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大人の寺子屋_― 『 志をもつ人々の奮起を 』 ―
久しぶりに、私の先生のコラムを掲載します。(中仙道大湫宿ページより 許可を得て転載)
― 『 志をもつ人々の奮起を 』 ― 徳増 省允
今日的世相をつくづく考え思うに、日々発生する諸不祥事に対し、当事者のみならず、周囲の者、かかわりのある者全てが、保身や利己的利益のために傍観し、無関心を装い、責任を逃れることを第一として生きようとしている。その誇りなき恥を知らぬ行為行動を普通のことの如くふるまう、良心無き所業といえます。
誇りと恥を失ったところに、真の「志」はなく、人として最も大切な「良心(良知)」の存在なきまま生きようとしているといえます。
大きな歴史周期(日本史の変化400年、世界史の変化800年にくわえて千年紀の同時周期は4000年に1度)の今、大人達は誠に目覚めて、この歴史の大転換期の中で覚悟を定め、次世代に正しき誠の道を継承せねばなりません。そのことが今の世に生きる大人達の役割であり、生きる上での使命(天命)であると承知すべきです。
「世の為、人の為」に「何を為すべきか」「如何に生きるべきか」。―「静かなる時間」を持って深く考え、究めて、分相応に覚悟して実践行動をすべきときであります。
「平成」の年号をのこして昭和58年(1983)12月世を去った、著名な陽明学者であり、碩学で啓蒙的思想家として世の指南役でもあった故安岡正篤氏の『醒睡記』より、「有志の奮起」と題する教えを紹介しましょう。
故安岡氏は、アフリカの聖者といわれた、A・シュヴァイツァー博士の著書「わが生活と思想」の中より肝銘した言葉として、
「人間性は決して物質的なものではない。人間の内には、表面に現れるより遥(はる)かに多くの理想的意欲が存在する。縛(しば)られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと、一事を成就すべき人間を、人類は待ち焦(こが)れている」と。
シュヴァイツァー博士の引用のあと、安岡氏は、次のように。
「不幸にして今日、人心風俗は、折角進歩した学問、究明されている真理から背馳(はいち・背く、行き違う)している。/
親達は子供等を学校に入れるだけで、親(みずか)ら教育しようとせず、教師は本来の使命を怠り労働組合員となり、政治家は民衆に迎合して指導力を失い、世人は不義不正を傍看(ぼうかん)して氣概を亡くしている。/曽(かつ)ての偉大な指導者達は皆時代の風潮に屈しなかった人々であり、新しい時代の創造は、こういう信念あり勇氣ある少数の人々の不屈の努力に因るものである。日本の危機に臨んで、有志者の雄健(雄大かつ剛健)を祈る」と。
伝教大師(比叡山開山、最澄)の訓にある「一隅を照らす」教えを思います。危機的日本を真に、理・義に向かわせるために、大人達、特に指導的立場にある全ての分野の人々が、己の立場や地位に恥ずることなく、真に学び自らに問う時であると信ずるからです。
著名な物理学者でノーベル物理学賞をうけ、又相対性理論の発見者、故アインシュタイン博士が大正11年(1920)来日し、日本国と日本人に託して帰国した、同博士の言葉は何度でも紹介すべきものでしょう。
「世界の未来は進むだけ進み、その間いく度か争いはくり返されて、最後の戦いに疲れるときがくる。そのとき、人類は真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。/
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばらない。/われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と。
アインシュタイン博士が「神に感謝する」という「尊い国」日本、その国の今日的世相の実体を知った時、同博士の失望はどれほど大きいことか、その嘆きはいかほどでありましょう。
日本人の底流に営々として流れてきた、大和(だいわ)=大和(やまと)の精神のもつ尊い国の尊い魂の再生と復活こそが一義でありましょう。そのための最大の努力が、今為されなければならない時、まったなしの状態なのです。「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る」。それは東の端に位置し、「日出る国」である日本―「日の本(もと)」の国であることを再認識することです。

21世紀は「美の時代」、「文化の時代」であるといわれています。古きをたずねそれを充分温め(消化して)、新しく創造する、そして新しき文化を起すこと。「温故創新」「温故起新」であります。(20年1月初めの中国訪問の折、福田首相は孔子廟を訪ね、温故創新と揮毫しました。)その気概は、何よりも「誇り」を持って、広い大きな歴史観と世界観をもって、胸をはって進むことです。
「美しき国へ」という国家の指針を示したのは安倍内閣でしたが、「偽」の一字が選ばれる世相の現状からは、まことにほど遠い感が否めませんでした。「美しい国」といわれても、今一つはっきりとせず、一般にもその「かたち」が明確ではありませんでした。
美しい心の人が住む国ということであるとすれば、今の政治、経済の分野、教育の分野全てにおいて、まずは指導的立場の人々から、美しい心をもつ、偽りなき人にならなければなりません。悪しき意味での「建て前と本音」を使い分けて、良心を忘れ、恥を何も感じず保身と私欲に全力投球する人達、こんな世の実相に対して日本国民は自らも糺(ただ)し、指導者に猛反省を促すべきでありましょう。
今、思うに、戦国乱世、420余年前の天正10年(1582)6月2日早朝、有名な本能寺の変により、乱世統一による国家成立を前に織田信長が討ち取られたこと。その時の流れを大きく変化させる近世への導火線となった武将が明智光秀と思います。
明智光秀公は、一般的には三日天下とか逆臣とかよくないイメージの中で歴史的評価を受けて来ましたが、近年では謎の多い事件の研究や推理も進み、その背景には多くの人がそれぞれの立場でかかわり、一般的周知とは大きく変わってきています。
そこには「やむにやまれぬ」深い思いと決意があったのではないかと思われる、光秀公の辞世といわれる歌と漢詩を紹介します。
「心知らぬ人は何とも云はば云へ/身をも惜しまず名をも惜しまず」
「順逆に二門無し。大道心源に徹す。/五十五年の夢。覚めて一元に帰す。」
この二つの辞世が光秀公の自作であるか否かは別として、光秀公の心底に流れる使命感を感じずにはいられません。日本の歴史の中で古代より一貫する天皇家の権威と国のかたちを守るための、天命ととらえた乾坤一擲の決断がうかがいしれます。
「心知らぬ」の「心」とは「尊い国」の「尊い家柄」を守護しようとしたもので、「身をも名をも惜しまず」と、身を捨てて国難に志をもって立つ覚悟を表現したものと解せます。又、漢詩の方は織田体制に順ずるか、逆らって尊き家柄と歴史の流れの中での天皇中心の国家を守るか二つの道はない。古代より継承された古神道による随神(かむながら)の道を守る大道が心源であり天命であると。戦国乱世を生きた五十五年の夢から覚めて、まさに己れの良心に従い、天人合一、心身合一の一元にあるのみと結句をむすびます。
アインシュタイン博士の言葉にある「尊い家柄」「尊い国」が戦国の武将の心中にもあったことを思い、「大道」と「一元」の深い意味を味わうことができます。
「美」は宇宙の根源という「真・善・美」の美ととらえて考えることが肝要です。ただ人や町の表面的すがたやありさま、観光的にみた自然環境という目に見える有形の美をいうのみではありません。大切なのは無形である人や町や自然環境のもつ氣、人の心の美しさを忘れてはなりません。尊い国、それは美しい国であり、品格ある国であります。神―天―自然の計(はから)いに順ずる素直な魂(かむながら=随神の道)をもって生きる人の住む国ということでありましょう。尊い国、美しい国の歴史と先人達の大和(だいわ)の精神=大和魂をつちかってきた「日本の良心」に立ち帰り、全ての大人達が残された人生を正しく生き、次世代に継承するために努めるべき使命があると思うのです。
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― 『 志をもつ人々の奮起を 』 ― 徳増 省允

今日的世相をつくづく考え思うに、日々発生する諸不祥事に対し、当事者のみならず、周囲の者、かかわりのある者全てが、保身や利己的利益のために傍観し、無関心を装い、責任を逃れることを第一として生きようとしている。その誇りなき恥を知らぬ行為行動を普通のことの如くふるまう、良心無き所業といえます。
誇りと恥を失ったところに、真の「志」はなく、人として最も大切な「良心(良知)」の存在なきまま生きようとしているといえます。
大きな歴史周期(日本史の変化400年、世界史の変化800年にくわえて千年紀の同時周期は4000年に1度)の今、大人達は誠に目覚めて、この歴史の大転換期の中で覚悟を定め、次世代に正しき誠の道を継承せねばなりません。そのことが今の世に生きる大人達の役割であり、生きる上での使命(天命)であると承知すべきです。
「世の為、人の為」に「何を為すべきか」「如何に生きるべきか」。―「静かなる時間」を持って深く考え、究めて、分相応に覚悟して実践行動をすべきときであります。
「平成」の年号をのこして昭和58年(1983)12月世を去った、著名な陽明学者であり、碩学で啓蒙的思想家として世の指南役でもあった故安岡正篤氏の『醒睡記』より、「有志の奮起」と題する教えを紹介しましょう。
故安岡氏は、アフリカの聖者といわれた、A・シュヴァイツァー博士の著書「わが生活と思想」の中より肝銘した言葉として、
「人間性は決して物質的なものではない。人間の内には、表面に現れるより遥(はる)かに多くの理想的意欲が存在する。縛(しば)られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと、一事を成就すべき人間を、人類は待ち焦(こが)れている」と。
シュヴァイツァー博士の引用のあと、安岡氏は、次のように。
「不幸にして今日、人心風俗は、折角進歩した学問、究明されている真理から背馳(はいち・背く、行き違う)している。/
親達は子供等を学校に入れるだけで、親(みずか)ら教育しようとせず、教師は本来の使命を怠り労働組合員となり、政治家は民衆に迎合して指導力を失い、世人は不義不正を傍看(ぼうかん)して氣概を亡くしている。/曽(かつ)ての偉大な指導者達は皆時代の風潮に屈しなかった人々であり、新しい時代の創造は、こういう信念あり勇氣ある少数の人々の不屈の努力に因るものである。日本の危機に臨んで、有志者の雄健(雄大かつ剛健)を祈る」と。
伝教大師(比叡山開山、最澄)の訓にある「一隅を照らす」教えを思います。危機的日本を真に、理・義に向かわせるために、大人達、特に指導的立場にある全ての分野の人々が、己の立場や地位に恥ずることなく、真に学び自らに問う時であると信ずるからです。
著名な物理学者でノーベル物理学賞をうけ、又相対性理論の発見者、故アインシュタイン博士が大正11年(1920)来日し、日本国と日本人に託して帰国した、同博士の言葉は何度でも紹介すべきものでしょう。
「世界の未来は進むだけ進み、その間いく度か争いはくり返されて、最後の戦いに疲れるときがくる。そのとき、人類は真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。/
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばらない。/われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と。
アインシュタイン博士が「神に感謝する」という「尊い国」日本、その国の今日的世相の実体を知った時、同博士の失望はどれほど大きいことか、その嘆きはいかほどでありましょう。
日本人の底流に営々として流れてきた、大和(だいわ)=大和(やまと)の精神のもつ尊い国の尊い魂の再生と復活こそが一義でありましょう。そのための最大の努力が、今為されなければならない時、まったなしの状態なのです。「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る」。それは東の端に位置し、「日出る国」である日本―「日の本(もと)」の国であることを再認識することです。
21世紀は「美の時代」、「文化の時代」であるといわれています。古きをたずねそれを充分温め(消化して)、新しく創造する、そして新しき文化を起すこと。「温故創新」「温故起新」であります。(20年1月初めの中国訪問の折、福田首相は孔子廟を訪ね、温故創新と揮毫しました。)その気概は、何よりも「誇り」を持って、広い大きな歴史観と世界観をもって、胸をはって進むことです。
「美しき国へ」という国家の指針を示したのは安倍内閣でしたが、「偽」の一字が選ばれる世相の現状からは、まことにほど遠い感が否めませんでした。「美しい国」といわれても、今一つはっきりとせず、一般にもその「かたち」が明確ではありませんでした。
美しい心の人が住む国ということであるとすれば、今の政治、経済の分野、教育の分野全てにおいて、まずは指導的立場の人々から、美しい心をもつ、偽りなき人にならなければなりません。悪しき意味での「建て前と本音」を使い分けて、良心を忘れ、恥を何も感じず保身と私欲に全力投球する人達、こんな世の実相に対して日本国民は自らも糺(ただ)し、指導者に猛反省を促すべきでありましょう。
今、思うに、戦国乱世、420余年前の天正10年(1582)6月2日早朝、有名な本能寺の変により、乱世統一による国家成立を前に織田信長が討ち取られたこと。その時の流れを大きく変化させる近世への導火線となった武将が明智光秀と思います。
明智光秀公は、一般的には三日天下とか逆臣とかよくないイメージの中で歴史的評価を受けて来ましたが、近年では謎の多い事件の研究や推理も進み、その背景には多くの人がそれぞれの立場でかかわり、一般的周知とは大きく変わってきています。
そこには「やむにやまれぬ」深い思いと決意があったのではないかと思われる、光秀公の辞世といわれる歌と漢詩を紹介します。
「心知らぬ人は何とも云はば云へ/身をも惜しまず名をも惜しまず」
「順逆に二門無し。大道心源に徹す。/五十五年の夢。覚めて一元に帰す。」
この二つの辞世が光秀公の自作であるか否かは別として、光秀公の心底に流れる使命感を感じずにはいられません。日本の歴史の中で古代より一貫する天皇家の権威と国のかたちを守るための、天命ととらえた乾坤一擲の決断がうかがいしれます。
「心知らぬ」の「心」とは「尊い国」の「尊い家柄」を守護しようとしたもので、「身をも名をも惜しまず」と、身を捨てて国難に志をもって立つ覚悟を表現したものと解せます。又、漢詩の方は織田体制に順ずるか、逆らって尊き家柄と歴史の流れの中での天皇中心の国家を守るか二つの道はない。古代より継承された古神道による随神(かむながら)の道を守る大道が心源であり天命であると。戦国乱世を生きた五十五年の夢から覚めて、まさに己れの良心に従い、天人合一、心身合一の一元にあるのみと結句をむすびます。
アインシュタイン博士の言葉にある「尊い家柄」「尊い国」が戦国の武将の心中にもあったことを思い、「大道」と「一元」の深い意味を味わうことができます。
「美」は宇宙の根源という「真・善・美」の美ととらえて考えることが肝要です。ただ人や町の表面的すがたやありさま、観光的にみた自然環境という目に見える有形の美をいうのみではありません。大切なのは無形である人や町や自然環境のもつ氣、人の心の美しさを忘れてはなりません。尊い国、それは美しい国であり、品格ある国であります。神―天―自然の計(はから)いに順ずる素直な魂(かむながら=随神の道)をもって生きる人の住む国ということでありましょう。尊い国、美しい国の歴史と先人達の大和(だいわ)の精神=大和魂をつちかってきた「日本の良心」に立ち帰り、全ての大人達が残された人生を正しく生き、次世代に継承するために努めるべき使命があると思うのです。
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大人の寺子屋_『 分相応に法(のり)を超えぬ生き方 』

「分限を見わけて、その性(さが)性をしれ」 徳増省允(大湫宿HP 11月号より転載)
この訓は、戦国末期から江戸初期の偉大な先人、鈴木正三(しょうさん)禅師の教えの一説で
あります。
まず正三禅師の略歴を紹介します。師は、禅僧、思想啓蒙家、小説仮名草子の作家として、
広く世に対する言論人でした。又落髪するまでは、戦国乱世を生きた三河武士でもありました。
その多面な人生経験と自らの天命の求道を極めた修行僧として、石平(せきへい)道人ともいわ
れています。
天草・島原の乱(寛永14=1637年)後の復興に尽力し、乱後の初代代官、実弟の鈴木三郎
九郎重成、そして二代代官、実子の鈴木伊兵衛重辰とともに、三神として祀る鈴木神社として、
現熊本県本渡市にあり人びとに信仰されています。
師は、鈴木正三(まさみつ)として天正7年(1579)、三河国足助庄則定(のりさだ・現豊田市足助
町)の則定城主、鈴木忠兵衛重次(しげつぐ)の嫡子として生誕し、徳川家康が豊臣秀吉の命に
より東海五ヶ国より関東八ヶ国に転封する折、これに従い移住、この時すでに35歳となっていた
のです。関ヶ原、大坂冬、夏の陣に参戦し、大坂城への番士を勤め、江戸駿河台の旗本屋敷に
帰ります。
元和6年(1620)に大愚宗築(たいぐそうちく・正三が師と仰いだ江戸南泉寺の開基で臨済宗
妙心寺派)の立会で剃髪し隠居し、家督を弟の重成に譲ることとなります。
寛永14年(1637)天草島原の乱が同18年平定後、家督を譲った鈴木三郎九郎重成が初代の
天草代官に就任、その復興と人心の安定のため正三禅師も協力を求められて現地に入ります。
そして当地に17の寺院(禅寺9ヶ寺、浄土宗7ヶ寺、真言宗1ヶ寺)と2社を興し、精神的側面
から実弟の重成を助けました。
その後、代官重成は実質年貢を半減すべく幕閣に訴え、江戸屋敷にて切腹します。結果4万
2千石は2万1千石となり、領民の生活は大きく改善されました。二代目代官は正三の実子で
ある鈴木伊兵衛重辰が就任します。
正三禅師の教えは、実践と変化の時代を生きた人として、今日の世相を抜本的に改める上で
の大切な「心(しん)」のあり様、生き方を示してくれるものと思うのです。
今日的世相は、正三禅師の教えのように「分をしる」ことの、できない人びとがあまりに多い
ことに氣付くのです。「分」とは「つとめ」であり、「本分」のことと自覚すべきです。「つとめ」、
「本分」とは、己の役割です。己れは、自らの意思と選択によって、国を選び地域を選び、時代
を選び、両親を選び、生まれ来ることはできません。又、「生まれ来る」ことは、偶然によるもの
でもなく、天(大自然)の計らいによって生ずる必然の結果であると考えるべきです。
「天の計らい」とは、天命であり、使命であり、この世での役割をさすのですから。人の一生は、
自らの使命を求め一人びとりがそれぞれの立場で異なる経験と苦難をのりこえ、探し求めて致る
べき一路であると考えるからです。
江戸末期の篤農家で、今日的にいえば村づくり町づくりの先達、二宮金次郎翁は、その教えの
中で「分度を知れ」と説いています。
「分度」とは「分限」と同義の意味をもっています。金次郎翁の報徳思想から、天の与えた分を
自ら測り、己の器(うつわ)、能力の程度を知り、それに応じて自らの生活や行動実践の限度を
定めて生きようという教えです。「分限」は自らが天より与えられた分=本分の程度を悟り、その
限度を自覚し、謙虚に生きること。正三禅師の「分限を見わけて」とは、まさに自らの分と限度を
知ることです。他と比較しつづけ競争することは愚かなことであり、それは己の使命(役割)を生き
る上で障害となることに氣付くことです。
オンリーワンとなるには、まず自らの分を知り、分限を超すことなく生きることが大切なのです。
真の学びによって自らの分を知る、分を悟り、分限をもって生活すること―分相応とはそのあり
様をいうのです。その精神のあり様から「知足」(足るを知る)の生き方が自然と成り立つのです
から。
爪先立って、背伸びした無理な己れのあり様、生き方は、結果として自分を不幸へと追いやる
ことを自覚すべきなのです。
今日のわれわれのあり様、生き方は、経済の高度成長とそれにともなう物質・金銭至上主義
にはじまり政治の分野から個人の生活まで、分不相応、不知足、常に他と比較し競争しナンバー
ワンを目指した生き方に慣れ過ぎ、当然のことと思っています。
今、抜本的に考え方、生き方を改めることが大切と思うのです。
来たる時代に如何なることがあろうと、凛として生きること、自らを楽しみ充実した心で生きることが
できるように。
「法(のり)をこえないあり方」、換言すれば「分度、分限をこえぬあり方」が、余裕ある己れを保ち、
平安な心と豊かな情緒ある自分をつくることになるのです。又、余裕がなければ新シミある価値の
創造も生まれてこないと思うのです。
「その性(さが)性をしれ」という正三禅師の教えは、自らの天命による己れのあり様を客観視して、
人意、人為で左右できない天の定め(計らい)を素直に受けとめ、思索して行動実践すれば、自らの
道は必ず開けて来ると説いています。
「性をしれ」とは、生まれついた「分」を知れということでしょう。素直に生まれつきの「分」を知り、
その上で素直に直視して己れを見直すことであります。
「性(さが)」の代表するものは、男性と女性の違いとその使命(役割)です。
人間は自然の摂理を超えた絶対的な生き物ではなく、大自然の視点からすれば、地球という一天体
に存在する生き物の中での、一人類に過ぎないことをまず素直に認識することが何より大切です。
何故に大自然は男性と女性を造化したのでしょうか。
動物の世界で言えば「雄」と「雌」と同義です。天命による男の性(さが)、女の性とすれば、まさしく男の
役割、女の役割がそこにはあります。その最大の使命は、優れた子孫繁栄でありましょう。
今日的にはこの根本の課題が少子化問題として社会問題となり、専属の大臣まで設けられている
こと自体、自然の摂理の視点からすれば、まことに不思議な状況下にあることを思うべきです。
一方、世界的には南北問題の中で、多産化と同時に食糧や医療等、環境問題から幼児の死亡率が
大変高いこと、又、隣国中国での人口増の視点から一家一子政策、アフリカでは多産多死の現状、
自然の摂理に沿わぬ狂った人間のあり様がうつしだされています。
経済の格差、政治体制の違い、東西の先進国と南北の発展途上、開発途上等、国と国の格差、
ここには大自然の環境により人為的には如何ともしがたい問題があることを考慮するとき、違いと格差が
存在するのが大きな自然の価値観からすれば、自然の環境から差異を生ずることは当然と言うことも
可能であり、全て一つの基準で同一化、画一化することが実は理に沿わぬことと言えるからです。
無制限に格差を是正することは、わが国では特に先の大戦後の一つの風潮で、国是ともいうべきもの
でした。今、その無理が社会の諸現象の中に具現化していると思うのです。
人の使命(天命)からなる分相応(分限、分度)、国と国との間にもその歴史や自然環境の中での
位置等から分相応の視点からの違いを生じていることまでも、格差と考えることは、実は大きな誤りで
あると思うのです。
何かを我慢するから別の何かが満たされます。
常に他と比較し、全てに満足を求めて、我慢することを忘れた生き方あり様は、人間の驕りであり、
大自然の摂理に沿うものでないことを深く思うべきです。国と国、地域と地域、人と人、すべてがこの
思いをもって、分に応じて生きるべきことと信じます。
そこに平安と安定の本(もと)があるのですから。
(平成20年7月25日 記 徳増省允)
大人の寺子屋 平成20年について
私の先生、徳増先生の今年についての記事です。
大人の寺子屋― 平成20年 戊子の年に思う ―徳増 省允
平成19年は「丁亥」(ひのとゐ)の年でした。
「丁」(てい)の上の「一」は、平成18年の「丙」(へい)の上の「一」が続いている一方で、下方の「亅」は
上方に対するもの、旧と新、善と悪といった対極的動きを示し、相方が対する勢力の衝突する相を表わ
しています。
平成18年から、特に19年の年は世事千変あらゆる分野にあって多発した不祥事は記憶できぬほど
であり、政治経済もゆれ動き、世の人々は何を信じてよいのか混迷の極にいたっています。安定と安心
を失った人々の心、依り所なき生活の中で、新年を迎えました。

年末恒例の京・清水寺での平成19年を象徴する一文字は、「偽」(ぎ/いつわり)でした。
http://www.kanken.or.jp/kanji/kanji2007/kanji.html
誠に哀しきかぎりではないでしょうか。経済大国日本は、ものの豊かさの中で大切なことを忘却し、
全ては金(かね)々でしかない世の中です。「偽」は「人が為す」という文字、全ては人びとの為せる結果
であります。人間以外の責任によるものでないことを深く懺悔し反省すべきです。
丁亥(ひのとゐ)の年をうけての今年は、どういう年であるのか、東洋5千年の歴史の中で多くの先人達
が後人の為にのこした偉大な学問と思想の力をかり、平成20年、戊子(ぼし/つちのえね)の年について
考えてみましょう。
陰陽五行説と干支(えと)=十干十二支による60年周期の思想では、干(かん)は「幹」(みき)を表わし、
支(し)は「枝」(えだ)を表わすと説きます。
安岡正篤、邦光史郎両氏の著書を参考として、「干」及び「支」の意義を学び、本年の指針としたいのです。
まず、戊(ぼ/つしのえ)は十干の中の五番目にあたり、茂(しげる)、樹木が繁茂することを表わし、茂る
ことにより風通しや日当たりが悪くなり、根本が弱り、樹木の勢いが落ち、梢が枯れることとなります。
又、花や果実を養い成長させるのにも、多くの花を咲かすため、多くの実を得るためと、整理を行わずにおけば、
花や実(果実)を結果として駄目にします。そこには、剪定とか摘果(果実を間引く)が必要であり、そのための
果断とか果決が求められます。
事業経営や家庭生活でも良い結果を得るためには選択と決断する力が肝要となります。
「子」(ね)は数がふえる(ネズミは動物のなかで最も繁殖力が強く)、植物の芽が兆/萌(きざ)しはじめることを
表わし、「滋」(じ)と同義です。
ふえる、はびこるの意味から、新たな生命、新芽が伸びるなど、新しき生命力の創造と解することができます。
以上のことから、戊子(つちのえね)には二つの意味があるといわれています。
「ふえる」と「しげる」、万物や万事が繁栄し発展してゆくべき年でありながら、他方では「過ぎる」と矛盾や困難が
多く発生すると。繁栄と発展の過程に「落とし穴」があるということになります。
前足に重心をかけず(勇み足にならず)、後足に重心を置き、チェックするために立ち止まる勇氣と留意が大切です。
「過ぎたるは及ばざるが如し」です。
又、私欲私心にとらわれることなく、公欲公心によるグローバルな視点から思索し、行動することが大切です。
私利私欲にとらわれている間は、正しき道、物事の真理は見えてきません。
今、一人ひとりの大人に自らの在り方、考え方を素直な心で考える覚悟と大人の見識が求められているのです。
今年からの4、5年は、今世紀前半を方向づける重大な時期であり、我国の将来を考える時、その選択が重要で
あると思うのです。
全てはゼロに立ち返り、原点に立ち、道理にそって思索、行動する。その為に一人ひとりが誠に学び、自らに問う
ことが必要なのです。
博報堂の主任研究員 中村隆紀氏は、消費者意識調査をもとに、「モノへの防衛意識は高まり、内面(自分)を
磨きたい欲求が強いから」―自分をみつめる意識が高まる背景―「自分の知識を深めることは、自己満足にも
つながるし、社会的価値の向上にもなる。ほかに投資する対象がなく、内面を見つめ直すことに価値を見出している。
企業にしても謹厳実直な姿勢や取り組みが求められる。昨年来の偽装問題などがあるから目標はより厳しくなる」と。
IT技術の発展により、情報はグローバルに把握できるように、多くの書籍によって知識を得ることも容易です。
しかし情報過多の中で、選択することなく、自らに都合の良いものだけを受容し蓄積してよしとする傾向にあること
は憂えるべきと思います。
知識の為の知識を求め、活かすことを忘れたあり様は、一層憂えるべきことです。知識だけが一人歩きしているの
では、何も意味をなしません。単に「物識り」に成ったにすぎないのです。
一方、電通消費者研究センターの野村尚矢氏は、「世相を示す漢字に『偽』が選ばれた通り、あらゆる物への
信頼が泡のようにはじけた。この信頼バブルを回復することは、企業の姿勢として問われるはず。『偽』を『義』に
変えていくことが求められそうだ」と。
知識は単なる知識や情報の蓄積に終わることなく、体験に活かし、実践を通して経験して、見識(識見)を高め
育てることです。
その高い見識は精神修養に勤めることによって、胆識を養い、重厚な己をつくり上げることが大切なのです。
又、重厚な己をつくり上げることが、自ずと胆識を養うことにつながるからです。それがまさに「生きる」意義でも
あると思います。
勇氣をもって決断する「選択力」が求められ、大切さを増す時代になってきます。
選択力を高める為には、見識と胆識を備えもつことが必要となってきます。
人品骨柄を備えた「教養人」として生きるためには、知識・見識・胆識の三識を備えもつことが大切なのです。
一人びとりが「生きる」とは、自らの使命を感得することに他なりません。自らをみつめる意識を高めるために、
内面を見つめ直すことに価値を見出し、世相に蔓延(はびこ)る「偽」を択び捨て、「義」を択ぶことに勤めるべきです。
今を生きる人の使命も天命もそこにあるのです。
平成20年1月4日 記
徳増省允
(許可を得て、掲載しております。徳積善太)
大人の寺子屋― 平成20年 戊子の年に思う ―徳増 省允
平成19年は「丁亥」(ひのとゐ)の年でした。
「丁」(てい)の上の「一」は、平成18年の「丙」(へい)の上の「一」が続いている一方で、下方の「亅」は
上方に対するもの、旧と新、善と悪といった対極的動きを示し、相方が対する勢力の衝突する相を表わ
しています。
平成18年から、特に19年の年は世事千変あらゆる分野にあって多発した不祥事は記憶できぬほど
であり、政治経済もゆれ動き、世の人々は何を信じてよいのか混迷の極にいたっています。安定と安心
を失った人々の心、依り所なき生活の中で、新年を迎えました。

年末恒例の京・清水寺での平成19年を象徴する一文字は、「偽」(ぎ/いつわり)でした。
http://www.kanken.or.jp/kanji/kanji2007/kanji.html
誠に哀しきかぎりではないでしょうか。経済大国日本は、ものの豊かさの中で大切なことを忘却し、
全ては金(かね)々でしかない世の中です。「偽」は「人が為す」という文字、全ては人びとの為せる結果
であります。人間以外の責任によるものでないことを深く懺悔し反省すべきです。
丁亥(ひのとゐ)の年をうけての今年は、どういう年であるのか、東洋5千年の歴史の中で多くの先人達
が後人の為にのこした偉大な学問と思想の力をかり、平成20年、戊子(ぼし/つちのえね)の年について
考えてみましょう。
陰陽五行説と干支(えと)=十干十二支による60年周期の思想では、干(かん)は「幹」(みき)を表わし、
支(し)は「枝」(えだ)を表わすと説きます。
安岡正篤、邦光史郎両氏の著書を参考として、「干」及び「支」の意義を学び、本年の指針としたいのです。
まず、戊(ぼ/つしのえ)は十干の中の五番目にあたり、茂(しげる)、樹木が繁茂することを表わし、茂る
ことにより風通しや日当たりが悪くなり、根本が弱り、樹木の勢いが落ち、梢が枯れることとなります。
又、花や果実を養い成長させるのにも、多くの花を咲かすため、多くの実を得るためと、整理を行わずにおけば、
花や実(果実)を結果として駄目にします。そこには、剪定とか摘果(果実を間引く)が必要であり、そのための
果断とか果決が求められます。
事業経営や家庭生活でも良い結果を得るためには選択と決断する力が肝要となります。
「子」(ね)は数がふえる(ネズミは動物のなかで最も繁殖力が強く)、植物の芽が兆/萌(きざ)しはじめることを
表わし、「滋」(じ)と同義です。
ふえる、はびこるの意味から、新たな生命、新芽が伸びるなど、新しき生命力の創造と解することができます。
以上のことから、戊子(つちのえね)には二つの意味があるといわれています。
「ふえる」と「しげる」、万物や万事が繁栄し発展してゆくべき年でありながら、他方では「過ぎる」と矛盾や困難が
多く発生すると。繁栄と発展の過程に「落とし穴」があるということになります。
前足に重心をかけず(勇み足にならず)、後足に重心を置き、チェックするために立ち止まる勇氣と留意が大切です。
「過ぎたるは及ばざるが如し」です。
又、私欲私心にとらわれることなく、公欲公心によるグローバルな視点から思索し、行動することが大切です。
私利私欲にとらわれている間は、正しき道、物事の真理は見えてきません。
今、一人ひとりの大人に自らの在り方、考え方を素直な心で考える覚悟と大人の見識が求められているのです。
今年からの4、5年は、今世紀前半を方向づける重大な時期であり、我国の将来を考える時、その選択が重要で
あると思うのです。
全てはゼロに立ち返り、原点に立ち、道理にそって思索、行動する。その為に一人ひとりが誠に学び、自らに問う
ことが必要なのです。
博報堂の主任研究員 中村隆紀氏は、消費者意識調査をもとに、「モノへの防衛意識は高まり、内面(自分)を
磨きたい欲求が強いから」―自分をみつめる意識が高まる背景―「自分の知識を深めることは、自己満足にも
つながるし、社会的価値の向上にもなる。ほかに投資する対象がなく、内面を見つめ直すことに価値を見出している。
企業にしても謹厳実直な姿勢や取り組みが求められる。昨年来の偽装問題などがあるから目標はより厳しくなる」と。
IT技術の発展により、情報はグローバルに把握できるように、多くの書籍によって知識を得ることも容易です。
しかし情報過多の中で、選択することなく、自らに都合の良いものだけを受容し蓄積してよしとする傾向にあること
は憂えるべきと思います。
知識の為の知識を求め、活かすことを忘れたあり様は、一層憂えるべきことです。知識だけが一人歩きしているの
では、何も意味をなしません。単に「物識り」に成ったにすぎないのです。
一方、電通消費者研究センターの野村尚矢氏は、「世相を示す漢字に『偽』が選ばれた通り、あらゆる物への
信頼が泡のようにはじけた。この信頼バブルを回復することは、企業の姿勢として問われるはず。『偽』を『義』に
変えていくことが求められそうだ」と。
知識は単なる知識や情報の蓄積に終わることなく、体験に活かし、実践を通して経験して、見識(識見)を高め
育てることです。
その高い見識は精神修養に勤めることによって、胆識を養い、重厚な己をつくり上げることが大切なのです。
又、重厚な己をつくり上げることが、自ずと胆識を養うことにつながるからです。それがまさに「生きる」意義でも
あると思います。
勇氣をもって決断する「選択力」が求められ、大切さを増す時代になってきます。
選択力を高める為には、見識と胆識を備えもつことが必要となってきます。
人品骨柄を備えた「教養人」として生きるためには、知識・見識・胆識の三識を備えもつことが大切なのです。
一人びとりが「生きる」とは、自らの使命を感得することに他なりません。自らをみつめる意識を高めるために、
内面を見つめ直すことに価値を見出し、世相に蔓延(はびこ)る「偽」を択び捨て、「義」を択ぶことに勤めるべきです。
今を生きる人の使命も天命もそこにあるのです。
平成20年1月4日 記
徳増省允
(許可を得て、掲載しております。徳積善太)
大人の寺子屋 ー まったなしの戊子の年ー
私の先生、徳増省允先生のお話を掲載します。
『志ある人々の奮起を』 ー まったなしの戊子の年ー

平成20年は戊子(ぼし)の年(つちのえ・ね)です。
繁茂しすぎた枝葉を剪定し、木々を間引き整理して、風通しや日当たりをよくする勇氣ある選択を実行する年です。
繁茂しすぎたり増殖しすぎたりしては害となります。
60年前の昭和22年がどんな年であったのか、年表に向かい一考する必要があります。歴史は私達にこれからの方向性を示唆してくれます。
今日的世相をつらつら思うに、日々発生する諸不祥事に対し、当事者はいうまでもなく、周囲の人々、かかわりのある者全てが「偽(いつわり)」のなかで利己的利益の為に保身し、傍観し、無関心をよそおい、責任をのがれることを第一として生きようとするあり様に止めどがありません。それはまさに誇りなき、恥をしらぬ行為行動を当り前の如くに振舞う、「良心」無き所行であるといえます。言い換えるならば、誇りと恥を失ったところに、誠の「志」はなく、人として最も大切な「良心」(良知)の存在を忘れて生きようとしているといえましょう。
大きな歴史の周期(日本史の変化400年と世界史の800年、そして1000年期の節目、同時周期は4000年に一度)の今、大人達は誠に目覚めて、この歴史の一大転機に直面し、覚悟を定め、次世代に天理の誠の道を正しく継承せねばならないのです。そのようなあり方こそが、今の世に生きる大人達の役割であり、今の世に生を受けた使命(天命)であると承知すべきです。
「世の為、人の為」に自らが「何を為すべきか」、「如何に生きるべきか」を、「静かなる時間」をもって深く考え、究めて、分相応に覚悟し、のりを越えず、実践行動すべき時なのです。
「平成」の年号を残して昭和58年(1983)12月に世を去った、著名な陽明学者であり碩学で啓蒙的思想家として世の指南役でもあった偉大な先人、安岡正篤先生の著書『醒睡記』より、「有志の奮起」と題する説論を紹介します。
故安岡先生は、アフリカの聖者といわれたA・シュヴァイツァー博士の著書『わが生活と思想』の中より肝銘した言葉として、
「人間性は決して物質的なものではない。人間の内には表面に現われるより遥(はる)かに多くの理想的意欲が存在する。縛(しば)られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと、一事を成就すべき人間を、人類は待ち焦(こ)がれている」と。
このシュヴァイツァー博士の言葉を引用し、故安岡先生は次のように説かれています。
「不幸にして今日、人心風俗は、折角進歩した学問、究明されている真理から背馳(はいち・そむく、いきちがう)している。
親達は子供等を学校に入れるだけで、親(みずか)ら教育しようとせず、教師は本来の使命を怠り労働組合員となり、政治家は民衆に迎合して指導力を失い、世人は不義不正を傍看(ぼうかん)して氣概を亡くしている。
曽(かつ)ての偉大な指導者達は皆時代の風潮に屈しなかった人々であり、新しい時代の創造は、こういう信念あり勇氣ある少数の人々の不屈の努力に因(よ)るものである。
日本の危機に臨んで、有志者の雄健(雄大にして剛健なこと)を祈る」と。
安岡先生は、その生涯の理念を、「一燈照隅、万燈照国」におかれました。さかのぼること1千年余前、伝教大師(比叡山開山、天台宗開祖最澄)の訓にある「一隅を照らす」の教えを思います。
日本の危機的現状から、誠に、理と義に向かわせるために、大人達、特に指導的立場にある全ての分野の人々が、己の立場や地位に恥ずることなく、誠に学び自らに問うべき時と信ずるからです。
著名な物理学者、相対性理論の発見者である故アインシュタイン博士が、大正11年(1922)、1ヶ月におよぶ来日の折り、日本国と日本人に託して帰国した言葉を、今一度紹介します。
「世界の未来は進むだけ進み、その間いく度か争いはくり返されて、最後の戦いに疲れるときがくる。そのとき、人類は真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と。
故ア博士が「神に感謝する」と言明したほどの「尊い国」日本、その国の今日的世相の実状をみて、博士の失望のどれほど大きいことか、その嘆きはいかほどでありましょうか。
日本人の底流に営々として流れきた大和(だいわ)の精神、大和(やまと)の歴史の継承、その再生と復活こそが一義であり、今、まさにそのことが試(ため)されていると思うからです。
「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る」と。それは東方の端に位置し、「日出る国」である日本=日の本(もと)の国であることに「誇り」をもち、そして感謝することを強く自覚することでもあり、自ずとそこに誠の愛国心が生じてくるのです。文字や言葉の表現に左右されるものではないと信じます。
今から59年前(昭和24年)、ノーベル 物理学賞を授与された初の日本人、故湯川秀樹博士の言葉を紹介します。
「案ずることはない。30年後の日本は、(戦後の廃墟より立ち上がり)科学技術国として先進国と肩をならべる」と。
しかし、
「僕は30年後の日本人のものの考え方を案じているのだ。日本人が開発した科学技術から派生する思想が日本人の心を蝕(むしば)むのではないか」と。
偉大な先人の言葉や思いは、まさしく今日的日本の様相を予見し、強い警告をわれわれに発していたのです。
このことからも、歴史や先人に学ぶ、そして今に活かすことがどれほど大切であり、賢明であるか再認識することが大切です。
21世紀は「美の時代」又「文化の時代」といわれて久しいのですが、「美」は宇宙の根源的要素(基本)といわれる「真・善・美」の美と考えるべきです。
ただ人や町、環境等、目に見える有形の美のみでなく、大切なのは、基となる無形の美、氣の力や人の心の美しさをも含むのであり、もとの美から発現する美を忘れてはならないのです。
神=天=自然の計(はか)らいに順ずる、素直な魂の発現(=かむながら=隨神の道)を自覚して生きる人々の住む国ということなのです。
尊い国、美しい心の人の住む国、歴史と先人達の大和(だいわ)の精神=大和魂がつちかってきた「日本の良心」に立ち戻り、全ての大人達が、残されたそれぞれの人生を志をもって良心に生き、次世代に継承するための努力に勤めることが、使命であると信ずるからです。
平成20年1月21日 記
(前年4月14日分再考加筆)
『志ある人々の奮起を』 ー まったなしの戊子の年ー
平成20年は戊子(ぼし)の年(つちのえ・ね)です。
繁茂しすぎた枝葉を剪定し、木々を間引き整理して、風通しや日当たりをよくする勇氣ある選択を実行する年です。
繁茂しすぎたり増殖しすぎたりしては害となります。
60年前の昭和22年がどんな年であったのか、年表に向かい一考する必要があります。歴史は私達にこれからの方向性を示唆してくれます。
今日的世相をつらつら思うに、日々発生する諸不祥事に対し、当事者はいうまでもなく、周囲の人々、かかわりのある者全てが「偽(いつわり)」のなかで利己的利益の為に保身し、傍観し、無関心をよそおい、責任をのがれることを第一として生きようとするあり様に止めどがありません。それはまさに誇りなき、恥をしらぬ行為行動を当り前の如くに振舞う、「良心」無き所行であるといえます。言い換えるならば、誇りと恥を失ったところに、誠の「志」はなく、人として最も大切な「良心」(良知)の存在を忘れて生きようとしているといえましょう。
大きな歴史の周期(日本史の変化400年と世界史の800年、そして1000年期の節目、同時周期は4000年に一度)の今、大人達は誠に目覚めて、この歴史の一大転機に直面し、覚悟を定め、次世代に天理の誠の道を正しく継承せねばならないのです。そのようなあり方こそが、今の世に生きる大人達の役割であり、今の世に生を受けた使命(天命)であると承知すべきです。
「世の為、人の為」に自らが「何を為すべきか」、「如何に生きるべきか」を、「静かなる時間」をもって深く考え、究めて、分相応に覚悟し、のりを越えず、実践行動すべき時なのです。
「平成」の年号を残して昭和58年(1983)12月に世を去った、著名な陽明学者であり碩学で啓蒙的思想家として世の指南役でもあった偉大な先人、安岡正篤先生の著書『醒睡記』より、「有志の奮起」と題する説論を紹介します。
故安岡先生は、アフリカの聖者といわれたA・シュヴァイツァー博士の著書『わが生活と思想』の中より肝銘した言葉として、
「人間性は決して物質的なものではない。人間の内には表面に現われるより遥(はる)かに多くの理想的意欲が存在する。縛(しば)られたものを解き放つこと、底を流れるものを地上に導くこと、一事を成就すべき人間を、人類は待ち焦(こ)がれている」と。
このシュヴァイツァー博士の言葉を引用し、故安岡先生は次のように説かれています。
「不幸にして今日、人心風俗は、折角進歩した学問、究明されている真理から背馳(はいち・そむく、いきちがう)している。
親達は子供等を学校に入れるだけで、親(みずか)ら教育しようとせず、教師は本来の使命を怠り労働組合員となり、政治家は民衆に迎合して指導力を失い、世人は不義不正を傍看(ぼうかん)して氣概を亡くしている。
曽(かつ)ての偉大な指導者達は皆時代の風潮に屈しなかった人々であり、新しい時代の創造は、こういう信念あり勇氣ある少数の人々の不屈の努力に因(よ)るものである。
日本の危機に臨んで、有志者の雄健(雄大にして剛健なこと)を祈る」と。
安岡先生は、その生涯の理念を、「一燈照隅、万燈照国」におかれました。さかのぼること1千年余前、伝教大師(比叡山開山、天台宗開祖最澄)の訓にある「一隅を照らす」の教えを思います。
日本の危機的現状から、誠に、理と義に向かわせるために、大人達、特に指導的立場にある全ての分野の人々が、己の立場や地位に恥ずることなく、誠に学び自らに問うべき時と信ずるからです。
著名な物理学者、相対性理論の発見者である故アインシュタイン博士が、大正11年(1922)、1ヶ月におよぶ来日の折り、日本国と日本人に託して帰国した言葉を、今一度紹介します。
「世界の未来は進むだけ進み、その間いく度か争いはくり返されて、最後の戦いに疲れるときがくる。そのとき、人類は真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、もっとも古く、もっとも尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」と。
故ア博士が「神に感謝する」と言明したほどの「尊い国」日本、その国の今日的世相の実状をみて、博士の失望のどれほど大きいことか、その嘆きはいかほどでありましょうか。
日本人の底流に営々として流れきた大和(だいわ)の精神、大和(やまと)の歴史の継承、その再生と復活こそが一義であり、今、まさにそのことが試(ため)されていると思うからです。
「世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る」と。それは東方の端に位置し、「日出る国」である日本=日の本(もと)の国であることに「誇り」をもち、そして感謝することを強く自覚することでもあり、自ずとそこに誠の愛国心が生じてくるのです。文字や言葉の表現に左右されるものではないと信じます。
今から59年前(昭和24年)、ノーベル 物理学賞を授与された初の日本人、故湯川秀樹博士の言葉を紹介します。
「案ずることはない。30年後の日本は、(戦後の廃墟より立ち上がり)科学技術国として先進国と肩をならべる」と。
しかし、
「僕は30年後の日本人のものの考え方を案じているのだ。日本人が開発した科学技術から派生する思想が日本人の心を蝕(むしば)むのではないか」と。
偉大な先人の言葉や思いは、まさしく今日的日本の様相を予見し、強い警告をわれわれに発していたのです。
このことからも、歴史や先人に学ぶ、そして今に活かすことがどれほど大切であり、賢明であるか再認識することが大切です。
21世紀は「美の時代」又「文化の時代」といわれて久しいのですが、「美」は宇宙の根源的要素(基本)といわれる「真・善・美」の美と考えるべきです。
ただ人や町、環境等、目に見える有形の美のみでなく、大切なのは、基となる無形の美、氣の力や人の心の美しさをも含むのであり、もとの美から発現する美を忘れてはならないのです。
神=天=自然の計(はか)らいに順ずる、素直な魂の発現(=かむながら=隨神の道)を自覚して生きる人々の住む国ということなのです。
尊い国、美しい心の人の住む国、歴史と先人達の大和(だいわ)の精神=大和魂がつちかってきた「日本の良心」に立ち戻り、全ての大人達が、残されたそれぞれの人生を志をもって良心に生き、次世代に継承するための努力に勤めることが、使命であると信ずるからです。
平成20年1月21日 記
(前年4月14日分再考加筆)