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蛤石の話
古川の上町から、宮川を挟んで対岸に、蛤城と言う山城があります。

この城は、かつて姉小路氏のうち古河家が山城として建造し、その後、空き城となっていたところを
三木自綱の武将塩屋筑前守秋貞が、ここに住んでいたとの伝承があります。
また、五社神社の修復棟札には、天正5年(1577)牛丸氏の名前が見られることから、一時期、牛丸氏
によって居城されていたとの話もあります。
そのあと、金森氏が天正13年に飛騨を政略したときに、おそらく金森可重だと思いますが、この城に
住んでいたとの伝承があります。
金森氏は、この城の防御をもっと強くするために、背後の山との境目を掘り、大堀切にするなど手を
加えたと思われる遺構が残っています。
さて、その城の名前ですが、この城郭の山頂に蛤石と言う石が存在する事から、この名称になった
とのいわれがあります。
私も実物を確認しようと何度かこの山城に行こうとしましたが、登り口がわからず、断念していました。
地元の方にお聞きしたら、簡単に行けるよということでしたが、車で3回近くにまでいきましたが、結局
あきらめて今日に至ります。
今日、古川の住田さんがFBに画像をアップしておられたので、蛤石の現状がどうなっているのか、
写真をいただきました。それがこれです。

この石、学名は「さざれ石」という名前で、海の底に土砂が堆積するときに、土に混じって石が堆積した
ときに、一緒に固まったものだそうです。
以前『姉小路と廣瀬』を執筆した時に、この石についてのいわれを書きましたが、飛騨の歴史のことを書いた
『飛州志』には、次のような伝説が伝わっています。
「金森長近が古川から高山へ移る時、蛤石を持ちだすよう家来に命じたが、高山に近くなるほどだんだん
重くなり、高山へ着いてから異変が起こった。そこで、元に戻すようにすると軽くなってすぐにたどり着いた」
という話です。
また、「雨乞いをするために、陰陽の一つを宮川に沈めたら、一気に大雨が降り、住民が大変喜んだ」
といわれています。
ところで、この石ですが、河合町の専勝寺にも2個の蛤石が伝わっています。
寺の伝承では、「雨乞いに使った石が下流に流されて、専勝寺に奉納された」とされています。
下記の写真の2つがそれですが、蛤城の石とはあまり似ていません。

徳積善太
この城は、かつて姉小路氏のうち古河家が山城として建造し、その後、空き城となっていたところを
三木自綱の武将塩屋筑前守秋貞が、ここに住んでいたとの伝承があります。
また、五社神社の修復棟札には、天正5年(1577)牛丸氏の名前が見られることから、一時期、牛丸氏
によって居城されていたとの話もあります。
そのあと、金森氏が天正13年に飛騨を政略したときに、おそらく金森可重だと思いますが、この城に
住んでいたとの伝承があります。
金森氏は、この城の防御をもっと強くするために、背後の山との境目を掘り、大堀切にするなど手を
加えたと思われる遺構が残っています。
さて、その城の名前ですが、この城郭の山頂に蛤石と言う石が存在する事から、この名称になった
とのいわれがあります。
私も実物を確認しようと何度かこの山城に行こうとしましたが、登り口がわからず、断念していました。
地元の方にお聞きしたら、簡単に行けるよということでしたが、車で3回近くにまでいきましたが、結局
あきらめて今日に至ります。
今日、古川の住田さんがFBに画像をアップしておられたので、蛤石の現状がどうなっているのか、
写真をいただきました。それがこれです。
この石、学名は「さざれ石」という名前で、海の底に土砂が堆積するときに、土に混じって石が堆積した
ときに、一緒に固まったものだそうです。
以前『姉小路と廣瀬』を執筆した時に、この石についてのいわれを書きましたが、飛騨の歴史のことを書いた
『飛州志』には、次のような伝説が伝わっています。
「金森長近が古川から高山へ移る時、蛤石を持ちだすよう家来に命じたが、高山に近くなるほどだんだん
重くなり、高山へ着いてから異変が起こった。そこで、元に戻すようにすると軽くなってすぐにたどり着いた」
という話です。
また、「雨乞いをするために、陰陽の一つを宮川に沈めたら、一気に大雨が降り、住民が大変喜んだ」
といわれています。
ところで、この石ですが、河合町の専勝寺にも2個の蛤石が伝わっています。
寺の伝承では、「雨乞いに使った石が下流に流されて、専勝寺に奉納された」とされています。
下記の写真の2つがそれですが、蛤城の石とはあまり似ていません。

徳積善太
帰雲城調査会講演会_田口さんの講演
帰雲調査会 平成24年度総会 田口さん講演 平成24年5月19日白川総合文化施設

山城をテーマに内ヶ島がどのような館も含めて城郭の有り様であったか。という発想の展開で、保木脇から打ち切りにして、白川郷という所に内ヶ島の築いたお城はどういうものかということで徹底的に地元の伝承を拾った。一切なかった。小白川(飛騨と越中の教会)から城郭の断片が出て来た。古地名(昔の記録)小白川の背後に城山という地名があった。そこに確かに山城構造があった、図面化して発表したことも有る。帰り雲調査会の文化会の文献に投稿したことはありませんが、学術関係の論文集に投稿しております。
それから、余談ですが、保木脇の対岸に木谷という所がありますが、そこに松尾砦という場所を図面を造って発表した。白川村審議会で否定された。ところが図面を見ると山城です。規模が小さいので砦としております。字の境界が分かれているので、両方の名前を取って松尾砦とつけた。事後問題になることもあります。

本題ですが、小白川と松尾砦と保木脇の帰雲を方向転換したら出てきた。赤谷城ですが、A3二枚をつないだもの。簡単な概略を説明します。これを見つける元になった根拠は、ダムがあって、上流に行くと左岸に尾神郷川がある。それの源流が別山。ダム湖に沈んだところに荘川桜があった中野がある。橋を渡った所に海塩という所があった。日崎と言う地名がある。内ヶ島の研究をされている方ならご存じだが、5ヶ城という中に日崎城がある。新渕城(荘川)牧戸に向牧戸城という所がある。日崎城。荻町城。もう一つは五箇山の一角に利賀村の谷があって芋井谷城がある。
従来の内ヶ島研究に出てくる。白川村史のすり壁さんから教えを乞うて、書かれたのがこの5つの城です。文献資料から拾い出したもの。
日崎のお城は、中野海塩の文献の中に館の部分があったと思われる堀が残っていたという話しがあった。水没前ですから庄川に住んでおられた方の話しをとっている。日崎の所に山城が無いと思い、調べた。国道の所をしらみ潰しに調べたが、無かった。このあたりに住んでいた人から、「むっくりこっくり」という言葉があった。日崎の館の「むっくりこっくり」。凹凸という意味ですが、そういう話しがありました。対岸の所に赤谷区という集落の山中に山のむっくりこっくりがあるよと教えていただいた。深さ1.5m長さ5m位のけものを落とすには大きな所が2ヶ所あると言われた。荘川村の職員が見に行かれた。当時の職員と興味のある方と見に行かれたが訳がわからなかった。深い堀状のものがあったという事だった。
場所を教えてもらって、2年ほどおいて、対岸へ行くのに大変だが、湖岸に沿って道を作ったが寸断されていた。平成20年に初めて林道を車で行き、あとは歩いてその場所に行って登った。そうしたら、実はこの城郭の縄張り図ですが、この部分が、主閣。中心の曲輪。山の裾にダム湖畔に2時間位かかって行った。そして主閣に遭遇した。規模は、下の堀切。尾根を分断するもの。上部の堀切。この主閣の部分が100m以上あった。横巾が60m位。深さが3mから4m位残っていた。幅が広い所で13mから15m位。この堀で切り取った切岸は、高い所で6mから7m。側面も全部切ってあって、空間を出しているが、尾根は西から東に登って行っている。主閣の部分が、伝承も一切無かった。文書記録も無かった。初めて見た時に、内ヶ島の城を見つけようと思って行ったが、内ヶ島の城ではないので、2年ほどほおっておいた。平成22年になってやっとこれを世に紹介しないといけないと思い図面化した。図面化した人は熊沢さん。図面化するのに6日ほど通った。できたのが、22年10月23日に図面化が完成。こういう事で、一応縮尺で3cmほどが100m。末端から山城の遺構として確認できるものが、その上にもある。その部分について、研究者によっては、上手さん、長瀬さんが見ています。
現状は知っておられます。その時に佐伯哲也さんがみています。中部地方の研究者の方を伴われて主格だけ図面化した。主格を取上げて年代を分析された。主格部分だけを取上げて研究されているのが佐伯さんです。
熊沢さんは、美濃方面をやっておられますが、熊沢さんのポリシーはすべての地表の観察によって城郭の一部だと思われると書く人です。
人によっては、主閣だけはわかりますが、末端までは見る人によって認識できないし、何の目的でやるかわからない人。故意に飛ばす人もいます。
ものすごいエネルギーを費やします。
1550年以降。現状は石垣なし。1550年以降の山城は土を急峻にしてよじ登れないようにしている。そういう状況で土だけの山城としては最も新しい物を持っていると、考えていました。末端から、1006m1040m尾根のピーク平。そこから1070mまで歩いて登りましたが、上部の連続性の城郭の一部を確認しております。熊沢先生は体を悪くして上部へ行っておりませんが、荘川町の人とかと何回かわけて現地を見ていただいています。将来いろいろと論争が起きた時に見ておいてもらいたいと思って一緒に入って頂いています。
上部にまだあります。
最後にお話ししたいのは、ここから下まで湖底に沈んでいますから、沈むところが770m。庄川の湖水に沈んでいる所は、海抜700m。ここまでは遺構があるかもしれません。崖のような地形で、では、このお城の意味だけ話しますと。
麻谷というのがあります。
地元の伝承調査をすると、庄川の東側に1200mの山があり、これを超えると六厩金山の鉱区があります。古い伝承には、そこを鉱山師が登ったという伝承があります。麻谷の周辺に居を構えたという伝承もあります。この谷が山越えをする道があったという事を言っています。ゆえに、麻谷の人の往来がある処に築城したと考えられる。
もう一つ。尾神郷川。金森長近が福井県大野から白山別山の南方を通って侵攻したという道がありますが、これは越前から来ます。南から白川街道に保木脇を通り、越中へ行きます。丸木橋があったものと思います。ここに一ヶ所と上流に一ヶ所、対岸に渡れる橋が架けられたといいます。
お城の下を通って、通って行くと、森茂金山があります。東西南北の通行路の接点にあたる所の対岸にある城がこの城でした。照蓮寺というものが中野にありましたし、ここに創られた事がわかります。そこに想像を絶するお城があったという事です。
どうして、この城が創られたか。伝承にも無いかという事ですが。
中野の照蓮寺。真宗門徒は総本山ですから、荻町とかは戸谷とか道場と言われる時代はここに行きました。飛騨のお寺の前身、総本山は、多くの人が出入りしますし、中野には相当の人が住んでいた。尾神にもあった。実はここの事務局の大村さんの、22年度の小冊子を預けてあります。ここのエリアに新しい山城が出た事を記述してありますが、やっと去年図面が出来たので、今回説明させていただきました。
この場所は、内ヶ島。照蓮寺、また他の歴史上はっきりしないけれども強大な勢力を持った何者かが築いたという事を考えています。これ一本に絞るのが難しいと思っています。
照蓮寺の門徒、戦国期に入って、金森氏が攻めてくる時代になって、住民そっくり、避難する場所。村の城という概念がありますが、大きな集落ごとに山に防備を伴った拠点を創るという所に逃げ込んだという村の城ではないかと考えることを最近思っています。
内ヶ島の氏義・氏郷の時代に創られる訳ですが、当時の勢力、労働力、結集力からみて、単独で創るのは不可能と思っています。内ヶ島と照蓮寺との政治的背景がマッチングして、従来の牧戸城とかというレベルでは、金森氏位の武将が侵攻してきては守りきれない。従来の物では考えられない規模の物を創って、外界に発信して、権勢する役目と、いざ戦乱になった時に、門徒住民すべて避難するという目的であれば、照蓮寺の権威で、飛騨国すべてから集められる。内ヶ島では強制勢力をしても無理だと思う。内ヶ島と照蓮寺の勢力を集めて、こういった物を創ったのではないか。
内ヶ島が籠もって戦ったのではなくて、照蓮寺の門徒が籠もった事が目的。外界に発信して、心理戦で阻止しようと築いたと思います。
お断りしたいのが2年前に飛騨の中世という雑誌で、その時はここの海塩に日崎城というのがあって、家臣の中で3家老職がありました。荻町山下氏。筆頭家老の尾神氏がなかった、尾神という集落がここにあった。尾神の名を取っているというのは、中野の目付として尾神氏がいたのでは。尾神備中の守氏綱と言います。その方の山城かとも思いましたが、その当時の城の名前を日崎の山城と付けました。中野の照蓮寺の真向かいにありますが、そこにも名前を付けてあります。他の方は承知していますが、和田砦と付けました。規模は小さいのですが、築城思想はほぼ等しいし、同じ年代です。佐伯さんは、1575年から80年くらいまで。金森侵攻が1585年です。内ヶ島はそれで滅亡しますが、その直前に築かれたであろう。築城様式でそう判定されました。
私どもとそう差はありません。一つ言っておきたいのは、なぜ1070mあるかという事。内ヶ島が単独で創ったという事は、延ばす理由がありません。戦闘目的ではない。このお城の特質がこれだけ巨大な物を外界に発信するという目的がある。
これは、普通のレベルの権力のある武将の場合でも飛騨で一番高いのが1200mです。主閣が1200mにあるのですが、背後にどうしてそこまであるのかわかりません。六厩の一番上にある麻谷に向かっているのは、道を封鎖するためではないか。麻谷の所に全部防備がしてある。そういう構造になっている。主閣以外に上部の構造物。末端にある構造物が麻谷を通行する者を、牽制あるいは、保護する。金山資源の保護があるのではと考えています。この程度にしておきます。
もう一つ、内ヶ島氏。真宗一向宗の照蓮寺は、表に浮いて来ている歴史ですが、もう一点加えると、じつは松古れいこさんを通じてある方が訪問された。鷲見尚子さん。その方の素性は申し上げませんが、白山信仰にまつわる、俗に言う祭主あるいは、神主と言われるような白山信仰にまつわる血筋の方でした。自分の所の文書から赤谷という地名が、実は私の所に鷲見の文書の中にここを示しているという。尋ねて来られてしつこくいろいろと質問をされました。和田砦の他に赤谷エリアの山中にもう一ヶ所城郭構造を見つけました。3つあります。一般常識では考えられません。図面上の海塩の所に一ヶ所。荘川桜のドライブインの所の赤谷の橋がありますが、地形上2ヶ所しか架けられない。その場所対岸に渡るという事が地元でも無かったそうです。森茂を通って、高山に行く道もあります。金森が侵攻する時にどうしてもここを通っています。
そういう風に普通は人が往来しない対岸の急峻な山に二ヶ城も三ヶ所も創るというのは私の中では説明がつきません。これからの課題です。ミステリーなエリアです。
世に出てますから、色んな関係者が訪ねて見えます。
その時に、地権者、ここを教えて頂いた方々、現在、牧戸城の所に出ていますのも、宇多正治さんが気付いて論考を出しておられます。高山市教育委員会で文化財にする為に公的に動き出しています。グループの方にこの辺も見ていただいていますので、私自身だけではなくて、地権者の情報を提示していますので、是非連絡を取って調査していただきたいと思います。足掛け5年以上かかって、大勢の方に礼を尽くしてやっておりますので、そういう事をしてやっていただきたいと思います。これで終ります。
内ヶ島の伝承の中に保木脇が崩れてダム湖ができたという話しがあります。
上白川の尾神郷川の下流の所に出来たと言われます。
天正大地震だと思われますが、白山の大爆発で、別山の南側の斜面に堰き止め湖があり、土石流が出来て流れて来てダム湖ができたという口伝があります。
それだけお知らせしておきます。まだ多少ありますが、これでやめておきます。
(徳積善太記録)
山城をテーマに内ヶ島がどのような館も含めて城郭の有り様であったか。という発想の展開で、保木脇から打ち切りにして、白川郷という所に内ヶ島の築いたお城はどういうものかということで徹底的に地元の伝承を拾った。一切なかった。小白川(飛騨と越中の教会)から城郭の断片が出て来た。古地名(昔の記録)小白川の背後に城山という地名があった。そこに確かに山城構造があった、図面化して発表したことも有る。帰り雲調査会の文化会の文献に投稿したことはありませんが、学術関係の論文集に投稿しております。
それから、余談ですが、保木脇の対岸に木谷という所がありますが、そこに松尾砦という場所を図面を造って発表した。白川村審議会で否定された。ところが図面を見ると山城です。規模が小さいので砦としております。字の境界が分かれているので、両方の名前を取って松尾砦とつけた。事後問題になることもあります。
本題ですが、小白川と松尾砦と保木脇の帰雲を方向転換したら出てきた。赤谷城ですが、A3二枚をつないだもの。簡単な概略を説明します。これを見つける元になった根拠は、ダムがあって、上流に行くと左岸に尾神郷川がある。それの源流が別山。ダム湖に沈んだところに荘川桜があった中野がある。橋を渡った所に海塩という所があった。日崎と言う地名がある。内ヶ島の研究をされている方ならご存じだが、5ヶ城という中に日崎城がある。新渕城(荘川)牧戸に向牧戸城という所がある。日崎城。荻町城。もう一つは五箇山の一角に利賀村の谷があって芋井谷城がある。
従来の内ヶ島研究に出てくる。白川村史のすり壁さんから教えを乞うて、書かれたのがこの5つの城です。文献資料から拾い出したもの。
日崎のお城は、中野海塩の文献の中に館の部分があったと思われる堀が残っていたという話しがあった。水没前ですから庄川に住んでおられた方の話しをとっている。日崎の所に山城が無いと思い、調べた。国道の所をしらみ潰しに調べたが、無かった。このあたりに住んでいた人から、「むっくりこっくり」という言葉があった。日崎の館の「むっくりこっくり」。凹凸という意味ですが、そういう話しがありました。対岸の所に赤谷区という集落の山中に山のむっくりこっくりがあるよと教えていただいた。深さ1.5m長さ5m位のけものを落とすには大きな所が2ヶ所あると言われた。荘川村の職員が見に行かれた。当時の職員と興味のある方と見に行かれたが訳がわからなかった。深い堀状のものがあったという事だった。
場所を教えてもらって、2年ほどおいて、対岸へ行くのに大変だが、湖岸に沿って道を作ったが寸断されていた。平成20年に初めて林道を車で行き、あとは歩いてその場所に行って登った。そうしたら、実はこの城郭の縄張り図ですが、この部分が、主閣。中心の曲輪。山の裾にダム湖畔に2時間位かかって行った。そして主閣に遭遇した。規模は、下の堀切。尾根を分断するもの。上部の堀切。この主閣の部分が100m以上あった。横巾が60m位。深さが3mから4m位残っていた。幅が広い所で13mから15m位。この堀で切り取った切岸は、高い所で6mから7m。側面も全部切ってあって、空間を出しているが、尾根は西から東に登って行っている。主閣の部分が、伝承も一切無かった。文書記録も無かった。初めて見た時に、内ヶ島の城を見つけようと思って行ったが、内ヶ島の城ではないので、2年ほどほおっておいた。平成22年になってやっとこれを世に紹介しないといけないと思い図面化した。図面化した人は熊沢さん。図面化するのに6日ほど通った。できたのが、22年10月23日に図面化が完成。こういう事で、一応縮尺で3cmほどが100m。末端から山城の遺構として確認できるものが、その上にもある。その部分について、研究者によっては、上手さん、長瀬さんが見ています。
現状は知っておられます。その時に佐伯哲也さんがみています。中部地方の研究者の方を伴われて主格だけ図面化した。主格を取上げて年代を分析された。主格部分だけを取上げて研究されているのが佐伯さんです。
熊沢さんは、美濃方面をやっておられますが、熊沢さんのポリシーはすべての地表の観察によって城郭の一部だと思われると書く人です。
人によっては、主閣だけはわかりますが、末端までは見る人によって認識できないし、何の目的でやるかわからない人。故意に飛ばす人もいます。
ものすごいエネルギーを費やします。
1550年以降。現状は石垣なし。1550年以降の山城は土を急峻にしてよじ登れないようにしている。そういう状況で土だけの山城としては最も新しい物を持っていると、考えていました。末端から、1006m1040m尾根のピーク平。そこから1070mまで歩いて登りましたが、上部の連続性の城郭の一部を確認しております。熊沢先生は体を悪くして上部へ行っておりませんが、荘川町の人とかと何回かわけて現地を見ていただいています。将来いろいろと論争が起きた時に見ておいてもらいたいと思って一緒に入って頂いています。
上部にまだあります。
最後にお話ししたいのは、ここから下まで湖底に沈んでいますから、沈むところが770m。庄川の湖水に沈んでいる所は、海抜700m。ここまでは遺構があるかもしれません。崖のような地形で、では、このお城の意味だけ話しますと。
麻谷というのがあります。
地元の伝承調査をすると、庄川の東側に1200mの山があり、これを超えると六厩金山の鉱区があります。古い伝承には、そこを鉱山師が登ったという伝承があります。麻谷の周辺に居を構えたという伝承もあります。この谷が山越えをする道があったという事を言っています。ゆえに、麻谷の人の往来がある処に築城したと考えられる。
もう一つ。尾神郷川。金森長近が福井県大野から白山別山の南方を通って侵攻したという道がありますが、これは越前から来ます。南から白川街道に保木脇を通り、越中へ行きます。丸木橋があったものと思います。ここに一ヶ所と上流に一ヶ所、対岸に渡れる橋が架けられたといいます。
お城の下を通って、通って行くと、森茂金山があります。東西南北の通行路の接点にあたる所の対岸にある城がこの城でした。照蓮寺というものが中野にありましたし、ここに創られた事がわかります。そこに想像を絶するお城があったという事です。
どうして、この城が創られたか。伝承にも無いかという事ですが。
中野の照蓮寺。真宗門徒は総本山ですから、荻町とかは戸谷とか道場と言われる時代はここに行きました。飛騨のお寺の前身、総本山は、多くの人が出入りしますし、中野には相当の人が住んでいた。尾神にもあった。実はここの事務局の大村さんの、22年度の小冊子を預けてあります。ここのエリアに新しい山城が出た事を記述してありますが、やっと去年図面が出来たので、今回説明させていただきました。
この場所は、内ヶ島。照蓮寺、また他の歴史上はっきりしないけれども強大な勢力を持った何者かが築いたという事を考えています。これ一本に絞るのが難しいと思っています。
照蓮寺の門徒、戦国期に入って、金森氏が攻めてくる時代になって、住民そっくり、避難する場所。村の城という概念がありますが、大きな集落ごとに山に防備を伴った拠点を創るという所に逃げ込んだという村の城ではないかと考えることを最近思っています。
内ヶ島の氏義・氏郷の時代に創られる訳ですが、当時の勢力、労働力、結集力からみて、単独で創るのは不可能と思っています。内ヶ島と照蓮寺との政治的背景がマッチングして、従来の牧戸城とかというレベルでは、金森氏位の武将が侵攻してきては守りきれない。従来の物では考えられない規模の物を創って、外界に発信して、権勢する役目と、いざ戦乱になった時に、門徒住民すべて避難するという目的であれば、照蓮寺の権威で、飛騨国すべてから集められる。内ヶ島では強制勢力をしても無理だと思う。内ヶ島と照蓮寺の勢力を集めて、こういった物を創ったのではないか。
内ヶ島が籠もって戦ったのではなくて、照蓮寺の門徒が籠もった事が目的。外界に発信して、心理戦で阻止しようと築いたと思います。
お断りしたいのが2年前に飛騨の中世という雑誌で、その時はここの海塩に日崎城というのがあって、家臣の中で3家老職がありました。荻町山下氏。筆頭家老の尾神氏がなかった、尾神という集落がここにあった。尾神の名を取っているというのは、中野の目付として尾神氏がいたのでは。尾神備中の守氏綱と言います。その方の山城かとも思いましたが、その当時の城の名前を日崎の山城と付けました。中野の照蓮寺の真向かいにありますが、そこにも名前を付けてあります。他の方は承知していますが、和田砦と付けました。規模は小さいのですが、築城思想はほぼ等しいし、同じ年代です。佐伯さんは、1575年から80年くらいまで。金森侵攻が1585年です。内ヶ島はそれで滅亡しますが、その直前に築かれたであろう。築城様式でそう判定されました。
私どもとそう差はありません。一つ言っておきたいのは、なぜ1070mあるかという事。内ヶ島が単独で創ったという事は、延ばす理由がありません。戦闘目的ではない。このお城の特質がこれだけ巨大な物を外界に発信するという目的がある。
これは、普通のレベルの権力のある武将の場合でも飛騨で一番高いのが1200mです。主閣が1200mにあるのですが、背後にどうしてそこまであるのかわかりません。六厩の一番上にある麻谷に向かっているのは、道を封鎖するためではないか。麻谷の所に全部防備がしてある。そういう構造になっている。主閣以外に上部の構造物。末端にある構造物が麻谷を通行する者を、牽制あるいは、保護する。金山資源の保護があるのではと考えています。この程度にしておきます。
もう一つ、内ヶ島氏。真宗一向宗の照蓮寺は、表に浮いて来ている歴史ですが、もう一点加えると、じつは松古れいこさんを通じてある方が訪問された。鷲見尚子さん。その方の素性は申し上げませんが、白山信仰にまつわる、俗に言う祭主あるいは、神主と言われるような白山信仰にまつわる血筋の方でした。自分の所の文書から赤谷という地名が、実は私の所に鷲見の文書の中にここを示しているという。尋ねて来られてしつこくいろいろと質問をされました。和田砦の他に赤谷エリアの山中にもう一ヶ所城郭構造を見つけました。3つあります。一般常識では考えられません。図面上の海塩の所に一ヶ所。荘川桜のドライブインの所の赤谷の橋がありますが、地形上2ヶ所しか架けられない。その場所対岸に渡るという事が地元でも無かったそうです。森茂を通って、高山に行く道もあります。金森が侵攻する時にどうしてもここを通っています。
そういう風に普通は人が往来しない対岸の急峻な山に二ヶ城も三ヶ所も創るというのは私の中では説明がつきません。これからの課題です。ミステリーなエリアです。
世に出てますから、色んな関係者が訪ねて見えます。
その時に、地権者、ここを教えて頂いた方々、現在、牧戸城の所に出ていますのも、宇多正治さんが気付いて論考を出しておられます。高山市教育委員会で文化財にする為に公的に動き出しています。グループの方にこの辺も見ていただいていますので、私自身だけではなくて、地権者の情報を提示していますので、是非連絡を取って調査していただきたいと思います。足掛け5年以上かかって、大勢の方に礼を尽くしてやっておりますので、そういう事をしてやっていただきたいと思います。これで終ります。
内ヶ島の伝承の中に保木脇が崩れてダム湖ができたという話しがあります。
上白川の尾神郷川の下流の所に出来たと言われます。
天正大地震だと思われますが、白山の大爆発で、別山の南側の斜面に堰き止め湖があり、土石流が出来て流れて来てダム湖ができたという口伝があります。
それだけお知らせしておきます。まだ多少ありますが、これでやめておきます。
(徳積善太記録)
帰雲調査会講演会_安達先生の講演
帰雲調査会 平成24年度総会 安達さん講演 平成24年5月19日白川総合文化施設
天正大地震は火山の噴火、連動地震、津波、山崩れ
安達正雄

若狭湾周辺に14の原発。安全性の見直し。地元の報告会があり、電力会社が若狭湾に派歴史的大津波が無かったと報告。鶴が短大の歴史の先生から、天正自身の時に大津波があったという報告。かねみ卿記。吉田兼好の子孫の吉田かなみの日記に載っていた。その時代にポルトガルの宣教師の手紙。2種類あって、本国へ送った手紙と、マニラにあった教区。キリスト教のアジア地区の事務局の様な所に送った物とあった。それにも天正地震の時に津波があったという報告がある。
そういう事で、若狭湾沿岸に津波があったことが分かっている。具体的にどこが被害が大きかったかは分かっていない。
最初は火山の噴火。高鷲村史に書いてあった。白山自然保護センターで火山の歴史を調べてみた。その時は間違いでしょうと言われた。おそらく地鳴りを火山の鳴動とされていたのではと否定されていた。北国新聞の一面に大きく白山で爆発があり、これまで見のがされていたものがあったと出ていた。天正地震の時にもあったのではないか。それを調べて見ようと思ったのが、この火山の研究のきっかけです。
まず、同時代史料、その時代に書かれたものを調べた。一応見たけれど見つからなかった。後で見直しをした所それらしきものがあったので、史料で紹介している。
史料① 山城 京都に住んでいた、梵舜という人。これも吉田兼好の子孫に当る人です。これが梵舜記(舜旧記)となっている。

史料①「天正十三年十一月廿九日、夜半時分に大地震良久し、明日まで如此也。近国之浦浜・・・(以下略)
晦日、同大地震、当東に如雷鳴響也。是夜半時分也。」
雷鳴の如きなりというのが白山の爆発ではないかと推定。時間が合わないので検討しないといけない。
史料② 美濃高鷲村 高鷲村史
「天正十三年十一月二十九日亥子の刻、一大音響と共に白山火山が大爆発して大地震が起こり、折立、ミゾレ・帰雲の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。
同日、白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し、道場も山崩れのため押しつぶされて浄念寺の三幅の仏もこの難にあわれた。
同日夜白山大爆発による大地震は、飛騨・越前・越中・加賀・美濃等数カ国の地が大いに古い、白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東、帰雲の裏山続きに天に向かってごうがの如く突きそそる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊したのもこの時であった。
何代か言い伝わっていくうちに伝説は面白い方に代る。時間がずれていたが、爆発と同時に起きていたが、地震に代っていったのではと思う。爆発の時間と地震の起きた時間が同時かどうかというのがわからない。
史料③ 信濃、天竜村 「天龍村史」
天正自身は(以下略)地震と共に白山・焼岳も噴火している。
天竜村史は、間違えていて、12月1日の未明という事になっている。30日の晩に地震も起きて噴火も有ったと言っているので、わからない。ひょっとしたら暦を間違えているのではと思う。11月は小月だとおもい、間違えたのではないか。検討課題です。
白山の爆発についてはこれであったということがわかる。時間についてははっきりしない。
(2)焼岳の噴火
大分後の史料ばかりで古い史料が無い。
史料④加藤鉄之助著「硫黄岳火山地質調査慨報(1913)
天正十三年、硫黄岳噴火して、山麓の中尾の村落を埋没せしめたる等の事実あり。此際中尾の村落を被覆せるは、里谷に沿いて運搬せられたる泥流(溶岩)にして、右泥流は今の同村神坂区の東に至りて止りたるものの如し」
史料⑤ 飛騨 高山市 岡村利平著 「飛騨編年史要」(1921)
天正十三年十一月二十九日、信濃・飛騨国境の硫黄岳噴火して溶岩山麓の村里道路を埋没し、神坂の古道(謂 信濃峠)絶えたり。
2.連動地震
天正大地震はいくつもの地震が連動して起きた。
震源について、考えてみたのが表1
トレンチ発掘、考古学的な発掘が必要。それがないと正確にはわからない。表の一番左側の○3・4・7・11についてはトレンチ掘削されて天正大地震で動いたという記録がある。震源地になっている。
津波についてはほとんど知られていなかった。原発の調査で、天正大地震の津波が知られた。5月3日の毎日新聞に、かなぞう詩集の要石というのがあり、浅井了いという人の本。江戸時代の本。これは漢文の自習の時に面白い話しをまとめたもの。敦賀の話しで、敦賀の人が今自身があった。津波が来るかもしれないから早く逃げろ。海の藻屑となるぞとせかして安全な所へ逃げたという話しがある。特ダネとして載っていた。天正地震に出てくるのではと思った。そこまでは到達しないで終わった。せっかく特ダネで出して、結果は面白くなかった。おそらく天正地震の話しを聞いていて、早く逃げろと言ったのだと思う。
3.津波について
1)若狭湾の津波
2)琵琶湖の津波
長浜、ファカタという地名などがあり、検証が必要。それは平方の間違いではないかという事を書いている。地名を訂正すればかなり細かいことがわかるのではと思う。
滋賀県立大学の林教授の琵琶湖固定の調査。配布資料は2倍に拡大してある。琵琶湖の地図。時計回りに数えて行くと、93という数の遺跡が琵琶湖の湖底に沈んでいた。
大変驚いた。
林教授らは、地震の関係したもの3つを選んだ。その結果が表の2にある遺跡名と関与した地震。19、22、84番。昔の人は100以上は数えなかったのでは。そのため千軒となっている。
関与した地震はそれぞれのとおり。
敦賀の地震の時の話しは寛文年間のものではないか。調査の結果、下坂浜千軒遺跡は、液状化→地滑りで湖底に沈んだ。私は液状化→津波→地滑りだと思う。というのは、ポルトガル宣教師の地名にファカタが出てくる。これは平方の誤り。平方は下坂浜のすぐとなりにあった。ファカタが津波に襲われていれば、この下坂浜も津波の被害にあっているはず。
3)伊勢湾の津波
伊勢湾内で地震が起こり、伊勢湾内外に津波の被害があった。
史料⑦ 伊勢の長島町 長島町史上巻
地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・中島等は地盤沈下のところへ(津波が)来襲し、湧没した。善田(殿名村の小字)などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震と共に海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津波が見られた。
火災なども起きているのでそういうものを顕彰すると実情がわかる。東大宇佐美さんは実像がわからないと言っておられたが、実像がわかってきたと思う。史上最大の災害だったと思う。データを整理して比較しないとわからない。内陸部の地震としては一番大きなものが濃尾地震。それと比較してみたいと思う。
司会:原因が火山の噴火に伴って海底とか琵琶湖などでは津波が併発したのではないか。もともと地盤が弱い所については液状化が起った複合災害だったと思われる。
地表より下の所は目に見えないので、そういう歴史学でもデータがあるので、地球内部の大きなエネルギーが地表面に現われて来た時は災害になって出る。わかっていることとはいえ、大変だ。予防が出来ない。どうしたらいいかというと安全なところに住むしかないという事だと思う。安達先生の複合災害の研究は興味がある。もう少し掘り下げて研究していただきたい。
(徳積善太記録)
天正大地震は火山の噴火、連動地震、津波、山崩れ
安達正雄
若狭湾周辺に14の原発。安全性の見直し。地元の報告会があり、電力会社が若狭湾に派歴史的大津波が無かったと報告。鶴が短大の歴史の先生から、天正自身の時に大津波があったという報告。かねみ卿記。吉田兼好の子孫の吉田かなみの日記に載っていた。その時代にポルトガルの宣教師の手紙。2種類あって、本国へ送った手紙と、マニラにあった教区。キリスト教のアジア地区の事務局の様な所に送った物とあった。それにも天正地震の時に津波があったという報告がある。
そういう事で、若狭湾沿岸に津波があったことが分かっている。具体的にどこが被害が大きかったかは分かっていない。
最初は火山の噴火。高鷲村史に書いてあった。白山自然保護センターで火山の歴史を調べてみた。その時は間違いでしょうと言われた。おそらく地鳴りを火山の鳴動とされていたのではと否定されていた。北国新聞の一面に大きく白山で爆発があり、これまで見のがされていたものがあったと出ていた。天正地震の時にもあったのではないか。それを調べて見ようと思ったのが、この火山の研究のきっかけです。
まず、同時代史料、その時代に書かれたものを調べた。一応見たけれど見つからなかった。後で見直しをした所それらしきものがあったので、史料で紹介している。
史料① 山城 京都に住んでいた、梵舜という人。これも吉田兼好の子孫に当る人です。これが梵舜記(舜旧記)となっている。
史料①「天正十三年十一月廿九日、夜半時分に大地震良久し、明日まで如此也。近国之浦浜・・・(以下略)
晦日、同大地震、当東に如雷鳴響也。是夜半時分也。」
雷鳴の如きなりというのが白山の爆発ではないかと推定。時間が合わないので検討しないといけない。
史料② 美濃高鷲村 高鷲村史
「天正十三年十一月二十九日亥子の刻、一大音響と共に白山火山が大爆発して大地震が起こり、折立、ミゾレ・帰雲の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。
同日、白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し、道場も山崩れのため押しつぶされて浄念寺の三幅の仏もこの難にあわれた。
同日夜白山大爆発による大地震は、飛騨・越前・越中・加賀・美濃等数カ国の地が大いに古い、白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東、帰雲の裏山続きに天に向かってごうがの如く突きそそる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊したのもこの時であった。
何代か言い伝わっていくうちに伝説は面白い方に代る。時間がずれていたが、爆発と同時に起きていたが、地震に代っていったのではと思う。爆発の時間と地震の起きた時間が同時かどうかというのがわからない。
史料③ 信濃、天竜村 「天龍村史」
天正自身は(以下略)地震と共に白山・焼岳も噴火している。
天竜村史は、間違えていて、12月1日の未明という事になっている。30日の晩に地震も起きて噴火も有ったと言っているので、わからない。ひょっとしたら暦を間違えているのではと思う。11月は小月だとおもい、間違えたのではないか。検討課題です。
白山の爆発についてはこれであったということがわかる。時間についてははっきりしない。
(2)焼岳の噴火
大分後の史料ばかりで古い史料が無い。
史料④加藤鉄之助著「硫黄岳火山地質調査慨報(1913)
天正十三年、硫黄岳噴火して、山麓の中尾の村落を埋没せしめたる等の事実あり。此際中尾の村落を被覆せるは、里谷に沿いて運搬せられたる泥流(溶岩)にして、右泥流は今の同村神坂区の東に至りて止りたるものの如し」
史料⑤ 飛騨 高山市 岡村利平著 「飛騨編年史要」(1921)
天正十三年十一月二十九日、信濃・飛騨国境の硫黄岳噴火して溶岩山麓の村里道路を埋没し、神坂の古道(謂 信濃峠)絶えたり。
2.連動地震
天正大地震はいくつもの地震が連動して起きた。
震源について、考えてみたのが表1
トレンチ発掘、考古学的な発掘が必要。それがないと正確にはわからない。表の一番左側の○3・4・7・11についてはトレンチ掘削されて天正大地震で動いたという記録がある。震源地になっている。
津波についてはほとんど知られていなかった。原発の調査で、天正大地震の津波が知られた。5月3日の毎日新聞に、かなぞう詩集の要石というのがあり、浅井了いという人の本。江戸時代の本。これは漢文の自習の時に面白い話しをまとめたもの。敦賀の話しで、敦賀の人が今自身があった。津波が来るかもしれないから早く逃げろ。海の藻屑となるぞとせかして安全な所へ逃げたという話しがある。特ダネとして載っていた。天正地震に出てくるのではと思った。そこまでは到達しないで終わった。せっかく特ダネで出して、結果は面白くなかった。おそらく天正地震の話しを聞いていて、早く逃げろと言ったのだと思う。
3.津波について
1)若狭湾の津波
2)琵琶湖の津波
長浜、ファカタという地名などがあり、検証が必要。それは平方の間違いではないかという事を書いている。地名を訂正すればかなり細かいことがわかるのではと思う。
滋賀県立大学の林教授の琵琶湖固定の調査。配布資料は2倍に拡大してある。琵琶湖の地図。時計回りに数えて行くと、93という数の遺跡が琵琶湖の湖底に沈んでいた。
大変驚いた。
林教授らは、地震の関係したもの3つを選んだ。その結果が表の2にある遺跡名と関与した地震。19、22、84番。昔の人は100以上は数えなかったのでは。そのため千軒となっている。
関与した地震はそれぞれのとおり。
敦賀の地震の時の話しは寛文年間のものではないか。調査の結果、下坂浜千軒遺跡は、液状化→地滑りで湖底に沈んだ。私は液状化→津波→地滑りだと思う。というのは、ポルトガル宣教師の地名にファカタが出てくる。これは平方の誤り。平方は下坂浜のすぐとなりにあった。ファカタが津波に襲われていれば、この下坂浜も津波の被害にあっているはず。
3)伊勢湾の津波
伊勢湾内で地震が起こり、伊勢湾内外に津波の被害があった。
史料⑦ 伊勢の長島町 長島町史上巻
地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・中島等は地盤沈下のところへ(津波が)来襲し、湧没した。善田(殿名村の小字)などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震と共に海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津波が見られた。
火災なども起きているのでそういうものを顕彰すると実情がわかる。東大宇佐美さんは実像がわからないと言っておられたが、実像がわかってきたと思う。史上最大の災害だったと思う。データを整理して比較しないとわからない。内陸部の地震としては一番大きなものが濃尾地震。それと比較してみたいと思う。
司会:原因が火山の噴火に伴って海底とか琵琶湖などでは津波が併発したのではないか。もともと地盤が弱い所については液状化が起った複合災害だったと思われる。
地表より下の所は目に見えないので、そういう歴史学でもデータがあるので、地球内部の大きなエネルギーが地表面に現われて来た時は災害になって出る。わかっていることとはいえ、大変だ。予防が出来ない。どうしたらいいかというと安全なところに住むしかないという事だと思う。安達先生の複合災害の研究は興味がある。もう少し掘り下げて研究していただきたい。
(徳積善太記録)
帰雲調査会講演会_安達先生の講演
帰雲調査会 平成24年度総会 安達さん講演 平成24年5月19日白川総合文化施設
天正大地震は火山の噴火、連動地震、津波、山崩れ
安達正雄

若狭湾周辺に14の原発。安全性の見直し。地元の報告会があり、電力会社が若狭湾に派歴史的大津波が無かったと報告。鶴が短大の歴史の先生から、天正自身の時に大津波があったという報告。かねみ卿記。吉田兼好の子孫の吉田かなみの日記に載っていた。その時代にポルトガルの宣教師の手紙。2種類あって、本国へ送った手紙と、マニラにあった教区。キリスト教のアジア地区の事務局の様な所に送った物とあった。それにも天正地震の時に津波があったという報告がある。
そういう事で、若狭湾沿岸に津波があったことが分かっている。具体的にどこが被害が大きかったかは分かっていない。
最初は火山の噴火。高鷲村史に書いてあった。白山自然保護センターで火山の歴史を調べてみた。その時は間違いでしょうと言われた。おそらく地鳴りを火山の鳴動とされていたのではと否定されていた。北国新聞の一面に大きく白山で爆発があり、これまで見のがされていたものがあったと出ていた。天正地震の時にもあったのではないか。それを調べて見ようと思ったのが、この火山の研究のきっかけです。
まず、同時代史料、その時代に書かれたものを調べた。一応見たけれど見つからなかった。後で見直しをした所それらしきものがあったので、史料で紹介している。
史料① 山城 京都に住んでいた、梵舜という人。これも吉田兼好の子孫に当る人です。これが梵舜記(舜旧記)となっている。

史料①「天正十三年十一月廿九日、夜半時分に大地震良久し、明日まで如此也。近国之浦浜・・・(以下略)
晦日、同大地震、当東に如雷鳴響也。是夜半時分也。」
雷鳴の如きなりというのが白山の爆発ではないかと推定。時間が合わないので検討しないといけない。
史料② 美濃高鷲村 高鷲村史
「天正十三年十一月二十九日亥子の刻、一大音響と共に白山火山が大爆発して大地震が起こり、折立、ミゾレ・帰雲の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。
同日、白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し、道場も山崩れのため押しつぶされて浄念寺の三幅の仏もこの難にあわれた。
同日夜白山大爆発による大地震は、飛騨・越前・越中・加賀・美濃等数カ国の地が大いに古い、白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東、帰雲の裏山続きに天に向かってごうがの如く突きそそる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊したのもこの時であった。
何代か言い伝わっていくうちに伝説は面白い方に代る。時間がずれていたが、爆発と同時に起きていたが、地震に代っていったのではと思う。爆発の時間と地震の起きた時間が同時かどうかというのがわからない。
史料③ 信濃、天竜村 「天龍村史」
天正自身は(以下略)地震と共に白山・焼岳も噴火している。
天竜村史は、間違えていて、12月1日の未明という事になっている。30日の晩に地震も起きて噴火も有ったと言っているので、わからない。ひょっとしたら暦を間違えているのではと思う。11月は小月だとおもい、間違えたのではないか。検討課題です。
白山の爆発についてはこれであったということがわかる。時間についてははっきりしない。
(2)焼岳の噴火
大分後の史料ばかりで古い史料が無い。
史料④加藤鉄之助著「硫黄岳火山地質調査慨報(1913)
天正十三年、硫黄岳噴火して、山麓の中尾の村落を埋没せしめたる等の事実あり。此際中尾の村落を被覆せるは、里谷に沿いて運搬せられたる泥流(溶岩)にして、右泥流は今の同村神坂区の東に至りて止りたるものの如し」
史料⑤ 飛騨 高山市 岡村利平著 「飛騨編年史要」(1921)
天正十三年十一月二十九日、信濃・飛騨国境の硫黄岳噴火して溶岩山麓の村里道路を埋没し、神坂の古道(謂 信濃峠)絶えたり。
2.連動地震
天正大地震はいくつもの地震が連動して起きた。
震源について、考えてみたのが表1
トレンチ発掘、考古学的な発掘が必要。それがないと正確にはわからない。表の一番左側の○3・4・7・11についてはトレンチ掘削されて天正大地震で動いたという記録がある。震源地になっている。
津波についてはほとんど知られていなかった。原発の調査で、天正大地震の津波が知られた。5月3日の毎日新聞に、かなぞう詩集の要石というのがあり、浅井了いという人の本。江戸時代の本。これは漢文の自習の時に面白い話しをまとめたもの。敦賀の話しで、敦賀の人が今自身があった。津波が来るかもしれないから早く逃げろ。海の藻屑となるぞとせかして安全な所へ逃げたという話しがある。特ダネとして載っていた。天正地震に出てくるのではと思った。そこまでは到達しないで終わった。せっかく特ダネで出して、結果は面白くなかった。おそらく天正地震の話しを聞いていて、早く逃げろと言ったのだと思う。
3.津波について
1)若狭湾の津波
2)琵琶湖の津波
長浜、ファカタという地名などがあり、検証が必要。それは平方の間違いではないかという事を書いている。地名を訂正すればかなり細かいことがわかるのではと思う。
滋賀県立大学の林教授の琵琶湖固定の調査。配布資料は2倍に拡大してある。琵琶湖の地図。時計回りに数えて行くと、93という数の遺跡が琵琶湖の湖底に沈んでいた。
大変驚いた。
林教授らは、地震の関係したもの3つを選んだ。その結果が表の2にある遺跡名と関与した地震。19、22、84番。昔の人は100以上は数えなかったのでは。そのため千軒となっている。
関与した地震はそれぞれのとおり。
敦賀の地震の時の話しは寛文年間のものではないか。調査の結果、下坂浜千軒遺跡は、液状化→地滑りで湖底に沈んだ。私は液状化→津波→地滑りだと思う。というのは、ポルトガル宣教師の地名にファカタが出てくる。これは平方の誤り。平方は下坂浜のすぐとなりにあった。ファカタが津波に襲われていれば、この下坂浜も津波の被害にあっているはず。
3)伊勢湾の津波
伊勢湾内で地震が起こり、伊勢湾内外に津波の被害があった。
史料⑦ 伊勢の長島町 長島町史上巻
地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・中島等は地盤沈下のところへ(津波が)来襲し、湧没した。善田(殿名村の小字)などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震と共に海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津波が見られた。
火災なども起きているのでそういうものを顕彰すると実情がわかる。東大宇佐美さんは実像がわからないと言っておられたが、実像がわかってきたと思う。史上最大の災害だったと思う。データを整理して比較しないとわからない。内陸部の地震としては一番大きなものが濃尾地震。それと比較してみたいと思う。
司会:原因が火山の噴火に伴って海底とか琵琶湖などでは津波が併発したのではないか。もともと地盤が弱い所については液状化が起った複合災害だったと思われる。
地表より下の所は目に見えないので、そういう歴史学でもデータがあるので、地球内部の大きなエネルギーが地表面に現われて来た時は災害になって出る。わかっていることとはいえ、大変だ。予防が出来ない。どうしたらいいかというと安全なところに住むしかないという事だと思う。安達先生の複合災害の研究は興味がある。もう少し掘り下げて研究していただきたい。
(徳積善太記録)
天正大地震は火山の噴火、連動地震、津波、山崩れ
安達正雄
若狭湾周辺に14の原発。安全性の見直し。地元の報告会があり、電力会社が若狭湾に派歴史的大津波が無かったと報告。鶴が短大の歴史の先生から、天正自身の時に大津波があったという報告。かねみ卿記。吉田兼好の子孫の吉田かなみの日記に載っていた。その時代にポルトガルの宣教師の手紙。2種類あって、本国へ送った手紙と、マニラにあった教区。キリスト教のアジア地区の事務局の様な所に送った物とあった。それにも天正地震の時に津波があったという報告がある。
そういう事で、若狭湾沿岸に津波があったことが分かっている。具体的にどこが被害が大きかったかは分かっていない。
最初は火山の噴火。高鷲村史に書いてあった。白山自然保護センターで火山の歴史を調べてみた。その時は間違いでしょうと言われた。おそらく地鳴りを火山の鳴動とされていたのではと否定されていた。北国新聞の一面に大きく白山で爆発があり、これまで見のがされていたものがあったと出ていた。天正地震の時にもあったのではないか。それを調べて見ようと思ったのが、この火山の研究のきっかけです。
まず、同時代史料、その時代に書かれたものを調べた。一応見たけれど見つからなかった。後で見直しをした所それらしきものがあったので、史料で紹介している。
史料① 山城 京都に住んでいた、梵舜という人。これも吉田兼好の子孫に当る人です。これが梵舜記(舜旧記)となっている。
史料①「天正十三年十一月廿九日、夜半時分に大地震良久し、明日まで如此也。近国之浦浜・・・(以下略)
晦日、同大地震、当東に如雷鳴響也。是夜半時分也。」
雷鳴の如きなりというのが白山の爆発ではないかと推定。時間が合わないので検討しないといけない。
史料② 美濃高鷲村 高鷲村史
「天正十三年十一月二十九日亥子の刻、一大音響と共に白山火山が大爆発して大地震が起こり、折立、ミゾレ・帰雲の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。
同日、白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し、道場も山崩れのため押しつぶされて浄念寺の三幅の仏もこの難にあわれた。
同日夜白山大爆発による大地震は、飛騨・越前・越中・加賀・美濃等数カ国の地が大いに古い、白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東、帰雲の裏山続きに天に向かってごうがの如く突きそそる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊したのもこの時であった。
何代か言い伝わっていくうちに伝説は面白い方に代る。時間がずれていたが、爆発と同時に起きていたが、地震に代っていったのではと思う。爆発の時間と地震の起きた時間が同時かどうかというのがわからない。
史料③ 信濃、天竜村 「天龍村史」
天正自身は(以下略)地震と共に白山・焼岳も噴火している。
天竜村史は、間違えていて、12月1日の未明という事になっている。30日の晩に地震も起きて噴火も有ったと言っているので、わからない。ひょっとしたら暦を間違えているのではと思う。11月は小月だとおもい、間違えたのではないか。検討課題です。
白山の爆発についてはこれであったということがわかる。時間についてははっきりしない。
(2)焼岳の噴火
大分後の史料ばかりで古い史料が無い。
史料④加藤鉄之助著「硫黄岳火山地質調査慨報(1913)
天正十三年、硫黄岳噴火して、山麓の中尾の村落を埋没せしめたる等の事実あり。此際中尾の村落を被覆せるは、里谷に沿いて運搬せられたる泥流(溶岩)にして、右泥流は今の同村神坂区の東に至りて止りたるものの如し」
史料⑤ 飛騨 高山市 岡村利平著 「飛騨編年史要」(1921)
天正十三年十一月二十九日、信濃・飛騨国境の硫黄岳噴火して溶岩山麓の村里道路を埋没し、神坂の古道(謂 信濃峠)絶えたり。
2.連動地震
天正大地震はいくつもの地震が連動して起きた。
震源について、考えてみたのが表1
トレンチ発掘、考古学的な発掘が必要。それがないと正確にはわからない。表の一番左側の○3・4・7・11についてはトレンチ掘削されて天正大地震で動いたという記録がある。震源地になっている。
津波についてはほとんど知られていなかった。原発の調査で、天正大地震の津波が知られた。5月3日の毎日新聞に、かなぞう詩集の要石というのがあり、浅井了いという人の本。江戸時代の本。これは漢文の自習の時に面白い話しをまとめたもの。敦賀の話しで、敦賀の人が今自身があった。津波が来るかもしれないから早く逃げろ。海の藻屑となるぞとせかして安全な所へ逃げたという話しがある。特ダネとして載っていた。天正地震に出てくるのではと思った。そこまでは到達しないで終わった。せっかく特ダネで出して、結果は面白くなかった。おそらく天正地震の話しを聞いていて、早く逃げろと言ったのだと思う。
3.津波について
1)若狭湾の津波
2)琵琶湖の津波
長浜、ファカタという地名などがあり、検証が必要。それは平方の間違いではないかという事を書いている。地名を訂正すればかなり細かいことがわかるのではと思う。
滋賀県立大学の林教授の琵琶湖固定の調査。配布資料は2倍に拡大してある。琵琶湖の地図。時計回りに数えて行くと、93という数の遺跡が琵琶湖の湖底に沈んでいた。
大変驚いた。
林教授らは、地震の関係したもの3つを選んだ。その結果が表の2にある遺跡名と関与した地震。19、22、84番。昔の人は100以上は数えなかったのでは。そのため千軒となっている。
関与した地震はそれぞれのとおり。
敦賀の地震の時の話しは寛文年間のものではないか。調査の結果、下坂浜千軒遺跡は、液状化→地滑りで湖底に沈んだ。私は液状化→津波→地滑りだと思う。というのは、ポルトガル宣教師の地名にファカタが出てくる。これは平方の誤り。平方は下坂浜のすぐとなりにあった。ファカタが津波に襲われていれば、この下坂浜も津波の被害にあっているはず。
3)伊勢湾の津波
伊勢湾内で地震が起こり、伊勢湾内外に津波の被害があった。
史料⑦ 伊勢の長島町 長島町史上巻
地震による津波―加路戸・駒江・篠橋・森島・符丁田・中島等は地盤沈下のところへ(津波が)来襲し、湧没した。善田(殿名村の小字)などは泥海化してしまった。伊勢湾では地震と共に海水が溢れ、溺死者が多く、また伊勢の穂原村にも津波が見られた。
火災なども起きているのでそういうものを顕彰すると実情がわかる。東大宇佐美さんは実像がわからないと言っておられたが、実像がわかってきたと思う。史上最大の災害だったと思う。データを整理して比較しないとわからない。内陸部の地震としては一番大きなものが濃尾地震。それと比較してみたいと思う。
司会:原因が火山の噴火に伴って海底とか琵琶湖などでは津波が併発したのではないか。もともと地盤が弱い所については液状化が起った複合災害だったと思われる。
地表より下の所は目に見えないので、そういう歴史学でもデータがあるので、地球内部の大きなエネルギーが地表面に現われて来た時は災害になって出る。わかっていることとはいえ、大変だ。予防が出来ない。どうしたらいいかというと安全なところに住むしかないという事だと思う。安達先生の複合災害の研究は興味がある。もう少し掘り下げて研究していただきたい。
(徳積善太記録)
若宮多門さんの講演_帰雲城調査会
先日、白川郷にお邪魔した時に、たまたま帰雲調査会の総会があるから行ってみてはと
お誘いをいただきました。
そこで、以前からお会いしたいと思っていた、白山長滝神社の若宮多門宮司さんに偶然
お会いすることができました。
まさかとは思いましたが、お会いできてよかったです。
講演録を記録しましたので、お知らせいたします。

「平成22年5月19日 帰雲城調査会記念講演
於:白川郷総合施設
白山信仰の広がり 若宮多門氏
2年に1度、露払いでどぶろく祭に来ています。白川郷平瀬に来ている状況です。昔川上の荘
から白川郷が縄張りであった頃にこんなに来た事は無いと思います。歴代神主で一番やって
来たのは私だと思います。
来週土曜日、この白山スーパー林道の登り口に茶屋があり、そこをメイン会場にして、国定公園に
なってから50周年という事で、白山を取巻く岐阜・福井・石川の一部・富山の県で連動していろんな
イベントを企画しようという事になっています。
県のレベルのイベントですが、用意ドンのキックオフを最初のスタートとして来週の26日土曜日に
岐阜県側のイベントをスタートします。
ウォーキングと交流会をやられます。その時に1時間ほど、豊田の方、郷土史家。白山写真集で
知られる曽我さんとトークセッションをやります。もしお時間があれば覗いて下さい。主幹は白川村です。
白鳥町の方では、2つ講演会を予定しています。
展覧会も予定していますが、特筆すべき内容として2つあります。
私の先輩ですが、郡上の郷土史に詳しい白石博雄さんが、6月16日に白鳥の町でふれあい総合館にて
「弁慶義経の逃避の道」を話されます。おそらくなかなか聞けないのではないかと、健康状態がよろしく
ないので、今日の話と連動しますので興味を持たれたら来て下さい。
11月の終り頃の日曜あるいは土曜日には中尊寺のお坊さんに来ていただいて、中尊寺のはせくさんに
来ていただきます。文化財担当です。平泉や中尊寺の面白い話しが聴けるのではと期待しております。
前置きの話しをさせていただきました。
書いた物の冊子を以前お渡しいただいたのかどうか定かではありません。
随分前に書いた物です。出会うきっかけもこんなところにあったのではと思っています。
どういう事かと言うと、私自身は長瀧の歴代神主ですが、事情があって、先代の神主が経済的な理由で
お宮の維持を考えて、岐阜の町に出掛け、商売をしていた時があります。その時にその地で生まれ育って
いました。
先代の神主があって、その後帰って来たという事で、資格をいただいただけですが、先代と共に平行して
勉強したというわけではありません。
親父が突如亡くなって帰って来た。御前峰(ごぜんがみね)が「ごぜんほう」だった。子供心に長瀧の場所が、
義経が、弁慶が、家康がということを親父が言ってました。ほらふきだったので、子供の関心を引こうとして
いるのだと思いました。
帰って来て数年経つうちに、少しづつ白山の神様を通じていろんな事が見えてきた。
うちの親父が言っていたのはオーバーでも何でもなかった。私もそう真面目な神主でもなかったので遊んで
ばかりいましたが、そういう事が見えてくる中で、地元の若い人達の地域に対する愛情、そういう時代が地域
起こし、町起こしの時代だった。
一村一品運動とか。バブルの時代でした。そんなことから、ほぼ僕と同じ年代の人達と勉強会をするように
なっていろんなものが見えてきた。
白山信仰を基盤にしながら、地域文化を紐解こうという流れになった。
地域起こし、村起こしの事業をやって商工会を通じて潤沢な資金もあった。町起こし事業の文化部門を担当
させていただくことになりました。一緒に勉強していた人が3人位いた。分科会をやったときに、石徹白にある
虚空蔵菩薩の金銅仏。県で一番大きな金仏。これは藤原秀衡 3代目。義経のパトロンが寄進したものらしい
ということで、1986年頃に打診があった。藤原秀平が亡くなって800年経つ。そして貸してくれないかと。
秘仏=一字金麟仏という物と二つ並べて、日本中の人に見ていただきたいという話しがありました。
石徹白から中尊寺に運ばれて、見ていただいた。その次の年に平泉サミットがあった。
天台仏教との中尊寺のつながり、義経弁慶のつながり。それでサミットをやろうと依頼があり、当時の町長さん
とお付きの人が2人程行ってサミットをやった。
地域起こし村起こしの勉強会の何をやろうかと合致して、きっと平泉に行くと何かあるという事になった。
長瀧寺の延年の舞がありますが、毛通寺の延年の舞は事に有名。中尊寺の宋版の一切経という物が渡って
います。長瀧にも宋版の一切経があります。
4000冊200箱ある。弁慶と義経の話しが残っているから調査にいけば面白いのでは。
平泉サミットも見て来ては。ということで調査研究費用をお願いして、スタッフ5人で平泉の地へ行くというのを
提案した。
いろんな事をお尋ねするという事で、二泊三日位で行ってきた。予算を請求したらそんな前例がないと。
そういう交通費や宿泊費に使ったという前提が無いという事で再検討という事になった。総意で決定した事
なので、説明ができない。辞めさせて欲しいと言ったら、若宮さんの言うとおりご自由にという事になった。
それがスタートとなりました。
30~40歳位の人間が三島十郎町長のお供で行って勉強してきました。延年の舞との交流があったり、
6・7回平泉に行きました。多くの事が見えてきました。そのことがお手元にある資料です。
白山信仰はどういう物であったかということで、たぶんなら皆さんとこうやって交流が起る様になった最初の
気付きだと思っています。ややもすると一般寺院の中では考えられなかった分野からスタートして、学芸員
の資格を持っていますので、いわば博物館相当施設で文物を紹介したり展示したりという勉強をやって
きました。
そちらの方をやっていこうという中で、特別に歴史の勉強をしてきたわけではありませんが、そういうきっかけ
から神社だけではなくて、神道や仏教。いわば時代時代の宗教勢力がいかに地域、日本全国の政治の流れに
色濃く関わってきたか。
関わり。気が付けば真っ只中のこの地域の事象に宗教が関わっている事が見えてきました。
そのお話しの中で大村さんなどとも知り合い、皆さん方との交流が生まれたという事です。
今日はスタートであるところの、白山信仰がどのように始まったかということを後ほど時間があれば読んで
いただきたいと思います。書いた通りの話しをする訳ではありません。
さて、中尊寺に行かれた事はありますか?皆さん金色堂に行きますよね。99.9%金色堂に行かれます。
そこから奥に入って行くと、野外能楽堂があります。国の重文です。
そして橋掛かりの廊下があり、小さな社務所があり、そこに白山神社が祀ってあります。
白山からは750km離れています。中尊寺に白山の神様が祀ってあります。金色堂は、白山神社の持ち物。
白山の神社に僧侶達がお能を奉納するための能楽堂。重要な演目が行われていません。
御一つ馬行事とかです。中尊寺には象徴的な物です。長瀧寺。延暦寺。高野山と言うのは総称で、その
前に塔頭があって、メーン会場になっている。
昔から中尊寺の廻りにお坊さん達がいて、事務や仏事をやっていた。御奉仕いただいていた。中尊寺の
坊中塔頭にお坊さん方がたくさん見えて、男児が生れて跡取りとする場合に、7歳になった時に神馬に
乗せて白山詣でをする。その事で初めてその子が、中尊寺の今後お坊さんになることを認められた。
白山の神が乗り移ると、その子が白山神に認められないと、お坊さんになれない。
北の護り鎮守社ですが、単なる護り神ではなくて、それ以上の意味合いを持っています。
中尊寺の前身、弘大寿院というのがありますが、そこが元になっています。
円仁=慈覚大師の開山です。
その方は天台仏教を日本全土に広げて行く時に、北の神を白山神、南を日吉神を携えて行ったという
伝承があります。東北には恐山にまで伝承があります。白山神=古い白山神、古い日吉神社は、慈覚
縁起を全部持っています。平安時代に開基した所には、東北一円に慈覚縁起があります。白山の神様は
天台仏教は本来関係ありませんが、実は元になる比叡山の山中には、白山神が降り立つ場所があります。
降臨所があって、下の日吉秘密記等の記録の中に、そこに参って、白山の神に寄り添ってから修業に
入るというのがあります。
天台の大本に於いて、僧侶自身を護る、その者が修行者として認められるかどうかを白山神が司って
いたという記録がある。今話しをしてもピンときません。
南の所には、マロウド権現=客人として白山神社が祀ってあります。
白山神社は日吉の神より信念がある。国の重文としてなっていますが、白山神は修業の中に山林修行
というのがありますが、その守り神として奈良時代以降、そういう位置にあったのではないかと思われます。
奈良仏教から京都仏教に代っていく時に、叡山の中に白山神を護りとして、僧侶の気持ちを高めるというか、付加価値を付けるというか、そういう白山の神様の位置付けがあって、最澄が平安時代に拓く時に白山の神を大事にした。長い歴史の中で、大本の比叡山には、白山の神を大事にするという思想が薄れていった。ドーナツ現象の様に東北の地に残っているという事です。
もっと他の宗教的な意味合いだけではないのではないかという事です。それは何か。慈覚大師の時代に白山信仰は広げられますが、開山の祖、泰澄大師は、奈良時代初期です。平安時代初期は、慈覚大師縁起が、白山信仰を広めて行きます。そして道玄さんが、白山妙理大権現仏法大頭了という事で一番の護り神として同じ様に修業の場合には白山神に護られて修業する。地元に帰ると白山の神を勧請して、という形になった。
全国に点が広がって行った。城山の神とか広がっていくが表向きのご利益が白山の水をいただくとか、白は再生の神であるとか。白山の山中で修業する人達の能力をいわばあてにするというか、そういう形が生れて行った。白山という山は三方に登り口が開かれた。三馬場という物が確立されて道場が出来上がり、一大勢力になっていきます。各馬場各行場で修業している何千何百の修業の人達を抱えていました。そこだけに留まる事なく、全国の霊山霊場を巡り歩きました。その土地で新しい力を得たり、問答合戦をやったりして自分を高めて行きました。誡告修業をして行きました。北は恐山から出羽三山。日光山。近くでは立山、秋葉山であったり。紀伊半島では吉野熊野。四国は石鎚。伯耆大山。九州では彦山ありという形で、実際に彦山の人達が白山で修業をしていた。彼らは日本中を旅して歩いた。天台の寺院か白山神社へ立ち寄ったと思われる。各所に支店を持ちながら、修行者でありますから、最も健脚であり、山林修業の人であり、勧進の旅というものを修業僧や山伏に認めていた。人知れず、気が付かれずにあちこちを移動する能力もあったし、表街道も所属する神社寺院のお墨付きで通れた。しかもあの時代で最も健脚の人である。各所に支店がある。修験者、修業僧という人達を中央にいる公家勢力などは地方の情報を山伏から手に入れる。地方の武士たちは同じように他の廻りの、遠く離れた情報、中央の出来事、情報を山伏を通じて堂々と、また人知れず知る事ができた。今日の電報電話であり、携帯電話の役目を負っていたのが山伏だと思われる。
そういう人達ですから、巨大な物は別として小さな物は運ぶ事ができた。今でいう宅急便です。公家も地方の武士達も山伏を大事にしたという事です。それが御利益という物ではなかったかと思います。彼らは修験者や山伏や修業僧を抱える宗教集団を大事にした。どうしたか。営善をやったり建物を立てるお金を出したり、仏像を寄進したり。一番多かったのは荘園です。この辺りは長瀧の荘園でした。守護して欲しいという神頼みですが、いざという時には自分たちの味方について欲しいというそういう思いがありましたから、寄進をしてて宛しました。他の勢力に突かれても困りますから、そうやって宗教的な組織を大事にしていきました。受領地というのがそういう意味で沢山あった。
やがて、そういうものを自分達の力で守るようになります。そこにお上や公家や武士からもらった既得権を守るために武力や能力を身につけて行った。
鴨川の流れ、サイ法師、サイの目 これは意のままにならないと清盛で言っていましたが、強大な寺院がどんどん生まれて行った。武力を身に付けて行ったという訳です。あまり知られていませんが、山鉾の祇園などもそうですが、八坂神社の犬地にと言われた総会屋やヤクザ組織と言われた物だったでしょう。神の末端の部分でそういう者を抱えていたようです。
お坊さんや神主、全く今の方が宗教的に見ているのではないかと。先祖供養や神頼み。実は昔は、仏教勢力はただ単に宗教的な先祖とかそういうものを司るだけではなくあらゆる物を司っていた。医療や天文学、芸術、美術工芸、建築、鉱山資源の発見、精錬、加工品。そういう能力を持っている人達がお坊さんだった。経典を読むだけではなく、舞を舞うのもお坊さんだった。いかに舞を通じて庶民に見せるか?お経を上げる事と一緒だった。今言った武力もそうだった。長瀧のお坊さんが自分の弟子や子供に譲る譲り状がありますが、自分が受けた時より、大きくしました、こういう経典があります。備品が増えましたそういう物を残しています。槍とか刀とか、本数が書いてあります。それがお坊さんの持ち物なんです。お坊さんというのは自分達の既得権を守るために、武力を持っていた。一向宗だけではないんです。そういう事をやったという事を頭に入れておいて欲しい。そういう土壌を考えながら、中野照蓮寺はどうであったかとか。田口さんもおっしゃいましたが、蓮如が阿弥陀如来の事を根付かせながら、説いて行った。阿弥陀の為には命も惜しまないという気運が生まれる中で一向宗の布施をする気持ち。労を厭わない気持ち。命を厭わない気持ち。女子供も一緒。極端な例は別にしても、宗教勢力は後ろ側にそういうものを持っていた。日本という国は八百万の神と融合しながら宗教的にケンカする事もなく、原理主義的なキリスト教、イスラム教の考え方を批判する人もありますが、そういう事も取り入れた。武力で指す場合もあるが、片方では本来宗教が持つべき部分の反対側のネガな部分も持っていた。そういう事を含めて、ある宗教勢力とその地を治める武士達の考えを一緒に考えないと、その地域の歴史は見えてきません。
それを最初に思ったのは藤原秀衡です。

何故そこまで大事にされてきたのか。秀衡は白山信仰を大切にしてきたという現われ、白山の美濃馬場の長瀧、越前馬場の合流点の石徹白。それから越前馬場の平泉寺。加賀馬場の白山比女神社。白山山中。大変な数の仏像や狛犬。梵鐘。数多く寄進をしています。それはさっき言った。建物の修復をするだけの関係ではなく、ご仏像を奉納したら、建物も建てる。ほかりっ放しという訳にいきませんから、立ち上がるまで、家来がその場所にいます。立て上がると奉仕者を残します。美濃にも加賀にも越前にも石徹白にも宗教的な名を借りた者の中に自分の家来を置きました。長瀧には上村なるものを置きました。石徹白にも12人衆の上村を置きました。そういった人を通じて色んな情報を通じて自分の部下を配置した。たぶん、想像ですが三馬場には重要な人員を常に派遣していたんではと思われます。そういう事によって、中央にあって出入り口が三つ。日本中に出ていく事ができる。日本の中心的な集中的な場所。浄法という事を考えると、アメリカの中央情報局CIAみたいな能力を持っていたのではないかと。そして自分の家来も派遣した。彼らの勢力を派遣しながら、うまく天台宗に転派した。延暦寺と強いつながりを持った。そこからいろんな所から伝えて行くようになった。
秀衡はそういう事で白山麓を特に大慈にした。そういう事情ではなかったか。それが今日まで大事にされてきた理由。ご利益を大事にして、時代時代で政治的な事を、東アジアに於ける白頭山に於ける白山信仰があって、高句麗が唐に滅ぼされて、高句麗の人が日本に渡ってきて、鉄を吹く技術等を伝えたと言われています。東北の文化を支えたのもそういう人達だったという俗説もありますが、1時間や二時間で済まない位の物を持っています。鉱山の技術、海で生活する人達の話しですとか、いろんな関わり。芸道民達。白山信仰は内在していますので、一口では言えません。
その中の一つ、御利益として情報能力、物流能力。そういうものを大事にした。そしてそれが将来発揮されます。自分の手元で育てた義経という人物が、兄に追われて逃亡を繰り返し、そして東北にたどり着くという。幕府の記録の『吾妻鏡』には、鎌倉幕府に追い立てられて、海を渡って西へ逃げて、海を渡れずに京都。そのあと吉野熊野の後どこへ行ったかわからない。「伊勢美濃を経て、やがて平泉に現われた」とある。
実は勧進帳や安宅の関。歌舞伎や能の中のは作り話で、白山山伏の力を借りて、伊勢美濃から登って来れば白山がありますから、そこには自分の派遣した僧侶がいて、護られながら白山越えをして平泉まで逃げたのでは。山伏姿に変装して落ち延びたと。それは秀衡の計らいであったと鎌倉幕府は記録している。白山山伏が働き掛けたのだろうというのが定説になっている。
6月16日にもっと詳しい話を白石博雄さんにしていただきますので、興味のある方には来ていただきたい。帰り雲の研究者の方から何人か来ると伝えます。
まさに、山伏、修行僧は裏社会にあったり、表社会にあったりしながら、いろんな関わりを持ち、繋がりを持ってきた。公家の歴史や武士の歴史であったり、近年になって、庶民の側から見る様にもなった。もう一極に宗教の歴史があるのではないか。内ヶ島を探る部分でもこの地で言うならば中野照蓮寺であり、天台仏教であり、大元の白山信仰。各所にあるお堂とか祠とか宗教的な遺跡とか、その手法だとか、田口さんのおっしゃった位置関係ですとか、そういう事を研究する事をする皆さんが頭に置いておいていただければと思います。
最初の原点になった、中尊寺、藤原秀衡という事から関わったという事を話させていただきました。
お坊さんはそういう存在です。戦国時代には武士勢力、宗教勢力いろんな側からいろんな事があった。内ヶ島、東飛騨の東部一帯には姉小路があり、京極があり、江馬があり、幹があり。そこに金森が入ってきた、。武士の動きからだけ捕えるとちがうとおもう。大いにそこには宗教勢力が関わっていたと思いますので、そういうアンテナを持っていて欲しい。武士は単に宗教勢力を自分の味方につけるためだけに大事にするのではなく、隠れ蓑に使う場合もある。そういう表現はいい表現とは言えないが、15代足利将軍はお坊さんです。兄が死んでしまうので、この人を連れてこないと、足利家が続かないという事で、司馬章太郎さんは、明智光秀などに連れて来るようにしたと書かれている。
田楽をしている最中に今川家も滅びます。元は坊さんです。結果的に桶狭間で滅ぼされます。もっと高名なのは上杉謙信でしょう、長尾家の為に武将に変わります。そういう坊さんがいっぱいいました。
各お寺に武器武具がいっぱいあると言いましたが、そういう坊さんがいっぱいいた。下剋上もいっぱいあった。各武士は自分達を護らないといけないので嫁を取ったり、三男四男。いっぱいそういう人を連れてきた。三木も江馬もそうです。郡上で言うと遠藤がそうです。鷲見一族もそうです。市村などもそうです。8人9人10人といった人の子弟が長瀧にはお寺にいました。
東家が遠藤家に討ち滅ぼされ下剋上がありますが、その時には坊さんがみんな逃げて行きました。やっていけなくて逃げて行ったと考えていましたが、そうではなくて、殺されるから逃げて行った。お家の再興もあるかもしれない。敵対する勢力の子供達だった。長瀧の坊さんをやれずに逃げて行った。それ位武士と宗教勢力とが深い関係にあった。それを無視しては地元文化を紐解けない。
先ほどの砦の話しや、照蓮寺の明心は、本願寺で育った。中野に再興して内ヶ島から嫁さんをもらい安定した勢力になった。そういう風に考えても、武力を持つという事や比内勢力を持つという事も宗教が絡んでいます。
どこかで宗教的な関わりがあると、中野道場を再興させた。内ヶ島にやられてしまうから、一度逃げて三島将監に殺されて兄も弟も殺され、生まれたての子供を連れて石山本願寺に逃げ、教如の口利きで、戻って来て中野に道場を造ったという風になっていますよね。
雅氏からの手紙があります。内ヶ島家から経聞坊というお寺ができ、長瀧寺の中心的なお寺として大変な勢力を持っていますが、長瀧を大事にしてくれている。白山の別山のお堂だったか忘れましたが修復して資金が無い。長瀧に。その時に雅氏に経聞坊の叔父さんに当る方おうえんという人でしたか、寄附をして欲しいと頼む。内ヶ島は中野照蓮寺に聞いて相談をして地元の宗教勢力を大事にしていたから、聞いたらダメだと言われたという事であった。関係を結んだら中野が強大な勢力になっていた。長瀧も相当の勢力を持っていたはずなのに、中野照蓮寺のほうが内ヶ島にとって大事だった。今まで以上に仏教勢力を紐解きの材料にしていかなければと思う話しです。
郡上における飛騨における武士たちの話しをしないといけないと思いましたが、もう一度宗教勢力との関わりを持ちながら紐解きの気づきにしていただきたい。
ここ5年間お付き合いをしながら、原点の話しをさせていただきました。
後ほど、ご質問があればお付き合いをさせていただきたいと思います。」
(徳積善太記)
お誘いをいただきました。
そこで、以前からお会いしたいと思っていた、白山長滝神社の若宮多門宮司さんに偶然
お会いすることができました。
まさかとは思いましたが、お会いできてよかったです。
講演録を記録しましたので、お知らせいたします。
「平成22年5月19日 帰雲城調査会記念講演
於:白川郷総合施設
白山信仰の広がり 若宮多門氏
2年に1度、露払いでどぶろく祭に来ています。白川郷平瀬に来ている状況です。昔川上の荘
から白川郷が縄張りであった頃にこんなに来た事は無いと思います。歴代神主で一番やって
来たのは私だと思います。
来週土曜日、この白山スーパー林道の登り口に茶屋があり、そこをメイン会場にして、国定公園に
なってから50周年という事で、白山を取巻く岐阜・福井・石川の一部・富山の県で連動していろんな
イベントを企画しようという事になっています。
県のレベルのイベントですが、用意ドンのキックオフを最初のスタートとして来週の26日土曜日に
岐阜県側のイベントをスタートします。
ウォーキングと交流会をやられます。その時に1時間ほど、豊田の方、郷土史家。白山写真集で
知られる曽我さんとトークセッションをやります。もしお時間があれば覗いて下さい。主幹は白川村です。
白鳥町の方では、2つ講演会を予定しています。
展覧会も予定していますが、特筆すべき内容として2つあります。
私の先輩ですが、郡上の郷土史に詳しい白石博雄さんが、6月16日に白鳥の町でふれあい総合館にて
「弁慶義経の逃避の道」を話されます。おそらくなかなか聞けないのではないかと、健康状態がよろしく
ないので、今日の話と連動しますので興味を持たれたら来て下さい。
11月の終り頃の日曜あるいは土曜日には中尊寺のお坊さんに来ていただいて、中尊寺のはせくさんに
来ていただきます。文化財担当です。平泉や中尊寺の面白い話しが聴けるのではと期待しております。
前置きの話しをさせていただきました。
書いた物の冊子を以前お渡しいただいたのかどうか定かではありません。
随分前に書いた物です。出会うきっかけもこんなところにあったのではと思っています。
どういう事かと言うと、私自身は長瀧の歴代神主ですが、事情があって、先代の神主が経済的な理由で
お宮の維持を考えて、岐阜の町に出掛け、商売をしていた時があります。その時にその地で生まれ育って
いました。
先代の神主があって、その後帰って来たという事で、資格をいただいただけですが、先代と共に平行して
勉強したというわけではありません。
親父が突如亡くなって帰って来た。御前峰(ごぜんがみね)が「ごぜんほう」だった。子供心に長瀧の場所が、
義経が、弁慶が、家康がということを親父が言ってました。ほらふきだったので、子供の関心を引こうとして
いるのだと思いました。
帰って来て数年経つうちに、少しづつ白山の神様を通じていろんな事が見えてきた。
うちの親父が言っていたのはオーバーでも何でもなかった。私もそう真面目な神主でもなかったので遊んで
ばかりいましたが、そういう事が見えてくる中で、地元の若い人達の地域に対する愛情、そういう時代が地域
起こし、町起こしの時代だった。
一村一品運動とか。バブルの時代でした。そんなことから、ほぼ僕と同じ年代の人達と勉強会をするように
なっていろんなものが見えてきた。
白山信仰を基盤にしながら、地域文化を紐解こうという流れになった。
地域起こし、村起こしの事業をやって商工会を通じて潤沢な資金もあった。町起こし事業の文化部門を担当
させていただくことになりました。一緒に勉強していた人が3人位いた。分科会をやったときに、石徹白にある
虚空蔵菩薩の金銅仏。県で一番大きな金仏。これは藤原秀衡 3代目。義経のパトロンが寄進したものらしい
ということで、1986年頃に打診があった。藤原秀平が亡くなって800年経つ。そして貸してくれないかと。
秘仏=一字金麟仏という物と二つ並べて、日本中の人に見ていただきたいという話しがありました。
石徹白から中尊寺に運ばれて、見ていただいた。その次の年に平泉サミットがあった。
天台仏教との中尊寺のつながり、義経弁慶のつながり。それでサミットをやろうと依頼があり、当時の町長さん
とお付きの人が2人程行ってサミットをやった。
地域起こし村起こしの勉強会の何をやろうかと合致して、きっと平泉に行くと何かあるという事になった。
長瀧寺の延年の舞がありますが、毛通寺の延年の舞は事に有名。中尊寺の宋版の一切経という物が渡って
います。長瀧にも宋版の一切経があります。
4000冊200箱ある。弁慶と義経の話しが残っているから調査にいけば面白いのでは。
平泉サミットも見て来ては。ということで調査研究費用をお願いして、スタッフ5人で平泉の地へ行くというのを
提案した。
いろんな事をお尋ねするという事で、二泊三日位で行ってきた。予算を請求したらそんな前例がないと。
そういう交通費や宿泊費に使ったという前提が無いという事で再検討という事になった。総意で決定した事
なので、説明ができない。辞めさせて欲しいと言ったら、若宮さんの言うとおりご自由にという事になった。
それがスタートとなりました。
30~40歳位の人間が三島十郎町長のお供で行って勉強してきました。延年の舞との交流があったり、
6・7回平泉に行きました。多くの事が見えてきました。そのことがお手元にある資料です。
白山信仰はどういう物であったかということで、たぶんなら皆さんとこうやって交流が起る様になった最初の
気付きだと思っています。ややもすると一般寺院の中では考えられなかった分野からスタートして、学芸員
の資格を持っていますので、いわば博物館相当施設で文物を紹介したり展示したりという勉強をやって
きました。
そちらの方をやっていこうという中で、特別に歴史の勉強をしてきたわけではありませんが、そういうきっかけ
から神社だけではなくて、神道や仏教。いわば時代時代の宗教勢力がいかに地域、日本全国の政治の流れに
色濃く関わってきたか。
関わり。気が付けば真っ只中のこの地域の事象に宗教が関わっている事が見えてきました。
そのお話しの中で大村さんなどとも知り合い、皆さん方との交流が生まれたという事です。
今日はスタートであるところの、白山信仰がどのように始まったかということを後ほど時間があれば読んで
いただきたいと思います。書いた通りの話しをする訳ではありません。
さて、中尊寺に行かれた事はありますか?皆さん金色堂に行きますよね。99.9%金色堂に行かれます。
そこから奥に入って行くと、野外能楽堂があります。国の重文です。
そして橋掛かりの廊下があり、小さな社務所があり、そこに白山神社が祀ってあります。
白山からは750km離れています。中尊寺に白山の神様が祀ってあります。金色堂は、白山神社の持ち物。
白山の神社に僧侶達がお能を奉納するための能楽堂。重要な演目が行われていません。
御一つ馬行事とかです。中尊寺には象徴的な物です。長瀧寺。延暦寺。高野山と言うのは総称で、その
前に塔頭があって、メーン会場になっている。
昔から中尊寺の廻りにお坊さん達がいて、事務や仏事をやっていた。御奉仕いただいていた。中尊寺の
坊中塔頭にお坊さん方がたくさん見えて、男児が生れて跡取りとする場合に、7歳になった時に神馬に
乗せて白山詣でをする。その事で初めてその子が、中尊寺の今後お坊さんになることを認められた。
白山の神が乗り移ると、その子が白山神に認められないと、お坊さんになれない。
北の護り鎮守社ですが、単なる護り神ではなくて、それ以上の意味合いを持っています。
中尊寺の前身、弘大寿院というのがありますが、そこが元になっています。
円仁=慈覚大師の開山です。
その方は天台仏教を日本全土に広げて行く時に、北の神を白山神、南を日吉神を携えて行ったという
伝承があります。東北には恐山にまで伝承があります。白山神=古い白山神、古い日吉神社は、慈覚
縁起を全部持っています。平安時代に開基した所には、東北一円に慈覚縁起があります。白山の神様は
天台仏教は本来関係ありませんが、実は元になる比叡山の山中には、白山神が降り立つ場所があります。
降臨所があって、下の日吉秘密記等の記録の中に、そこに参って、白山の神に寄り添ってから修業に
入るというのがあります。
天台の大本に於いて、僧侶自身を護る、その者が修行者として認められるかどうかを白山神が司って
いたという記録がある。今話しをしてもピンときません。
南の所には、マロウド権現=客人として白山神社が祀ってあります。
白山神社は日吉の神より信念がある。国の重文としてなっていますが、白山神は修業の中に山林修行
というのがありますが、その守り神として奈良時代以降、そういう位置にあったのではないかと思われます。
奈良仏教から京都仏教に代っていく時に、叡山の中に白山神を護りとして、僧侶の気持ちを高めるというか、付加価値を付けるというか、そういう白山の神様の位置付けがあって、最澄が平安時代に拓く時に白山の神を大事にした。長い歴史の中で、大本の比叡山には、白山の神を大事にするという思想が薄れていった。ドーナツ現象の様に東北の地に残っているという事です。
もっと他の宗教的な意味合いだけではないのではないかという事です。それは何か。慈覚大師の時代に白山信仰は広げられますが、開山の祖、泰澄大師は、奈良時代初期です。平安時代初期は、慈覚大師縁起が、白山信仰を広めて行きます。そして道玄さんが、白山妙理大権現仏法大頭了という事で一番の護り神として同じ様に修業の場合には白山神に護られて修業する。地元に帰ると白山の神を勧請して、という形になった。
全国に点が広がって行った。城山の神とか広がっていくが表向きのご利益が白山の水をいただくとか、白は再生の神であるとか。白山の山中で修業する人達の能力をいわばあてにするというか、そういう形が生れて行った。白山という山は三方に登り口が開かれた。三馬場という物が確立されて道場が出来上がり、一大勢力になっていきます。各馬場各行場で修業している何千何百の修業の人達を抱えていました。そこだけに留まる事なく、全国の霊山霊場を巡り歩きました。その土地で新しい力を得たり、問答合戦をやったりして自分を高めて行きました。誡告修業をして行きました。北は恐山から出羽三山。日光山。近くでは立山、秋葉山であったり。紀伊半島では吉野熊野。四国は石鎚。伯耆大山。九州では彦山ありという形で、実際に彦山の人達が白山で修業をしていた。彼らは日本中を旅して歩いた。天台の寺院か白山神社へ立ち寄ったと思われる。各所に支店を持ちながら、修行者でありますから、最も健脚であり、山林修業の人であり、勧進の旅というものを修業僧や山伏に認めていた。人知れず、気が付かれずにあちこちを移動する能力もあったし、表街道も所属する神社寺院のお墨付きで通れた。しかもあの時代で最も健脚の人である。各所に支店がある。修験者、修業僧という人達を中央にいる公家勢力などは地方の情報を山伏から手に入れる。地方の武士たちは同じように他の廻りの、遠く離れた情報、中央の出来事、情報を山伏を通じて堂々と、また人知れず知る事ができた。今日の電報電話であり、携帯電話の役目を負っていたのが山伏だと思われる。
そういう人達ですから、巨大な物は別として小さな物は運ぶ事ができた。今でいう宅急便です。公家も地方の武士達も山伏を大事にしたという事です。それが御利益という物ではなかったかと思います。彼らは修験者や山伏や修業僧を抱える宗教集団を大事にした。どうしたか。営善をやったり建物を立てるお金を出したり、仏像を寄進したり。一番多かったのは荘園です。この辺りは長瀧の荘園でした。守護して欲しいという神頼みですが、いざという時には自分たちの味方について欲しいというそういう思いがありましたから、寄進をしてて宛しました。他の勢力に突かれても困りますから、そうやって宗教的な組織を大事にしていきました。受領地というのがそういう意味で沢山あった。
やがて、そういうものを自分達の力で守るようになります。そこにお上や公家や武士からもらった既得権を守るために武力や能力を身につけて行った。
鴨川の流れ、サイ法師、サイの目 これは意のままにならないと清盛で言っていましたが、強大な寺院がどんどん生まれて行った。武力を身に付けて行ったという訳です。あまり知られていませんが、山鉾の祇園などもそうですが、八坂神社の犬地にと言われた総会屋やヤクザ組織と言われた物だったでしょう。神の末端の部分でそういう者を抱えていたようです。
お坊さんや神主、全く今の方が宗教的に見ているのではないかと。先祖供養や神頼み。実は昔は、仏教勢力はただ単に宗教的な先祖とかそういうものを司るだけではなくあらゆる物を司っていた。医療や天文学、芸術、美術工芸、建築、鉱山資源の発見、精錬、加工品。そういう能力を持っている人達がお坊さんだった。経典を読むだけではなく、舞を舞うのもお坊さんだった。いかに舞を通じて庶民に見せるか?お経を上げる事と一緒だった。今言った武力もそうだった。長瀧のお坊さんが自分の弟子や子供に譲る譲り状がありますが、自分が受けた時より、大きくしました、こういう経典があります。備品が増えましたそういう物を残しています。槍とか刀とか、本数が書いてあります。それがお坊さんの持ち物なんです。お坊さんというのは自分達の既得権を守るために、武力を持っていた。一向宗だけではないんです。そういう事をやったという事を頭に入れておいて欲しい。そういう土壌を考えながら、中野照蓮寺はどうであったかとか。田口さんもおっしゃいましたが、蓮如が阿弥陀如来の事を根付かせながら、説いて行った。阿弥陀の為には命も惜しまないという気運が生まれる中で一向宗の布施をする気持ち。労を厭わない気持ち。命を厭わない気持ち。女子供も一緒。極端な例は別にしても、宗教勢力は後ろ側にそういうものを持っていた。日本という国は八百万の神と融合しながら宗教的にケンカする事もなく、原理主義的なキリスト教、イスラム教の考え方を批判する人もありますが、そういう事も取り入れた。武力で指す場合もあるが、片方では本来宗教が持つべき部分の反対側のネガな部分も持っていた。そういう事を含めて、ある宗教勢力とその地を治める武士達の考えを一緒に考えないと、その地域の歴史は見えてきません。
それを最初に思ったのは藤原秀衡です。
何故そこまで大事にされてきたのか。秀衡は白山信仰を大切にしてきたという現われ、白山の美濃馬場の長瀧、越前馬場の合流点の石徹白。それから越前馬場の平泉寺。加賀馬場の白山比女神社。白山山中。大変な数の仏像や狛犬。梵鐘。数多く寄進をしています。それはさっき言った。建物の修復をするだけの関係ではなく、ご仏像を奉納したら、建物も建てる。ほかりっ放しという訳にいきませんから、立ち上がるまで、家来がその場所にいます。立て上がると奉仕者を残します。美濃にも加賀にも越前にも石徹白にも宗教的な名を借りた者の中に自分の家来を置きました。長瀧には上村なるものを置きました。石徹白にも12人衆の上村を置きました。そういった人を通じて色んな情報を通じて自分の部下を配置した。たぶん、想像ですが三馬場には重要な人員を常に派遣していたんではと思われます。そういう事によって、中央にあって出入り口が三つ。日本中に出ていく事ができる。日本の中心的な集中的な場所。浄法という事を考えると、アメリカの中央情報局CIAみたいな能力を持っていたのではないかと。そして自分の家来も派遣した。彼らの勢力を派遣しながら、うまく天台宗に転派した。延暦寺と強いつながりを持った。そこからいろんな所から伝えて行くようになった。
秀衡はそういう事で白山麓を特に大慈にした。そういう事情ではなかったか。それが今日まで大事にされてきた理由。ご利益を大事にして、時代時代で政治的な事を、東アジアに於ける白頭山に於ける白山信仰があって、高句麗が唐に滅ぼされて、高句麗の人が日本に渡ってきて、鉄を吹く技術等を伝えたと言われています。東北の文化を支えたのもそういう人達だったという俗説もありますが、1時間や二時間で済まない位の物を持っています。鉱山の技術、海で生活する人達の話しですとか、いろんな関わり。芸道民達。白山信仰は内在していますので、一口では言えません。
その中の一つ、御利益として情報能力、物流能力。そういうものを大事にした。そしてそれが将来発揮されます。自分の手元で育てた義経という人物が、兄に追われて逃亡を繰り返し、そして東北にたどり着くという。幕府の記録の『吾妻鏡』には、鎌倉幕府に追い立てられて、海を渡って西へ逃げて、海を渡れずに京都。そのあと吉野熊野の後どこへ行ったかわからない。「伊勢美濃を経て、やがて平泉に現われた」とある。
実は勧進帳や安宅の関。歌舞伎や能の中のは作り話で、白山山伏の力を借りて、伊勢美濃から登って来れば白山がありますから、そこには自分の派遣した僧侶がいて、護られながら白山越えをして平泉まで逃げたのでは。山伏姿に変装して落ち延びたと。それは秀衡の計らいであったと鎌倉幕府は記録している。白山山伏が働き掛けたのだろうというのが定説になっている。
6月16日にもっと詳しい話を白石博雄さんにしていただきますので、興味のある方には来ていただきたい。帰り雲の研究者の方から何人か来ると伝えます。
まさに、山伏、修行僧は裏社会にあったり、表社会にあったりしながら、いろんな関わりを持ち、繋がりを持ってきた。公家の歴史や武士の歴史であったり、近年になって、庶民の側から見る様にもなった。もう一極に宗教の歴史があるのではないか。内ヶ島を探る部分でもこの地で言うならば中野照蓮寺であり、天台仏教であり、大元の白山信仰。各所にあるお堂とか祠とか宗教的な遺跡とか、その手法だとか、田口さんのおっしゃった位置関係ですとか、そういう事を研究する事をする皆さんが頭に置いておいていただければと思います。
最初の原点になった、中尊寺、藤原秀衡という事から関わったという事を話させていただきました。
お坊さんはそういう存在です。戦国時代には武士勢力、宗教勢力いろんな側からいろんな事があった。内ヶ島、東飛騨の東部一帯には姉小路があり、京極があり、江馬があり、幹があり。そこに金森が入ってきた、。武士の動きからだけ捕えるとちがうとおもう。大いにそこには宗教勢力が関わっていたと思いますので、そういうアンテナを持っていて欲しい。武士は単に宗教勢力を自分の味方につけるためだけに大事にするのではなく、隠れ蓑に使う場合もある。そういう表現はいい表現とは言えないが、15代足利将軍はお坊さんです。兄が死んでしまうので、この人を連れてこないと、足利家が続かないという事で、司馬章太郎さんは、明智光秀などに連れて来るようにしたと書かれている。
田楽をしている最中に今川家も滅びます。元は坊さんです。結果的に桶狭間で滅ぼされます。もっと高名なのは上杉謙信でしょう、長尾家の為に武将に変わります。そういう坊さんがいっぱいいました。
各お寺に武器武具がいっぱいあると言いましたが、そういう坊さんがいっぱいいた。下剋上もいっぱいあった。各武士は自分達を護らないといけないので嫁を取ったり、三男四男。いっぱいそういう人を連れてきた。三木も江馬もそうです。郡上で言うと遠藤がそうです。鷲見一族もそうです。市村などもそうです。8人9人10人といった人の子弟が長瀧にはお寺にいました。
東家が遠藤家に討ち滅ぼされ下剋上がありますが、その時には坊さんがみんな逃げて行きました。やっていけなくて逃げて行ったと考えていましたが、そうではなくて、殺されるから逃げて行った。お家の再興もあるかもしれない。敵対する勢力の子供達だった。長瀧の坊さんをやれずに逃げて行った。それ位武士と宗教勢力とが深い関係にあった。それを無視しては地元文化を紐解けない。
先ほどの砦の話しや、照蓮寺の明心は、本願寺で育った。中野に再興して内ヶ島から嫁さんをもらい安定した勢力になった。そういう風に考えても、武力を持つという事や比内勢力を持つという事も宗教が絡んでいます。
どこかで宗教的な関わりがあると、中野道場を再興させた。内ヶ島にやられてしまうから、一度逃げて三島将監に殺されて兄も弟も殺され、生まれたての子供を連れて石山本願寺に逃げ、教如の口利きで、戻って来て中野に道場を造ったという風になっていますよね。
雅氏からの手紙があります。内ヶ島家から経聞坊というお寺ができ、長瀧寺の中心的なお寺として大変な勢力を持っていますが、長瀧を大事にしてくれている。白山の別山のお堂だったか忘れましたが修復して資金が無い。長瀧に。その時に雅氏に経聞坊の叔父さんに当る方おうえんという人でしたか、寄附をして欲しいと頼む。内ヶ島は中野照蓮寺に聞いて相談をして地元の宗教勢力を大事にしていたから、聞いたらダメだと言われたという事であった。関係を結んだら中野が強大な勢力になっていた。長瀧も相当の勢力を持っていたはずなのに、中野照蓮寺のほうが内ヶ島にとって大事だった。今まで以上に仏教勢力を紐解きの材料にしていかなければと思う話しです。
郡上における飛騨における武士たちの話しをしないといけないと思いましたが、もう一度宗教勢力との関わりを持ちながら紐解きの気づきにしていただきたい。
ここ5年間お付き合いをしながら、原点の話しをさせていただきました。
後ほど、ご質問があればお付き合いをさせていただきたいと思います。」
(徳積善太記)
安望山登山レポート3_眺望
安望山に登ると、古川が一望できます。
ところが、今回のメンバーが上がると、お城の話になります。
左方向から「廣瀬城~高堂城」一帯のエリア。

その次に国府町打江~海具江にいたる砦のエリア。

次に、蛤城~高野~百足城一体の馬蹄形のエリア。

そして、平岩城~向小島城一体のエリア。

こういったエリアが一望できます。
いろいろと話していると、目的が果たせなくなるので、止めましたが、上から城を眺めて
いますと、いろんな話になりました。
かつて、姉小路氏がこの地を知行していたときにどんなことがあったのか。歴史ロマンですが
いろんな想像できることが、3人の間で話し合われました。
(つづく)
徳積善太
ところが、今回のメンバーが上がると、お城の話になります。
左方向から「廣瀬城~高堂城」一帯のエリア。

その次に国府町打江~海具江にいたる砦のエリア。

次に、蛤城~高野~百足城一体の馬蹄形のエリア。

そして、平岩城~向小島城一体のエリア。

こういったエリアが一望できます。
いろいろと話していると、目的が果たせなくなるので、止めましたが、上から城を眺めて
いますと、いろんな話になりました。
かつて、姉小路氏がこの地を知行していたときにどんなことがあったのか。歴史ロマンですが
いろんな想像できることが、3人の間で話し合われました。
(つづく)
徳積善太
安望山登山レポート1
先日、古川の安望山に登ってきました。
ここには、今から600年前の応永飛騨の乱の際に、国府町鶴巣にある清峰寺(この当時は
どこにあったか不明。おそらく、桐山と山本の間にあったと思われる)小島城に向けて、兵糧
が運び込まれたという伝承があります。
今から2年前の「姉小路・廣瀬特別事業実行委員会」の時に、この山自体を縦走してみては
殿話があり、昨年は本の制作に忙しく、またブッシュも出てきていたということで、2年越しの
実施となりました。
当日は、元国府町史編纂室長の酒井先生と城郭研究家の佐伯先生と一緒に山にあがりました。
目的は
1)清峰寺跡地から小島城までを縦走する事。
2)清峰寺跡地を確認する事。
3)安望山の登山道の途中に、石垣の以降と思われる場所があるので、それを調査する事。
の3つでした。
まず、安望山の登山道から上がりました。

登り口の看板で、行き先を確認。

途中は、結構急ですが、足元が落ち葉があって歩きやすい道でした。
ときどき吹く風が心地よく、素晴らしい登山道です。
佐伯先生のお話では、「飛騨の道は、雑草がほとんど茂っていなくて、歩きやすい。
雪のために草の種が死んでしまうからか、こんなに歩きやすい道はありません。
能登の方などは、雑草が生い茂って道もわからなくなることもありますから、大変
なんですよ。」ということでした。

8合目のところで登山道を左に入った所に、石垣があります。
上の方が崩されているようですが、かつてはかなり立派なものだったでしょう。
おそらく、神社か祠がここにあったものと思われます。
登山道からは離れているので、一般の方の目に留まることはありません。

石垣の下に立って見ると、ここは、3mほどの石垣。
自然の石を積んだ形ですが、この辺に出土する石が、泥岩で、簡単に割ることができるため
自然の石とは言っても、まっすぐの側面を持った石で、加工がしやすいのが特徴です。

登山道のところにも、少し石が見られます。
おそらく、これは門の跡地だったのではということでした。
ある程度の石を積んで、そこに木の門を構えてあった遺構のようでした。
(つづく)
徳積善太
ここには、今から600年前の応永飛騨の乱の際に、国府町鶴巣にある清峰寺(この当時は
どこにあったか不明。おそらく、桐山と山本の間にあったと思われる)小島城に向けて、兵糧
が運び込まれたという伝承があります。
今から2年前の「姉小路・廣瀬特別事業実行委員会」の時に、この山自体を縦走してみては
殿話があり、昨年は本の制作に忙しく、またブッシュも出てきていたということで、2年越しの
実施となりました。
当日は、元国府町史編纂室長の酒井先生と城郭研究家の佐伯先生と一緒に山にあがりました。
目的は
1)清峰寺跡地から小島城までを縦走する事。
2)清峰寺跡地を確認する事。
3)安望山の登山道の途中に、石垣の以降と思われる場所があるので、それを調査する事。
の3つでした。
まず、安望山の登山道から上がりました。

登り口の看板で、行き先を確認。

途中は、結構急ですが、足元が落ち葉があって歩きやすい道でした。
ときどき吹く風が心地よく、素晴らしい登山道です。
佐伯先生のお話では、「飛騨の道は、雑草がほとんど茂っていなくて、歩きやすい。
雪のために草の種が死んでしまうからか、こんなに歩きやすい道はありません。
能登の方などは、雑草が生い茂って道もわからなくなることもありますから、大変
なんですよ。」ということでした。

8合目のところで登山道を左に入った所に、石垣があります。
上の方が崩されているようですが、かつてはかなり立派なものだったでしょう。
おそらく、神社か祠がここにあったものと思われます。
登山道からは離れているので、一般の方の目に留まることはありません。

石垣の下に立って見ると、ここは、3mほどの石垣。
自然の石を積んだ形ですが、この辺に出土する石が、泥岩で、簡単に割ることができるため
自然の石とは言っても、まっすぐの側面を持った石で、加工がしやすいのが特徴です。

登山道のところにも、少し石が見られます。
おそらく、これは門の跡地だったのではということでした。
ある程度の石を積んで、そこに木の門を構えてあった遺構のようでした。
(つづく)
徳積善太
山下氏勝絵像
荻町八幡神社所蔵 山下氏勝絵像
「荻町八幡神社掛け軸讃
山下氏勝姓藤原幼名萬壽丸
漸長而字半三郎後任官日従
五位下信濃守又改豊後守改
大和守其先飛騨國人也氏勝
以永禄十一年戊辰四月六日
生於飛州荻町城壯歳奉仕
東照大神君賜采地於江州蒲生
郡屡被眷偶慶長七年
神君命令汝調護義直
義直卿者
神君季子也其後承応二年癸巳
十一月二十日棄世享年八十
六歳號光遠院道智日賢
張藩臣山下兵之助藤原氏武納焉
(キャプション)
山下大和守氏勝肖像
江戸時代
奉納:山下氏武(山下家9代)
山下氏勝は荻町城主の子として永禄11年(1568)に生れ、幼
名を万寿丸、長じて半三郎といい、信濃守・豊後守・大和守を
称する。はじめ帰雲城主の内ヶ島氏に仕えたといわれる。のち
徳川家康に仕え、家康の命によって慶長7年(1602)尾張徳川
初代義直につかえた。名古屋城の清州からの移転を家康につよ
く進言したのが、氏勝であったといわれる。承応2年(1653)
86歳の生涯をとじる。
氏勝は、郷里であるこの荻町の白川八幡宮境内に寛永14年
(1637)社殿・釈迦堂などを建立寄進し、さらに4体の仏像と
法華経8巻を奉納している。」
徳積善太