のみに所蔵が許可された系図の最高権威書)・尊卑分脈・広瀬一族・新編姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典・新訂寛政重修諸家譜・日本史辞典・日本史年表地図・広瀬兵庫助史料などの著書。=以上の記事に関してご関心のある方は、是非「系図纂要」をはじめ関係文献をご覧ください=
Posted on 2017年09月29日 05:53

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