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1月25日放送分_まつりの森の屋台について1神楽台

(平成25年1月25日放送分 第278回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

1月に入ってからも寒い日が続いていますね。高山で12月27日に-12.8度、(平年値-4.6度)、
河合で-14.3度(同-4.3度)。1月5日に六厩で-20.2度(平年値-11.0度)を記録し、冬日の
日数も高山で37日、六厩で71日(1月6日現在)などとなっております。

今年は寒いなあと感じているのは私だけかと思い、調べてみました。
そうしましたら昭和41(1966)に-18.3を記録。最近過去十年では2006年に-14.7度以来となって
いて、そんなに寒いわけではありませんでした。過去10年の平均が大体-10度前後ですので、
それからすると少し寒い程度でした。暖かいのに慣れてしまって、急に寒くなるのが我慢できない
体になっているんだなと思いました。

そんな中、ホクホクなのがスキー場です。気温が下がって適度な降雪があるので、スキー場では
降雪機も使う必要がありませんから、今年はスキー場にとってはいい年なのかと思っていました。
ところが、先日NHKで面白いニュースをやっていました。
現在のスキー人口は600万人で15年前の1/3。その中でもボーダーの人口が半数以上になって
います。全体のスキー人口が減ってしまい、各地のスキー場では客の取り合いになっているようです。
そのため、舞子スキー場では19歳の人のリフト代無料と言う企画を行ったり、越後湯沢では小学生
無料。苗場スキー場でも小学生無料にして親子連れを増加させるという取り組みをしているそうです。

どうしてそこまでやるかというと経済的な理由が大きく、景気低迷でスキーはお金がかかると言う印象
があるのでスキーヤー自体を増やさないといけないと言う現状があります。

かつてのスキーブームの時は若者が担い手でしたが、最近では大きな意識変化があり、スキー流行
当時の若者と比べて最近は消費を控える層であるということがあります。そんなに無料化してスキー
場は大丈夫か。実際のところは大丈夫。リフトは常に動かすので経費は変わらない。
リフトを空にするよりはより多くの人に来てもらいたい。リフト代をえられなくてもレンタル代、飲食費が
かかる、それいがいの飲食代があがっています。利用客40%UPレンタル代80%、飲食も40%と
おととし12月比較して増加しています。最初に体験してもらう事を重視していて、長野のスキー場では、
上達保障のスキーレッスンを行い、うまく滑れるようになったと納得できなければ料金を返却しています。
3日間のレンタル代含め24000円ですが、最終日に1日リフト券をプレゼントしています。
それほど自信を持ってスキーのレッスンをしている。若い世代に体感してもらい、将来利用客になって
貰うという試みをしていますが、おおむね成功していると言う事でした。

利用客が激減しているスキー場ですが、飛騨のスキー場もあの手この手でお客さんの誘致を行わない
と非常に厳しい時代になっているんですね。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は第4週ですので匠のお話し。屋台のお話しの続きをしたい
と思います。
今週からは、高山市の越後町にある祭の森ミュージアムの屋台についてお話したいと思います。

かつて高山青年会議所に所属していました時に、広報委員長を拝命したことがありました。
今から15年くらい前の話しですが、その時に今迄の新聞とは内容を変えて、読んでもらえる新聞を
目指そうといろんな企画を考えました。当時、毎月一回の発行でしたが、当時の注目される経営者
の方にインタビューを行うコーナーを作り、1年で12人の皆さんにお話しを窺ったことがありました。
その時、飛騨高山まつりの森ミュージアム館長の中田金太さんにお話しを窺う事が出来ました。

中田さんは、既にお亡くなりになって久しいですが、当時、まつりの森を作った経緯について御自宅
で熱く語って頂いたことがあります。

当時の話を思い出しますと、
「高山インターが開通した時に、高山の観光が通過観光地になってしまうかもしれないという危惧が
ある。少しでも高山に滞在していただく時間を増やすために、高山の祭を題材にしたミュージアムを
建設した方がいいと考えた。そこで、当初は高山祭りの屋台で焼失あるいは売却して亡くなって
しまった屋台を建造しようと、屋台組の人に話を持ちかけたが、皆さん維持管理が大変であるという
理由でお断りになった。
そのため、屋台組の人たちがそういう考え方で有れば、高山祭りの屋台にはない、現代的な屋台を
建造して観光客の皆さんに公開しよう。そうすれば、1年中高山祭りが体験できるという発想でこの
まつりの森ミュージアムを作った。」ということを申されておりました。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は北島三郎で「まつり」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「飛騨高山まつりの森の屋台」についてお話ししております。

当時を振り返ってみますと、重要有形民俗文化財になっている春祭りの屋台と秋祭りの屋台を
持つ区域の人たちが反対運動ともとれる行動をされました。
その時に、作られた屋台が「本物」か「偽物」か議論された事を覚えております。

その上、屋台を持つ地域の人たちが、高山の伝統文化継承の為に会を作って反対運動の資金を
作りパンフレットを作られたりしたことがありましたが、結果的に1年ほどで活動は尻すぼみになり、
顕著な反対運動には至らなかった経緯があります。

その時、中田さんは「地元の人は本物だとか偽物だとか言っておられるが、私が作った屋台も100年
や200年立てば、高山の屋台と言う事になる。だから本物だ。」とおっしゃっておられましたが、私は
個人的に高山祭りの屋台と同じように「まつり」をやって屋台そのものを動かせば本物になる、しかし
動かさないで展示だけしていたのであれば、高級な工芸品の一つに過ぎないのではないかと思って
おりました。

高山祭りの屋台は動かして壊れますが、壊れればまた地元の人たちが血と汗で貯めたお金を使って
修理をする。そうして民衆の血が通ったものが本当の本物の屋台として認められるんじゃないか。
そう考えておりました。

しかし、あれから15年経って見て、いまや15年の歴史が刻まれた立派な屋台として紹介されています。
やはり、屋台は屋台だなと最近は思うようになってきております。
かつてのように、本物だ偽物だと目くじら立てる必要もない。やはり屋台は屋台だと思い、私は飛騨の
屋台の一つとして取り上げさせていただきたいと思います。

つれづれと色々申し上げましたが、そういうコンセプトでこの番組でも取り上げさせていただきますので、
よろしくお願い申し上げます。

さて、飛騨高山まつりの森には、現在、8台の屋台が保管されています。
常時展示は円形の地底ドームに6台展示されていますが、入口にあります2つの屋台蔵に2台が保管され、
定期的に入れ替えが行われています。この屋台は構想設計木材調達など約3年の準備期間を経て、
平成3年6月に平成屋台第一号である「金鶏台」を着手し、平成13年までおよそ13年の歳月をかけて
150年ぶりの新造屋台として完成されました。

平成の匠達によって、新技法も取り入れながら全国各地の伝統文化技術を取り入れて作られた結晶です。
この放送では、一つづつご紹介させていただきますが、今週の放送では「神楽台」について取り上げたい
と思います。

まつりの森の神楽台は、飛騨にある神楽台の中で一番大きな屋台となっています。
すでにこの放送でもお話してきましたが、各地に神楽台は、日枝神社、桜山八幡、東山白山、飛騨総社、
古川祭、清見町三日町白山などのほか、荘川4台、白川4台が現在も使われています。
それ以外に使われていませんが現存する物に、愛宕神明、朝日甲、下岩、万石、丹生川大萱の5台など
の19台が現存しています。その中で一番大きいのは山王祭の神楽台ですが、それよりも一回り大きい
のがまつりの森に現存する神楽台です。

こちらの屋台は、3層構造になっていて、他の屋台と異なるのは下段部分が大きく、麒麟台のような吹き
ぬきの回廊風の部分が取り入れられています。
そこには、飛騨高山の彫刻作家東勝廣氏の「和童子の遊び」という題名のケヤキ一木造りの彫刻が取り
付けられています。北アルプスの山々を背景に和童子が元気に遊んでいる様子を北斎漫画風にアレンジ
して作られた大作です。

また、中段にも十二支宝尽くしという彫刻を付けたり、下段の四隅には力神の彫刻を施すなど、従来の
神楽台にはない沢山の彫刻を施した屋台として平成7年2月に完成されました。

この屋台は常設展示されていますが、囃子方はからくりの人形によって屋台囃子が奏でられるように
最新のコンピューター制御による人形カラクリが使われています。
特に、人形の手首の返しによって太鼓の音が出るように工夫されたものは、見る人を感心させる演出
となっています。

詳しくは、まつりの森ミュージアムに展示してありますので百聞は一見に如かず、ご覧になっておられない
皆さんも一度ご覧いただければと思います。
まつりの森の方は、午前9:00~夕方 5:00 (年中無休)大人1000円子ども600円などとなっています。
詳しくはHPなどでご確認ください。

さて本日も時間となりました。来週は橋の話題についてお話ししたいと思います。
来週は宮川の橋についてお話したいと思います。どうぞお楽しみになさってください。それでは、本日は
この曲でお別れしましょう。曲は岩崎宏美で「20歳前」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。


徳積善太  

1月18日放送分_豊岡関について

(平成25年1月18日放送分 第277回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

光陰矢のごとしと言いますが、月日のたつのは早いもので、今年のお正月が明けてからすでに
3週間が過ぎました。
先週は、「嫁を見たての三寺参り」と古川の民謡「ぜんぜのこ・まんまのこ」に歌われています、
三寺参りが古川町で盛大に開催されました。

今年も、たくさんのお参り衆が、古川のみならず高山や名古屋の方からもお参りされ、盛大に
行われました。
観光協会では、雪の大ろうそくを弐之町界隈や壱之町界隈に並べたり、瀬戸川には小さな雪ろうそく
を飾ってこの三寺参りを盛り上げました。

もう10年ほど前になりますか、NHKの朝の連続テレビ小説「さくら」で大人気になった古川ですが、
その頃から「白いろうそくはいい人に巡り合えるようにお祈りするため、赤いろうそくはお礼まいりの為」
と言われるようになり、たくさんの若い女性の方がお参りをされるようになりました。
あの頃から、瀬戸川の鯉とLoveの恋をかけて、恋の水という観光スポットも瀬戸川界隈に造られる
ようになり、それまでの「嫁を見たての三寺参り」という歌にも因んで、恋愛成就のスポットとして人気が
出るようになりました。

ところが、古川の名士の方には「何で蒲酒造の土蔵にお参りせんならんのや」などと言って否定される
方もおられますが、話題が話題を呼んで、三寺参りはいつしか、恋愛成就のイベントと言う印象が定着
して来たようです。

以前、この放送でもお話しいたしましたが、この「三寺参り」、飛騨古川でいつ頃始まったのか、定かでは
ありません。古川の人にお聞きしますと「古川の三つの寺=真宗寺、本光寺、円光寺が浄土真宗本願寺
派に転派したことから、古川の人は、三つのお寺を公平にお参りするようになったんだ」とか言われて
います。
観光パンフレットやHPなどにも、三寺参りの起源として、
「三寺まいりの始まりは、なんと300年以上も前に遡る。昔々、古川の三寺のうち真宗寺と本光寺は
東本願寺派、円光寺は西本願寺派でした。1705年(宝永2年)に真宗寺と本光寺は西本願寺派に
転派、これによって古川町内の3つの浄土真宗のお寺が全て西本願寺派になりました。これを機に、
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の命日のお参りはどの寺の檀家も分け隔てなく3つのお寺をお参り
するようになり、三寺まいりが始まりました。」と言われています。

ところが、江戸時代にこの三寺参りが行われていたと言う記録が全くないばかりか、最近、東本願寺の
お手伝いをしていて判ったのですが、親鸞上人の御命日は弘長二年(1262年)11月28日で、真宗大谷派
高山別院では、毎月28日に親鸞上人の祥月命日と言う事で御遠忌の法要が営まれています。

実はこれ、旧暦ですから太陽暦に直すと1262年1月16日であることが分かりました。

歴史を紐解いていくと、矛盾が時々出てまいります。永年、古川の方々が繰り広げられてきた行事
ですから、否定することはありませんが、イベント性が増せば増す程、歴史の史実と言う物が曲げ
られる場合もあるんですね。そういうことに時々で会う事がありますが、三寺参りだけは、一体いつ
始まったのか、私の中では謎です。
太陽暦で日程が決められていることからするとおそらく、明治以降に始まった事ではないかと思って
おりますが、どなたかご存じの方がありましたら、教えて頂きたく思います。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は古川のお話し。先月は相撲の話で、古川が生んだ大関「緋威清一郎」についてお話し
しましたが、それよりも20年くらい後、明治時代に活躍したもう一人の力士 豊岡関についてお話し
いたします。

先月の放送では、飛騨出身で有名な白真弓関についてと、古川出身で京都大相撲において西の
正大関になった緋威清一郎についてお話ししました。
実は明治の初め、同時期に活躍した豊岡関という関取がおられました。

古川の郷土史家で昭和の中頃まで活躍されていた蒲幾美さんと言う方がおられましたが、彼女の
執筆の中に豊岡関の事が書かれていましたのでご紹介したいと思います。

「豊岡関は本名を豊岡米之助といい、明治末期の東京相撲で活躍した力士ですが、前頭になるとき
に、怪我のためおしくも廃業しました。豊岡は、緋威より二十年ほど遅れた明治九年に、古川町三之町
下の角川屋利助の次男に生まれました。
十四歳のとき、一円四十銭の飲み屋の借金を負い、働いてひと旗あげようと、郷里をあとにしました。
野麦峠を越えて江戸に行くためにあちこちを渡りながら、遠江の豊岡の町に着きました。
そこの米問屋で働いていたところへ、たまたま興行に来た東京相撲の関脇稲川政右衛門に認められて、
出羽の海部屋に弟子入りをしたのです。四股名は働いていた土地にちなんで豊岡と名乗りました。」

ちょっとここでブレイクしましょう。
曲はもう16年前のヒット曲になるんですねスピードで「White love」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「古川の関取 豊岡関」についてお話ししております。

「出羽の海部屋の師匠は、明治の角聖といわれた大横綱常陸山谷右衛門で、これに対する雷部屋
の横綱梅ヶ谷藤太郎。世に常陸・梅の黄金時代といわれた頃です。豊岡はここで揉みに揉まれて
十両まで進みました。十両になって初めて関取と呼ばれるのです。
ここまで進むことのむつかしさは、その道に入った人でなければわからないでしょう。

 明治三十八年といえば古川大火のあった年ですが、そのあと東京相撲の一行が飛騨へ巡業に来て、
本光寺の境内で慈善興行をしたことがあります。このとき出羽の海部屋では、郷土出身力士豊岡米之助
の亡父利助さんの法要を営みました。
法要のあとで、供養のだんご撒きを行いましたが、米四俵を使ったという盛大なものだったのです。
大火のあとでもありながらこの慈善相撲は、天下の常陸・梅の大相撲であり、古川界隈にいつまでも
語り草になりました。

 明治四十三年九月上旬、飛騨地方を襲った豪雨は、数日間に三回の洪水が出るほどの激しいもので、
高山測候所始って以来といわれ、昭和十年の大洪水を上回る降雨量を記録されています。
飛騨全土では死者十人、田畑の流失三百町歩、橋も多く流れ、古川町でも大変な被害が出たといいます。

 この飛騨の災害が天聴に達し、天皇、皇后両陛下から見舞金五百円が下賜されたと当時の新聞に
載っています。
 この九月十六日東京大相撲の興行が予定されていたのですが、水害で交通が途絶したため、ようやく
廿一日になってから、高山の城山二の丸跡で義捐相撲として行われました。

水害のあとの暗い気分を吹き飛ばす興行で、「当国出身の豊岡関も出場する」という前触れや、初日・
二日の売上金の二割を水害の義捐金にするという義挙もあって、連日おすなおすなの盛況だったと
伝えています。義捐金は三十円新聞社に寄託されました。

 当時の相撲見物の入場料はいくらだったか記録は残っておりませんが、義理人情の相撲界を偲ばれる
美挙として飛騨びとの心に残っております。
なお当時の高山新報を見ますと、興行の世話人に、華の嶺清一郎の名があります。緋威は、現役を引退
してからは養父である親方の名を継いで、華の嶺清一郎を名乗っていました。
前途しましたように、緋威はこの興行の後で、志を達せぬまま寂しく古川の地を去ったようです。

 豊岡は、その翌年か翌々年の夏場所で七日勝ち抜き、八日目に残念なことに足の骨を折る大怪我を
しました。「この足の骨さえ折らなければ、幕内入りがきまっていたのに」と、なげいていたといわれます。
当時は千秋楽は十一日になっていたようです。富士山と旭日を画いた化粧まわしの、力強く勇ましい姿は
遂いに土俵から消えてしまいました。 豊岡は廃業したあと、発心して身延山に入山しました。
闘争の世界から求道の世界へかわって、遂に身延山日蓮宗大雄寺の住職になったのです。

 そして昭和四年、大勢の信徒に取りまかれながら大往生を遂げました。五十三才でした。
三之町下の川崎利平氏はその甥に当たります。」 という内容が書かれておりました。

ここで、身延山日蓮宗大雄寺ですが、キーワードで少し調べてみました。
身延山=これは日蓮宗の総本山の一つとして大変有名な寺院があります。山梨県南巨摩郡身延町
というところに久遠寺という寺院があり、こちらに日蓮が晩年9年間過ごしたことで有名です。
ただし、身延山大雄寺というのが何処の寺院なのかは不明でした。

また、本山と同じ山号を日蓮宗の寺院が用いると言う事は、恐れ多くてありえないだろうと言うご住職
のお話でした。

次に大雄寺というのは、高山にも美濃にもありますが、高山は浄土宗、美濃の川辺町には臨済宗の
お寺でしたし、栃木県大田原市にある黒羽山大雄寺は真言宗でした。
また、東京の谷中にある大雄寺は、高橋泥舟の墓も有る事で知られていますが、こちらが日蓮宗
でしたので、ここかと思いましたが、歴代の住職の中に該当者は見えませんでした。

結局、この豊岡関に関係する身延山大雄寺がどこにあるのか、特定ができませんでした。
もし御存じの方がありましたら教えて下さい。

さて本日も時間となりました。
来週は4週目ですので匠の話題についてお話ししたいと思います。祭屋台についての続きのお話し
をします。どうぞお楽しみになさってください。
それでは、本日はこの曲でお別れしましょう。曲は辛島美登里で「サイレントイヴ」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太  

1月11日放送分_かんじきについて

(平成25年1月11日放送分 第276回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

みなさん、改めましてあけましておめでとうございます。
本年もこの飛騨の歴史再発見をよろしくお願いいたします。

今年のお正月はいかがでしたでしょうか。今年はカレンダーの関係で、28日頃から5日まで最長9日
もお休みと言う方もいらしたとのことです。あまり休みが長いと、なかなか仕事見戻っても仕事のカン
が取戻せないと言う方もおられることと思います。
また、高山は観光地ですから観光業者の方はこれからお休みを取られる方もおられることと思います
が、ゆっくりとお過ごしください。

今年のお正月は、元日から雪マークがついていて崩れると言う事でしたのでちょっと案じましたが、
あまり積雪はありませんでした。
私は、毎年、手次寺の大雄寺に二年参りに行き、除夜の鐘を鳴らし、その年一年の煩悩を払って
いただいております。
そして、本堂で行われるお勤めに出て、身を清めてから、氏神様である日枝神社にお参りに行くよう
にしております。

この二年越しのお勤めを浄土宗では修正会と書いて「しゅじょうえ」と呼ぶそうです。
浄土真宗では「しゅしょうえ」と濁らずに呼ぶらしいです。
今年お参りに行った時に、和尚様からお言葉をいただきました。
「一年の計は元旦にあり。一日のお務めは朝にあり。一日一日の積み重ねがあり、一年の計画が元旦
にあり、十年の計画をすることによって、人生の計画ができる。そういう年の初めにしてください」という
お話でした。
今年もい一年のスタートとなるように、皆様の幸せをお祈りいたします。
今年もどうぞ『飛騨の歴史再発見』をよろしくお願いいたします。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は冬の飛騨になくてはならない道具「かんじき」について
お話しいたします。

2週間前になりますか、今年も高山陣屋前広場で「ゆるキャラ®クリスマスin飛騨高山」を開催させて
いただきました。私も副実行委員長として頑張らせていただきましたが、沢山のお客様にご来場いた
だきありがとうございました。
その時に、来て下さったゆるキャラの皆さんに、雪が降った時の対策として「かんじき」のような物を
はかせようか、検討したことがありました。

ところが、実行委員の若い人たちと話していた時に、この「かんじき」という言葉を知らないことがわかり
ました。木で造ったわっかの様なもので、これをはいていると雪道でも滑らないし、雪にうずまる事が無
いんだと話したところ、
「ああ、スノーシューの様なものですね」ということでした。
今日の放送は、この「かんじき」についてお話ししたいと思います。

かんじきの起源はとても古く、新石器時代までさかのぼります。北欧から北アジア→北アメリカに
伝わったといわれており、北半球の各地でその使用が見られます。
日本でもかんじきは縄文時代から使われていたと考えられ、その分布も山陰地方から北海道まで
あります。その種類は、形状から三種類に分けられており、
1)一本の輪材で造られた円形・だ円形・瓢箪型の形がある、単輪(たんりん)型。
2)二本の輪材で造られた楕円形の形の複輪(ふくりん)型。
3)木または割竹を横に並べてすだれのような形にしたすだれ編み型の3つの方式があります。

飛騨地方や長野・新潟地方では雪が深いせいか、2の複輪型で、比較的輪っかを大きく造るのが
特徴です。飛騨地方の者は大体21cmx35~38cmのものが多く、長野県小谷村(おたり)や
富山県の利賀村(合掌造りで有名な五箇山の一本峠を越えた所にある山間地)などはもっと雪が
深いせいか、輪っかが36cm~40cmと大きいのが特徴です。
あまりこの輪っかが大きすぎても歩くのに邪魔になりますので、雪の深さに比例して±5cmくらい
の差があります。

また、地方によって、作り方や使用する木の材質が異なります。
飛騨で一番用いられている木は、クロモジというつまようじなどにも使う低木の木です。
この木は、細くて弾力性があり、曲げやすいので用いられているようです。
お隣の信州や新潟などでは「とねりこ」という弾力性のある木が使われています。
どちらも川原に生える低木性の木で、弾力があって加工しやすいことが共通点でしょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲はボニージャックスで「雪山讃歌」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「かんじき」についてお話ししております。

作り方の違いは、爪の形状や針金の縛り方です。
作る時には、クロモジの木を取って来て、だいたい1尺(30cm)くらいに切ります。
お湯をわかしておき、そのお湯の中にクロモジの木を入れて煮ると柔らかくなります。
それを丸太にあてて一度縛ります。柔らかくなった木は簡単に曲がりますが、冷めると曲がったまま
戻らない特性があります。

余談ですが、明治から昭和にかけて飛騨の主産業であった木工の技術にこの曲げ木の技術があります
が、あれもこの方法と同じ方法で曲げ木を作ります。蒸した木をプレス機にかけて、金型の形状に合わせ
てプレスしてやると、曲げ木が簡単に作れます。
現在も飛騨の家具で曲げ木の技術を使っておられますが、かんじきを作る技術と同じ技術です。
つまり、植物の細胞のセルロースを柔らかくして形状を変えてやると言う理屈ですね。

話がそれましたが、その曲げ木にしたもので、一回り大きなものと一回り小さな物を前後に取り付けて
針金で固定しますと一つの輪っかになります。
針金は、木を合わせた所に二カ所、隙間を開けて針金で固定します。
今度は、その針金で固定した隙間に、3cmx2cm、高さ5~6cmくらいの垂木の切った物を取り付けます。
これがツメと呼ばれるものです。

ツメは、斜面を登る為に必要です。
丁度足の両側のところにくるように作られてます。そのツメが移動しないように、固定しながら今度は輪っか
を紐で結びます。
この紐の結び方は、同じ飛騨でも白川郷と河合村、上宝村とで異なります。
それぞれ地方に寄ってやり方が違うんですね。

また、古い物では、紐は貴重品ですから、藤の蔓でやったものもあります。昔は藤蔓でやったものなんで
しょうが、加工がしにくいので、昭和に使われたものはほとんどが紐で出来ています。

さて、ようやくかんじきができあがりました。
そのかんじきを昔はわら靴、現代では長靴に取り付けて雪の上を歩きやすいようにします。
河合村では、斜面を登る場合は、足の甲の部分しか縛りません。平地を歩く場合は、紐を後ろへ回して
クロスさせ、前でしっかりと結びます。
これは、雪崩が起きた場合、長靴ごとかんじきをはき棄てて、逃げやすくするための先人の知恵だそうです。
高山あたりではあまり雪崩がおきるということはありませんが、河合や白川といった豪雪地帯では、雪崩に
遭った時のことを考えてこういったかんじきのはき方一つに至っても異なるんですね。

また、かんじきの言葉の由来ですが、漢字で書くと「橇」と書きます。
木へんに髪の毛の毛を三つかいたものです。これは、別には「そり」とも読みます。
そもそも、かんじきは、雪の上を歩く物ではなくて、スキーのように滑るものだったようです。

さて、現代ではこのかんじきのことをスノーシューと呼びます。
これはクロスカントリースキー、テレマークスキー、そして先ほどお話しした日本のかんじきの短所を克服
した雪上を歩くための道具です。たとえば、かんじきだと大雪に弱く、雪をかき分けるラッセルに大汗を
かくことにまりますし、クロスカントリースキーでは、ちょっとした坂では上りにくいのが難点です。

テレマークスキーは、坂に強いですがこちらは難しい技術が必要で、初心者には不向きと云えます。
その点、スノーシューは、比較的ラッセルに苦労せず、坂道もすいすい上り下りができ、テレマーク
スキーのような技術を必要としません。誰でも簡単にできて雪上を楽に歩くことが出来る道具として
発達しました。

完全装備の山岳会の人たちが、スノーシューをはいた初心者の集団に追い抜かれてしまうくらい、
便利な魔法の道具として知られています。構造的にかんじきと違うところは、、靴の下の部分が
ネット状になっているために、体重の分散がなされ、雪にめり込まないというところが大きく異なる
ようです。
全世界で900万人の方がこのスノーシューを愛好されていると言うお話しですから、こういった
道具もどんどん進化をつづけているんですね。

さて本日も時間となりました。本日の放送は、グリーンホテルの都竹さんの原稿を参考に造らせて
いただきました。都竹さんありがとうございます。

来週の放送は、第3週目ですので古川の話題についてお話ししたいと思います。
先月のお話しの続きでお相撲の話し。古川出身の「豊岡関について」お話しします。
どうぞお楽しみになさってください。

それでは、本日はこの曲でお別れしましょう。曲は成人式が近いのでシグナルで「20歳のめぐり合い」
をお届けする予定でしたが、CDがありませんので、「」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太  

2013年1月4日放送分_アルコピアスキー場の50年

(平成25年1月4日放送分 第275回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

みなさん、あけましておめでとうございます。本年もこの飛騨の歴史再発見をよろしくお願いいたします。

今年のお正月はいかがでしたでしょうか。今年はカレンダーの関係で、28日頃から5日まで1週間以上
お休みと言う方が多いのではと思います。まだ、お休みの最中の方もおられることと思いますが、ゆっくり
とお過ごしください。逆に、高山は観光関連の業者の方が多いですから、まだ仕事の最中と言う方もおら
れると思います。そういう方には、お正月のお休みはこれからでしょうから、どうぞ頑張って下さい。

昨年の話題で申し訳ございませんが、毎年一年を漢字で表わすと言う行事があります。
これは財団法人日本漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一字の公募を日本全国より行い、
その中で最も応募数の多かった漢字一字を、その年の世相を表す漢字として、原則として毎年12月12日
「漢字の日」の午後に京都府京都市東山区の清水寺で発表することになっている。

選ばれた漢字を「今年の漢字」と呼び、各メディアでも、「今年の漢字」の呼称が用いられています。
昨年の漢字は「金」だったようですが、金で想像できるのはオリンピックの金メダルでした。

ロンドンオリンピックでの過去最多でのメダルラッシュ、山中伸弥のノーベル賞受賞など数々の「金字塔」
が打ち立てられました。他にも932年ぶりに全国的に観測された金環日食、自立式電波塔として世界一
の高さとなった東京スカイツリーの開業、消費税や生活保護など金が関わる問題の多発など。

「金」は2000年にも選出されており、初めて複数度選出された漢字になったそうです。
皆さんにとっては、今年はどのような一年になるでしょうか。
どうぞ、一年が素晴らしい金字塔の討ちたてられるような一年になりますようにご祈念申し上げます。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、あえて昨年末にテーマを決めておりませんでした。
一年の始まりとして何か素晴らしい話題はないものか。おめでたいものはないものか、時間をかけて
探してみようと思っておりました。

丁度、仕事の途中に、久々野の観光協会に立ち寄りましたら、同級生の森本事務局長さんが、
「今シーズンは実は、久々野のアルコピアスキー場が開設されて50周年なんだ」ということを教えて
下さり、去る12月21日に50周年記念式典に於いて配布された資料を分けて下さいました。

そこで、本日の放送は、特別放送として50周年を迎えたアルコピアスキー場についてお話ししたいと
思います。

私ども、昭和生まれの世代には、アルコピアスキー場といってもちょっとなじみがないのですが、
それもそのはず、以前このスキー場は、舟山高原スキー場という呼び名でした。
昭和38年に開設され、平成10年まではこの呼称で呼ばれていましたが、スキー場の再開発や
イメージを時代に合わせた呼称に変えようという機運があり、「ひだ舟山スノーリゾート アルコピア」
という名称で再出発しました。
その後、平成17年には久々野町が平成の大合併で高山市の一部となり、経営が高山市に移りました
が、平成20年には、(有)ひだ桃源郷が指定管理を受けて運営しています。

そもそも舟山高原スキー場のスタートは、昭和38年に、現在のスキー場の高速リフト・クワッドの位置に、
シングルリフト1本が建設されたのが始まりでした。
周囲には何も無い殺風景な場所でしたが、翌年の昭和39年には「岐阜県冬季体育大会スキー競技会」
が開催されるとともに、トロイカという乗り物が登場しました。

この地方では初めてのもので雪上を一本のワイヤロープで引っ張られていく大きなソリで、雪上をゆっくり
ゆっくりと進むので「トロイカ」という名称に人々は何となく納得していたそうです。

昭和40年以降に入ると、第二・第三・第四・第五のリフトが立て続けに建設されました。
スタート時期は、日本経済の高度成長期と重なったこともあって素晴らしいスキー場へと変貌を遂げました。
昭和53年には高松宮殿下を迎え「第28回中部日本スキー大会」を開催し多くのスキーヤーで賑わい、
冬の入込客が30万人を達成するなど当時の久々野町はスキーのメッカとして大変繁栄しました。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は文部省唱歌で「スキー」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「舟山スキー場の50年」についてお話ししております。

そもそも日本にスキーが入ってきたのは明治44年。
新潟に於いてオーストリアの軍人が滑って見せたのが始めでした。
飛騨ではその3年後、札幌農学校(現在の北海道大学)在学中の二木長右衛門さんが、オーストリア式
スキー(これは、一本杖で滑るスキーでした)を習得し、大正3年にスキー板を斐太中学に寄贈しました。
そのことをきっかけに大正8年には斐太中学にスキー部が設立され、授業の中にもスキーが組み込まれて
いました。この頃は、まだ飛騨でスキーが出来る人は少なく、一般に広まっていくのはずっと後の事です。

この頃のスキーはオーストリア式の一本杖のスキーとノルウェー式の日本杖のスキーがあり、どちらかと
いうと一本杖のものが主流でした。
しかし、大正13年(1923)に第一回全日本スキー選手権大会が開催され、2本杖が1本杖を成績で圧倒
したことから、全国的にも2本杖が主流となっていきました。

高山の原山スキー場が市営となるのが、昭和15年。
この頃になるとスキーは徐々に市民のスポーツとして浸透していきました。
古川でも気多若宮神社の裏山にこの頃スキー場があり、大正末から昭和30年頃まで使用されていました。
しかし、この頃のスキー場には、現代の様なリフト設備はなく、自力でスキーを担いで登り、スキー板をはいて
麓まですべると言うスタイルでした。

昭和26年に国民体育大会の冬季大会が北海道で開催されるようになり、全国的にスキー競技が一般市民
のスポーツとして広がっていきました。
全国的に雪国では、冬の経済を潤すスキー場経営が注目を浴びるようになり、夏には農業、冬にはスキー場
の経営を行う地域がどんどん増加し、全国各地にスキー場が出来て行きました。
そんな中で、舟山スキー場も昭和38年にオープンしたわけです。

開設50周年記念誌に、開設当時の桐山敏男町長の回顧録が紹介されています。
一部を要約してご紹介しますと
「昭和37年梅雨があがって初夏の或る日、町山岳会長 東政男君が突然町長室に私を尋ねて「町長さんご
多忙の中を恐縮ですが、陳情に参りました。実は過日、会の総会に於いて全会員の念願を以て久々野山岳
会のホームスキー場の建設を町当局に出願の件を決議しましたので、本日、私は会員の一丸となっている
切なるお願いと希望を荷って出願に及びました。と深く頭を下げられた。

私は東君の真執懸命のこの態度にど胆を抜かれるやら、感銘するやらで「よく解りました。そんなに堅く
ならないで話しましょう。」この事業は時代の要求であると思われるから私も真剣に考慮し相談すべき
機関とよく協議を整えて実現にこぎつけるべく努力いたしますと心境を語り、その運営はあくまでも町営
とすると為政者の立場を明確にし、山岳会の皆さんの協力を促してくれと私は申上げた。

彼は期待と喜びとの面持ちで元気に帰られた。(中略)はたせるかな第一次の工事は12月初旬立派に
予定通り完成致しましたので、12月23日積雪の深いゲレンデに於いて舟山高原スキー場此処にありと
天下に声明致しました。
スキーマンの危惧負傷なきことを願い、スキー場の益々の発展を心から祈って筆を止む。」
などと書かれています。

地元の発展の為に、関係各位の総力で造られたスキー場ですが、最近はスキー人口の減少や
スノーボーダーの増加。またそれに伴う事故の増加、少子高齢化の現状など、スキー場運営には
大変な課題が全国的に大きな課題が蓄積しているようです。
高山市も合併にあたり、不採算のスキー場を閉鎖をしたり、民間に経営を指定管理制度を使って
委譲したりしています。これからは飛騨地方のスキー場もオンシーズンとなりますが、どのスキー場も
借金がある上に、利用者が激減し、競争も激しくなって経営が厳しいようです。

平成2年マウンテンバイクのイベント



平成4年リフト完成


平成9年第二ペアリフト完成


さて、今年はひだ舟山スノーリゾートアルコピアでは、50周年を記念して数多くのイベントが企画
されております。
鐘を鳴らせる丘除幕式(アルプスの山々にこだまする幸せの鐘を設置)したり、
スノーフラッグ大会、雪玉ストラックアウト、サロモン杯第30回アルコピアジュニアスキー大会、
50周年記念アルコピアスノーカーニバル、大絶叫コンテスト、仮装デー、写真コンテスト
など数多くのイベントが開催されます。

随分楽しそうなイベントがありそうですね。詳しくはアルコピアのHPひだ久々野観光協会などで
ご確認ください。



さて本日も時間となりました。来週の放送は、雪の話題から「飛騨のかんじき」についてお話ししたい
と思います。どうぞお楽しみになさってください。
それでは、本日はこの曲でお別れしましょう。曲は松任谷由美で「ブリザード」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太(写真提供 ひだ久々野観光協会)  

12月28日放送分_飛騨の匠 三枝伊兵衛について

(12月28日放送分 第274回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

今年もあと残すところわずかとなりました。
今年はくれの暮に至って大変なことが起りましたね。

去る16日に行われた衆議院選挙に於いて、民主党がいくつかの党に分裂したうえに惨敗。
一方で、組織票固めをしっかりした自由民主党が政権を取ると言う結果に終わりました。
私どもの住む岐阜四区では、金子一義議員が地方選の議員として選出されましたが、
比例代表で維新の藤井孝男議員や今井 議員が選出され、全国でも珍しい一地区出身者
において3名も衆議院議員がお見えになると言う選挙区になりました。

前回も自民党の金子議員と民主党として今井議員、山田議員の3名がおられたわけですから、
この機会に地方の声をもっと国政により反映できるチャンスではないかと思います。

丁度先日26日に阿部内閣が信任され、内閣が組閣されましたが、今一番必要な政治課題は
経済問題だと思われます。
この岐阜四区においても、大企業のソニーの美濃加茂工場が閉鎖されたり、飛騨地区の観光
にも不景気の波がボディブローのように影響してきています。この部分を何とかしていただきたい
と思います。

私は、以前輸出企業の海外営業部にいましたので、最近の行きすぎた円高が一番の問題だと
思っております。
企業では、たとえば、100円掛かって商品を作ったとしますと、だいたい200円位で最終的に販売
できるような価格設定をいます。その差額100円は、営業経費であったり、問屋さんの利益であったり、
また小売店の利益であったりするわけです。

それが、海外に輸出する場合は、FOBといって船積み価格を設定します。
わかりやすくいうと工場から出荷した価格に多少の利益を載せて、通関手数料や運賃を加算した
金額です。そういったものをFOB(フリーオンボード)というのですが、その価格で輸出するわけです。
経験上、FOBは国内に出荷する金額よりは少ないですから、だいたい、70円から80円位の金額に
なります。そうしますと、例えばアメリカに出荷した時に1ドル100円ですと80セント、そして現地の問屋
さんにいくとそれが1ドルくらいで卸されるわけですから、価格が安定していれば国内販売と同じですから、
大して問題ありません。

ところが、これが、1ドル=80円となりますとこっちに入ってくるお金が、80x80セント=64セントとなるわけ
ですから、16セントも損をすることになります。

もし、損をしたくないと言って16セント分上乗せをしますと、1.16セントで販売することになります。
16%の値上げになるわけです。これが、最終的に小売金額で換算すると2.32ドルとなりますから、
32セントも値上げになります。

これが、韓国との価格競争差を生んでいまして、韓国のウォンは5年ほど前は100円→1000ウォンでした
が、現在は1円→0.08ウォンですから、100円だと800ウォンになります。ちょっとわかりにくいので整理します
と、5年ほど前1$=100円=1000ウォンのものが、現在は1$=80円=640ウォンとなりますから、韓国
の商品は3割以上も安くなっていることが分かります。
この価格差が、アメリカで日本の商品が売れない原因となり、当然、利益も生まれませんから、
電機メーカーが工場閉鎖に追い込まれている理由の一つです。

私もかつて電機メーカーにいましたので、毎日外国為替レートをチェックしていました。
その頃が25年前ですが、1$=240円→180円の時代でした。80円近くレートが上がったので大変でしたが、
今は1$=80円の時代。これでは日本の輸出企業はほとんどやっていけません。
日本は資源が無くて外国からものを仕入れて、高い付加価値を付けて売る。この時代が終わってしまった
ら明日の日本はありません。貿易黒字をどんどん拡大しないと、日本経済は破綻してしまいます。
政治力で何とかしていただきたいと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、本日の放送にうつりましょう。
本日の放送は4週目ですので、匠の話をしたいと思います。この所、屋台のお話しをしてまいりましたが、
7月に匠の事を調べに長野まで行ってまいりました。今日は三枝伊兵衛についてお話ししたいと思います。

高山の旧市役所である市政記念館とか古川の大きなお寺本光寺とか、前の市役所の庁舎として
使われていた東小学校の建物ですとか、数多くの建造物を残した坂下甚吉という人物がいます。
この坂下甚吉は現在知られているだけで、7代目から9代目の3人が知られていますが、一番活躍
した8代目の坂下甚吉の異母弟に三枝伊兵衛という人がいました。

5年ほど前に行いました飛騨の匠展の時には、明治時代の工匠と言う事で取上げておりませんでした
が、素晴らしい建造物を遺して居ります。後半で詳しくお話ししましょう。

ちょっとここでブレイクしましょう。曲は長淵剛で「とんぼ」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「飛騨の匠 三枝伊兵衛」についてお話ししております。

実は、飛騨の匠展の時に、この伊兵衛のお孫さんがお見えになり、私どもが調査に来るのを待って
おられました。ところが当時、会の方針で明治時代の大工さんの数があまりに多いので、江戸時代の
終わりに「●●守」の称号をいただいたことのある大工さんとその末裔の方に限定して調査しました。

その為、村山家は陸奥守家。谷口家は権守家といったように著名な大工さんであるとして判断した
経緯があり、三枝伊兵衛はその枠から外されました。
出自を調べてみると、八代目の坂下甚吉とは異母弟ということになっていましたが、実は、戸籍など
から伊兵衛の父の儀兵衛が坂下家に一時養子に入り、8代甚吉が生まれますが、その後離縁して
子どもを置いて家を出て、三枝姓を名乗り、再婚して出来たのが伊兵衛で有る事がわかりました。
この異母弟という話しはどうやら正しいようです。
また父の三枝儀兵衛が7代甚吉であった可能性がでてきましたが確認していません。

さて、伊兵衛の遺した建物で有名なものは、飛騨にある建造物では、明治27年11月3日に竣功した
高山町役場=現在の市政記念館を坂下甚吉と一緒に建造していることが「棟札」によりわかります。

また、明治29(1893)年10月には宮村山下にある三木家。
明治32年3月19日国分寺本堂図面(これは修理と思われます)
明治33年3月 馬瀬村桂林寺経蔵、

明治36年6月10日高山伝染病院建物工事入札~明治36年9月30日高山伝染病院建物 
総費用4697円50銭8厘(うち建物建設費用3212円50銭8厘)
明治37年5月には高山西ヶ洞火葬場を建造したことが遺族の文書に残っています。

また、明治44年7月29日別院大門起工に関わり、明治45(1912)年2月4日大野郡議会議事堂や
大正2年9月5日 大名田村江名子分教場落成したことが『大野郡史』などとなっています。

こうしてみますと、結構大きな建造物に携わる事が多く、一流の大工さんとして活躍していたようです。
この中で、高山役場建物(現在の市政記念館)や別院大門の起工などには8代目の甚吉と一緒に行動
をしていたようです。
高山伝染病院工事や大野郡議会議事堂に関しては単独で建設工事にあたっています。

ところで、大野郡議会議事堂については、どこにあったのか、かなり調べました。
飛騨高山まちの博物館の学芸員の方とか、市史編纂室の田中先生。郷土史研究家の先生にもお尋ね
したりしましたが、どなたも御存じありませんでした。
たまたま、ご遺族のところに遺品として残っていた物の中に、棟札がありましたので、場所を特定して
いきました。

結局、高山陣屋の場所が当時、岐阜県事務所があったこともありましたので、陣屋の可能性が高いと
調べましたら、現在の役宅跡の場所に大野郡の議会議事堂があったことがわかりました。
これについては、高山に写真等は残っていませんでしたが、松本にあり、複製させていただきました。

そうして、飛騨で活躍していた伊兵衛でしたが、活躍はそう続きませんでした。
実は、大正年間に南小学校建設中、台風に遭い、会社が倒産してしまい、子供二人を連れて松本市へ夜逃げしていたことが分かりました。
そういったこともあって、7月に松本までお邪魔して、伊兵衛の活躍について調べた次第です。

松本では、東松本付近に住んでいたようですが、ある程度落ち着いてから、弟子の田之上徳三郎
を呼んで仕事を再開しました。
松本市郊外には、保福寺建造したり、大正7年2月には小池神社を建設しました。



この時には高山より山口文之助を呼んで建造しました。また、どの屋台かどうかわかりませんが、
大正5年2月には松本市の屋台を数台作っていることがわかりました。

ただし、これについては、松本市の屋台について大変お詳しい、深志神社の小林先生にいろいろと
教えて頂きましたが、どの屋台に関わったのか特定ができませんでした。松本の屋台はどちらかと
言うと舞台の付いた名古屋型のものが多く、ご遺族のところに残されていた設計図は、どちらかと
いうと高山型の屋台に舞台を付けたような形のものでした。
そのため、どの屋台を建造したかまでは解りませんでしたが、松本にも飛騨の匠が建造した屋台が
2台存在したことが分かりました。

そのほか、松本近郷の神社を建造したと言う記録がありますが、いまだ特定に至っていません。
ただ、大隅流や立川流の大変立派な神社群がある地域で、伊兵衛はかなり苦労したであろうという
ことは感じました。高山の資料では命日もわかりませんでしたが、伊兵衛は昭和3(1928)9月25日
 松本市で亡くなったということがわかりました。

さて、そろそろ時間となりました。今年も一年お世話になり大変ありがとうございました。
皆様にはどのような年だったでしょうか。今年がよかった方も悪かった方も、来年もいい年になります
ようにお祈りしております。
今年は、この曲でお別れしましょう。曲の方は研なおこで「あばよ」をお届けします。
それではまた来年1月4日にお耳にかかりましょう。どうぞよいお年をお迎えください。

徳積善太  

12月21日放送分_大関緋威清一郎について

(12月21日放送分 第273回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

2週間前になりますが、とうとう本格的な冬が来てしまいましたね。いつもたいていはクリスマス
過ぎに大雪が降る事が多いのですが、12月初旬に降雪を記録したと言うのは平成8年以来、
16年ぶりの事だそうです。

私の記憶では、いつも12月は降雪が少なくて、スキー場を悩ませていましたが、今年は12月から
十分な雪が積もりましたから、スキー場はホクホクでしょうね。最近では雪が無いと降雪機を
フル稼働して夜中の気温が下がる頃に、雪づくりをしないといけないそうです。今年はかなり
早くからの積もったわけですから、そういう面ではコストが下がったことと思いました。

ところが、久々野観光協会さんによりますと、スキー場開きは今週の末の22日に開催するので
お客さんを受け容れできない。おまけに今年は設立50周年と言う事で、式典を予定していて
何もできない。圧雪にしてあれば別だが、おそらく溶けてしまうでしょう」ということでした。

ただ、この雪ですが、今週末に開催いたします、ゆるキャラクリスマスin飛騨高山ではちょっと
困ったことになりました。
先日、ステージを予定していた場所に雪よけされた雪が大量にたまっていましたので、実行委員
で除去しました。実に軽トラで20杯分もの雪を宮川に運びました。
今年は、ゆるキャラがのべ合計35体、高山市外からは27体のゆるキャラが来てくれます。
彼らが動きやすいようにこれ以上雪が降って貰いたくないと思います。

ゆるキャラは一昨年のゆるキャラグランプリを取った熊本の「くまもん」ですとか、昨年素晴らしい
ダンスを披露してくれた「タボちゃん」。岐阜柳ヶ瀬商店街のやななとか、有名なゆるキャラが参加
してくれます。
また、11月1日に高山市で特別住民票をいただいた、9つのキャラのうちが参加してくれることに
なりました。

また、夜には提灯ライトアップが古い町並みで22-24日まで開催されますので、ぜひ、皆さんもお
出かけいただきたいと思います。

さて、ゆるキャラが参加してくれるのですが、困ったことに足には長靴の様な滑り止めがありません。
また降ってしまうと大変に困ります。いま、お手製のかんじきのような物を作って履かせようかと、
実行委員会で話し合っておりますが、足が大きいのでフリーサイズでどんな大きな足が来てもちゃん
とぴったりするような物を考えないといけません。
そこでこの前、若い人と「かんじき」について話していた時に、言葉も道具も知らない事がわかりました。
「雪の時に履くわっかの様なもので、これをはくと雪に沈まないんだ」と言いましたら、

「ああ、スノーシューのようなもんですね」と言われ、大笑いをしました。

飛騨に伝わる昔の道具をもっと学校などで教えてもらいたいなと思った次第です。


さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、第三週目ですので、古川のお話をしたいと思います。
先週の放送の時には、何を話そうか迷っていたのですが、今日はお相撲の話をしたいと思います。
9月にこの放送で、古川の屋台「白虎台」のお話しをさせていただきましたが、その時に古川の案内人 
鮎飛定男さんのお宅にお邪魔しました。
裏の離れでお話しを窺ったのですが、その離れには、沢山の骨董品が並べられていました。
骨董品とはいってもそんなに古い物ではなく、珍しい物が多く並べられていました。

その中に、ひときわ目立つ漆塗りの形の変わったものがありました。
よく見ると、お相撲の軍配です。その軍配を見せて頂いた時に、かつて古川には、大関まで上り詰めた
緋縅(ひおどし)関がおられ、大正の初めに古川に凱旋され、その時に子どもたちに配られた軍配だと
言うお話を聞くことが出来ました。今日は、古川の関取、緋縅清一郎についてお話ししたいと思います。

飛騨の関取と言えば、古くはお酒の名前にもなっている「白真弓肥太右衛門」。
最近では、前頭筆頭にまで上り詰められた「飛騨の花」関が有名ですが、緋威の名前はあまり知られて
いません。
白真弓が有名なのはお酒の名前になっていることも有りますが、各地に白真弓関の石碑が建てられて
いる事も有るとおもいます。たとえば、高山市には国分寺境内に。白川郷では平瀬スキー場に絵などが
飾られており、彼を顕彰する活動もかつて行われていたようです。

ところが、緋威関については、古川の気多若宮神社に自身が建立した石碑がひっそりとあり、また林昌寺
に彼の死後、建立された石碑があるのみです。
このほど、林昌寺では開創されて600年になるのを記念して寺史を作られることになっているそうです。
そこで、この緋縅清一郎のことも取り上げ、彼を顕彰する予定になっているそうです。
後半では、彼の生い立ちについて詳しくお話ししましょう。
ちょっとここでブレイクしましょう。曲は「    」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「飛騨古川が生んだ大関 緋縅清一郎」についてお話ししております。

さて、緋威清一郎と言う人は、何時頃の人かといいますと、江戸時代の終わりの頃から明治時代にかけて
活躍された方のようです。古川の歴史の事を紹介した「古川町歴史探訪」と言う本に詳しく紹介されています。

緋威清一郎は本名を東原弥兵衛といい、安政二年(1855)11月13日に、父東原清兵衛の長男として
古川に生まれました。弥兵衛は、17歳当時で身長が六尺ですから、約180cm。体重は20貫ですから、
だいたい75kgあり、当時としてはかなりの体格の持ち主でした。
こうやって紹介したら、私の高校時代が179cmの68kgですから、大体同じような体格だったと思います。
高校時代に私も大きい方でしたが、それよりも大きいわけですから、明治時代となるとかなりの巨漢だった
と思われます。

彼は、力試しの盤持石の持ちあげ競争などではいつも一番で、また近所の子供を集めた相撲遊びでは、
彼にかなう者はいなかったと言われています。

その後、弥兵衛は、京都相撲の華ノ峰善吉に入門し、緋縅清一郎と名乗りました。この緋縅という名前は、
そもそも鎧(よろい)の縅の一つで、クチナシやキハダで下染めした上から紅で染めた紐(ひも)の事を言います。
よく鎧で赤い色の鎧の事を、緋縅と呼んでいます。

(いこ名は)古くは、初代緋縅 力弥(ひおどし りきや)という明和9年(1772年) - 文政13年2月22日(1830年3月16日))
江戸時代に大関まで勤めた力士がいました。安芸国山県郡出身で、幕内生活21年という驚異的な持久力。
上位陣にはあまり通じませんでしたが、下位には取りこぼしも少なく、運良く1場所だけ大関に昇進しました。
引退後は「赤翁」と称し、養子であった錦幸太郎改め、2代目緋縅力弥(緋縅力弥)の活躍を楽しみとした。
この緋威の三代目を継いだのが緋縅清一郎だったと思われます。

清一郎は、明治19年(1886)7月4日に古川町向町に在った一向寺において、相撲興行をしたことが知られて
います。その後、稽古に励んだ清一郎は、明治25年5月に京都で行われた夏場所の相撲番付で西の正大関
として活躍しました。

この頃の、大相撲は、相撲自体が国技として指定され、各学校においては、少年相撲として取り入れられて
いました。
また、この頃の相撲協会は、江戸時代の初めに、東京、大阪、京都、名古屋や広島といった大都市を中心に
相撲協会があり、次第に合併を繰り返して、大正時代には東京相撲協会と大阪相撲協会の二つがありました。
これが合併されたのが、1927年の事で、その頃の大相撲本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月
(関西)の計4回を11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されていました。

さて、緋縅清一郎は引退後、大正4年(1915)10月11日に地元古川尋常高等小学校に来校し、大阪相撲が
真宗寺境内で二日間の興行を行っています。引退後、師匠であった華ノ峰善吉を崇敬していたのか、華之峰
清一郎と名乗るようになりました。古川町上気多の気多若宮神社にある奉納された額には、至る誠、感じる神
と書いて「至誠感神 奉納華之峰清一郎、渡辺一郎」と書かれています。

 緋縅清一郎は、晩年を京都で過ごし、大正十二年四月一日、京都において68歳で亡くなりました。
生前、郷里の古川に記念碑の建立が計画されていましたが、なかなか叶わず、彼が亡くなって十数年後の
昭和9年(1934)に古川の片原町にある林昌寺に「華之峰清一郎碑」が建立されました。
今でも、林昌寺の墓地に石碑が建っています。

あと少し時間がありますので、岐阜県出身の郷土力士についてお話ししたいと思います。
かつては、飛騨の花が活躍していた頃は、地元飛騨も出身地の朝日町で、今も続いている「どすこいまつり」
が開催されたり、大相撲の地方巡業があったりして、相撲に対する認識が結構高かったと思います。
最近は、大相撲そのものが、横綱白鵬にしても日馬富士にしてもモンゴル出身。三役のうち日本人は、11人中
6人と言った具合で、国際化が進んでいたり、八百長問題のような不祥事もあって、以前のように満員御礼が
出ることが少なくなりました。
そんな中でも地元出身の力士は、4人いて、序二段の西十九枚目に椿富士。東二十枚目に琴大和。西二十六
枚目に棚橋。西九十七枚目に栃岐岳が頑張っています。また西の68枚目には飛騨野という力士がいますが、
富山県出身です。どうぞ、地元力士を応援してあげて下さい。
さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、第4週目ですので匠のお話しをしたいと思います。どうぞお楽しみに。
本日はこの曲でお別れしましょう。曲の方は「       」をお届けします。
それではまた来週、お会いしましょう。

徳積善太(不許複製)  

12月14日放送分_教如上人と飛騨について

(12月14日放送分 第272回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

11月の末に「飛騨高山旅館ホテル協同組合100周年」記念シンポジウムがあり、参加してまいりました。
写真家の浅井慎平さんがコメンテイターの一人として参加されていました。
その他、高山市長、観光協会長、JTB支店長、高山商工会議所青年部会長、高山青年会議所理事長
などがコメントをされました。

浅井さんは「100周年にあたり、これからの100年を考えるのに今迄の100周年を見たうえで今後を考え
ないといけない。」とお話しに也、国島市長はその話しを受けて「そのためには、人づくり、ホスピタリティを
育てることが大切」とのことでした。
また、席上、堀観光協会長から、「平成26年度に北陸新幹線が開通するので、富山・高岡・金沢から高山
への二次交通を考えないといけない状況にあるとか、今年の12月には観光協会のTVCMが出される」と
言う事を発表されました。

以前、一昨年でしたか、この放送でも北陸新幹線の話題を取上げたことがありましたが、やっと北陸新幹線
の話題が出始めたと思いました。
すでにこの二次交通については、白川郷でかなり以前から取り組みがなされ、東海北陸道を使った高速バス
運行が行われています。高山は白川郷~金沢便が運行されていますが、高山~金沢便は白川郷経由で一日
2便。白川郷~金沢はもう一便運航されています。

また、11月17日からは高岡便が3月までの限定ですが、一日2便試験運行が始まりまっています。
これからの高山のアクセスを考えた場合、高岡までが白川郷経由で2時間20分。高岡から東京までが2時間で
繋がりますので、おそらく従来の名古屋経由のJR、高速バスの松本経由東京行きの便を考えると、北陸廻りが
一番早い時代が来るのかなとおもいます。
ただし、丁度いいアクセスのものがありませんので、どの程度利用率があがるかは、これからだと思います。

ちなみに、最近私が東京へ行くとなると、朝5時に車で高山を出発し、松本ICに車を止めます。6時半の高速
バスで慎熟着が10時。仕事を終らせて、新宿最終が8時20分。松本から高山に帰ると12時ちょっとすぎには
高山に帰る事が出来ます。最近は、そうやって東京に行っています。

また一度、長野経由で新幹線で行ったことも有りますが、JRの料金が高いことと、長野新幹線は最終到着駅
が東京駅なので、新宿の方が便利です。そんなルートも有ります。

また、話を戻しますが、100周年のシンポジウムで、浅井さんが「ぶらり歩きができる高山の町を創り、そういう
ものが面を成していくような事が必要なのでは」と言うお話でした。
これは、最近、高山の街の中に至る処に看板を見かけます。そういった物を増やしたりすれば、散策も楽しく
なるし、地元の文化や歴史についても知る事が出来る。これは大変面白い取り組みだなと思いました。
私もこの放送を通じて、高山の歴史文化をご紹介したいと思っておりますが、そういう取り組みも大切だと思い
ました。

さて、前置きが長くなりましたが本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、先週予告をしましたように、東本願寺教祖 教如上人と飛騨の関係についてと言う事でお話
したいと思います。

実は、昨年は蓮如上人の600回忌法要が東本願寺・西本願寺の本山で催され、沢山の信者の皆さんが京都
へお越しになる行事がありました。しかし、ご存じのように東日本大震災が起こり、こういった計画がとん挫し、
あちこちのバスツアーが中止になったと聞いております。高山からも沢山の信者の皆さんが京都にお参りに
行かれる予定でしたが、中止になったと聞いております。

こういった行事は、旅行代理店が計画しておりますので、本山の行事とは別に商業ベースでどんどん大きくなる
傾向があります。ところが、今回のようにひとたび中止になると、損害も有りますから、次の企画をと言う話しに
なります。

実は先日、ある旅行社の方から知り合いのお坊さんに相談があり、来年4月は東本願寺の教如上人の400回忌
法要が本山で営まれます。その時に、教如上人とゆかりのある高山の照蓮寺に立ち寄りをしたいのですが、
協力してもらえませんかと言う事でした。
私の知り合いのお坊さんは、そういった商業ベースのことに協力をするということは、宗教上できない。しかし、
地元高山の方や飛騨の方が、教如上人のように東本願寺にとってとても大事な人が、一時期飛騨に逃げて
来ていたことがあったリした事はご存じない。そういったことを皆さんに知って頂くには大変いい機会なのでは
ということをおっしゃっていました。詳しくは後半でお話します。

ちょっとここでブレイクしましょう、曲の方は「   」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「教如上人と飛騨の関係」についてお話ししております。

さて、教如上人と言う人は、戦国時代に摂津石山本願寺の戦いで父顕如と共に織田信長に対抗し、最後まで
信長に屈せず、戦い続けた人として有名な方です。
飛騨へは、当時、本山が危機にあると言う事で、門徒の人たちに本山の危機に対して協力をしてほしいと
手紙がしたためられ、沢山の方が飛騨から石山本願寺の方に出向かれて織田信長と戦いました。
現在でもその時の手紙が、神岡の常蓮寺などに残されています。

顕如は織田信長と徹底抗戦をするために、長男の教如に武田信玄から娘をもらい、縁戚関係を結びます。
武田信玄は織田の背後から尾張三河を攻めようとしたのですが、その武田を越後の上杉が討とうとする為に、
有名な川中島の戦いが5回にわたって繰り広げられ、信玄は中々織田信長を攻めることができませんでした。

顕如は信長の包囲網を門徒衆で造り、長島の一向一揆ですとか、加賀・越中の一向一揆をおこし、信長と
徹底抗戦します。そのため、石山本願寺の戦いは10年にもわたる戦いを繰り広げました。
最後には、顕如が信長と和睦しますが、子の教如は徹底抗戦をはかり、追われる身となります。その後、
秀吉の天下になり、秀吉の命によって本願寺12世としての職を解かれ、弟の准如が本願寺12世となります。

そのため、教如は追われることになりました。そのため、全国各地を流浪することになり、一時期は、飛騨の隣の
明宝村にある気良(けら)と言う地域や、越前大野にある南専寺、飛騨の照蓮寺、南砺市付近にいたことがあり
ました。

この間、後に飛騨の国主となる金森長近とは、茶の湯を通じて教如と関係がありました。
このことは現在、東等寺の竹田さんがお調べになっておりますが、茶会記などにはかなりの回数、長近と教如が
一緒に時間を過ごしていたことが知られています。

そういうこともあり、長近が高山に城下を形成しようとしたときに、自分の留守を浄土真宗門徒に守らせることを
考えつき、当時一番飛騨一円に流布されていた浄土真宗を長近が庇護しました。
そのため、金森長近は、石徹白彦左衛門を通じて、当時白川郷の中野に照蓮寺を構えていた明了に対して、
高山に照蓮寺を移転することを働きかけました。

その時の手紙に「新門跡様もそう申しておられるから」という一節があります。
この新門跡様と言うのは教如上人の事を指すと考えられます。すでに長近が教如上人に飛騨の治安の事を
考えて、浄土真宗の門徒に国を守らせることを相談していたことが分かります。
結果的に、城下町造りにおいて、江名子川と宮川の2つの川を掘りにみたて、その内側に飛騨の浄土真宗の
総本山とも言える照蓮寺を高山城の門に対峙させるように建造させ、その周辺に8つの坊を作らせました。
これはあまり気がつかない事ですが、現在も高山城の江名子川を堺にして内側=城側には浄土真宗の寺院。
そして城の外側には、浄土宗、曹洞宗、臨済宗、法華宗の寺院が造られていることからもわかります。

また『飛州志』には、御側衆=御噺衆として、長近が秀吉の側に常にいるのを見て、秀吉が長近に尋ねます。
「そなたは、いつも私の傍らにいるが、自国の首尾は大丈夫なのか」。
その時に、長近は「私には優秀な部下がおります、浄土真宗の門徒たちが飛騨を守っております」
と申したために、「それは殊勝なこと」として、照蓮寺に仏様が下賜されました。それが現在も高山別院の御本尊
としてお参りされている仏像であると言う逸話が残っています。

その後、関ヶ原の戦いにおいて、関ヶ原で勝利した徳川家康が大津で陣を引いていた時に、長近が家康に教如を
合わせると言うことをしました。
その時から、徳川家康と教如上人との関係がもたれたことが、最近発見された書状の研究でわかっております。

したがって、教如上人と金森長近とは非常に親しい間柄であったことが推定できます。
この後、慶長8年(1603)に徳川家康は、教如上人に東本願寺を建設することを許可します。一説には
巨大すぎる本願寺勢力を二分する目的で造ったとか、関ヶ原の戦いに協力した褒美であったといいますが、
実際は、教如上人は教祖になる事を拒んだとも伝えられていますので、本当のところは解りません。

結果的に、本願寺派と大谷派の2つの本願寺勢力が誕生し、飛騨の門徒衆の大半を押さえていた照蓮寺は
教如とのご縁から、大谷派の方に所属する結果となりました。
そういったこともあって、飛騨地方には東本願寺派=大谷派の寺院が多いのだと思われます。

さて、本日も時間となりました。
来週の放送は、このところしておりませんでしたので久しぶりに「古川」のお話しをしたいと思います。
どうぞお楽しみに。本日はこの曲でお別れしましょう。曲の方は「       」をお届けします。
それではまた来週、お会いしましょう。

徳積善太


徳積善太  

12月7日放送分_筏橋について

(12月7日放送分 第271回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

皆様には2週間ぶりの放送となります。いかがお過ごしでしょうか。
私の方は、コンサートがあったり、仕事も忙しくて結構バタバタしておりました。
実は、今月の23日24日に今度はゆるキャラクリスマスin飛騨高山のイベントがありますので、
その準備が架橋に入って来て、かなり忙しい状態です。

このイベントは、今年、飛騨高山旅館ホテル協同組合が創立100周年を迎える為に、その記念
事業の一環として開催されます。私たちは、昨年の第一回をやった関係で、実行委員のメンバー
としてご協力させて頂いているのですが、開催まであと1カ月を切りましたので、準備に余念が
ありません。

今年は、昨年より多い、32体のゆるキャラが全国から集結します。
昨年のゆるキャラグランプリで一位になった熊本の「くまもん」ですとか、庫年度で引退する
岐阜柳ヶ瀬商店街のキャラクター「やなな」など、有名なキャラクターも参加して下さいます。

また、今年の11月1日にあった高山市政記念日に、特別住民票の交付がなされましたが、
お猿のくうを始め、地元の7体のキャラクターが出演してくれます。特別住民票を高山市
からいただいたお披露目会ということで、イベントの最中にステージを計画しています。
どうぞ、皆さんも高山陣屋前に遊びにいらしてください。

ところで、旅館ホテル協同組合の100周年の記念式典が11月29日にひだホテルプラザで
行われました。100年と言うとすごい節目ですが、大正元年8月に高山宿屋営業組合として
43軒の旅館によって設立されました。
当時は、「衛生思想の向上普及、結核予防法、トラホーム予防法などの防止を貫徹する」ことを
旨として設立されたようです。大正時代の事ですから、まだ衛生状態がよくなく、こういった防止
・予防に組合を挙げて取り組もうと言うことだったようです。

その後、昭和六年には組合員が68件になり、地域によって5つの区域に分けられました。
この時から現在も営業を続けておられる旅館は、みなみや、本陣平野屋・長瀬旅館・吉野屋の
4軒のみだと言う事です。
その後、100年の栄枯盛衰があり、会員数が一番大きな時で204件(昭和54年)にもなりましたが、
現在は68件の方が加入されているようです。

ただし、部屋数の大きな旅館・ホテルが増加したために、総部屋数ではあまり違いはなく、平成8年に
収容人数8529を数えましたが、現在は7247と、収容人数だけ見ると昭和53年からほぼ横ばいで
推移しているようです。

現在、高山市全体では、合併も有りましたので宿泊客数が大体200万人。昨年は1割減で180万人
だったようですが、そのうち旧高山市内地域では100~110万人の方が宿泊されています。
高山の主幹産業の一つとして、経済的に大変な貢献をされているのがこの旅館ホテルの皆さんなん
ですね。
現在、全国的に東日本大震災のあと、不景気が続き、長引く不況が徐々にボディブローのように効いて
きていますが、この組合に加入の皆さんが元気にならないと、高山の経済が上向かないと思われます。

宿泊客数は1割程度減少してきていますが、ここには価格競争や他の地域との競争も有ります。
おそらく、売上的には落ちてきていると思われますので、100周年を契機に頑張って頂きたいと思います。

さて、本日の放送に入りましょう。
本日の放送は、このところ毎月初めにお届けしておりますが、宮川にかかっている橋の話しをしたい
と思います。
今迄の放送では、宮川に古くからあった3本の橋=鍛冶橋、升形橋、中橋のお話をしてまいりました。
天正14年に豊臣秀吉の武将金森長近がこの地を安堵されて以来、現在の城下町の元となる町づくり
が行われました。実際にこの城下町は、建造に16年かかったと言われています。
当初、宮川の流れを変えて、城山の下で蛇行していたものをまっすぐにし、架けられたのが今申し上げた
3本の橋でした。

ところが、現在は、高山の上流から下流にかけては、若宮橋、石浦橋、片野橋、千島橋、和合橋、
枡形橋、中橋、筏橋、柳橋、鍛冶橋、弥生橋、宮前橋、不動橋、連合橋、万人橋、松本橋、四十九院橋
と上流の石浦町から下流の下切町に至るまで17の橋が架けられています。
調べてみるとそれぞれ、架けられた年代は異なるものの、大体戦後になってかけられた橋が多いよう
です。それぞれの橋の成立については、今お調べしておりますので、またこの番組でも取上げて行き
たいと思いますが、今日は、筏橋についてお話したいと思います。

そんな話をしておりましたら、もう前半の時間を使ってしまいました。
筏橋について、後半で詳しくお話したいと思います。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲の方は「       」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「宮川の橋 筏橋」についてお話ししております。

さて、筏橋について調べようと思いましたが、意外や意外。橋について詳細に書かれた史料がそんな
に存在しない事がわかりました。とりあえず、筏橋の現地に行ってみると、朽ちてしまって読めない
看板や、石碑に刻まれた石板がありました。まず、そちらについて紹介したいと思います。

まず、看板の方ですが、筏橋の東詰のところで、かつてお団子屋さんがあった場所に木の看板が
あります。こちらの文字はかなり消えてしまっていて、解読が大変でした。
その看板と南側にある秋葉様の間に石碑がありますが、同じような内容ですので、石碑の方に
書かれている内容をご紹介します。

「その昔、筏橋は味噌買い橋といった。宮川の川西に住んでいる人達が川東の味噌屋へ味曽を買い
に行くとき渡った橋である。当時は杉の平角を筏形に組んだ橋であった。文政二年(1819)7月向町組
(本町)をはじめ最寄りの十二組の協力を得て新しい橋に架け替え 筏橋と命名したという」

どちらの情報も味噌買い橋と呼ばれたことについて、書いてありますが、この味噌買い橋の話しが、
小林幹先生の作り話だったと言う事は、以前平成23年6月3日の放送でお話しさせていただきまし
た。グリム童話をもとに造られたというお話でした。

文献史料で何かないかと思い、探してみましたら、昭和40年代に高山の市民新聞として親しまれて
いました日の出新聞には、山都町内風土記というタイトルで、次の様なことが書かれています。

「筏橋詰(片原町)の秋葉社は明和二年(1765)の勧請といわれる。いまの本局通りは行き止まりに
なっていて、筏橋はなかった。文化十五年(文政元年)にはえび坂が大々的に改修されたが、翌文政
二年(1819)向町(本町二丁目)の押上屋六兵衛らが架橋を発起し、三町から空町へかけて関係地区
十二組が費用を負担した。材木を三本づつイカダのように組み合わせたので、イカダ橋の名がつけられた。

翌三年、この六兵衛はまだ二十七歳の若さ、去る文政元年に十八歳で死んだ妻の残した一子直太郎
(五歳)がいたが、家屋敷を質に入れ、大坂屋(永田)から借金をした。保証(親類)立会(両隣りと組頭)
で調印したあと、「十両」とある地の上が空白なので親類の松井屋が不審に思い、仲介人の北野屋へ
問い合わせると「七十両」だということが判明。
そこで松井屋が六兵衛を責め立てたところ”実は女があるので…”と白状。

町方(有楽町、相生町へん)に住む「なよ」といって六兵衛よりも三つ年上だが「藤の花」とあだ名のある
水のタルような美人である。二人はもうカケ落ちの約束をして女は”あとからおいで”と昨日、お先に
旅立っている始末だった。早速追手が出されて、美濃の国菅原でなよを引き止め十一月四日夜、連れ戻し
て家に入れた。

(中略)町方の家をタタませた費用やアレヤコレヤで三十両不足するのを本母の清七で借りて大坂屋へ
元利返済した。その後、押上屋は郷宿(吉田薬店→ルミディあたり)郡中会所(今なら三郡の町村会館)
となり、翌五年、六兵衛は御用金を宰領して江戸へ趣き追々と三郡連合会書記長のようになった。(中略)

オソマツな筏橋はわずか四年目で早くも破損。五月、架け替えを総町内へ申し出たところ、”最初に架けた
とき相談が無かったから”と断られるありさま。十二組が負担してようやく修理した。
その後、大雨のたびに流失するので頼母子講(全市内有志)を募集しては架け替えた。巾六尺、ランカン
もあり、長さ十六間で松角二間材、五寸十九本と四寸百十二本にクリ角九尺材、五寸六本の合計百三十七
本とある。板橋となったのは明治三十四年で、三月十五日、谷口庄三郎氏の一家三組の夫婦が渡り初め
した。記念に白米五俵を生活困窮者に与えた。

谷口氏は八日町(国府村)のもと名主で、むかし赤田屋新助(臥牛)が酒屋をしていた上一之町(児童相談所)
へ移り、酒屋を始め、一時は飛騨国で造石高ナンバーワン(一千三百石)だった。
分家は古川一之町で創業して、全盛をきわめたが、大正中期、両家とも退転した。」などと書いてあります。

現在、上三之町には「武田屋」さんというお味噌屋さんと「丸九」というお味噌屋さんの二軒が残っていますが、
現在の船坂酒造のところには、「大文」という酒屋さんとお味噌屋を販売していた森七の分家の大店があり
ました。
ここに向けて川西地区の人たちが味噌を買いに来た時に渡ったのでこの異名がついたものと思われます。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、「浄土真宗大谷派の初代 教如上人と飛騨の関係について」
というお話しをしたいと思います。どうぞお楽しみに。それでは本日はこの曲でお別れしましょう。

曲の方は「         」をお届けします。それではまた来週、お会いしましょう。

徳積善太  

11月23日放送分_飛騨の屋台(神楽台)について

(11月24日放送分 第270回)みなさんこんにちは。飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者第二号、わたくしながせきみあきがお届けしてまいります。

高山もとうとう初雪が降り、観光の方への影響が懸念されましたが、その後は寒いですが雪が
降る事はなく、推移しています。ただし、観光客の皆さんはちょっと減った感じがしますね。
いつも紅葉がシーズンの頃は沢山のお客様でにぎわうのですが、一度雪が降ってしまうと
ぱったりとなります。

それもそのはず、大阪に近い京都ですとか、名古屋に近い香嵐渓と言った近場の紅葉スポットが
オンシーズンになり、どうしてもそちらのほうにお客さんが流れる傾向があります。

先日、下呂方面に営業に出かけたときに、金山の玉龍寺で紅葉を見てきました。

境内のもみじは、しだれ桜の様に枝が上の方から垂れ下がっていて、独特の雰囲気を醸し出して
います。赤や黄色のもみじが大変きれいですが、あまり知られていない場所の為にお客さんは
まばらでした。

そのときに、名古屋からお見えになった老紳士の方に、「今日は下呂から来たけれども、温泉寺の
紅葉が見事だった。今が見ごろだよ」と教えて頂いたので、早速帰りに下呂の温泉寺に寄ってみました。

温泉寺と言うのは、下呂の旧市街地湯之島地区に在ります。
湯之島地区からは山の方に階段を上がっていったところにありますが、実は、温泉寺之上の所に
湯之島館という下呂では老舗の旅館がありますので、そちらの駐車場の方から下りてきました。
ちょうど湯之島館の駐車場から下にある温泉寺にかけてのところに植えられている約80本のもみじが
植えられています。それぞれのもみじに「何某さんに感謝して 慈悲もみじ」などと札が架けられています
が、これは檀家の皆さんや地縁のゆかりのある皆さんがお寺に寄進されたものだそうです。

今年もライトアップが行われていますが、10年ほど前から観光協会の事業の一環で行われています。
今年のライトアップは、11/10~25日まで行われるそうです。どうぞ、今が見頃ですから、お時間の
ある方はお尋ねください。
今年に間に逢わない方は、来年以降に一度お尋ねになって下さい。
また、私のFBの頁にも画像をアップしておりますので、もし御覧になれなかった方はご覧ください。
ちょっとここで、温泉寺の由緒についてお話したいと思います。

下呂温泉は昔、東の方湯ヶ峰の山頂近くに沸いていました。温泉は、万病を治し、下呂の人々はもと
より多くの遠方の人々にも親しまれていました。ところが、文永二年(1265年)温泉の湧出が突然
止まってしまい、人々は大変歎きました。
そして、翌年の事、毎日益田川の河原に舞い降りる一羽のシラサギがいることに村人が気付きました。
不思議に思ってその場所に行ってみると、そこには温泉がわいています。シラサギは、村人に其の地を
教えると空高く舞い上がり、中根山の中腹の松にとまりました。
村人がその松に行ってみると、光り輝く薬師如来が鎮座されていたそうです。

ラサギは薬師如来の化身で、村人たちに再び温泉を授けたと言い伝えられています。
温泉寺にはこの薬師如来が祀られており、下呂の町と温泉を見守っています。
温泉寺は寛文11年(1671)に湯之島の地に草創されました。長い石段を上がったところにお寺があります。
車で一旦上に上がり、湯之島館下の駐車場に車を止めて降りられた方が楽だと思います。
どうぞ一度訪門して下さい。

さて、本日の放送に入りましょう。本日の放送は、毎月お届けしておりますが、屋台の話しをしたいと思います。
高山の屋台と古川の屋台が一通り終わりました。今はそれ以外の屋台について、調べていることをお話し
しております。
今迄の放送では、高山を中心として飛騨地区に屋台が68台ある事をお話ししました。
内訳は何度もお話ししておりますが、高山・古川の合計は現存が34、廃台が11となります。

そして旧郡部に行きますと、旧朝日村に神楽台が3台(立岩、甲、万石)。旧清見村に1台(三日町白山
神社)。旧荘川村に4台(荘川、一色、野之俣、黒谷)。白川村に4台ありますし、かつて、高山の屋台が
売られていった金山の下原八幡神社にも屋台が1台あります。
郡部の合計は白川郷も含めて現存が13台と言う事になります。また、平成になって造られた平成屋台と
工業高校の生徒が作った工匠台、飛騨高山まつりの森にある屋台8台がありますので、10台を足します
と、合計は、現存する物が34+13+10=57台。現存しない物が11台ですから、全部で68台あった
ことになります。
ちょっとここでブレイクしましょう、曲の方は「沢田知可子で あいたい」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は「飛騨の屋台の話し」についてお話ししております。

ちょっとここで、先月の放送の訂正をさせて下さい。
今しがた、飛騨の屋台の数について、私は68台とお話ししておりましたが、実は69台目を確認する
ことが出来ました。飛騨の獅子舞研究をしておられますはげ下義博さんからの情報で、「丹生川の大萱
地区に神楽台が現存するらしい。丹生川村史にその写真がありますよ。ところが、今年の春に獅子舞を
調べるのに現地に行って確認したところその屋台が見当たらなかった。一度現地の人に尋ねてみると
いいですよ。」ということでした。

私も早速丹生川村史を紐解きましたら、確かに屋台の写真を確認することが出来ました。
これについて、大萱の神社の総代さんに確認しましたところ、「蔵の中にありますし、詳しい者がおります
ので一度尋ねて来て下さい。丁度、新嘗祭をやるときに蔵を開けますのでお見せします。」ということでした。
この放送原稿を書くのには間に合いませんでしたので、来月の放送で詳しく取材した上でお話したいと
思います。

あともう一つ、訂正があります。
他の地区の神楽台の紹介で、私、「江名子の諏訪神社の神楽台が朝日に売られて行った」というお話を
しましたが、これは江名子の賀茂神社の間違いでした。謹んで訂正いたします。

これは、江名子の【賀茂神社記録】 に次のような記述があります。
「明治9年八月新造  間口四尺五寸。奥行八尺 。上に大太鼓を吊り太鼓叩き三人 笛二人を乗せ村中
曳廻す。大工 高山西町 西田伊三郎 何某 保木保十郎」と言う記述です。
また、その後の記録に「神楽台売払 年々例祭盛大になり 総て道具多くなりし故人足の不足より是を
売り払う事とせり。一、売渡先  阿多野郷万石区 一、代金 四円也 明治25年8月 区長 谷口善五郎」
とあります。

これは、上江名子の賀茂神社から朝日町万石に譲渡された事を示す史料です。
つまり、朝日町万石の神楽台は、明治9年に建造されて、上江名子の賀茂神社で明治25年まで16年間
引き回され、その後上江名子から万石に売却されたものであると思われます。

この記述にある様に、作者は西田伊三郎となっていますが、この方は、国の重要文化財に指定されている
大新町の吉島邸や、国府の鶴巣の白山神社にある釈迦堂を作った有名な大工さんとして知られている
方です。

先月の放送で、朝日町万石の白山神社にある神楽台は、もともとの屋台の下に、鉄骨で造られた車輪を
取り付けてあるというお話をしましたが、下の構造部分は木の車輪では持たない為に、現在はタイヤの
車輪が取り付けられています。幸い、上部分が残ったわけですが、有名な大工さんが作られた貴重な
史料ですので、今後も大切に保管していただければと思います。

また、明治9年頃は、各神社で神社の社格を決める為に、獅子舞を新しく習ったりした時期です。
そういう時にこういった屋台も同時に造られたと言う事がわかりました。

あと少し時間がありますので、金山の下原神社の屋台についてお話したいと思います。

この屋台は、屋根は唐破風で、中段下段があり、中段は幕を張っただけのものです。車輪は小さく、
30cmほどの車輪がついております。しかし、屋台の前につけてある表記と屋台蔵の前のものとは
若干異なります。

屋台の方には
「格式ある神社にちなみ江戸時代に高山から譲り受けたものであり、現代の高山祭屋台が改造
される以前の祖形(原型)である。山車の正面に黄色の鶴がかたどってあり、黄鶴台と称して
文化文政天保と高山祭りに曳行されており、下原では明治大正昭和と御大典等の祝祭に曳行
されております。長い歴史が秘められたこの型は県内にも皆無であり、文化財としての意義は
大きく誠に貴重なものであります。下原八幡神社」となっており、

屋台蔵の前の方には
「この山車は鳩峰台とよばれ、天保七年(1836)高山市下二之町上組から譲り受けたものです。
創建は延享4年(1747)で、高山祭り初期のものです。かつては大津絵のカラクリ人形を載せて
いたので「大津絵」と呼ばれていました。高砂人形を載せたこともあり、のち飛騨郡代芝与市衛門
正盛の命により、八幡宮の御神号の守護役となりました。
この山車は江戸型とも言われ、現在高山にはこの山車の様に破風造りの屋根を持った屋台は
25台中1台(仙人台)しかなく、角柱の屋根も四台しか残っていません。また車が外側車で木製の
「寸胴式」は皆無であり「くり型」と「戻し車」装置の無い型は一台も残っていません。この鳩峰台は
改造されていない高山屋台の初期の祖型であり、歴史的にも貴重なものです。 金山町教育委員会」
となっています。

さて、本日も時間となりました。来週の放送は、今月5週ありますので、12月7日の放送となります。
最近、橋のシリーズをお届けしておりますが「筏橋」の話しをしたいと思います。どうぞお楽しみに。
それでは本日はこの曲でお別れしましょう。
曲の方は「郷ひろみ マイレディー」をお届けします。それではまたさ来週、お会いしましょう。

徳積善太  

11月16日放送分_高山と熊本の関係について

(平成24年11月16日放送分)みなさんこんにちは、飛騨の歴史再発見のコーナーです。
このコーナーは飛騨の生涯学習者、私ながせきみあきがお届けしてまいります。

 とうとう、14日に雪が降ってしまいましたね。いよいよ冬の到来ですね。
いつもそうですが観光業者の一人としてこの11月の降雪については非常に関心があります。
11月の初めに雪が降ってしまうと、それ以降はどれだけ暖かくなっても、お客さんが増加しません。
逆に12月に入ってからの降雪ですと、11月の終わりまで観光客の皆さんがずっと飛騨地方に着て
下さいます。
この1カ月の違いというのは、経済的には大変大きいんです。
特に紅葉のシーズンですので、沢山のお客さんがお見えになるシーズンです。
そのため、年間を通じても分母の大きな月ですので、この1カ月の雪が遅くて忙しかったか暇だったか
で、観光産業の収入が大きく違うんです。
14日と言う事で、月の前半になってしまいましたが、今週末の土日、来週の23日からの三連休で、
今年の観光シーズンは終わりかなと思います。

 ところで先週、大学の同窓会の総会が九州の熊本で有りましたので、参加してまいりました。
私は岐阜県の支部長を仰せつかっていますので、必ず年に一度は参加しないといけません。
今回は九州の熊本と言う事で、遠路はるばる九州まで行ってまいりました。

ところが、会場について、参加しておられる方と話をしておりましたら、どうやら、一番所要時間が
かかったのが長いのが私でした。
熊本と言うと、高山からですと、一番最短で、5時間半でした。高山からワイドビューひだに乗り、
岐阜までの途中、鵜沼で乗り換えて、名鉄のミュースカイと言う空港直通専用特急に乗り、中部
国際空港まで。そしてそこで乗り換えをして、熊本空港まで飛行機で一時間と言うのが一番近い
ようです。空港から熊本の市街地まではバスで1時間ほどと言う距離でした。

私共の大学では、同窓会となりますと、会員が全国から集まっていますから、北は北海道から
南は沖縄まで。そして、最近では海外の支部もできましたので、中国の上海から上海の支部長
さんが見えていました。
ところが、それぞれの支部長さんとお話ししていたら、熊本に来るので一番かかった人が、香川から
車で来たと言う方が9時間かかったと言っておられましたが、公共交通機関を使われた方では、
高山から熊本までが陸路7時間・空路5時間半かかりました。
隣の富山県支部長が砺波の方でしたので、彼が陸路7時間でした。
上海の方は、福岡空港まで1時間、熊本まで30分と言う距離でしたし、北海道支部の方は、乗り継ぎ
さえうまくいけば、羽田経由で2時間+2時間という距離です。時間距離というものが非常に大事だ
と思いました。

先日、高山の旅館組合が100周年の記念事業と言う事で東京からのツアーを発表されました。
これは、JRを使うと通常でも往復2万円以上かかってしまうために、東京からのお客様を高速バスで
誘致し、宿泊付きで最安値18000円で高山まで交通費込みでお泊まりいただくと言う企画です。

冬の高山はただでさえ、寒いというイメージでお客様が少ないうえに、北海道と比較しても時間距離
が掛かりすぎる。片道5時間で往復10時間。北海道は飛行機でも方道1時間半で往復3時間。この
7時間の差と言う物がものすごく大きいと言う事で企画されました。

今回は、京王バス、濃飛バスさんと高山の旅館組合のコラボと言う企画ですが、此の冬場に沢山の
お客様に来ていただけるといいと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、本日の放送に入りましょう。
本日の放送はいつもなら第三週ですので飛騨市のお話しをするところですが、庫の所ちょっと忙しくて
調べることができませんでしたので、予定を変更して、先ほどお話しした、高山と熊本の関係について、
お話ししたいと思います。

こんなことを申し上げると、「え、高山と熊本が関係あるのか?」と思われる方が大半だと思いますが、
実は今回の熊本行きで、熊本県八代市の八代博物館学芸員鳥津先生や、加藤清正とその一族の研究家
として名高い、福田先生、加藤神社の湯田宮司さん。加藤清正の菩提寺である本妙寺の池上ご住職に
お会いすることが出来ました。
今日は、実際にそういった皆さんにお会いしてお話ししたことや、実際に資料などを入手してお調べして
来たことなどについてお話ししたいと思います。

色々話して居りましたら、すでに前半部の時間を使ってしまいました。詳しくは後半でお話ししたいと思い
ます。ちょっとここでブレイクしましょう。曲の方は「紙ふうせんで 冬が来る前に」をお届けします。
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本日の飛騨の歴史再発見は、予定を変更しまして、熊本と高山の関係についてお話ししております。

2010年の5月14日の放送で以前、お話ししたことがありますが、高山の法華寺の事についてお話しした
ことがあります。法華寺の裏山には、墓地が広がっていますが、その中にひときわ目立つ、他の墓の三倍
位も有る大きなお墓があります。
すでにご存じの方も有ろうかと思いますが、それは加藤清正の孫光正の墓といわれているものです。

光正は、父の忠広 公がお家断絶という憂き目にあったために、飛騨高山での蟄居を命ぜられ、飛騨高山
の第三代城主金森重頼に預けられました。
重頼は、光正公が加藤清正の孫と言うばかりでなく、大御所徳川家康公の曾孫ということもあり、天性寺
をその居住地として指定されました。今から380年前の寛永九年(1632)のことです。

その後、加藤光正はこの地で亡くなり、金森重頼は、大きな墓を作らせ、また亡くなって一年後に光正が
信じていた日蓮宗の菩提寺を建立することを了承し、城内に在った建物を寄進。
そうして作られたのが、現在の法華寺であるということです。
つまり、高山と熊本との関係と言いますのは、この加藤光正と金森重頼公との関係と言う事です。

今回の私の目的は、次の三つでした。
1)加藤家のお取りつぶしの理由についての史料があるかどうか。
地元には、こんな話があります。この話が史実であるかどうか、確認できる資料がありますでしょうか。
また、熊本市史で、この前後の記述を拝見し、コピーしたいと思います。

2)金森家に預けられることになった史料があるかどうか
高山の法華寺は、飛騨地方で唯一の法華宗の寺院です。そもそも法華宗は飛騨に入ったのは新しい
方ですが、加藤光正が配流となったた金森家では城にあった建物を寄進し、寺院の建立を許しました。
その寺院を建立するに当たり、光正の法華宗とのかかわりを示す史料や、どうして高山に配流される
ことになったのかを指し示す資料があれば、拝見したい。

3)その他、加藤家と金森家とのかかわりに関する史料
・初代高山城主金森法印(長近)・二代目高山城主可重(出雲守)・金森重頼(出雲守)とのかかわりに
関する史料(手紙など)が存在するかどうか。

という点について調べてこようと思いました。

まず、加藤神社の湯田宮司さんにお尋ねしたところ


「加藤神社が設立されたのは明治5年。したがってその時代の資料と言うのは一切ない。本妙寺に行け
ばあるのではないか。」ということでした。

次に本妙寺様にお尋ねしたところ、


「残念ながらそういった資料があるかどうかはわかりません。八代にいた加藤正方という人が、加藤家の
残務処理をした人なので、その研究をされている八代市学芸員の鳥津先生にお尋ねください・また丁度、
その加藤正方の特別展示を八代市博物館で開催中ですから、そこに史料があるかもしれません。」
ということで、八代市博物館まで行ってまいりました。

 残念ながら、鳥津先生にお会いすることはできませんでしたが、沢山の資料と図録をいただくことが
出来ました。また、ありがたかったことに、「加藤清正妻子の研究」で有名な福田正秀先生にお会い
することができ、情報交換やご指導を賜う事が出来ました。

まだ、資料分析等を済ませていませんので、いずれまたこの放送でお話ししたいと思いますが、お話し
しました内容を要約しますと。「加藤家改易の理由については謎が多い。しかし、一番確かな理由として
は、加藤光正の一件が主たる理由だったのではなく、光正の弟妹にあたる正良と亀姫を幕府に無断で
熊本に帰したのが本当の理由ではないかと最近の研究では位置づけられている。
また、飛騨高山に配流されたときに20名の武将が光正に同行したが、その氏名などが明確でない。
光正の妹とされる重、太計とされる人は、光正の妹ではなく、乳女(めのと)だったのではなかろうか。
徳川家の系図に、血筋であれば掲載されるはずだが、一切のっていない。」というお話をいただきました。

 これは、時間をかけて調べてみなければいけない事項だと思いました。
皆様にはまた詳しくお話しいたします。

さて本日も時間となりました。
来週の放送は、飛騨の屋台シリーズ。先般の話ししました飛騨の神楽台についてのつづきと、飛騨高山
のその他の屋台についてお話したいと思います。どうぞお楽しみに。

さて、今日はこの曲でお別れです。「小林幸子で 雪椿」をお届けします。
それではまた来週お会いしましょう。

徳積善太